日本正座協会


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第21話 正座の危機と、それを救ったもの


執筆者:そうな


――脚気を抜きにして正座の歴史を語ることは、絶対にできない。
    なぜなら、脚気になると正座はできないからです――

 私たちが歴史を振り返るとき、多くの人は伝聞よりも書物の力を借りる。
そこに記された歴史は、私たちにその時代の事実を教えてくれるが、また、それは一部の出来事にすぎないということも教えてくれる。
 そのような書物では語られない行間に、著者は注目した。
ことさら取り沙汰して歴史に書き入れられることのなかった病、脚気。
だが、それこそが、この正座の歴史を語る上では、重要な事実なのだと著者は考えている。
今回は、その脚気と正座の関係についてみていきたい。


 この本の著者は医者である。
この本を読んでいるうちに、著者のことを正座と歴史が大好きな、いわゆる研究家として認識してしまう。
まぁ、それも間違ってはいないと思うのだが、今回は、著者の医者の部分を意識しながら見ていきたいと思う。

「本書の正座に関する考証には、私の専門である医学的な知識はなるべく用いず、歴史資料に準拠するつもりです。しかし一つだけ、今まで歴史諸家がまったく見落としてきた問題である『脚気』については触れざるを得ません」
 著者は、こう断った上で、あえて脚気を押し出している。
その根拠は何か。
「脚気の原因は精米された白米によるビタミンB1欠乏です。一種の贅沢病ともいえます。脚気というと、現代の人はたかがビタミン不足と思うかもしれません。しかし脚気は、江戸時代後期から明治、大正時代を通して、結核と並んで最も恐れられていた病気の一つです。現代で言うと、がんに相当するほど死亡率が高かったのです。とりわけ働き盛りの若い人に死亡率が高いので、死の病とみなされていました」
 脚気の原因はビタミン不足。たかがビタミン、されどビタミン。健康のカギを握るのは、やはり栄養バランスなのだな。
と、ここで、脚気になる原因は分かったが、そもそも脚気とは何なのかが気になるところだ。
漢字だけを見ると脚の病のようなのだが……。
著者はこう記している。
「脚気は末端神経障害と心不全をきたします。死亡率は30%を越えるほどです。また、末端神経障害は下肢のしびれ、知覚異常、腱反射消失、心不全は下肢のむくみ、だるさを起こします」
 知れば恐ろしい病である。
なるほど、脚気とは、下肢のしびれが特徴だからこその名前だろうか。
著者は、「脚気になったら、正座どころではありません」とも述べていた。
本当、その通りである。
そういう時こそどうしても正座をしたくなるかもしれないが、ここはじっと我慢の子である。
 また、正座が濡れ衣をかけられた一時期もあったという。
それについて、著者はこう記している。
「この病気が欧米人に全く見られないため、脚気の原因が不明であった明治時代までは、日本独特の風土病と見なされ、恐れられていました」
 これは、まるで恐ろしい崇りのような雰囲気がする。
そして、責任のもとを捜した結果だろうか……次のようなことになってしまう。
「脚気の症状は、あたかも正座をして足がしびれたときに非常によく似ていたため、日本人だけがする正座の習慣と関係があるのではないかという疑いがかけられたことすらありました」
 これは……正座の危機。
とんだ論理の飛躍であるが、得体が知れなくて恐ろしかったのだろう。不安なときの思考の流れとして、この考えも分からなくもない。
が、やっぱり不憫な正座……。
 そして、著者の結論は、次のように至った。
「このような当時の時代背景からすると、人々が命がけで率先して正座をするとは考えにくいものです」
 全くその通りである。
これは、「夜に口笛を吹いたら蛇が出る、または親が死ぬ」などの迷信のように、「正座を3分以上したらいつの間にか死ぬ」という迷信があってもおかしくはない世の中である。

 また著者は、
「政府が躍起になっても、正座が作法として素直に国民に受け入れられるには、脚気問題の解決を待たなければならなかったはずです。脚気の原因の解明と治療、予防にめどが立ったのは明治の後期です。正座の普及は、それまで一進一退だったのです」
とも述べていた。
 そうか……正座の疑いが晴れたのは明治からか……。
だが、そう思うと同時に、そんな恐ろしいいわくつきの正座を進める政府の方針って……とも思ってしまう。
どうしてそれほどまでに正座を……?
素直な疑問である。
 それについて、著者は、日本人であるという意識をつけるためだと述べている。
明治維新から鎖国を解いたときにかけて、日本には外国という比較対象ができた。
今まで日本国内のことばかりで、日本人であるということを強く意識していなかったため、正座という異質な作法で、日本人としてのアイデンティティ、差別化を芽生えさせた……と。
 なるほど、分かる気がする。
 だが、私にはそれよりも政府が正座を広めようと思った理由として、著者の述べた「国民総武士化」の方に注目した。
開国をするということは、良くも悪くも他の国を受け入れるということ。
同時に、その他の国の情勢をも知ることになる。
すでにこの頃の欧米では、政治も経済も、そして軍隊も日本を大きく上回っていた。
となると、一揆や飢饉はあったものの、なんだかんだ平和だった日本も、対抗できるほどの力を持ちたくなるだろう。
開国後の外の世界は広かっただろうし、同時に充実した軍備なんかを見てしまったら、恐ろしくもなり焦るだろう。
著者は、
「江戸時代、人口の大多数は農民でした」
と記している。
武士については、
「基本的には支配者であり、軍人であり、官僚であり、政治家でもあります。そして、鎌倉時代以降、長きにわたって政(まつりごと)を執り行ってきたリーダーでした」
とある。
圧倒的に農民が多い。
つまり、これだけでも日本は比較的平和だったということが分かる。
 だが、時は開国である。
著者は、次のように記している。
「国民の大多数を占めた農民、商人や職人など庶民にも、リーダーであった武士の思想を持ち、行動することを促し、士農工商の身分制を廃して平等にする。それが明治という時代でもあったのです。たとえば徴兵制度。それまで武士が行い得た戦闘行為に、農民や商人なども駆り出されるようになります」
 士農工商……一見平等になって良かったも思えるこの制度。つまりは、海外の国からの脅威や攻撃に対抗するための兵士造りであったのだろう。
なんだか、農民が武器を持つなど残念なことに思えるが、いかんせん国を守るためなのである。いざというときに自国を守ることができなかったら、農地も家も、何もないのだ。

 著者は、そんな明治時代をこう述べている。
「儒学に裏打ちされた武士の思想や行動範囲を庶民に広げていった時代であると理解しています」
 そこで私は思うのだ。
政府が正座を庶民に広めたかったのは、武士の文武両道の姿を素晴らしいと考えたからなのではないか、と。
《日本は恥の文化》という言葉がある。
もしかしたら政府は、開国するにあたってほぼすべての日本の庶民に、他国民の前でも胸を張って見せられるような、いっぱしの教養を身につけてほしかったのかもしれない。
なんだかこういうと、幼い子供の服装を正す母親のような、可愛いらしい表現になってしまう気がするが。

 では、実際にどのように正座を浸透させていったのだろうか?
正座をしようというお触書を見たり、「正座なさい」と一口に言われたりしても、「了解」
と一つ返事で行える人は、そうはいなかっただろう。
なぜなら、その時代だからだ。正座を知らない人もいたかもしれない。
 著者は、そんな正座の普及について、次のように記している。
「何らかの事柄をすみずみまで浸透させるには、教育は大きな武器になりえます。そこで明治政府は、学校などの教育の場を利用して、正座を日本人全員に普及させようと考えました。その際活用されたのが『修身』です。修身とは、文字どおり『身を修める』ことを意味し、現在の道徳や公民に当たる教科です。対象は小学校および国民学校の児童で、孝行や勤勉、国民の務めなどが教えられました。日本化した儒学である武士道が、そのバックボーンです」
思い起こせば、武士道の大本は儒学であった。そう考えると剣術の技のみならず、やはり徳も高かっただろうことは想像に難くない。

 と、ここで、著者はこの修身の教科書に面白いものを見つけたそうだ。
それは、次のようなことだった。
「この修身の教科書を見ると、座る姿勢は、ほとんどすべて正座なのです」
一見すると、はぁ……そうなのか……と思ってしまうところだが、次の話を読んでみると、なるほど、と笑いすら出てくる。
「たとえば1918年発行の修身の教科書には、親子三代そろった食卓で、ちゃぶ台に向かって正座をして食事をしている様子の絵が載っています」

 私の知識が合っていれば、この頃は亭主関白の時代だと認識している。
一家の大黒柱である父親は、勿論どっかりと座り、子供や女房は慎ましく正座をする。
うーむ、どちらがフィクションだろうか。
まぁ、そこは十人十色。こういう家族もあったのだろうということにして、次に進むとする。
「また、1928年発行の修身の教科書には、二宮金次郎が板間に正座をして勉強に励んでいる絵が載っています」
 これは、勤勉の摸倣生というような人物なので、なんとなく合点がいく……と、思ったら、正座をしているのは板間というじゃないか。
なんという奇妙さ……。
何が悲しくて、じかに板間に正座をしてしまったのだろう。
もし、その背にマキを背負っているのなら、せめてそれを椅子の代わりにしたらどうなんだ……とアドバイスをしてあげたい。
「同じく1928年の教科書には、松平好房(まつだいらよしふさ)が正座をしている絵が載っています。その文には、『松平好房は小さい時からぎやうぎのよい人で、じぶんのゐまに居てもかりそめにも父母の居られる方へ足をのばしたことはありませんでした』などといった文章が見られます」
 父母の方へ足をのばしたりというくだりは、なるほど、厳しくしつけられたのだな、しっかり実行できてエライな、と思えるが、あれ、確か、好房というのは初代島原藩主の息子ではなかっただろうか。しかも時代は江戸時代……正座とは下々の者がするものであった時代だったと記憶している。そもそもその行為は、エライのだろうか……?
「1928年の教科書には、決定的な挿絵もあります。徳川家康らしい人物と木村重成らしい人物を含め、何人かの武士の絵が載っています。この絵ではなんと、家康と思える人物を含め、全員、正座をしています」
 もう充分です!正座の押し売りは充分ですからっ!!……そう言って、着ている服をしわくちゃにしながら悶えたくなる構図である。
これが本当に事実ならば、将軍様ともあろうお方がいったいどうしてこうなったと、ご乱心かと問いただしたい気持ちでいっぱいだ。
はたして、こんなことで国が守れるのだろうか……もし日常的に行っているのだとしたら、私はこの将軍様が心配でなりません。南無。
 とまぁ、なんとも恐ろしい描写だが、これについて著者はこう述べている。
「私は、大正から昭和初期の日本の指導者たちの思惑をよく表していると思います。修身を学んだ子供たちに、『日本人は昔から正座をしていた』と思い込ませるように仕向けていたのです」
 まんまと騙された!
つまり、時代劇での将軍様たちの正座を当たり前に観ている私たちは、その頃からの政府の情報に騙されっぱなしだったのか……!……こう書くとかなり大げさなことになるが、とにもかくにもこういうことなのである。

(写真1:私が学生の頃にお世話になっていた本。大政奉還の図。やはり、当たり前のように武将が正座をしている。『歴史アルバム 時代をきめた114のできごと 江戸時代』PHP研究所より)



 真実を教えてくれてありがとう……本書の著者に感謝である。
だが別に、歴史の改ざんでもなく、本気で日本のあり方や将来を心配していたのだろうと思うから、意図的な情報を刷り込まされていたとしても、特にイヤな感情は湧いてこない。
今となっては、本書を通して、もっと真実を知りたいが。
やはり、ちゃんと正座の出どころや時代背景を知り、理解した方が、日本人として誇りに思える気がするのだ。
 この一連の正座のことを、著者はこう記している。
「こうした教科書で学んだ当時の子供たちは、『日本人は昔から正座をしていた』と思うようになっても当然です。なぜなら、そのように教えられたからです。修身の教科書を見ると、『正座をする立派な日本人』が明治以降、急速に全国に増えていった理由や背景に得心がいきます」
もっともである。
身をもって、もっともである!

 さて、一時は脚気の不安もあり、敬遠されていただろう正座。
著者は、その普及を「国の意向」以外で後押ししたものがあるという。
 まずは畳。次に座布団。そして、着付けの変化。
これらは、今まで本書の話ですでに出てきているが、この3つ、特に着付けが正座の普及を後押ししたのだという。
まぁ、着物をキッチリと着るようになり、今までしていたアグラや立て膝がしづらくなれば、それはもう正座しかないと思う。うん。
これは、一気に広まること請け合いである。

 また、ちょうどこの頃、茶道に変化があったという。
著者はこう記している。
「実は、茶の湯の人気は、明治になると急降下していきます。文明開化の煽りを食い、茶の湯は前時代の古い文化と見なされてしまったのです。しかし、時代がさらに進むと、茶家にとって起死回生の順風が吹き始めます。それは、女性も茶の湯をするようになってきたことです」
 以前の茶の湯は、武士のたしなみであった。
茶事自体が戦のために使われていたというし、戦の褒美が、城1つ分の値段の抹茶茶碗だったりした、と聞いたこともある。
そうすると茶の湯とは、まず庶民には縁の無いものである。
いくら士農工商の身分廃止例が出たからと言って、今まで見たこともない茶の湯の人気が、一気に沸騰するわけがあるまい。
文明開化で紅茶なども入ってきたことだろう。となると、言わずもがな廃れていくのが常である。
 だが、それが女性の茶の湯進出で救われたというのだ。それはどういうことか。
著者はこう述べている。
「茶会は武将たちの面接の場であり、茶の湯は武将たちのたしなみとして発展しました。そこに女性の入り込む余地はありません。それを変えるきっかけの一つは、女子教育の中に茶道が取り入れられたことです。1875年、跡見花渓(あとみかけい)は跡見女学校(集まる生徒は良家の女子が中心)を創設し、そこで茶道も教え始めました」
 そして、その学校に続くように、他の学校が次々と茶道を教えていったのだそうだ。
最後には教員の資格を与えられるというから、とても本格的だ。
 こうしたことから、茶道は良家の女子を中心として、女性に広まっていった。
その際は、アグラではなく正座をして行ったという。
「『教育女礼式(きょういくじょれいしき)』には、茶の湯をはじめ、食事、裁縫、読書、生け花、和歌、絵画などを行っている女性の姿が絵に描かれていて、その姿はいずれも正座をしています。こうしたことは、大正、昭和と続くうちに、上流階層の女子教育から、その男子も加えた家庭教育へと広がり、次第に一般大衆にも広まっていきました」

(写真2:昭和初期、広く教養を身につけ始めた女性たちの写真)


 捨てる神あれば拾う神あり……ではないが、本当に世の中はよくできていると思える話であった。
全体を見ると、全てが自然の成り行きとも考えられるが、それを陰ながら支えたり、方向づけしたりしている人間が、少なからずいることも無視できない。
それがどんなに些細なことでも、後の世に与える影響力は計り知れないものに育ってしまうこともあるのだ。
……家庭でも学校でも、特に教育というものは、いつの世も問題だ……。

 とにもかくにも、茶道が廃れなくて良かった!
今は、それを素直に喜びたい。


次回は、「歴史に見る正座」とともに、正座をみていきたい。