[168]第9回 増税駆け込み! 温泉旅行


発行日:2014/05/14
タイトル:第9回 増税駆け込み! 温泉旅行
シリーズ名:とりあえず座れ
シリーズ番号:9

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
販売価格:100円

著者:かねしろさく
イラスト:林 加奈子

販売サイト
https://seiza.booth.pm/items/3131617

本文

 三月、増税前の駆け込みで皆さんは何か買い物をしましたか?
 消耗品をまとめ買いするか、おもいきって家電を買い替えてしまおうか……。だけどうちの家電はまだまだ現役、新品を購入するのはちょっともったいない。だからって何も買わないのも、なんだか世間の流れに乗り遅れたようで損をした気分。
 そんなことをあれこれ考えていたとき、ふと、とりとめのないことを思い出したのだ。毎日の通勤の道のりに旅行会社があったことを。

 温泉にでも入りに行こうか。旅行なんて何年ぶりだろう。
 どちらかといえば私は出不精である。とくにスギ花粉の季節は。しかし今回にかぎって、それはすばらしい思いつきのような気がした。
 どこへ行こうか。予算は? 旅行カバンはどこへしまっていたっけ? 今からホテルは取れるのか。考えることはたくさんあるけど、とにかく旅行しようと決めてしまった。それからの私の行動は我ながららしくないほど迅速で、数日後にはすでに日光の旅館と列車の席の予約が完了していた。

 日光を選んだ理由は、都内から東武スペーシアで一本で行ける手軽さである。最初に旅行を思いついたときと同じように、気負わずに、小さな旅館カバンをひとつ持ってふらっと出かけたかったのだ。
 当日の朝、駅でお弁当とビールを買って電車の出発と同時に旅行の道連れの彼氏と乾杯する。昼間に飲むビールは格別だ。車窓からの景色はビル街から山々へと、ゆっくり一時間ほどかけて変化していく。
 その日、日光は晴れていた。三月中旬はまだ寒く道の端々に雪が残っていた。お土産屋さんが軒を連ねる道をひたすら歩く。旅館までは三十分ほど。途中、日光名物の湯葉を使った揚げ湯葉まんじゅうを買い食い。
 ゆるやかな長い坂道に息を切らしながらせっせと足を動かしていると、日頃の煩雑な思いや、悩みとまではいかない些細な心の棘が浮かんでは消えていく。頭をからっぽにして歩くというのは気持ちがいい。
 旅館に着いてすぐ部屋に荷物を置いてまずは温泉へ。まだ人が少なかったのでラッキーなことに露天風呂は貸し切り状態だった。
 温泉も堪能し、浴衣に着替えて部屋へ戻る。ひさしぶりの浴衣は新鮮な気分だ。先にあがっていた彼がお茶を入れてくれた。
 最近建て替えられた旅館の部屋は真新しい畳の匂いがした。正座していると自然に背筋が伸びる。
「最近ずっと忙しかったね」

「お互いに」

「忙しかったね」

 ひとりごとのように繰り返した。私は日々の喧騒から一度、離れてみたかったのだと、ようやく気づく。
 そのまましばらく、「ぼんやり」というか「うっとり」というか、惚けていた。

「どうしたの? 改まっちゃって」

 お茶を飲んでいる私を見て彼が訊いてきた。正座していたから、彼には改まっているように見えたのだろう。私は答えた。

「結構得意だし、好きなんだよ、正座」

 夕食後にまた温泉に入り、翌日は午前中に少し観光をした。どちらかといえば、旅館に閉じこもってまったり過ごすのがメインの旅行のつもりだったけど、せっかくだから東照宮を見に行った。思ったより見所が多く、電車の時間ギリギリまで見学してしまった。
 帰りの電車でご当地駅弁とビールを買って東京に着くまで日光を満喫。一泊二日の短い旅行だったけど、最初から最後まで充実したものだったと思う。
 きっかけが増税なのはなんだか色気がないけど、こんなことでも起きなければ出不精の私は旅行なんてしなかっただろう。忙しいながらも日々を丁寧に生きつつも、こうした日常の「弾み」を大切にしたい。

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