[382]緑林(りょくりん)の初代頭目るりさ姫


タイトル:緑林(りょくりん)の初代頭目るりさ姫
掲載日:2025/10/07

シリーズ名:緑林シリーズ
シリーズ番号:8

著者:海道 遠

あらすじ:
 瀬織津(せおりつ)の女神さまが行方不明だという。
 天照大神様とも弁才天さまとも言われ、信仰を集める女神だ。盗賊にさらわれたという噂が立っていた。
 そんな時、船大工の青年、炎馳丸(えんじまる)が浜で黒装束の男どもを率いて走る少女を目撃する。少女は山中にある古びた屋敷に住んでおり「正座の時のしびれをふせぐ座椅子」を持ち帰った様子だが――。



本文

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序章

 ※緑林とは中国の故事から盗賊を意味する。

 日本の山あいの村――。
 瀬織津(せおりつ)の女神さまが、何者かにさらわれて行方がしれないという。
 彼女は謎だらけで正体がはっきりしない。龍神の中で一番偉い神様とも天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまとも弁天さまとも、豊玉命(とよたまのみこと)とも言われている。
 そんな高貴なお方がさらわれた?
 さらったのは、どうやら湖底に根城を構える緑林(盗賊)だと聞き、人々はよけいに驚いた。
(あの高貴なお方が盗賊にさらわれるなどと!)
(なんと、おいたわしいこと……)
 姿さえはっきりしないが、その手首にはひすいの腕輪がはめられているという。

第一章 湖岸にて

 波の音がいつになく優しい。
 今夜は満月だ。湖面に月光がサラサラと反射して、なんと優しいのだろう。
 青年、炎馳(えんじ)丸は砂まみれになって走ってくるや、対岸の炎を見た。騒ぎから遠くまで来たことを確認して、やっと激しい呼吸を鎮めた。
(やれやれ、やっと溜飲(りゅういん)を下げられた。気の毒だが、誰も俺の本能を止められぬ)
 機敏そうな筋肉の発達したスネを曲げ、岩かげにドサッと腰を下ろし、波の音を聞いていると――。
「おや?」
 少し離れた岩かげに、小舟の群れがあることに気がついた。
「誰の舟だろう?」
 思った時だった。街の方からバラバラッと荒々しい足音がした。
「急げ! 役人が来るぞ!」
「急げ! グズグズしていると置いてくぞ!」
 黒装束の男たちが小舟の方へ駆けていく。その中に若苗色の紗(しゃ)で被衣(かずきかぶり)にした女がひとりいる。獣の長(おさ)のように男どもを率いて湖の際(きわ)へ突進していく。右手には何やら包みを持ち、素足のまま波の中へじゃぶじゃぶと入っていく。
「お頭(かしら)!」
「危のうございます、舟へお乗りください」
 男どもが叫びながら後を追う。
「……お頭?」
 舟の陰に隠れていた炎馳丸が首をかしげた。
「さっきの被衣の……お頭と呼ばれた?」
 被衣がひらりと揺れて、内側の黒い瞳が月光を受けて煌めいた。
(黒水晶――?)
 一瞬のことだが、黒い煌めきは炎馳丸の心の奥に深く残った。

 ぼやぼやしていた炎馳丸は、背後に接近していた舟にまったく気づかなかった。
 思い切り後頭部に衝撃を感じ、眼から火花が散った――火花どころか、視界が真っ赤になった。
 ――気がついた時には、見知らぬ屋敷の庭に寝転がっていた。

「るりさ姫! お前、得意げに何を捕獲したのかと思えば!」
「龍神様のご命令された正座の座椅子と違うじゃねえか!」
 屋敷の奥で荒々しい男たちに囲まれた娘が、膝の上に白い布で包んだ物を抱きしめて、上目づかいに睨んでいた。
「だって……。てっきりこれだと思ったんだもの」
「これのどこが座椅子に見えるんだ? 松の植木じゃないか」
「見て。こうして松のこんもりした枝に腰かけるでしょ。そうすれば足の甲に身体が乗らないで、シビレなくてすむじゃないの」
 娘は松の枝に座ってみせたが、コロンとすっ転んでしまった。
「アッハハハ」
「言わんこっちゃない」
 男たちは大笑いした。
「緑の龍神様のご命令で、お前みたいな小娘を『お頭』扱いしてるのが、ちゃんちゃらおかしいや」
 娘がむくれた顔で起き上がり、
「つづら郎(ろう)、そんな口をきいていいの? わらわは緑の龍神様の花嫁になるのよ! 『るりさ姫』とお呼びなさい」
「花嫁だとさ~~! 緑の龍神様がふざけて申されたことを本気にしてるぜ」
「知らないっ、好きなだけ笑うがいいわ。龍神様の前で笑えるならね」
 つづら郎と呼ばれた背の丸まった男は、言葉につまり青ざめた。
 娘はスタスタと部屋を後にし、渡り廊下を進んで隣の棟の部屋に籠もってしまった。
「気にするな、つづら郎。あんな小娘の言うこと」
「まったく何だって緑の龍神様は、あんなのを花嫁にするだなんて申されて屋敷で育てているのだろうか」
「戯言(ざれごと)に決まってるだろ」
 男どもは笑い飛ばして酒盛りをはじめた。

第二章 炎馳丸(えんじまる)

 すでに辺りは薄暗い。
 炎馳丸は屋敷の庭石にもたれていた。後頭部はズキズキ痛む。
 先ほど沖に漕ぎ出す小舟のひとつにぶつけられ、気を失った。気がついた時には見覚えのない庭に倒れていたのだ。応急処置にサラシを破り、どうにか傷口に巻きつけた。 
(あいつらめ、覚えてろよ!)

 波の音が耳に残っている。
 それにしても、かなりなボロ家だ。一応、貴族が住む屋敷なのに、屋根がしなってズリ落ちそうになっているし、格子戸もあちこちに穴が空いている。
 頭上では若葉がゴウゴウと風に騒いでいる。もうじき一番星が光りはじめるだろう。
 屋敷に灯りが次々に灯り、男たちの話し声や、酒盛りしているざわめきが聞こえる。
(酒盛りか……いいなあ。それに腹も減った)
 地面に座りこんでいると、簀の子(縁側)の端にかそけき(かすかな)光が見えた。
(……蛍? まさかな)
 今は蛍とはほど遠い、秋の虫が鳴く季節だ。草むらではコオロギやクツワムシがかまびすしい鳴き声で合唱している。
 蛍と見間違えたのは、揺れる紙燭(しそく)の光だった。ほどなくそれを持った人影が簀の子に膝をついた気配がする。
「るりさ姫さま……姫さま」
 しわがれた声だ。
「ご機嫌はいかがでございます?」
 しばらく待って返事が無いので、老婆はきしむ木戸を開け、斜めに細い身体を滑りこませた。
 紙燭に照らし出された姿は、白髪をひとくくりにした頬のこけた老婆だが、優しそうな面立ち(おもだち)をしている。
「婆やか。大事ない」
「でも、お顔の色からして相当お怒りでいらっしゃいました。何かございましたか?」
「ありがとう、平気よ」
 娘は鈴のような声だ。まだ少女と言えるくらい若いのだろう。炎馳丸は声の主の顔を見たくなった。
(るりさ姫というのか。……こんな時に――。何を考えているのだ、俺は)
 首を振って雑念をはらおうとした。

「―――誰っ?」
 可愛らしくも緊迫した声に、炎馳丸は反射的に身を低くした。
「いかがなさいました?」
「なんだか人の気配がしたと思ったのだけれど……」
 炎馳丸がしばらく息を止めていると、空気がゆるんだ。
「今夜は波が高うございます。お気のせいですよ」
「……そうね、きっと」
(波の音だと? こんな山の中に?)
 炎馳丸は不思議に思った。

 やがて、老婆が木戸から出てきた。
「では、何かありましたら、お呼びくださいませよ」
 人影が元来た簀の子を去っていく。痩せた後ろ姿が簀の子の角に消える。
 しばらくすると、屋敷の中から、ひょうひょうとした笛の音が流れてきた。なんとも悲哀を呼ぶ音色だ。
 老婆が声をかけていた『るりさ姫』とやらが吹いているのだろう。
(なんとか顔を見れないものだろうか――)

第三章 緑の熱

 炎馳丸は簀の子に忍び寄り、崩れかけた木戸の隙間から覗いてみた。
「おお!」
 几帳の陰から横顔を見ることができた! ムシロの上に座っているものの、なんと福々しい頬の白さなのだろうか。
 黒々とした髪を流し、伏せた濃いまつ毛に血のような朱い唇。海松(みる)の襲(かさね)の唐衣をまとって横笛を吹いている。
 独特の座り方にも惹かれる。膝を二つに折って、上半身を乗せている。あれは、話に聞く貴族や上流階級の者だけの座り方で、唐渡り(からわたり)の正座という座り方ではないだろうか。
 思わず炎馳丸は声をかけた。
「その座り方は、とてもカタチがよく美しいですな」
「あなたは?」
 娘はビクッとして笛を口から離した。
「炎馳丸という。疲れて庭で休ませてもらっていた……勝手に申し訳なかったがな」
「……」
 娘は驚いたものの、炎馳丸の怪我に気づいた。
「お怪我を……。手当をしてあげましょう。こちらに来ませんか? 火鉢に当たられては?」
「しかし……」
「震えているではないか。……私も震えているの」
(温めてほしいという意味かな――?)
 娘の優しい声に誘われて、炎馳丸はそろそろと几帳の内に入った。内側は紗(しゃ)がかかったように薄い緑色だ。
「これは……?」
「上の水の色のせいです」
「上……?」
 炎馳丸は見上げて目を見張った。
 一面に透き通った緑色の天井だった!
「湖の色です」
 天井の緑が娘の白い顔にも映って、得も言われぬ幻想的な光景だ。
「ここは湖の底にある世界。知らなかったの? よそから来たの?」
 頭のキズに薬を塗り、サラシを巻きなおしながら娘は言った。
 炎馳丸は黒い瞳に魅入られて、姫のか細い肩を抱き寄せて朱い唇に接吻すると――。
 とたんに緑の嵐は起こった。
 天井の木の葉が舞い散り、びょうびょうとした風とともに顔面を襲った。緑色の水紋がいくつもでき、渦の中に巻き込まれた。
 幼げな娘なのに、抱きしめていると身体の奥で緑の泡が熱く弾けるのが分かる。炎馳丸もまた、全身が蕩けるかと思うほどの熱さを感じた。

 どれだけの時が過ぎたか、
「ふう……」
 汗ばんだ身体を離されて炎馳丸は目を開けた。知らないうちに大蛇のような黒髪が腕に何重も巻きついている。
「緑がこんなに熱いとは……いったい……」
「突然やってきたお前こそ……」
「俺は上の世界のしがない船大工だ」
「わらわの名はるりさ。――物心ついた時から屋敷で婆やと手下の男どもに育てられて、笛と正座を修行しているの」
「お前の唇が陸の女よりも熱くて蕩けそうになったぜ」
「寂しくてつい……」
「そういうときゃ、手下の男どもに命令すりゃいいんじゃないのかい」
「ここの男どもは緑の龍神様の手下。わらわを汚したりすれば龍神様の逆鱗にふれてしまうゆえ、絶対に手を出しません」
「ひぇっ! 何だって? じゃあ、俺は龍神に喰われちまうのか! く、喰われても仕方ない、か、な……、天罰に……」
 ムシロを飛びすさって炎馳丸はうめいた。
「安心なさい。これはヒメゴト。誰にも一生明かさぬヒメゴトよ」
 娘は珊瑚色の唇に小指をあて、炎馳丸の唇にも押しあてた。が、炎馳丸の震えが止まらないのに気がつき、
「もっと違うことがお前を苦しめているようね。――笛を吹いてあげましょう」
 笛を持ち出して唇にあてがった。
 ひょうひょうとした音色が炎馳丸の心の奥に沁みて――。猛々しい心が、だんだん癒されていく。
 数々の炎の罪の記憶が駆け巡った。
「俺の着けた火で亡くなった人たちに詫びたい……。しかし俺は、生まれついての付け火の性(さが)を持つ者……。許してくれ……。こんな気持ちになったのは初めてだ」

第四章 いっせいに掃除

 婆やが朝靄に満ちた長廊下をバタバタと走ってきた。
「姫さまぁ~〜っ!」
 叫びながら、いきなり木戸を開けて几帳の内側に入ってきたので、ふたりは小袖を羽織っただけの姿のまま、朝陽を浴びてしまった。
「ひ、ひ、姫さまっ!」
 婆やはありったけ目を見開いてから、急いで簀の子に飛び出て竹ほうきを持ってくるや、振りかぶった。
「この、どろぼう猫っ、緑の龍神様の花嫁になるお方を!」
「うわあっ」
 炎馳丸は、几帳の内から袴を履きながら飛び出した。
「男ども! 早う出ませい、姫さまの一大事……」
 るりさ姫の両手が大慌てで婆やの口をふさいだ。
「無粋なまねはおやめ! 触れてまわるつもり?」
 簀の子に男どもが飛び出してきた。
「まったくもう……」
 姫がしかめっ面になりかけたが、男どもは無視して屋敷の中央にある大座敷へ急いで集まるや、それぞれ雑巾やはたきを持って一斉に掃除を始めた。

「奥にある龍神様の木像は、そっと、そ~~っとハタキをかけるのだぞ! ヒゲ1本、爪1本折っても首が飛ぶぞ!」
「ハタキが終わったら、わらの束でツルツルになるまで柱と床を磨き上げよ!」
「いったいどうしたというのじゃ」
 婆やが駆けつけると、男どものひとりが、
「婆さん、呑気だな。緑の龍神様が、今夜お戻りになるとお告げがあったのじゃ」
「何じゃと? 緑の龍神様が戻られる?」
 婆やは、るりさ姫と顔を見合わせて顔色を失くした。
(竜神様がさっきの男の気配に気づかれては、ワシの首も飛ぶ! 眼力だけで木っ端みじんじゃ)
 婆やは大急ぎで侍女のおしゃべり房へ飛んでいき、
「これっ! 侍女ども。姫さまのために龍神様が特別にしつらえられた天鵞絨色(びろうどいろ=濃い緑)の大切な打ち掛けを奥の棚からお出しするのじゃ! 急げ! 時間がない!」
 侍女たちは飛び上がって奥へ向かった。
「緑の龍神様が帰ってこられる……何年ぶりか……龍神様が……」
 婆やは棒立ちになっている姫の手を引っ張っていき、鏡の前に連れてきた。
「さ、姫さま、正座の所作を、ちゃんとなさってみてください」
「え、正座。では、いよいよ婚礼が行われるのね」
 るりさ姫は背筋を真っ直ぐに立ち、慎重に床に膝をついて衣をお尻の下に敷き、かかとの上に座った。
「どう? 美しい所作が出来ている?」
「よろしいでしょう」
 姫の長い髪を念入りに梳き(すき)、パンパンと手を叩いた。
「これ、姫さまの打ち掛けはまだか」
 侍女たちの手で天鵞絨色の打ち掛けが運ばれてきた。
 濃い緑の中に鶴が対になって飛び、牡丹が華やかに咲く岩山には白いしぶきの瀑布が刺繍されている。
 打ち掛けをまとい、素晴らしい花嫁姿が出来上がったところで、緑の天井の遥か上から、ただならない叫び声が聞こえた。
「火事だ、山火事だ!」

第五章 焼かれた花嫁衣裳

「あの大きな翼の影はっ!」
「あ、あれは、伝説のヒッポウ鳥ではありますまいか」
「ヒッポウ鳥?」
「不審火を着けてまわるという一本足の怪鳥でございます! 上の世界を焼いて、ここにも降りてきたようです!」
 婆やはガタガタ震えている。
「男どもはどこへ行った? そういえば、姫さまのお部屋にいた男は?」
 るりさ姫は辺りを見回し、
「炎馳丸とか言った、あの人はどこへ行ったのかしら」
 簀の子から庭に飛び降りた。
 呼ばれたように、巨大な赤黒い鳥が屋敷の上を覆うようにやってきた。
「わらわは緑の龍神様に見初められたるりさよ! 怪鳥だろうがヒッポウ鳥だろうが怖くないわ! かかってらっしゃい! できるものなら天鵞絨色のこの打ち掛けを焼いてみるがいいわ」
 ヒッポウ鳥は羽ばたきの熱風で、たちまち天鵞絨色の打ち掛けを燃え上がらせ、無残な灰にしてしまった。
「ああ、豪華な打ち掛けが灰に……。おのれ、よくもわらわの花嫁衣裳を」
 ヒッポウ鳥の炎の目玉が、るりさ姫に当てられた。
「先夜、お前を愛でた(めでた)炎馳丸は俺だ」
「なんだと?」
「お前は緑の龍神に騙されて湖底に閉じこめられているだけの存在。龍神は花嫁にする気などない。いつまで待ってもムダだ。そんなお前を不憫に思い、助け出すために俺は人間に姿を変えてやってきたのだ。この炎がお前を浄めるようにな」
 紅蓮(グレン)の炎が沸き起こり、ヒッポウ鳥は一本足をたたんで二本足で大地を踏みしめる青年、炎馳丸の姿になった。
 抱きしめようとするが、るりさ姫は両手で男の胸を押し返した。
「信じられないわ。不審火を起こすヒッポウ鳥の言うことなんて」
「花嫁衣裳を焼いたことは詫びる」
 炎馳丸はその場に膝を着き、正座しているるりさ姫に、すんなりと頭を下げた。
「緑の龍神の申すことはすべてウソだ。お前欲しさに上の世界からさらってきただけ。花嫁にするなど大ウソだ」
「そんなバカな……」
 るりさ姫は否定しようとしたが、信じればすべて辻褄(つじつま)が合う。
 緑の龍神様はついに帰って来なかった。

「こうなったら、緑の龍神の行方を追って探しに旅に出るわ!」
 るりさ姫は宣言した。
「姫さまが旅に? とんでもございません! やんごとなきお育ち……湖底の世界からほとんど出られたことがないというのに」
 婆やが膝元に取りすがった。
「どうしてもと言われるなら、この婆やもついてまいりますっ」
「ひとりで行くわ」
「おい、本気か、陸は悪いやつらがうようよしてるぜ。俺がついて行こう」
 炎馳丸が思わず言った。 
「けっこうよ、ひとりでいいんですってば」
「後悔しても知らねえぞ」

第六章 旅立ち

 旅立つ前に男たちに向かって、るりさ姫は、
「この中に緑の龍神様のお顔を覚えている者はいる? ひとの形になった時のお顔やお姿よ」
 古参の爺さんが手を上げた。野甘蔵(のかんぞう)だ。
「緑の親方のお顔ですかい? るりささまは覚えていなさらないので?」
「え……ええ。まだ幼かったから……」
「親方は、荒御霊(あらみたま)の時は恐ろしい形相の龍神の姿。雷を呼んだりできますが、穏やかな時はアマガエルほど大人しいですぜ」
「ア、アマガエル?」
「はい。特に瀬織津の女神さまのお話をされる時など、アマガエルどころではない、ヤモリが照れてひしゃげたようにトロリとしたお顔になられますぜ」
 瀬織津の女神さまとは、謎の多い神様で実の名が分かっていない。龍神の中で一番偉い神様とも、弁天さまとも天照大御神とも言われている。
「せ……瀬織津の女神さまですって? あの謎に満ちた高貴な……。ヤモリみたいになってしまわれる? 毅然とした龍神様が?」
「緑の龍神様は、瀬織津の女神さまに首ったけなんでさ! 緑の身体が恥じらいで真っ赤になるくらい」
「なんですってぇ〜〜っ? そんなに大好きな女神様がいらっしゃるのに、わらわをさらって許婚者(いいなずけ)にしたの?」
「まあ、そうなりますな」
 野甘蔵爺さんが気の毒そうに言った。
「それから、親方の特徴は五本指です!」
「五本指? 五本指の龍は位の高い龍だけじゃないの?」
「親方は、みなしごのお前さんを育てたことで、中国の皇帝御用達(ごようたし)の龍並みに格上げされたんでさあ」
「まあ!」
 るりさ姫は長い間、唇をかんで考えていたが、顔を上げた。
「おぼろげに瀬織津の女神さまのことを思い出したわ。女神さまがわらわを拾って龍神さまに預けられたのよ」
 ふところの中にいつも入れている大切な品を握りしめた。
「……では、瀬織津の女神さまのところに行けば、緑の龍神様はきっとやってくる! わらわを預けたわけもきっと判るに違いないわ」

 るりさ姫は長い旅の間、まともに食事も摂らず、衣も破れて汚れながらも、懸命に歩いて瀬織津の女神さまがいらっしゃるという隠れ処の森林に辿り着いた。
 そこには、ヒッポウ鳥の炎馳丸と婆やが先回りしていた。
「婆や! 炎馳丸!」
 婆やは、白い靄に包まれたかと思うと神々しい女神さまに変身した。黒々とした髪を結い上げ金銀のかんざしを刺し、領巾(ヒレ)をなびかせた姿は龍神の中でも一番、位が高いと言われるに相応しい。ひと目で瀬織津の女神さまと判る。
「ようここまで来たな。るりさ。真面目に仕える緑の龍神に応えるため、みなしごのお前を許婚者として育てさせたのだ。婆やに姿を変え、様子を見るため山の屋敷に留まっていたのだ」
「婆や―――あなたは瀬織津の女神さまだったのね……ご面倒をおかけしました」
 るりさはその場に膝を付き、美しい所作で正座し、頭を下げた。
「ホホホ。緑林の頭目らしく振る舞っておったのう。なかなかサマになっておったぞ」

 やがて、緑の龍神様が雲に乗ってやってきた。地上に下りた姿は端正な公達(きんだち)の姿だ。
(こ、このお方が龍神様……。思っていた通り、なんて穏やかで清々しいお方だろう……)
 るりさ姫は固くなった。

第七章 翡翠の腕輪

「緑の龍神よ、よう参った。久しいの。るりさ姫を育ててすっかり成長したぞよ」
「瀬織津の女神さまにもご機嫌麗しゅう――。再びお目にかかれて光栄にございます」
 女神はいきなり、るりさ姫に深く頭を下げた。
「何をなさいます! お顔をお上げくださいまし」
 るりさ姫はうろたえた。
「そなたには詫びねばならぬ。炎馳丸から守れませんでした。彼の真心を強う強う感じてしまいまして……。危害を加えず、花嫁衣装だけを燃やしてしまうとは、きっと炎馳丸は本気でそなたを愛してしまったのでしょう」
 緑の龍神が炎馳丸の方へ、鋭い視線を向けた。
「……そうなのか?」
 炎馳丸はごくりと息を飲み、その場に膝をついて正座した。
「はい! るりさ姫さまの涙ぐましい誠実なお心、龍神様をひたすら待つお姿を拝見するうちに真に胸が熱くなってしまい……」
 白砂の上で整然としたお辞儀をした。
「これは、ヒッポウ鳥にしては素晴らしい所作と誠実な心だ」
 意外にも緑の龍神様は炎馳丸の所作を褒めた。
「るりさ姫さまの花嫁衣装を燃やしてしまい、申し訳ございませぬ」
「かまわぬ、かまわぬ。るりさを花嫁にするつもりなど毛頭ない。女神さまのご命令で育てただけだ」
 龍神様は直衣(のうし)の袖をひらめかせて、扇の陰で軽く笑った。
「じゃあ、わらわの気持ちはどうなるの?」
 るりさ姫が唇を尖らせた。
「瀬織津の女神さまから預かっただけで、花嫁にする気はなかったのでしょう。一本足の怪鳥の嫁になれというの? 思いつきが過ぎるんじゃなくて? わらわは物じゃないわ。勝手にあっちへやったりこっちへやったり、ひどいではありませぬか!」
 瀬織津の女神さまと炎馳丸はそろって、眉を吊り上げたるりさ姫に目をやった。
 緑の龍神様は慌ててなだめ、
「るりさ、これは悪かった! 確かにお前の言う通りだ」
 瀬織津の女神さまが、
「して、お前はこれからどうしたいのだ、るりさ姫」
「……分かりません……」
「都の中をうろうろしていたお前を勝手に連れてきてしまった責任はわらわにある。申してみよ。これからどうしたい?」
 るりさ姫は考え込むばかりだ。
「そうそう、わらわが与えた翡翠の腕輪があったであろう。あれはどうした?」
「いただいた日から大切に持っております」
 るりさ姫は袂(たもと)から翡翠の腕輪を取り出した。若苗色の美しい品だ。
「その腕輪の力は存じているな」
「はい……」
 腕輪をじっと見つめると、やがてカタチを変え、若苗色の笛となった。るりさ姫がさっそく慣れた手つきで笛を唇にあてがうと、竹林が風に鳴るような涼やかな音色が流れる。
「この笛を吹くと、盗賊どもが故郷や残してきた家族を思い出し泣いていた。穏やかな心を思い出させるのだ」
「るりさ姫……」
 瀬織津の女神さまは、両手で姫の手を包んだ。
「まさに。その役目に気づいてくれるよう、腕輪を下賜(かし=与えた)したのですよ」

第八章 龍神の怒り

 音色は新緑の間を駆けずり回り、葉や小鳥もそれに乗って踊り出す。木洩れ日が降り注ぎ、るりさ姫と炎馳丸は肩を寄せ合う。
 緑の衣のるりさ姫と赤い翼の炎馳丸は、まさに対の小鳥のように見える。
 そこへ、いきなり、まったくいきなり、
 ドカ――――ンッ! ピシャ――ン!
 轟音がした。
「な、何ごと?」
 るりさ姫が炎馳丸にしがみついた。

「うっ」
 突然、瀬織津の女神さまの背に矢が突き立てられた!
 葉擦れの音をさせて逃げたのは、緑の龍神の手下のひとり、つづら郎だ。
「へへ、龍神様のご命令でね。悪く思わないでくだせえよ」
 緑の龍神は内心、怒っていたのだ。るりさ姫を炎馳丸に汚されたことを。矢も楯もたまらず激昂する。
「我のるりさ姫を我がものにしたヒッポウ鳥め、許さん! 守れなかった瀬織津の女神も許さぬ!」
 苦痛に倒れながらも女神さまは、歯を食いしばって立ち上がり自ら矢を抜いた。
「女神さま、大丈夫ですか」
 るりさ姫が支えようとしたが、傷口はたちまち消えた。

第九章 比翼の鳥

「緑の龍神よ、そなたはまだ指を5本にしていただくのは早かったようだな。その器の小ささでは、人を幸せにすることはできまい。爪を1本減らして4本にする。反省の色がなければ3本にしてもよいのだぞ?」
 世織津の女神が顔を上げて叫んだ。
「おのれ~~、世織津の女神よ~~~!」
 緑の龍神のたてがみは、怒髪天(どはつてん)をつくごとく逆立ち、長い角は更に長く伸びた。眼球は緑の炎を吹き、うねっていたヒゲは鋭く伸びた。
「瀬織津の女神め。少しばかり美しく才女ゆえ、皆がちやほやするのを良いことに龍神族をも下に見ているな。我は負けぬぞ!」
 龍神様は目を血走らせて、緑に光るウロコの身体をうねうねとさせながら空へ飛び上がった。青空の底へ落ちていくように小さくなって見えなくなった。

「激昂されても龍神様の真実のお心はお優しいのです。いつの日か、るりさ姫の笛の音色が龍神さまの心を癒して浄めてくれますように。――ヒッポウ鳥の心を救ったように」
 瀬織津の女神さまは正座して膝の前に手をつき、るりさ姫に頭を下げる。
「もったいないお言葉をいただきまして。これからは少しでも、彼が不審火を着けた気配を感じましたら、湖の水で消火に向かいます。今まで亡くなった方々の供養もいたします」
 るりさ姫は炎馳丸と並んで、女神さまに座礼を返すのだった。
「ふたり並んで正座しているのを見ているだけで、わらわの心は和む。愛する者同士が添っているというのは微笑ましいかぎり。まさに比翼の鳥じゃのう」
 ふたりは顔を見合わせた。
「比翼の鳥……」
 瀬織津の女神さまは誇らしげに微笑む。
「緑の鳥と朱い鳥が対になって未来を誓う……。正座の姿で見ることができて、わらわも感慨深いことですぞ」
 彼方の山あいに、静かな人里と湖が望まれた。この平和を壊してはならない――と、るりさ姫は誓うのだった。


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