第6回 正座で座禅をする

掲載日2014/04/09
著者あすら
 私は時々、寺に座禅をしに行く。精神的に落ち着かないときに座禅をすると、不思議と心が穏やかになるからだ。
 さて。突然だが、「座禅」をしている姿をイメージしてほしい。どうだろう。きっと、あぐらをかく修行僧のイメージが思い浮かぶのではないだろうか。「座禅」と聞くと、「あぐら」と連想しがちである。しかし、あまり知られていないが、実は座禅をするには、あぐらだけでなく正座も今日、認められているのだ。
 近年、当日だけ座禅を体験できる座禅会などが、全国の寺で頻繁に開催されるようになった。そして、若い女性など誰でも気軽に参加しやすくなりつつある。主に、こうした座禅会は、観光地の寺が行っているものである。そのため、近所の寺の座禅会であれば、作務衣などのゆったりした服装でいけるのだが、観光地の寺だと「観光がてらに座禅をしたい」という女性も多く、その大半はスカートなどのおしゃれな服装で参加を希望する。こうした体験希望者に対して、理解ある寺は正座での座禅も認めるようになったのだ。おそらく、座禅において重要なのは、座り方ではなく、精神が研ぎ澄まされ、集中できる姿勢であれば問題ないということだろう。
canseiza_6_s1  では、いったいなぜ座禅に人気があるのだろうか。辛い座禅を自ら望んで行うのは、少なからず、座禅に「良い」と感じるものがあるということである。さらに、もう少しかみ砕いてみよう。まず、座禅の何が辛いのか考えてみよう。言わずもがな、いろいろ辛い。はじめに思い浮かぶのは、体感だ。冬の座禅は、どんなに寒くても窓が全て開け放してある。これは屋外でやっているのとほぼ変わらない体感だ。そんな環境で座禅をしていると、鼻の先から指の先まで神経の感覚がなくなってしまう。また、厳しい冬の座禅に匹敵するのが、真夏の座禅だ。じっとしているだけなのに、汗がほとばしる。そして、外でワンワンせわしなく鳴く蝉の声を聞きながら、集中力が切れて、ひたすら時が過ぎるのを感じる時間は、なんとも辛い。おまけに、夏は招かれざる客がやってくる。ずばり「蚊」だ。当然、座禅中は蚊に心を惑わされることは禁物。そもそも殺生だって禁止されている。こうなると、蚊に自分の血を吸わせるより他はない。それを蚊も知ってか知らずか、「この人は叩いてこないぞ」と調子にのって、どんどん場所をかえて吸いついてくる。蚊に血を吸われた箇所は、座禅中も痒くて辛いが、数日間にわたって痒くて辛いものだ。
canseiza_6_s2  それに比較して、春や秋の座禅は実に心地よい。さわやかな風。柔らかい陽の光。ついうとうとしたくなる陽気だ。だが、春と秋に忘れていけないのが花粉症。うっかり花粉対策をしないで座禅を始めると、心地よい風と共に外から運ばれてきた大量の花粉によって、気づいた時には鼻が垂れているということもしばしばだ。その結果、成人の身にもなって、鼻を垂らしっぱなしの姿を参加者一同にさらすことになってしまう。
canseiza_6_s3  そんな体感からも辛さを感じる座禅であるが、素晴らしい発見もある。例えば、座禅をしていると普段は聞こえない音が聞こえてくる。もちろん、座禅をしているときは無心になるのが前提だが、そこにたどり着くまでのステップとして、耳を澄ませるのだ。雨の日や雪の日、目を閉じて座禅をしていると、自然が奏でる小さな音がよく聞こえる。また、うすぐらい室内で、わずかに灯される光の元、お香のほのかな香りが漂う空間で座禅を行うのは、まさに、「和」の世界に溶け込んでいる感じだ。この非日常的な環境が、自分を高めてくれる気がするのである。
 ただ、世の中には、非常に自分に厳しい座禅を行う修行僧もいる。ある修行僧は、自分の煩悩に弱さを感じ、太ももに杭を打ちこんで座禅に励んだという。非常に痛々しい話だが、座禅というものがそれだけ真剣に挑むべきものであることを物語っている。
canseiza_6_s4  座禅は、一見ただ座っているだけに見える。しかしながら、実際にやってみると、静寂、そして自ら体と心を動かさないというのが、いかに辛いものであるかが分かるはずだ。あぐらや正座によって足がしびれるといった苦より先に、じっとしていること、そのものが苦に感じるのである。しかし、座禅で感じる苦を苦でないように見せられた時、そして苦を苦と感じなくなったとき、美しい姿勢・美しい心が導き出されるのだと思う。座禅はそれほど厳しく奥が深いのだ。あぐらでの座禅に抵抗のある人は、是非、一度は正座での座禅を試みてほしいものだ。きっと貴方を高めてくれる素晴らしい時間に出会うだろう。
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