[33]正座の誓い


タイトル:正座の誓い
発売日:2018/04/01
シリーズ名:須和理田家シリーズ
シリーズ番号:3

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
定価:200円+税

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
2000年、24歳の女子、須和理田(すわりだ)スグルは会社員として真面目な毎日を送る。
須和理田家では兄が高校の同級生だったリツと結婚して二年が経ち、自宅を建てかえる話も出る。
一方、スグルは恋人のハルヤに自宅へ挨拶に行きたいと言われるが……。
日本家屋の自宅は何より心安らぐ場所だが、兄の結婚相手やハルヤを初めて呼ぶ時にはかなり構えてしまう。大切な場所、大切な家族と、時の移り変わりを迎えたスグルのお話。

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本文

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 これは、二〇〇〇年に二十四歳になった一会社員の女子、須和理田スグルの正座と人生の大きな節目にまつわる物語である。
 就職難で悩んでいたスグルは大学四回生の一月に奇跡的に就職先が決まった。新卒採用ではなく、すぐにでも来てほしいとの会社からの意向でスグルは一月から大学卒業までの間はアルバイトとして勤務し、卒業後に新入社員として正式に入社した。
 あれから二年が経過し、さまざまなことが変化した。
「ママ、ママ」とまだ舌の回りきらない口調でそう言い、慣れた様子でチャイルドシートに収まる十ヶ月の緑に新しいおもちゃを見せながら、スグルは幸せに浸る。
「ママ~、ママアアア~」
 騒ぐ緑に「ほ~ら、これ何? いいな~、ほら~」と更におもちゃを振って見せ、スグルは気を逸らせようとする。
 今、須和理田家の父が運転する車の後部座席にてスグルが相手をしている緑は、スグルの息子ではない。そもそもスグルは独身である。
「スグルちゃん、ごめん、大丈夫?」
 隣に座っている兄嫁、リツが申し訳なさそうに言う。車に乗った緑は人前で見栄を張りたかったらしく、隣に座ろうとするリツに「ママあっち」と、母親と離れられることをアピールしたがったものの、車が走り出すと三分も経たないうちに「ママ、ママ」と騒ぎだした。
 リツは現在おなかに二人目がいる妊婦だが、そのことをどこまで緑が理解しているか、周囲の大人は計りかねているところがある。
「全然大丈夫」とスグルは答えた。
 兄嫁も、スグルもあまり快活な方ではないし、常に明るい話題で盛り上がる女子ではなかった。お互いに地味な性格であることで、ほっとしているのは、口に出さないものの兄が結婚を決めて対面した時から何度も感じ取っていることだった。


 須和理田家の歴史を少し遡ると、スグルが就職難で悩んでいた大学四回生の秋に須和理田家の祖父が他界。年明けにスグルの就職が決まる。そしてその祝賀ムードに便乗するように、スグルより二才年上の兄、楽也が結婚相手を紹介したいと切り出した。祖父の葬儀の日、兄の結婚相手となる女性は焼香に訪れたが、身内ではないという遠慮から、そのまま帰ってしまい、それが兄にはもどかしかったらしい。記帳されていた「左方リツ」という女性の名前について両親が兄に心当たりを問うた時、兄は「知り合い」と短く答えただけだった。言うまでもなく、それが今、一児の母となり、第二子を妊娠中のリツである。兄の結婚話を手放しに喜ぶ両親と祖母とは異なり、スグルは複雑な心境だった。決して兄楽也が大好きで、他の女性のものになるのが悲しいとか、これから一緒に暮せなくなるのが寂しい、という兄への情ではない。兄妹なので、家族として普通に接しているが、それだけである。子どもの頃を思い返しても、何かと手のかかるスグルを心配した母に頼まれ、小学校に上がったスグルを二学年上の兄が毎朝一年生の昇降口まで連れて行ったことが、スグルの記憶にある兄に世話になった思い出で、それ以降特別何か恩義に感じるような出来事はなかったし、その逆もなかったと思う。
 スグルが複雑というか、不安に感じたのは、新たな家族となる女性と果たしてスグルはうまくやれるか、ということだった。同居の予定もないし、それほど頻繁に会うことはないものの、これから永らく家族として付き合うことになる女の人だ。

 スグルが明るく快活で、初対面の女の人にすぐに気に入ってもらえるような二十二歳の社会人一年生ならいいが、そういうわけではない。大人しく、決して社交的な性格ではない。入社した会社は、たまたま人事の人がスグルの派手さのない性格や外見を評価してくれ、採用となった。会社自体が専門職の人の多い職場で、それぞれの仕事を黙々と、正確に行っている。スグルの仕事は彼らのアシスタント的な役割の事務仕事だった。間違いがないようにデータや書類を入力したり、それを整理、発送する仕事はスグルにはやりやすかった。
 友達の会社では何かと飲み会の機会が多いらしいが、スグルの入社した会社では、スグルが入社した年の四月に歓迎会を行った他は、会社全体での仕事外の行事はない。スグルの会社は毎月原則平日に加え、第二、第四土曜日の午前中が出勤日となっているのだが、歓迎会も第二土曜日を選び、仕事の後近所のちょっと洒落た懐石料理店での食事会となった。お酒を飲む人も少なく、会は一時間弱で終了で、二次会もなかった。もともと協調性のあまり求められる会社ではなく、全体的に口数の少ない人が多く、しかもスグルの父に近い年代の男性ばかりの会社だったため、皆会が始まると、それぞれに黙々と料理を食べることに集中していた。
 そんな中、スグルを採用した人事のおじさんが、「須和理田さん、座り方と箸の使い方が素晴らしいですね」と言った。スグルが「そうでしょうか」と訊き返すと、周囲のおじさん数人も、スグルの姿勢がいいことなどを褒めた。「うち、和室しかないので。でも、時々足がしびれることはあります」とスグルは答えた。正座をし、涼しい顔でそう返事をしつつ、スグルは心持ち姿勢を正し、やや離れはじめた親指同士を接近させる。「面接を受けに来た時も、姿勢とか、椅子に座る時のちょっとした動きも丁寧で、その時点で決まりだと思いましたよ」と人事のおじさんは言い、「もちろん、大学で勉強したこととか、資格を取ってるとか、まあ、そういうところもね」と付け足した。
 自分に合う場所というのは、やはり探していけばあるのだとスグルは思った。そして、この人たちの信頼を失わないように、できる限り頑張ろうと心に誓ったのだった。

 しかし、兄の結婚相手が会社の人事のおじさんや、社長や部長、ならびに会社の人たちと同じであることはまずないだろう。
 なんだこの子、がっかり、と思われるかもしれない。それとも、この程度の妹ならうるさくないし、気を使わなくてラッキーと見下されるかもしれない……。不安は日に日に大きくなっていった。
 兄が婚約者、左方リツさんを連れて来る、という日を前に須和理田家は和室を隅々まで掃除し、料理を決め、ケーキ屋に予約をしに行き、新しいティーセットを揃えた。和室に紅茶とケーキ……、とスグルは違和感を抱いたが、若いお嬢さんなら紅茶にケーキじゃないとと祖母も母も言う。私、二十二歳で若いお嬢さんなんだけどな、とスグルは思ったけれど、祖母や母が想定している「若いお嬢さん」に悪気なくスグルが含まれていないことは察しがついた。
「じゃあ、和室じゃなくて、ソファーセットのある洋間が必要だね」と呟くと、祖母と母は黙りこみ、それから聞こえなかった振りをした。
 スグルの家は昔ながらの木造家屋で、一階には広い和室があり、お客様はそこへ通し、祖父の通夜と葬儀、四十九日も和室で行われた。お客様といえば、和室、の家である。そもそも、須和理田家にはソファーセットも、洒落た洋間もない。
 子どもの頃、スグルは遊びに行った友達の家で、友達が「そこに座ってていいよ」とソファーを差したり、慣れた様子で大きなソファーに座ったり、しゃれた絨毯の上に寝転がったりしているのをどこか気後れしながら見ていた記憶がある。
 そこまで考えたスグルの脳裏に新たな不安が過った。
 スグルのこと云々の前に、この家を兄の婚約者はどう思うだろうか。
 結婚を決めた相手の家を訪れるのだから、内心どう思っていようと表面上は取り繕うはずだ。(せめてそれくらいの配慮のある人であってほしい。)しかし、実際のところ、母や祖母ができる限りのおもてなしをと張り切っているものの、その誠意が無駄にならないだろうか。
 顔も声も知らない女性が須和理田家の和室に座した後、古い和室や、一枚板の座卓、そこに不似合いなティーカップや紅茶、ケーキを前にどんな反応をするのだろうと考えると、スグルはその時点から母や祖母が気の毒に思えてくる。
 その前の週に左方家を訪れ、結婚を申し込みに行った兄の話では、左方家は洋間のある家だったということらしいが、一世一代の結婚の申し込みをし、相手方の両親から承諾を得られた兄は放心状態で、左方家の間取りや外観などの詳細な情報は得られなかった。しかし、実際のところ、そうしたことを気にしているのはスグルだけで、両親、祖母ともにまずはリツの両親に兄が認められたことに安堵し、リツがうちに来る日を心待ちにしているだけだった。
 いっそのこと、どこかのお店を借りた方がいいのではないか、と提案したかったが、その理由を問われ、スグルが答えれば、そこで家族一同を悲しませ、怒らせてしまうことは明白で、スグルはそれを言えないままに、兄が婚約者、リツを連れて来る日になってしまったのだった。


 四月の第三土曜日のことだ。
「ただいま」という、ぎこちない兄の声に、家族中が緊張していないと装った表情を作った。
 スグルは紅茶のカップを温めるため、キッチンにいたが、両親と祖母は待ち切れないとばかりに玄関へ向かった。
「今日はどうも」とか、そんな会話が繰り返されて、その場が和室に移された。
 母が台所へやって来て、「お茶、持って行こうか」と冷蔵庫から出したケーキをお皿へ移す。古い須和理田家にはどこかよそよそしさを感じさせる、洒落たカップにアップルティーが注がれ、甘く優しい香りが漂う。
「じゃあ行こうか」と母に促され、スグルは一応正式入社となった四月に着て行ったスーツのジャケットに袖を通し、母に続いた。
 座卓を前に兄と並んで座っていたリツは、ひとことで言えば大人しそうな人だった。正座をする佇まいが自然で、スーツを着ていてもわかる薄い背がすっと伸びている。正座する兄と並んだその姿は違和感がなく、須和理田家の和室に馴染んでいた。兄はいつもの通りではあるが、やや肩に力が入った様子で背筋を伸ばし、膝をつけて手を足の付け根と膝の間においていた。リツはスーツのスカートをきれいにお尻の下に敷くようにし、足の親指がきちんとついた状態で正座していた。そんな所作とともにリツは、髪の先から爪の先までがしっとりと整い、どこにも綻びというか、雑さがなかった。相手をどこかほっとさせる類の清潔さをまとった人だ、とスグルは思った。「スグルです。今年から社会人で」と父がスグルをリツに紹介する。
 顔を上げたリツと目が合った。
 繊細な面差しをしたきれいな人だった。
 リツは瞬きし、「あ」と小さく言うと、「お会いしたかったです。左方リツと申します」と頭を下げた。
 スグルは心だけでなく、指先、爪先、とスグルの全てのパーツと思える箇所がじん、と温かくなった。
 そこからは、リツが兄と高校の同級生であったことや、リツがスグルたちの住まいより駅に近い隣街に住んでいること、リツが高校生の頃茶道部だったことなどが和やかな会話の中で伝えられた。(この時、高校時代リツと一緒に帰った兄が、実はリツが降車するバス停の次で降りるところを、同じ停留所で降車していたことが、バス停の話で明らかになり、激しく兄を動揺させた。)
 リツは出された紅茶をおいしそうに飲み、「実は子どもの頃、お宅の前を通ったことがあって、とても素敵なお住まいだと思いました。それで、茶道部にも入ったんです。お宅の前を通った時、おじいさまと、スグルさんに会ったんです」と言った。
 無意識に家族は仏壇の祖父の写真を見遣った。
「おじいさまとは、三年くらい前に楽也さんが忘れ物をしてお宅の前までついて行った時にお庭に出られていて、そこでご挨拶を一度だけさせていただきました。その時に、楽也さんのおうちが、子どもの頃に憧れたおうちだったことや、声をかけてくださったのが楽也さんのおじいさまだったと知ったんです」
「そうでしたか」と父は言った。
「これから、どうか、楽也をお願いします」と父が言い、母、祖母が頭を下げ、スグルも形程度に頭を下げた。
 リツは僅かな間目を見張り、それからすぐに居住まいを正すと「ありがとうございます。こちらこそ、こちらこそ、本当に、よろしくお願いします」と兄とともに頭を下げた。 
 何だか涙ぐみそうになったスグルは座卓の下の方に視線を落とし、その先、リツが膝の上に添えた手を兄の大きな手がしっかりと握っているのを見たのだった。
 その後、事前に母と祖母の作っておいた料理や、注文したオードブルを座卓に並べての昼食になった。
 リツは庭を見遣り、「桜、来年はこちらから見たいです」と言ったのだった。
 そして、反射神経が鋭く足の速かった兄故だろうか。翌日には結婚式場を探しに行き、なんと七月の第一日曜日に式場を抑えたのだった。そんなにすぐでよく予約が取れたものだとスグルは思う。祖父他界から一年経っていなかったが、一周忌にはリツを家族として祖父に紹介したいという兄の願い故であることは、何となく両親も感じ取っていたようだった。そして秋にはリツが緑をおなかに授かっていることがわかり、翌年五月に緑は生まれた。兄とリツの新居は兄の職場に近い、須和理田家から電車で一駅ほど離れたところにあり、この年の四月臨月を迎えていたリツは実家へ戻っていたことから、須和理田家から桜を見ることはできなかった。緑が生まれ、両親とともに大喜びした祖母はその年の冬に老衰で他界した。
 そして今日は、桜にはまだ少し早い三月上旬、リツが緑を見せに須和理田家へやって来るというので、スグルの父が運転する車にスグルも乗ってリツと緑を迎えに行き、須和理田家へ向かうところだった。
 風、日差しが心なしか柔らかく感じられるようになった三月の正午だ。
 今日仕事の入った兄は、夕方車でリツと緑を迎えに来て一緒に夕飯を食べて帰宅し、翌日夜にはリツと緑を、リツの実家に送り届ける予定だ。月に一度の定期検診のある週末にリツは緑とともに里帰りし、産婦人科へ行っている間緑の面倒をリツの両親に見ていてもらっている。
 自宅の和室には緑の好きなもの、安定期に入ったリツの身体によい、薄味でカロリーの高くないもの、という基準で作った昼食が一枚板の座卓に並んでいた。


 今日の昼食までスグルは自宅にいるが、午後三時からは約束があった。
 就職するまで考えもしなかったが、スグルにも世でいうところの「彼氏」「恋人」という存在がいる。
 おじさんばかりの会社の中で、おじさん集団というくくりを勝手にしていたスグルだったが、専門職の傍ら、営業や時に事務も手伝う男性がいた。名前は庄司ハルヤという。現在三十四歳だ。スグルから見れば正直ハルヤもおじさんと言ってしまえばおじさんだ。たださすがによくよく観察してみれば、動作が機敏で持ち物や着るもの、使用する語彙などは他のおじさんとは一線を画していると感じるところが多々あった。もともとおじさん集団の一人という認識だったハルヤだったので、スグルは特別異性として意識していなかったし、向こうもいわゆる若い女子、という要素がやや欠ける、妙におじさんたちの職場に馴染むスグルを女子として見ていなかった感がある。言葉は丁寧だったが、尋ね方は子どもに対してという印象があった。その点で何となく気に入らないという思いがスグルの中にはあったものの、会社のおじさんたちは皆協調性が不足気味であるために、新入社員のスグルに対するちょっとした配慮が足りない時に手を差し伸べてくれるのは必ずハルヤだった。
 いわゆる恋愛ドラマのように、極端に好きだとか、最初は反目し合っていたものの気付けば一番意識していたといった激しい感情の動きはないまま、朝会社の給湯室でお湯を沸かす時間や、弁当持参でぼんやり過ごす昼休み、仕事帰りの駅までの道で話すうちに居心地のよさを覚え、休みの日に会うようになり、付き合うようになった。
 今日は四時からの映画を一緒に見て、夕飯を食べる予定だ。本来は朝十時の約束だったがスグルが事情を説明すると、すぐにハルヤは了承し、午後からの気力と体力があれば夕方から映画を観ようかと提案した。
 そういう柔軟性のあるところが、真面目だけれど融通が利かないスグルにとってとてもありがたかった。

 自宅でリツや緑がいる昼食の席にハルヤを呼べればいいのかもしれない、という思いがスグルの中に過ったものの、まだそれを言い出せずにいる。恐らく、ハルヤはスグルの家庭に溶け込むだろうし、兄とリツの結婚で新たな家族を迎えることを学んでいるスグルの家族も多少はゆとりを持ってハルヤをもてなせると思う。
 昼食の後、リツは開け放った縁側から庭を眺めていた。
 緑は隣の部屋に敷いた布団で眠っている。
「ちょっとみんないい?」
 スグルの母が食後のお茶を座卓に置きながら、切り出した。
 リツとスグルは振り返り、座卓の前に座る。
「そろそろ家を建てかえようと思って」
 スグルの両親の話によると、まだ具体的なことは決まっていないが、祖父母がなくなり、自宅の築年数も経ったので、家を建てかえるつもりだと言う。
 二十四歳にして、ようやく憧れの洋間が自分の部屋になるのかとスグルが浮足立った隣で、「あの、和室は」とリツが小さく訊いた。
 兄から聞いたところによると、リツは須和理田家の和室が好きなのだと言う。
 スグルの両親は、まだわからないけれど、できるだけ一階部分に縁側のついた和室は作りたいと話し、リツは安心したようだった。
 スグルは午後の日差しの降り注ぐ居間を見渡した。
 この居間には昔、若き父が母を連れて今はなき祖父母に紹介した場でもあった。日頃から須和理田家は室内はもとより、玄関先や庭、家の前の通りを清めている家庭であったが、特に大切な来客がある時には入念に掃除を行った。和室は掃除機をかけた後に、かたく絞った雑巾で丁寧に畳の目に沿って拭いていく。スグルも小さな頃からそれを手伝ってきたので、雑巾がけは未だに好きだ。時間がある時に会社でも雑巾がけをし、ずいぶんと会社の人に感心されたことがあったが、スグルにとってはある意味息抜きだった。
 そして、和室ばかりの家の特徴として、襖が多いことから、一斉に張替を行うことがあり、その間は家の仕切りがほとんどなくなり、小さかったスグルは家じゅうを走りまわっていた。
 小さかった自分を回想する一室には、今甥っ子の緑が眠っている。
 どれだけ自分が年を重ね、自立という名に基づき家から離れたとしても、そこに変わらずに存在する場所であったように思えた家も、やはり年月とともにかえる必要がある。
 家族の話題はもう緑のことや、リツの体調、リツの実家の家族のことへと移っていた。


「家を、今度建てかえることになったんだって」とスグルはハルヤに切り出した。
 映画を観た後の余韻で、ほろっと心が温かくなって、うっかりすると泣いてしまうような気持ちを留めた後で、心がクリアになっていた時だと思う。映画館から歩いてすぐのパスタとピザがおいしい有名店に入り、食事が中盤に差し掛かった頃、スグルはそう切り出した。
「スグルが生まれた時からある家を建てかえるってこと?」
「うん、そう」
 短く答えて、後が継げなかった。
「前から思ってたんだけど」
「何」とスグルは少し構える。
「一度、ご挨拶に行ってもいいかな」
 スグルは声を発する前にハルヤを見た。
 ハルヤは付き合いはじめた頃より、時折挨拶に来ることを口にしていたが、デザイナーズマンションに一人暮らしをしているハルヤを、古い自宅に連れて行くことに対し、気が進まなかった。ごくごく普通に「ここ、うち」などと言って「入っていいよ」と恋人を通せる雰囲気ではない気がした。客が来るとなれば何日も前から掃除をし、何を出すかを話し合う家である。
 けれど一方で、お正月や今日のようにリツや緑が家に来る日、ここにハルヤを呼びたいという思いもあった。
 スグルはつくづく自分の人間の小ささを感じた。
 初めてできた恋人に、自分はどんな見栄を張りたかったのだろう。
 その見栄が、自分自身の作りだした薄っぺらなものだということには、気付いてもいた一方、子どもの頃からの願望であることは否定できず、二十四歳になった今になってもないものねだりをしていたとも自覚していた。
 両親、祖父母に見守られ育った自分は、自宅と外とでは、あまりにも隔たりがあった。スグル、スグル、と可愛がられ、家の中心でありながら、学校へ行けば常に目立たない存在だった。学校で大人しくしているスグルの家に来る友達は、同じような大人しい子どもが大半だったが、時折お互いのないところを補うようにスグルとは正反対の目立つのが好きで物事をやたらとはっきりさせたい性分の友達と仲良くなることがあり、そういう友達は物怖じせずにスグルの家で遊びたいと主張した。「いいよ」と言いながら、「ただいま」と友達を連れてきたスグルたちをまず迎えるのは庭いじりをしている祖父で、和室の続きの奥の部屋では祖母が手芸をしていて、時々近所のおばあさん友達が集まっていて、二階にはベランダで洗濯物を取り込んでいる母親がいて、という具合になる。庭に並んでいる盆栽や、広く、しん、と冷たい空気の立ちこめた玄関。隅々まで清められた階段や廊下。そして祖母の代から使用している古い食器がぎっしりと入った棚や掃除用に切って畳まれている古い布。そういうもの全てに、スグルの友達は大人しい子もそうでない子も態度は違えど物珍しい正直な目を向ける。スグルに対して「この家の子は、こういう子なんだ」というような、育って来た環境を大雑把に分ける中でも同じ枠には入らないと感じ取っているのが伝わってくる。それは悪意でも、過剰な善意でもなく、ただそれだけだったが、スグルにとって親しくなろうとしている友達を家に呼ぶことは、そうした違いを認識されるということでもあった。
 だから、ハルヤを家に呼びたい気持ちはあったが、せっかく新築にするのだから、それからでもいいのではないか、という思いがあった。
 スグルは暫く考え、「今の家を見てもらいたいし、家族に会ってくれるのは嬉しいけど、来てもらうなら、新しい家にしてからの方がいい気がしたから」と小さく言った。
「新しい家も、いいだろうけど、スグルが小さい時からいた家を見たい」
 ハルヤはそう言うと手を伸ばしてスグルの頭を撫でた。
「うん、じゃあ、近いうちに、聞いとく」
「帰りに見て行きたいお店があるんだけど、いい?」
「うん」
 内心、店どころではなかった。和室の掃除は母がやるだろう。最近では父も家のことをずいぶんとやるようになっている。
 問題は二階の自分の部屋だ。
 掃除は好きでも片付けがスグルは嫌いである。
 現在のスグルの部屋は片付けないと掃除ができないため、散らかっていて、掃除もしていない。どうしよう、どうしようと片付けのことでいっぱいになり、ハルヤの買い物は正直、興味がなかった。


「え、買い物ってこれ?」
 スグルは店の前で絶句した。
「前々から、買って渡そうと思ってたんだけど、スグル指輪しないから、サイズがわからないし、こっそり聞ける人もいないから、一緒に来た方がいいと思って」
 世に言うところのプロポーズ、婚約指輪、というやつである。
 が、もともと演出下手のハルヤに加え、サプライズをされたどころか、恋愛すらハルヤと以外に経験のないスグルである。
「よろしくお願いします」とか「ありがとう」という言葉の前に、「お金大丈夫?」という心配をしたが、ハルヤはごく普通に「用意してある」と頷く。
 ここでようやく「ありがとう」とスグルは言った。
 ハルヤは「スグルの家も新しくなるし、すぐにではないけど、婚約しようか」と続けた。
 スグルは「うん」とだけ返事をした。
 
「会社の人を今度家に連れて来たい」と切り出したので、母は意図がわからず、会社の宴会の席を須和理田家で設けなければいけないと思ったようだった。「何人来るの?」と訊かれ、「一人」と答え、ようやく話が見えてくる。
 スグルの母は頷き、それから「少し料理も教えないとね」と加えた。
 部屋の片づけだけで頭がいっぱいだったスグルが「オードブルじゃ駄目なの?」と訊き返すと、母は溜息をついた。
 それから、一人の人の人生に沿わせてもらうこと、その人を慈しみ、育ててきた家族に結婚の許可をもらうことは、ただ頼むだけではいけないと思うと持論を展開した。どちらが生活費を主に出すとか、家のことをやるとか、そういうことは二人に任せる時代ではあるけれど、大切な人の人生に最も深く関わる人間になるのなら、行動も伴わなくてはいけない、と。美味しいと思うもの、体に良いものを作れることは、健やかさ、心の温かさにつながる。この人を大切にします、幸せにします、と心から挨拶したいのなら、できることはしていきなさい、と締めくくった。
 わかった、と頷いたスグルはその日から、できるだけ台所に立つようにし、簡単な料理から順に学び始めた。
 とはいっても、教えられているからこそどうにかなっている状態で、スグルが作れるようになった料理はサラダ、野菜スープ、肉じゃが、ササミフライといったもので、それに加えてどうにかカウントするとすれば目玉焼きやたまご焼き、味噌汁程度だった。それでもスグルにとっては、急に夕飯を作る、という事態に陥っても取りあえず出せるおかずの目途がついたことで満足はしていた。
 自分の部屋は床に学習机に散乱している服や本を半ば片付け、半ば押し入れに放り込み、掃除機をかけた。


 ハルヤが須和理田家に来る日の朝、スグルは母に手伝ってもらい、昼食に出すササミフライの下準備をし、サラダを作って行った。お客様が来た時に用意する、近所でも美味しいと有名なお店で頼むオードブルはいつも通り注文している。お茶はハルヤの好きなコーヒーを、以前兄がリツを自宅に連れて来た際に買ったカップに入れて出す予定だ。
 待ち合わせた駅で、ハルヤはスーツ姿の緊張した面持ちで立っていた。
 そんなハルヤを見ると、二人の確かな結びつきのための段取りが、二人の関係を危ういものにしてしまうのではないか、というような不安がスグルの中に過る。両家への挨拶。それは必要不可欠なものだったけれど、正直言えば気が重い。迎える側の家も準備が必要なことはスグルも重々承知している。
 今日はごめんね、と言いそうになり、「今日はありがとう」とスグルは伝えた。ハルヤはそんなスグルの言葉の選び方に気付く余裕もない様子で、正面を向いたままバスに乗り込んだ。
「昨日、眠れなくて」と小さくハルヤが言った。
「え!?」
 いつも何でも先回りしてスグルのことを気にかけてくれるハルヤのあまりにも心もとない様子に、スグルの不安は急上昇する。
「今日、やめとく? 無理しないで」と言ったが、ハルヤは「大丈夫」の一点張りでやや青ざめた顔色で依然正面を向いている。
 並んで座っている二人掛けの後部座席で、スグルはハルヤの手を握った。
 この人に、私ができることがあるのかな。
 そう考えた時、スグルはぎゅうっと心が絞られる気がした。
 できること……。あるのかな、では駄目なのだ。
 どうしても、できないことは、ある。
 けれど、できるようになれることもたくさん、ある。
 できるようになれること。
 それは、ハルヤを幸せにすることに続いている。
 足りない。
 全然足りない。
 結婚までの時間に私ができるようになることは、たくさんある……。
 
 自宅の玄関を開けると、もう両親が玄関で待っていた。
「お帰り」とスグルにいつもより心なしか優しげに言う母親と、「今日はわざわざすみません」とハルヤに頭を下げる父親。
 ハルヤに和室に先に行ってもらい、スグルは母とコーヒーの準備をする。
 和室では、ハルヤが父に自己紹介をし、ハルヤの実家のことや仕事のことを話しているのが聞こえた。
スグルが下準備をしておいたササミフライは母により揚げられ、サラダとともに大きめのお皿に盛りつけられている。父とハルヤの話が一段落した頃を見計らい、母とスグルはコーヒーとケーキをお盆に載せ、和室へ向かう。
 母が「スグルが作ったお料理、後で出しますね」と言いながらハルヤの前にケーキを置き、父が「きちんとした料理も来ますから」と場を和ませようと緊張した面持ちで笑顔を作る。
 ケーキが各々の前に置かれ、スグルがコーヒーを出し、全員が座した。
 その時、ハルヤがざっと座布団を横に起き、両手をついて「お譲さんを必ず幸せにします。どうか結婚を前提にしたお付き合いをさせてください!」と額を畳につけた。
 いつも見上げていた長身のハルヤの背をこんなにも低い位置で見たことがあっただろうか。
 あっけにとられたスグルは、ぼんやりとしたまま正面に視線を戻し、そこでハルヤを前に、涙を浮かべている両親を見た。母はエプロンの裾で目元を抑え、父は瞬きを堪えている。そんな二人を見た瞬間、スグルの目に涙が溢れ、慌ててハルヤの隣で座布団をどかし、同じように手をついて頭を下げた。
「どうか、スグルを、どうか、よろしくお願いします」
 頭の上から、父の声が聞こえた。
 お父さん、お母さん。
 ふいに、スグルはそう心の中で両親に呼びかけた。
 結婚するということ。
 それはハルヤとの未来を辿るごく自然なことで、何の疑問も違和感もなかった。けれど、お父さん、お母さんと呼び、面倒を見続けてくれた二人と離れること。毎日会わなくなること。それは、確かな寂しさであり、自分というさまざまな要素を持ち合わせた人間の中から何かを引き離すことだった。
 この二人と毎日会わなくなることが、いつか自然に思える日が来るのだろうか。
 スグルには、それが想像もつかなかった。
 ただ、わかるのはハルヤが最大限の誠意を示し、共に生きようと願う須和理田スグルという人間は、今、目の前にいる、ごくごく普通の、日々の生活に正直に向き合ってきた夫婦が、ひたむきに育ててきたということだった。その尊さを、二人から離れようとした今、スグルは知った気がした。
 古い、木造家屋の自宅。子どもが大切な人を連れて来る日には、念入りに部屋を清め、料理を注文する家族。それは人に示すものでもなく、人に評されるものでもなく、本当に大切なものだけを見つめる存在であり、思いだったのかも知れない。そして、隣にいるハルヤはそれを知っている人だった。それを言葉や理屈ではなく、スグルの両親はわかっていたのだと思う。
「ありがとうございます」というハルヤの声で、スグルは顔を上げた。
「よかったね、本当によかったね」と穏やかな笑顔でスグルの両親は目を細めた。
 脱力しているハルヤに、スグルは「足、しびれるから」と座布団を引っ張り、そこに座るよう促す。
 僅かに緊張感の溶けた一同が、ふと見遣ったのは硝子の引き戸の向こうに見える庭の桜の木だった。

 須和理田家の家族が、それぞれの思いを穏やかな呼吸とともに心へ織り込めてゆく、優しい春が始まろうとしている。


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