[377]鹿の樹(かのじゅ)将軍のお見合い


タイトル:鹿の樹(かのじゅ)将軍のお見合い
掲載日:2025/09/10

シリーズ名:緑林シリーズ
シリーズ番号:6

著者:海道 遠

あらすじ:
 琉球のベテラン巫女だったナナジは、髪を切った後、決心がつかず、琉球の巫女屋敷に滞在していた。
 姪の娘の11歳のチマが「巫女になりたい」と言ってやってきた。「巫女になれば嫁に行くことも着飾ることもできん」と思っていたが、チマから、今の巫女は自由に嫁に行くこともできると聞く。チマは訪ねてきた薫丸に懐く。
 そこへ「緑林」の女頭領が着飾って立ち寄る。



本文

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序章

 古・琉球の聖なる津高島(つだかしま)の祭祀(さいし)が行われる始祖アマヒロヨが下り立った開闢(かいびゃく)の地。
 東の海の果てに存在するという理想郷、ミライカナイ。
 津高の女は神人(かみんちゅ)。
 津高の男は(うみんちゅ)。男の権力争いはない。
 女は母性を中心に、普段は妻、母の役割を果たす。

第一章 巫女になりたい

 ナナジの姪の娘のチマが巫女になるという。
 カラジ結いにする髪を切ってしまったナナジだったが、巫女たちが住む屋敷の一室に、まだ滞在していた。
 ナナジに巫女務めの詳しい話を聞きに来たチマは、まだ11歳だ。
 怖気づいているのか、入口で立ったままだ。
 ナナジはまず、言った。
「正座してみなさい」
 所作もカタチも、まるで成っていない正座だ。少しの間もぐらぐらして真っ直ぐ座っていられない。
「これ、チマよ。そんなことで巫女が務まると思うか。時には1日中、正座して祈らにゃならんというに」
「頑張ってお稽古するわ」
 ナナジはため息をついた。
「チマ、お前、巫女になるということが、どういうことか分かっているのか」
「も……もちろんよ! 始祖の神様、海の神様、豊作の神様、そして巫女の始祖様のために、一生、祈りを捧げるのでしょう」
「そうじゃ。他の子がきれいな色の着物や花をつけて着飾って、やがて好きな『おのこ』と結ばれても、巫女には許されぬのだぞ。またかわゆい赤ん坊がほしいと思うても、巫女には産むことは許されぬのだぞ。それでもよいのかの?」
「は?」
 チマはあどけない瞳をキョトンとさせた。
「ナナジ大伯母ちゃん、何を言っているの? 今の巫女は1年の数カ月だけ、祈りばかりの生活になるけど、その間以外は普通にご飯作ったり畑仕事したり、おのこのお嫁さんになることができるのよ」
「は?」
 今度は、ナナジがキョトンとする番だった。
「あたいの母さんがそうしているもの。ナナジ大伯母ちゃんと母さんはトシが離れているから、ずいぶん巫女の務めや、やり方が変わったんではないの?」
「じゃあ、お前の母さんは、1年の何日かだけ巫女を務め、それ以外は普通のおなごとして暮らしておるというのか?」
「そうよ。『あたい』が証拠じゃないの。母さんがあたいを産んで育てたんだから」
 ケロリとした顔で、チマは言う。
 ナナジは雷に打たれた思いで、その場に立ち上がった。
「わ、私の時代は、生まれて間もなく先輩の巫女に預けられ、育てられて、生まれた家に帰れることはほとんどなかったぞ! 今の巫女はそんな生活をしているのか!」
「そうよ」
(じゃあ、私も年の半分は「あの男」と結ばれて子を産んで育て、飯を作って洗濯や掃除をしたかもしれぬのか?)
 ナナジの脳裏に、ちらりと紅鬱金(べにうこん)色の青年の面影が浮かんだ。
「――あの男? ナナジ大伯母ちゃん、どうしたの? 顔が赤いわ」
 ナナジは我に返り、咳ばらいした。

第二章 薫丸(くゆりまる)

 翌日、なんと南の島へ旅立った薫丸が、ナナジのところへやってきた。
「ナナジさ〜ん、元気にしてた?」
 扉を開けると、薄暗い中で机の上に島の強い酒の瓶と茶碗が置いてある。やや老いた女が茶碗を持ったまま突っ伏していた。
「おや……、くゆりさんではないか? いかがした?」
 ナナジは少しロレツが回っていない。
「都に急用ができて京の都へ戻ってきた帰りなんだよ。どうしたの? お酒なんか飲んで」
「巫女だって酒を飲んだってよいんだよ。――そうだったか。急用の方はもう良いのか」
「うん。明日には南行きの船に乗る。どうしたの? ナナジさん。お楽しみの酒じゃないようだね。何だか元気ないねぇ」
 薫丸はナナジの顔をマジマジと見た。ナナジは大きなため息をついた。
「月日の経つうちに、なんと変わってしまったことよ。私が巫女になった頃は、たとえ行き違いで生まれた時に許婚者(いいなずけ)がいたとしても、別れさせられ巫女にさせられたというのに……」
「はあ?」
「私が若かった頃の古い古い話じゃ。巫女になるには人生を神事に捧げなきゃいかんかったが、近頃はそんなことはないらしい。男は海の仕事に専念して、女は家事と神事を両立できるらしい」
「そりゃあ、素晴らしい進歩じゃないか!」
 薫丸は目を輝かせた。しかし、ナナジには曇った表情が残っている。
「――おなごの重荷が大変になるかもしれんがな。――そんなことより、当時に諦めたことはどうなるのじゃろう? と、疑問が湧いて腹が立ってきてのう」
「え? ナナジ巫女は諦めたことが何かあるの?」
「諦めたことというより、『諦めた人』がのう……」
 ナナジ巫女は薫丸の熱心な視線を逸らせた。
「へえぇ〜〜! そりゃ初耳だ!」
「最近は夢ばかり見て寝不足なのじゃ……」
「その、諦めた人のことを?」
「う……うむ。イカダカヅラの花束など持って、私に差し出すのじゃ」
「イカダカヅラ?」
「それ、そこに咲いておる赤い花じゃ」
(※イカダカヅラ=ブーゲンビリア)
「あんなド派手な花を花束にして? 変わった男だな! 和歌を書いた文とかなら分かるけど」
 日本では平安時代に当たるこの時代は、おなごに持っていくという品というと、文か、改まった品なら布や扇とか装身具だろう。もっともこれは貴族限定の例だが。
「それで、その男はいったい、今はどうしているの?」
「今は可愛い妻を娶られて、幸せに暮らしておられる」
「……」
「他の方々からは、季節神と呼ばれて」
「……」
 しばらく指一本動かさずにいた薫丸は、出し抜けに大きな声を出して叫んだ。
「それって、うりずんさんのこと〜〜〜?」
「……う、うむ。たぶんな」
「ナナジ巫女は、うりずんさんが好きだったの? いつの話さ、それ」
「こ、これ、声が大きい! だから、まだ私が10歳になったばかりの頃さ」
「そんな時代に、うりずんさんと会ったの?」
「巫女の正座がうまくできているか、祭のついでに調べに来たんだよ」
「へええ。うりずんさんなら、派手な花束を持ってきそうだな。今のまま、派手なふわふわ毛の若い姿でかい?」
「ああ、全然、変わらんよ」
「さすがに神さまなんだなあ。トシ取らないんだ!」
 薫丸はちょっと考えこんだ。
(ということは、いつぞや、うりずんさんが心配していた美甘ちゃんが先にお婆ちゃんになって、あの世へ逝ってしまったら、どうしよう? と悩んでいたことが起こるんだな)
(まあ、でも、最初から分かって妻問い婚したんだものな。仕方ないことだ)
 薫丸は、屈託ない美甘ちゃんの笑顔を思い出した。
(おいらの感じるに、うりずんさんは、ちょいと困ったところがあるけど信用できる神さまだ。美甘ちゃんを幸せにしてくれるだろう)

第三章 チマとの出会い

 ふと、入口の人影に気づいた。
 白い着物に白いハチマキ、巫女の恰好をした女の子が突っ立っていた。片足で立ち、もう片方のすねをズリズリやっている。
「――お前、誰だい?」
「ああ、その子は私の姪の娘でね! チマっていうんだよ」
 奥からナナジが叫んで紹介した。
「巫女になるっていうから、正座のお稽古をはじめたんだ」
「巫女になるの?」
「うん。ここじゃ、女は神のために祈るのは当たり前だから、全員、巫女になる。そして年の半分は農作業や子育てをする。漁に行くのは男の役目。昨日もナナジ大伯母ちゃんにそう言っていたんだ」
 一丁前な口をきいて、説明する。
「それは、ナナジさんから聞いたよ。お前、まだ小さいのに、しっかりしてるな」
「あんたは誰よ?」
「くゆりっていうんだ。う~~ん。ナナジさんとひと仕事したことある知り合いだよ」
「言葉があたいたちと全然ちがうね」
「ああ、都で育ったからな」
「都?」
「大和国の都だよ」
 チマは首をかしげていたが、考えるのをやめたようだ。
「それより、おいらが正座を教えてやろう」
 薫丸が立ち上がって、畳の上に上がれと合図をした。
「背筋を真っ直ぐにして立ってみな」
「うん」
「だめだめ、真っ直ぐになってない。お腹が突き出てるとこなんか、まだまだ子ども体型だな」
 少女は、しゅんとしてしまった。
「まあ、明日からぼちぼち教えてやるから、そんな顔するな」
「明日から? 薫丸、お前、明日、南行きの船に乗るとか言ってなかったかい」
 ナナジが尋ねた。
「なんか放っとけなくてな、この娘。都の友だちに少し似ているんだ。だから、2,3日はここに留まるさ」
「本当? くゆり。2、3日、ここにいるの?」
「ああ。お前、チマだったな。おいらがここにいる間に、正座を上達しろよ」
「ジョウタツ?」
「きれいにできるようになりな、ってことだよ」
 チマは急に、薫丸の背中にくっついてきた。
「あんたの匂い、好きだ」
「よせやい、くすぐったいじゃないか」
 チマはくゆりを気に入って、ずっと離れない。
 2、3日が、4、5日に延び、10日に延びてしまったが、その分、チマの正座は上達した。

第四章 朱華(はねず)の一行

 そろそろ、薫丸が緑林の住処のある島に帰ろうとしている時、船に乗って女頭領の朱華がやってきた。
 正体がバレては琉球の民が騒ぎ出すので、姫御前のように優雅な装束で、荷は大きな葛籠(つづら)を下男に持たせ、船着き場からしずしずと歩いてやってきた。
 薫丸が驚いたのは、彼女の一行に天燈鬼と竜灯鬼が混じっていたことだ。
「おや? あんたたち……」
「薫丸さん、久しぶりやな! 俺たち、入林試験に通って緑林の仲間になったんやで!」
 ふたりは得意げに手を振った。
「いつの間に? みんな、食事はどうしてる?」 
「アマドコロ爺やさんが頑張って作ってますよ」
「ありゃ~! どうしよう?」
「大丈夫ですよ。ここなつ坊主もいますから。それで俺たちも頭領のお共についてきたんですよ」
 竜灯鬼が答えた。
「で、頭領はどこへ行くんだ?」
 天燈鬼と竜灯鬼はウキウキとして駆け寄った。
 薫丸の耳元で、
「実は……お見合いなさるんですがな」
「な、何?」
「そのために、船を乗り継いで奈良まで行くんです」
「奈良まで? いったい頭領のお相手は?」
「さあ、神仙の将軍でガタイも声もデカい勇ましい御仁(ごじん=人物)だそうです。翠鬼は会ったことがあるとか」
「へええ、朱華(はねず)頭領が神仙の将軍と……」
「縁談がまとまれば、緑林たちは神仙軍に捕縛される恐れも少なくなりますから」
「その将軍は、そんなに強力な権力を持っているのか!」
 薫丸は、ひたすら口をあんぐりするしかなかった。

 島の女だが、小ざっぱりした、姿の美しい30歳くらいの女がやってきた。
「チマ、いつまでナナジ大伯母さんのところにいるの? ご迷惑だよ。帰っておいで」
 女はチマの腕を握った。
「母ちゃん、あたい、もっと正座のお稽古をする」
「またの機会にすればいいじゃないか。一旦、帰っておいで」
「くゆり、黙って行ってしまったらダメだよ。きっと帰ってくるからね」 
 振りかえり振りかえり、チマは母親に手を引かれて自分の家へ帰っていった。
「ふふふ。チマはすっかりくゆりさんに懐いてしまったね」
「ナナジ巫女、それより、朱華頭領が見合いをするらしいよ」
「ええっ? 頭領が?」
「まとまっても、婿入り婚なら問題ないけどな。頭領は緑林の長だから」

第五章 将軍そわそわ

 その頃、奈良の鹿の樹(かのじゅ)将軍は、お見合いの支度に負われていた。翠鬼がつきまとって急かせるものだから、仕方なく言うことを聞いている。
「なんだって、ワシがお見合いなんぞせにゃならんのだ!」
「良いお話をいただいたんですよ。お相手は美貌も素晴らしく、武芸にも秀でていて船の操舵術、馬術、弓矢を持つ家来の統率にも長けておられるおなごだそうです。このままじゃ、弟のスガルくんはまだ10歳、母上が恋しい年頃でしょう。きっと姉上ができれば母上代わりに可愛がってくださいますよ!」
「スガルには俺がいればよい!」
 将軍は断固として言い切るが、翠鬼も食い下がる。
「本当にそうでしょうか? スガルくんだって母親が恋しいでしょう。兄上のあなたはすべて、目が行き届きますか?」
「う、ううむ」
 あごヒゲを撫でて考えながら、着替えを部下に任せている。
「将軍、第一、将軍がこのまま奥方様を娶らないのでは、ちとお寂しいのでは?」
「分かった風なことを言うな、翠鬼」
「お相手はわざわざ、遠路を船で幾月もかかってやって来られるのです。お会いなさるだけでも……」
「俺は、家来を持っているおなごは気が強くてどうも好かぬ。会うだけだぞ!」
「はい。そう来なくっちゃ!」
 翠鬼の張り切った声が響いた。

第六章 見合いの前日

 ナナジはチマがいないことに気がついた。一旦、母親が連れて帰ったのは分かっているが、そういえば薫丸の姿もない。
 港へ行って、船乗りに聞いてみた。
「14歳くらいの大和人の男の子を見なかったか? ザンギリ頭の」
「ああ、この前、下船した子かな。あの子なら、また内地(大和国)行きの船に乗りましたよ。女の子も連れて」
「なに~~?」
 別の船乗りが、走り書きの文を預かっていた。
「ナナジさま
 また大和国に行くことになった。チマが離れないから一緒に連れていくけど、帰りには送り届けるから心配しないでください。
                    薫丸」
「こりゃ、でーじ(大変)じゃ!」
 ナナジ巫女は、畑の集落へ走り出した。

 薫丸は、船に乗って九州に上陸してから瀬戸内海を船で進んで大坂に上陸し、奈良の鹿の樹将軍のところまでやってきた。チマがついてくると言ってきかないので、ナナジ巫女には走り書きの文を置いてきた。
 鹿の樹将軍の話は、天燈鬼から聞いている。
 うりずんの旧知の友だそうだ。神仙の将軍だそうだが、朱華頭領との縁談が持ち上がっていると聞き、緑林の女頭領の見合い相手って、どんな人だか見ておこうと思ったのだった。

 アマドコロ爺やが朱華頭領のお供として、奈良に到着した。
 朱華頭領は奈良の東大寺にお参りして、その大きさに驚き、静謐さに圧倒され、正座をして合掌する。
 爺やが明日のお見合い相手について話す。
「なんでもお見合いの相手は、神仙の将軍であられるそうな。神様ですぞ!」
「爺やったら、それはもう耳にタコよ。だから、会ってお見合いして、もし話がまとまっても、カタチだけの夫婦にしかならないわよ。身分と立場が違いすぎるもの。私は『緑林』を守るためにお見合いを引き受けたのよ」
「はい。朱華さまの気苦労は、この爺や、よく分かっております……」
 アマドコロ爺やは、頭を低くして女頭領に逆らわないでいるのがやっとだ。
「お見合いの場所は、街はずれにある古刹(こさつ=寺)の一室です。私は朱華さまのお側を離れません。男衆も数人、連れてまいります」
「物々しいお見合いねえ。いっそ、お見合いなんか飛ばした方が良かったんじゃないの? カタチばかりなんだから」
「お見合いを飛ばす! 朱華さまは、いきなり結婚でいいと?」
「構わないわよ。指一本触れさせるつもりはないから」
 宿の窓を開けて、扇でパタパタ風を送っている朱華は、丸きりお見合いには興味なさそうだ。
 同じ日に奈良に到着した薫丸は、足がマメだらけになったチマの手当をしてやっていた。
「ほらな。お前にはまだ長旅は無理だったんだよ。おっかさんが心配してるぞ」
「やだ。くゆりと一緒にいる。姫シャラおっかさんは、大丈夫。待っててくれるから」
「おっかさんは、姫シャラっていう名前なのかい?」
「うん。きれいな名前でしょう。名前だけじゃなく、姿もお顔もきれいよ。村のおじさんたちがそう言ってる」
 チマは得意そうに言った。

第七章 本番

 奈良の街はずれの古刹の一室で、鹿の樹将軍が待っていた。
 しばらくして、アマドコロ爺やを従えた朱華が到着した。襖の陰で翠鬼が控えている。
「鹿の樹と申す!」
 大声で将軍が挨拶したが、隣についている配下の者が耳打ちして小さな声で言い直した。
「神仙の将軍、鹿の樹と申す」
「朱華と申します。南の離れ島で漁業を営んでおります」
 朱華頭領もカタチばかりの挨拶をした。
 薫丸はアマドコロ爺やに頼んで、チラリと部屋を見せてもらった。かなりな筋肉質の大男で、顔の相はアゴヒゲをたくわえているものの、想像していたより上品ではないか。

 朱華は南洋の色を表したような明るい青色の打ち掛けをまとっていた。くっきりした目鼻立ちに生えて、キリリとした艶やかさを醸し出している。
 鹿の樹将軍も思わずたじろぐほどの美しさで、眼が釘付けになった。
 しかし、朱華はアマドコロ爺やに言ったように、将軍に嫁いだとしても妻らしいことをするつもりはない。ただ『緑林』のためだけの縁談だ。
 お互いに正座がしっかりしていることは確かめあった。人間、正座あっての誠実さと気骨だと信じているからだ。
 師匠の名は誰だか聞いていないが、しっかりした師匠の教えた正座だろうと推察できる。
「いかがですか。将軍。周りの国から護っていただけるのでしたら、貴殿の妻になることを考えますが。貴殿にとっても多少の利点があると存じます。『緑林』という集団の名前を出せば、恐れる者多し、崇拝する者多し、感謝する者もまた多し。しかし、私に触れることはご遠慮願いましょう」
 きっぱり、カタチだけの妻にしかならないと宣言した。
(この女……一筋縄ではいかない)
 鹿の樹将軍は、そう思いつつ朱華の凜とした美しさに一瞬で心を奪われてしまった。ガラにもなく胸のドキドキが止まらない。
(うう、まずい……。これを一目ぼれというのだろうか?)
 顔面に吹き出してくる汗を拭きつつ、頭を抱えた。

第八章 隠し子疑惑

 ふと部屋の隅に目をやると、小さな人影がある。翠鬼が短く叫ぶ。
「誰だ!」
 扉の陰でビクッとした影があった。
「待ちなさい、そこの子ら」
 ゆっくり戻ってきて思春期のおのこと、少し小さいおなごが顔を出した。
「うん?」
 将軍が目を止めた。
「小さなおなご……会ったことがあるような……誰かに似ている……」
 将軍は遠い眼をしてひとり言をつぶやいた。
「ふたりとも、入ってきやれ」
 朱華ができるだけ優しく話しかけた。
「そんなところに突っ立っておらず正座せよ。お茶でも淹れさせよう」
 薫丸とチマは、奥の部屋に入ってきて座った。
 修行僧によって、お茶が運ばれてきて揚げ菓子までついてきた。
 チマは迷わず手を出した。その時、鹿の樹将軍の記憶が閃いたらしく大声で叫んだ。
「お前は! いや、そなたは!」
 その場にいたアマドコロ爺やはじめ薫丸も、隣室に控えていた将軍の配下の者も朱華の配下の者も、何事か、と注目した。
 鹿の樹将軍は、できるだけ小さい声にして、
「小さなおなごよ。どこから来た?」
「琉球からよ」
「琉球だと! お前の母の名前は?」
「姫シャラよ。きれいな名前でしょう」
 揚げ菓子を頬張りながら、チマは答えた。
「う~~む。名前まで憶えておらんが、お前は……」
 翠鬼が、薫丸とアマドコロ爺やの側により、
「あの子、まさかとは思いますが、鹿の樹将軍の隠し子……とか」
「ええっ、まさか!」
 爺やは驚いたが、否定できる根拠がない。現に将軍はチマを見て驚いた。
「将軍は、あの通りの武勇伝がわんさかありそうな体格。周りのおなごが放っておきませんぜ」
 翠鬼が爺やと薫丸に小声で話した。
(チマがあの将軍と血のつながりがあるんなら、この縁談は運命的なものだったわけですかい?)
「待て、翠鬼さん。まだそうと決まったわけでは……」
 アマドコロ爺やのひたいにも冷や汗がにじんでいる。
(朱華さまの伴侶に隠し子とは避けたいことじゃ。ワシのわがままかもしれぬが……)
 爺やは、朱華の育ての親なので気を揉んでいる。
「双方とも、少しお疲れのようじゃ。ちと休憩にしましょう」
 爺やが声をかけた。
「私は疲れてなんかいないわよ」
「ワシも疲れてなんかいやせんぞ」
 朱華も将軍も、休憩なぞする気はない。

第九章 ややこしい話が

 寺の山門から、女の声を交えた騒ぎが聞こえてきた。
 アマドコロ爺やが様子を見るために席を外した。と思う間もなく、ひとりの地味な着物姿の女が勝手に部屋に入ってきた。両方の配下が止めようとしたが、
「お願いです! チマがこちらに来ているかもしれないのです。チマに、娘に会わせてください!」
 女は抵抗して押し通ろうとしている。
「あっ、母ちゃん!」
 チマが立ち上がった。
「チマ!」
「母ちゃん、こんなところまで来たの?」
「こんなところじゃないわよ。あなたこそ! 大和国まで船で奈良まで! どんなに心配したと思っているの!」
「だって、くゆりと離れたくなかったんだもの。くゆりは母ちゃんのところへ送ってくれるって言ってたから」
 まったく悪びれないで答える娘を抱きしめて、女は泣き出した。
 そこへ――。
「あんたは、姫シャラさん! おお、そうだ! 思い出したぞ」
 鹿の樹将軍が、
「その娘はあんたの? 道理であんたにそっくりだ! ワシを覚えているか? 鹿の樹だよ。聖弩(せいど)将軍の部下だった鹿の樹だよ」
 翠鬼が、アマドコロ爺やさんに耳打ちして、
「あれ? なんか話がややこしくなってきたぞ」
「よう聞いてみい、翠鬼。どうやら鹿の樹将軍の隠し子なんぞではないぞ」

 地味な着物の女は、
「鹿の樹さま。覚えておりますとも。あの方の一の部下でおられました……」
「姫シャラさん、聖弩将軍のお子を産まれて、南の島に移り住まれたと聞いておりました」
「はい。琉球の農村でこの子とふたりで静かに暮らしておりました」
「戦で聖弩将軍が斃れ(たおれ)られてから、姫シャラさんの行方が分からなくなってしまい、お守りできず申し訳なかった」
 鹿の樹将軍が、その場に正座して頭を下げた。
「そ、そんな。鹿の樹どの。頭をお上げください。あなた様には何も落ち度などありません」
「いや、もっとお探しすべきだったのです。一の部下として謝ります」
「それなら、いったい何人の女人とお子を探さねばならないのでしょう? 聖弩将軍は、地上の皇帝なみに女人を抱えておられましたゆえ」
 チマが、そこへ顔を出し、
「母ちゃん、揚げ菓子とお茶のお代わり欲しいって言ってもいい? このおじさんが父ちゃんなら、かまわないよね?」
「違うわよ、チマ! このおじさんは父上の部下だった方なのよ」
 慌てて姫シャラが答えた。
「あっはははは……」
 朱華の笑い声がはじけた。
「私は、夫になる人に何人隠し子がいようとビクともしないけどね。あいにく鹿の樹さんは、お嬢ちゃんの父上ではないんだってさ。さ、部屋へ戻ってもっと揚げ菓子をお願いしよう。おねえさんも食べたくなってきたよ!」
 チマは朱華の手に引かれて元の部屋に戻った。
「くゆりも一緒に食べようよ! 美味しいよ!」
 薫丸は、いきなり言われて手を振って要らない合図をした。
「ちぇっ、ちぇっ、隠し子じゃなかったのか。つまんねえの!」
 翠鬼が舌うちしながら、どこかへ飛んで行った。

第十章 一年に一回

 鹿の樹将軍が座敷に戻ると、揚げものの器は空っぽになっていた。朱華は口元を拭き、チマは不服そうにしている。
「お前たち、もう全部食っちまったのか!」
「あんなのちょっぴりだもん!」
 将軍がタスキ掛けして立ち上がりながら、
「もっと作るように言いつけろ!」
 アマドコロ爺やさんが
「しかし、そんな図々しいこと……」
「だから、自分で作ってくる。大丈夫、今日の場所代に、お布施はフンパツしてあるから! 副官、お前にも分けてやるから、ワシの後に続け〜〜!」
 大声で命令しながら、厨房へ駆け込んでいった。

 お見合いの返事はというと、朱華は肩をすくませ、
「私はさっき言った通りよ。体裁だけの縁談ですもの。でも、たまに、あのかりん糖が食べられるのは魅力かも……」
 将軍の方は、
「七夕のように、年に1回会うくらいなら会ってやってもよいかな」
 ――というわけで、ふたりは1年に1回会うことになった。

 朱華と将軍は、寺の山門でチマ親子と薫丸とアマドコロ爺やさんを見送った。
「小さな巫女よ、立派な琉球の巫女になって勾玉の首飾りをもらうがよいぞ」
「はい、さよなら。将軍さま」
 チマ一行は、夜道を出発した。

 歩き出したが、チマが睡魔に襲われてきた。
「仕方ないな。ほら、おいらの背中においで」
 薫丸の背中におぶわれながら、チマが寝言を言う。
「お腹いっぱい……もう、食べられない……」
 薫丸はクスッと笑った。
「良かったなぁ……、滅多に食べられないもの、たくさん食べられて……。さあ、琉球に帰ったら、ナナジ巫女さんにちゃんと習って巫女の修行だぞ!」
「うん……むにゃむにゃ」
 ふたりの頭上には、天の河が煌めいていた。


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