[40]本当に大切なこと


タイトル:本当に大切なこと
分類:電子書籍
発売日:2018/10/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:84
定価:200円+税

著者:江原 里奈
イラスト:江原 里奈

内容
郊外のアットホームなヨガ教室の新人インストラクター・牧田香織――彼女はハワイでヨガ留学をして資格を取ったものの、有名スクールに就職できなかったせいでモチベーションを失っている。
そんなある日、香織と同じ年の真壁立人が初心者クラスに入ってきた。体が固くてバランス感覚もない真壁だが、正座するポーズだけはなぜか抜群に美しい。
そんな完璧なまでの正座姿は、香織がある大切なことを思い出すきっかけになる――。

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本文

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1.新人インストラクターの憂鬱

 牧田香織は窓の外の青空を見上げ、小さく溜息をついた。
 ここは、電車の線路沿いにある建物。駅から数十メートルしか離れていない。十二時十五分発の各駅停車がゆっくりとスピードを上げ、彼女の前をのんびりと通り過ぎていく。
 その瞬間、香織の長い黒髪が埃っぽい風に靡いた。
 アーモンド形の澄んだ瞳を瞬かせ、その整った顔をしかめながら、彼女は窓をピシャリと閉める。
「……あーあ、こんなはずじゃなかったのになぁ」
 その不満の言葉は、電車の通過する音にかき消された。
 ここは、私鉄沿線のベッドタウンにあるヨガ教室だ。香織は半年前からここでヨガのインストラクターとして勤務している――が、早々に溜息続きの毎日を過ごしている。
「ねぇ、牧田さーん、午後イチで打ち合わせいいかしらー?」
「はーい」
 隣のオフィスから聞こえてきたオーナーの声に愛想良く返事をしたが、気持ちはどんどん沈んでいく一方だった。

 つい何年か前まで、香織は大手広告代理店勤務のOLだった。
 それがなぜヨガのインストラクターになったかと言うと、激務のせいで心身ともに病んでしまったのがきっかけだった。
 責任感が強く真面目な香織は、同期入社の中で最も評価され、昇進も早かった。周りの期待に応えようと頑張り過ぎたせいで、心も体もボロボロになってしまった。
 ところが、傷病休暇中に母に薦められて実家の近くのヨガ教室に通い始めると、あっという間に復調したのだ。
 そのとき、彼女は気づいた。それまで、どんなに自分のことをないがしろにしていたか、ということを……。
 彼女は職場に復帰することなく広告代理店を退職し、すぐにハワイでヨガ留学することにした。
 ――そこまでは、よかった。
 自分を救ってくれたヨガを極めること、国際的なヨガインストラクターの資格を取ることが、彼女にとってのたった一つの目標だったから。
 小さい頃から誰よりも頑張ってきた。能力も高いが、それ以上にプライドも人一倍高い香織はヨガスクールでも頑張った。目標のために頑張り続ける彼女の姿は、同じコースに参加した他の子たちにとっても良い刺激になっただろう。
 しかし、目標というものはクリアするモチベーションアップのために設定するものに過ぎず、無事にクリアしたからといってハッピーエンドを約束するものではない。現実というのは、楽しいことばかりではないのだ。
 目指す資格は取れたものの、インストラクターとしての実務経験がない彼女の就職活動は厳しいものだった。いきなりフリーで仕事は無理だから、まずは給料が安くてもいいからインストラクターとして経験を積みたい、と思った。
 ところが、そんな腰掛け気分が履歴書から滲み出ているのか、書類選考で落とされることがほとんどだ。面接や実技に進んでもことごとく落とされ続けるから、またメンタルの病が再発しそうになるほどつらい日々を過ごした。
 そんな苦しい状況の中でようやく決まったのが、この「吉田孝子ヨガ教室」。さっき隣室から声を掛けてきたのが、オーナーの吉田孝子さんである。
 でっぷりとした還暦間際の女性で、今は動きが緩やかな瞑想を中心としたコースを指導している。自分ができないハードな動きのクラスを若いインストラクターに任せていたが、そのインストラクターが別のスクールに転職することになったので代わりの人材を募集していた、ということだ。
 失業保険がそろそろ切れる頃だったから、香織は後先考えずにすぐにそこに就職を決めた。
 うれしくないことはなかったが、不満がまったくないわけではない。
 立地は私鉄の線路沿いにある住宅街、築三十年の古びたマンションのワンフロアに教室を構えているため、オーナーと同じくらいの年齢の主婦や、健康管理のために夫婦で通ってくる生徒がほとんどだ。自分が担当するクラスに、ミドルからシニア世代の生徒ばかりというのが香織を憂鬱にさせている原因の一つである。
 ヨガ留学で知り合ったクラスメートたちは、多少ヨガの実務経験があったりトレーナーとしてジムで働いたりした経験のある子ばかりだった。つまり、彼女たちにとってはスキルアップのための資格取得だったから、当然のように大手ヨガスクールに職を得た。
 SNSで彼女たちの近況を見ると、香織の憂鬱は途端に深くなってしまう。
『今度、「ヨギーニラブ」って雑誌のインストラクター特集に出ることになりました~! 見てね!』
『タレントのMAYOKOが私のクラスに来てくれてるのー! すごいでしょ!』
 など華々しいインストラクターライフを報告する文面を見ると、フツフツと怒りにも似た感情が湧いてくる。
(心狭いよね、私ってば……私も、みんなみたいにがんばらないと!)
 八つ当たりしたくなる気持ちを反省してそう思ってみたものの、この「吉田孝子ヨガ教室」で何をがんばればいいと言うのだろう?
 と思って、香織は自分がいる休憩室をぐるりと見回した。
 四畳半に使い古されたちゃぶ台、小汚い座布団。スタッフの更衣室を兼ねているので、ロッカーが三つ並んでいて、壁には一枚のポスター。
 この教室をオープンするときに刷ったものなのだろう。ポスターの色褪せが心寂しい感じがした。
 それらを眺めて、香織はモチベーションが上がらない環境に苦笑いする。
 そう……よく考えたら、何もがんばれるようなことはない。強いて言うなら、今感じている不満を押し殺してここにしぶとく居続けることだけ。それはインストラクターの資格を取ればバラ色の人生が待っている、と勘違いしていた香織にとっては何よりの苦行だった。
(私はお金のために、ヨガを教えているだけ。そう割り切って考えないとね……)
 と、香織は自分の置かれている環境を心の中で嘆いた。
 この教室に就職して以来、彼女の心は毎日理想と現実の落差に揺れ動いていた――。

 そんなある日、彼女が指導する初心者クラスに若い男性が体験レッスンにやってきた。
 平均年齢五十歳の「吉田孝子ヨガ教室」に、香織と同じ年――すなわち、二十九歳のサラリーマンが来るのは異例中の異例だった。
 都心には、いくらでも小じゃれたヨガスクールがある。若い男性なら、同じ年頃の女性との出会いを求めてそういう場所に行ったほうが楽しいんじゃないか……と、香織は訝しく思った。
 ここはお年寄りの交流の場とも言えるヨガ教室。二十代なんて、母親に連れられて入ってきた女子大生が一人いたけど、この前バイトが忙しいとかで辞めてしまった。若い男性はと言えば、彼一人しかいない――あとは三十代の主婦が二人いるくらいで、他はシニア世代である。
 レッスンの準備をしていた香織は、吉田先生に伴われてやってきた男性を瞬時にチェックした。
(どんな人かと思ったら……真面目そうじゃん。いやらしそうな人じゃなくてよかった!)
 と、香織は内心ホッとする。
 実はここに勤めて間もない頃に、体験レッスンの生徒にストーカーされかけたことがあった。吉田先生が警察に相談してくれて解決したが、その事件は香織にとってトラウマになっていた。
 目の前にいる男性は黒縁眼鏡がダサい感じだが、背は高いし顔立ちはよく見るとかなり端正。香織をストーカーしてきたキモオタ男と違って、どちらかというとマニアックな女子にすごくモテそうなルックスである。
 緊張しているのか、生真面目な面持ちで彼――真壁立人は香織に頭を下げた。
「先生、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ! 真壁さんは、ヨガは初めてなんですかー?」
「はい。お恥ずかしながら体が固くて……お手柔らかにお願いします」
「大丈夫ですよ。みなさん、初心者で始めた方ばかりですから」
 と営業スマイルをかました香織は、平均年齢が一歳は下がっただろう教室でレッスンを始めた。
 ウォーミングアップから始めて、バランスや柔軟性を高めるポーズを入れていく。
 今回は初心者の真壁氏のために、初心者クラスで難易度が高いと思われるポーズは省いた。その代わりに、なるべく座りポーズ、しかも柔軟性を高めるようなポーズを入れ込んでいく。
 筋肉の柔軟性を高めるポーズなら、人それぞれ関節の可動域や筋肉の状態が違う。教える側も、個体差ありきという意識でいるのでイライラしなくていい。
 ……が、バランスを要するポーズは、残念ながらみんなガタガタだ。アシスタントがいればともかく、指導者一人で全員分を矯正するのは不可能に近い。
 唯一、省くことができなかった立ち木のポーズ――やはり皆、苦戦しているようだ。
「はーい、ここはキープしてくださいねー。バランスはインナーマッスル使いますから、体の中心の軸を意識するようにー」
 インナーマッスルとは、筋トレでは鍛えることができない内臓に近い部分の筋肉である。ポーズを綺麗にきめるに強化する必要があるが、ヨガでは腹式呼吸が基本なので長く続けていれば自然と鍛えられる……ハズだ。
 ただ、ここは初心者クラスなのであまり多くは期待できない。
「グラグラしてる人は無理しないで、やり直していいですから!」
 と言ったそばから、香織の目の前で真壁氏が盛大にこけた。
 隣の生徒のヨガマットに倒れ込みそうな勢いに、レッスンを思わず中断する。
「大丈夫ですか!?」
「は、はいッ。スミマセン……!」
 赤面しながらも、真壁氏は懸命に香織の指導についていく。
(あーあ。初心者って、実は何回かやっているのに謙遜するエセ初心者と真の初心者がいるもんだけど、この人って本当に初心者だったのねぇ……)
 レッスン終盤、ヨガの最後の屍のポーズで静まりかえった教室。胸よりもお腹の出っ張りが目立つおばちゃんたちの寝姿を眺めながら、心の隅で香織はそんなことを思っていた。
 しかし、香織にとっても生徒は一人でも多いほうがいい。こんな小さなヨガ教室では一人二人生徒が減っただけで給料が出ない可能性もあるんだから。
 そんなわけで、レッスン終了後に真壁氏にいち早く近づいてフォローするのを忘れなかった。
「真壁さん、お疲れさまでした。どうでした? 少しはヨガ、楽しめました?」
「は、はい。いろいろ大変でしたけど……最後はリラックスできました。でも……」
 がっくりと肩を落とした様子の真壁氏は、消え入りそうな声で続けた。
「……すみません、先生のご指導を邪魔するみたいに、無様にコケてしまって」
「あー、バランスは初めての方にとっては大変ですよ。でも、慣れれば少しずつ上手になってきますから心配しないでください」
「そ、そうですか!? じゃあ、これからもがんばってみます!」
 一気に晴れ渡った表情で、真壁氏はお辞儀をして去っていった。
(……って、続けるつもりなのかなぁ。ぶっちゃけ、いいところないんだけど……でも、それは他のメンツもそうか)
 と、香織は自分の受け持つ生徒たちのレベルを思い返して苦笑するしかなかった。

 レッスンが中盤に差し掛かる頃、いつも正座のポーズを入れることにしている。
 シニアが多いからできるだろうと思っていたが、意外とできない人も多い。戦後生まれで、和室で食事をする習慣がない家庭に育った人もいるからだろう。
 だから、初心者の中の初心者である真壁氏の体験レッスン時はわざと抜いていたが、二回目のレッスンからは特別扱いするのをやめた。
(いいよね、別に気をつかわなくても!)
 と、神妙な顔をしてポーズを取り続ける彼をチラッと見て思った。
「じゃあ、次はマットの上に正座してください。正座の姿勢がつらい人や、膝が痛い人は片足を前に出してもいいですよー」
 そう言いながら生徒たちの正座姿を見回した香織は、教室に漂うある違和感に気づく。
 いつもは、それまでのポーズで疲れて背筋を丸めがちなお年寄りばかりが目立っていた。
 たぶん、正座は休憩タイムだと思ってナメているんだろう。きちんとやると大変なポーズなのに、クラスに漂う空気がまったりしている。
 ご老人だから正座ができるかと言えばそうでもなくて、みんな正座せずに片足ずつやっている。
 ――それもそのはず。正座の姿勢をとってから、上体を後ろに倒すダイヤモンドのポーズに入るのをみんな知っている。
 それなら正座じゃなくて楽なほうがいいと思って、わざと正座をしないで負担の少ない姿勢を最初からとっているのだ。
(ちょっとー、ダイヤモンドにおびえる気持ちはわかるけど、正座も大事なんだよー)
 と、香織の眉間にシワが寄る。
(正座きちんとやってから、足崩してダイヤモンドやってー!って、いつも言ってたのになぁ)
 それも毎度のことだから言うのが面倒になって、言わなくなってしまった。もう勝手にすればいい、と投げやりな気分になってしまう。
 モチベーション下がりまくりの香織だが、今日はクラスの空気が何かが違っている気がした。
 その違和感の源は、部屋の後方にあった。
「あ……!」
 振り向いた瞬間、香織は小さく声を出した。
 なぜなら、真壁氏が……バランスも柔軟性もセンスのない、初心者中の初心者の真壁氏が、何とも美しい正座をしていたからだ!
(なにッ、スゴイじゃん!)
 香織は自分の立場をすっかり忘れ、一瞬見惚れていた。
 背筋がピンと伸び、瞳は静かに伏せられている。ゆったりと太腿の上に添えられた両手や、凛とした佇まい――まるで、後光が差すかのような神々しさだ。
 ヨガに適した室温ということで、エアコンの温度は高めに設定してある。それにもかかわらず、彼の美しい姿勢を見た瞬間、美しい高原に吹く爽やかな風を感じた気がした。
(すばらしい……これこそ、完璧な正座だわ!)
 香織は、それまで真壁氏のことを小馬鹿にしていた自分を殴りたい気持ちでいっぱいになった。シニア層でも避けたがる正座を、自分と同年代の彼がここまできちんとしていることが驚きだ。
 その時の彼の正座姿は彼女の記憶に刻みつけられ、鮮やかな残像として長く心に留まることになる――。

2.日曜日の公園にて

 吉田孝子ヨガ教室は、住宅街にある関係で日曜日は休校日になっている。
 平日の方が、お年寄りや主婦たちにとって通いやすい。吉田先生がまだ五十代前半の頃は、日曜もレッスンをしたり若いインストラクター向けのセミナーを企画したりしていたらしいが、今は年も年なので日曜は完全にクローズすることにしたようだ。
 それは香織にとって、このヨガ教室で働く少ないメリットの一つだった。
 ヨガに限らずスポーツ系のインストラクターは、土日祝日には絶対休めないと言われている。
 生徒のほとんどが平日忙しく働く会社員だから、平日の夜と休みの日はよほどのことがない限りシフトに入らねばならない。だから、必然的に平日休みと相場が決まっている。
 週に一日だけの休み――大切な日曜日には部屋の掃除と洗濯物をして、午後は近くの公園に行くのが今の彼女のささやかな楽しみだ。
 せっかく日曜が休みだから、有名インストラクターのセミナーに通ってモチベーションを維持したいところだが、今の自分の境遇を考えるとそこまで出費するのはためらわれる。
(自己投資するにも、あそこの給料じゃ無理よねー……)
 公園のベンチに腰掛けてぼんやりしながら、そう思った。
 東京で一人暮らしをするのには、お金が掛かる。広告代理店にいた頃に住んでいた部屋よりも手狭だが、住宅街として人気があるエリアに暮らしているから家賃もそこまで安くはならない。
 それに加えて大学時代に借りた奨学金やハワイ留学で新たにできたローン返済額を引いていくと、手元に残る金などほとんどない。
(ハワイ、楽しかったよなー……もう一度、戻りたいなー)
 と、香織は昔を思い返した。
 ハワイでヨガを勉強した日々が、とてつもなく懐かしかった。あの頃は人間らしい生活を手に入れるため、国際資格を取るために必死で頑張った。
 ――しかし、今はどうだろう?
 確かに残業という残業もないし、広告代理店にいたときのような心身に影響が出るような激しいストレスはない。
 毎日のようにヨガをしているからだろう。以前に比べて健康になったと思う。その点は香織もよく理解しているし、今の境遇に感謝している。
 ただ、あの頃に思い描いていた理想と現実はあまりにかけ離れている。そのせいで、今の自分をしあわせだとは思えない。
(しあわせな人なんて、大キライ)
 と思いながら、香織は目の前をギャーギャー騒ぎながら走る子どもをねめつけた。
 その子どもばかりではない。目の前を通り過ぎる人たちが、自分よりずっと充実した人生を送っているように見える。
 住宅街にある公園だから、休日は家族連れが多い。しあわせそうな家族を見るとわけもなくイライラしてしまう……それに気づくとイヤな気分になった。
 子どもが奇声を発し続け、母親がたしなめている様子を生ぬるく見守りながら溜息をつく。そんな穏やかな公園の中で、ストイックに一人走っている男性ランナーに視線がいった。
 自分以外にもお一人様がいると、なんだか心強い気がする。
(そうよ……! 家族づれじゃなくて、お一人様もいるわ!)
 と、少しばかりホッとする。
 別にそのランナーが家に帰れば、妻と子がいたとしても構わない。香織にとって重要なのは、とにかく一人で公園にいるという事実だけだ。
(この世の中には、一生結婚しない人だってたくさんいる! お一人様は私だけじゃないもん!)
 そう思って、向こうから来る男性ランナーを見つめた。
 背が高くて均整が取れた体型だが、走り方はいささかモッサリしている。サングラスを掛けているけど、顔立ちが整っていることは容易に想像できた。
(んー? この人、誰かに似てる……?)
 瞬時に、あの新しく入ってきた真壁氏のことが脳裏に浮かんだ。端正な横顔と、やたらとすっと背筋を伸ばした美しい正座姿が……。
 そのランナーの姿は、なんだか彼と似通っている気がした。
(残念な人って、この世の中にけっこういるのかなぁ……?)
 と、香織は思った。
 その心の声が届いたのだろうか――そのランナーは、走るのを中断して立ち止まった。そして、バックパックからミネラルウォーターのボトルを取り出す。
(やっぱ、似てるよなぁ。あの人に……)
 穴が開くほど凝視したからか、ランナーのほうも香織のいるベンチのほうに視線を移した。
 その瞬間、ランナーは「あっ!」と声を漏らし、手にしていたボトルを地面に落とす。中に入っていた水が、後から後から地面に染み出してあっと言う間にボトルは空になる。
(あーあ……もしかして、私のせい?)
 彼は焦って足下の落下物を拾い上げてから、満面の笑みを浮かべながら香織のほうに近づいてきた。
「こんにちは、牧田先生……!」
 『先生』と言われて、ようやく気がついた。
 そう――その誰かによく似たランナーは、実はその誰かさん本人だった。
 サングラスを外した目が木漏れ陽に眩しそうに眇められる。今の真壁氏は、長身痩躯で爽やかなスポーツマン以外の何者でもなかった。もしかしたら、いつもかけている黒縁眼鏡は彼の魅力を九割減させているのかもしれない……。
(この人、こんなにカッコよかったっけ!?)
 思わぬ自分の教え子のイケメンぶりに、男嫌いの香織もすっかり見惚れてしまった。

 相手を動揺させ、飲んでいた飲み物をこぼさせてしまった――。
 ありえない痛恨のミスを犯した香織は、すぐ近くの自販機にダッシュして買ってきた水を真壁氏に手渡した。
「す、すみません! わざわざ買ってきていただいちゃって!」
 ベンチに座っていた真壁氏は、恐縮したように頭をペコリと下げた。
 しかし、そもそも自分の方が悪いわけだから香織も負けず劣らず恐縮していた。
「いえ、私のほうこそすみませんでした! ランニングの邪魔して! しかも、水こぼさせちゃって、大事な水分補給の邪魔までしちゃって……!」
「いえいえ、水こぼしたのは僕ですし。次回のレッスンのときに、水のお金はお返ししますから……たまたま、小銭入れ持ってくるの忘れちゃったからアレですけど」
「そんなのいいですよ、水くらい」
「それじゃあ、申し訳ないです」
「お金は要らないです。これからも、私のヨガのクラス続けてくだされば!」
「そんな! それじゃあ、僕の気持ちが……」
 真壁氏の謙虚なところは、人としてとてつもない美徳である。
 そうは思うが、この会話はいつまで経っても終わりが見えない。話も先に続かず、堂々巡りである。
 若干呆れた香織だったが、真壁氏のことは初めて会ったときから嫌いではなかった。
 むしろ、どうして彼がヨガを始めたのか……なぜ、あんなにも正座だけがうまいのか、気になって仕方なかった。
 そこで、香織は提案した。
「わかりました。じゃあ、私の暇つぶしにつきあってください」
「暇つぶし?」
「一人でぼーっとしてるのって、けっこうつまらないんですよ。だからといって、ランニングするほどスタミナはないんで……一時間くらい、公園の中を散歩したいのですが」
「散歩……?」
「もー、にぶいですね、真壁さんってば! せっかくだから、私と一緒に歩きましょうって言ってるんですよー!」
 真壁氏は少し驚いたようだが、反対するわけもなかった。
「わ、わかりました……! どこに行きましょう?」
「池のほうに行きませんか?」
 二人はベンチから立ち上がり、公園の北側にある池を目指して歩き始めた。

 天気がいいからか、池の周りはさっきいた場所よりも混雑していた。
 特に、香織が大嫌いな家族連れやカップルがたくさんいる。それを知っているから、一人でいるときはそこにいくのを避けていたのだ。
 今日は隣に真壁氏がいるせいで、さほど疎外感を覚えずにいられるけれど、お一人様にとってこういうにぎやかな場所というのは孤独感が百倍増しになってとてつもなく寂しいものだ。
「こっちまで来たの、すごく久しぶりです。いつも気後れしちゃって避けてるルートなんですよ」
「えっ」
 彼の言葉に、香織ははっとする。
 自分と同じ気持ちを抱いている人がすぐ隣にいる。それが自分のヨガクラスに通い始めたばかりの生徒だ、ということが何だか意外だ。
「へー、奇遇ですね。私も騒がしいのが苦手で……ここまで、一人では来るなんてなかなかないですね。でも、今日は不思議に気にならないなぁ」
「そうですね。不思議ですよね!」
 はにかんだように笑う真壁氏は、照れたように笑った。
 ランニングしていたときはサングラスをかけていたが、今はいつもの黒縁眼鏡に付け替えている。そのせいなのか、ランニングルックとのギャップがなんとも微笑ましい。
(この人って、見た目はオタクっぽいけど、中身は意外とさわやかなんだよね)
 それは、かなりプラス評価だった。
 気味悪いストーカー男につきまとわれた悪夢がトラウマになって、ここ最近は恋愛などする気にもならなかった香織は男性を見ると拒絶反応が起きることもあったから。満員電車の中で、見知らぬサラリーマンが横にいるのは気持ち悪いのに、今は隣に真壁氏がいてもイヤな感じはまったくなかった。
 真壁氏からは、男性が持つギラギラしたものをほとんど感じない……から、なのかもしれない。
 一緒に歩いていても全然気詰まりにならないのが不思議である。
(もしかして、この人っていま流行の草食男子なのかなぁ?)
 彼の横顔を盗み見ながら、彼女は思わずそう分析してみた。
 こんな風に男性に興味を惹かれ、あれこれと観察するなんて久しぶりだった。
 恋人がいたことはあるけれど、仕事が忙しくて別れた。それ以降は、ありえないほど忙しかったのと、体調が悪かったり夢を追いかけたりしていたので誰かを好きになるどころじゃなかった。
 彼に感じている興味が恋愛と同質のものかはわからないけれど、知らないうちに真壁氏に尋ねたいことが増えていく。
 その中で、一番気になることは「正座」の件に他ならない。
 楽しそうに白鳥を模したボートに乗る家族連れを眺めながら、香織は彼に聞いてみた。
「真壁さんって、なんで正座が得意なんですか?」
「……えッ、正座ですか?」
「最初から気になっていたんですよ。真壁さん、ヨガは初心者だっておっしゃってたじゃないですか。初心者の方で、正座がきちんとできる人って見たことなくて」
「あー、そういうことですか!」
 と、真壁氏はゆっくりと頷いた。
「実は父の影響で、子どもの頃から剣道をやっていたんです。中学受験の時期に視力が悪化して、それ以降はやめてしまったんですが」
「あぁ、剣道を! だから、正座が苦にならないんですね」
「ええ。礼儀に関しては、うるさくしつけられました。今にしてみればよかったですけどね……子どもの頃に習慣ができているので、今でも何とかできるんでしょう」
「そうでしたか」
「……それを、牧田先生に褒めていただけるなんて光栄だなぁ」
 真壁氏は香織のほうを見ると、頬を赤らめて照れ笑いする。
 そして、こう付け加えた。
「実は、今の会社に転職してから仕事が忙しくて……仕事時間中ずっとしゃべらずにパソコンの画面ばかり見ているんです。システムエンジニアなんで仕方ないんですけどね。それもあって、頭痛がひどくて眠れないことがあったんです」
「まぁ、それはおつらいでしょうに!」
「そうなんです。僕がヨガをはじめたのも、心と体のケアのためでした。ただ、先生のレッスンで正座がヨガにあるって知ってからは、寝る前に心を落ち着けるためにするようになったんです。正座しながら瞑想すると気分がリセットされて、前より寝つきが良くなったんですよ」
 その言葉に、香織はハッとした。
 彼の正座姿が気になったのは、昔の自分を思い出すから……だったのかもしれない。
 香織も、過去に正座によって心を救われた経験があった。
 彼女の脳裏に、昔の記憶が甦ってきた――広告代理店で勤務していたときのこと、そしてヨガと出会って少しずつ自分を取り戻したときのこと。
 彼の言葉に黙って頷きながら、香織は重苦しい過去へと心を馳せていった――。

3.過去への逍遥

 午前五時のオフィス街――一人の若いOLが、憔悴した面持ちで地下鉄の入口に向かっていた。
 夜はデスクで仕事をし、始発で家に帰宅。シャワーを浴びて服を着替え、また午前十時にオフィスに戻ってくる。
 そんな不健康な生活パターンになって、すでに一年が経とうとしている。
(このまま私、心臓発作とかで死んじゃえばいいのに……そうしたら、会社行かなくて済むから)
 と、医療関係者が聞いたら二十四時間ぶっつづけで説教されそうなことを考えながら、彼女は眠気をこらえて無人の改札を通り過ぎる。
 ホームに降りると、彼女の先客の酔っ払いや、家に帰宅できなかった同業者でベンチは埋め尽くされていた。早々に居眠りする彼らをうらやましそうに一瞥し、彼女は駅名のプレートがかかっている太い柱にもたれかかった。
「……つかれたー……」
 呟いて、小さな欠伸をする。
 そんな彼女は、誰もが知る大手広告代理店のエリートOL。大学を卒業してその会社に入社したのは、五年前のことだ。
 業界が業界だから、新入社員の頃から忙しかった。残業は多かったけど、毎日日付が変わる前には帰宅できたから当時はまだ恵まれていた。
 多忙な業界だと覚悟していた。コネも何もない彼女が何千人のライバルを蹴落として入社したのだから、予想以上に大変でも弱音を吐いたらいけないと思った。
 ただ、その時はまだよかった――仕事の愚痴を聞いてくれるやさしい恋人もいたから、つらいけど頑張ろうと思えた。
 そんな彼女に転機がやってきたのは、入社して四年目の頃のこと。
 昇級と同時に、彼女は社内でも有数のプロジェクトを任された。そのせいで平日はろくに睡眠時間を取れず、土日は死んだように眠るだけ、というプライベートがない日々が続いた。
 そんな生活も三ヶ月が経つ頃、彼氏からの連絡がぷっつりと途切れた。
『よかった、面倒が一つ減った……』
 その時の彼女にとって、失恋はそんなものでしかなかった。
 あまりに仕事中心の生活をしていたから、相手を疎かにしていた。そのせいで最近は、たまに会っても喧嘩ばかり。
 会社ばかりか彼氏の存在さえも、多忙な彼女にとってはストレスだったらしい。恋愛をするには、心の余裕がないと無理だとそのとき悟った。
 その後しばらくして、別れた彼氏は彼女の友人と付き合い始めた。それを知ったときは、正直死にたくなった。
 しかし、そのときの彼女にどうすることができただろう?
(仕方ないわ……私と付き合ってても何もしてあげられないから、これでよかったんだ……)
 それは、すっかり忘れていたはずの心の傷。でも、たまにぼんやりする時間があると途端に彼女を苦しめる。
 目尻に溢れる滴を指先で拭って、彼女は眠そうな乗客たちと共に始発電車に乗り込んだ。

『若いから、多少の無理をしても何とかなる』
 彼女は、周りからそう思われていたらしい。彼女が社内でも重要と言われるプロジェクトのリーダーに抜擢されたのは、三十代後半の主任がプレッシャーで病んで出社しなくなったせいだ。
 確かに彼女はそれなりの野心を持っていたから、喜んで彼の代わりを引き受けた。
 緊急時のリーダー代理とは言え、プロジェクト自体が成功すれば高い評価につながる。同年代でも、リーダー職の経験がある者はまだいない。そのことも、彼女の野望に火を点けた。
(女でもがんばればできるってことを、みんなに見せつけてやらなきゃ!)
 以前から、そう思っていた。
 それは入社直後の飲み会で、同期の男のこんな発言を聞いたからだ。
「残業大変かもしれないけどさー、女は将来有望な男つかまえて結婚すればこんな会社辞められるじゃん? 仕事なんか程々にしてさー、金持ちとの合コンとかいけばいいでしょ。そのほうが絶対楽だって」
 酔っ払いは大概失礼なものだが、アルコールに弱い彼女がシラフ同然だったからその男は恨みを買った。今にして思うと仕事が大変な同期への慰めだったのかもしれないが、それは当時の彼女にとってはありえないほどの屈辱だった。
 彼女は第一志望の有名国立大に落ちて、滑り止めの私大に進学した。
 その国立大出身者が、広告代理店の同期にたくさんいる。気持ち悪くなるほど、うじゃうじゃいるのが気に障った。
 失礼な酔っ払いはそのうちの一人だったから、彼女は密かにリベンジを誓った。
(私、頑張って出世してやるわ! あんなこと言ったのをいつか後悔させてやるから、覚悟しておいてッ!)
 そして、その機会は天から与えられた。だから、どんなに大変な責務だとしても彼女がリーダー職を引き受けないわけがなかった。

 ――ところが、物事は順風満帆には進まない。
 リーダーになってから彼女の仕事は激増して、家に帰れなくなった。部下の無能さにイライラして、フォローしなければならないことが多くなると、誰かれかまわず周りに当たり散らすようになった。
 彼女がストレスのせいでおかしくなっているのは、誰から見ても明白だった。
 心理面での異変は、体調の悪化を引き起こした。
 それまでは、どんなに忙しくても帰宅してベッドに入れば死んだように眠れた。なのに今は、リーダーの重責のせいか、たまの休みにも仕事のことばかりを考えて寝つけなくなった。
 食欲もないし、睡眠欲さえも湧かない。それが長く続けば体力が失われ、気力もなくなる。
 出社するのが億劫になり、がんばっても電車の揺れで目眩が起きてフラフラしてしまう。
 カフェインを大量摂取して仕事を続けていた彼女だったが、無理がたたったのかついに会社で倒れてしまう――彼女は、近くの病院に救急搬送された。
 北関東にいた母が駆けつけたが、あまりにやつれた娘の姿を見て言葉を失った。
「……もう、家に帰っておいでよ。あんた、死人みたいな顔してるよ」
「死人……」
「お医者様が、睡眠不足と栄養失調だって……いったい、何やってるのよ。しばらく仕事しないで、ゆっくり一週間くらい休みなさいって言ってたよ」
「ゆっくりって……無理よ。私、リーダーなのよ……!」
 来月には、リーダーとして初仕事となるCMがオンエアされる。作品が世に出るということは、何事にも代えがたい喜びだというのに――。
 大粒の涙を流す彼女に、母は眉をひそめた。
「あんたね……仕事が好きなのはいいことだけど、このままじゃあ本当に死んじまうよ。あんたの上長も、無理させすぎたって頭下げてたからさ」
 母が心配してくれるのは、とてもありがたかった。
 しかし、彼女にとって今の仕事はすべてだ。自分の健康や束の間の休息よりも、ずっとずっと大事なものだった。
 それを涙ながらに母と主治医に訴えた結果、なんとか入院せずに済ませることができた。母がしばらく彼女のマンションに寝泊まりして、食事や身の回りの世話をすると約束したからだ。
 その代わり、主治医に睡眠導入剤と精神安定剤の服用を約束させられた。
(こんなの、必要ないのに……私、どこもおかしくないんだから!)
 彼女自身は、元気なつもりだったからメンタル系の処方箋を出されたのがひどく屈辱的に思えた。
 それでも、長期入院してリーダーとして成功を手にするチャンスを失うよりはマシ――彼女はそう思っていた。

 何事もなかったかのように、彼女は翌日出社した。昨晩は医者に出してもらった薬のお陰か、久しぶりに熟睡できたので少しは調子がよくなった気がした。
 ただ、薬の副作用なのか頭が妙にすっきりしない。こんなときはカフェインの力を借りるしかあるまい。彼女は席を立って、給湯室にコーヒーを作りに行った。
「なーんで、復活しちゃったのかねー」
 女性の話し声が聞こえた。
 彼女のチームの部下の女性が、同じフロアの女性と話しているところだ。それに気づいて、彼女は急いで足を止めた。
「そうだよね。けっこうしぶといよね」
「あの人が休み入ったら、隣のチームの松岡さんがリーダーになるってとこまで、話が進んでいたのにねー」
「ほんと残念だよ。松岡先輩なら穏やかだから、私も気持ちよく仕事できるのになー」
「由美子もめっちゃあの人のこと嫌ってるよね。まー、あんなに怒られまくってたら仕方ないか」
「そうだよ! だから女のリーダーなんてろくでもないっていうのよ。もう、モチベーションゼロだよ。こっちは一生懸命やってんのにさー! ヒステリー、いーかげんにしてほしいよねー」
「だよねー。松岡先輩、早くきてくれないかなー」
「だめじゃーん、それじゃあ、あの人にくるなって言ってるようなもんじゃん」
「あはは、我ながらめっちゃ失言ー。誰にも聞かれてないかなー」
 部下の女性たちが給湯室の入口を見やった頃には、彼女はそのすぐ横にある非常階段で階下へと降りようとしていた。
 その表情はうつろで、生気はまるでない――。
 彼女本人にも、今から自分がどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか全然わからなかった。
「アッ……!」
 昨夜の睡眠薬のせいで注意力散漫になっているのか、階段から滑り落ちて尻餅をついてしまった。
 踊り場までの二段だけのところだから、大した外傷はなかった。ぶつけた臀部がヒリヒリする程度である。
 それでも、痛みに彼女は涙を流した。体の痛みはさほどでもないが、心のほうがずっと痛かった。
 あまりに悔しくて、彼女は手にしていたマグカップを壁に叩きつけた。
 陶器が壊れる、ガシャンという騒音。
「あ、うぅ……」
 非常階段にはたまたま誰もいなかったので、その音が消えた後は彼女の泣き声だけが空しく響きわたった――。

 彼女が再び倒れたのは、その夜のこと。
 翌日いつもどおり出社しようとした香織だが、今度こそ母に止められて自宅療養することになった。
 リーダーとしての重責と過酷な勤務……まだ二十代後半の彼女がそれに堪え続けて、初めて彼女がリーダーとして手掛けたプロジェクトは完成に近づいていた。
『牧田さんのがんばりにはとても感謝しているし、会社側としてもとても評価しています。調子が戻ったら、ぜひまた一緒に仕事しようって伝えてください』
 と、上司は言ってくれたらしい。
 ただ、彼女の心は少しも晴れなかった。あの日、給湯室で同僚からの陰口を聞いて、職場の人間のことなど誰一人信用できなくなっていた。
 当然じゃないか――彼女たちの失敗をフォローしてあげたのは、香織だった。そのストレスのせいで、体調が悪くなったっていうのに。
(そのうえ、あんな風に言われるなんて……!)
 あの日のことを思い返すだけで、香織の表情は険しくなった。
 たぶんどれだけ時間が経とうとも、彼女が感じた悔しさがなくなることはないだろう。

4.人生の夜明け

 実家の周りは、のどかな風景が広がっている。
 高校に入るまでは、そういう自然豊かな環境に生まれ育ったことがコンプレックスだった。東京に行くことが彼女にとって唯一の願いであり、そのために勉強を死ぬほど頑張った。
 そのお陰でいつも成績は上位だったし、頑張れば頑張るほど素晴らしい未来がやってくると信じてやまなかった。
 テレビのドラマにでてくるようなステキなオフィスで働いて、CMに出てくるような北欧家具に囲まれた都心のマンションでオシャレな一人暮らし――それが、子どもの頃からの彼女の夢だ。
 第一志望じゃないにしても、東京の大学に進学したこと。そして、その後に誰もが羨むような大手広告代理店に就職したことで、幼い頃からの夢は一気に現実になった。
 ところが、現実というのはそれほどいいものではない。
 奨学金の返済があるのと都会で一人暮らしをしているせいで、貯金はあまり増えなかった。残業をたくさんしている割に収入が増えないのは、会社側が労基所対策で彼女の残業時間を毎月四十時間以下に調整しているためだ。
 体調面と心理的負担が大き過ぎることから、主治医の勧めで有給をすべて消化したあとも彼女はしばらく休養を続けることになった。
 この緑の多い環境でのんびりすればいいのに、来る日も来る日も鬱々としていた。会社から離れてしまうと社会から置いてきぼりくらったみたいに不安になるし、これまでの会社への不満もフツフツと湧き上がってくる。
(私……なんのために、がんばってきたんだろう)
 惚けたように、軒先に座っていた彼女はぼんやりと空を見上げた。
(同じチームの子に嫌われて、サービス残業ばっかして体こわして……ホント、なにやってたんだろう?)
 そう思った途端に、ポロリと涙が零れ落ちた。
 これまでも悔しくてたくさん泣いた。涙が枯れたと思ったけれど、つらいことを忘れられないうちは涙が出ないっていうことはないのだ。
 庭の土に小さな水たまりができそうな勢いで泣いていた彼女は、背後で襖が開く気配にびくっと震えた。
「……なにやってるの、香織! こっちにいらっしゃいよ!」
 その声に、香織はセーターの袖で涙を拭いて振り向いた。
 母は六畳間に小型の電気ポットとお茶の道具を運び込んでいるところだった。
「また、お茶のお稽古? ホント、よくやるよねー」
 呆れたように、香織はその様子を見守る。
 彼女が知らない間に母は茶道を習い始めたようで、この家に戻ってからは茶道のお客様役をさせられるのが日課になっていた。
 和菓子とお抹茶は嫌いじゃないが、正直言って正座がきつかった。この家にあった和室は長らく開かずの間だったし、ダイニングは洋間なので香織は正座する習慣がなかった。
 ――なのに、いったい何の風の吹き回しだろう?
 母は、イヤそうな顔でお懐紙と黒文字を用意して正座をする娘に微笑み掛けた。
「たまにはいいでしょう。こんな風に正座をして、お茶をいただくのって背筋が伸びる感じがして」
「……そうね。たまにはっていうか、ほとんど毎日だけどね」
 香織は適当に話を合わせて、母のお点前を見守った。
 まだ初歩の初歩だから、柄杓さえも使わない高校生みたいな盆略点前だ。
 だけど、母が茶道具に向き合う表情は真剣そのもの。袱紗さばきも覚束ないし、お茶碗の拭き方もなんだかアヤシイけれど、がんばって点ててくれるお茶をいただくと妙にあたたかい気分になった。
 お茶のお客様役をやらされるせいで、最低限の茶道の流れは香織も学んだ。ネットであがっているお点前の動画と学校茶道の教材のテキストで予習して、母のやっている手順が違うと指摘してやった。
 お茶を飲み終わり、にじって茶碗を返すと母が尋ねてきた。
「どうだった?」
「お抹茶の泡立ち、よくなったかも。良い感じじゃん」
「そう、よかった」
 母はうれしそうにそう言うと、茶碗を右手で引き入れて清め始めた。
 最初に比べたら、動きがなめらかになった気がする。
 茶道教室に通い始めたのは、いつ頃だったろう? 
 たしか、昨年の正月に帰省した直後だったはずだ。自分が仕事に明け暮れて死にそうな顔をしているというのに、専業主婦は呑気なもんだとイラついたのを香織はよく覚えている。
 今年の正月に茶を点ててもらったときは、あまりにトロくて足がしびれて死にそうだったが、今日は意外と平気なのに気がついた。
(お母さんが上達したのかしら? それとも、私も正座に耐性ができたのかなぁ?)
 首を傾げる彼女は、袱紗で棗を清めている母に聞いてみた。
「そういえば……なんで、お茶なんて始めようと思ったの?」
「落ち着くじゃない。正座をして、お茶をいただくと」
「まあ、そりゃあそうだけど」
 母は袱紗を左手に乗せたままで、一息ついた。
「実はね、おばあちゃんが茶道をやっていたのよ」
「そうなんだ。知らなかった」
 物心ついたときに既に他界していたので、祖母の話を聞くことはほとんどなかった。香織が知る祖母は色褪せた写真の中で微笑む姿だけ。
「すっごく昔、たぶん小学校の頃だよ。おかあさん、同級生の女の子から仲間はずれにされたことがあってね……今のイジメみたいな陰湿なもんじゃないけどさ。そのときは、とにかくつらくてね……生まれてこなきゃよかったな、って思いつめていた時期があったんだよ」
「お母さん!」
「そんなとき、理由を聞かずにおばあちゃんがお茶を点ててくれてね……とびきりおいしい主菓子と、ちょっとほろ苦いお茶。正座して姿勢を正して……そんな静かな時間を過ごしたのよ」
 遠い目をしながら、母は続ける。
「お茶ってさ、ずっと昔からあるものでしょう? その時代の人なんて、戦争があったり作物が育たなくて飢えて死んだりも日常茶飯事じゃない。それ以外にも、いろいろとつらいことがあったんだろうなー、私なんてその時代の人に比べたら恵まれた生活してるんだなー……って思ったらね、不思議に悟っちゃってさ。友人とのいざこざなんて、バカみたいにちっちゃいことに思えてきたんだよね」
「……そう、なんだ」
「お母さんずっと結婚して子育てしてお勤めしたことないからさ、あんたが背負ってるものとかよく知らないよ。ただ、東京でつらい思いをしたってことだけは、その顔見てりゃあ理解できるさ。これでも腹痛めて産んだ子どもだし」
「……」
「あんた、昔からいい子だったよね。お母さんの子だなんて思えないくらい頭も良かった。いつも、勉強頑張ってさ。でも、会社行くときのあんた、世の中の不幸をぜんぶ背中にしょってるようなカオしてたよ。会社で死にそうな目に合うために、これまで一生懸命努力してきたわけじゃないだろ?」
「……そりゃ、そうだけど」
「逃げるが勝ちって言うじゃない。我慢して、ストレス溜めて、体こわすくらいなら逃げ続けていいんだよ」
「母さん……逃げるって……!」
「やだねぇ、物のたとえだよ。香織もやりたいことがあれば今のうちにやればいいじゃない。何か新しいことを始めるっていいもんだよ。お母さんもこんな年になってお茶習い始めたけど、けっこう気晴らしになってるからさ。ずっとやりたかったこととか、忙しくてなかなかできなかったこと、香織にもあるんじゃないの?」
「うーん……やりたかったこと、か……」
 香織は床の間の掛け軸を見ながら、暫し考え込んだ。
 典型的な仕事人間、会社と家の往復という生活を送っていた香織だ。すぐにそういうものを思いつこうにも、なかなか見つからない。
 ただ、これじゃいけないってことはずっと気づいていた。気づいてはいたけど、仕事にエネルギーを吸い取られて何の気力も湧かなかった。
 都心の一等地にある新築マンション――憧れていた、ドラマのような生活だったはずなのに。
 東京にいるのに勿体無いと思いながらも、つい出不精になってしまって数年が経つ。大学時代はそれなりに楽しい時間を過ごしていたし、社会人になりたての頃はもう少し時間の余裕もあったように思う。
「あ……! そう言えば……」
 過去を振り返っていた香織は、何かに思い当たって小さな声をあげた。
 入社して間もない時期、同期の女の子とヨガに通ったことを思い出した。
 それは女性専用のヨガスクールで、本場のインドと同じ室温と湿度が高い環境でレッスンをするのが特徴だ。盛んにダイエット効果を女性誌に取り上げられていたので、試しに行ってみようということになったのが始めだった気がする。
『ヨガなんて、激しい運動しないから痩せるわけがないじゃん』
 と、高をくくっていた。
 ……が、冷え性にもかかわらずレッスン前半から汗ダラダラになったから、香織も認識を改めた。
 その衝撃からヨガスクールに通い始めたが、ダイエットしたい同期と違って、香織はある違和感を覚えていた。
(ヨガって、もっと深いものなんじゃないのかなぁ……)
 と、レッスンを重ねるごとに思っていた。
(冷え性直すためなら、こういう美容目的のヨガでいいんだけど……機会があったら、ちゃんとしたヨガも習ってみたいなぁ)
 そう思い始めた矢先、一緒に通っていた子が結婚をきっかけに辞めた。それに続くように、彼女自身も忙しくなったので退会することにした。
 『いつか、ヨガをやりたい』と思ったその時の気持ちを、香織は正座をしながら思い出した。
 母の付き合いで少しだけ勉強した茶道、そして前に習っていたヨガ――その二つの共通点は、言うまでもなく『禅』である。長い歴史の中で一つの真理が、国や文化を越えて変化していったものなのだろう。
(……たぶん、私はヨガの哲学的な部分に惹かれたのかもしれない)
 と、彼女は気づく。
 ホットヨガのように女性向けにアレンジされたヨガであっても、通っていたときは確実に体調が良かった。筋肉のこわばりの一つ一つがポーズをする中で解き放たれて、最後の屍のポーズでは心が無になった。
 確実に、ストレス解消になっていた。ヨガのレッスンが終わったあとは仕事のいやなことをすっかり忘れて夜も熟睡できたから。
 ヨガの場合、色々なポーズの中に正座をするものがある、という程度で茶道のように長いことずっと正座をすることはなかった。
 だから、正座が苦手な自分でも茶道を極めるのは無理にしても、ヨガなら可能性がありそうな気がした。
「ねぇ、お母さん……私、ヨガやってみたい。昔、ちょっとだけやっていたことがあるの」
「ヨガ! いいじゃない、体動かせばストレス解消になるし」
「でもさー、この近くにヨガ教室なんてあるかな?」
 不安そうな表情の娘に、母は力強く頷いた。
「あるわよ! 前田さんの奥さんが駅前のヨガスクールに通い始めたって言ってたわ。なんでもハワイでヨガの国際資格を取った先生がいるって」
「えッ、ハワイ! ヨガって、インド発祥じゃなかったっけ? ハワイでも習えるの?」
 ハワイ、と聞くとヨガのイメージが一気に華やいだ気がした。
 大学の卒業旅行の行き先がハワイだったから、当時の楽しい思い出が心に甦ってくる。あんな風に気候が穏やかなところでヨガを勉強できたらどんなにいいだろう、と思った。
 ここ最近のふさぎ具合が嘘のように瞳を輝かせる娘に、母は満面の笑みを浮かべた。
「むずかしいことはよくわかんないけど、ヨガやってみれば? 考えるより先に行動に移したほうがいいこともあるよ」

 母の後押しで、香織は近所の奥さんが通っているヨガ教室に通うことになった。
 ハワイでヨガを学んだマリ先生とは年齢も近く、すっかり意気投合。毎回レッスンに通うのが楽しみになった。その彼女のもとで、ホットヨガのスクールで習ったヨガよりも色々なものを学んだ。
 毎回、レッスンを重ねていくと疲労とストレスと運動不足で縮こまっていた体も心もほぐれていくような気がした。次第に、香織は自分が健康を取り戻していくのがわかった。
 その余裕もあって、家で積極的に家事を手伝うようになった。その合間には、母のお茶の相手をしないときも和室で正座をして瞑想して過ごした。
 ヨガの中に、正座を利用したポーズがある。正座をしてから、そのまま上体を後ろに倒して横臥するというけっこうキツいポーズだ。
 それを克服するのが、香織にとっての目下の目標。努力するうちに、ヨガに対する興味が彼女の心にどんどんと湧き上がってきた。
(私、もっとできるんじゃない?)
 彼女は、正座をしながら自分に語りかける。
 いつも何か大きな目標を持ち、それに向けて走り続けていた。
 それ自体は、たしかに素晴らしいことだ。人が努力する姿は、何よりも美しいものだから。
 しかし、物には限度というものがある。
 マラソンだって区間ごとに休憩所があり、そこで選手は水分補給しつつ、自分のペースを考えながら走るものだ。そうしないと、ゴールに辿り着く前に倒れてしまうだろう。
 香織は休憩せずに走り続けたせいで、ゴールが見えたところで倒れてしまった。走るためのエネルギーが枯渇してしまったから、立ち直るのには時間が掛かった。
 会社からもらった休職期間は、再びエネルギーを蓄積して走り出すための準備段階――そのためのヨガだと思っていた。
 しかし、彼女にとってヨガは、次第にただの習い事以上のものになっていく。
 きっかけを与えてくれたのは、インストラクターのマリ先生だった。
『自分の内面に光を当てるのが、ヨガの真髄よ。牧田さん、これまで外からの評価ばかり気にしていたから、まずは瞑想して自分を見つめてみたらどう?』
 レッスンに通い始めたばかりの頃にそう指摘された。
『牧田さんは経験者だからポーズはすごくよくできる。柔軟性もバランス感覚もいいわ。でも、ヨガはスポーツじゃなくて哲学……自己の内面への旅なのよ』
『内面、への旅……?』
『禅では脚下照顧というわ。あるがままの自分に戻る、足元を見る……それが大事なことなの。人生の色々な場面で必要になってくる真理だと思うわ』
 マリ先生は、彼女が抱える問題をすぐに見抜いた。
 これまで、香織は昔の自分が憧れた『カッコいい自分』になることにばかり固執していた。
 ところが、そんなものはただの幻想だった。
 しかも、それに執着し続けたせいで自分はもちろん、誰も幸せにならなかった。潔癖なまでの厳しさゆえに周りを不快にさせたし、香織自身も心身ともに健康を損なった。
 それゆえ、彼女は悩んだ。
(私が私に戻る……そうするには、どうすればいいんだろう?)
 このまましばらく休職を続けて、復職を目指すのか。あるいは、きっぱりと退職して新たな道を歩み出すのか――休職期間が残り少なくなってきたのもあり、選択しなくてはならない時期でもあった。
 香織は正座をしたままで、自分の心の声を聞く。
(私……ヨガを、もっとやりたい)
 日を改めて問いを発してみても、やはり同じ答えに行きついた。
(私が、あるがままの私に戻るために。私を健康にしてくれたヨガで、こんな風に悩んでいる人を救うために……)
 こういう願いも、心に浮かんできた。
(周りに憎まれるのはもうイヤ。ありがとうって言ってもらえるような仕事がしたい)
 その境地に行きつくには、自分が高まらないといけないのはわかっている。
 ヨガを極めたいなら、師事している先生のようにヨガ留学をすべきだと思った。資格がなければ、実務経験のない自分を雇うヨガスクールは皆無だろう。
 未経験からインストラクターになること……きっと、それは思っているほど平坦な道程ではない。
 しかし、心身ともに不調に陥って休職するまで追いつめられたからこそ、他の人にはできないことができるのではないか……そう思った。
(会社を辞めて、ヨガ留学しよう……きちんとした資格を取ろう。それが、今の私の望みだわ)
 内なる自分の声の導きのままに、彼女は会社を辞めた。
 そして、すぐに先生が通ったというハワイのヨガスクールに留学することになった。

5.最高の舞台

 昔を思い出した香織は、表情を曇らせた。一瞬のうちに過去を思い出し、当時抱えていた心の痛みや苦しみを追体験したからだ。
 働きすぎたせいで死にそうだったあの頃――毎日、吐き気や胃の痛みに苦しんで食欲を失った。電車の線路を見ると、無性に飛び込みたくなるほど精神的に追いつめられていた。
 ――喉元すぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものだ。
 今の彼女は、その当時に比べたら心身ともに健康になった。だから、当時の悩みなどすっかり忘れてしまっていた。
 ハワイでのヨガ留学を終え、国際的な資格をとってから謙虚さがなくなった。昔のような、欲深く高慢な彼女に戻った。
 就職活動に失敗し、他のクラスメートのようなオシャレなスタジオに就職できなかったとしても、ヨガのインストラクターを志したときの目標は今の教室で果たせているのに――。
 過去を顧みると、広告代理店にいたときと同じように周囲に厳しくなっている。
 ヨガを生活の中心に据えて、自分の時間と健康を取り戻したのはいい。しかし、就職活動の失敗など不愉快な出来事が続いたせいで、元の自己中心的な考え方に戻っていた。
(あのとき、私が望んだのは……自分みたいに心身の不調に悩んでいる人を、ヨガで救うことだったのに……)
 思い返してみて、香織は唇を噛んだ。
 あの頃は、ヨガのインストラクターになることの目的がハッキリしていた。
 ところが、今はどうだろう……?
 シニアや近所の主婦ばかりが集まる住宅街のイケてないヨガ教室。そこしか就職口しかなかったせいで、香織のモチベーションは行方不明だ。適当にポーズを教えて、なんとか形にすることだけに注力して、大事なことは何一つ教えられていない。
 ヨガで最も大事なこと――それは心を落ち着けて、自分の内側を見ること。
(ダメじゃない……! ヨガ教える資格なんて、私にはないのかも)
 と、香織は自分のインストラクターとしての有り様にショックを受けた。
 けっして余裕がないわけじゃなかった。
 すっかり、忘れていたのだ。自分にとって、本当に大切なことを……。
 母が点てたお茶を飲むときに感じる、不思議なまでの心の落ち着き。ひとり和室で正座をしていたときに気づいた、本当の自分自身の思い。
 彼女がヨガを通して生徒に教えたいこと――それを伝えることができないなら、有名企業の管理職候補という誰もがうらやむポジションをあっさり捨てて、わざわざ薄給のインストラクターになった意味がないではないか……!
「真壁さん、ありがとう……!」
 感極まって泣きそうになりながら、香織は呟いた。
「……え?」
「今日、真壁さんと会えて本当によかったです。私、真壁さんに会って大事なことを思い出しました……! 長いこと忘れていた、とっても大事なことを……」
「そうだったんですね……! それは、よかったです!」
 何のことかわからない様子の真壁氏だったが、それ以上何も尋ねようとせずににっこり笑った。
 その心遣いは、今の香織にとってはありがたかった。
「僕、先生のレッスンいつも楽しみにしてるんですよ。週に一時間だけなのに、一気にストレスがなくなる感じがして」
「真壁さん……!」
 胸が締めつけられる思いがした。
 考えて見れば、そういうことを言ってくれたのは彼だけじゃない。これまでだって、色んな生徒からあたたかな言葉をもらってきた。
 初めてのレッスンで緊張して声が震えたときもポーズの順序を間違えたときも、みんな見守ってくれていた。不慣れな仕事で落ち込んだときに、『先生のお陰で、肩こり治ったー!』『いつの間にか、腰痛が軽くなってた!』などと言われたときは、ヨガをやっていて良かったと思った。
(なのに、私……自分のことばかり。ただのワガママな子どもみたいなことで、変にヘソ曲げてたんだ……)
 自分の浅はかさに気づき、香織は愕然とした。
 シニア世代の人たちも近所の主婦たちも、限りがあるお小遣いの中からレッスン代を払って毎週通ってきてくれている。
 未経験から始めた自分みたいなインストラクターじゃなく、他のクラスを受けることも他のスクールに行くことだっていくらでもできるはずなのに。
 もしかしたら、自分は教えているのではない。むしろ、生徒たちに教わっているのではないか……。
 あのクラスは自分だけのものではない。牧田香織というインストラクターと、生徒全員で作り上げるものなのだ。
 そのことに、今更ながらに香織は気づいた。
 無言のままの彼女を見つめていた真壁氏だが、ふと思い出したように腕時計を見た。
「あ、スミマセン……! そろそろ宅急便がくる時間なんで、家に戻らないと」
「こちらこそすみません、長々とお引き留めしちゃって!」
「いえ! また来週、よろしくお願いします」
 手を軽く振って、彼は再び走り出した。
 その爽やかな後ろ姿を見送りながら、香織はゆっくりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。

 その次の週から、香織は正座で瞑想する時間をレッスンに取り入れることにした。
 もちろん、レッスン内容の変更について吉田先生に相談済である。
「いいんじゃない? ヨガには決まったポーズはあるけどさー、真理にたどりつく方法なんてそれぞれだからねー」
「ありがとうございます!」
「ダイヤモンドのポーズまでしなくても、正座だけでも意外にいろんな効果があるのよね」
「そうですね。わたしO脚で悩んでいたんですけど、正座してたらいつの間にか気にならなくなりました」
「私は食後にするんだけど、正座すると伸びる部分に胃腸の経絡があるのよね。だから、消化が促進されて胃腸の調子がよくなるのよ」
「へぇ、それは初めて知りました! 今度、やってみます!」
「冷えの改善にもいいって言うし。まー、やり過ぎはよくないから適度にね」
 と、先生も保証済みの正座だ。
 香織もレッスンに入れるに当たって、文献やネット検索で正座により得られる効果を改めて学んだ。
 自分が正座をしたことによって実感したものは、やはり偶然や気のせいではなかったと知ることができて腑に落ちた気がした。
「はい、ヨガマットの上で正座してくださーい。なるべく正座ね。どうしても膝が痛い人は、あぐらでいいですけどー」
 彼女の声が教室の中に響く
 膝が悪い人以外の生徒たちは、正座をして彼女の指示を待った。
「今週からレッスン前の三分、瞑想をすることにしました。皆さん、心を落ち着けて静かに自分の内面を見つめ直してみましょう」
「え、正座でやる意味あるんですかー? 俺、すぐにしびれちゃうんだよなぁー」
 と、いつも一番前に陣取ってる雪村さんという年配の男性がおどけながら尋ねてきた。
「よく聞いてくださいました、雪村さん! 正座には骨盤矯正の効果や、内臓を活発にする効果もあるんです。特にふくらはぎは第二の心臓っていわれる大事な場所、そこに圧をかけられるから正座はすごく健康にいいんです。自律神経を安定させる効果もあるから、ストレス解消にもなりますよ」
「へぇー、そうなんだ。すごいね、正座って!」
「しびれたら、くずしてOKです。さぁー、目を閉じて両手は膝の上に置いて、ゆっくりと呼吸してください」
 持っていたクリスタルチューナーを一度鳴らして、彼女はクラスを見回した。
 その心が現れるような金属音を合図に、生徒たちは瞳を閉じた。正座をして、静かに自身を見つめ直しているところだ。
 これはダイヤモンドのポーズの前段階の正座ではなく、心を見つめ直すための正座。
 以前まで真壁氏以外は正座についてはダメダメだと思っていた香織だが、こうして改めて見直すと皆真面目に正座に取り組んでいるのがわかる。
 これまで偏見ばかりで、人のあら探しやマイナス評価ばかりしていた。これからは毎回来てくれる生徒たちのことを大事にしていこう……これまでにマイナスし過ぎた分、たくさんプラスしよう。
 そう思う香織だったが、ひとつ譲れないことがあった。
 それは――。
(やっぱり、真壁さんの正座が一番ね……!)
 チラッと彼の背筋が伸びた正座姿を見やりながら、香織は思わず見惚れていた。
 彼の正座姿に心惹かれ、彼がヨガを始めたきっかけを聞いたことによって、彼女は本当に色々なことを思い出した。
 だから、今はもう平気。もう二度とヨガ留学時代のクラスメートを羨んだり、ひがんだりしない。
 今いる「吉田孝子ヨガ教室」の初心者クラスが、香織にとっては人生のステージ。最高の生徒たちと共に作り上げる、史上最高の大舞台なのだ。
 ヨガと正座と瞑想のコラボレーションによって、彼らがより自分らしくなること――自己の内面への旅を続けながら、よりよい人生を送る手助けをすること。
 その認識は、インストラクターとしての香織のモチベーションになった。
(よーし! みんなのしあわせのために、気を引き締めてがんばらないと!)
 二回目のクリスタルチューナーを鳴らしながら、彼女はそう思う。
 涼やかな音色が響く中、大切なことを思い出した香織の横顔は、まるで別人のような輝きを放っていた。


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