[118]天才正座少年・すわるくん


タイトル:天才正座少年・すわるくん
分類:電子書籍
発売日:2021/05/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
定価:200円+税

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容
 何十年と弓道を続けてきた剛三は、腕を痛めて引退することになった。ひとり者の彼はある日、テレビを見ていると、ワイドショーに「天才正座少年」という子が出場するのを見て、テレビ局に駆けつける。その子のお祖母さんが美人だったから入門するために。
 入門叶い、順番通り正座しようとするが、足にしびれをきらせてばかりで、お祖母さんのあやめから正座の練習より孫のすわるの面倒を見て下さいと言われる。すわるはたいへんワンパクで、剛三も手を焼くが、すわるは懐いてくる。

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本文

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第 一 章 テレビで見た少年

 ある弓道場では、ひとりの射士が長年の修行をやめ、皆に惜しまれつつ引退しようとしていた。鬼塚剛三という弓道界では知られたベテランだ。
 道場の仲間が注目する中、剛三はまぶしい白足袋でつるつるの床を歩いて的前に立った。うんと弦を振り絞り、的を狙う。
 最後の一矢を放ち、見事、的に中てた。
 作法通り退いて、諸先輩と後輩たちに深々と頭を下げた。
 廊下に出ると紺の袴に白の足袋をはいた皆がどっと寄ってきた。
「鬼塚八段、ご苦労であったな」
「鬼塚先生、ごりっぱな射でした! 感激しました」
 先輩や同輩はうなずき、弟子たちはそれぞれ泣いている。剛三はまだ引退などしたくはないのだが、腕を痛めてしまい、医者から「これ以上、弓道は無理でしょう」と言われてしまったのだった。
 仕方ない引き際だ。

 十代の若い頃から、弓道だけにまい進してきた剛三にとって、明日から「弓道のない生活」というものになるとはわかっていても想像できなかった。三年前に亡くなった妻が生きていれば、きっと「お父さん、長い間ご苦労様でした」とねぎらってくれたにちがいない。
 しかし、剛三には子どももいなく、ひとり暮らしだった。
 弓道場に行かない生活は、年金暮らしの静かな毎日だ。
 掃除と洗濯以外にやることが見つからない。料理などするわけはなし、食事情はひどいものだった。こうして引退してみると、一緒に食事をする者がいないという生活はとても味気ない生活だ。
 今日も昼近くまで寝ていて、お昼頃に散らかりまくった居間でカップヌードルをすすりながらテレビを見ていると、「天才正座少年現る!」と、ワイドショーに出てきた男の子がいた。
「正座……?」
 剛三の割りばしが、ふと止まった。
「世界大会で三度目の優勝! 天才正座少年の安斉すわるくんです!」
 司会の男性が叫び、赤いカーテンの向こうから羽織袴を着せられた十歳くらいの男の子が出てくる。スタジオの観覧者から拍手が湧きおこる。
「正座だけで何だ、大騒ぎしおって。正座なんぞ、弓道の世界じゃ初歩の初歩の世界じゃないか」
 ぶつぶつ言いながら見ていると、少年が正座するところだった。
 羽織袴を着ている。まっすぐ背を伸ばし、すねを床について膝の内側に袴は折りこみ、かかとの上に座り両手は膝の上に置く。
「ふん、行儀よくできているが、それだけだな。ここから何かをやってやるって、ぎらぎらした闘争心が感じられないから正座は正座でしかない」
 なんて言ってた剛三だったが、だんだん目つきが変わってきた。
 見つめている先は、すわるくんの正座の師匠で祖母のあやめさんという女性だ。黒髪はまだつやつやして下膨れの顔に愛嬌がある。
「なんと美しい立ち姿だ―――」
 どこか、亡き妻の面影があるような。
 すわるくんは正座を終え、スタジオを後にするところだった。
「よし、行こう!」
 こうと決めたら、即行動の剛三だ。まだカップラーメンが残っているのに、急いでましなワイシャツに着替えた。

第 二 章 入門

 スマホで正座少年のお稽古教室をつきとめ、タクシーに手を挙げた。 
 お稽古教室は高級住宅街の中にある。
「ここで止めて下さい」
 近くまで来ると、テレビ局から帰ってきたらしい少年たちが車から降りるのと同時だった。
「ちょ、ちょっと待った!」
 剛三が叫びながら手を挙げると、少年と女性たちが車から降りるところだ。
「私、さっきのテレビを見ていた者ですが、弓道教室にいました鬼塚剛三と申します。ぜひ、坊ちゃんのいらっしゃるお稽古教室に入れていただきたく、急いでまいりました」
「これはまたお早いこと。テレビ局には今、問い合わせが来始めたというのに」
 少年の側にいた先ほどの黒髪の女性が口に手をあてて笑った。
「アポもなしに失礼じゃありませんか。さ、すわる、入ってお着替えしましょう」
「まって、お祖母ちゃん」
 少年が言った。
「あの人、すごく息が辛そうだよ。頑張って走ってきたんだよ。ちょっとお話を聞いてあげてよ」
 すわるの鶴の一声で、剛三はお稽古場にあげてもらうことになった。
 少し若い和服の女性が日本茶を持ってきた。
「失礼は重々承知の上です。改めまして、私は数日前まで弓道場で教えておりました者です。テレビで拝見して、ぜひ、こちらで正座を習ってみたいと思いました」
 若い女性は微笑んで、
「すわるの母のすみれです。もうすぐ義母が参りますからお待ち下さい」
 羽織袴を脱いで、浴衣姿になったすわる少年がやってきた。
「へえ、おじさん、弓道やってたの。どうしてやめたの?」
「おじさん、腕のすじを痛めちまってな。あ、失礼、腕のすじを痛めてしまったんです」
「正座は腕は使わないけど、気持ち入れるのにスポーツみたいな感じになるよ。大丈夫?」
「はい、大丈夫……だと思います」
「さっき、車を降りる時、お祖母ちゃんばっかり見てただろ、おじさん。お祖母ちゃん、きれいだもんな」
「え、あ、そんなことは……」
(この子に下心を見抜かれてる!)
 思わず冷や汗をかいた剛三だ。
 ようやく、お稽古の師匠のあやめ先生が来た。
「こんなに早く反響があると思いませんでしたわ」
「す、すみません」
「で、入門をご希望ですか?」
「はい、よろしくお願いします」
 剛三はあたふたとした座り方で床に頭を下げた。
「この座り方はしごき甲斐あるよね、お祖母ちゃん!」
(このガキ!)
 内心、剛三は思ったが、師匠の反応を待った。
「一番目の希望者さんをお断りするような縁起の悪いことはいたしませんよ。週に二回か三回おいでくださいな。どういうわけだか孫があなたのことを気に入った様子なので」
 師匠は孫のすわるをちらりと見て、やれやれというふうに肩をすぼめた。
「ありがとうございますっ」
「やったあ、良かったね、弓のおじさん。そう呼んでいいでしょ」
「いいよ。すわるくん。いや、すわる師匠」

第 三 章 わんぱくのお守

 剛三の正座のお稽古が始まった。
 所作の順番を習い、なんとか頭に入れ、その通り座れるようになれたが、正座が五分ともたない。しびれてしまうし、ひどい時には足が攣ってしまう。
 あやめ師匠はため息が絶えない。
「他にも同年配の男性はいらっしゃるのに、どうしてあの方だけしびれてしまうんだろう」
「ようするにやる気がないんだよ。他に気が飛んでるんだよ」
 すわるが口をはさんだ。
「他って?」
「さあね。あの人をぼくのお守役にしてくれてもいいよ。表面上、弟子ってことにしておいて」
「あんた、よほど剛三さんが気に入ったのね」
 というわけで、剛三は正座のお稽古をしなくてよくなった。代わりにすわるのお守役を言いつけられた。
「よろしくね、弓おじさん」
「気安く呼ぶなよ、ガキ」
「ボクのこと、ガキなんて呼んでいいのかな? 師匠の孫で、世界第一位の正座の優勝歴三回だよ」

 口は生意気だわ、わんぱくですぐにお稽古をエスケープするわ、学校からまっすぐ帰らないで寄り道するからお稽古には遅れるわ、など日常茶飯事で、すわるにお守役が必要なのは分かった。
 剛三は毎日、すわるを見失うまいと必死でついていった。
 おかげで小学校の友達との遊び場所や秘密基地まで知ってしまい、友達みんなからも「弓おじさん」と呼ばれる始末だ。
 それでも、祖父のいないすわるはだんだん剛三に心を開いていく。
「すわるくんとわしの運勢はよく似ている。幼い頃は輝かしい運が開けるが、晩年は苦労が多いんだそうだ」
「そんなこと誰が決めたんだよ。どうして分かるんだよ」
「とりあえず、他人事のような気がせん。晩年も幸せになれるよう、つきそっていてあげたいんだ」
「そんなこと言って、あやめ祖母ちゃんが目当てなんだろ!」
 図星だ。しかし、すわるのことも気にかかるのも本当だ。

「どうだ、すわるくん。前にわしがいた弓道場へ行ってみないか」
「えっ、いいの?」
 すわるは待っていたとばかりに目を輝かせた。
「弓道場では、みんな真剣だから、じゃましちゃいかん。静かにな」
「うん」
 剛三はかつて通った弓道場へすわるを連れていき、弓道の所作を見学させた。
 若い人もおじさんも、女の人もたくさん練習している。
 弓を射る場所はツルツルの板張りで、袴を履いた人たちが白足袋を履き、静かに歩く。
「ぼく、白足袋って紋付袴羽織のお正月とか、大会の時しか履いたことないや」
「弓道用の練習着一式、着てみるか?」
「うん!」
「誰か、この子に合う胴着一式を持ってきてやってくれないか」
 剛三が叫ぶと、若い男の子が「はいっ」と言い、しばらくして持ってきた。
「すまないな、わしはもうここは引退したのに」
「鬼塚先生が何をおっしゃいますっ」
 若者はすがすがしく返事してすわるに胴着を着せてやる。胴着は白。袴は紺色だ。右手には、鹿の皮でできたユガケを着けさせる。弓の弦と矢を握る大切な右手に着ける用具だ。
 すわるは目を輝かせた。
「ふむ、よく似合うぞ。すわるくん。次は用具の名前を教えてあげよう」
「うん」
 用具の名前をひと通り、教えてもらってから、いよいよ射の型を教えてもらう。
「射法八節」という。
①足踏み…射位(弓を射る位置)で的に向かって両足を踏み開く動作
②胴造り…足踏みを基礎として、両脚の上に上体を安静におく動作・構え
③弓構え…取懸け・手の内・物見を含む、矢を番えて弓を引く前に行う準備動作
④打起し…弓矢を持った両拳を上にあげる動作
⑤引分け…打起こした位置から弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす動作
⑥会…形の上では引分けが完成(弓を引き切った状態)しているが、無限に伸合い的を狙っている状態
⑦離れ…体の中心から左右に割れるように矢が放たれること
⑧残心(残身)…矢が放たれた後の姿勢

「難しいなあ、一度に覚えられないよ」
 すわるが口をとがらせて漏らす。
「繰り返し練習するうちに覚えてくるもんだ。名前より動作を身体で覚えるとよい」
「うん」
「足はこのくらいの幅で開いて……」
 かつての剛三の同僚も面倒見てくれて、すわるは弓道に夢中になる。
「正座はやめて、弓道だけにする」
 などと言い出した。
「両方やればいいじゃないか」
 剛三が言うが、あやめ師匠に許しをもらいに行くと、反対した。
「『二兎を追う者は一兎をも得ず』と言います。すわるに正座以外のことは学校の勉強しかさせられません」
「意外と古いですな、あやめさん。一生のうちにできることはいくらでも増やせばよろしいんだ」
「古いとはなんですか。私は進歩的な考え方です!」
「どこが進歩的なんですか。子どもの成長の妨害になる古風な考え方じゃないですか」
 ふたりが言い合いしていると、すわるが、
「お祖母ちゃん、どうしてもだめなの? ぼく、弓おじさんのとこに行く。そこからここへ通ってくる。そして弓道と両方やる」
「勝手になさい!」

第 四 章 夢の中の未来のすわる

 すわるが正座のお稽古にも帰ってこなくなったので、あやめはちょっと反省気分だ。母親のすみれが、
「大丈夫ですよ。お母さん。あの子は正座で優勝したことで天狗になって、子供らしくないところがあったから、よそで修行してくればちょうどいいと私は思ってたんですよ」
「ふうん、なるほどねえ」
「それに、剛三さんはお料理できませんので、私がこっそり作りに行ってますから、何かあればお義母さんにお伝えしますよ」
 すみれはにっこり笑った。

 二か月がすぎ、すわるはますます弓道に夢中になっていたが、腕が痛いと言い出す。剛三が慌てて病院へ連れていくと、腕の使いすぎで少し痛めたそうだ。
 とんで駆けつけてきた、あやめお祖母ちゃんと母のすみれだ。
「それ見たことか」と怒鳴られると思いこみ、小さくなっていた剛三だったが、あやめ師匠はすわるに向かって、
「武道をなめてはいけません。けがをしたのは、あなたの精神がたるんでいるせいです。やるならもっと本気でやりなさい」
 すわるはシュンとしている。そして、
「ぼく、けがが治るまで正座教室に戻るよ。精神統一の稽古だけは続けたい」
「そりゃいいことだ、すわるくん。家にもしばらく帰ってないことだし、精神統一の稽古にはもってこいだ。しばらくそうしなさい」
 剛三も勧めた。
「弓おじさんも一緒にお稽古しようよ」
 ということで、ふたりは正座教室へ帰ってきた。すわるが指導して、剛三に教える。まず正座の正式なやり方だ。
「背すじをまっすぐにして立って。それから膝を床につける。そして袴は膝の内側に折ってはさんで、かかとの上に静かに座る。両手は膝の上に静かに置いて下さい」
「こうかね?」
「はい、よくできました。頭を下げる時はここから先の段階です」
(子どもながら、さすが優勝するだけあって、指導の仕方もうまい)
 剛三は感心した。

 ある日、すわるの夢に、弓道着を着た背の高いお兄さんが現れる。
『おにいちゃんは誰?』
 すわるがパジャマを着たまま起き上がってきいた。
『俺は、十年先のすわるだよ』
『え、ぼく?』
『そうだよ。君はあれからずっと弓道を続けることになる。そして正座は、お祖母ちゃんにまかせっきりになる』
『正座はやめちゃうのか……』
 すわるは寂しくなった。
『実は、弓道だけでなく、流鏑馬も練習している』
『やぶさめ?』
『馬に乗って全力疾走しながら矢を的に放つ競技だ』
『えええっ、ぼく、そんなことするの?』
『流鏑馬の基本は小さい時から練習した正座が役に立っていると思いたい。ただ……』
 若者は悲し気な顔をした。
『ただ、どうしたの?』
『お祖母ちゃんのいうことをきかずに流鏑馬の奉納に出場したばかりに、こんな身体になってしまった』
 いつの間にか、若者は脚に包帯を巻いて松葉づえをついている。
『落馬して骨を折ってしまって……もう、足を曲げることができないんだ』
 若者は痛そうに顔をゆがめる。

 そこで、目が覚めた。
(未来のぼくの夢を見たぞ)
 そこで、はっとした。
(大変だ! ぼくが落馬して骨を折っちゃう!)
 飛び起きて、パジャマを脱ぎ捨てた。

「弓おじさん。おじさんにだけ言うから他の人には秘密だよ」
 正座のお稽古に来てすぐにすわるに捕まった剛三は、
「ああ、分かった。どうしたんだ、いったい」
 そこですわるは夢の話をした。剛三はそれを聞いて、
「わっはっは、夢のことを本気にするとは、子どもだな」
 大笑いした。しかし、すわるは真剣な目で剛三を睨んだままだ。剛三もなんだか、夢が心配になった。
 日ごとに心配になってきた。孫のような歳のすわるが大きくなって流鏑馬をやるようになり、足を骨折してしまうとは。
「放っておけん!」
 とは思っても未来のことを確かめるすべがない。
「こうなったら……」
 剛三は正座教室の玄関に、
「すわるくんを流鏑馬に誘わないで下さい」と張り紙し、弓道教室にも張り紙し、教室の面々にもひとりひとりに言い聞かせた。それから慣れないスマホを必死で覚え、「正座天才少年を流鏑馬に誘わないで下さい」と、書きこみした。
 スマホを見て気づいたすみれが、驚いた。
「まあ、何でしょう、これは!」
 そして、すわると剛三に事情を聴いた。すみれはいたって冷静に、
「いくら夢とはいえ、人生一寸先は闇。何が起こるかわかりません。流鏑馬でなくてもケガするかもしれません」
 すわるに向かって、
「あなたが弓道や流鏑馬をするのは禁じません。もしケガをしても防げるくらいの体力づくりに励みなさい。そして今から流鏑馬の練習も始めなさい。練習することが防御になります。そして正座の修行も忘れずにね」
「う……うん!」
「うんとはなんですかっ」
「はいっ、お母さん!」
 いざとなると、あやめお祖母ちゃんより、お母さんのすみれの方がしっかりしていることが剛三に分かった。

第 五 章 不知火婆ァの結論

 剛三は正座教室や弓道場に張った張り紙をはがし、道場の者にも、訂正して回った。ネットの発言を削除した。
 すみれも流鏑馬の鞍の上での座り方を研究するために、流鏑馬の練習場へ通い、研究を始めた。
「なんとか、うちの正座を取り入れて安全な馬の乗り方ができないものかしら」
 馬に乗ってみるしかわからないとあって、すみれまでもが流鏑馬を始めた。すわるは馬場で母親と出くわして驚いた。
「お母さんじゃないか! どうしたの?」
「私も今日から生徒よ。あなたをケガから守るための研究よ」
 すみれお母さんは、運動神経は良い方だが乗馬は初めてだ。それでも頑張るという。
 剛三はその心意気に打たれた。自分のように防御にまわるより、敵に打ち勝つ気でいるすみれに。
 皆、馬場に出て、乗馬しながら弓矢の練習を頑張っている。
 すわるも基本を教えてもらい、やっと乗馬に慣れてくる。

 ある日、白衣を着た男性がメガネを光らせて車を降りてきた。
「こちらに安斉すみれさんとおっしゃる方は?」
 気づいた剛三が、応対した。
「今日はあいにく、正座教室の方へ」
「そうですか。私は未来予測研究所の者です。すみれさんからご依頼をうけまして」
「未来予測研究所? そんなところがあるんですか」
「あるんですよ。困ったなあ。所長が今でなきゃダメだと言うし……」
「わしは、すみれの父親です」
 剛三はとっさに出まかせを言った。
「すみれの代わりに御用を承りましょう」
「では、来ていただけますか」
「お~~い、すわるくん、ちょっとおじさんとおでかけしよう!」
 すわるも何事かと馬を降りてきた。
 そのままふたりは未来研究所とやらの車に乗りこみ、車を走らせた。
(すみれさん、口では大きなことを言いながら、こんな研究所に頼んで、すわるくんの未来を調べてたんだな)
 研究所は森の奥の白亜の建物だった。
 玄関も広く、建物に行きつくまでに庭が広い。玄関は役所か大病院みたいだ。車を降りると迎えに来た人みたいに白衣の研究者が数人で迎えた。
 玄関から通されるまま、長い廊下を歩く。
 行きついた部屋には、たくさんの機械の光が点滅していた。すわるが心配そうに剛三の袖を引っぱった。
「ねえねえ、こんなとこで本当に未来が予測できるの?」
「研究所の研究の域を極めたところです。私たちの結論に、一パーセントも狂いはありません」
 迎えに来た研究員が、つんとして言った。
 彼は大きなパネルを指さし、
「ここに年表が表示されています。すみれさんのご依頼は、息子さんの十年後をお知りになりたいとのことでしたので、十年後の十月三日に、○○神社で流鏑馬の奉納が行われることをつきとめました。そしてそこに息子さんが出場することも」
 剛三が小声ですわるに、
「そりゃ、神社の奉納なら台風でも来ないかぎり行われるだろうし、予測できるよな」
「息子さんが予選を勝ち抜いて出場を決めたことも判明しております」
「ふうん」
「後は、うちの博士に説明を聞いて下さい」
 さらに奥に案内されると、観音開きの和風の扉が突然現れ、開かれた。そこには最新科学と正反対のような、神社の祭壇のようなものがあり、髪の毛をぼさぼさにした老婆が白い着物に真っ赤な袴をはいて座っていた。
「ようこそ。研究所長です」
「え、この白髪のばあさんがっ!」
 剛三が思わず叫ぶ。
「すみれさんのご依頼を受けた、不知火婆ァと申します」
(すみれさん、結局、こんないかがわしい占いばあさんに頼ったのか。しっかり者と思ってたが、やはり女だのう)
 すわるが、白髪のおばあちゃんが怖いのか剛三にくっついた。
 不知火婆ァとやらは、神主さんの振る白いビラビラのついた棒を振りながら、
「御霊よ、お教えたもれ、かの少年は○○年○月○日にて、○○神社境内にて無事に流鏑馬の奉納を成し遂げるやいかに? きえええええぇぇいっ!」
 大声で悲鳴のような声を上げた。
 はずむ息を押さえて、ビラビラのついた棒を持ったまま床に伸びてしまった。
「ど、どうでしたか?」
 剛三が、ごくりと喉を鳴らせて婆ァの答えを待った。
 婆ァは少しずつ起き上がり、
「……残念じゃが……。すみれ殿のご子息は落馬し、脚に重傷を負ってしまわれる」
「! ! !」
 剛三は目を飛び出させた。
「やはり! やはり、そうなってしまうのですかっ! なんとかそれを避けることはできませんのかっ」
「研究所の機械を駆使し、所長であるわしが御霊におうががいをたてたところ、こうとしか結果は出ぬ」
「そこをなんとかっ」
「運命は最初から決まっておるのじゃ。宇宙の黄金律は誰にも変えられぬ」
「そんな、そんな……」
 剛三は床に沈みこんだ。

第 六 章 雨の中の決戦

「あら、そう。不知火婆さんとこへ代わりに行って下さって、ご苦労様でした。私、本家で手が離せませんでしたの」
 結果を報告したところ、すみれは明るく受けた。
「剛三さん、そう落ちこまずに。落馬事件が本当かどうか確かめたかっただけです。私ね、いろいろ研究しましたの。乗馬の鞍のまたがり方に正座の長所をいれられないかとか。流鏑馬は全力疾走で走りますから、かなりのスピードです」
「はあ」
「いかに走っている馬から落ちないようにするかとか」
「はあ」
「正座で体幹を鍛えぬく! これしかないという結論に達しました」
 すみれの瞳は輝いている。
「私、正座をしていて、よけい誇りを持ちました。乗馬、しかもかなりスピードを出す流鏑馬にも基本は正座の体幹だと判りまして。ぐらぐらしていてはお話になりません。徹底的にすわるに正座を叩きこみますから、あなたは十年後の流鏑馬を見届けられるよう、長生きなさって。生活もきっちりなさって下さいね!」
「は……はいっ」
(そうだ! すわるくんを救うには、まずわしが長生きしなければ)
 剛三は根性を入れ直した。

 そして――。十年の月日は飛ぶように過ぎた。
 すわるは大学生になって早、二年生。体格もよく成長し、正座の優勝記録は十三回にまで達している。
 並行して流鏑馬を続け、ここ三年は神社の神事に出場し、好成績を残している。
 剛三はあれから独学で料理にはげみ、あやめさんに褒められるほどの腕になった。生活も乱れず、家はいつも整理整頓されている。すべては「すわるを見守るため」である。
 すみれも正座について研究を重ね、馬上でいかにしっかり体幹を保つか、自らすわるを指導した。
 やがて問題の当日。
 お天気はよく、馬の神事をひと目見ようという観客が押し寄せた。
 中秋で、もみじが色づきはじめ、境内は錦のように美しい。
 いよいよ本殿では神事が始まり、流鏑馬を行う一団も支度に余念がない。
「すわるくん、いよいよだね」
 流鏑馬の師匠が見に来た。
「はい!」
 すわるはすっかり凛々しい大学生になって、正座の家元であり、流鏑馬にも励む青年として大学でも注目を集めている。
「すわる、今日よ。十年前から注目してきた日は」
 すみれがやってきた。
「うん。母さん。今日という日のために正座も頑張ってきたよ。馬の晴嵐号もベストな調子だ。きっと大丈夫だ」
「その意気よ」
 観客がざわざわと観客席に座り始めていた。
 空がうっすら曇り、先ほどまでの青空が墨を流したようになってきた。
「女心と秋の空とは、よく言ったもんだ。降らなきゃいいが」
 剛三が思ったとたん、とうとう空からぽつりぽつり落ちてきた。みるみる間に土砂降りになる。観客席からは人が逃げ出して雨宿りできるところまで駆けていく。残ってビニールシートを被ってる人もいる。
 しばらく止むのを待った。
 しかし止む気配はない。雨天決行なるか? で関係者は集まって相談している。流鏑馬関係者もどっちに決まるのか、焦燥感が漂っている。馬にとってぬかるみは避けたい。
 すみれとあやめお祖母ちゃんも、神社の軒先に雨宿りして、決行になるかどうか待っていた。
 剛三もやってきて、
「あの、不知火婆さんの予知によると、すわるがケガをした競技は雨で中止にはならんはずだが」
「ええ、中止にはなりませんわ」
 すみれは胸を張って言った。
 やがて、「決行いたします」のアナウンスが流れ、観客も雨の中、ぞろぞろ戻り始めた。
 遠くに流鏑馬の人たちに混じっているすわるに目をやると、笑ってブイサインで答えてきた。
「すわる、体幹、正座の体幹を忘れずにね!」
「すわる、頑張りなさい!」
 すみれお母さんとあやめ婆さんが、祈るようにすわるに叫んだ。

 しとどに濡れる雨の中、競技は始まり―――。
 馬が一頭ずつ走り出す。的は四か所。百メートル置きに木製の板が設置してある。みごとに中れば拍手が起こる。
 すわるは三番目に馬を走らせた。顔面に雨が吹きつけてきて視界が悪い。こうなったら勘に頼るしかない。
 一射目、どうにか射抜く。二射目も射抜く。
 そして最後の三射目、弓に矢を射かける時、濡れたユガケで手がすべったと思った瞬間、鞍から身体がずれた。
「しまった!」
 しかし、すわるは歯を食いしばって体制を立てなおし――的を睨みつけた。矢を放つ―――。

 タ―――ン!
 矢は見事に的の板を真っ二つにし、板は雨の空間に舞い上がった。
 手綱を持ち直し、すわるは鮮やかにゴールした。
 馬と一体になった馬術の技、正座の稽古から身体に叩きこまれた体幹が、役に立ったのだ。
「すわるくん、よくやった! これで君が落馬する歴史は変わったぞ!」
「剛三さん、ありがとう!」
 すわるは爽やかに叫んだ。雨の音もようやく鎮まろうとしている。

 応援に来ていた正座教室の生徒さんたちも大きな拍手を送った。
「すわる。これで、十年間、暗雲のように垂れこめていた心配が晴れたわね」
 すみれは嬉し泣きして息子を待っていた。
 小やみになった雨の中、すわるが駆けてきた。
「正座がぼくに与えられた天命だって、やっと実感できたよ。お祖母ちゃん、母さん、ありがとう、剛三さんも」
「よかったなあ、すわるくん。あの小さかったすわるくんが立派になったな」
 剛三の鬼の眼にも涙が光った。
 剛三は神社の一室にあやめを案内し、正座して頭を下げた。
「あやめさん、是非、私と余生を共にお願いできませんか」
「余生だなんて。これからではないですか、私たち。そのお言葉お待ちしてましたわ」
 あやめは、にっこりして頷いた。

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