タイトル:垂簾(すいれん)の向こうの涙
掲載日:2026/08/13
シリーズ名:白雲木シリーズ
シリーズ番号:8
著者:海道 遠
あらすじ:
初夏のある日、神社の社務所では、巫女さんたちが集まっておしゃべりに忙しい。黒のマントしか着ない無明が真っ赤なワンピースを着た若い女性と歩いているのを見たという。ピコちゃんと婚約したばかりの無明が!
そこへ、孔雀パパの緑里眼がやってきて、孔雀を数羽飛ばして偵察させたところ、ふたりは一流レストランに入ったという。

本文
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第一章 巫女さんたち
「あのうちょっと、美穏(みおん)さん!」
美穏は社務所で巫女たちが丸くなっておしゃべりに夢中になっているところへ来合わせた。
いただきもののお饅頭とあられのおすそ分けに来ただけなのだが……。
「もうすぐ夏越しの祓えのお支度で忙しいんじゃないの?」
「それはそうなんですけど、それより、ピコちゃんから何かお聞きになってませんか?」
「いいえ、何も? 孔雀の緑里眼(りょくりがん)さんのところから、無明さんのお宅へ引っ越しが無事に済んだと聞いただけよ」
「じゃあ、ピコちゃんはもう、無明さんと一緒に住んでいらっしゃるんですか?」
「ええ、そうよ。お式までしばらくご一緒に生活するそうよ」
「まあ、それは良かったこと……」
巫女たちは、複雑な表情をして口をつぐんでしまった。
「ささ、夏越しの祓えのお支度をしましょう」
持ち場に戻ったところへ、今度は孔雀族の緑里眼がやってきた。
緑の髪に、肩にはいつもながらのハデな孔雀のマントをひっかけて、一羽の孔雀が乗っている。
「巫女のお姉さんたち、ご苦労さま。暑くなってきたねえ」
「緑里眼さん、こんにちは。本当に今日も暑いことですね」
「ちょっと、お姉さん方、さっき、美穏ちゃんに何か伝えようとしていたでしょう? よかったら俺に聞かせてくれないかい?」
白雲木の幹に、セクシーにもたれて孔雀のマントを着ただけの彼にお願いされては、巫女のお姉さん方もついお口が緩くなってしまった。
「いえね、お昼前に駅前で珍しくきちんとした洋服で、朱い服の女性と歩いてらした、無明さんを見かけたんですよ」
「で、あら、どこの女性かしらって。ねえ」
「ああ?」
緑里眼の顔つきが変わった。
「今、何て言った? 無明が女性と?」
「ええ。まだお若い方と」
緑里眼が間髪を入れず、マントから手を上げて、青緑の孔雀を10羽ほど呼び寄せた。
「お前たち、今のを聞いたな。無明と女性を探せ!」
孔雀たちは飛び立っていった。
「ちょっとぉ、緑里眼さんにしゃべってよかったの? まずかったんじゃ……」
「どうして? 無明さんには婚約者同然のピコちゃんが、しっかりいらっしゃるんだし、街を歩いていたくらい……」
「あんた、ネンネね。男女の縁はどこから始まるか、分からないもんよ。それにピコちゃんの手前もあるじゃないの」
緑里眼はにっこりして巫女さんたちに言った。
「女の子のピーチクパーチクは、どんな情報網より役に立つねえ」
こうして、無明が朱いワンピースを着た女の子と一緒に歩いているという情報が多数の友人に行き渡った。
真っ先に確かめに行ったのは、孔雀たちを偵察に出した緑里眼(孔雀パパ)だ。
第二章 レストラン
青緑の孔雀どもは素早く四方へ飛び、ふたりの居場所を突き止めた。一流レストランだ。
(ピコちゃんは元々、息子の嫁に決まっていたところを、無明にさらわれてしまったんだぞ! この前、誓いの儀式だか何だかしたはずなのに、もう他の女とデートとは、無明のヤツめ!)
(ピコちゃんが可哀想じゃないか、息子の緑青(ろくしょう)のメンツも立たない。せっかく引き下がったのに)
緑里眼はいてもたってもいられず、無明さんと朱いワンピースの子が食事しようとしている現場へ乗り込んだ。
そろそろ昼間の光が夕暮れの光を帯びようとしている。
数年に一度、入るか入らないかの一流のレストランだ。
「お客様、スーツ姿でないと困ります!」
引き留めるギャルソンをヒラリヒラリとかわして、ふたりのテーブルに孔雀のマントを肩から羽織ったままの半裸すがたで、奥まで突進した。
「きゃあ〜っ!」
女性客たちが思わず騒ぐ。
「スーツ姿もへったくれもない! ひとりの誠実な女の子が心を痛めるかどうかの瀬戸際なんだ!」
フロア係の者は手を止めて、孔雀パパが駆けつけたテーブルに目を向けた。
孔雀パパは、テーブルの前に仁王立ちになって、
「やいっ、無明! お前を真剣に愛しているピコちゃんの眼を盗んで他の女性とデートとはどういう了見だ!」
無明はゆっくり振り返った。
「眼を盗んでとは、人聞きの悪い……! 俺は配下のベニカの悩みごとの相談に乗っているだけだ。紅孔雀たちは大切な配下だからな」
無明の隣に大人しく座っている赤いワンピースの女の子は居場所がなさそうにしている。
「すみません。私はベニカと申す紅孔雀の一員です。今日は無明さんにご相談があってお時間をいただきました」
「ほらな!」
無明が「それ見てみろ」という顔で孔雀パパを見返した。
「見え透いたウソをつくな! お前の息子だって、過去にピコちゃんとお付き合いしている間に沢山のファンからプレゼントをもらったりしていたそうではないか」
「息子のことは関係ない!」
「あの息子にして、この親なり! というからな」
「? ? そりゃ、あべこべじゃないか?」
「と……とにかくピコちゃんを悲しませるようなことは、俺が孔雀のプライドにかけてゆるさん! ピコちゃんは元々『うちの嫁』になるはずだったんだから!」
「だから〜〜、孔雀のパパ、俺だって紅孔雀たちを守らなきゃならないんだよ」
「無明! お前はカラスさえ元気ならいいんじゃなかったか?」
「紅孔雀も担当になったんだ! な? ベニカ?」
ベニカちゃんは、恥ずかしそうに小さな声で「はい」
とうなずいた。
真っ赤な地に白いドット柄のワンピースが可愛すぎる。胸元の襟のデザインも可憐すぎる。
「無明さんには、紅孔雀一同、いつもお世話になっておりますの」
「無明、お前、そんなに沢山の相手を……!」
「違うってば! ベニカちゃんひとりだよ」
「なんだと〜〜! 言うならピコちゃんひとりだろうがっ」
ふたりはそこで黙った。料理が運ばれてきたからだ。
孔雀パパは無明にアゴで示して店の外へ出た。
第三章 ベニカの夢
無明も外へ出てきた。
「さ、事情説明してもらおうか。あの紅孔雀の娘とはどういう関係なのか」
「仕方ないな。ベニカの見た夢まで話すことになるが」
「夢?」
「まぼろしを見たのか、夢なのかは俺には分からんが―― 先日、彼女は古代中国まで紅孔雀の姿で飛んでいき―――、ある国の皇帝に会ってきたというのだ」
「皇帝に会ってきた? 紅孔雀の娘が?」
紅孔雀のベニカちゃんが、幼い男の子の声に呼ばれて、時空を越えて到着したところは、何千年か前の中国の国だった。
ベニカが紅孔雀の身体になって、海を越えて飛んでいくと都の宮廷に呼び寄せられた。
穢れない男の子の声がベニカを呼んでいる。
「お願い、紅孔雀さん、朕(ちん)の言うことを聞いて」
呼ばれるまま宮廷の奥に行くと、カーテンの奥に5歳か6歳くらいの男の子が座っていた。
「幼い男の子が言うには、父親の皇帝が早くに亡くなったそうで、表向きはその子が皇帝位に就き、母親が簾の奥に隠れて大臣や配下や外国の使節と会い、重要な決定時頃などは男の子が伝えるんだそうだ」
「それっていわゆる、垂簾(すいれん)聴政(ちょうせい)とかってやつだな」
孔雀パパは、目を丸くした。
「聞いたことはあるが、実際の例は初めて聞くぞ」
無明は続けた。
「ベニカによると、幼い男の子はそんな政治が、いや、そんな生活そのものを嫌がっているんだそうだ」
「まだ子どもだから、訳が分からないのに皇帝をやらされているんじゃ嫌だろうな。気の毒に」
無明は言葉を切ってから、大きなため息をついた。
「母親の皇太后は、他に良からぬことを企んでいるとか」
「良からぬこと?」
「男の子を完全に自分の操り人形にしたいものだから、人間を自由に操ることができる凶石(きょうせき=と言っても有機物質だが)を、何年も怪しい液体に漬け込んで熟成させ続けているそうだ」
「そんな怪しい液体を我が子に飲ませるつもりなのか?」
孔雀パパは、また目をいっそう丸くした。
「我が子より権力が欲しいんだろうな」
「なんて母親だ!」
第四章 異形の丞相
皇帝の母は、自分のために作った凶石の魔薬のために、苦しんでいた。
彼女の企みを知った丞相(皇帝の右腕の役職名)が、数年にわたりその凶石の魔薬を飲み続けたために、人間から姿かたちが徐々に変わってしまい、今や完全に異形になってしまっていて、皇太后の言うことをきかない。
顔は口元がとがって出っぱり、まるで鳥のくちばしのようになってしまい、目つきは獣のように辺りをギョロギョロと見回す様子は野猿のようだ。
足は4つに割れて、一本の指が後ろ向きについており、鳥の足とそっくりになった。背中からは皮膚が発達したコウモリの羽根のようなものが生えてきて、羽根の先の爪を指のように使うとか。
かろうじて人間の言葉を話せるが、皇太后はこんなことになろうとは夢にも思っておらず、安易に旅の術者だか占い師だかから聞いた、魔薬の作り方を実行してしまったことを後悔している。
ある日、皇太后まで手鏡を取り落とした。
「こ、これがわらわの顔?」
声がわなないた。
かつて見たことがない自分の顔だった。瞼も唇も紫色、目尻はつり上がり、魔女というものがこの世にいれば、彼女そのものだろう。
「こ、こんな顔になるなんて――」
今になって、自分の欲のために幼い息子を皇帝にしたことを悔いていた。
幼帝も、丞相の様子がおかしいことを気づき、そのうち異形になった彼から脅かされる夢を見るようになった。
幼帝の夢の中はいつも薄暗くて、丞相が膝の上に抱いて離さないものだから、悲鳴を上げて逃げ出したくなるのだった。しかし、丞相はいつもがっちりと幼い皇帝の身体を抱いて膝の上から離さない。
現実の世界でも同じだった。
第五章 紅孔雀の群れ
そうした日々が何ヶ月か続いたある日、幼帝の夢の中がいきなり明るくなった。
驚いて眼をこすり、ぱっちり眼を開けてみると、視界の全面にたくさんの朱い孔雀が飛んできていた。
「何だ、この鳥の群れは!」
急いでテラスに出てみると、黒髪に黒い衣のがっしりした男が、朱い孔雀のぶら下げたブランコに乗って空を横切っていくところだった。
「おじちゃん、マントを着たおじちゃん! 朕はここから出たいんだ! 助けて!」
幼帝の声は黒い衣の男には届かないようだ。男はブランコに乗ったまま飛び去り、空は紅孔雀で埋め尽くされた。
そのうちの一羽が、皇帝の立つテラスに残った。
「少年よ、あなたは誰?」
人間の女の声で紅孔雀が尋ねた。
「こ、これは夢だ! 孔雀がこんなに飛べるわけは無いし、人間の言葉を話すはずない!」
幼帝は部屋の中に隠れようとした。
「待って、少年よ。私は術者の無明さんに飼われている孔雀だから、話ができるのよ」
「術者だって? そんな変な物はお断りだ!」
幼帝の顔は引きつって嫌悪感に満ちていた。
「待って、ワタシは紅孔雀のベニカ。このお部屋には魔物の匂いが満ちているけど、ワタシや無明さんは決して魔物なんかではありません!」
ベニカは必死で呼び止めた。
「それより、あなたのことが心配よ! とても苦しそうよ! なんとか楽にしてあげる方法はないの? 何をそんなに苦しんでいるのか話して!」
「やだい! お前も丞相の仲間なんだろう、近づくな!」
テラスの手すりをぴょんぴょんと跳んで、近づく孔雀から逃げようとした幼帝は、手すりから足を踏み外した。
第六章 緑青とベニカ
しばらく前のレストランの外の公園――、
孔雀パパと無明が噴水の近くで話していると、孔雀の息子、緑青(ろくしょう)が通りかかった。
「ふたりとも、こんなとこで何してんのさ」
孔雀パパは慌てて、
「べ、別に! 偶然会っただけさ」
「無明さん、ピコは元気?」
「ああ、元気だよ。ありがとう」
ピコは黄金の泉で無明と誓い合ってから、孔雀親子の家から無明の住まいへ移ったのだった。
緑青は歩きかけてからUターンしてきて、父親に、
「親父! 無明さんと朱いワンピースの女の子のことが街じゅうのウワサになっているぞ」
「分かっている。たった今、事情聴取した。大丈夫だ」
「後で詳しく思念をよこせ。場合によっちゃ無明さんをとっちめる!」
「分かった分かった。お前が出る幕はない。よけい複雑になっちまう」
紅孔雀のベニカが店から出てきた。緑青に気づいた。
「孔雀パパさんの息子さんね。ベニカといいます」
白い素肌に朱いワンピース姿。緑青は思わず鼻を押さえた。(鼻血を抑えたのだ)
それほど彼女は艶やかだった。
「ろ、緑青といいます。緑里眼の息子です」
「存知あげてますわよ。勇ましい息子さん」
「えっ、知っていた?」
「若いお仲間と、襲ってくる凶獣たちを次々とやっつけた武勇伝は有名ですもの」
「古代の凶獣をやっつけた英雄ほどではありませんが」
ベニカは小さな口に手をあててコロコロと笑った。
(なんて可憐なんだろう)
緑青は、ピコとお別れして以来、女の子が輝くように見えたのは初めてだった。
「お仲間と正座師匠の万古老さんに正座の所作を習われたとか。私にも所作を教えていただけたら嬉しいですわ」
孔雀パパが、
「少年皇帝は、露台(テラス)から落ちたらしいが、紅孔雀が集まって受け止めて無傷だったらしい」
「それは不幸中の幸いだったな」
ベニカが後を続けた。
「本当に。おかげで幼帝さまからも母上皇太后さまからも怪しい者ではないと信じていただけましたの」
「それは良かった」
ベニカの表情はまた曇る。
「しかし、丞相は身体じゅうに石を漬け込んだ魔薬が染み渡り、魂ごと魔薬の虜となっているのです」
「純真な幼帝が気の毒だ」
「無明さん、正座することによって身体に沁み込んだ魔を浄化することはできませんの? ご幼帝も母上の皇太后も」
「正座によって浄化する? 万古老師匠の指導が入れば、できないことはないかもしれないな」
アゴに手をやり、無明は考えこんだ。
第七章 虎符(こふ)
「じゃあ、また」
孔雀パパが無明に軽く手をふり、別れを告げた。
無明の傍らを歩きだそうとしていたベニカが、急に振り返り、孔雀パパと緑青を走って追いかけた。
「待って、緑青さん!」
「えっ?」
と思う間もなく、朱いワンピの娘が緑青に抱きついてきて口づけした。
緑青は更に真っ赤な顔になってしまったが、もっと驚いたのは、無明と孔雀パパだ。
緑青がベニカに一目惚れしたのは分かっていたが、ベニカの方から、積極的に緑青に口づけするとは!
ベニカはゆっくり緑青から離れると、
「いきなり、ごめんなさい。私、緑青さんを好きになってしまったの!」
「……!」
緑青はベニカの甘い口づけに酔ってしまい、噴水の側に立ちつくした。
「緑青さんの勇ましさを信じます」
両手を握って念を押す。
緑青は口の中に残った何かに気づいて、モゴモゴした。
ベニカは唇を優しく押さえ、耳元へ寄せた。
「……え?」
緑青は聞き返そうとしたが、彼女は、あっという間に無明の横に身を翻した。
緑青は彼女の後ろ姿を見送ってから、口から金属のカタマリを取り出した。それは虎のカタチをした金属製のものだった。
第八章 幼帝の朝廷
話は何千年か昔の幼帝の治めていた国の時代に戻る。
いよいよ異形となった丞相が、幼帝の父親(先代皇帝)が遺したあらゆる政治組織を解体すると言い放った。
「おい、丞相ってあんな物言いだったか?」
「しっ、口をつぐめ!」
最後列にいた兵が洩らしたが、それきりになってしまった。幼帝の記したという詔(みことのり)の書状を見せられれば、兵たちはいうことを聞くしかない。
丞相はまともな話し方ではなく、ろれつの回らない話し方であり、丞相の眼の色はすでに墨に白い水を垂らしたマーブル状のような模様が入っていた。
かつての丞相とは全く違っていたが、配下の兵たちは命令通りにするしかなかった。
皇太后の麗陰(れいいん)もこれには驚いた。
(いつ、陛下が詔を書いたというの?)
しかし、詔の書状には達筆で詔(みことのり)の数々が書かれていた。
麗陰が立ち上がり、大声で叫んで家来に止めさせようとしたが、丞相の命令通り宮廷の重要書類や法律書類は次々に焼却処分にされ、王家歴代の収集された貴重な品々も部下の兵たちに焼き捨てられた。
重要な「虎符(こふ)」の右半分までが、丞相の手に落ちてしまっていた。「虎符」は左右そろっていなくては、軍の出兵が許されない。
「母上……!」
幼帝は皇太后に抱きつくしかなかった。
「おお……! 先帝が苦心して作られた政治の仕組みがバラバラにされていく……。証拠の書簡や印鑑、虎符までもが、皆、黒い炎に焼かれていく……」
「母上! お待ちください」
幼帝が普段、愛猫の着替えや首輪などをしまっている小引き出しから、虎符の左半分を出して母親に見せたのだ。
「息子よ、これは……」
「国を守るために、大切なものなのでしょう?」
「おお、陛下。よくぞ機転を聞かせてくださいました。もう片方の虎符がそろえば、国の軍を出兵して外側から丞相の軍を倒すことができます」
暗黒の中に、ひと筋の光を見たような気がした皇太后だった。
第九章 藍万古と緑青
緑青が正座師匠の庵に移り住んで、数か月が経とうとしていた。
お行儀の良くない緑青も住み込みでまで正座を習い、生活の一部となりつつあった。すべてはベニカのためだ。
正座師匠の万古老は翁の姿、初老の姿、緑青と同年代の青年の姿に自在に変身し、その日の気分で厳しく、または冗談まじりで正座の所作を教えてくれた。
師匠は紅孔雀の群れにまで正座の所作を教えた。彼女らは、孔雀の姿の時と人間の娘に変身した時と正座の所作を身につけた。
藍万古の表情が重い。
彼に情報をもたらす翠鬼(すいき)が四方へ足を運び、ベニカが気にかけている幼帝の周囲の様子を藍万古にもたらした。
「藍万古師匠、どうかしたの?」
緑青が尋ねた。
「どうも、幼帝の国を乗っ取ろうとしている丞相の様子が危ない段階まで来ているらしい」
「幼帝はご無事なのか?」
「今のところは大丈夫だ。母親の麗陰皇太后も、以前よりは誠実になって、丞相のやり方を懸念しているようなのでな」
「以前は権力欲にどっぷりはまっていたらしいのに」
「幼帝への愛が勝ってきて、目が覚めたのだろう」
「それは良かったが、謀反の旗でも揚げられると……」
謀反を起こすには兵が必要だ。
「挙兵するには虎符が必要だ。右半分は、緑青、お前が不埒なやり方でベニカから受け取ったから手元にあるが……」
「ふ、不埒なやり方って、藍万古師匠! 襲われたのは俺の方ですよ!」
街ナカでいきなりベニカに口づけされて、虎符の半分を口の中に残された時のことだ。
「彼女も気が進まんかっただろうが、それしか方法がなかったのだろう」
「藍万古師匠、怒りますよ!」
翠鬼の思念を、藍万古は受け取った。
「緑青、いよいよ大陸へ乗り込むぞ! 支度しろ!」
大陸へ飛ぶようにとの藍万古の指令は、紅孔雀の群れにも伝わった。
第十章 正座の神髄(しんずい)
麗陰が幼帝を守り、皇帝の位に就けなければならなかった訳は―――。
その昔、自分自身も砂に埋もれそうな小さな国の王女だったからだ。小さな国は呆気なく周りの強豪な国に敗れて滅びてしまった。
なんとしても、産んだ子に皇帝になってもらい、皇帝位に就けたかった。
幸運にも男の子に恵まれたが、皇帝が亡くなり垂簾政治がはじまった。
文句を言いそうな丞相も朝廷の連中も黙らせる魔薬の作り方を知ることができた。
しかし、その計画はくつがえろうとしている。
いきなり押し寄せた紅孔雀の大群が、城壁の周りに膝まずいて、羽根を広げお辞儀をした。
「な、何ごと?」
宮女たちは荘厳な建物の廊下から庭を見て、初めての光景に足を留めた。
中央の噴水を囲んで、数十羽の紅孔雀が羽根を広げて輪になって並んでいるのだ。
「いったい紅孔雀たちはどうしたのかしら?」
2頭の馬にそれぞれ乗った白い着物の老人と、青緑の髪のポニーテールの青年がやってきた。宮廷に到着すると同時に、藍万古は白髪のヒゲを生やした万古老師匠の姿になったのだった。
護衛兵が馬を止めたが、
「ワシは正座師匠の万古老と申す。神仙界の者じゃ。連れの者は弟子の緑青。皇帝陛下とは、ちとご縁ができてしまい、はるばる倭国から参りましたのじゃ」
「仙人の正座師匠だって?」
神仙界の手形を見て、護衛兵は引き下がった。
「陛下はおいでかな」
「はい。取り次いでまいります」
幼帝の部屋の前にいた女官が、
「ただいま、陛下はベニカ様とお話をなさっておられます」
「ベニカさんだって〜〜!」
素っ頓狂な声を出したのは、万古老の背後にいた緑青だ。
「先に来ていると思わなかった! どっどっどうしよう?」
また、鼻を押さえてジタバタしている。
「落ち着きなさい、緑青。再び逢えて良かったではないか」
第十一章 正座の神髄2
女官が奥の部屋の幼帝に万古老の訪問を告げた。
ベニカが振り向き、
「ちょうど今、陛下と万古老師匠さまについてお話していました。ねえ、陛下」
「……うん。ベニカから正座と万古老師匠について聞いていたんだ」
幼帝は床に膝をついて、正座して万古老に頭を下げた。
「おお、陛下ですな。利発そうなお子じゃ」
万古老も正座して頭を下げた。
「お父君が亡くなられてから、いろいろと大変なことでございました。紅孔雀のベニカから伺いましたぞ」
「母上は、丞相の様子が変だと気づいてくださった。独自の飲み物を作り丞相に飲ませたんだ。彼は顔つきが鳥みたいになって指も鳥の足になってしまった。朝廷の大臣らを好きに使っているんだって」
「飲み物は、おそらく『四宝束縛(しほうそくばく)液』ですな。ご安心ください。丞相どのの身体から毒を抜く方法も解毒薬もございます」
「本当? 翁!」
「孔雀は胃の中に胃石という石を溜めます。その液体に孔雀の卵を漬け込むと『四宝束縛薬』は効き目が無くなるのです」
女官が、無明と名乗る男が到着したと告げた。
万古老が解毒薬を作るように申しつけておいたのだ。
多くの瓶の中に、薄緑色の液体につけられた卵がある。
「誠ですとも。これでございます。師匠は背後の緑青から大きめの薄緑色の瓶を受け取り、更にベニカが瓶を受け取った。
「陛下のために紅孔雀の皆が命を削って卵から、魔水の毒を解毒する薬を作りました。どうぞ、お役立てくださいませ」
「紅孔雀の皆が、朕のために……」
幼帝は小さな手で瓶を受け取った。
「後はベニカの涙を数滴落とせば出来上がりです」
万古老師匠が言い添えた。
ベニカの瞳から真珠のような涙が、ポトリポトリと瓶に落ち、中の卵は虹色に輝いた。
「ベニカ……。紅孔雀の皆……。朕は心から礼を申す」
幼いながら、黒い瞳には真心がこもっていた。
「少しばかり、翁と正座のお稽古をいたしましょう」
ベニカと緑青にも声をかけて、皆で正座をする。
「背を真っ直ぐにして、その場に膝を着きます。すその長い上着はお尻の下に敷いて、かかとの上にお座りください」
幼帝は広場の中央に敷かれた毛氈の上に、上手に正座した。
「よくお出来になりましたな」
「母上から、唐の時代の座り方ですよって教えていただいたもの」
「座っている間、周りから聞こえる音は聞かずに我慢して、ただ真っ直ぐに座ることに意識を向けてください。心が静まるはずです」
「はい」
何回か繰り返しているうちに、幼帝の顔つきは明るくなった。
奥に居並んでいた、象の顔になっていた廷臣たちは薄緑色の液体を飲んで、ふと夢から覚めたように我に返った。
「わ、私は今まで何をしていたのだ?」
「はっきりしないが、幼い皇帝陛下の命令に無反応になっていたような気がするぞ」
我に返ったと同時に、象のカタチになっていた顔面は、元の忠臣の顔に戻った。
第十二章 心の隙
丞相の命令で挙兵した者たちは、広場で拳を挙げていたが、急に丞相が落馬した。
「閣下!」
部下が運んで宮廷の一角で休ませたが、ぐったりして戦いどころではなさそうだ。
翠鬼から様子を聞いた万古老は、無明に視線を向けた。
「無明どの、もしや?」
「そうです。俺が丞相の飲み物と食事に『四宝束縛液』の解毒液を混ぜておいたのです」
「薄緑色の卵を漬け込んだ液体か!」
緑青が叫んだ。
無明は何も言わず、唇のハシで苦笑しただけだ。
丞相は徐々に正気に返り、麗陰皇太后には、床に這いつくばって謝った。
虎符の右半分を両手で差し出し、無事に返した。
「心の隙というものは怖いものです。いつも正座して、背筋を伸ばしておけば、少しの魔も入る隙間が無いでしょうに」
丞相は任務を辞任して隠居するという。
「これで安心ですね、陛下」
ベニカは幼帝のすべすべのほっぺに、自分の頬をすりつけた。
母親の麗陰皇太后も、万古老師匠の前に手をつき、
「愚かな私にも正座をお教えください……」
と、願ったのだった。
やがて宮廷から、紅孔雀の群れが飛び立った。
誰もが見惚れてしまう美しい光景だった。
