[400]お江戸正座38


タイトル:お江戸正座38
掲載日:2026/02/11

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:38

著者:虹海 美野

あらすじ:
文吉は茶葉を扱う諏訪理田屋の若旦那、十六である。
文吉は、お商売のほかは、戯作者の叔父の元へ通って、戯作を読む日々である。
そんな文吉は、叔父の妻の行儀見習い指南にやって来たおはると出会う。底抜けに明るいおはるに文吉は心引かれた。
おはるは江戸へ来たばかりの大店の娘で、文吉の妹のおひなと稽古仲間であった。
稽古仲間に受け入れられぬおはるを慮り、おひなが稽古仲間とともに家におはるを呼んだと知り、文吉は……。

本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。


 文吉は茶葉を扱う諏訪理田屋の跡取り息子である。お父ちゃんは七人兄弟の長男で育ったから、弟の面倒を見るのは茶飯事だったと、時々こぼすことがある。その点お前はいいなあ、とでも言いたげな顔をするが、それは文吉に言われたところでどうしようもない。そのお父ちゃんの弟たちは、もう一緒に住んではいないが、お父ちゃんというか、まあ、主にお母ちゃんが、そのお父ちゃんの弟たちにいつも気を配っている。所帯を持つ時や、子を授かった時の祝い事なんかは、ほとんどお母ちゃんが手配している。そうして、お父ちゃんには、祝いの品を用意したとか、それをいつ届けるとか、そういうことを伝えていて、お父ちゃんは、「ああ」とか、「わかった」とかいう返事をするくらいだ。
 お母ちゃんはしっかりしているけれど、大らかな性格だから、お父ちゃんと言い合いにならない。
 お父ちゃんが子どものころは、家での兄弟げんかはいつものことだったらしいが、今、この家で声を荒げてのもめ事は起きていない。
 文吉はこの家の長男で、三つ下の妹のおひなは女の子だから、お父ちゃんが言うような、どたどたと座敷で取っ組み合いをして、時には茶器まで割ってなんていう喧嘩をした経験がなかった。
 手習いに通い始め、活発というか、常に周囲を見ては話しかけたり、そこから騒ぎを起こす子どもがなんと多いことかと知った。
 文吉はなるべく端の方にふみ机を置き、そこで読み書きや算術を学んだ。
 その際にも、わあわあと騒がしい子どもがぶつかって、字を書き損じたり、算術の勉強が中断したりはよくあった。
 そんな文吉に、いつだったか、お父ちゃんが剣術道場に通わないか、と提案した。お父ちゃんは、明らかに、文吉が「わあ、嬉しい! お父ちゃん、私はずっと剣術をやってみたかったんだよ」と言うのを予想というか、期待していた。
 だが、そう返せばお父ちゃんが喜ぶとわかっていても、言えなかった。
 俯き、暫し考えた後で、通わないと駄目なのか、と訊いた。
 お父ちゃんは、「えっ」と、短く驚いた声を上げ、それから、「いや、どうしてもってえことでもない。ほら、同じ手習いの友達でも通い始めた子がいるだろう。一緒に体を動かして、礼節を学んで……。どうだ? 行きたくないのか?」というようなことを言い、再度尋ねた。
 友達……。
 確かに、家族で縁日なんかに出かけた折、「おおい、文吉」と名を呼び、手を振るのは、同じ手習いの子どもである。
 文吉も、ああ、誰それ、と名を呼び返すし、親同士が軽くあいさつもする。
 なるほど、それを友達といえば、まあ、そうなのだろう。
 だが、文吉はそういう手習いの子と、手習いが終わった後も遊びたいと一度も思ったことはなかったし、ましてや、ほかの学びの場でも顔を合わせたいと思わなかった。そもそも、剣術はできないより、できた方がずっとよいことはわかっているが、どうにも、そこに自分が身を置くのを想像できなかった。多分、早く技を習得したく、素振りを繰り返す門下生の中、一人、時間が過ぎるのを待つようになるのだろう。
 お父ちゃんの期待に応えられないのは残念に思うが、実際に通う前に無理そうなのだから、仕方がない。
 そういうことを思い出し、ぼんやりしていると、おひなが、「お母ちゃんがお茶を淹れたからいらっしゃいって」と呼びに来た。
 庭に面した座敷でお母ちゃん自ら茶を淹れ、菓子を用意してくれていた。
 お母ちゃんは淡いうぐいす色の単(ひとえ)だった。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直になるようにおろし、脇は閉じるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座している。
 きれいに正座し、所作に気を付けるように教えられたのは、箸を持つのと同じくらい幼い頃からではなかったか。
 文吉が好きな菓子をお母ちゃんは用意していてくれた。
 それで、なんとなくではあるが、お母ちゃんの文吉に対する思いが伝わる。
「お母ちゃん、お父ちゃんの末の叔父ちゃんのところに赤さんが生まれたって本当?」とおひなが訊く。
「ええ、今、お祝いにご新造さんの着物を仕立てているところですよ」とお母ちゃんが答えると、「ねえ、それ、ひなも手伝って、縫ったらだめ? 少しでいいから」とせがむ。
「縫うのは、お針のお教室できちんと習ってからにしましょう。だったら、今度、お菜を詰めたものも持っていくから、それを手伝ってくれる?」
 お母ちゃんの提案に、おひなはすぐに「うん」と頷いた。
 妹ながらに単純だ、と思う。
 たった今、おひながやりたがったのは、着物の仕立ての手伝いだ。
 それが、どうしてお菜の手伝いでいいことになるのか。
 文吉は不思議であった。


 お母ちゃんとおひなとともに、お父ちゃんの末の弟である叔父の家に行ったのは、ほかにやることがなく、退屈していたからだ。
 お母ちゃんとおひなが出かけるのなら、一緒に行ってみよう、と思った。
 それが、文吉に毎日がこれほど楽しく、時が大事だと思わせてくれる出来事の始まりだとは露ほども考えなかった。
 叔父の家は小さな平屋であった。
 そこに行儀見習い指南の札が出ている。
 訪ねると、ご新造さんに勧められるがままに、座敷に上がった。
 そこで、まだ小さい、まことにかわいらしい赤さんを見せていただいた。
 おひなも赤さんに夢中である。
 だが、赤さんはちょうど眠ろうとしているところで、間もなく、心地よさそうに眠った。
 ご新造さんがそっと赤さんを奥の座敷の布団に寝かせた。
 すぐに暇を告げるお母ちゃんに、ご新造さんは、「おいしいお菓子をいただいたので、よろしかったら」と、もてなしてくれた。
 長居すると申し訳ないと腰を浮かしかけるお母ちゃんに、おひなが、静かにしているから、とせがむ。
 その時、赤さんの寝ている座敷の続きの間に、積み上げられた本が見えた。
 さっき、「これはどうも」と、顔を出し、あいさつした叔父が、その本の間のふみ机に向かい、何やら書いていた。
 その様子は、お商売をしている家の子である文吉からすると、一見だらしがないようにも受け取れたが、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分ひらくくらい、足の親指同士が離れぬようにした正座の、きちんとした居住まいで筆を進めている。
 声をかけてよいのかどうか、迷った。
 ただ、どうしようもなく、文吉は、この、滅多に会わぬ叔父の仕事をする姿に興味を持った。
 そうして叔父は、特別子どもに優しいわけでもなかったが、文吉を邪魔扱いもしなかった。
 暫く叔父を観察し、それから書き損じの紙を拾い、そうして、叔父の近くに座った。
 叔父は「ほら」と、手近な本を一冊手渡した。
 それを開いた後、文吉は背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬようにして正座し、延々と字を追った。
 時折、本屋で見つけて買っていた『諏訪理田』という名の戯作者が、自分の家の店と同じ名だと気になっていたが、まさかこの叔父が戯作者で名乗っていたのだとは知らなかった。
 この日だけでは飽き足らず、それから手習いの昼休みの僅かな時にも、弁当を持参し、叔父の元へ通った。もう、手習いで騒ぐ子どもがいるとか、それによる字の書き損じ、算術の中断なんぞ、全くどうでもよくなった。
 叔父は物静かな人で、文吉を『文ちゃん』と呼び、まるで友のように話しかけてくれた。
 お父ちゃんは、文吉が戯作に興味を示したのを快く思っていない様子だったが、改めて文吉が許可を取ると、「行くな」とは言なかった。
 だから、お商売の勉強を一番に考えて、その合間に今も本を読んだり、叔父の家へ通っている。
 だが、残念ながら、文吉は戯作を読むのが好きで、時には、こう書けばいいのに、とか、この言い回しはあまりよくない、とか思うことはあるが、自身で何かを書き上げたいとは思わなかった。
 それでも、戯作を読むのは楽しい。
 それが、唯一のお商売以外で文吉が自らやりたいと思うことであった。
 一方、お商売を学んでいる時や、叔父の家に向かう途中、かつての手習いの仲間に会うと、奉公に出たり、家業を手伝ったりと、皆大人になっているが、もうひとつ、彼らは仕事先なんかでの友達を持ち、そうして、女子(おなご)とも仲良くし始めてもいるようであった。
 その様子を見て、楽しそうだと思う反面、文吉は、この先どうしたものか、と思うようになってきた。
 いずれお店を継ぐ頃には、文吉も所帯を持つだろう。
 まあ、一応は代々続いているお店だし、信用もあるから、誰かしらはうちへ来てくれる。
 ただし、文吉はその相手とうまくやれるだろうか……。
 全くもって自信がない。
 何せ、店の人間は皆、文吉より年上の男ばかりだし、お女中は文吉が生まれる前からいる人ばかりで、所帯持ちだ。そうして、唯一通うのは叔父の家。
 まるで、女子(おなご)、否、同年代の友達とも縁のない生活である。


 十六になった文吉は、飽きもせずに暇を見つけては叔父の家に通っていた。
 今日は、お母ちゃんに頼まれ、お菜を詰めたものと、子の玩具を持って行くように頼まれ、それにおひなもついて行くと言い出した。
 今は叔母の行儀見習いの教室は誰も来ていない時間だから、庭にまわって勝手口から叔父に声をかけぬとも、大丈夫なはずである。
「ごめんください。文吉です」
「ひなです」
 行儀見習い指南の札の出ている引き戸の方で声をかけた。
「はあい」という叔母の声。
 それとともに、何やら「まあ、お客さま?」と、明るい声と、子の笑い声がする。
 そうして、戸が開くと、そこには叔母と、ともに子を抱いた娘さんがいて……。
 まあ!
 しっかりとした体躯でややふくよかな、大層笑顔の素敵なお嬢さんではないか。
 着物は贅を尽くし、錦糸の使われたあでやかな仕立てで、それがまた、この娘さんによく似合う。
 こんなにも明るく、美しい人がいるとは文吉は思いもしなかった。
 ただただ見とれていると、おひなと、そのお嬢さんが、互いに名を呼びあっている。以前より知り合いであるらしい。
 この明るい光を放つ娘さんは、おはるさんというらしいということがわかり、文吉の中では、おはるさん、おはるさん、と、晴天、春の日の如く、うららかな気持ちが満杯になった。
 叔母に促され、座敷に上がる。
 おひなとおはるさんは、楽し気に話している。
 なんでも、おはるさんは、こちらで行儀見習いの稽古をつけてもらうことになったのだが、一度、一人で稽古してもらいたいとお願いし、この誰の稽古も入っていない時間にやって来たのだそうだ。
 おひなが、黙ったままの文吉に気づき、「こちら、私の兄です」と、文吉に声をかけた。
 文吉ははっとし、「文吉と申します」と、慌てて居住まいを正した。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、肘は垂直になるようにおろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座する。
 そうして、きれいに座礼した。
 これは、お商売を学ぶ中で自然と身についた所作である。
「先生、こんなうるわしいお方に会った時には、どんなふうにしたらよろしいんですか? 今すぐ教えてくださいな」と、おはるが言う。
「まあ!」と、珍しく叔母が驚きの声を上げた。
 文吉は、これ以上おはるを見つめすぎてはいけぬと、叔父の部屋にそそくさと入って行った。


 このおはる、妹のおひなといくつかの同じ習い事に通っていた。
 おひなが言うには、おはるは、あの通りの性格で、よくも悪くも何でも思ったことを口にするから、お稽古仲間には冷遇されているのだそうだ。
「あんなに明るく、正直でかわいらしい娘さんをなぜ嫌うんだ?」と、文吉は首を傾げた。
 おひなはため息をつき、「だからね、お茶のお稽古の時に、掛け軸の絵を見て、笑っちゃったり、お菓子が小さいって言っちゃったり、お茶のお稽古より団子屋に行きたいって言っちゃったりね……」と説明する。
 文吉は、「そうか」と適当に頷き、「面白くていいではないか」と続けた。
「まあね、私もちょっとおはるさんて面白いなって思ったんだけど、私がそういうふうに思うのが、ほかの子たちは嫌なのよ。こう、新参者なのに輪を乱すっていうか……」
「だが、稽古というのは、何人かで受けていて、そこの先生がおはるさんを門下生にすると認めたのなら、そういうものだと思うものなんじゃあないか。ほかの人だって、もともとは初心者で門下生になったんだろう? それとも、新たに入った門下生は、何かしら嫌われる慣習でもあるのか?」
 おひなはお花を活けているところで、あれこれ考えながら、花を手に取る。
 こうしたちょっとした所作が、お母ちゃんに似ていると文吉は思った。
「そうじゃないけど……。でも、郷に入っては郷に従えって言葉もあるでしょう? 先に門下生になった人は、それだけ学んでいるんだから、ある程度はそれに合わせて、場を乱さないようにするのも礼儀っていうか……。うまくやっていくために必要なんじゃない?」
「それもそうだよなあ」と、文吉は頷く。
 伊達におひなも、毎日お稽古に通っていない。こういうことは、やはり、実際にお稽古に通い、そこで学んだ者にしかわからぬさまざまなことがあるのだろう。
 ああ、本当に私は剣術道場に入門しなくてよかったよ。
 おひなたち、大人しい娘さんのお稽古ですら、そんな人間関係があるってえのに、私が剣術道場に入門したら、「あれー」とか、「ひー」とか、「助けてえ」とか言って逃げ回って、大層場を乱しただろうし、周りのやる気も削いじまったことだろうよ……。
 やっぱり、お父ちゃんにがっかりされても、断って本当によかった。
 そう思っていると、「文吉、いつまで休んでるんだ! こっちは忙しいんだから、さっさと戻らんか」というお父ちゃんの声がした。
 そうだ、ちょっと厠(かわや、お手洗い)に行ってまいります、と言って店を抜け、ついつい、縁側で一息ついていたんだ……。
「はい、ただいま!」と、声だけは従順で歯切れのよいものを返し、文吉はよっこらしょっと腰を上げたのだった。


「そいつぁ本当かい?」
 朝餉の席で、つい文吉は大きな声を出した。
 皆、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士を揃え、足の親指同士が離れぬように正座し、お父ちゃんの「いただきます」の声を待って箸を取る、というところであった。
 その直前におひなが、「今日、お稽古で一緒の子たちがうちに来るの」と言ったのだ。
「一体どうしてまた」
「今ね、お稽古の後に用事のない子たちで、順番におうちにお邪魔してお話したりするのが流行っているのよ。私もほかの子のおうちに遊びに行って、それで今日はうちなの。……ほかの子は、まだおはるさんを家に呼んでいなくて、おはるさんが輪に入れていないの。だからっていうのじゃないけど、うちにおはるさんを呼んで、仲良くなれたらいいなって」
「そうか……。おはるさんは明るいし、すぐに人気者になるだろうな」と文吉が頷いた。
「どうして、そんなにおはるちゃんのことをほめるの?」
 おひなが訊く
「あ、ほら、前に行儀見習いの時に会って、とても明るくいい人で驚いたんだ。それだけだ、それだけ」
 文吉は早口で答えた。
 ああ、仕事の前にちょっくら髪結いのところへ行こう……。
 おはるさんが来るのなら、身だしなみを整えたい。
 初めておはるに会った日、文吉はあいさつもそこそこに叔父の部屋に入ったのだが、おはると叔母、おひなの話し声は聞こえてきていた。
 おはるは、家はもともと小さな店で、そこから大きくなったから、幼い時には家の手伝いもしたとか、いう話をしていたが、その口調がなんとも朗らかで、その人柄が感じられた。
 その声も心地よく、ずっと聞いていたいという思いとともに、もし、自分が話をしたら、どんなふうに聞いてくれるだろうか。ああ、うまく話せるだろうか……。そんなことを延々と考えていた。
 そうして、ああ、またおはるさんと会えないかしら、と思っていた矢先のことである。
 まあ、おひなのところへ来るのだから、長い話はできまい。
 だが、身だしなみくらいは整えたいところだ。
「お父ちゃん、悪いけど、ちょっと髪結いのところへ行ってから、お店に出るから」と文吉がしれっと言うと、「そういうことは、お商売の前に済ませておけ!」と叱られた。
 見かねた番頭が、文吉に用事を頼む振りをして、朝、外出させてくれた。


 だが、朝、髪結いのところへ行っても、おはるさん、否、もとよりおひながお稽古から帰ってくるのは、午後である。
 自分でもまあ、呆れるくらいに気がせっていた。
 一体どうしたというのか……。
 そんなふうなことを考えていると、「ごめんください」と、声がする。
「はい、いらっしゃい」と顔を上げれば、ずいぶんと上等な装いで恰幅のよい老夫婦が立っている。
 初めて来る客である。
「なんにいたしましょうか」と、文吉が尋ねる。
「あの、こちらはおひなさんのお宅でよろしいでしょうか」
 ……客ではなさそうだ。
「はい、左様でございます」と文吉が頷く。
「実は……」と、夫婦が話すところによると、この二人は最近できた大店の主人とお内儀さんで、おはるの両親であった。
「今日、こちらへおはるを呼んでいただいたと聞きまして、何かご迷惑をおかけしないかと思い、ささやかですが、お茶請けのお菓子を持って参りました」と言う。
 見れば、老舗の羊羹ではないか。
 たまげた!
 たかが、ちょーっと、自分のとこの娘がよその家に寄るだけで、こんなに旨くて、おまけに高いもんを、両親じきじきに持ってくるなんて!
「いや、あの、お気持ちだけで。うちのおひなもおはるさんに来ていただけると喜んで話しておりました。お心遣いは無用ですよ」
 文吉は慌てて言った。
「文吉、お客さんか?」と、お父ちゃんが帳場から出てくる。
「ああ、お父ちゃん」と、文吉が訳を話す。
「これはこれは、ご丁寧に」と、お父ちゃんは二人にあいさつし、「大したもてなしもできませんが、よろしければおあがりください」と、勧めた。


 お父ちゃんが二人をお通ししたのは、商いのための、帳場のすぐ隣にある座敷ではなく、中庭に面した方の座敷であった。
 その間に、番頭が一番よい茶葉を包んでいる。
 これを帰りにあのご夫婦に渡すのであろう。
 さすが、お父ちゃんと阿吽の呼吸の番頭だけある。
 さて、それはいい。
 わざわざお越しくださったおはるさんのご両親をもてなすのは、良いことだ。だが、帳場から離れていちゃあ、中の様子がさっぱりわからないではないか。
 気になった文吉は、茶を運ぶお女中の盆を「私が持って行くよ」と、言い、様子を見に行った。後ろからは、「明日は雪でも降るかしらねえ」と言うお女中の声が聞こえたが、まあ、雪ならそれはそれで結構、おはるさんが来るのが明日なら雪では都合が悪くなるやもしれないが、来るのが今日なら、なんら問題ないと受け流した。
 座敷では、それぞれの両親が正座し、向かい合っていた。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士向かい合うように揃え、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座している。
 これはこれはご丁寧に、とか、こちらこそ急にお訪ねしまして、とか、そんなやり取りが聞こえる。
「失礼します」と、文吉が茶を持ち、座敷の前で膝をついて障子を開けた。
 お父ちゃんの目が、『お前、またさぼったな』と言っているが、この場ではさすがに言えないらしい。
 しらっと文吉は、以前叔母に教わった行儀見習いでの流れを思い出し、丁寧に障子を閉め、お茶をおはるさんのご両親の方からお出しした。
 それを見ていたおはるさんのご両親は、「やはり由緒ある家の息子さんは品が違いますなあ」と言った。
「品、ですか?」と、お父ちゃんが驚いて訊き返す。
 そのお父ちゃんの前に文吉は茶を置く。
「ええ、うちは、ご存知かわかりませんが、一代で店を大きくしまして、それまで私も、うちのも、ひたすらに働きまして、とてもとても作法だのお茶だのを嗜む余裕がございませんでした。子どもたちも小さい頃は、それこそ上の息子二人は大事な働き手、おはるもその分、幼いなりに飯炊きなんかを頑張ってくれましてね。手習いも読み書き、算盤まではどうにか学びましたが、上の息子は十を過ぎたあたりで、もう手習いはやめておりました。まあ、兄妹三人、どういうわけか、物語なんかが好きでね。絵草紙を買って、それを仕事の合間に読んで聞かせてやっておりました。贅沢といえば、それくらいです。そうして、家族みんなで必死に頑張りまして、たまたま運よく、お商売が軌道に乗りまして、今の店を持てた次第でございます」
 おはるのお父ちゃんは、張りのある声で朗らかに語った。
 とても温かく、よい方だ、と思った。
 おはるさんが、あのように素晴らしい娘さんなのも頷ける。
「それは立派なことでございます」と、お父ちゃんが言う。
「ありがとうございます。ですが、うちには家柄も教養もございませんで。なんとか、おはるには、今からでもお稽古事に通わせて、よそのお嬢さんのように育てたいと思っておりますが、皆さんの仲間に入れるかどうか……。そんな時、おひなさんがおうちに誘ってくださったと、おはるがそれはそれは喜んでおりまして」
「まあ」と、お母ちゃんが嬉しそうにほほ笑む。
「こちらこそ、仲良くしていただいて」
「うちでよければ、いつでも来てください」
 そうそう。
 昔、お父ちゃんたちが散々取っ組み合いのけんかをした座敷ですけど、と文吉は内心思う。
 お母ちゃんの前に茶を置くと、「あの、おひなさんのお兄さんの文吉さんですよね」と、おはるさんのお母ちゃんが尋ねた。
「はい」と、文吉は頷く。
 お前、何かしたか、という目でお父ちゃんが見ている。
「実はおはるが、行儀見習いの時に、おひなさんのお兄さんの文吉さんにもお会いしたと。とても品があって、物腰の柔らかなお人だと伺いましたが、その通りですね」
 家でおはるが、文吉の話をしていた。
 ぱあっと、文吉の背景が明るくなる。
 満開の桜にうぐいすも鳴いている。
「いえ、こちらこそ、褒めてくださり、ありがとうございます。おはるさんは、明るくて、朗らかで、そして美しい娘さんです。あんなにも素晴らしい娘さんにお会いしたのは、初めてのことです」
 ……つい、舞い上がって言ってしまった。
 嘘ではないが、思ったことを包み隠さず言っていい時と、そうでない時がある。
 嗚呼、普段友達付き合いをしていないから、こういう時にしくじるのだ。
「……では、ごゆっくり」
 文吉はどうにかお作法を思い出し、丁寧に障子を閉めて、座敷を後にした。


 さて、この日、おひなは予定通りお稽古仲間を連れて帰って来た。
 皆、よいところのお嬢さんばかりなので、そつなく、品がある。 
 だが、その中で、ひときわ輝いているのがおはるであった。
 今日もあでやかな着物がよく似合う。
 文吉から見れば、ほかの娘たちは皆、おはるの引き立て役のようだ。
 店で文吉はおはるを見つめ、「いらっしゃい」と声をかけた。
「また会えて嬉しいです」と、おはるは血色のよい満面の笑顔で言ってくれた。
 ぞろぞろと娘たちが座敷に移動し、文吉はお商売に戻る。
 ……だが、やはりおはるたちが気になる。
 またしても、文吉はお女中から茶の載った盆を取り、座敷へ向かった。
 娘たちは何かを話しているが、どうやら、少し前の稽古の話らしく、おはるがその輪に入れないでいる様子だった。
 もうちょっと、そのへんは配慮してもよかろうに、と文吉は思う。
 おひなが、「今日のお稽古では」と、話を変えるが、すぐに戻されている。
 いやはや……。
 まあ、うちの兄妹は、こんなものである。
 ふとため息をつきかけたが、文吉は「皆さん、楽しまれていますか」と、茶と菓子を持ち、座敷に声をかけた。
 そうして、「おはるさんは、先日出た戯作はお読みになりましたか? 昔から絵草紙が好きだとお聞きしまして。それならば、戯作にも興味がおありかと……」と話を切り出した。
 ほかの娘は黙っている。
「ええ、読みました。売り出されていたので、すぐに買いました」
 おはるの表情がぱあっと明るくなる。
「私もです」と文吉は頷いた。
「ああ、でもここにいるほかの娘さんにはわからぬお話をするのも野暮ですから、また今度機会があった時にお話しいたしましょう」
 さらりとそう言い、文吉は座敷を出た。
「おはるさんは戯作がお好きなの?」と、さっき、おひなの話をすぐに変えてしまった娘が、おはるに話しかける。
「ええ、子どものころから本が好きなの」と、屈託ないおはるの声がする。
 よかった、と文吉は一人微笑む。
「おい、文吉はこの忙しいのに、どこに行っている」と、お父ちゃんの声がした。


 本屋に立ち寄ると、「文吉さん」と声をかけられた。
 顔を上げれば、隣におはるがいた。
「ああ、こんにちは」
「本を買いにいらしたのですか」
「ええ。おはるさんも?」
 おはるが頷く。
「文吉さん、この前は、ありがとうございました」と、おはるが頭を下げる。
 行儀見習いに通った成果か、きれいな礼であった。
「いえ、私は何も……」
「せっかくおひなちゃんが私を仲間に入れようと頑張ってくれたのに、なかなかうまく入れない私を案じて、助け船を出してくださいましたよね」
「いえ、ただ、私はおはるさんと話したかっただけですよ」
「やだー! 文吉さん、本気にしたらどうするんです」
 どーんと、背を叩かれた。
 だが、それとて嬉しい。
 通りでは、お芝居の新しい演目が始まり、道行く人が集まっている。
「おはるさんは、お芝居はお好きですか」と文吉は訊いた。
「私、行ったことがないんです」
 恥ずかしそうにおはるが言う。
「私もですよ。だから、店で頑張って、そうですね、おはるさんが十五、十六になるころに、一緒に行きませんか? 私でよければお連れしますよ」
「本当? 嬉しい! それでは、私、楽しみにしていますね」
「ええ、私も」と文吉は微笑んだ。
 老舗の茶葉屋の若旦那が、江戸にできた大店の娘と仲良く話している姿を見た、といううわさは、そっと広まった。
 それは色恋を面白おかしく、というのではなく、微笑ましく見守りたい、という江戸の大人たちの温かな話題であった。

おすすめ