掲載日:2009/10/14

やさしい正座入門学

第14話 正座も時代とうつりにけり

著者そうな
イラストあんやす
 きっと未来では歩かなくても移動できるだとか、地球の裏に行かなくてもリアルな情報が分かるだとか、宇宙にある火星に住めるだとか……遠い昔から、人々の間には色々な夢が飛び交ってきた。その出所の大半が夢想に近かったとしても、叶えようとする強い気持ちとそれに近づける努力をすれば、概ね思いに近いものが実現する事例は多い。きっと未来を近く感じるのも、遠く感じるのも、自分の気持ちと努力次第なのだろう。テクノロジーが進化するということは、実は人間が進化しているということ……なのかもしれない。

 そんなこんなで、今年も無事にお盆行事が終わった。とはいうものの、私は今回諸事情で、いつも行事をしに帰る場所には居合わせなかった。だから、あのシナシナと歩くお坊さんの顔も見ていない。心残りは、お墓参りができなかったことだ……なんていうと、ご先祖様に手を合わせられなかったのが残念という徳の高い発言に聞こえるが、どちらかといえばお墓というヒーリングスポットに行けなかったのが残念だったのである(ご先祖様ごめんね!)。お墓がヒーリングスポットだなんて少し変な聞こえがすると思うが、我が家のお墓のある場所は、ちょうどいい高さの山に囲まれた自然が溢れる場所にあるので、ちょっとしたヒーリングスポットのような雰囲気があるのだ。マイナスイオンもさることながら、様々な小鳥のさえずりやお寺の方々が育てている立派な藤棚、澄んだ空気と神聖なオーラを醸し出しているお寺に風通しのいい明るい休憩室。もちろん、自然が溢れる分、虫もバンバン飛んでいるが。
 そういうわけで、ヒーリングスポットに行けなかったのは非常に残念だが、ご先祖様と祖母のお墓に直接手を合わせられなかったのももちろん残念なので、代わりに供養の気持ちをもって家の仏壇にお経をあげてみた。長い長い南無阿弥陀仏の読経である。もちろん、敬意を払いつつ読経に集中したいので、座り方は正座である。「あ、今、おばあちゃん喜んでるな」なんていうのは自己満足だろうか。要は気持ちなのだろうな。
 読経を終えると集中の糸が切れたのか、急にセミの声が耳に入ってきた。夏の終わり近くになると鳴くセミである。種類はヒグラシだろうか。「もう夏も終わってしまうよー」と、セミと鈴虫の入り混じる音を聴きながら呟いてみる。近くには母が居て、「あと1年もしたらまた夏よ」なんてとんちなことを言ってくれるので「そうかそうか」と笑いながら答えていた。そして、「そうだ」と母が思い立つ。何事かと思ったら、お盆の時のお寺の話しだそうだ。もちろん正座がらみ。
母「そういえば、お寺さんの座布団がなくなってたわよ」
 なんですって!? 座布団がなくなっていたら、どうやって座るのだろうか。地べたに直接ベタンとお尻をつけるジベタリアンというやつだろうか。しかし、お寺のフローリングや畳に直に正座をしていられる人は、いま時では少ないのではないかと思う。となると、胡座や横座りが増え、はたまたゴロ寝をしだす人もいるんじゃないか……突拍子もないが、我が親戚には突拍子もない人が多いのであり得なくもない。
 むむんと一つ考えた後、詳しく聞いてみることにした。
私「座布団がないということは、代わりに何かあるのかしら? 座椅子?」
母「んー、そうね、長椅子みたいな椅子だったわね……」
私「ぇえ? 長椅子?」
 一瞬、ユッタリとくつろぐフワフワの椅子を想像してしまった。私の中の長椅子のイメージは、リビングでくつろぐそれなのだ。しかし、お寺が急にそんなラグジュアリーな模様替えをすることもなかろうと思い直し、詳しく聞いてみた。すると、分かりやすいように、実際に描いて説明してくれた。これがその図だ。
(写真1:寺の本堂にあったという長椅子)

 どうやら長椅子とは、ただ単に長い椅子のことのようである。木の長椅子の上に、こう一つ一つクッションがくっついているそうだ。ここは絵には描かれなかったが、生地は金襴地を使っているようである。金糸銀糸のお坊さんの袈裟などに使われているような生地だろうか。それならば、さぞかし綺麗な椅子だったのだろうな。ぜひ写真に収めたかった。
 しかし、本堂の座布団が長椅子に変わったということは、もう法事の度に正座をしなくていいということである。それはホッとする反面、少し残念でもある。最近、正座をすることに意味を見出し、面白く感じられてきたところなので、今回の変化は時代に沿って利便性や安全面が増した半面、伝統的に少し残念な気持ちもあった。日本文化の正座……。しかし、こういった変化の背景には大概しっかりとした理由があるものだ。今まで見てきたことを踏まえて考えてみると、やはりそれだけ正座が辛かった人がいたということなのだろうと思った。特に年配の方は大変そうだと思った(関節のコラーゲンやコンドロイチンの問題だろうか)。そう思うと、みんなが足の痛みやシビれを気にせず法事に参加でき、説法に集中できる状況を作るために、長椅子という手段をこのお寺は選んだのかと思う。お寺側の気遣い・心遣いの表れなのだろう。優しい世界である。
 長椅子の利便性は分かったが、それでも従来のごとく正座をしたい人がいたらどうなるのだろう。「やはりお寺や祈りや説法には正座でなきゃ!」という人もいそうではある。長椅子と正座が共存するとなると、イラストのような三人がけの椅子の上に正座をするのだろうか。少し不安定だろうか。平均台に乗っている気分ではなかろうか。そう思うと、なんだか気持ちがソワソワしてきて心配になってきた。しかしそれはそうと、その三つに人が腰かけている状態で、真ん中の人だけ正座をしている構図を思い浮かべたら、なんとも絵的に面白い気がしてきた。そう思うのは私だけだろうか。多分そうだ。どうしてそんなところが面白いと思ってしまうのだろうか。私はそんな私ってやつがたまに不思議である。両側が足をつき、真ん中が正座をしている構図……安定感があって……そう、面白いと彷彿させる正体は、合体ロボットだ。私にはこの構図が合体ロボット系のそれに思えたのだ。大概三体いるロボットは、両側が支え、真中がコアで落ち着いているという三位一体形になる。つまり、合体ロボットお墨付き(?)の安定した形というわけだ。
 ……何いってるやら、である。母に熱弁していたら、「それなら私はこう見えるわ」と、薬師如来像の話しを教えてくれた。それは、薬師如来像を真ん中に座らせ、その両脇に日光・月光菩薩の《奈良の金堂の薬師三尊像》が立っている構図なのだそうだ。

(写真2:奈良の薬師寺の大仏イラスト)

 薬師如来像は正座ではなく胡座であるが、母の例えは私より知的で完敗である。確かに寺院には、(両脇の立っている像は離れていたりするが)このような構図が多い気がする。スッポリとはまって落ち着くような、守られているような……敬意や崇拝などの他の意図があるにせよ、洗練された落ち着く構図であることには間違いない。

 とまぁ、結局は椅子があろうとなかろうと、無理のない程度に自由に正座や胡座をすればいいのだが、私のところのお寺は長椅子に変化した。好きに正座をといっても、本当に椅子の上で正座をする人なんているのだろうか……そんな疑問を残したままその日は終わったが、私は後日母と来たとあるファミリーレストランでその疑問が解消されたのだ。
 食事をしていると、母が真顔で私の左耳辺りをボンヤリと見ている。どうしたのかと思い、不思議な表情で見返すと、「あの人……」と母はいう。どうやら、私の後ろの人を見ていたようだ。見ていたものが生身の人間で本当に良かった、と思える瞬間である。
母「あの人、正座して食べているよ」
私「あんまりジロジロ見ちゃだめだよー」
母「平気だよ、下向いてるもん」
 振り向くと、その女性は正座をして確かに視線を下に落とし、何かの紙に字を書いているようだった。
 椅子も、クッションのついた長椅子が備え付けてある席だった。なるほど、それなら足も痛くなくできる。まだまだ見ていたかったが、それ以上は首の痛みと流石に見すぎなのでやめておいた。もし、みなさまが正座をしている時に興味津々な視線を感じたら、それはきっとそれは私かもしれない……。
 帰りの車の中で、私は母と本日の正座の感想を交わしていた。
私「レストランで正座するのは珍しいよね」
母「そうね。あの人、筆ペンで字を書いていたわよ」
私「そうだったんだね。筆ペンなら正座が書きやすいよね」
何を書いているのかまでは遠目では分からなかったが、雰囲気と表情の真剣さから、PTAの名簿でも書いてるんじゃないかと推測した。正座と筆ペンの組み合わせが、ファミレスのソファという一空間を凛としてカッコいい雰囲気に変えていた。
私「正座ってどんどん変わっていくのかな? 《正座》って認識しないくらいに、もっと一般的な効率の良い座り方とか、そういう風になっていくのかな? 外国の文化が日本ともっと融合して、最終的に原点回帰でシャキッとする座り方が正座だった、みたいにさ」
 母「そうね……足の長さだったり、体の作りだったりと他にも色々あるけれど、今回のような長椅子の変化は大きいわよね……」
 微妙な足の形の違いはあれ、近い将来、外国圏でも正座は「SEIZA」などで通るようになるのだろうか。もしかして、それは日本人の海外進出によってもっともっと広まっていくのではないか。もしくは、外国人による積極的な日本文化の取り入れかもしれない。日本の正座は座り方の中でも独特だから、その余地は大いにあると思う。近い未来は、どのような変化を迎えるのだろう。近い未来を予測している時点で、その過程は、もう始まっているのだろう。

 正座に着目するだけでも、物事も世界も、絶えず変化していることが分かる。そう思うと、少し焦る。その流れが歴史になる中で、自分という存在はなんてちっぽけな歯車なのだろうと感じる時もある。けれど、時間は急速に過ぎていくものではなく、ゆっくり着々と変化している。だからこそ焦らずに堅実に生きていきたいし、忘れてはならないのはその歴史を作りあげるのは、私たち歯車ということ。つまり、私も行動次第で正座の歴史に一役かえるかも……なーんてな。