[276]正座占い・スノーライオンの力


タイトル:正座占い・スノーライオンの力
掲載日:2024/02/27

著者:海道 遠

内容:
 結婚の申し込みのために、ミキの父親に挨拶するための正座をしようとするマナブだが、正座できずにすってんころりん倒れてしまうため、「正座占い」の店をふたりで尋ねる。店主のセザリーヌは、マナブの失敗を子泣き爺が憑りついているかも? と推測するが……。



本文

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第一章 正座占いの店

 日も暮れて、ネオンの輝き始めた飲み屋街の小路である。奥まで入っていくと占い街がある。間口は一様に狭い。そこへ、色とりどりの幕を垂れたりして、さまざまな占いの店がある。ひっそりしている店もあれば、行列のできている店も。
 おっかなびっくり、そんなところへやってきたのは、ミキとマナブである。初めての占い街を眺めながら、ようやく「正座占い」の店を探し当てる。
 朱色のテントで囲ってある。そっと入ってみると先客がいるようだ。男性らしい。女性とのやり取りが微かに聞こえる。やがて、男性ががっくりした様子で、くたびれたジャケットの背中を丸めて、足早に去っていく。
「あのおじさん、歩く姿も猫背だもんな。きっと占いの結果もよくなかったんだな」
「マナブくんこそ、大丈夫なの? 正座を成功したことないでしょう」
「だから来たんじゃないか」
 ミキが頷く。
「次の方、どうぞ」
 艶やかな女の声が呼んだ。
 ふたりがカーテンの内側へ入っていくと、イスラムの衣装のチリンチリンがヴェールや胸元や腰の辺りにいっぱいついた格好、しかも目の周りがくっきりとクレオパトラみたいなメイク、唇は血の滴るような真紅の口紅の女性が待ち受けていた。何歳くらいだか見当がつかない。台の上に真っ赤なビロウドの布をかけて、その上に水晶玉まで置いてある。正座とどう関係があるのだろう?
「あれ? 星占いと間違えたかな」
「あ、いいの、いいの。ここは正座占いよ。一応、雰囲気出すためにこんな格好してるけど、日替わりで衣装やお店内装チェンジするのよ」
 怖そうに見えた占い師さんは、お茶目にウィンクすると、
「私は『正座占い師のセザリーヌ』。何を占ってほしいの、お若いカップルさん」
「え、と。ちょっと好奇心からだから、これといって」
「そう。ま、いいわ。さあ、どっちから? この座布団の上に座ってみてね」
「じゃ、私から」
 ミキが先に座ることにした。二畳ほどの畳の上に、紫色の豪華な座布団。靴を脱いで、そっとお尻の下にスカートを敷いて正座する。

第二章 すってんころりん

 五秒、十秒、……古代エジプト人みたいな化粧の瞳で占い師、セザリーヌはミキを見つめていた。
「ハイ、いいわよ」
 ミキは、ほっとして座布団から下りる。
「まっすぐ座っていたつもり?」
「はい」
「う~~ん、右へどうしても十度ほど傾くわね。身体のクセというより、何か悩み事があるんじゃないかしら」
 どっきりしたミキである。マナブとの結婚を父親に認めてもらえるかどうか、ここのところ心配なのだ。
 そのマナブの正座の番だ。
 靴を脱ぎ、そっと座布団の上に乗った。とたんにグラリと身体が傾き、すってんころりんと倒れてしまった。
「あれ~~?」
 もう一回、慌てて乗るマナブ。しかし、またもや、すってんころりん。
「あれ~~~?」
「やっぱりできないの? マナブくん! ただ正座するだけじゃないの!」
「ちょっと、お嬢さん、今のは聞き捨てならないね!」
 急にセザリーヌが声を荒げた。
「ただ正座するだけ……それが、どんなに難しいと思ってるの? だから彼は転んでしまうし、あなたも歪んでしまう。百パーセント、完璧な正座をしようなんてのは、本当は不可能なのよ」
 ふたりは占い師さんの凄みを目の当たりにして、小さくなった。
「すみません……真面目にやります」
「あ、ごめん、ちょっとムキになっちまったよ。にいさん、もういいよ。そのコケ方はまずいけどねえ……」
 セザリーヌも腕を組んで考え込んだ。
「あんたたち、三日後にもう一度いらっしゃい」

第三章 お嬢さんをください

 マナブとミキは、再び正座占いに訪れていた。
 今日は店の入り口からして今までと違う。入り口は武家屋敷風、障子を開けると上がり框(かまち)から下履きを脱いで四畳くらいの畳敷きになっている。そこへ、三つ指ついて現れた女性。和装が見事だが、この前のペリーダンサーみたいなセザリーヌだ!
「改めまして、私の名前はセザリーヌと申します」
(今日は和風でも、名前はペリーダンス風なのかな)
 ミキは思いながら、ふたりで和風占い館へ入った。

「おふたりとも、ただの試しにここへ来られたんじゃないでしょう? よろしかったら訳を聞かせて下さいな」
 古代エジプト風のアイメイクを落としたセザリーヌは、清楚な和風美人だ。アラフィフくらいかな?
「実はですねえ」
 ミキが口を開いた。
「彼が私の結婚を認めてもらうために、親に挨拶しに来てくれるのですが、その時の正座がうまくできるか心配で」
「ああ、『お宅のお嬢さんをください』ってヤツね」
 セザリーヌはクスッと笑った。
「日本人て、どうしてああいう型通りが好きなんでしょうね」
(そういうセザリーヌさんだって、正座占いなんてしてるじゃないの)
 と、ミキは思った。
「いいわ、彼の特訓、私にまっかせなさ~~い!」
 セザリーヌは、美しく着こなした着物の襟もとを力強く叩いた。

 障子を開けて部屋へ入るところから始まった。障子に両手を添え、静かに開けてから身体を小さくして、くるりと部屋へ上がり込み、そしてそっと障子を閉め、正座したマナブ。
「そこで倒れちゃうわ!」
「倒れないよう、秘伝をお伝えしましょう」
 セザリーヌが厳かに言った。
「はい、部屋に入って正座したら、下腹にぐっと力を入れるのよ」
「こ……こうかな」
 マナブは力を入れてみたが、腰を浮かせてたので、どってん、ひっくり返ってしまった。置いてあった水晶玉に思い切り頭をぶつける。
「イテテテ………」
「マナブ、大丈夫?」
「どうも安定しないようだねえ。畳の上でもそれじゃあ、ふかふかの座布団の上じゃ、とてもねえ」
 セザリーヌは深刻な表情になった。

第四章  錘(おもり)になる妖怪

 さて、三回目である。
 すってんころりんしたままじゃ、面目が立たない。ましてや本番の結婚申し込みの時には、マナブはビシッと正座したいのだ。
「おお、おふたりさん、待っていたわ」
 今日のセザリーヌはペリーダンス風に青いスケスケの衣装だ。ものすごいバサバサのつけまつげとアイラインの奥から真っ赤なカラコンで見つめてきた。
 思わずマナブとミキは身を寄せ合う。
「実はな……水晶珠で占ってみたところ、身体の錘になる妖怪がマナブくん、おぬしに憑りついているらしい」
「身体の錘になる妖怪?」
「ああ、中央アジアに伝わる伝承でな。どうやらそいつがマナブくんに憑りついていて、正座を邪魔しているらしい。中央アジア版、子泣き爺とでもいおうか」
「どうしてそんなのがボクに?」
「妬いておるのさ、ふたりに。中央アジア版、子泣き爺は、相当なヤキモチ妬きというからな。邪魔をしてマナブくんに結婚の申し込みをさせまいとしているのさ」
 大きなキンキラキンの耳飾りを揺らせて、セザリーヌはカカカと笑った。

「あの中央アジア版、子泣き爺ってホントの話だと思う?」
「まさか」
 マナブが震えながら尋ねると、ミキは肩をすくめた。
「マナブくん、今度はチベット占いに行くわよ。中央アジア版、子泣き爺が本当に憑りついてるのかどうか、確かめるの」

第五章 チベット占いにすがる

「いい? 今から行くチベット占いって相当、種類が多いのよ」
 マナブとミキが昼下がり、川べりのカフェで額を突き合わせていた。
「団子、サイコロ、数珠、靴紐、夢、炎、バターランプ、鏡、肩甲骨……どれにする?」
「待て。団子と肩甲骨が想像できない! 急に言われても分かんないよっ!」
「じゃ、今、言った種類を紙に書いてきたから、ウエイターのおにいさんが、どこに最初にコースターを置くかで決めましょう」
「そんないい加減な……エンピツ転がしみたいなもんじゃないか」
 ウエイターのおにいさんがジュースのコースターを「数珠占い」のところへ置いた。
「決まったわ! 数珠占いのところへ行きましょ!」
「テキトーだなあ」
「なんとなく私の勘にピンと来たのよ!」
 ミキはマナブの腕をつかんでカフェを飛び出した。

 チベット占いも、例の小路にあった。
 店の前に黒のビロードのカーテンが張り巡らされていて、入口にはたてがみが緑色のライオンの絵が描かれている。いかにもチベットという宗教的な画風だ。
 入ろうとすると、ひとりの中年男性が背を丸めて出てきた。マナブが振り返り、
「あれ?あのおじさん、最初に正座占いに行った時に見かけた人かな?」
「マナブくん、置いてくわよ」
 奥へ進むと白いあごひげの老人が、テカテカに光る赤黒い素肌に濃い黄色の衣を巻きつけてテーブルの前に座っていた。
「何とな? 正座占いの姐さんに、錘になる妖怪が憑りついていると言われたとな?」
 老人はあごひげと同じ、白い眉の下の眼を光らせた。
「それは、ワシの数珠占いも責任重大じゃな。どれ、見て進ぜよう」

「日本の妖怪、子泣き爺がチベット占いと関係あるのですか?」
 ミキは一番、尋ねたかったことをやっと聞いた。
「妖怪の世界も現世も同じ次元に存在するんじゃよ、世界共通。妖怪の世界には国境などありゃせんからのう。呼び名が違うだけじゃ」
 数珠占いの方法は、数珠を目の前に平にして掲げ、両手の指で適当に選んだ珠をつまみ、指と指の間の珠を半分、それ以下にする。
 次に、両方の指で珠を一度に三個ずつ互いの方向へ手繰り寄せる。
 最後に残った珠の数により、結果決定。

 方法をひと通り聞いたが、マナブは大きなため息をついた。
「こんなので、俺がちゃんと正座できるようになるのか?」
「しっ! 黙って。お爺さんの気が散るわ」
 占いの老人は赤黒く皺深い手で数珠を繰り始めた。
「なんだか、途方もなく正座から遠ざかってるような~~~?」
 マナブは大きいため息が出そうになるのを我慢した。

第六章 スノーライオン(雪獅子)

「う~~む……」
 チベット占いのお爺さんが数珠を見つめたまま、額に汗を浮かべていた。
「わしの手元に三つの珠が残った……。これは、スノーライオン(雪獅子)という結果で、守護神からの助けを受けられることを意味する。すぐには無理かもしれないが、確実な成功を得られる暗示じゃ」
「ホント、お爺さん! バンザーイ!」
 ミキは大喜びだ。対して慎重派のマナブは、
「信じていいんですか。ボクは正座ができるようになるんですか。中央アジア版の子泣き爺の退治は、どうすればいいんですか?」
「何か思い当たることは無いのかね、若者」
 老人はあごひげを撫でながら、マナブを睨みつけた。
「そういえば」
 マナブがふとこぼした。
「最近、右肩が斜めになってるな、って感じたんだ。右肩というと……」
「それよ! 子泣き爺の悪さしている証拠! どうして早く言ってくれなかったのよ。で、右肩って?」
「俺、小学生の頃、書道を習っていて、みっちり右肩を使ったんだけど、ちょっと思い出したくないことがあって……」
「思い出したくないことなら、無理に聞かないけど」
「やんちゃしていて、墨を部屋中に飛ばしちゃったことがあるんだ。憧れの先生の前で」
「まあ、そんなことが。墨と言えば、真っ黒! もしかして、対照的なスノーライオンと関係あるのかも」
「墨のことで悩んでおるのなら、スノーライオンのお乳は、真っ白で神々しいのじゃ。待っていれば、その黒い想い出をきれいにしてくれるじゃろうよ」
「スノーライオンってメスなんですか!」
 老人は何度も頷きながらニッコリ笑って、
「ハイ! 次のお客さん!」
 もうマナブたちのことは相手にしてくれなかった。
 ミキとマナブは仕方なく小路に出て歩きながら、
「その、スノーライオンにお願いするにはどうすればいいのか、分からずしまいじゃないか。あのチベットのお祖父さん」
「スノーライオンの珠が残ったんだから、信じて待つことにしましょう」
 ミキの言葉にマナブはしぶしぶ頷いた。
「それにしても」
 マナブは立ち止まって、くるりとミキの方を向いた。
「そもそも結婚お願いの挨拶って、どうして正座でなくちゃダメなんだ?」
「……」
 遠くの街のネオンがちかちかして、ふたりを取り巻いた。

『結婚お願いの挨拶って、どうして正座じゃなきゃダメなんだ?』
 マナブの言った言葉が、彼と別れてからもミキの頭の中で反響していた。
(日本人の習慣かしらね。西洋人ならソファで気楽に言い出しそうだけど。日本人ならソファに座っていても、ガバと床に降りて正座しそうだわ)
 それはさておき、スノーライオンを信じて、チベット版、子泣き爺を追い払わなくちゃ、マナブは正座できないままだ。

第七章 イタコ登場

「子泣き爺を追い払うには?」
 仕事の後、ぼんやりと占いの小路へ歩いていると、いきなり前に立ちはだかったのは、どぎつい原色の布と金の飾りをつけた姐さんだ。
「セザリーヌさん!」
「ミキさん、あれからマナブくんは元気かな?」
「は、はい。元気にはしてますが、やっぱり正座ができません」
「わたしゃ、気になってチベット占いの爺さんとこへ行ってみたのさ。そしたら、彼がコケてしまうのは、爺さんにもわからん、しかし、末はうまくいくと占いに出たそうね」
「はい、まあ」
「末は、と言ってもそんなにのんびりと待ってるわけにはいかないでしょう。とにかく彼に憑りついてる、チベット版、子泣き爺を取り除かぬとな~~~」
「そうなんです。でも、どうすればよいか」
「そこで彼女を連れてきた!」
 セザリーヌがドヤ顔で紹介したのは、白い着物に首から大きな数珠をたくさんぶら下げた老婆だ。繁華街とはいえ、宵闇に真っ白な着物の老婆を見たミキは、怯えあがってしまった。
「きゃっ! セ、セザリーヌさん、このお婆さんは?」
「イタコだよ」
「イタコって、亡くなった人を呼び出して交信するっていう霊能者?」
「そう。でも、この婆さんはひと味違う。生きてる人間の心の奥の言葉を聞くイタコだ」
「生きた人の?」
「つまり、テレパシストってわけ」
 真っ青になっていたミキは、やや落ち着いた。
「よろしゅうな。イタコのタキジと申します」
 ごま塩頭の長い髪を肩に垂らした老婆が名乗った。
 セザリーヌに勧められて、三人は赤いテントの中へ入った。
 さっそく、イタコのタキジ婆さんが、
「ミキさん、頼みがあるんだがね。お父さんは今、どこに?」
「そろそろ家に帰ってると思いますが?」
「じゃあ、ここへ来るよう、電話してもらえるかな」
「え? ここへですか? 今?」
「うむ」
 タキジ婆さんには何か考えがあるらしい。
 ミキはスマホを取り出して父に電話した。
「え? ○○街の占い小路? お前、どうしてそんなところへ?」
 父はきょとんとした様子だったが、セザリーヌと聞いて、すぐ行くと言った。

第八章 呼び出された父親

 父親がやってきた。
 カジュアルなツイードのジャケット姿を見て、ミキは「あっ」と思った。
 最初に占い小路に来た日にマナブと自分の前の順で見てもらっていたおじさんの背中……猫背の背中……父とそっくりだ。
 普段、見慣れないよじれたジャケットと、いつも堂々とスーツ姿で胸を張っている父親とは大違いだったため、気づかなかったのだ。
「お父さん」
「お前、どうしてここへ」
「ミキさんのお父さん、先日はどうも」
 隣からやってきたセザリーヌが瞳をキラリと光らせた。
「あの時のお父さんの悩みは、娘をどこにも嫁にやりたくない、でしたね」
「なんですって?」
 ミキは飛び上がった。
「正直になりなされ!」
 次に叫んだのはイタコのタキジ婆さんだ。その迫力に父親はオドオドするばかりだ。
「これよりは、イタコのタキジ婆さんのお力をお借りします」
 セザリーヌが宣言した。
「お座りなされ、紳士よ」
 タキジ婆さんに言われるままに、父親は簡素な椅子に腰かけた。
「お前さんには何か思いつめてることがありますな?」
「は……」
「ありますなっ!」
 タキジ婆さんの、しゃがれていながらもドスの利いた声で念押しされて、父親はへなへなとなった。
「は、はい。どうやら娘に結婚を考える相手ができたようなのですが、私はどうしても娘を嫁にやりたくないのです」
「この前は、そこまで聞いたわ」
 セザリーヌが言い添える。
「お父さん」
 ミキが口を開いた。
「お父さんの気持ちは分かっていたわ。私がお嫁にいくと寂しいからって、今まで事あるごとに、マナブくんの邪魔してきたでしょ。昇進試験の夜、騒音で寝かせないようにしたり、うちにお招きした時に、私の料理に下剤を入れたり、デートの待ち合わせの時間を狂わせようとしたり。何十回もしたわよね。そして、マナブくんを正座できなくさせたんでしょう」
「ありゃりゃ、これは」
 タキジ婆さんが肩をすくめた。
「父さんに憑りついてる妖し(あやかし)に白状させようと思ったのに、全部、娘さんが言うてしもうた」
「ずるいわ、父さん」
 恨めしそうに、父親を睨むミキの眼に涙があふれている。
「待たれい、娘御よ。父上には錘の妖しが憑りついておる。葛藤する父上の心の弱さにつけこんだのじゃ。全ては妖しの罪。父上を恨んではなりませんぞ」
「はい……、どうかどうか、妖し……チベット版、子泣き爺を退治してやってください」
 我知らずその場に土下座して、タキジ婆さんに深く頭を下げた、ミキだった。

第九章  現れた子泣き爺

 タキジ婆さんは、ミキの父親を前に座らせ、長い間、口の中でもごもごと何やら呟いていたが、やっと頭を下げた。
「つまり、この紳士の泣きどころにつけこんだわけじゃな、チベットの子泣き爺よ」
 タキジ婆さんの前で、目を固く閉じたミキの父親の身体が揺れ始めた。
「……そうじゃよ」
 子供の高音ながら、しゃがれた不気味な声が返ってきた。子泣き爺の声だ。
「この男が娘をどこへもやりたくないと、頑なに思い込んでいたのでちょいとイタズラしてやったんじゃよ。青年の邪魔をさせたり、青年の身体に憑りついて身体を傾けたりのう」
「そう、それそれ」
 黙っていられなくなったミキが乗り出した。
「そのせいでマナブくんは、正座できなくなってしまったのよ! どうしてくれるのよ、チベットだかシャーベットだか知らないけど、子泣き爺!」
 父親の両肩をつかんで揺さぶる。
「これこれ、ミキさん、イタコと交信している人間を動かさないように」
 セザリーヌが彼女を落ち着かせた。
「これで原因ははっきりした。タキジ婆さんが子泣き爺を追っ払ってくれるよ」
 そこへタキジ婆さんが自分の声に返り、
「それがのう……、自分が憑りつくのをやめても、父さんにもマナブくんという青年にも、元になる悩みがあるから難しいらしいのじゃ」
「困難があっても、スノーライオン(雪獅子)の結果を信じるわ。乗り越えて成功するはずだから」
 力強く、ミキは言った。

第十章  雪獅子の雲

 その夜、ミキは父親の好物のお惣菜を何品か作った。
 父親は照れ臭げにダイニングに座り、一品ずつゆっくり味わって食べた。
「美味しいよ。母さんの味付けそっくりだ。いつの間にかミキもこんな料理が作れるようになったんだなあ」
 お箸を置いて、目頭を拭く。
 ミキも胸が熱くなって、座敷の仏壇にある母親の遺影に目をやった。

「元になる悩み―――? 父さんは私を男手ひとつで育ててくれた。小学校六年生の時に母さんが病気で亡くなってから、ずっと。その恩は感じるけど、私もマナブくんも結婚の決意は固いのに、ここまで難航するなんて」

 夜中、ミキはベッドに転がったまま、天井を見つめて眠れない夜を過ごしていた。
 そして、この前、イタコに向かって思わず土下座したことを思い出した。
「あの時は無心で土下座していた……」
 ミキの脳裏に一筋の光が射したような気がした。
「人は心の奥底から真剣な願い事をする時、正座して額を地面にすりつける姿勢になるんだわ」
 ガバとベッドの上に置きあがった。
 その時、襖が開いて父親が入ってきた。
 いつしか一番鶏の鳴く時刻になっていた。カーテンの外が薄い紫色だ。
「どうしたの、父さん、いきなり」
「どうしても寝つけなくて考えていたんだが。ミキ、朝一番にマナブくんを呼んでほしい」
 父親の顔色は今までの重苦しさが去り、爽やかだ。

 朝になってマナブがやってきた。緊張でカチンコチンだ。
「マナブくん……」
「ミキ、いっそ今、お父さんにお願いしようと思う。子泣き爺なんかより、コンプレックスなんかより、勇気を出せなかった俺自身に原因があったんだ! すってんころりんしないように祈っていてくれ」
 父親の待つ座敷へ入っていった。マナブが座ろうとするなり、床の間を背に座っていた父親は、場所を変えて座りなおし、頭を下げた。
「マナブくん。大人として色々と恥ずかしい妨害をしてしまった。しかし、ミキを手放すのが怖かったための小心者の行動……、だから妖しのものに憑りつかれたりしたんだ」
「お、お父さん!」
 マナブはびっくりしてしまい、座布団からすってんころりんするのも忘れている。
「わしが変な意地を張って悪かった! この通りだ」
 父親はもっと深く頭を下げた。
「お父さん、どうかお顔を上げて下さい。実は子供の頃、憧れのお習字の先生の前で正座からすってんころりんしてしまい、墨を、部屋中にまき散らしてしまったんです。それをコンプレックスに感じて悩んでいたボクが悪いのです」
 マナブは再び、コンプレックスを説明し、ミキはマナブの心を思いやって、ちくりと胸が痛んだ。
 マナブはしっかり正座をし直し、
「どうかミキさんと、お嬢さんと結婚させてくださいっ!」
 清々しく頭を下げた。
「こちらこそ、あんなお転婆の娘だが、もらってやって下さい。いや、よろしくお願いします」
 父親も潔く美しい正座をして頭を下げた。
 ふたりは顔をあげてから、照れ臭そうに眼を合わせた。その姿からは、妖しの気配すら感じられなかった。
「ミキ、今朝、母さんの夢を見た。空想の白いメスライオンのように首が伸びやかで、美しい首筋をして微笑んでいた」
「まあ、母さんがメスライオンになった夢?」
 マナブはもう一度、力を込めて、
「まだまだ頼りないかもしれませんが、お父さんが大切に育ててきたミキさんを幸せにすることはお約束します!」
「宜しく頼むよ、マナブくん」
 父親はマナブの両手を握って涙した。ミキもその姿に胸が熱く熱くなって涙がこぼれた。

 朝日が座敷に真横から射してきた。
 ミキが立っていってガラス戸を開けると、街の彼方の山上に獅子のようなカタチの雲が見えた。
(スノーライオン(雪獅子)が母さんの姿になって守ってくれたんだわね、きっと)
 父親とマナブも雲を見に立ってきた。
 朝焼けに輝く雲の獅子も、前足をそろえて正座しているように見えた。

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