[105]正座のキミとの恋について


タイトル:正座のキミとの恋について
分類:電子書籍
発売日:2020/11/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:84
定価:200円+税

著者:笹川 チエ
イラスト:時雨エイプリル

内容
正座をしてお茶菓子を食べる「お茶菓子部」が、文化祭の準備をしていたある日のこと。
部活の名物カップルが喧嘩を勃発させてしまう。
「もう正座なんてしない!一生猫背でダラダラ過ごしてやる!」部員の衝撃的な言葉に、僕たちは何とか正座をしてもらうために仲直りをさせようと……せ、正座をしてもらうために?
僕たちには出来ないことがたくさんある。
それでも気持ちを伝えるとき、いつだって背筋は伸びるものなんだ。

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本文

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「きれいだよ」
 その五文字を、私はすぐに理解できなかった。
 だってそんな言葉、今まで言われたことがない。「かわいい」は女の子同士で言い合うことだってある。だけど、「綺麗」という少し大人の空気を持ったその言葉を、気持ちを、私に向けられたのは初めてだった。
 え、と思わず私は言う。彼を見ると、その背筋は私と同じようにまっすぐ伸びていて。その頬と耳は、少し赤くなっていた。
 正座をした私の足先が、胸の奥が、むずむずして。
 私は―――。

「―――ヨーちゃんなんて、大嫌い!」
 思い切り叫んだ。
 茶室から聞こえていた声がシンと鎮まり返る。気にする余裕もなく、私は彼を睨みつける。
 ヨーちゃん……新垣 陽一は、何も言わなかった。唇を噛みしめて私から目を逸らす。
 彼は黙って私に背を向け、茶室を出て行った。それをチーくんが追いかける。チャコちゃんとサクちゃんが私に駆け寄ってくる。二人とも不安そうな、心配そうな顔をして、私を見ている。
 心配をかけたくない。だけど、「大丈夫だよ」なんて言えない。だって、全然、大丈夫じゃない。
 私―――秋山 まどかの背中は、まっすぐに伸びていないのだから。


 事の始まりは十分前。
 僕―――桜庭 さくらが、気絶から目を覚ましたときに遡る。
「さくらー、起きろー」
 ペシペシと頬を叩かれる感覚。朦朧する意識のまま瞼を開けると、目の前には心配そうに僕を覗き込む西園寺 智弥子先輩の顔が、それはもう息がかかってしまうのではないかと思うくらい近くにあって。
「ひえ」
 すぐさま顔の熱さを自覚し、慌てて起き上がろうとした。そのせいで僕の額は西園寺先輩の額と見事にぶつかってしまう。「いたっ!」「いたっ」ガンッと鈍い痛みが走り二人の悲鳴が重なる。自分の額をさする。
「何をラブコメみたいなことしてんだ、お前らは」
 僕のクラスメイトである東原 千歳くんの呆れたような声が傍から聞こえた。ペシペシと僕の頬を叩き起こしてくれたのは彼なのだろう。
 よくよく確認すると、僕の右隣に千歳、左隣に西園寺先輩が座っている。もちろん、「正座」をした状態で。
「ら、ラブコメみたいなこと?」
「さくらくん、大丈夫? 具合悪くない?」
「え、あっ、うあ」
「姉ちゃん、近い。さくらが喋れなくなっちゃうから」
 慣れた動作で千歳は僕から西園寺先輩を引き剥がす。きょとんと首を傾げる西園寺先輩、そして顔を真っ赤にする僕はすっかり日常化した光景だ。
「で、さくら。具合は?」
「だ、大丈夫……です」
「よかった。飲んだ瞬間に気絶したから、救急車呼ぶべきか焦ったのなんの」
「だから私、無理して飲む必要はないって言ったのに」
「そうだぞ、さくら。最初から変な匂いしてただろうが」
「で、でも。せっかく、さ、西園寺先輩が点ててくれたお茶だから……」
 僕がなぜ気絶していたかと言うと、西園寺先輩が点てたお茶を飲んだからである。
 僕らが今活動している「お茶菓子部」―――正式名称「茶道部」は、文化祭の準備に明け暮れていた。一応「茶道部」なのだから、お茶を点ててお客さんに提供するのが妥当なのでは? という千歳の真っ当な意見に対し、「それはできない」ことを証明するために西園寺先輩がお茶を点てた。不可思議な匂いをしたそれを僕が飲んだ。そして僕は、バタン、キューと、気絶した。
「なんでお茶を点てるだけで悪臭がすんの?」
 千歳が心底不思議そうに首を傾げる。目は覚めたものの、僕の口内には未だその悪臭が染み付いていた。
「千歳、それがわかれば私たち先輩は苦労していない」
「真顔で言うな。ったく、顧問の先生はどういう教育していたんだか……」
 先ほどぶつかった額を撫でながら、僕も二人と同じように正座をする。足を揃えて、背筋を伸ばして。
 ここで、お茶菓子部について情報を整理したいと思う。
 僕らが今いる茶室は、茶道部が活動するための部室だ。しかし現在、茶道部は内外問わず「お茶菓子部」と言われることがほとんどである。
 なぜかというと、「お茶を点てられないから」だ。顧問の先生が怪我で入院したことにより、なぜか先輩たちはお茶を美味しく点てることができなくなってしまった。美味しくないどころか人が気絶するくらい危険なものが出来上がると、たった今証明された。そういうわけで、現在茶道部は茶道ができない状況なのである。
 そして先輩たちは思いついた。「お茶が点てられないなら、せめてお茶菓子だけは食べよう」と。茶道に習い、きちんと正座をして。きちんと、お茶菓子を食べようと。
 こうして茶道部は、正座をしてお茶菓子を食べることだけをしている部活―――「お茶菓子部」に変貌した。もともと三名の三年生が所属していたところへ僕が入部し、ひと悶着がありつつも千歳が入部し、合計五名の生徒がこの茶室に集っている。ちなみに部長は、僕の隣にいる西園寺智弥子先輩である。
「お茶がロクに点てられないのはわかった。でもだからって、これはどうなんだよ?」
 言いながら、千歳は作りかけのメニューを指差す。そこには「正座お茶菓子屋」という僕らが出す模擬店の名前が大きく書かれていた。
「お客さまにも私たちと同じように正座をして美味しいお茶菓子を食べていただく。私たちの部活動を広めることもできるグッドアイディアだと思う」
「姉ちゃんが自分の好きなお茶菓子を文化祭の経費で買いたいだけだろ」
 千歳の突っ込み通り、メニューに書かれたお茶菓子は全て西園寺先輩が選んだ品物だ。A店の桜餅、B店の豆大福、C店のずんだ餅……といったような、先輩が厳選に厳選に重ねたラインナップ全十五種類の和菓子が書き連ねられている。「部員が点てたお茶」というメニューは、もちろん無い。
 ちなみに千歳が西園寺先輩のことを「姉ちゃん」と呼ぶのは、名字は違えど、先輩が千歳の実の姉だからである。
「これ全部買いに行くの絶対面倒くさいだろ」
「大丈夫。全部で十五店舗回ればいいだけ」
「面倒くさい」
「んんん……」
 先輩が楽しそうに目を輝かせているから、千歳の意見に頷くわけにはいかない。文化祭は十一月八日。今日は十一月一日だから、あと一週間で当日だ。賞味期限も考えるとお茶菓子を買いに行くのは文化祭前日。その日は五人がかりで十五店舗を回ることになるだろう。それぞれの店の住所を見て、何時間も移動が必要であることは既に発覚している。
 ただ、前日までにやることは正直少ない。模擬店用の看板を作ったり、メニューを作ったり。だから先輩にお茶を点ててもらう時間の余裕もあったわけで。
「文化祭の茶道部って、着物を着てお茶を点てるってイメージあったんだけどな。ちょっと残念」
「……さ、西園寺先輩の着物姿が見たいということ?」
「バカ、んなわけあるか」
 全力でデコピンされてしまう。それは千歳が照れ隠しのときによくする行為だと、最近僕は気づいた。照れ隠しの割にはそこそこ痛いけれど。
「オレはだな、さくらが、姉ちゃんの着物姿を見たいだろうなと思って言ってんだよ」
「えっ」
「えっ」
 僕と西園寺先輩の声が揃う。顔を合わせる。目が合う。西園寺先輩の着物姿。たとえば雅な紺色。花柄も可愛い。振袖が絶対に似合う。腰まで伸びた黒い髪を、かんざしで結うことだってあるかもしれない。そしていつものように背筋を伸ばして、正座をする先輩の姿は、いとも簡単に想像できて。
「……さくらくん、どうして顔が真っ赤なの?」
「いえそのあの、あのごめんなさい妄想してごめんなさい」
「妄想?」
「なんなら着物持ってきてやるぞ。親の趣味で何着か家にあるんだ。部員分ぐらいなら借りて来られると思う。着付けも昔覚えさせられたし」
「だ、だ、大丈夫です」
「その『大丈夫』は『着物を持ってきていい』ってこと?」
「……!」
「さくらくん、どうしてもっと顔を赤くするの?」
 そこで突然、「そういえば、さくら」と千歳が悪戯でも思いついたようにニヤリと笑う。
「さっきから姉ちゃんのこと、『西園寺先輩』って呼んでるだろ」
「うあ」
 西園寺先輩がジッと僕を見る。僕は目を泳がせる。
「おかしいなー。さくらは確か姉ちゃんのこと、下の名前で呼んでるはずなんだけどなー」
「そ、そそそ、そ、それは」
 顔が更に熱くなる。気恥ずかしくなる。背中が曲がってしまいそうになるのを何とか堪える。
 西園寺智弥子先輩と出会った当初は、お互いに名字で呼び合っていた。しかしとあるきっかけで先輩が僕のことを下の名前で呼び始め、僕も同じように名前で呼ぶことが決まったのだけれど……。
「………………」
「せ、先輩。あ、あまり見つ、見つめられると」
 緊張する。ドキドキする。僕は昔から口下手でどもってばかりで、人前にいると勝手に身体が固まってしまう。最近はその症状も多少マシになった気がしているけれど、先輩の前だと、特に緊張してしまうのだ。下の名前で呼ぶなんて、それこそ硬直してしまう。僕にとって彼女はそういう存在だ。緊張してドキドキして、顔が熱くなって、でも、正しく座る自分を見てほしいような。
 深呼吸する。覚悟を決める。正座をしたまま先輩と向き合って。
「ち、ちちち、ち、ちや―――」
 必死で名前を呼ぼうとした、そのとき。
「―――ヨーちゃんなんて、大嫌い!!」
 秋山まどか先輩の、叫び声が聞こえた。
 僕も千歳も先輩も、反射的に声のする方を見た。この茶室で大声を聞くのは初めてだった。しかも、なんだか泣きそうに震えた声。
 茶室の奥にある簡易台所。僕らがいる場所から中は見えないけれど、そこに二人の人物がいることは知っている。一人は秋山まどか先輩、もう一人は新垣陽一先輩。二人とも西園寺先輩と同じ三年生で、僕と千歳の先輩。
 そして、二人は大変仲の良い恋人同士である。少なくとも僕はそう思っていた。
「まどか?」
 西園寺先輩が秋山先輩を呼ぶ。すると台所から出てきたのは新垣先輩だった。部員の中で最も身長が高い先輩。僕らを見たけれど、眉間に皺を寄せるだけで黙って茶室を出て行ってしまう。
「し、新垣先輩?」
「様子見てくる」
 慌てふためく僕とは真逆で、冷静な千歳は新垣先輩を追って茶室を出て行く。一方西園寺先輩は台所に向かった。千歳の背中を見て、西園寺先輩の背中を見て、僕は西園寺先輩の後についていく。
「まどか」
 ついていったのを、早速僕は後悔した。きっとその姿は、秋山先輩が後輩に見せたいものではなかっただろうから。
 部員の中で最も小さい背丈。真っ赤な頬と目元。握り締められたスカートの裾。ぼろぼろと溢れる涙。こらえるように唇を強く噛んでいる。
 だけど西園寺先輩を見るや否や、「チャコちゃあん」と泣きじゃくりながら秋山先輩は西園寺先輩に抱きついた。抱きつかれたまま、西園寺先輩は小さく震える背中を撫でてあげている。僕は何をどうするべきか全くわからず、泣き続ける秋山先輩と、新垣先輩が出て行った茶室の扉を交互に見ることしかできなくて。
「まどか、一体何があったの」
「…………ない」
 西園寺先輩の胸に顔をうずめた声はくぐもっていて聞き取りづらい。でも妙にドスの効いた低い声だというのはすぐにわかる。秋山先輩のそんな声を聞くのは初めてだということも。
「あ、秋山先輩……?」
「あんな奴、もう知らない!」
 「あんな奴」と「新垣先輩」が合致するのに時間がかかってしまう。だって秋山先輩は、いつも新垣先輩のことを「ヨーちゃん」と呼ぶ。親しみを込めて。この人のことが本当に好きなんだな、と思わせる声で。
「チャコちゃん、私決めた」
「え」
 秋山先輩はとても明るい人で、いつも笑顔を絶やさない人だ。西園寺先輩のことを「チャコちゃん」、千歳のことを「チーくん」、そして僕のことを「サクちゃん」と親しみを込めて呼んでは笑いかけてくれる。
 それなのに、今の秋山先輩はめいいっぱい泣いている。眉を釣り上げて、明確に、メラメラと瞳に怒りを燃やしている。
 そんな先輩の宣言はあまりに突然で、想定外で。
「―――私、もう正座なんてしない! 一生猫背でダラダラ過ごしてやる!」
 思わず西園寺先輩を見る。表情を窺う。
 いつもクールなその目が、大きく見開かれていた。

 かくして―――。
 のちに「お茶菓子部カップル初喧嘩事件」と呼ばれる一週間が、始まろうとしていた。


「まどか、よく聞いて」
「聞かない」
「お茶菓子部は正座をしてお茶菓子を頂くところよ。それなのに正座をしないなんて」
「畳の上で寝転がってお茶菓子を食べるなんて、背徳感あるよねー。顧問の先生がいたら絶対怒られちゃうし」
「まどか、それはすごくお行儀が悪い」
「チャコちゃんもやろうよ。座布団を枕にしてお昼寝」
「私はまどかをそんな子に育てた覚えはありません」
「そりゃ無いでしょうよ姉ちゃんの子どもじゃないんだから」
 千歳の突っ込みも気にせず、西園寺先輩は険しい顔で一点を見つめている。そう―――茶室で堂々と寝転がっている、秋山先輩に。
 例の騒ぎの後、新垣先輩は部活に来なくなり、秋山先輩はずっとこの状況だ。まず正座をしない。常に猫背、または寝転がってぐうたらしている。そんな姿の秋山先輩を西園寺先輩が叱るという光景が、かれこれ三日も続いていた。
「ち、千歳」
「どうした、さくら」
「これって、すごく、マズイ状況なのでは」
「え、今更?」
 ずっとこの空気だぞ、と千歳は二人を指差す。一人は秋山先輩、一人は西園寺先輩。ぴしりと正座をする西園寺先輩は、ぐうたらを貫く秋山先輩を改心させようと説得を続けていた。だけどその努力も空しく、秋山先輩は寝転がったまま漫画雑誌を読み始めてしまう。
「喧嘩の原因どころか、なんでまどか先輩が急にあんな態度になったのかも全然わからないわけですよ」
「……新垣先輩、何も言わなかったんだよね?」
「ああ」
 あの日、茶室から出て行った新垣先輩を千歳が追いかけてくれた。だけどいくら事情を尋ねても「お前らには関係ない」の一点張りだったらしい。それ以来、新垣先輩は一度も茶室に来ていない。
 二人が喧嘩をした、ということは状況を見ればさすがにわかる。だけどその原因がわからなければ、なぜ秋山先輩が「正座をしない」という行為をするのかもわからない。
「……姉ちゃん、こっち集合」
 秋山先輩の目の前で正座をしている西園寺先輩を、千歳が手招きした。西園寺先輩は秋山先輩をジッと見てから、僕たちの方へやってくる。
「まどか先輩と陽一先輩って、今まで喧嘩したことあるわけ?」
「……ううん。二人が喧嘩するところなんて、今まで見たことない」
 西園寺先輩の目が、憂うようにそっと伏せられる。まるで自分のことのように寂しそうな顔をする姿に、胸がつきんと痛む。先輩がそういう優しい人間だということを、よく知っているからこそ。
「まあ確かにあの二人って、いわゆるバカップルだもんな。常にお互いのこと褒め合ってるっていうか、甘やかしてるっていうか」
 千歳の言葉に、僕も西園寺先輩も頷く。
 先輩たちと出会ったのは今年の春だけれど。彼らのことについて知っていることは少なくない。秋山先輩は新垣先輩が大好きで、新垣先輩は秋山先輩が好きで、西園寺先輩はそんな仲良しな二人が好きだということだって、よく知っている。
「じゃあ、よっぽどのことがあって喧嘩に発展したんだな」
「よ、よっぽどのこと……」
 三日前を思い出す。あのとき茶室には、僕と千歳、西園寺先輩の三人がいた。そして秋山先輩と新垣先輩は茶室の奥にある台所にいた。僕たち三人がいた場所から台所は死角になっていて、中の様子は全く見えない。ただ、台所に入る前の二人はいつも通りだったはずだ。西園寺先輩がお茶を点て始めると、「俺たちは避難します」と笑って台所に行っただけで。
 僕が気絶している間に、何かがあったのだろう。秋山先輩が「大嫌い」と叫び、慣れ親しんだ正座をやめてしまうほどのことが。
「早く二人を仲直りさせて、正座をしてもらわなければ」
 西園寺先輩は意気込むように拳を握る。千歳が「そこ重要なのか?」とすかさず突っ込む。
「正直、正座がどうこう言ってる場合じゃないだろ」
「だって、もうすぐ文化祭だもの。せっかく……」
「せっかく?」
 僕が聞くと、西園寺先輩はぴたりと固まる。すすっと目を逸らし、「なんでもない」と小さな声で言われる。あきらかに誤魔化されているけれど、それを問い質す勇気なんて僕にはない。
 僕はもともと口下手で、話すことがめっぽう苦手だ。お茶菓子部になってからは少しずつ改善されていると思うけれど、それでも、いざというときに迷ってしまう。怖くなってしまう。この一歩を踏み出せば、何かが壊れてしまうのではないかと。
 千歳は僕と西園寺先輩を交互に見て、やれやれと言わんばかりに息を吐く。
「あー、じゃあ……まどか先輩はあの調子だし……もう一度、新垣先輩の話を聞きに行くか。さくら、一緒に行こうぜ」
「う、うん」
「私はまどかにもう一度説得を試みます」
「はいはい」
 再び秋山先輩の目の前で正座する西園寺先輩を見送り、僕と千歳は茶室を出ようとする。もう放課後だから家に帰っている可能性もあるけれど、携帯でメッセージを送っても無視されてしまう。自分の足で探す他ない。
 つい僕が顔をうつむかせていると、千歳が僕の背中をぽんぽんと叩いた。
「辛気臭い顔すんなよ」
「……だ、だって。先輩たち、みんな暗い顔して……」
「そりゃ今はそうだけどさ。オレ、正直あんま心配してないんだよな」
「え……どうして」
「お前がいるから」
 さらっと言われ、意味を掴み損ねる。「お前」と僕が繋がるのに時間がかかる。
 どうして、と聞く前に千歳は茶室の扉を開けた。そうだ、今は先輩たちの喧嘩を解決しなければならない。たとえ心がむずがゆくなろうとも。気を取り直し、僕たちは新垣先輩を探すために茶室を出た。


 ……と、思ったのだが。
「あ」と新垣先輩が声を漏らす。「やっぱり」と千歳は目を細める。
 新垣先輩は、茶室の扉のすぐ横にいた。気まずそうに先輩は僕たちから目を逸らす。千歳は、茶室の中にいる二人に気づかれないようそっと扉を閉める。
「陽一先輩、どうせ喧嘩して気まずいから中に入りにくかっただけでしょ」
「……すみませんね、情けない先輩で」
「情けないとは思いませんけど、後輩に気を遣わせているのは事実ですね」
 ズバズバとした千歳の物言いに僕は慌てふためく。その様子に新垣先輩は苦く笑い、僕と千歳の頭を乱暴に撫でた。
「優しい後輩を持って、俺は幸せですよ」
「あ、あの、新垣先輩」
「なんだサク太郎」
 新垣先輩は僕のことを「サク太郎」と呼ぶ。でもたまに「さくら」と呼ぶこともある。千歳のことは「千歳」だったり「チー坊」だったり。そういう大雑把で大柄な性格を、僕も千歳も慕っている。
「秋山先輩と、その、仲直り、を、その」
「まどか先輩とさっさと仲直りしてください」
 千歳の更にズバズバした発言。先輩はますます眉を下げてしまう。
「そう簡単にできたら、とっくに俺は茶室に入れてるって」
「まどか先輩が『正座をしない』なんて言い出すから、姉ちゃん困り果ててるんですよ」
「……正座を? なんで?」
 先輩は不思議そうに目を瞬かせる。僕と千歳は顔を見合わせる。
「陽一先輩と喧嘩したからじゃないんですか」
「いやでも、別に俺たちの喧嘩と正座は何も関係ないし」
「そうなんですか」
「ちなみに喧嘩した原因は何なんですか」
「それは……」
 そこで新垣先輩が口を噤む。口を滑らせるのを期待していたであろう千歳はチッと舌打ちをした。ごほん、とわざとらしく先輩が咳き込む。
「……仲直りはしたい、けど。俺は俺で、譲れないことがあるんだよ」
 先輩らしくない、小さな声。だけど僕たちから目を逸らさない真剣な表情で、それが明確な意思であることが伝わってくる。
「……新垣先輩、は」
「うん?」
「猫背に、ならないんですね」
 まどか先輩と違って、新垣先輩の背筋はいつも通りまっすぐに伸びている。この違いは何だろう。二人は喧嘩をした。まどか先輩は正座をやめた。新垣先輩は正座をやめたわけじゃないけれど、部活には来ない。
「僕たちに、何かできることはありませんか」
 気づけばそう言っていた。千歳と新垣先輩の視線が僕に集まる。ハッとして、僕は何か間違ったことを言ってしまったのではないかと戸惑う。
「……ありがとな、サク太郎。でも、もう少し迷わせてほしい」
「迷うって何を」
 千歳が聞く。先輩は、また苦く笑う。
「俺は、何一つ後ろめたいことはないけど」
 背筋をまっすぐ伸ばしたまま、目を伏せて。
「まどかを傷つけたことは、ちゃんとわかってるんだよ」


「ヨーちゃんが謝らなきゃ正座してあげないんだから」
 茶室の中に戻ると、ツンとした秋山先輩の声が聞こえた。三日前から、僕たちは秋山先輩の笑顔を見ていない。
 新垣先輩は「今日は帰る」と言って、茶室に入ることなく立ち去ってしまった。結局喧嘩の原因もわからずじまいという状況のまま、僕と千歳は秋山先輩たちのそばで正座をする。
「もう三日も話してないんでしょ。毎日話していたのに、まどかは寂しくないの」
 西園寺先輩が言う。秋山先輩は口を尖らせる。
「どうでもいいよ、ヨーちゃんなんて」
「まどか」
「なによ」
「そういう嘘は、まどかに似合わない」
 持っていた漫画雑誌で秋山先輩は自分の顔を隠す。今の秋山先輩はいつもの先輩らしくないけれど、わかりやすいところは変わっていないようだ。
「……ヨーちゃんのこと、どうでもよくないけど、でも」
 漫画雑誌でくぐもった、先輩の声。
「でも、ヨーちゃんは私のこと、どうでもよくなっちゃったんだって」
「まさか」
 僕はその「まさか」を千歳が言ったのだと思った。だって、あまりに即答だったものだから。それなのに西園寺先輩と秋山先輩は驚いたように僕を見ていて、千歳も感心するような目を僕に向けていて。「まさか」と言ったのは、まさかの僕だったらしい。
「う、うあ、すすすみません偉そうに」
「全然偉そうではないよ、さくらくん」
 西園寺先輩がこちらをジッと見ながら言ってくれる。気恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
「あ、ちなみにさっき陽一先輩と話してきたんですけど」
「……ヨーちゃんいたの?」
「茶室の前で突っ立ってた。今はもう帰った」
 秋山先輩が頬を膨らます。また漫画雑誌で顔を覆ってしまう。
「やっぱり私のことなんて、どうでもよくなっちゃったんだ」
「いやいや。だったら茶室の前で右往左往してないでしょ」
「新垣くん、何か話してくれた?」
「い、いいえ。ただ……その」
「ただ?」
 ちらりと秋山先輩は僕を見る。きちんと伝わるように、僕は背筋を伸ばす。
「何一つ後ろめたいことはないけど、秋山先輩を傷つけたことはちゃんとわかってるって」
 しばらくの沈黙。秋山先輩はゆっくり上半身を起こす。体育座りをして自分の膝を抱える。その手に西園寺先輩が触れる。
「まどか、何があったの」
「…………」
「後輩だって、愚痴聞くぐらいしますよ」
「ぼ、ぼ、僕も」
 意思表明のために挙手をする。秋山先輩は僕を見て、千歳を見て、西園寺先輩を見た。それから俯いて、ますます背中を曲げてしまう。
「……ヨーちゃんが、遠くに行っちゃう」
「え」
「大学、県外のところ受けるつもりなんだって」
 大学。県外。受ける。その言葉で、僕は思わず西園寺先輩を見た。
 僕と千歳は一年生。そして秋山先輩、新垣先輩、秋山先輩は三年生。つまり、先輩たちは来年この学校を卒業する。今は十一月だから、推薦入試が始まっている大学もあると噂程度に聞いていたけれど。
 「受験」や「進路」といった、僕たち後輩にはまだ縁遠く感じてしまう単語を、どこか考えないようにしていた。先輩たちが来年にはいなくなってしまうという事実を。
 僕と千歳が言葉に詰まっていると、西園寺先輩は驚いたように目を見開く。
「……前は、一緒に地元の大学に行くって話してたじゃない」
「私はずっとそのつもりだったの。でも、ヨーちゃんが急にそう言い出して。給湯室であまりにさらっと言うから、私、びっくりして」
 三日前のことなのだろう。僕が気絶している間に、秋山先輩と新垣先輩はとても大事な話をしていた。進路のこと。これからの二人について。
「別の大学っていうことだけなら、私も多分納得できたよ。でも県外なんだよ。一人暮らししなきゃいけないって、今までのようには会えなくなるって、ヨーちゃん言うんだよ。まるで世間話みたいに。だから私聞いたの。『私と離れ離れになっても辛くないの?』って」
「……それで、新垣くんはなんて」
「『辛くはない』って」
 それは、と。千歳が呟く。だけど、その後に言葉が続くことはない。
「私は想像するだけで、こんなに辛いのに。寂しくてたまらないのに。ヨーちゃんは、簡単にそう言ったの。だから私、つい『大嫌い』って言っちゃった」
 どうして。
 膝に顔をうずめて、背中を曲げて、秋山先輩は呟く。
「大好きなのに、離れちゃうなんて嫌だよ」
「……まどか」
「離れちゃうなら、もう正座したって、綺麗な姿勢でいたって意味ないもん。ヨーちゃんが見てくれないのに、そんなことする理由ないもん」
 西園寺先輩が、膝を抱えた秋山先輩を抱きしめる。秋山先輩のしゃくりあげる声。その背中を撫でてあげる西園寺先輩の手。
 僕は迷う。どうしよう。何を言えばいい。どうすればいい?
 力になりたいと思った。秋山先輩と新垣先輩が喧嘩をしたのなら、仲直りするきっかけを作れたらいいって。
 だけど、そんなの烏滸がましかった。だってこれは未来の話だ。秋山先輩と新垣先輩のこれからの話だ。秋山先輩は「ヨーちゃんが謝らなきゃ」と言ったけど、そんな言葉だけで解決できることじゃない。そんなことは二人が一番わかっているはずだ。「ごめんね」と言ったって、二人が一緒にいられるようになるわけじゃない。だからこそ新垣先輩は、秋山先輩を傷つけたことはわかっていても「ごめん」と言うことをしないのだろう。
 新垣先輩が県外の大学に行くのを諦めれば、二人は仲直りできる? それとも秋山先輩が快く新垣先輩を送り出すべき? 遠距離恋愛なんてやめておいた方が良い? そんな選択肢を当事者じゃない僕らが口にするなんて。それはどれも、土足で二人の心を踏みにじる行為にしかならないんじゃないのかって。
「さくら」
 そのとき、千歳が僕の肩に腕を回した。そのまま給湯室に連行される。秋山先輩と西園寺先輩から見えないところへ。
「ど、どうしたの千歳」
「さくら、何か案は?」
「えっ」
「この状況を打開する案は」
「ど、どうして僕に尋ねるの」
 いつも冷静な千歳らしくない。僕に打開策を求めるなんて、あまりに選択を誤っている。
「対人関係の解決を、不器用な姉ちゃんが出来るわけないし」
 酷い言い様だけれど、弟だからこそ先輩のことをよく理解しているとも言える。それが少し羨ましい、と思うようになったのはいつからだろう。
「で、でも、不器用さは僕がぶっちぎりのナンバーワンなのでは」
「いやいや、さくらはオレを無理やりお茶菓子部に引き込んだ実績があるだろ」
「うっ」
 やや語弊はあるものの、僕が嫌がる千歳をお茶菓子部に連れてきたのは事実だ。結果的に千歳はお茶菓子部に入り、姉弟のすれ違いも解決することができたけど、我ながら引っ込み思案を自負している僕がよくそんなことをやってのけたなと他人事のように感じることも多い。それほどまでに僕は千歳と西園寺先輩に仲良くなってほしかったし、とにかく必死だった。
「で、どうよ」
「………………」
 信頼してくれるのは、泣きそうなほど嬉しい。だけどやはり千歳の人選は誤っていると思う。だってこれは、どうしようもなく二人の問題なのだ。だからこれは秋山先輩と新垣先輩が考えなきゃいけないことで。僕らが口を出すべきことではなくて。
 それでも。
 どうしても、考えてしまう。
 秋山先輩と新垣先輩が仲直りする方法。すれ違いを解決する方法。先輩たちが笑ってくれる方法。正しく座ることで、僕らができること。
 二人に、また笑い合ってほしいから。
「……もしかしたら、なんだけど―――」
 拙い僕の話を、千歳は丁寧に聞いてくれた。気づけば僕らは給湯室の床に正座をしている。
 沈黙が数秒。千歳は僕の言葉を噛みしめるように思案している。そわそわと反応を待っていると、千歳は僕の背中をバシンと勢いよく叩いた。
「うわ」
「さすがさくら、オレの親友」
「し……っ」
 ぶわっと顔が熱くなる。親友。オレの親友! 友だちすらいなかったこの僕に、そんな強烈な言葉を!
「え、なんで泣きそうなのさくら」
「親友って言ってくれたから……」
「え、今までも何回か言ってる気がするけど」
「言ってくれるたびに嬉しさが極まって……」
「ときどきよくわからなくなるなお前は」
 顔を両手で覆う僕の背中が、ぽんぽんと優しく叩かれる。
「良い案を考えてくれた我が親友に、良いことを教えてしんぜよう」
「い、良いこと?」
「文化祭当日だけどな―――」
 かくして、僕らの作戦は進行する。
 停滞する秋山先輩と新垣先輩を置いて。


「……うん。よく似合ってるよ、まどか」
 そう言ってチャコちゃんは笑った。携帯で全身を撮影して私に見せてくれる。いつもと違う自分の姿に、沈みきっていた心が少しだけ浮き上がる。
 私とヨーちゃんが喧嘩をして、かれこれ一週間。ヨーちゃんは一度も茶室に来なかったし、私は意地でも正座をしない。そんな状況のまま文化祭当日を迎えてしまった。
 申し訳ないなとは思ってる。私と彼が喧嘩をしたことで、仲直りをしないことで、チャコちゃんたちに心配をかけていることぐらい、私でも十分にわかってる。
 でも、どうしても譲れなかった。私の方からヨーちゃんに謝るなんてもっての他だ。だって私は悪くない。ヨーちゃんが遠くへ行くなんて言うから悪い。ヨーちゃんが、ヨーちゃんが。身体を曲げて考えるのはそんなことばかり。そんなことをしても何も解決しないことだって、とっくに理解しているのに。
 だから、せめて文化祭当日ぐらいは手伝わなきゃなと思っていた。私がうじうじしている間もチャコちゃんたちが準備を進めてくれていたし、チャコちゃんセレクトのお茶菓子全十五種類、つまりは全十五店舗を買い回り、サクちゃんとチーくんがヘトヘトになっている姿も見ていたから。せめて「正座お茶菓子屋」のウェイトレスぐらいはしようと、いつものように茶室へ行ったら。
「なんで急に着物なんて着ることになったの?」
 自分の着物姿に少しだけ浮き足立ちながら、私はチャコちゃんに尋ねる。
 着物を着ることになりました、と聞いたのはつい先ほどの一時間前。茶室に入ると、待ってましたと言わんばかりにチャコちゃんとサクちゃんとチーくんに迫られ、「決定事項なので早く着てください」とチャコちゃんに空き教室に連行され、あれよあれよと着付けされ、髪に綺麗なかんざしまで挿してくれた。着物は紅色の生地にたくさんの花がちりばめられていて。「可愛いまどかによく似合う」と言うチャコちゃんは、私が来る前に既に自分の着付けをしていたらしく、あじさい柄の着物はとても綺麗で大人びている。
「お茶は点てられないけど、見た目ぐらいは茶道部っぽくした方がいいかなと思って」
「……ふうん」
 言い分はそれっぽいけど、なんだか怪しい。それならどうして事前に教えてくれなかったのだろう。着物はチーくんの家にあるものを借りてきたらしいし、学校へ運ぶ作業もそれなりにかかったはずなのに、私は文化祭当日までそんな準備をしていることすら知らなかった。
「よく着付けの方法なんて知ってたねチャコちゃん」
「お母さんに教えてもらったことがあるの。だから千歳も知ってる」
 ふうん、ともう一度呟く。チャコちゃんとチーくんは姉弟だけど、今は名字が違う。そういう複雑な家庭な事情はあれど、なんだかんだで仲良しな二人を見るのが私は好きだ。
 前にチャコちゃんへそう言ったことがある。するとチャコちゃんは、「私も仲良しなまどかと新垣くんを見るのが好き」と言ってくれた。確か一か月前ぐらいのこと。そのとき私は、すごくすごく嬉しかったのに。
「それじゃあ茶室に戻ろう」
 チャコちゃんが私の手を握り、空き教室を出て廊下を歩く。どこか急いているようにも感じたけれど、模擬店スタートの時間が迫っているからだろうなと私は深く考えなかった。それが一番の失態だったんだろう。突然着物を着させられたこと。茶室じゃなくて、わざわざ空き教室で着替えさせられたこと。チャコちゃんたちが、私たち二人のことを心から心配してくれていたこと。「ひょっとして」と思うきっかけはいくらでもあったのに。
 茶室に着いて扉を開ける。サクちゃんとチーくんが「似合ってますよ」と褒めてくれるのを期待する。どこかで「彼」が私のこの姿を見てくれないかな、と、どうしても期待してしまう。
 そして、その期待はすぐに叶ってしまった。
「あ」
「うわ」
 うわって何よ、と心の中で突っ込むのは数秒後。
 茶室の中には、彼の帯をぎゅっと締めるチーくん。彼が逃げないように腕を掴んでいるサクちゃん。そして、二人に着物姿にされたであろう彼―――ヨーちゃんが、そこにいて。
「……ごめん、まだ着付け中だった?」
「いや、ちょうど仕上がったところ。思った以上に陽一先輩が抵抗するから」
「廊下歩いてたら急に捕まえられるわ茶室に連行されるわ、更に身ぐるみ剥がされてなぜか着物を着付けされ始めたら、そりゃ抵抗するだろ」
 久しぶりに聞く彼の声。聞き慣れているはずなのに、たった一週間会っていなかっただけなのに、どうしてこんなに胸がつまってしまうのか。
 固まっていた私の背中をチャコちゃんが押す。チャコちゃんとチーくんが、逃げないように彼の腕を掴んでいる。私とヨーちゃんは、一週間ぶりに向かい合う。「とりあえず二人とも座って」とチャコちゃんが言う。
「え」
「なんで」
「いいから」
 状況が飲み込めず、とりあえず座ろうとして気づく。体育座りができない。だって今は着物姿だ。変に足を崩した格好で座れば、どこが着崩れしてしまうかわからない。着物を着るなんておそらく七五三ぶりでその記憶すら曖昧だ。どう扱えばいいかなんてさっぱりわからなかった。茶室には椅子なんてものもない。だとすれば。一番着崩れがおきないであろう座り方は……。
「こ、ここで、着物の際の正座の方法をお伝えします」
 突然サクちゃんが挙手をして宣言した。狼狽えた表情のまま、私とヨーちゃんはサクちゃんの方を見る。
「ま、まず、右足を半歩後ろに引きます。それから右手で上前を少し引き上げます」
「上前ってなんだサク太郎」
「き、着物の前に出ている部分のことです」
「サクちゃんすごく声が固いけど」
「それから、左手で上前の太もものあたりを軽く押さえます。それで、えっと、右手で上前をなで下ろしながら腰を落として、膝を付いてください」
 言われるがままの動作をすると、あっさり正座をすることができた。着崩れしたところもなさそうでホッとする。だけど、すぐに自分が正座をしてしまったことに気づいた。
 私は正座をしている。目の前には、同じく着物姿で正座をしているヨーちゃんがいる。
「今から、まどか先輩とヨーちゃんをここに閉じこめます」
「えっ」
「は?」
 私とヨーちゃんの声が揃う。チーくんがニヤリと笑う。
「二人が仲直りしない限り、茶室から絶対に出しません」
「いやいやいやちょっと待て」
 正座をしたままヨーちゃんが挙手をする。
「もうすぐ模擬店が開く時間だろ。オレたちがこのまま仲直りしなかったら」
「姉ちゃんセレクトのお茶菓子は一切売れず、オレたち五人で処理することになります」
 チャコちゃんたちが用意していたお茶菓子は全十五種類。予算を最大限使おうと、確かそれぞれ十個は買っていたはずだ。単純計算で十五掛ける十、イコール百五十個。普通に模擬店で売っても絶対売れ残るじゃん、と思っていたのに。お菓子は好きだけれど、さすがに百五十個という数字には胃が重たくなる。
「仲直りするまで『正座お茶菓子屋』は開店しませんので」チャコちゃんが言う。「外でオレらが見張りをするので、仲直りしたなって雰囲気が伝わらない限りは二人をここから出しませんので」チーくんが言う。いつのまにこんな息がぴったり合うようになっていたんだこの姉弟。
「さ、三人とも本気なの?」
 チャコちゃんが、チーくんが、サクちゃんが頷く。至極真剣な顔で。
「ゆっくり、ちゃんと」
 サクちゃんが言う。背筋を伸ばして、まっすぐに。
「二人のことを、話し合ってください」
 何も言えないでいる私とヨーちゃんをよそに、三人は本当に茶室から出て行った。しんと茶室が静まり返る。
 帯をきつく締められているせいで、下手に背中を曲げた方が息苦しくなる。自然と背筋は伸びて、そうすると、彼とばっちり目が合って。
 行き場のない手を握る。息は苦しくないのに胸が苦しい。
 だけど、それでも。
 私たちは、正座を崩すことはできない。


「もしかしたら、なんだけど」
 千歳に「何か案は」と尋ねられ、考え、僕は口を開いた。
「『気持ちの問題』なら、僕たちにも解決できるかもしれない」
 そう言うと、千歳は「気持ちの問題?」と聞き返してくる。僕のたどたどしい話を、千歳は丁寧に拾ってくれる。そんな優しい彼に僕はいつも救われる。
「たとえば秋山先輩に『新垣先輩を応援するべきだ』とか、新垣先輩に『秋山先輩と同じ大学に行くべきだ』とか、そういうのを僕らが言うのはお門違いだと思う。二人のこれからのことは、二人がきちんと話し合って決めてほしい」
「そうだな」
「だけど、今の二人はきちんと話し合える状況じゃない」
「まどか先輩は聞く耳持たないし、陽一先輩は自分の意見を変えるつもりはなさそうだしな」
「だからまず、『二人がお互いと話し合いたい』と思ってもらわなきゃいけない。そう思わせることなら、僕たちにもできるかもしれない」
「ほう。その方法は?」
「二人に、正座をしてもらう」
 千歳がきょとんとする。「それ、いつもと変わらなくね?」と目が告げているけれど、黙って僕の続きを促してくれる。
「お茶菓子部に入ってからわかったことだけど、正座って『ちゃんとしよう』と思わせてくれるところがあると思うんだ。相手にちゃんとした自分の姿を見せたい。ちゃんと、自分の気持ちを伝えたいって。……僕だけがそう思っているのかもしれないけど」
「いや、言いたいことはわかるよ」
 オレもそうだったから、と千歳が呟く。僕は千歳と西園寺先輩が正座をする姿を思い出す。
「……ええと。でも、今の秋山先輩は正座をしたがらない。膝を抱えて顔をうずめていたら、相手に何かを伝えたい、話を聞きたいという気持ちにはなれないと思う」
「……確かにな。でも、姉ちゃんがいくら説得してもあの調子だぞ。どう言って正座をさせるんだ」
 気づけば僕らは給湯室の床で正座をしている。真面目な話をするとき、正座をする癖がすっかり付いている。
「ここで一つ案と言うか、お願いになってしまうのだけれど」
「ん?」
「文化祭で、着物を着たいんだ」
「……は? 着物?」
「千歳、前に言ってたよね? 家に着物があって、部員分なら借りて来られるって。あのとき僕は断ってしまったけれど、それを持ってきてほしい。千歳が言っていたように元は茶道部なんだし、着物を着るぐらいは学校も許可してくれるだろうし、先輩たちも変に反対はしないと思う」
「……着物を持ってくるのは構わないけどさ。なんでまどか先輩に正座をさせるために、着物を着ることになるんだよ」
「着物を着れば、ぐうたらな姿勢はできなくなる。身だしなみ的にも気持ち的にも」
 僕自身、着物を着た記憶はあまりない。七五三で袴を着させられたり、夏祭りで浴衣を着させられたりしたぐらい。しかしそれだけでも、少し体勢を崩せば着衣も崩れてしまう。着物となれば、体育座りなんてもってのほかだろう。更に椅子もない茶室の中となれば、正座以外の選択肢は非常に選びづらい。
「文化祭当日、先輩たちに着物を着てもらう。そして着物姿の秋山先輩と新垣先輩を、どうにかして茶室に閉じこめる。そして『仲直りしなければ、茶室から絶対に出さない』と言う」
「ほう」
「茶室に閉じこめられる限り、模擬店も開けない。西園寺先輩セレクトのお茶菓子を、お客さんに振る舞うことができない。秋山先輩と新垣先輩は優しい人だから、そういう状況に追いつめれば、『ひとまず話をしよう』という気持ちになってくれる可能性は高いんじゃないかな。加えて正座しかできないから、『ちゃんと話をしよう』という気持ちになってくれるかもしれない」
 そこまで話してから、千歳の顔を窺う。すると彼は何やら感慨深そうに何度もうなずいていた。
「さくらが『追いつめる』なんて物騒な言い方をするようになるとは」
「ぶ、ぶっそ……」
「物騒な言い方をするぐらい、さくらは先輩たちに仲直りしてほしいと思ってるってことだろ」
「…………」
「でもな。そこまで追いつめたとしても、『誰が仲直りするもんか』と二人が意地を張る可能性もあるとオレは思うんだが、その点はどうよ」
 僕は言葉に詰まる。想定内の質問だった。だって千歳の言う通りだ。今まで僕が話してきたことは、「かもしれない」程度の可能性だけだ。
 だから。
 僕の中で一番信用性の高い、だけど決して言いたくなかった本音を口にする。
「……これは、僕が思っているだけなんだけど」
「ん?」
「着物姿で正座をしている好きな人を見て、心が絆されない人なんてこの世にはいないと思う」
 千歳がきょとんとする。だけどすぐにニヤリと笑われる。
 ひしひしと、自分の頬が熱くなるのを感じた。


 サクちゃんの仕業だな、と私は気づく。
 チャコちゃんはお茶菓子以外のことに関しては臆病なところがあるし、こんな強引な手立てはできない。チーくんは冷静だから、こんな無鉄砲な方法を選ばないだろう。誰よりも臆病に見えて、誰よりも早く一歩を踏み出すサクちゃんが、この状況を作り出したに違いない。
 目の前には彼がいる。大きな身体。紺色の着物。市松模様の帯。まっすぐ背筋を伸ばして、正しく正座をして。
 ―――格好いい。
 言いたい。今すぐにでも言いたい。だって本当に格好いい。世界中の誰よりも格好いい私の恋人。私の彼氏。だけどそう言ってしまったら、私が負けたような気がして。私が折れたと思われたくなくて。だって私は折れたくない。譲りたくない。
「……ヨーちゃん」
 それでも、背筋が伸びてしまう。
 格好いい彼の前で、ちゃんとしてない私なんて見せたくない。
 足を揃える。まっすぐに彼を見る。
「『辛くない』なんて、ひどいよ」
 あの日、「大嫌い」で誤魔化してしまった気持ちを。
 背筋を伸ばして、正しく座って、彼にぶつける。
「私は辛いよ。ヨーちゃんがそばにいないなんて、考えるだけでも苦しいよ」
 私の痛みを、彼にわかってほしいから。
「大好きなんだよ。ずっと一緒にいたいんだよ。そう思うのは、ヨーちゃんにとって迷惑なのかな。私が思ってたより、ヨーちゃんは私のこと、好きじゃなかったのかな」
「違う」
 まっすぐな声。大好きな声が、私にぶつけられる。
「俺もまどかが好きだよ。好きだし、大事だし、大切にしたいと心から思ってる」
「じゃあなんて」
「だから俺は、辛くないんだ」
 彼が立ち上がり、こっちに一歩、二歩と近づいてくる。逃げたくても着慣れない格好のせいかすぐに動けない。私の目の前で、もう一度彼は正座をする。膝と膝がくっついてしまいそうな距離。手を握られる。優しくて大きな手。
「まどかと一緒の大学に行きたいと思ってた。これは本当だ。でも、自分の将来のこととか、勉強したいこととか考えたら、どうしても県外にある大学に行きたいと思った。その大学さ、珍しい学科ばっかりあるんだけど、面白そうな研究もたくさんやってて」
「……古典で有名な大学なんでしょ。ホームページ見た」
 県外の大学に行くと言われたとき、大学名も一緒に聞いていた。ヨーちゃんは茶室で漫画雑誌ばかり読んでいるけれど、実は古典文学が一番好きであることを私はよく知っている。彼の部屋へ遊びに行ったとき、本棚には小難しく古めかしい本がたくさんあった。
「そう。だから、どうしてもその大学に行きたい。一般入試になるから、まだ受かるかどうかわかんないけど」
「受かっちゃうよ。ヨーちゃん頭いいもん」
 受かっちゃうよ、なんて。嫌な言い方をしてしまう。受かっちゃったら離れ離れ。今までのように会えなくなる。
 離れ離れになって、もしヨーちゃんが他の女の子を好きになってしまったら? 私がいなくても平気になってしまったら? ううん、今だってもう平気なんだ。だから私と離れることを簡単に決めてしまえるんだ。後ろ向きな事実が、気持ちが、私の目の前を真っ暗にする。
「まどか」
 俯きかけていた顔をあげる。彼は一度も目を逸らさずに私を見ている。
「どれだけ遠くにいても、俺はずっとまどかが好きだ。毎日電話だってする。テレビ電話でもメールでもいい。なんなら手紙だって書く。絶対まどかに寂しい気持ちをさせない」
 そして俺は、と。
 手を、強く握られる。
「ちょっと離れたぐらいで、まどかが俺を好きじゃなくなることなんてないと自負している」
「―――……」
「だから俺は、まどかと離れるのは寂しいけど、ちっとも辛くはないんだよ」
 ああ、そうだ。
 私は彼のこういうところを好きになった。自分に素直で率直で、ときどき言葉が足りていなくて、だけど、いつだって私のことを見ていてくれる。
 初めて会ったときもそうだった。高校一年生のとき、当時はまだお茶菓子部が茶道部として機能していた頃。興味本位で見学しに行くと、そこには同じような理由で見学しに来ていた彼がいて。
 それまで正座をする機会なんて滅多になかった。だけど見学の間は必ず正座をするようにと顧問の先生に言われて、足を崩そうとしたら恐ろしい形相で睨まれて。しかも同じく見学で来ていたチャコちゃんは平然とした顔で正座しているし、彼も顔をしかめつつも足を崩すことはなくて。私だけ諦めるのもなんだか悔しくて、足の痺れに耐え続けた。一生懸命背筋を伸ばして、足を揃えて、まっすぐ前を見て。
 そして、なんとなく彼に声をかけた。足の痺れを誤魔化すために、世間話をしたいだけだった。正座辛いよね。なんで見学だけなのにこんなことさせられるんだろうね。確かそんなことを言った。そうすると彼は私を見て、「でも」と呟いて。
 きれいだよ、と。
 彼はまっすぐ、私に言ってくれた。その五文字を、私はすぐに理解できなかった。だってそんな言葉、今まで言われたことがない。「かわいい」は女の子同士で言い合うことだってある。だけど、「綺麗」という少し大人の空気を持ったその言葉を、気持ちを、私に向けられたのは、彼が初めてで。
 え、と思わず彼を見ると、その背筋は私と同じようにまっすぐ伸びていて。その頬と耳は、少し赤くなっていて。
 正座をした私の足先が、胸の奥が、むずむずして。
 それが、私たちの恋の始まりだった。
「ヨーちゃん」
 彼の名前を呼ぶ。大好きな人の名前。
「私はヨーちゃんが好きだよ」
「うん」
「だから一緒にいたいよ」
「うん」
「でも」
 まっすぐに、彼を見つける。
「ヨーちゃんがやりたいことを、応援したいよ」
 目を逸らさないまま、彼の手を握る。
「浮気したら絶対許さないから」
 彼の瞳が揺れる。優しい眼差しに、胸のつっかえが取れていく。
「絶対、ずっと、まどかだけが好きだ」
 そうだ。私は彼と笑い合うのが好きだった。彼に好きと伝えて、彼に好きと言ってもらうことが好きなんだ。
「まどかを傷つけるような言い方をして、ごめん」
 彼の言葉に、首を横へ振る。私も自分の気持ちで精いっぱいで、彼のことを考えられていなかった。一番大事なのは彼なのに。
「ヨーちゃん、着物姿めちゃくちゃ格好いいです」
「サンキュ。まどかも最高に可愛い。正直今すぐ抱きしめたいくらい」
「ねえヨーちゃん」
「ん?」
「結局ヨーちゃん的には自分の意思を貫くつもりだったし、それを私に伝えようとも思ってくれてたんだよね?」
「…………そうですね」
「なのに、なんでずっと部活に来なかったの」
 ヨーちゃんがあからさまに狼狽える。視線を右へ左へ動かしている。そしてぽつりと一言。
「……怒ったまどかの顔を見ると、怖くて泣きそうになっちゃうから」
 その頬を思い切りつねってやった。「痛い痛い痛い」赤くなるまで頬を引っ張る。それから、彼へ思い切り抱きついた。
「うお」
「『大嫌い』って言ってごめんね」
 ヨーちゃんが私を見る。目を細めて笑う。おそらく頭を撫でようと手が止まった。かんざしで結われた髪が崩れてしまうと思ったからだろう。大きな手は私の背中を優しく撫でる。
 辛くない、と。私はこれからも言えないだろう。私は彼ほど強くない。離れ離れになったら、会えないことが辛くて泣いてしまうかもしれない。だけど彼が私を想ってくれる。大事にしてくれる。そう考えるだけで、たくさん幸せになれる。
 あなたが綺麗だと言ってくれたから。
 私は、ちゃんとした私で、正しく座れる人でありたいと思うから。


「あ、あの、西園寺先輩」
「何さくらくん」
「あの……」
「……?」
「すみません何でもないですごめんなさい」
「いやもういい加減突っ込もうぜ。おかしいだろこれ絶対」
 千歳の言い分に、西園寺先輩は正座をしながら心底不思議そうに首を傾げた。そう、正座をしながらだ。今、僕らは正座をしている。廊下にいる状況で、だ。
 一連の流れを説明すると、まず僕らは秋山先輩と茶室に閉じこめた。宣言通り、僕らは二人が仲直りするまで外で見張りをしなければならない。弁明すると、僕と千歳は立って見張りをするつもりだった。僕らも着物に着替えていたし、ましてや千歳の家からお借りしたものだ。その状態で廊下に座り込んで汚すわけにはいかない。だけど、西園寺先輩は違った。いつのまにか茶室にあった座布団三枚を、その腕に抱えていた。そして彼女は言った。「二人が仲直りするまで、正座をして待ちましょう」と
「絶対オレらが正座する必要ないって」
「まどかたちに正座をさせておいて、私たちが正座をしないなんてマナー違反よ」
「おい、さくらも文句の一つぐらい言えよ」
「ん、んんんん……」
 千歳の言い分もわかるし、西園寺先輩の言い分もわからないわけでも……ない……かもしれない。僕はもごもごと口を動かすだけで、どちらの味方もできない。
 文化祭ということもあり、生徒だけでなく保護者や他校の生徒など多くの人が僕らの前を通り過ぎていく。そして必ず僕らの方を見る。「なにしてるんだろうアレ」みたいな感じの視線が向けられる。千歳が死んだような目で「正座お茶菓子屋は準備中です」と書かれた看板を持っているのがまだ救いだろう。開店前のパフォーマンスだと思ってくれている人もいる……かもしれない……わからないけど……。
「早く仲直りしてくれねーかな、先輩たち」
「大丈夫。きっとすぐに出てくる」
 確信めいた言い方に、僕と千歳は西園寺先輩を見る。先輩は背筋を伸ばしたまま小さく微笑んだ。
「あの二人はお互いのことが大好きだから。それに」
「それに?」
「これは、さくらくんが立ててくれた作戦だから」
 西園寺先輩が僕を見る。僕の背筋が伸びる。
「だから、大丈夫」
 凛とした、僕に向けられた声。
「……う、えっと、その」
「―――お姉さん、なんでこんなところで正座してるの」
 先輩が僕から視線を外して顔を上げる。僕と千歳も同じ方を向く。
 そこには他校の生徒らしき男の人が二人いた。僕と千歳には目もくれず、あきらかに西園寺先輩だけを見ている。
「……正座お茶菓子屋は準備中です。もう少しお待ちいただければ」
「お姉さん今暇なの?」
 え、と僕たち三人の声が揃う。
「じゃあ俺たちのこと案内してよ」
 その意味を理解してしまうのに、あまり時間は掛からない。僕が理解するのと、「ナンパかよ」と千歳が呟くのは同時だった。
 だけど西園寺先輩は呆けたように目をぱちくりさせている。その隙をつくように、男の人は西園寺先輩の腕を掴んだ。
「ほら、行こうよ」
「え」
「他に店番ふたりもいるみたいだし、いいでしょ」
 そこで西園寺先輩の瞳に困惑の色が混じった。その目が千歳を見て、僕を見た。目が合った。戸惑うような、怖がっているような表情。
「お前―――」
 千歳が立ち上がろうとした。ひょっとすると男の人に掴みかかるつもりだったのかもしれない。千歳は素直じゃないけれど、お姉さんをとても大事にしている。
 だけど。
「―――智弥子先輩」
 その前に、僕が先輩の手を握った。
 先輩の目が見開く。驚いた顔が僕を見つめる。
「智弥子先輩は、だめです」
 男の人ふたりは僕を見て、先輩に目を移し、それから互いの顔を見合わせた。僕は殴り合いになる覚悟をしていた……足を震わせながらだけど……のに、男の人はあっさりと西園寺先輩から手を離す。
「悪い悪い、まさか君がカレシだとは思わず」
「カ―――」
「開店したらまた来るわ」
 そう軽やかに笑い、男の人たちは手を振りながら立ち去っていった。僕らはぽかんと口を開け、その背中姿を見送る。案外良い人たちだったのかもしれない。
 そこで、妙な沈黙が流れた。僕も先輩も千歳も、誰から発言するべきか牽制し合っているような空気を感じる。先輩と千歳の視線がビシバシと突き刺さってくる。
「さくらくん」
 先輩の声に、僕はびくりと肩を震わせる。顔がみるみると赤くなっていくのを自覚する。
「今、私のこと名前で」
「ち、ちち、ちや、ちゃこ先輩」
 ええいもうこの勢いで、と思ったのに見事に噛んだ。さっきはちゃんと言えたのに。ちゃんと、先輩の名前を言えたのに。頬も耳も猛烈に熱い。
 泣きそうになりながら、それでも先輩ときちんと向き合って、足を揃えて、正しく座って、僕は伝える。
「た、誕生日おめでとうございます」
「―――え」
「着物、とても、すごく、綺麗です」
 一回、二回と先輩が瞬く。そしてゆっくりと、その頬が赤く染まっていくのを確かに僕は目撃する。途端に胸が苦しくなる。無性にドキドキする。
「もっと良い塩梅に言えよーさくら」
「う、うあ、だ、だって」
「……千歳が誕生日のこと教えたの?」
「だって姉ちゃん自分から言わねえから」
「誕生日なんて自分から言うものじゃ」
「まどか先輩を正座させるために仲直りさせたがったのも、自分の誕生日に良い気分で皆と一緒に正座してお茶菓子食べたかったからなんだろ。山ほどお茶菓子買ったのも、いくら売れ残っても『誕生日なんだし今日ぐらいは』って言い訳して暴食できると踏んでたくせに」
「う」
「そ、そうだったんですか先輩」
「違うのさくらくん、私はただ誕生日のときぐらい多めにお茶菓子を食べたって許されると―――」
「―――お待たせしました!」
 秋山先輩の、いつもの明るい声が響く。
 振り向くと茶室の扉は開かれていて、秋山先輩と新垣先輩が仁王立ちしていた。いつもの明るく優しい笑顔で、互いの腕を組みながら。
 僕たちは顔を見合わせ、座布団から立ち上がる。すると、秋山先輩と新垣先輩はぺこりと頭を下げた。
「今日チャコちゃんの誕生日なのに、面倒なことさせてゴメンね!」
「悪かったな西園寺、あと後輩ども」
「ほんとですよまったく」
「大丈夫、お茶菓子が売れ残っても全て食べ切れる自信がある」
「あ、え、えっと」
 上手い言葉が見つからず言い淀んでいると、新垣先輩に頭をわしゃわしゃと撫でられる。次に秋山先輩にも撫でられる。そしてなぜか智弥子先輩にも撫でられてしまった。
「えっ。ち、ちゃ、ちゃこ先輩?」
「誕生日をお祝いしてくれたので」
「え、そうなのサクちゃん」
「俺たちが仲直りしている間にラブロマンスがあったのか」
「プチラブロマンスって感じでした。なあ、さくら」
「う、うううう」
 穴が入ったら隠れたいくらい恥ずかしい。だけど僕の背中は曲がらない。だって秋山先輩も新垣先輩も笑ってる。千歳も、智弥子先輩だって。
「それでは」
 智弥子先輩の声に、自然と背筋が伸びる。僕たちは、こういう僕たちがとても好きだ。
「―――正座お茶菓子屋、開店しましょう」
 そのあと。
 先ほどのナンパ男性たちがやって来て千歳が威嚇したり、やはり売れ残ってしまったお茶菓子を智弥子先輩が目を爛々とさせながら食べたり、秋山先輩と新垣先輩がアーンをしてお茶菓子を食べさせ合っていたり、僕はそれを見て赤面していたり。
 結局、僕がその日、彼女を「智弥子先輩」ときちんと呼ぶことができたのは二回だけだったり。そういう、つい俯いてしまいそうなこともあるけれど。
 いつかまた、僕が先輩のことをきちんと呼べる日が来たときは。
 秋山先輩のように、新垣先輩のように。
 正しく座って、彼女に僕の気持ちを伝えたいと思う。


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