[365]のうぜんかずらのように中天(ちゅうてん)へ!
タイトル:のうぜんかずらのように中天(ちゅうてん)へ!
掲載日:2025/07/02
シリーズ名:スガルシリーズ
シリーズ番号:1
著者:海道 遠
あらすじ:
あかり月光菩薩との婚礼を間近に控えた青年スガルは、鬼神との戦いに勝って、愛馬の馬華(まか)号とふたりで奈良へ帰宅の途中だった。
大雨の中、雨宿りをお願いした葎(むぐら)の巻きついた小さな家には、のうぜんという若い娘が住んでいた。正座の話に、娘は美しい正座ができたが、スガルはまだまだ稽古が足りず転んでしまう。森の中に咲き乱れていたノウゼンカズラの毒を浴びてしまい、倒れたスガルは娘に看病される。
本文
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第一章 雨の中で
正に戦は大嵐だった。
敵対した地獄の鬼神の軍はかなり綿密に策略をめぐらせ、伝令の兵士を盛んに走らせ、スガルの預かる軍を窮地に追い込んだ。
それでも3日かかって打ち破ることができた。帰路につく足どりは負け戦よりはかなり軽い。
仲間と別れ、一騎になってから大嵐に遭った。
(敵軍の追撃のことを思うと何ということはない)
スガルは愛馬の馬華(まか)号と山中を急いでいた。大嵐が追ってくる。草原から森に入る頃は日暮れになっていたが、百篝り(ももかがり=いなずま)の勢いはますますひどくなる。
スガルは馬華号の背中を下り、森の中のぬかるみを手綱を引いて歩き始めた。
馬華号がいなないて首を振った。
「えっ、スガル、こんな地面を歩くの?」
「仕方ないだろう。お前の背の上では木の枝にぶつかってばかりだ」
「たんこぶができたか?」
馬華号が「ブルルッ」と鼻を鳴らした。スガルは人間ではなく神仙の者なので動物とも話せるのだ。
「こんな大雨なのに、朱色の花がいっぱい咲いてるよ、スガル」
スガルは被っていた笠をチラリと上げ、頭上を見た。朱色の花が無数に咲いている。繁った森の中に篝火がたくさん灯っているようだ。
「ノウゼンカズラの花だ。ものすごい生命力で成長するヤツだ」
「スガル、ものすごく成長ってお前と一緒だな」
馬華号がまた、「ブルルッ」と歯を剥き出した。
「何が言いたい?」
「お前、おいらたち馬みたいにすごい早さで成長しただろ? 数年で子どもから青年に。誰かさんのためにだろ?」
「ご主人をからかうとは、なんてヤツだ!」
スガルの脳裏に、月光菩薩あかりの穏やかな笑みが浮かんだ。
初めて会った時、スガルはほんの子どもだった。遊びの中で婚約はしたものの、姉さまか母上にしか思えなかったが、だんだん熱い想いが募るようになった。奈良へ帰るとあの方が待っている。帰れば祝言を挙げると兄の鹿の樹(かのじゅ)から文が来た。
雷鳴が轟き、スガルと愛馬はしばらくおしゃべりを止めた。
(――この嵐を乗り越えれば、あかり菩薩さまの待つ奈良に着く)
「まだまだ止まないな。どこかで雨宿りできる場所は無いかな?」
降りしきる雨で視界がきかない。まるで白い紗(しゃ)がかかっているようだ。馬華号がいなないた。森の奥に小さな灯りが見えた。
「あれは……葎(むぐら)にまみれた……杣人(そまびと=木こり)の小屋かな」
第二章 庵の娘
庵(いおり)の軒先に身を寄せて木戸をたたいた。
「もうし、旅の軍人です。少し雨宿りさせていただけませんか」
ゴトゴトとつっかえ棒を外す音がして、木戸を少し開けたのは若い女人だ。それも貴人のような美貌の持ち主だ。
「かたじけない。納屋に馬をつながせてもらえますか?」
「は、はい、どうぞ」
馬華号を納屋に入れて戻ってくると、女人は囲炉裏(いろり)に火を起こしていた。汁を温めてくれるらしい。
橙黄色の花が刺繍された打ち掛けが目に飛び込んできた。囲炉裏の橙黄色と同じ色だ。不思議な存在感のある上品な娘だ。
「こちらにお座りください、軍人さま」
スガルは習い性でわろうだ(丸い菅の座布団)の上にあぐらでなく正座した。
「その所作は……」
「唐渡りの正座だ。幼少の頃から習い性になっている」
スガルは背を伸ばして立ち上がり、膝をついて、着物のすそをお尻の下に敷きながら、かかとの上に座った。
「私も同じ所作を身につけております。名はのうぜんと申します」
澄まして正座したのはいいが、スガルはぐらぐらして、ステンと後ろへ転んだ。
「は、はは、実は正座は未だに苦手なのだ」
「では、どうぞ胡坐(あぐら)になさってください」
女人は袖を口元にあてて遠慮げに笑った。
「私はスガルと申す。神仙軍の少尉だ。そなたはこのような山奥に女の身でお一人で?」
「いえ、老夫婦が仕えていてくれますが、今日は奈良の町へ用事でまいり、留守をしております」
奥の部屋には巻物や書物の積んだ棚が見えた。どうやら杣人の娘ではないようだ。
鍋からよそわれた汁をすすると、スガルは身体が温まってきた。
「馳走になった。生き返った思いだ」
「よろしゅうお上がりやす。納屋の馬にも、飼い葉をやっておきました」
「これは重ねてありがたい」
ふと、のうぜん姫がスガルの手元に目を止めた。手の甲から腕にかけて赤く腫れている。
「まあ、これは……植物毒の仕業ですわ。きっと雨に混じったノウゼンカズラの毒を浴びてしまわれたのです。さほどひどくはなりませんから、ご安心ください」
のうぜん姫は手早く褥(しとね)を用意して、スガルを寝かせた。みるみる間にスガルの腕は熱を帯び、熱は全身に広がった。
意識が朦朧(もうろう)としはじめているようだ。
「ただいま解毒剤を……」
のうぜん姫はスガルの顔を両手で包み込み、唇を重ねた。スガルの口の中に甘い味が広がった。
(何故――?)
スガルが目を見開いて問いかけた。
「毒には毒をもって制す、と言いますでしょう。私の名はのうぜん。濃く甘い薬を味わってくださいな。ノウゼンカズラの蜜から作った解毒剤です」
スガルは口の端で笑おうとして意識を失った。のうぜん姫は井戸水で冷やした手ぬぐいを取り換えて、ひと晩じゅう付き添った。
嵐はゴウゴウと暴れ回り、治まる気配がない。
夜明けになったことは、ほんのりと窓の隙間からの光が白んだことで分かる。
第三章 花妖し(はなあやかし)
のうぜん姫の顔が急にキリリとなって、庵の隅を睨んだ。そこには赤黒い人型のものがうずくまっていた。男だか女だか、頭や背中や手足の区別がつかない漆黒の影としか見えない。ざんばらの髪の隙間から黄色い眼が覗いているのが見えた。
「くっくっく……」
不気味な笑い声が洩れた。
「お前は、毒花(どくばな)の化身……花妖しね!」
「そうともよ、可愛い姫御前(ひめごぜ)。いつもワシどもの邪魔をしておくれだねえ」
「この方が触れたノウゼンカズラの毒はさして強くないはず。さっさと離れるが良い。さもなければ……」
のうぜん姫の気勢に、花妖しはひるんだ。
「おお、怖や、怖や。うかうかしていてよいのか? 馬の様子をみてやった方がよくないかえ?」
のうぜん姫はハッと顔を上げて、荒れ狂う嵐の中へ出ていった。
「苦しいよ、ボク、どうしちゃったんだろう? スガル、助けて……」
納屋につながれていた馬の馬華号も、体調を崩して大汗をかき、蹄を踏み鳴らしていた。
ちょうど爺やと婆やが帰ったので、馬の様子を診てもらった。
「爺や、よく嵐の中を帰ってくれたわ」
「なんだか胸騒ぎがしましてのう。嵐の中を強行軍してきましたのじゃ。ドウ、ドウ。毒消しをやるから、おとなしくするがよい」
老人たちは雨にぐっしょり濡れた蓑(みの)を脱ぐや、馬の手当にとりかかっていた。
「ありがとう。庵には高貴な方が休んでおられるの」
「高貴なお方ですと?」
「ええ。たぶん、神仙の将軍さまみたい」
「神仙の……神さまですか!」
第四章 三大の男、鹿の樹
神同士の挙式は厳かに秘めやかに行われる。
密かに気配もなく、雅楽の音だけが床に這うように奏でられる。
神道の司(つかさ)が結ばれる二柱(ふたはしら)の神に払い棒を振って、三三九度を取り交わすだけだ。
「ダメだ! そんなシメジメとした式なんか、全然めでたさが感じられんじゃないか!」
突如、当番の者以外に誰もいない百畳ほどの披露宴会場に熊が吠えた。
「ワシは鹿の樹将軍だ。スガル少尉の披露宴係の者、これへ!」
大柄な男が急遽、スガルと月光菩薩あかりの披露宴が予定されている会場に押しかけ、真ん中にで~んとあぐらを組んでから正座した。
「スガル少尉と月光菩薩の披露宴の膳の一覧を持って来なさい!」
大声で当番の者に披露宴の計画表を持ってこさせた。
「こんな貧弱な料理は出せんな! ひとりずつの膳に加えて、中央の大テーブルに各種の寿司を大盛りにして用意するように! 会場からして狭くていかん! 一番広い会場に変える!」
「あ、あの、でも、新郎新婦さまが決められた会場とお料理その他ですので……」
当番の者がひざまずいて恐る恐る言い訳する。
「何い? ワシを誰だか分かっているのか? 新郎の神仙軍スガル少尉の兄、親代わりの鹿の樹だぞ。弟の披露宴会場の変更をして何が悪い?」
だんだん言葉が横柄になってきた。
大柄な鹿の樹将軍に居直られた者は、おろおろするばかりだ。
「ご契約された弟さまご自身から許可をいただかないことには、私どもは変更できかねま……」
「何いっ!」
鹿の樹将軍のでかい声に係の者はビクッとした。
「では、スガル少尉にさっさと連絡を取るのだ!」
「それが……栗花落(つゆり)高原で地獄の鬼神勢力と、かなり激しい戦いがあったことが分かりました。神仙軍は勝利したそうですが、その後の少尉どのの足どりが不明なのです。何せ、昨夜は大嵐で……」
「ふんっ、返事を延ばすつもりだな!」
しかめた顔のまま、披露宴の見本に作らせた山ほどの巻き寿司を黙々と食べはじめた。
「三大の男」大声、大柄、大食と言われる将軍である。
第五章 弟の秘密
数年前、鹿の樹将軍は、戦で別れ別れになったと思っていた歳の離れた弟のスガルと再会することができた。
両親がいなかったので、親代わりに弟を神仙の軍人として育て上げ、所帯を持たせてやろうと頑張ってきた。
婚約者は鹿の樹将軍がかつて奈良の東大寺付近で一目惚れした月光菩薩のあかりさまだ。弟に譲った形になる。
(しょんべん臭い小僧だったクセに、みるみる間に成長して菩薩さまの婚約者になりおって!)
鹿の樹将軍は巻き寿司を食べちぎりながら、歯ぎしりした。
ふと、巻き寿司にかぶりつくのを止めた。
(――このままふたりを結婚させてもよいのか?)
(月光菩薩のあかりさまを奪い返して、ワシの妻にすることだって、今なら間に合うぞ……)
「鹿の樹将軍、可愛い弟の縁談をぶち壊すつもりか?」
振り返ると、全身がひすい色の翠鬼がいた。天燈鬼の額の三つめの瞳から生まれてきた細い鬼だが、分身できるわ、神通力は使えるわ、いろんな形に変身できるわで、けっこう役に立つ。
「何を言う、翠鬼。ワシの想い人……違った、想い神だった月光菩薩さまの母性本能をくすぐって我がものにしたのは、スガルの方だ!」
「またそんなこと言ってゴネて。ジェラシーでしょ」
「翠鬼! お前が純真なスガルをけしかけて、あかり菩薩に求婚させたことは分かっているんだぞ!」
「ひぇっ、ど、どうして……」
翠鬼が真っ青になったが、元々ひすい色なので分かりにくい。
「ワシはすべてお見通しだぞ! あんな純粋な子どもを手玉に取るとは。ワシを失恋させてお前が何か得したか?」
「俺が得だなんて! 将軍の方こそ菩薩さまとご縁ができてお得なされたのでは……」
「誰が得しただとっ?」
再び、熊が咆哮をあげた。
「スガルはあかり菩薩と知り合ってからというもの、ほとんど彼女の膝の上に座っていたゆえ、未だに正座がうまくできん。これが損以外の何だと言うのだ?」
「スガルくんは正座ができない? そうだったんですか!」
「翠鬼、お前のせいでこうなったのだ。絶対に秘密にせぬと本当に怒るぞ」
「ひぇ~~っ! す、すみません」
翠鬼の細い身体は、すくみ上って小枝のように縮んだ。
第六章 弟の帰宅
スガルはのうぜん姫の手当てにより、数日経って植物毒から回復し、姫と爺やが送ってきて無事に帰宅した。
「スガル! よう戻った!」
久しぶりに会う兄の鹿の樹将軍は、肩をたたいて喜んで迎える。
「少尉らしく立派になったじゃないか、スガル。先の戦も勝利したとか。ご苦労だった。……そちらの女君(めぎみ)にも世話になった。礼を申すぞ」
「恐れ入ります、将軍さま」
のうぜん姫は丁重に正座して頭を下げた。
将軍は、姫がノウゼンカズラの橙黄色の花の打ち掛けがよく似合って美しいので、ややジェラシーの様子だ。
「おい、スガル。婚礼前から側室を持つつもりか?」
などとからかう始末だ。
鹿の樹はでかいガタイに似合わず、器が小さく、しかし憎めない男だ。スガルは百も承知している。
戦以外は肝が小さいが、「三大の男」大声、大柄、大食の兄が大好きでもある。
鹿の樹は改めて弟を部屋に呼び、
「あかり月光菩薩の夫になる覚悟はできているか」
と、尋ねる。
「戦に出る前に課題を出したな。一、勝利して帰ること。二、正座をマスターすること」
「は、はあ。兄上、戦には勝って帰りました」
スガルは頭をかきながら自信がなさそうに答える。
「正座はどうだ? ちゃんとできるようになったか?」
はにかんでいる弟を見て、鹿の樹将軍は、
「指揮官になれば、いや月光菩薩軍の司令官代理を努めることにもなれば数百、数千の兵の前に出て指揮をとることもあるだろう。正座は完璧にできた方がよいと思い、客人を呼んである」
隣室の襖を、部下がサラリと開けた。
そこには、スガルの幼なじみで「うりずん拳法」の稽古にも共に励んだ甘露來(カンロク)が立派な正座姿で、そして恩師のうりずんが、以前と変わらぬ紅鬱金色の巻き毛で、その奥には正座の大師匠、万古老が白いアゴヒゲを輝かせて正座していた。
第七章 恩師たち
「スガル、戦勝おめでとう。よく帰ったな」
幼馴染みの甘露來(カンロク)は、スガルよりひと回り体格が良い好青年だ。彼もまた神仙軍の一員である。しかし、今日はくつろいだ着物で膝には子どもの頃から好きなうす茶のうさぎを乗せて撫でている。
「ありがとう、甘露來。おかげさまで帰還できた。地獄の鬼神どもはかなり手強かったぞ」
「よく無事で帰った。馬の馬華号も元気か?」
「ああ。帰りに嵐に遭って雨露に染み込んだノウゼンカズラの毒を浴びた時は、俺もアイツも少し皮膚が腫れて熱を発してしまったが、こちらののうぜん姫が手厚く看病してくださったのだ」
のうぜん姫が深く座礼した。
同席していたうりずんが、腰を浮かせて声を出した。
「あっ……そなたはもしや、いつぞやマムシに咬まれた村人の子どもがお世話になった【たゆな】どのではありませんか?」
「おお、南のご神馬(しんめ)、爽涼の神が導いてくれた【たゆな】どのか」
万古老師匠も思い出したようだ。
のうぜん姫がうなずいた。
「はい。仰せの通り、爽涼の神のお手伝いをして、マムシなどの毒を制する薬を作っていた【たゆな】でございます」
「おお、やはり! その節は助かりました」
うりずんが顔を輝かせた。
「今、再びスガルどのを植物毒からお助けいただくとは。不思議なご縁ですね」
※「うりずん、正座して視座を知る」参照。
「さあ、スガル。あかり菩薩さまとの婚礼が目の前に迫っている」
「菩薩さまは、今、どちらに?」
「東の海上で地獄の鬼神どもが反旗をひるがえしたとかで、自ら鎧を身に着け出撃されておる」
「なんと……! で、戦況は!」
「あの方の【おしおき】月光を浴びた鬼神どもは、ひとたまりもあるまいよ」
のんきな大声で、鹿の樹将軍が笑った。
第八章 菩薩、激戦中
その頃、月光菩薩あかりは東の海の上で、鬼神軍と激しい戦いのさなかだった。
鬼神軍は勇猛で数も数万の大軍、菩薩軍は苦戦を強いられていた。あかり菩薩は一歩も引かない覚悟だったが、味方は敵の放つ矢にバタバタと倒れていき、打つ手がない。
敵軍は弩(いしゆみ)台まで何十台も持ち出してきた。炎で焼かれた大岩が頭上から飛んでくる。
「菩薩さま! ここは危のうございます! 後方へお下がりください!」
周りを守る兵士どもが口々に叫ぶ。
弩によって、かなりの味方がやられた。
「菩薩さま、どうか~~!」
近衛隊の悲痛な叫びに、退かずにはおれなくなった。
菩薩さまの脳裏に、別方面へ出撃した恋人、スガルの別れ際の顔が思い浮かんだ。
(次にお会いする時は花嫁姿を拝見できますね!)
白い歯を見せて笑っていた。
「スガル……! この戦いさえ乗り越えれば、貴方も帰ってきて奈良で会えるはず……」
歯を食いしばり、撤退を決めて退きはじめた時、不気味な笑い声が響いた。
「くっくっく……月光菩薩の兵士どもよ、毒花の苦しみを味わうがよい!」
霧のようなものに取り巻かれたと思ったとたん、息が苦しくなり、手足が動かなくなった。
「これは……花妖しの鬼女め!」
兵士たちは呼吸困難や腹痛、ガンガンする頭痛、ふらふらする強度の貧血に襲われ、立つことができない。
月光菩薩自身、頭痛に苛まれながら、力を振り絞って兵士を鼓舞した。しかし、毒は強烈で地面に膝をついてしまう。まともに戦っている兵士はいない。
「ここまでか――」
そう思った時、雲の彼方から青年の声が届いた。
「あかり~~! 無事か、あかり~~!」
「あの声は!」
月光菩薩が顔を上げた。
「あの声はスガル――?」
第九章 別れの言葉
馬華号が鼻先で押して、主人に告げた。
あかり菩薩が戦から帰ったばかりの汚れ、破れた鎧すがたで近づいてくるところだった。
奈良の鹿の樹将軍の屋敷の庭である。夕空の雲は橙黄色に染まり、先日の大雨の気配もない。
あかり菩薩の軍は大敗した。
「ざまぁないわね。勝利する自信満々で出撃しながら、見事な負け方だわ」
鎧の破けた珍しい菩薩の格好より、スガルは彼女の泣き笑いの眼に力が無いことが気にかかった。
「何千年もの間に破れたことは数えきれないくらいあるけれど……」
「……」
「なのに……こんなに情けない気持ちは初めてだ」
「あかり……」
「勝って、そなたに会えると信じ切ってたんだわ。自分の非力を認めず」
あかりの瞳から真珠がはらはらと落ちた。スガルの手が肩を抱く。
「泣くがよい。神だって泣きたい時はあるさ」
「部下がたくさん地獄に堕ちていったわ……。あなたが援軍に来てくれなければどうなっていたか……」
あかり月光菩薩は声を出して思いきり泣いた。陽が落ち、田園でカエルが鳴きだした。その間もスガルはずっとあかり菩薩の身体を抱きしめていた。
泣き声が止まり、震えがおさまる間も、スガルはずっと抱きしめていた。
真っ暗になり、草むらにホタルが乱舞しはじめた。菩薩はため息をついて少し離れた。スガルはそれを引き寄せた。
「俺、昔……正座ができなくて、悔しくて泣いていたら、あなたがずっと抱きしめてくれていたでしょう。覚えてる?」
「――ええ」
菩薩の泣き腫らした瞳は満天の夜空と同じくらい美しい。
「あの時みたいに、ずっとずっとこうしていよう」
「甘えん坊なのは昔から変わってないわね」
菩薩はそっと離れた。
「……どうかした?」
スガルは菩薩の心を敏感に感じ取った。
「さようなら。―――わらわの方が何千年も年上なのに、本当に好きだったわ、スガル」
「な、何を言うんだ、あかり」
「あなたが子どもの頃に約束したけれど……わらわにはあなたと婚礼を挙げる資格がないわ。大敗した挙げ句、こんなに意気地無しになるなんて。それでいて、わらわはこんなに武骨な女よ。月光菩薩としても自信が無くなったし、妻になるなどおこがましいわ」
「あかり! 俺の妻になるのはあかりしかいない。あかりが思い直してくれるまで、待つ!」
「スガル……」
「このまま軍人として鍛えながら、待つよ。第一目標は力強く美しい正座ができるようになること!」
あかり菩薩は首を横に振り、草むらのホタルを見つめて動かなかった。
第十章 愛馬と愛兎
――数日後、ふたりの危機をスガルの親友カンロクが気づいて、軍部にいる時、声をかけてきた。。
「で、スガル、菩薩さまとの挙式は?」
「実は、当分の間、延期になった」
「え?」
「菩薩どのが自信を無くしたんだ。菩薩軍の将軍としても婚礼を挙げるのも。何千歳も年上ってのにも引け目を感じるらしいよ」
がっくり肩を落としているスガルに、カンロクは親友が本気で悩んでいることを感じた。
「何千歳も年上って、今さら何を。神には年齢は関係ない」
「でも、女心は複雑なんだろう」
「そんなこと言ってたら、光源氏もどきで有名なうりずんさんや、鹿の樹将軍が菩薩さまを妻にしちゃうんじゃないか?」
スガルの眼に、ジワッと涙が浮かんだ。
「カンロク……どうしよう? 実は俺もそれが心配なんだ……」
「あ、悪かった! 戯れ言だよ。戯れ言だって!」
カンロクに慰められても、よけいに心配が増すスガルだ。
厩(うまや)に繋いである馬華号の足元に、うす茶のうさぎが跳ねてきた。
「あれ? サラサちゃんじゃないか?」
馬華号が気づいた。
「馬華くん! 探したんでしゅよ」
「どうしたんだ? そんなに慌てて」
「ちょっとぉ~~、上を向いてると首が痛いから、いつものところに乗せてちょうだい!」
馬華号は首を下げて、うさぎを顔面に乗せてやった。
「スガルくんの婚礼が止めになっちゃったでしゅよ!」
「え? あかり菩薩との縁談が? まさか」
「本当でしゅ。さっき、スガルくんがうちのカンロクさんに話してるのを聞いてしまったの」
うさぎのサラサは涙ぐみながら言った。馬華号も信じずにはいられない。
「いったいどうしたんだろう? とても仲が良かったのに……」
「しょっちゅうアテられてるって馬華くん、言ってたわよね」
「このまま、ふたりがお別れだなんてイヤだな」
「アタチもでしゅ」
一頭と一羽は一生懸命、スガルと菩薩さまがお別れしないよう考えたが、良い考えが浮かばない。
「そうだわ! 恋の経験者に尋ねるのが一番でしゅ!」
うさぎのサラサの耳がピコン! と立った。
「うりずんさんの奥方さまの美甘ちゃんに相談してみましょう。サラサ、お友だちなの」
「それがいいね!」
馬華号が要領よく厩の囲いを外し、サラサを背中に乗せて、うりずんの屋敷へ出かけた。
――厩の隅――藁作業の道具などが置いてある隅っこから、人型の黒い影が蠢きはじめた。
「くっくっく……スガルと月光菩薩の縁談が破談になりかけているだと? これは嬉しや~~」
花妖しの裏返った声が厩の中に響いた。
第十一章 花妖しの女
うりずんの屋敷を尋ねると、侍女がサラサを迎えた。サラサのことは、よく知っている。
「あらまあ、サラサちゃん、今日はお馬さんに乗ってきたのね」
「馬華くんっていうのでしゅよ」
「宜しくね、馬華くん。美しいたてがみね」
侍女はニッコリした。
「美甘ちゃんはおいででしゅか?」
「はい。お座敷においでなさい、サラサちゃん。馬華くんは庭に入ってもらいますね」
ほどなく座敷の簀の子に、美甘ちゃんが若君のゆいまる坊やを抱っこして出てきた。
「サラサちゃん、いらっしゃい。ゆいまる坊や、ほら、お馬さんですよ。大きいでしょう。こちらはサラサちゃん。うさぎさんよ。ふわふわで気持ちいいわよ」
赤ん坊は、まだよちよち歩きを始めたところだ。サラサの耳にさわり、キャッキャッ喜んだ。
「サラサちゃん、今日は何のご用?」
美甘ちゃんは、サラサからスガルとあかり菩薩の話を聞き、真剣な表情になった。
「そろそろ昼すぎ……軍部に出仕されたそよぎ(うりずん)が帰る時刻だわ。誰か、馬車を用意して。殿を迎えにまいります。庭にいる馬華号を繋いでね」
しかし、美甘ちゃんが軍部についた時には、うりずんは帰宅した後だった。
「どこですれ違ったのかしら? 変ねぇ、ゆいまる坊や」
仕方なく馬首を返し、屋敷にトンボ返りした。
林を抜けるところで急に空が暗くなり、靄のようなものに包まれた。
「何? この白いのは……それにとても甘い匂いがするわ」
馬車の馭者(ぎょしゃ)を務める男が眠気に襲われて、馬車が道から外れてしまった。
馬華くんがいなないて、馬車が斜めになったところで車輪は止まった。
「奥方さま! 若さま! ご無事ですか!」
馭者が慌てて扉を開けようとしたところで、斜めになった馬車に飛び乗ってきた者がいる。
「美甘さま! 大事ございませんか!」
美甘ちゃんが赤ん坊を抱いて、馬車を下りようとしていた時だ。
「貴方さまは、あかり月光菩薩さま!」
「良かった、ご無事で」
あかり菩薩は手早く美甘ちゃんと赤ん坊を安全な草地に座らせ、林の入り口へ戻った。
林の中から凶々しい(まがまがしい)瘴気(しょうき)が溢れてくる。
「妖しの者だな。奥方さまと若さまに手出しはさせぬぞ!」
林の奥から炯々(けいけい)とした黄色い眼が光っている。あかりの身体は次の瞬間、その眼を持つ者に踊りかかった。
「やめろ、離せ!」
しわがれた声が聞こえたが、やがて、あかり菩薩が女の手首に縄をぐるぐるに巻いて林から出てきた。
「この縄はただの縄ではないっ! 龍神さまのおヒゲだ。どう暴れようと切れぬ。神妙にしろ。検非違使庁へ連行する。菩薩軍の一部の兵が警護する」
あかり菩薩は女をびくともせぬよう捕らえて、連行していった。
第十二章 再びの求婚
検非違使庁の一室に、花妖しの女が閉じ込められた。急いでやって来たのは、スガルだ。
「あかり菩薩、妖しの女を捕らえたそうだな」
「うむ。植物毒を操って貴官をノウゼンカズラの毒で苦しめたヤツだ」
スガルはあかりの方にしっかり向き直った。そして背筋を真っ直ぐにしてその場に膝を着き、衣を尻の下に敷き、かかとの上に座った。
かつて見たことのないスガルの立派な正座姿だ。
「どうやら、菩薩さまは、こやつの毒によって弱気にさせられていたらしいことが、私を救ってくれたのうぜん姫と軍部の分析で判明した」
「――なんと! では、先日のみっともない弱気なグチや涙は、こやつの植物毒のせいだったのか!」
部屋の周りに部下が立っている中、あかり菩薩はよけいきまりの悪い顔をした。
スガルは美しい正座のまま、潔く頭を下げた。
「すぐに見破ることができないで悪かった。そして、改めてお願いする。どうか俺の伴侶になってほしい。何度でも言う。俺の妻になれるのはあかりだけだ。俺を手のひらの中に包むようにして、丁寧に実母を越える深い愛で育ててくれたのは貴女だ。何千万光年の宇宙の果ての中でもたった唯一、あかりだけだ。もし、見失ったら全身全霊で声を振りしぼり、名を呼ぶ。『あかり~~!』とな」
あかりは真っ赤になり、ひざまずいてスガルの両肩を持って立たせようとした。
「お、おやめください。今から恐妻家にならないで」
「じゃあ、妻になってくれるんだな」
スガルは顔を輝かせて、あかりをがっしり抱きしめた。
路肩でひっくり返りそうになった馬車から助けられた馬華号とサラサは、検非違使庁に駆けつけてきて顔を見合わせて微笑んだ。
「なぁんだ、美甘ちゃんに相談しなくても、勝手に仲直りしちゃったみたいでしゅ!」
「良かった、良かった!」
「うりずんさまとは何故すれ違ったんでしょう? どこへ行かれたのでしょうかねぇ?」
サラサが首をかしげた。