[73]アジサイの中で正座して


タイトル:アジサイの中で正座して
分類:電子書籍
発売日:2019/11/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
定価:200円+税

著者:海道 遠
イラスト:keiko.

内容
 瞳は町長のひとり娘で、盲学校に通う十八歳。ポエムを点字で書くのが楽しみな少女だ。
 待ち望んでいた盲導犬がやってくるが、その直前、光輝という大学生に自転車で接触され、右手の神経を損傷、麻痺してしまう。
 光輝は心から正座して謝り、瞳の介助とポエムの口述筆記と、盲導犬ロンの世話を手伝う。
 祖母の薦めで「眼の観音様」にお参りし、一生懸命に正座して合掌する瞳だった。
 さて?

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本文

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第 一 章 盲目の少女

 ほの暗い中、観音様の前にいる。
 失敗しないようにお祖母ちゃんに習った通りの正座をして合掌しなくちゃ。観音様に失礼のないように。
 そうっと膝を折る。とたんにスカートの裾を踏んずけて、床にどたんと転がった。
「わあ、どうしよう!」
 と思ったとたん、ベッドの上に飛び起きた。
「あれは、お祖母ちゃんから教えてもらった眼の観音様?」

「瞳ちゃん、いい知らせだよ」
 盲学校のロビーの小窓から事務のおじさんがニコニコして声をかけた。
「何ですか?」
 瞳は光輝から離れて、事務のおじさんの方へ見えない目を泳がせた。長年通い慣れた盲学校だからどこに何があるのか、分かっている。肘を貸している介助役の光輝の方が段差につまずいているくらいだ。
「盲導犬が来ることになったよ! 瞳ちゃんのパートナー!」
「本当ですか?」
 顔を輝かせて事務所の窓口に瞳は飛びつく。しかし、すぐに右腕を押さえて黙り込んだ。
「待っていたのに、片腕では世話ができないわ」
 鉛筆もお箸も持てない。せっかく盲導犬が確保できたというのに、犬の世話にはブラッシングや食事、排せつの世話など両腕が必要だ。
「おじさん、せっかくだけど私……」
 諦めなければならないと思うと、涙が出てくるのだった。
 隣についていた光輝が前に廻って頭を垂れた。
「全部、俺のせいだ。瞳さん、俺を殴るなり蹴るなり好きにしてくれ」
 事務のおじさんが驚いて窓から顔を出した。
「そうだろ、俺が瞳さんの右腕を怪我させなきゃ、盲導犬と一緒に歩けたのに」
「光輝さん……」

 半年前、瞳は盲学校からの下校途中、いつものようにポエムを考えながら白杖を頼りに帰り道を歩いていた。
 間近で、キキキ――! という自転車のブレーキが聞こえたとたん、歩道に弾き飛ばされていた。
 横断歩道を猛スピードでやってきた光輝の自転車と接触してしまったのだ。自転車も光輝も倒れていた。
「大丈夫か、君っ」
 瞳の意識はあったが、右腕に焼けつくような痛みを感じていた。
 すぐさま救急車で運ばれ、全身検査を受けた。右腕の神経が傷ついていることが判明した。
 瞳の右腕は、動かなくなってしまった。医師からは、回復の見込みは無いでしょうとの言葉が言い渡された。
 町長を務めている父親の中森幸一は口を引き結び、母親は泣き崩れた。
「この子は十歳の時に高熱を出して光を失ったのに、今度は右腕まで……。いったい何を悪いことをしたというの」
 瞳も右腕を抱きかかえて涙が止まらなかった。
 光輝は病室の床に正座し、床に額をつけた。
「申し訳ありません。僕の注意が足りなかったばかりに」
 床に汗が滴った。瞳と両親はため息をつくばかりだ。
 瞳は点字を使うこともできなくなった。暗闇の世界にいても、十歳までの記憶の眼の見える世界を思い出し、ポエムを書くだけが楽しみだったというのに。
 十歳の時まで鮮明に見えていた景色。空はどこまでも深い青。緑あふれる樹が茂り、色鮮やかな花が四季に咲き乱れた。特にアジサイが好きだった。学校の黒板に書かれる文字の白さ、上履きの白さも鮮明に覚えている。母親の作る食卓はカラフルで、冬の暖炉の火は、瞳の家庭そのもののように暖かいオレンジだった。
 それらを思い出し、紡ぎ出す瞳のポエムは評価が高かった。
 昨年度の「ほんわかコンクール」で三位を獲得した。両親とそろって大喜びしたのが、泡のように消え去ってしまった。

第 二 章 代わり

 しばらく窓のカーテンを引いたままだったが、ある日、光輝が訪ねてきた。
 瞳の右腕の白い包帯を見つめたまま、彼は玄関に立ち尽くしていたが、やっと口を開いた。
「瞳さんの介助とポエムの口述筆記をさせていただけないでしょうか?」
 両親が玄関に出てきた。母親が厳しい口調で尋ねる。
「できるの? あなたも学生さんなんでしょう。ずっと瞳についているわけにはいかないのでは」
「休学します。いや、場合によっては退学します。人様に一生治らない怪我を負わせたんですから」
 瞳の父親、中森幸一は口元を曲げたままだ。町長という立場から厳格な人間だ。ひとり娘に素性の分からない男を近づけたりしない。しかし、光輝の態度を静かに受け止め、答えた。
「そこまで言うんならやってもらおうじゃないか」
「お父さん……」
 瞳は躊躇していたが、
「口述筆記も頑張ってやります!」
 光輝の言葉に、お願いすることにした。自分の右手を動かなくした男――顔も分からないが、声に誠実さを瞳は感じた。
「本当にいいの? 瞳」
 母親は心配そうだ。
「うん。光輝さんはいい人よ。病院で私のために深く謝って下さったのよ」

 次の日から、瞳の行動に光輝がずっと付き添った。
 食事や着替えは、瞳ひとりでできる。盲学校の中なら頭に入っている。主に手伝ってもらうのは、登下校の交通機関の乗り降りと、ポエムの口述筆記だ。
 瞳が思い浮かべた言葉を、光輝が正確にタブレットに打っていく。時には手書きもする。
「水色の雨のカーテンがアジサイの上にぽたぽたと……」
「アジサイの上にぽたぽたと……だな。はい、書いたよ」
「待って。紫色のカーテンの方がいいかな」
「もともと、雨に色なんてついてないさ」
「詩人には色がついてるのが見えるのよ」
 瞳がいらいらすることなく、光輝が筆記してくれることもあり、ふたりは打ち解け始めた。
 盲導犬が来る知らせが届いたのは、そんな矢先だった。

第 三 章 盲導犬ロン

 犬の世話ができないのでは、決定した盲導犬は他の方へ、という話もあったが、瞳はどうしても諦められなかった。
 二年待った盲導犬である。縁があると思えてならなかった。下唇をかみ締めて悩んだ。
「瞳さん、残念だけど……」
 光輝が言いにくそうに声をかけると、とっさに、
「光輝さん、私、決めたわ! 盲導犬に来てもらうわ」
「え? でも……」
「私には左手が残ってる。ハーネスは左手で持てばいいんだし、光輝さんの手を借りるのは犬の世話だけど、それをお願いできるなら」
「犬の世話か。犬は飼ったことあるから大丈夫だよ」
「じゃあ、やってみる。このままじゃ、光輝さんにも学校を休ませてばかりだし、犬との登下校ができれば光輝さんの負担は減るわ」

 数日後、ふたりは盲導犬共同訓練所に赴いた。
 瞳のパートナーになるのは、パピーウォーカーの家を卒業して訓練を受けたばかりの二歳のオスのゴールデンレトリバー、ロン。若々しい表情とベージュの毛並み。瞳がいきいきしている。
 訓練所の係員とロンがふたりを出迎えた。
「中森 瞳です。よろしくお願いします」
「僕は中森さんの介助をしている、東 光輝です」
 小松という教官はまだ若く、光輝と変わらない年恰好だ。
「訓練所の小松と申します。よろしく。ほら、ロン。これからお前と生活する瞳さんだ」
 ロンはすぐにも活躍したそうに表情を輝かせている。
「瞳さん、ロンはとてもきれいで利口そうだよ。耳が半分寝ていて優しい顔だ」
 光輝が説明している間、ロンはふたりを好奇心いっぱいな眼で見上げていた。
「笑ってるみたいだ」
「そうなの?」
 瞳は膝をかがめた。すぐにロンが手や顔を舐めに来た。
「わあ、あったかい、可愛い」
 瞳は心から嬉しそうにはしゃいだ。光輝はこんな明るい瞳を見るのは初めてだった。
 教官の小松が、
「ロン、今日から瞳さんと訓練だぞ」
 ロンは瞳を見つめている。
「小松さん。私は右手が不自由です。ロンの世話は東さんにも手伝ってもらいますから、しばらく訓練所に滞在してもらいます」
「聞いております。ロンの世話の仕方もご指導しますから」
 小松教官の希望を持った言葉に、瞳は大きく慰められた。
 その日から、瞳と光輝はロンと一緒に訓練所に泊まり込むことになった。

第 四 章 謎の影

 数日して、光輝が早く帰り、それから二週間ほどして盲学校から瞳がロンと共に帰ると自宅に連絡が入った。数日間は、教官の小松がついて、私生活で訓練が行われる。
 光輝が盲学校の校門で待っていると、訓練所の車が近づいてきて、瞳とロンが降りてきた。ハーネスを持った瞳の姿は、すっかり様になっている。ロンも落ち着いて瞳を誘導し、小松教官と共に校舎に入った。
 校長が相好を崩して迎えた。
「頑張ってるね、瞳さん。この調子で最後の訓練もクリアしてくださいよ」
「はい。ありがとうございます」
 再び車に乗り込んだ瞳とロン、小松教官と光輝は、瞳の自宅に到着した。数週間、離れていた母親が飛び出してきた。
「瞳、元気だった?」
 娘の変わりない姿と新しい相棒の愛すべき姿を見て、安心したようである。
「お母さん、ロンよ。私の大切なパートナー」
 瞳は言いながら、ハーネスを外した。今日のロンの仕事は終了だ。
 母親が頭や首筋を思い切り撫でると、ロンは耳を伏せ、手を舐めた。
 父親も教官を迎え、労いの言葉をかけてロンも混じり、和やかな空気だった。
「ケーキを作ったのよ。東さん、あなたもぞうぞ」
 両親の、光輝に対する態度も柔らかくなっていた。
 居間に入ると、隣の座敷から呼びかけたのは瞳の祖母である。
「このお抹茶の匂い……お祖母ちゃんね! わあ、久しぶり!」
「瞳ちゃん、元気だったかい?」
 和服姿の祖母は、眼元を蕩けさせて孫娘の顔を皺深い手で包んだ。
「盲導犬と合宿だったんだって? 偉いねえ。おお、この子だね」
「ロン、私のお祖母ちゃんよ」
 ロンは大きく尻尾をふって、瞳の祖母に撫でられた。大喜びして、よだれが絨毯の上に落ちた。
「お利口さんだね。瞳ちゃんのことをよろしくね」
 祖母が一服立てたお薄を、瞳は味わった。
「はい、お点前も正座も上手にできているよ、瞳」
「お祖母ちゃんの教え方が上手だったからよ」
 見えなくても、厳しく優しく作法を教えてくれた祖母に、瞳は感謝していた。

 教官の小松、光輝も交え、その夜の食卓は賑わった。足元でおとなしく伏せの姿勢でいるロンもご馳走をもらって嬉しそうだ。ひとしきり、お祝いの杯が酌み交わされた。
 教官の小松が酔い覚ましに庭に出た。
 庭は植木が多くあって広い。小松はふと、男の話声に気づいた。
「何をぐずぐずしてるんだって、お怒りだぞ」
「分かってるよ……」
「なら、さっさと致命傷を与えろ。中途半端じゃなく」
 男の気配は消えた。岩の向こうから戻る光輝の姿を見て、小松はとっさに植え込みの陰に隠れた。
(東さん? こんなところで誰と何を……?)
 首をかしげながら居間に戻ると、光輝はしばらくしてから部屋に戻り、何もなかったように瞳とおしゃべりしていた。

第 五 章 お祖母ちゃんの願い

 第一日目の家庭での共同訓練が終わった。
 瞳はハーネスを持ってロンと光輝と小松教官の指導の下、盲学校へ行き、一日を過ごして帰ってきた。
「お帰り。疲れたでしょう。教官さんも東さんもご苦労様。ロンもご苦労様」
 あれから家に滞在している瞳の祖母が、笑顔で皆を出迎える。
「さあさあ、皆さん、お飲み物でもどうぞ」
 母親がジュースを運んできて、ロンもハーネスを外されて居間でのびのびする。
「ロン、ありがとう。今日は緊張したでしょう。初めて盲学校まで歩いて行ったんだものね」
「でも、ミスが無かったのよ、お母さん」
 光輝が、居間のテーブルに観光旅行のパンフレットが開かれているのに気づく。
「これは? 京都の案内ですね。柳谷観音……」
「西の清水寺と呼ばれているところよ。それはね」
 お座りなさいな、と、ソファを光輝にぽんと示して、祖母はニコニコした。
「私が前に眼の病気をした時にお参りした眼の観音様。おかげ様で手術はうまくいき、よく見えるようになったわ。前から一度、瞳にもお参りしてもらいたかったのだけど、なかなか言うことを聞かなくてね」
 瞳は躊躇している。
「だって、山の斜面に建立しているらしいのよ。登る自信がなくて」
「今なら、ロンと東さんがいてくれるでしょう」
「そうだけど」
「霊験あらたかなんだから、一度、行ってらっしゃい。京都駅からタクシーで行けばいいし、春も初夏も秋もとても美しいところよ。花手水のアジサイがとても美しくて、押し花の御朱印も作れるのよ。あなたなら心の眼で感じられるはず」
「でも……」
「お礼参りの意味もあるわ。ほら、お祖母ちゃんこそ、もう足が弱ってきて山登りは無理だもの。お母さんと東さんとロンがいれば大丈夫」
 祖母は瞳の隣に座り、内緒声に切り替えた。
「お父さん、町長選が近くて気が立ってるでしょう。だからゆっくり行っておいで」
「お祖母ちゃん、ありがとう」
 私生活での訓練も無事に終わり、小松教官の合格をもらった。
 父親は町長選が近く、慌ただしく過ごしている。
 そんな空気を避けるように、瞳は光輝と母親とロンと共に京都へ旅立つことになった。

第 六 章 アジサイの寺

 くねくねした昼なお薄暗い竹林を通り、タクシーを降りたところで山土の匂いに取り巻かれた。とは言っても、駐車場から寺までの坂は舗装されている。ロンのハーネスも使いやすい。
 緩い坂には、アジサイがあちこちに咲いている。光輝が、
「青いアジサイが綺麗に咲いているよ」
 と告げる。石段をゆっくり昇り山門に到着する。観光客のざわつきが取り囲んだ。
「瞳、アジサイが満開ですって。奥へ行くのが楽しみだわね」
 母親がわくわくして言った。
 山門をくぐると、真正面に大きな下がり藤の提灯の本堂がある。
 左側には龍を象った花手水があり、清らかな水の中には色とりどりのアジサイが浸されている。
 水の神、龍と水に浸された沢山のアジサイ。足元には緑鮮やかな苔。これほど眼に「涼」を呼ぶものはないだろう。
「お水の中のアジサイが得も言えないわ。ああ、あなたに見せてあげたいわね」
 母親が瞳の手に柄杓で水をかけた。
「ああ、冷たくて気持ちいい。この水の冷たさだけでアジサイまで見えるようだわ、お母さん」

 京都・西山にある柳谷観音・楊谷寺。
 寺伝では、清水寺の開祖が八○六年に開山し、十一面千手観音を安置したと言われている。
 眼病に霊験あらたかな弘法大師空海ゆかりの独鈷水が湧く「眼の観音様」として、アジサイの名所としても知られている。 
 山門を入って真正面に本堂がある。
 そこから右側の石段を上がると、色とりどりのアジサイに囲まれた上り坂である。高台に京都盆地が一望できる場所がある。お天気に恵まれ、いい眺めだ。
「瞳! 京都タワーが見えるわよ」
「お母さん、子どもみたいよ」

 光輝はずっと瞳の傍らについて登りながら、景色の説明を続けた。ロンも頑張って瞳を誘導し、その度に瞳は頭を撫でて褒めてやるのだった。
 奥の院に辿り着き、靴を脱ぐ。ロンは母親が本堂まで降りて寺務所に預けてくる。
「さあ、おいで、ロン。瞳が降りてくるまで境内でお利口で待っててね」

 奥之院は、古刹特有のお線香と古い建物の匂いがする。薄暗い中央奥にご本尊の観音様。
 瞳は、ご本尊の前へ寄っておそるおそるスカートの裾に手を当てて膝の裏に織り込んで正座し、静かに合掌した。観音様の前に座ると気持ちは鎮まった。
 ご本尊の観音菩薩の姿が見えるような気がした。いつか夢の中で見た観音様と同じだ。正座の足や背筋を崩さず合掌したまま、
(ロンと平穏無事に生活できますように)
 心の中でつぶやいた。
(どうか、瞳の眼が見えるようになりますように)
 ロンを寺務所に預けて戻ってきた母親が、傍らでそんなことをつぶやいていて瞳は驚いた。
「お母さん、それは無理よ。私、もう十年も見えないのよ」
「分からないわよ、あなたの眼は流行り病の影響で視力を失くしたのよ。視神経が無くなったわけじゃないし、今の医学は日進月歩だから」
「そう言ってくれるのは、ありがたいけれど」
 瞳は悲しげに笑い、
「見えなくても私には気配だけで十分。お寺の匂い、空気、水の香り、お線香の香り、アジサイの色まで感じるのよ」

第 七 章 アジサイ

 山肌に添って木造の階段が作られており、奥の院へのアジサイ回廊という。下りの階段を、光輝が誘導しながら説明する。
「急な階段だから一歩ずつゆっくりね」
「ええ」
 一番上から見ると、眼下に色とりどり、あらゆる種類のアジサイが咲き乱れ、珍しい七色の種類もある。瞳は心の眼で感じ取った。
「さんざめく
 アジサイたちの声が」
 瞳が急に口ずさみ始めたので、光輝は慌てて立ち止まり、メモを取った。
「森の奥からウグイスのさえずりが
 その声に呼応する」
 光輝は、全部書き留めた。
 アジサイ回廊を下って真っ赤な毛氈の敷かれている上書院に着き、三人はしばらく縁側に正座した。まっすぐ背を正すと気持ちまですっきりし、緑したたる庭に包まれた。
 心で音色を聞くという水琴窟、「心琴窟」がある。瞳にはうってつけの音色だった。

 本堂を経て、右手にある暗い廊下を入っていくと、弘法大師像まで行き着き、眼病に効くと言われている独鈷水を、瞳は両手で受けて飲み干す。眼にまで沁みるような冷水だ。
 寺務所に預けてあったロンと再会した。ロンは職務中なので飛びついたりしないで真面目に待機していた。
「お利口に待っていてくれたわね、ロン」
 ハーネスを握りなおした。
「もう一度、本堂の右側の高台まで行きましょうか。風に当たりたいわ」

 再び、坂を昇る。母親が汗を拭き拭き登ってきた時、急にロンが足を止めた。
「ロン、ゴ―、ゴー、よ、どうしたの」
 動かなくなった。同時に、光輝の介助の手もすり抜けてなくなった。
「光輝さんまでどうしたの、ロンが動かないの。今までこんなことなかったのに」
 いくら待っても光輝から返事はない。そのうち彼が走り降りる音がして瞳は呆然とした。やっと登ってきた母親も光輝とすれ違った。
「東さん、どうしたの! 瞳とロンはどうするの!」
 瞳と母親とロンが置き去りにされた場所は、坂の外れの高台の上だった。ロンが一歩も動かないはずだ。
 空模様が怪しくなり、いきなり激しい風が吹き上げてきて、寺務所からの声が聞こえた。
「お客さん、そこは立ち入り禁止です。こちらへおいで下さい」
 瞳と母親は本堂に降りてきた。光輝に、いくら電話しても出ない。
「いったいどうしたのかしら」
 本堂の脇で、ようやく彼の姿を見つけた。ひどくうなだれていた。と思うと砂利道の上に正座し、両手をついて頭を下げた。
「申し訳ありませんっ」
「どうしたの、光輝さん……」
「ぼ、僕はさっき、あの崖から瞳さんを突き落そうとしました」
 瞳と母親は凍りついた。
「何もかもお話します。瞳さんに自転車で突き当たったのもわざとなんです。橋村剛三の指図でした」
 母親が顔色を変えた。
「橋村剛三って、主人の町長選のライバルじゃないの。あなたは橋村氏とつながっていたの?」
 光輝は砂利に顔を伏せたまま、頷いた。
「中森の娘を傷つけて心の痛手を与えたら、報酬をやるからと。橋村と繋がっている輩のひとりから」
「それで瞳にわざとぶつかり、右手を麻痺させたの!」
 わなわな震え出した母親の横で瞳はハーネスを離し、耳を押さえた。ロンが心配そうにご主人の顔を見上げた。
 どっと大粒の雨が落ちてきた。

第 八 章 あやまる

 町長選はどうなったんだろう。ホテルに到着してから、瞳は胸騒ぎがしてきた。母親も心配そうだ。
 ホテルの窓に雨が叩きつける。
 砂利の境内の地面に正座して額をつけたままの光輝は、
「雨がひどくなってきたわ。ホテルまで行きましょう」
 瞳が何度、声をかけても動こうとしないので母親に手を引かれるまま、タクシーに乗り込んだのだ。
 ホテルに着いた母親も、不安と怒りでやたらと部屋の中を歩き回る。祖母に電話しても、父親は選挙運動に出たままと言うばかり。秘書に電話しても繋がらない。
「お母さんが間違っていたわ。あなたに見知らぬ男を近づけるなんて。お父さんの大切な時にお寺参りに行くなんて。全部、私の落ち度だわ」
「お母さん、落ち着いて。私は無事だし、お父さんだって何かあるとかぎったわけじゃ……」
「私は無事だし? とんでもないわ、瞳! あなたの右手を台無しにしてしまったじゃないの、あの人!」
「光輝さん……あのまま、ずぶぬれになったんじゃないかしら」
 瞳の心は光輝への怒りよりも、雨の中で頭を下げ続ける彼への安否のことでいっぱいだ。察してか、ロンが優しく左の指先を舐めた。
 お寺に電話をかけてみると、寺務所の人が、
「いくら雨宿りを勧めても動かれないで、やっと夜更けに『きっと戻りますと、電話でもあったらお伝え下さい』と言って下山されましたよ」
 伝言を言って立ち去ったという。
「戻ってくるもんですか。戻ってきたら、瞳を怪我させた罪で警察行きよ」
 瞳の母親が怒りをあらわにして言い、荷作りを始め、翌朝、瞳の手を引き新幹線に乗り込んだ。

 自宅では、町中が町長選のため騒がしい。瞳の父、中森幸一前町長と橋村剛三の一騎打ちだった。
 橋村剛三事務所も、多くの人が出入りしていた。朝から開票が行われ刻々と結果がもたらされる。その時、ひとりの青年が走りこんできてマイクを握る。
 瞳と母親と祖母はそれを自宅のテレビで視ていた。
「あれ、東さん!」
「どうしたの、お母さん。光輝さんが橋村剛三氏の事務所にいるの?」
 事務所に見知らぬ男が侵入したので蜂の巣を突く騒ぎだ。すぐに、テレビから光輝の声が聞こえてきた。
「私は東 光輝。○○大二年生。今から橋村剛三氏の黒い計画をすべて話します。事実です。証明できます。何故なら僕は橋村氏に指図されて動いた犯罪者だからです」
 派手なタスキをかけた橋村氏の顔色が変わった。
「何をしている。あの青二才をつまみ出せ」
 部下につかまれても殴られても、光輝は抵抗して動かない。
「橋村氏は町長選に勝つために、現、中森町長を動揺させようと、私に令嬢に怪我させるよう命じました。それを私は実行した。令嬢は右手が麻痺して使えなくなりました」
 事務所内は大きくざわめいた。橋村氏はわなわなと震え、
「でたらめを言うな、どこの馬の骨か知らんが、早く追い出せ!」
「私は……まんまと言うことを聞いて犯行を犯してしまいました。お詫びしなければならない。令嬢に、中森氏に、皆さまに」
 光輝はその場に膝を折り、誠実な正座をして額を床につけた。

第 九 章 秋にも人は生まれ変わる

 数分間、誰も近づけなかった。
 それほど光輝のお詫びの正座には嘘がなく、後悔と詫びる心が籠もっていて、橋村氏でさえ近寄りがたかったのだ。
 静寂の数分が過ぎると橋村氏の部下がよってたかって押さえ込んだ。
 橋村氏は苦虫を咬みつぶしたような顔をしている。すべては実況中継されたのだから、町長候補の資格は剥奪されるだろう。
 案の定、パトカーのサイレンの音が響いてきて刑事が降りてきた。光輝に近づくや、
「選挙活動妨害の罪で逮捕する」
 光輝の手首に重い手錠をはめた。
 瞳が母親と共に、タクシーで事務所前に乗りつけた。
「待って! その人は……」
 大勢の警察関係者とマスコミの中、もみくちゃになって連れていかれる光輝に近づくことはできなかった。

 萎れきった瞳が母親に支えられるようにして自宅に戻ると、祖母とロンが迎えてくれた。
「安心おし。東さんは確かに罪を犯したけれど、正々堂々と謝ってくれたおかげで橋村さんの罪が公けになった。罪は軽くてすむだろう」
「そうね。お祖母ちゃん。ロン、よしよし」
 瞳はロンの温かい身体を抱きしめて、涙を拭いた。
 父親から瞳に電話がかかってきた。
「瞳、怪我はないか。お父さんのせいでお前を巻き添えにしてしまって悪かった」
「お父さん……光輝さんを救ってあげて。私にわざとぶつかったとはいえ、彼も選挙騒ぎの被害者だわ」
「承知したとも、瞳」
 そして、町長選挙は橋村氏が警察に事情聴取を受けることになり、やり直しが決定し二度目の投票で瞳の父が町長に再選した。
 ライバルの娘に怪我を負わせて不利にさせたことを証明するには時間がかかるかもしれないが、光輝が選挙事務所で頭を下げたことには大きな反響があった。

 そして、その年の秋、京都に紅葉の盛り、観光客で賑わいの増す頃、柳谷観音の楊谷寺も真っ赤なもみじに彩られた。
 瞳と光輝とロンは、再び柳谷観音を訪れた。
 手水舎に真っ赤と緑のもみじが浮かされて飾られているのを、瞳は心の眼で観た。手水舎の柄杓から手にとり、ロンに与えると美味しそうにぴちゃぴちゃと水を飲んだ。
「銀杏色やもみじの朱色に彩られると、
 心は生まれ変わる。
 秋もまた豊穣のための再生という
 芽生えの季節なのだ……」
「ちょっと待った、今、書きとるから」
 光輝が慌ててメモする。瞳はにっこりした。
「光輝さん。いいお知らせがあるの。最近、頭痛が続くので病院に行ったら、視神経に今までに無かった反応があったの。時間をかけると見えるようになるらしいの」
「本当かい? そりゃすごいじゃないか!」
 光輝はいったん喜んでから、顔を曇らせた。
「見えるようになったら口述筆記もいらなくなるね」
「でも、光輝さんは私には必要だわ。帰ってきてくれて良かった……」
「瞳さん……。許してくれるのか、俺を」
「秋にも人は生まれ変わるって、さっき言ったでしょ」
「さっきのポエムの意味だね」
 涙ぐむ瞳を見て、光輝はほっとしたような、照れたような顔をした。
「ロンとお別れするのは辛いなあ」
「友達として側にいてもらえばいいじゃないか」
「そうね!」
 ロンの首を撫でながら、眼の観音様を思い出した。
「観音様は私の一生懸命の正座を認めて下さったようね」


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