[399]月輪(げつりん)のための正座
タイトル:月輪(げつりん)のための正座
掲載日:2026/02/05
シリーズ名:スガルシリーズ
シリーズ番号:10
著者:海道 遠
あらすじ:
朝、スガルは夢を見ていた。夢の中で自分はまだ赤ん坊で、青龍やヒキガエルと一緒に楽しく泳いでいた。
月の邪神がちじんは、手下のヒキガエルに笹舟を漕がせてシャラシャラと流れる音がする星の河を下り、地上にやってきた。ヤマタノオロチと結託したという情報が入ってくる。
深青(しんじょう)が八坂神社にやってきて、完璧な正座で挨拶をする。座仙女に仕える者で、スサノオに助力しにきたという。さて、がちじんとヤマタノオロチはどう戦いを仕掛けてくるのか――。

本文
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序章
あの、荒ぶる神が端正な正座した!
それも、どっしりと、しかも美しく!
いったい誰だ、荒ぶる神を正座させたのは!
誰もが指を差して驚いた。
大昔から暴君として知られたスサノオの尊が、慈しみ深く正座する姿を目の当たりにして――。
その姿こそが「大切な月を護る」という決意のカタチだったのだ。
第一章 笹舟
朝、スガルは夢を見ていた。夢の中で自分はまだ赤ん坊で、青龍やヒキガエルと一緒に楽しく泳いでいた。目が覚めてから、あかり菩薩に話す。
「青い龍やヒキガエルのおじさんが、赤ん坊の俺に泳ぎを教えてくれたんだ」
「楽しそうに笑ってたわよ。ガマ平ってそのヒキガエルのおじさんの名前?」
朝の光の中で添い寝していたあかり菩薩は、にっこりした。
「そうそう、そう言ってた。ガマ平さん、貴人の舟を漕いでいるんだとか」
「貴人? 温かい夢を見たのね。座仙女さまのお屋敷から都に帰ってきてホッとしたんでしょう」
「うん。美甘姫とゆいまるくんの警護を無事に終わったからね」
幾憶にもなるだろうか、その河の星の数は――。
月の邪神がちじんは、手下のヒキガエルに笹舟を漕がせてシャラシャラと流れる音がする星の河を下り、地上にやってきた。
すまし顔で笹舟に乗ったがちじんは、お釈迦さまのように穢れのない顔の相をしており、聖なる月の神にしか見えない。
「がちじんとヤマタノオロチが手を組んだ――!」
翠鬼(すいき)が察知してつぶやいた。
「その証拠に月を観ろ」
宵の月は血の色のようで、巨大な眼が映し出されている。
「きゃ~~っ」
「ば、化けものっ!」
思わず八坂神社の境内にいた女性たちが、悲鳴を上げて物陰に隠れた。恐ろしげな爬虫類の縦に細い瞳孔の眼が、月からこちらを睨んでいる。
「あれはヤマタノオロチの眼だ。邪神の月神(がちじん)が映し出すことを許し、地上の者に双方が手を組んだことを知らしめるために見せつけているのだ」
「月神がちじんとヤマタノオロチが手を組んだ? なんてこと! 最悪だわ!」
美甘ちゃんが叫ぶように言い、マグシ姫と手を取り合おうとしたが、マグシ姫は震え上がり、皇子を抱いたままその場にしゃがみ込んでしまった。
「……スサノオの君さまの巨大な敵がふたつ、手を結ぶなんて!」
「あの月はまだ威嚇しているだけですよ、マグシ姫さま」
翠鬼が慰めた。
「翠鬼……どうして、そんなことが分かるの?」
「私の身体は翠色。名は緑の一種、翠鬼を名乗っています。青龍と繋がりのある緑色ですから。彼らは青龍が恐ろしくて攻撃できないことが分かるのです」
「青龍は八坂神社の護り神ですものね。なるほど……」
「それとですね」
翠鬼は八坂神社の本殿の軒先から離れ、境内の外れへ連れて来た。
「実は数日前、森の中で倒れているひとりの男と出会いました。いつぞや姫さまが【凶つ奴(まがつど)党】の岩牢に閉じ込められた時に知り合った、ヤマタノオロチから一人だけ縁を切りたいと言って、逃げだした男を覚えていますか?」
「え、ええ。覚えているわ」
「その男だったのです。私は『元オロチ』と呼んでいますが、彼から月神がちじんとヤマタノオロチの結託を聞いたのです」
「――!」
「彼はヤマタノオロチ信仰者たちに拉致(らち)されていて、逃げ出したところに出会い、彼の証言から分かったのです」
「……まあっ!」
美甘ちゃんは口元を押さえた。
(そのうち、弱点を掴んで攻撃してくるでしょうが――)
最後の言葉は口に出さず、心の中で唱えた。
(まもなく邪悪なふたつの魔物のひとつ、がちじんは地上の庶民の生活を狂わせる。もうひとつの魔物、ヤマタノオロチは暴虐を尽くし、人間に襲いかかるようになるだろう――)
第二章 久々の対面
スサノオの尊が地下湖の青龍に会いに行く。
不ぞろいな石の階段を降りていくと、本殿の真下に行き着く。
微かな光の中に青い湖面が見えてきた。透明な蒼は冷えた空気を澱ませて、スサノオは背中をブルっと震わせた。
湖の中央に小さなアブクが立ち、だんだん大きくなって龍の青緑の頭が現れた。
「なんだ、スサノオの尊か。美甘姫のひとり息子のゆいまるかと期待したのに……」
青龍は太い眉をしょんぼりさせた。
「お前、いつの間にゆいまる坊やと知り合いに?」
「迷ってこの湖にはまってしまってな、ワシが泳ぎを教えてやったのよ。もうすっかり水スマシのようになっとる」
「ほう……、これは思いがけぬ組み合わせだな。――俺とはどのくらいご無沙汰していたかな、……ヌシ。変わりないか……少しは老けたか」
スサノオの尊が口を開く。
「―――貴様もな」
青龍は苦笑を見せた。
「術(すべ)もない。ここのご祭神に任命されてから、二千年過ぎるからな、同士」
「ところで青龍、お前の苦手なものは何だった?」
「なんだ? 藪から棒に」
「近々、招かざる客が、お前の苦手なものを土産に持ってくるかもしれんぞ」
「……ぞっとする冗談はよしてくれ」
青龍の身体じゅうのウロコがゾワゾワと波立った。
「ワシの苦手なもの……人間が言い伝えしているものは、5色の糸、笹の葉、鉄の矢、などなど……。ふん、ワシの本当にヘドが出るほど嫌いなもの……何だか教えてやろうか」
「おう、何だ」
湖面が乱れたと思うと、青緑色の長いものが湖から飛び出して、湖面を激しく打ちつけた。
大量の水しぶきを浴びる前に、スサノオの尊は背後の岩の上に飛んでしりぞいた。
「ワシの本当に嫌いなものは、性根は乱暴なクセに、おとなしいふりして神社の奥で正座しているヤツよ!」
吼えるように、青龍はスサノオに怒鳴りつけた。
しりぞいたものの、飛沫だらけになったスサノオは、顔にかかった水を忌々しげに拭いはらった。
「そうかい。それならそうと、早く言ってくれれば良かったのに……。ついでに俺のヘドが出るほど嫌いなものも教えてやろう!」
「む?」
「日頃、これといって何もせんくせに、庶民から崇め奉られ(あがめたてまつられ)、毎日毎日、沼の底で寝ているヤツよ!」
スサノオの尊が言い終わるか終わらないかのうちに、青緑色の長いものが、目にも止まらぬ早さで再び湖面から飛び出してきて、スサノオの身体をぐるぐる巻きにした。
青龍とスサノオは顔面が触れそうなほど接近して睨みあう。
「ううっ、苦しい……」
「どうだ、ワシの力を思い知ったか、年齢だけ重ねて愚かしいスサノオの尊!」
「なにをっ!」
スサノオがなんとか腕を抜き出し、剣を青龍の身体に突き立てようとした時、
「二柱さまとも、何をやってるんですかっ!」
第三章 敵のふたつが
甲高い声が洞窟に響き渡り、天井から岩の欠片(かけら)がぼろぼろ降ってきた。衣を泥だらけにして駆けつけたマグシ姫の叫びだった。
「兄弟喧嘩みたいな内輪揉めしてる場合じゃありませんっ! 君さま、青龍さま、耳の穴かっぽじってよく聞いてくださいっ!」
いつの間にか抱き合っていたスサノオと青龍は、ハッとして離れた。
「美甘ちゃんからの情報です! 月の邪神がちじんが、今まで本体と魂は月にいましたが、いよいよ月から笹の舟に乗り、降りてきたそうです! それとヤマタノオロチの率いる【兇つ奴党】が、がちじんと手を結んだそうですよ!」
「なっなに〜〜? さ、笹の舟で?」
「【兇つ奴党】と手を組んだ?」
スサノオの尊と青龍は、驚いてアゴが外れるほど口を開けて閉まらない。特に青龍は「笹の葉」と聞いて、顔色が真っ白になったばかりか、がちじんが月から降りてくると知ってから震えが止まらない。
「あ、あいつは6本の腕を使って爪の先で、ワシの逆鱗(げきりん)に触れようと狙っているのだ! おお、嫌だ嫌だ!」
逆鱗とは龍の喉元にあるウロコのうちの1枚で、これに触れられると怒り狂うと言われている。それほど不快な場所なのだろう。
「まずいな……」
スサノオの君も唇を噛んだ。
「もし、がちじんが青龍の逆鱗に尖った爪で触れると、この地下湖が溢れて八坂神社の境内が水びたしになるかもしれん。いや、青龍が暴れたら水害だけではすまなくなる」
マグシ姫が、
「青龍さままで、スサノオの尊さまのような暴れん坊だったとは思いませんでしたわ。この千数百年あまり、水底に静かに眠っていましたもの」
第四章 がちじんの急所
マグシ姫は、岸辺に上がって震え続ける青龍を放っておけずに、背中を撫でた。
「青龍さま、気持ちを確かにお持ちになってください。がちじんが、あなたさまの逆鱗を狙っているとは限りません」
「いや、あやつは以前、スサノオに憑依したことがあったが、もう少しで逆鱗に触れようとしていた……。どうすればいいのだ、ワシは我を失って暴れまわったりしたくない〜〜!」
青龍は子どものように、マグシ姫のふところに大きな鼻先を突っ込んで惑乱するばかりだ。
翠鬼が急いで地下湖にやってきた。
「スサノオの尊さま。がちじんが星の河から◯◯浦に到着したようです」
「う〜〜わ〜〜〜っ! 遂に?」
青龍がいっそう、ひねり潰されるような悲鳴を上げた。
マグシ姫はあまりにも哀れに思って、青龍の耳に口を寄せてささやいた。
「君さまには内緒で、私ががちじんに会ってきましょうか」
「そっそんな無謀な! 危険すぎます! 姫さまには皇子さまがおいでです。万が一何かあれば、皇子さまは……!」
マグシ姫と青龍がやり取りをしている間に、翠鬼が叫んだ。
「月の邪神がちじんと、ヤマタノオロチの急所は共通して眼です!」
「片方の眼が、やつら両方の急所として通用するのか?」
スサノオが素早く尋ねる。
「魂が繋がってますから同一の命です」
翠鬼が続ける。
「しかし、蛇の類……つまりヤマタノオロチも、がちじんも瞬きはしません。瞼が無いからです。代わりに眼を保護するウロコを持ちます。ゆえに眼を攻撃するのは困難です! それが問題です」
しばらく地下湖の岸辺で休んでいた青龍が、頭をもたげて口を開いた。
「がちじんは、今回、渾天儀(こんてんぎ)を持参してきている……抱き抱えているのか、どこかに隠しているのかは判らぬが、私には感じられる」
「渾天儀……太陽や月、その他の星の動きを見るという古代からの模型ですね」
マグシ姫が言った。
「いかにも。渾天儀を慎重に見て、こちらへの攻撃時期を割り出すつもりでしょう」
「それまでに、がちじんを撃退せねばなりませんね!」
翠鬼が元気よく言ったが、スサノオが力なくつぶやく。
「しかし、今のままでは敵の力の方が勝っている……ヤマタノオロチが洗脳した人間たちが、増えているゆえな」
「君さま、弱気なことを……」
第五章 深青(しんじょう)
スサノオの尊とマグシ姫は地上へ登り、しばらく境内の木陰に座り黙って考えこんでいた。
西の空に夕星(ゆふづつ)が、うっすら現れる頃、スサノオは「よっし」と力強く立ち上がった。
「取りあえず、がちじんらの急所は判明したのだ! それを狙い打つのみ!」
「はい、君さま! 皆で清らかな月を護りましょう!」
マグシ姫も奮い立った。
その時だった。
堂々と八坂神社の正門鳥居を一礼してから、夕陽を背に、くぐってきた男があった。白い衣の上に簡易な皮の鎧を着けた肩幅の広い偉丈夫だ。黒髪は首の後ろで束ねている。
彼は立ち上がったばかりのスサノオ夫妻にまっすぐ近づいてきた。夫妻の前に、やおら落ち着いて背筋を伸ばして立ち、膝を着き衣をお尻の下に敷き、かかとの上に座った。美しい正座の出来上がりだ。
「私は座仙女(月兎路)さまの元に仕えております深青と申します。この度、座仙女さまの命により、スサノオの尊さまとマグシ姫さまにご助力させていただきます」
スサノオの尊が「どこかで見たような」という目を向けた。
「深青……?」
マグシ姫が、
「私は美甘ちゃんからの報告でお聞きしています。たいそう頼りになるお方だと。龍かもしれない殿方だと」
スサノオの視線が、ややトゲトゲしく真横からマグシ姫に刺さった。
「真に素晴らしい体躯をお持ちのお方! 知略にも長けておられるとか……」
ますますスサノオの視線が怖い色になり、マグシ姫と深青という男に向けられる。
急いで飛んできた翠鬼が、
「さ、さ、こんな境内で立ち話もなんですから、お座敷でご一服なされてはいかがですか?」
ヤケに明るい声で三人を本殿へうながした。
第六章 瞳の中の渾天儀
侍女が3人に茶を運んできた。
スサノオが真っ先に飲み干し、ややスッキリした表情になった。
(もう……君さまったら、やんちゃ坊主のままなんだから)
マグシ姫はスサノオのジェラシーをお見通しだ。
「ところで、スサノオの尊さま。◯◯浦に月からがちじんが降り立ったことは、お耳に入りましたか」
深青が尋ねた。
「うむ。先ほど」
「では、がちじんの瞳の中に、精密な渾天儀が仕込まれていることは?」
「そ、それは初めてお聞きする!」
マグシ姫と翠鬼も真剣な表情になった。
(がちじんは瞳の中の渾天儀を読んで、作戦を練るつもりだな)
翠鬼が一同の前で尋ねた。
「ところで皆さま方のうちで、がちじんの素顔をご存知の方は?」
一同、顔を見合わせたが、首を横に振るばかりだ。美甘ちゃんが、
「知らないわ。憑依されたミツアミくんの顔なら見たけど……。まるきり、おとぎ話に出てくる鬼だったわ」
マグシ姫も首を横に振った。
「スサノオの君さまが憑依された時は、魂に取り憑いたのか、外見を見ていないわ」
「美甘姫の鬼そのものという情報だけで……」
翠鬼が、
「邪鬼の兄貴たちに◯◯浦に張ってもらっていたところ、がちじんは大きな笹舟をヒキガエルに漕がせて到着したそうですが、顔は観音菩薩そっくりだったと言うのです」
「観音菩薩? あのように気高いお顔だと? ――おそらく、わざと顔相を変えているのだろう。観音菩薩のように、男女の区別もつかなくしているのだ」
深青が言った。直後に翠鬼が、
「邪鬼の兄貴から情報が入った! がちじんは、今夜、お肌の手入れをするそうだ」
ドカドカッと足音がして、天燈鬼と竜燈鬼がそろって座敷にやってきた。
「あ、兄貴たち!」
「よう、翠鬼! がちじんは上陸して、都へ向かうらしいと踏んだ! 想念送るのはじれったいから、やってきたぞ!」
「今夜、あいつはお肌の手入れをするそうじゃないか!」
「都でやったって不思議はない! ヤツの標的はスサノオの尊さまに変わりないからな!」
天燈鬼が鼻息を荒くして言った。
「お肌の手入れというのは、おそらく脱皮のことだ」
「脱皮?」
「おう。ヤマタノオロチと同族なら蛇の仲間だ。脱皮して不思議はなかろう」
スサノオの尊が、
「脱皮すると、ひと回り成長するのか? 悪い力を増強するとか」
「その恐れはありますな。脱皮を繰り返さないと生きられないのかもしれません」
翠鬼が慎重に言った。
第七章 ガマ平、来る
夜も更けてから、本殿の座敷に大きなヒキガエルが登ってきた。
マグシ姫と侍女らは、
「きゃ~~~っ!」
と悲鳴を上げて四方に逃げた。
「ま、待ってくれ。ワイは、がちじんの笹舟を漕ぐ係のガマ平だ。ワイもヒキガエルだし、月を溺愛するひとりだ。これ以上、がちじんの横暴を見過ごすわけにはいかんと思ってやってきた!」
「み、みんな、騙されるな! がちじんが偵察によこした可能性もあるぞ!」
一同、部屋の壁に寄ってヒキガエルを避ける。
そこへ「夕方のおねむ」から覚めた、ゆいまるがやってきて、
「ぴゃ~~っ! ガマへ~~い!」
歓声を上げるなり、ヒキガエルを抱きしめた。
「ゆ、ゆいまるっ」
「ゆいまるさま!」
一同、慌てているところへ、うりずんがやってきた。
「な、何の騒ぎだね?」
「そよぎ! ゆいまるが、がちじんの手下かもしれないヒキガエルを抱っこして……」
美甘ちゃんが指さして言ったが、うりずんはのん気に、
「ああ、ゆいまるはガマ平と友だちになったそうだ。地下の湖に迷いこんだ時に、青龍と共に泳ぎを教えてもらったとか」
「ま……そんなこと、すぐに教えてくれないと!」
第八章 渾天儀飛び散る
不気味な妖月が登りはじめた。
冥く(くらく)緑がかった色をしている。
その頃、スガルは簡易な鎧を着けて出かけようとしていた。あかり菩薩は浮かない顔だ。
「くれぐれも気をつけて。がちじんの滞在地なんだから」
スガルを行かせたくないようだが、彼はあかりの手を握り返し、
「大丈夫さ。待っていてくれ」
ひとりで空師のように高い木に登ってから、跳んでいった。
その頃、がちじんは手下に囲まれながら妖月を見ていた。
「妖し(あやかし)の月が我を呼んでいる……。早く脱皮をすませよと言うている……」
がちじんは京の西山の森の奥深くに潜んでいた。真正面に、遠くから八坂神社が見える場所だ。
朽ちそうな古寺にこもって板の上に横になり、徐々に剥がれ落ちる顔面の皮をピリピリと、手下どもに剥がさせていた。
眼の周りの薄皮も細い器具で丹念に取るよう命じた。
いよいよ眼球の蓋をしている2枚のレンズを剥がす。
レンズが古びていたので、たやすく取れた。
顔面全体が表れた。
血の色そのものの色に、細かいウロコがびっしり生えた顔だ。頭髪はまばらに黒い毛が生えている。
左の眼に自分で触れて激痛をこらえ、奥から小さな丸いものをゆっくりゆっくり取り出す。それは金柑ほどの大きさの精密な渾天儀だった。
がちじんの呼吸が荒くなる。古いとはいえ鉄で出来たもの。龍と近い類(たぐい)がちじんは、恐れと痛みに苦しんでいたが、耐えて手のひらの上で転がしたり、上に持って透かしてみたりした。
瞬間―――部屋の中の空気が裂かれた。
がちじんの手の中の渾天儀が砕かれ――細かい破片となって飛び散った!
1本の鉄の矢が渾天儀を打ち抜いた瞬間だった。
「な、何やつ?」
がちじんは床に伏せ、配下の者らは四方に視線を走らせた。
「生憎だったな、がちじん! 攻撃の好機を星の動きから判断できなくなったな」
窓の外の大木の枝から、ももんがのように飛んでいく男の姿があった。
「あいつは一時取り憑いた空師か? ――いや、違う! あいつは……あの男は!」
第九章 タタラ御前
本殿の奥座敷に、スサノオの尊、マグシ姫、うりずん、美甘姫、深青、邪鬼2匹と翠鬼らが集まっていると、走り込んできた男がある。
「ご一同、先ほど、がちじんが脱皮して、眼の中の渾天儀を出している隙に、窓の外の木の枝から矢を射て渾天儀を破壊しましたぞ!」
スガルだった。
「おおお、本当か、それは!」
一同は立ち上がった。
「空師の後を追って、木の枝を渡り歩いていたのが功を奏しました!」
「よくやったな、スガル!」
褒める声の中で、冷静な声が飛んできた。
「まだ褒めるのは早い!」
聞き慣れない女の声に一同が振り向くと、座敷の間口に漆黒の鎧をまとった黒髪に黒い口紅の大柄な女が立っていた。
美甘ちゃんが叫ぶ。
「貴女は出雲地方のタタラ御前!」
「美甘ちゃん! あなたに危機が迫っていると耳にして、駆けつけたわよ!」
相変わらずの黒い口紅に、美甘ちゃんは少しタジタジとなったが、なるべく顔に出さずに挨拶した。タタラ御前は続けて、
「そこの若い軍人の願いを聞いて、西山のがちじんの隠れ処付近で、わたくし自ら燃える鉄から作り上げた鉄の矢を提供したのよ!」
「このお方がタタラ御前……。青龍の味方をしてくださるとは、龍は鉄と熱に弱いというのに、天地がひっくり返るほど意外なことだ!」
一同が驚くやら喜んでよいやら、迷っていた瞬間、
「何を、古くさい言い伝えを信じているのだ!」
タタラ御前は新しい考えを優先する。
「正座ができる静けさを保つために、がちじんとやらとヤマタノオロチを殲滅(せんめつ)せねばならん」
「がちじんの眼の中にあった渾天儀をひとつ壊しただけで満足するとは―――手ぬるいにもほどがある!」
一同はざわざわした。
深青が正座したまま、身体をタタラ御前に向けた。
「待たれい、タタラ御前とやら。私は座仙女さまに仕える深青と申す! また、万古老師匠とも懇意の仲だが、正座の教えは戦わずに勝利すること! あくまで静かに正座の力で、相手を説得することだ!」
タタラ御前と深青が、真向(まっこう)から睨み合うことになってしまった。場は静まりかえり、ゆいまるがガマ平と遊ぶ歓声がひびくばかりだ。
――と、ガマ平が急に遊ぶのをやめて、うりずんに耳打ちした。
「諸君、地下湖の青龍さまが、スサノオの尊さまに言いたいことがあるらしいと、ヒキガエルが申しておりますぞ」
第十章 青龍の正座
スサノオは立ち上がり、地下湖への階段へ急いだ。
青龍はスサノオが来た気配を感じて、湖面から頭を出した。
「てててて……」
「どうなされた? 青龍さま」
「いや、なに、我の逆鱗の内側に小さなものを隠したお方がいらしてな、それが痛むのだ」
「誰がそんなことを!」
「そんなことはよい、よい。それよりも、小さなものから重要なことを読み取り、がちじんから月を取り戻すのだ」
「え、では、月はすでに、がちじんの手に落ちていると?」
「急いで逆鱗の内側にある、渾天儀の一部の矢の先から、がちじんの重要なことを読み取るのだ。サビているらしいが、我は鉄に触れられん!」
「小さなものとは、渾天儀の矢の先なのだな!」
スサノオの尊の叫びを聞いたうりずんは、
「では、それは、隠した本人のゆいまるにやらせましょう!」
駆けつけた美甘姫が、とんでもないという顔で、
「ゆいまるに読み取る能力があるとでも? とても無理ですわ!」
「やらせてみよう。鉄矢の先の文言を読めるかどうか、賭けだ!」
「そよぎってば!」
龍かもしれない漢(深青)は、やはり龍だった。
ゆいまるが青龍の逆鱗の内側から、鉄の矢の先を取り出し読み取ろうとするが、幼いゆいまるには分からない。
助けたのは深青だ。
「『眼を閉じよ―――』サビた鉄矢の先を慎重に読むと、古い龍文字でそう書いてある。眼を閉じて煩瑣(はんさ)な視界を遮断せよ、邪悪なものの眼を見てはならないと」
ゆいまるの見た文字が深青を通して、その口から語られた。
「替わって我の青い瞳を見よ。月を崇め、見上げて正座する。皆のもの、続いて正座せよ。我は正座を編み出した青龍だ!」
「深青が青龍―――?」
地下湖に降りてきていたスサノオの配下が、驚いて聞いていた。
湖の中で頭を出していた青龍が、
「皆の者、疑うことなかれ! 深青こそ青龍がヒト型になった姿――我の跡継ぎに間違いない! 我もゆいまる坊やの瞳を信じる。坊やが鉄矢から読み取って深青に伝えた想念だ!」
うりずんが地下湖の岸に立った。
「湖の青龍さま、かたじけない。我が息子を信じてくださり、梵(そよぎ)は心の底から感謝いたします」
「もうしゃま―――!」
ゆいまるが青龍の喉元から、可愛い手を振った。
スサノオの尊とマグシ姫が並んで、月に向かって所作正しく正座する。
背筋を伸ばして立つ。その場に膝をつき、衣をお尻の下に敷き、かかとの上に座る。そして月に向かって頭を下げる。
スサノオの尊が、
「次に立ち上がる時は『転んでもただでは起きん!』と唱えるのだ!」
庶民は「うおおおお」と雄たけびを上げてから、続いて正座した。
その夜の月は、毒々しい赤黒い月だった。
たくさんの人々が月にひれ伏して、長く長くじっとしていると――、次第にゆっくりゆっくりと、清らかな青い月に変わっていった。
がちじんが破れ、清らかな月を取り戻せた瞬間だった。




