[82]桜守、正座してソウルトーク
タイトル:桜守、正座してソウルトーク
分類:電子書籍
発売日:2020/02/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
定価:200円+税
著者:海道 遠
イラスト:keiko.
内容
新入社員の洋一は、お花見の場所取りを命じられて白鷺桜(しらさぎざくら)の根元に座りこむが、桜守(さくらもり)の老人に追い払われる。
そこへ、スズメバチの大群に襲われる。桜に巣を作っていたのだ。
気の強い先輩の女性社員、さくら子は重傷を負ってしまう。
二度目、ハチの駆除をしてからお花見を催した会社員たちはスズメバチの復讐を受ける。
桜の前に正座して、洋一と孫のれんげの見守る中、桜とスズメバチとの話し合いを始めた桜守は―――。
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本文
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序 章
青年は、おそるおそるふすまを開けた。眩しい陽射しに目を細める。縁側の外は暖かい春の光に満ちて、間近にせまる桜の老木から、今を盛りと咲く桜がにぎわっている。
その賑やかな桜を背景に、正座しながら振り返った和服姿の女性。
外が眩しくて、表情がはっきり見えないが、正座の後ろ姿で青年には分かった。
―――この女性がわが伴侶になるひとだと―――。
開かれた縁側から桜の花びらがちらほらと部屋の中へ舞い散ってくる。女性は、薄紅色や紅色の混じった小紋の着物をまとっていた。まるで桜の精だ。
肩に散ってきた花びらをそっと手のひらの上に乗せてから、青年の方へ向き直って初々しく結った頭を下げた。
「初めまして。若森桜子でございます」
(なんと美しい正座、所作なのだろう)
青年は自分が挨拶するのも忘れて、しばらく呆然としていた。
今から何十年前になるか――。
これが、桜守の老人と妻、桜子の出会いになる白鷺桜の隣に立っているお寺の二階で行われたお見合いだった。
第 一 章 新入社員の務め
樹齢二千年の巨大な桜が、ある山あいの寺の境内にそびえている。
幹周り数メートルという巨木だが、毎年、白い桜を無数につけては観る者の眼を楽しませる。白鷺桜と呼ばれている。
毎年、根元に一番近いお花見は、場所取りで熾烈な戦いが繰り広げられる。
「おーい、新入社員」
「はいっ」
(名前あるんだから、小山って呼んで下さいよ)
先輩に呼ばれて洋一は心の中で愚痴った。
「明日のお花見、分かってるよな。朝五時から場所取り、頼んだぜ」
「ごっ、五時ぃ? 朝の五時からですか!」
「決まってるじゃないか。白鷺桜の根元は競争率千パーセントだ。あの白鷺桜の根元に必ず陣取るのが、我が社の部署の慣わしなんだ。頼むぜ、新入社員!」
「小山洋一です!」
「小山くん、頼まあ。三日間とかよりマシと思って」
洋一がしぶしぶ、お花見の日の朝早くからシートを広げ、真ん中に正座してじっとしていると、ひとりの老人が近づいてきた。
「ほほう、今年も来たか、新入社員」
古びた黒い作務衣を着ているが、下は長靴。髪はごま塩でボサボサ、鋭い眼光をしている。
「な、なんで新入社員て」
「そりゃ、下ろしたての背広を着ていりゃわかる」
老人は洋一を鼻先で笑い、
「残念だが、そこで酒盛りすることは許さん。いや、そこに座ることも許さん。とっとと場所を移せ」
「移せったって、この境内中、シートで埋まっていて、場所はもうありませんよ」
「それなら、今年は諦めるこった」
「そんな。あなた、どなたなんです。お寺の方ですか」
洋一の会社の仲間が数人やってきた。
「小山。毎年のことだから無視しといていいぜ」
「あんたらから無視されるのは、わしは構わんが、桜のためを思うならどいてやってくれ。この桜はな……」
老人が話そうとするのを、社員たちは、
「分かった、分かった。桜が俺たちの重みで枯れちまうっていうんだろ。大丈夫だよ、これだけ頑丈なら。心配しすぎだって、お爺さん」
老人は洋一たちを睨みつけて、一応退散した。
「あの爺さんには、毎年、辟易してるんだよ、気にすんな。じゃ、小山、場所取り続けてくれ」
会社の仲間は職場へ戻っていった。
第 二 章 老人
洋一は、老人が気になった。もう一度、話ができる機会を待っていると、再び老人が近づいてきた。
「どうして正座しとるんじゃ。足が痛かろうに」
「役目なんで」
「さっさと帰れ。白鷺桜さまのバチが当たらんうちに」
それだけ言うと、老人はまた去った。
別の方向から砂利を踏みしめる音が近づいてきた。
「真面目に正座して一日中、場所取りなんて馬鹿じゃないの?」
人事部のさくら子女史まで様子を見にきた。美人で、スタイルも申し分なくて仕事もできるが、素っ気なくてとっつきにくい女性だ。でも男子の先輩たちからは命令されてるので動けない。
さくら子女史はからかいに来ただけなのか、踵を返して戻っていった。
そのうち冷えてきた。風が冷たい。戻り寒波のせいで寒いったらありゃしない。桜のつぼみもまだ固い。くしゃみを何回もしていると、半纏を肩に着せてくれた手がある。高校生かな。肩までのボブヘアが可愛い女の子だ。
「ごめんね、うちのお祖父ちゃん、頑固で」
「君のお祖父ちゃんなのか、あの人」
「うん。私はれんげ。さっきのはお祖父ちゃん」
女の子によると、実は頑固じいさんも、その昔、新入社員だった頃、この境内でお花見の場所取りを命じられたことがある。仲間にも声をかけ、二十人あまりで一週間も根元に座り込んでいた。すると、桜のつぼみが開かず、ぽろぽろと落ちてしまったのだそうだ。
「いけねえ、このままじゃ桜が咲かなくなる」
若かった老人は座りこみを止めた。仲間にも止めてもらったが、時すでに遅く、その年の桜は一輪も咲かなかった。
それから白鷺桜は新芽を出すこともなく弱り始めた。
「それでね、お祖父ちゃん、樹のお医者様を捜しまわったの。そしてやっと見つけ出して、苦労して桜を蘇らせたんですって」
「ふうん、そんなことが」
それから長い間、若かった老人は出社する途中に、毎年春になると白鷺桜を眺めて一生懸命、働いた。妻と、ひとり息子のために―――。
桜を蘇らせた樹医が病気で倒れたと聞くと、医者を見舞って桜の世話の仕方を教えてもらい、樹医の資格を取った。
樹医は亡くなり、老人が桜守を引き継いだのだった。
「そういうわけがあったのか……」
「おにいさん、ありがとう。毎年、新入社員の人が場所取りに来るけど、私の話を聞いてくれたの、おにいさんが初めてよ」
れんげは、薄いピンクのショールをセーラー服の襟元に引き寄せて、ぶるっとしながら微笑んだ。
第 三 章 桜の危機
「この桜は町のシンボルだし、私も大好き。どうにかして座りこみをしないで場所取りしてもらえればいいと思っています」
れんげの言うことももっともだ。
「根元に大勢の人間が座ると、古木に大変な負担になるのか。どうすればいいだろう」
「以前、住職様にお願いしてロープを張ったことがあったけど、まったく効果なかったの」
「だろうな。かといってひとりひとりに桜守の爺さんの体験談を話して説得するのも効率的じゃないし」
洋一は途方に暮れた。
「とりあえずロープを張って、ビラ撒きはしましょう」
れんげが言った。
「ひとりひとり説得だのビラまきだの、いつの時代に生きてるのよ、あんたたち」
さくら子女史が私服の黒いトレンチコートに着替えて立っていた。
「何のためにネットがあるのよ」
「ああ、でも、お祖父ちゃんはケータイ使えないのよ」
「あなたたちがやればいいでしょう」
「説得力あるかな」
洋一とれんげは顔を見合わせた。
「どうだろ、お祖父さんに、境内で説明会を開いてもらうのは」
洋一が必死で思いついたアイデアだったが、
「お花見してる最中にそんなことしても白けられるのがオチよ」
さくら子女史は肩までの黒髪を背中へ投げて、顔をそむけた。
そこへ老人が再び桜に近づいてきた。今度は洋一たちなど目に入らないように無視し、桜の樹肌に触ってみては枝ぶりを見上げ、何周もしてまた見上げ、根元を見つめを繰り返している。
三回目に老人が桜の大木の大きな股に近づき、いきなり昇りだした。
「これはいかん!」
老人がただならぬ声をあげて、境内中にシートを広げていた場所取りの連中に叫んだ。
「みんな、逃げろ~~! この桜の虚に、スズメバチの巣が出来ておる!」
一同、ぎょっとした。ひとりの男が老人に、
「また、そんな……僕たちにお花見してほしくないからって、そんなホラ吹いてもすぐにバレますよ」
「ホラじゃない! そう思うならハチの巣を見てみい! 夜も活動する種類のヤツじゃ! 近づくと危ない!」
老人の表情が普通じゃない。洋一も驚いた。勇気を出して老人の後から桜の幹に登り、うろを覗いたとたん真っ青になった。
スズメバチの巣はまだ小さいが、虚の中に無数にこしらえ始めている。
「みんな、本当だよ、この境内から逃げないと危ない! もうすぐハチの群れが帰ってくる!」
大騒ぎになった。お花見予定の者たちがシートや弁当を放ったらかしにして一斉に逃げ出す。
「数日前から変な音が低く聞こえるから、変だなと思っておったのじゃ」
夕暮れが迫る空に何かのカタマリが飛んできた。
「蜂どもが帰ってきたぞ、何しとる、若造!」
洋一は広いシートをたたむのに一生懸命だった。
「え、本当なの?」
のんびり突っ立っていたさくら子は、やっと顔色を変えた。砂利にパンプスのかかとが食い込むのも構わず走り始めたが、黒いカタマリがあっという間に降りてきた。
「いかん!」
老人が叫んだ。
「蜂は黒い色を見ると、天敵のクマだと思い込んで襲うのじゃ!」
さくら子は黒いトレンチコートを着ている。
「さくら子さん!」
洋一がシートを放り出し、さくら子を助けるために背広を脱いで被せたが、背広もチャコールグレーで黒と変わりない。蜂どもは攻撃的にふたりを取り巻いた。
それを見た老人も駆け寄ったが、やはり黒っぽい作務衣姿だ。
「きゃああああ!」
さくら子が叫ぶ。唯一、薄いピンクのショールを被っていたれんげが、機転を利かせて彼らに被せた。それでもショールの内側に何匹か紛れこんでいる。
洋一と老人とさくら子とれんげには悪夢の無我夢中の時間だった。
第 四 章 スズメバチ騒動
洋一たちと老人は同じ病院に担ぎ込まれた。
皆、スズメバチに数か所、刺されているので、みるみるうちに患部が腫れてきた。
中でも、さくら子はショック症状さえ出て、口を聞くことが出来ない。
「さくら子さんというたな、確か……」
桜守の老人が、看護師に手当してもらいながら、彼女のストレッチャーを見つめてつぶやいた。
「こりゃあ、大変なことじゃったの」
桜守と同じくらいの年配男性が、茶色の作務衣姿でやってきた。
「これは、ご住職。面目ありませんのう。あれほど桜を見守ってたはずが、ひと言も申し開きできませんわ」
「額と腕と、何か所か刺されなすったんですな。大丈夫ですか」
「これしき。それより、わしの側にいた若い人たちが」
「お孫さんのれんげちゃんは?」
住職が見回すと、廊下の向かい側に座っていたれんげが、
「私はピンクのショール被っていたから大丈夫です。蜂は黒い色に襲いかかるっていうから、場所取りに座ってらした会社員の方が」
れんげの視線の先には、ストレッチャーに横になっているさくら子と付き添っている洋一の姿があった。
さくら子は首筋の動脈を刺されて意識がはっきりしていない。
そのうち、彼女の母親が駆けつけてきた。ようやく意識が戻ってきたところだ。
「さくら子、大丈夫?」
母親がストレッチャーに被さるように娘の耳元で尋ねた。
「お母さん、どうにか大丈夫よ。怖かったわ……」
「さくら子さんのお母さまですね。私は今年の新入社員、小山洋一と申します。今夜のお花見の幹事をさせていただいていました」
洋一は神妙に頭を下げて挨拶した。
「いったい、どうしたというのですか。スズメバチだそうですが」
「申し訳ありません。毎年同じ場所だと聞いて、安易に白鷺桜のお寺に決めてしまいまして。桜の虚にスズメバチの巣が大量に発見され、逃げ遅れたという次第です」
「まああ、なんてことなの」
吊り上がってキツそうな母親の表情が更にキツくなる。
「申し訳ございません。幹事の私の責任です」
「ひとつ間違えれば命とりですわ! どうして下さるんですの」
興奮した母親と洋一の間に入ったのは、桜守の老人だ。
「奥さん、許してやって下さい。責任はわしにあります」
「あなたは?」
「白鷺桜の桜守をしている者です。桜の根元の状態ばかり気になっていて、スズメバチの巣の発見が遅れました」
「桜の根元? そんなことどうでもいいわ。あなた、桜と人間とどちらが大事だとお思いになって?」
「よして、お母さん」
苦しい息の下から、さくら子が母親を止めた。ちょうど看護師が三人がかりで病室までストレッチャーと点滴を移動させに来た。さくら子母娘は、ストレッチャーと共に行ってしまった。
桜守の老人が額を抑えて椅子に座った。
「お祖父ちゃん、痛いのね。大丈夫? 横にならせてもらう?」
れんげが側による。
「いや、いい。それより、わしは桜守失格じゃのう。桜に蜂の巣があるのを見過ごしていたとは」
「蜂の巣は業者さんにすべて除去してもらったそうよ」
「な、……殺虫剤をまいたのか?」
「そうでしょう。それと瞬間冷凍のスプレーじゃない?」
「ああ……」
老人はくずおれた。
「そんなショックにあの老木が耐えられるとは思えん……。もう、桜もわしも終わりじゃ」
「お祖父ちゃん!」
桜守の老人もがっくり力を落としたが、本当の勝負はこれからだった。
第 五 章 スズメバチの恐怖
数日して、老人の心配をよそに白鷺桜は生命力を蘇らせた。殺虫剤に負けなかったのだ。
つぼみが膨らみ始めたのを確認した老人は、目頭に熱いものさえ浮かべた。しわ深い手で幹をさすりさすり声をかけた。
「強いのう、おぬしは」
スズメバチ駆除の知らせを聞いた人々が、ホッと安心して白鷺桜のお花見を計画し始めた。
桜は可憐な白い花びらを開き始め、順調に咲き始めた。
人々は白鷺桜の前でお花見を始めた。
洋一の会社の一同もである。
ただ、さくら子がまだ復帰していなかった。首筋の動脈と同時に左まぶたも刺されて、腫れた顔で世間に出られないということだった。
洋一は、意外にもいつもは気の強いさくら子の女らしい一面を見たような気がした。ハチに刺されたくらいなら、顔面包帯姿でも出社してきそうな女性だと思い込んでいた。
さくら子欠席のままのお花見だったが、洋一の部署は大盛り上がりして、カラオケはおろか踊りだす者までいた。
洋一は酒が強い方ではない。酔いざましに、皆から離れて四月の夜風に当たった。
その時、妙な音が聞こえた。
「カチカチカチ……」
(なんだろう、あの音は?)
辺りを見回したが、夜桜の美しい姿があるだけだ。
「カチカチカチ……」
「また聞こえるぞ」
そう思った時、誰かが走ってきた。作務衣姿の影は、桜守の老人ではないか。
「あんた、危ないっ! 皆も危ないっ!」
ものすごい剣幕で老人は叫んだ。
「ハチじゃ! スズメバチの大群じゃ! この前の仕返しに帰ってきたんじゃ!」
「ええッ?」
酒に酔っていた皆は驚いたが、動こうとしない。
「まさか、この夜にですよ」
「お爺さんも一緒に飲みましょう」
「何を悠長なことを! このカチカチが聞こえんか、ハチの出す音じゃ。それも相当な数の……」
老人が言い終わらないうちに、「カチカチ」は、皆の耳にはっきり聞こえるようになってきた。
暗い夜空から恐ろしい羽音が聞こえてきて、ひとりが悲鳴を上げた。
「うわ~~~~っ! ハチだ!」
その場はたちまち大混乱になった。
「皆の衆、白いものを被ってゆっくり逃げろ。走って逃げると返って追いかけてくる」
老人の声など耳に届くはずもない。
お花見をしていた人々は、われ先にと逃げ出した。あちこちで悲鳴が上がる。取るものもとりあえず白鷺桜の丘を転ぶように走っていく。
洋一も無我夢中で逃げることしか考えることができなかった。
(二度もスズメバチに襲われるなんて!)
今度は何十人もの被害が出た。新聞にも記事が書かれ、小さな町は、スズメバチで有名になってしまった。
洋一も二か所刺されたが、大事には至らなかった。
何日か経った。
桜の時期はすっかり過ぎ、葉桜になった。
スズメバチに刺された人たちも、とりあえず出勤できるようになった。さくら子女史だけは、ずっと休んでいたが。
ある日、仕事中の洋一のところへ、れんげから携帯電話がかかってきた。
「え、れんげちゃん? どうしたの」
仕事でパソコンを前にしていた洋一は、やっと机の上のから自分のケータイを書類の山から探し出して電話に出た。
「お祖父ちゃんが大変なのよう」
「お祖父さんが? どうしたんだ」
「とにかく早く来て下さい!」
れんげの声がただ事ではない。仕事の途中だったが、実家の急用で、とか適当に言って白鷺桜へ走っていった。
寺の境内に到着した洋一は目を疑った。
「これは……っ!」
桜守の老人が、白鷺桜の付近の地面で正座している。そして、その周りを無数のスズメバチが飛び回っているのだ。
境内の外で泣きじゃくっていたれんげが洋一の姿を見つけて駆けてきた。
「助けて! お祖父ちゃん、あのままじゃ、ハチにいっぱい刺されて死んでしまうわ!」
「……!」
どうすればいいのか、洋一は立ちすくんだ。
やがて老人の身体にスズメバチが留まり始め、頭といわず身体といわず、どんどん集り始めた。老人が着ているのは黒い作務衣である。
「お祖父ちゃん、お祖父ちゃん、そんなところに座るのはやめて!」
れんげが叫ぶのも構わず、老人はびくともしない。
第 六 章 正座しての願い
住職がひとりの男を連れてやってきた。
「う~~ん、ご老人は、こうと決めたら動かんからのう」
「お住職、そんなのん気なことを言ってる間にハチがどんどん増えてきます」
洋一はじだんだ踏んで言った。すると、住職の連れてきた男が、
「大丈夫ですよ。ご老人は無抵抗でしょう。無抵抗の人間をハチは刺したりしないんですよ」
「で、でも」
「大丈夫ですよ、おにいさん。ご老人はハチに何かお願い事をしたいと言って、あの場所に正座し始めた。ハチたちに気持ちを送っているんだ」
「そんなの通じると思ってるんですか」
「わしは、養蜂家だ。ハチの気持ちはようわかる」
まったく楽観的に、その男は笑った。
れんげは泣き止まないが、住職が、
「れんげちゃん。養蜂家のおじさんがこう言ってるんだ。信じよう。ハチを。お祖父ちゃんの願いがきっと通じる。だってほら、お祖父さんはきれいに正座して一心にお願いしてるじゃろう。正座していると、相手に誠実さが伝わるのだよ」
洋一がれんげの両肩をそっと抱いて、老人を見守った。
(わしが浅はかじゃった。桜の気持ちはわかるつもりじゃ。しかし、スズメバチの知恵がまったくなかった。人々を苦しい目に合わせてしもうた)
無数のスズメバチに全身を這われながら、桜守はひたすら反省していた。
(桜子よ、お前じゃったら、もっと早くに桜の気持ちを察してハチの存在も分かったろうにのう)
老人の心の奥に亡き妻の面影がよぎった。その瞬間―――。
(あなた、白鷺桜のためだけじゃなく、スズメバチのことも考えてやって下さいな)
ハチたちの羽音に混じって懐かしい妻の声が聞こえたような気がした。老人の眼が見開かれた。
老人は白鷺桜の虚に向かって正座のまま座りなおし、
「桜よ、そして大自然に生きてきたハチたちよ。人間が勝手なことをして悪かった。多くの命を奪ってしまった。これ、この通りじゃ。謝る」
正座を崩さず、地面に額をつけて頭を下げた。
「白鷺桜よ、何千年もよくぞ、この地で人間たちを見守り楽しませてくれたことよ。この町の象徴として長く生きてきてくれたことよ。礼を言う。そして、スズメバチたちよ、おぬしたちがこの桜に営みを始めたのも何かのご縁。人間にとっては害虫でしかないが、おぬしたちも一生懸命、子孫を絶やすまいと巣を作り、獲物を捕ってきては幼虫に食べさせてきたのじゃな。邪魔をしたのは人間の方じゃ……」
老人は続けた。
「しかしのう、人間とておぬしたちと同様なのじゃ。子を育て未来のために、一生懸命働いておる。ただ、少しばかり空間が重なり、いさかいが起きてしまった。じゃから、この年老いた桜から引っ越ししてくれぬかのう。このままでは桜の寿命も後少し。おぬしたちも、行き場を失ってしまうだけじゃぞ」
老人がうっすら眼を開けた時、隣に桜色の着物を着た亡き妻の姿を見た。いや、感じた。
(そうですよ)
と、優しく頷き、老人と一緒に正座して深々と頭を下げた。
(どうか、この老人の頼みを聞いてやって下さい。桜の精霊様、スズメバチの女王様)
―――時が静かに流れた。
第 七 章 スズメバチの特効薬
午後三時を過ぎ、薄く夕暮れの気配が忍び寄ってきた。
「おや、少し減ったかな」
老人を見守っていた洋一とれんげの眼には、スズメバチたちが、老人から少しずつ離れていくような気がした。
老人は地面に伏したままである。
「お祖父さん、大丈夫か、刺されすぎて動けないとか」
「お祖父ちゃん!」
ふたりがそっと近づくと、ハチがずいぶん数を減らし、空中へ散っていくのが分かった。
「お祖父ちゃん、しっかりして」
「う……」
老人はようやく頭を上げた。額には砂利のあとがついている。しかし、どうやらハチに刺されてはいない。
「大丈夫ですか、さあ」
洋一が手を差し伸べた。老人の手がその手を受ける。
「おや?」
洋一の手に何かが残った。ハチの巣の一部のような小石の大きさのものでネバネバしている。
「何だ? こりゃあ」
「それは、ハチの蜜じゃな。何故これがわしの手に?」
髪の毛がザンバラになった老人の眼に、また亡き妻の姿が映った。彼女はにっこりして、おでこに手をやっていた。
「桜子! これは」
妻の幻は消えた。
「わかったぞ!」
急に力強く立ち上がった老人は、洋一の顔を真剣に見た。
「お前さん、さくら子さんは、まだお休みか」
「え、はい」
「これを、これをハチに刺されたところに塗るように、渡してやって下さらんかな」
「これを?」
ネバネバした木のかけらのようなものを老人は必死で差し出した。
「きっと、スズメバチの毒消しじゃ」
「これが? 本当かな」
(こんな汚らしいものを、あのさくら子さんが受け取るかなあ)
「おにいさん、お祖父ちゃんが見つけるこういうのって、わりと当たるのよ。ダメモトでお渡ししてみて」
れんげがにっこり笑って言った。
辺りにはほとんどハチの姿はない。住職と養蜂家の男がホッとした様子で近づいてきた。
「桜守のじいさん、無事で何よりだった。ハチたちは人間のことを分かってくれたようじゃ。もう二度と白鷺桜には巣は作るまい」
養蜂家の男が言ったので、太鼓判を押されたようなものだ。
第 八 章 さくら子の家訪問
さくら子は一回目のスズメバチの襲撃以来、自宅療養していた。
洋一が例のスズメバチが残していった薬を届けにきた。慣れない春の花の花束まで買って。
(同僚一同から頼まれたんだから仕方ないよな)
自分に言い訳するように言って、チャイムを鳴らした。
さくら子の母親が出迎えた。
「あのう、私、同じ会社の部署の小山と申しますが」
「ああ、病院にいらした方ね」
母親は素っ気なく、玄関から上がらせようとしない。少々むくれているようだ。
「さくら子さんの具合は」
「まだ患部が腫れて痛みとかゆみがあるようです。まったくどうしてくれるんです。嫁入り前の娘の顔に、それも瞼に腫れたあとが残るなんて」
「申し訳ありません。今日は塗り薬をお持ちしたんですが、僕らの部署でも試してみました。とてもよく治りましたので、どうぞお試し下さるよう、さくら子さんにお渡し下さい」
ツリ目の母親に睨まれた洋一は、おっかなびっくり、薬を取り出した。透明の瓶に入れてあるが、得体のしれないべっこう色のカタマリなのだ。
「なんですか、それは」
「スズメバチの体液と樹液を混ぜたものだとかで、ハチが作るんだそうです」
「まあっ! ハチが作る? もう、ハチなんて言葉は一生聞きたくないのに」
「そこを、なんとか」
「デリカシーのない人ね、帰って下さい! さくら子が刺されてから何軒、病院を回ったと思っているの。首筋の動脈まで刺されたんで、いっときチアノーゼまで起こしたのよ。そんなわけのわからないもの、使えません」
「チアノーゼ! そんなひどいことに」
洋一は、ガバッと玄関先に土下座した。
「申し訳ありませんでした。どうか、どうか、この薬、試してみて下さい」
「土下座なんかしたって駄目よ。さくら子がどんなに大切な子か他人には分かりませんよ」
矢庭に玄関の戸が開いた。
「すみません、失礼します」
れんげだった。セーラー服のままだ。
「桜守の孫の、れんげといいます。どうかお姉さんにこの薬、塗ってあげて下さい。私のお祖父ちゃんは嘘は言いません」
「れんげちゃん!」
れんげまで玄関に正座して頭を下げた。ふたりに土下座されて、母親は困った顔をした。
「……お母さん」
玄関の後方の階段から小さな声がした。さくら子が青白い顔、パジャマのまま覗いていた。
「さくら子、寝てなくちゃいけません」
なるほど、さくら子の左の瞼はまだ腫れが退いていない。薔薇が萎れたようだ。
「お母さん、私、その塗り薬、試してみるわ」
「なんですって」
母親が即座に逆らったが、洋一とれんげの顔が輝いた。
終 章
れんげが、祖父の部屋に向かって窓の外から叫んだ。
「お祖父ちゃん、今日は五月晴れよ、散歩に行きましょうよ」
老人は書物から目を上げた。孫娘の隣に青年の姿も見える。かつてお見合いをした寺の一室を、老人は借りているのだった。
ゆっくり薄暗い階段を下りていく。
「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんと同じ名前の人、元気になったんだって」
「さくら子さんかい」
「はい」
洋一がにっこりして返事した。
「すっかり腫れも退いて職場復帰しました。これもスズメバチの塗り薬のおかげです。目には目を歯には歯を、スズメバチにはスズメバチを、ですね」
「そりゃあ、良かった」
「近く、お礼に来たいと言ってましたよ」
「礼なんぞ、かまわん」
老人の胸に亡き妻の面影が去来した。桜子さんは、あの日の小紋を着て、正座したまま丁寧にお辞儀をした。