[391]正座の書道部入部


タイトル:正座の書道部入部
掲載日:2025/12/05

シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:34

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

あらすじ:
同所セイは某栄富高校の一年だ。セイは地元の生徒で、幼いころから某栄富高校に慣れ親しんでいた。
自然豊かな某栄富高校付近に住んでいるセイの同級生は、都心の高校への入学を希望することが多い中、セイは地元で安心感のある学校を選んだ。
ある日、紙矢和良羽というとんでもなく頭のいい一年生が書道部に入部した。
入部当初から和良羽の並外れた集中力を感じ取っていたセイだが、和良羽には、某栄富高校を選んだ理由があり……。



本文

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 某栄富高校は、自然に恵まれた学校である。
 最寄り駅は都心からの下り電車の終着駅に近く、そこからは市営バスとスクールバスが出ており、駅前のスーパーだのファミレスやカラオケ、ケーキ屋やお好み焼き屋、弁当屋なんかのあるところから、どんどんと家と家の間隔が開き、やがて釣り堀なんかがあって、ほぼ緑というか、山の入り口、といったところに校門がある。
 実際に学校の敷地には山があり、そこでキャンプだとか、木工だとか、釣りだとかができるし、馬術部もあり、校内では保護猫やアヒル、亀なんかも面倒を見ている。
 某栄富高校は地域密着型の高校で、登録しているボランティアの方々が出入りしており、校内の花壇、畑の手入れや、学校と地域とのちょっとした催しの時に協力してくださっている。
 そうして、そのボランティアの方の多くが、自宅で採れた野菜や果物、手作りのお菓子を差し入れしてくださる。
 某栄富高校は一学年が百名程度と、他の高校に比べ、人数が少ない。
 事前申し込みの給食が導入され、そこではこの地域で採れた野菜や川魚をふんだんに使った昼食が出るし、弁当持参の生徒は隣のソファに流し、各々のカップを置く食器棚のある部屋で食事をしている。そのソファのある食堂の流し横なんかに、頻繁に野菜や果物、お菓子の差し入れがある。小さなホワイトボードなんかに、差し入れしてくださったボランティアの方の名前と、差し入れ時間が記され、いただいた生徒は、その下にお礼なんかを書いたりしている。
 同所(どうしょ)セイは、この地元の出身である。
 某栄富高校から一番近い小学校、中学校に通っていたし、幼稚園もこの近くだった。だから、幼稚園の時に某栄富高校の山で遊ばせてもらったし、小学生の乗馬体験も参加させてもらった。
 同じように地元で一緒の友達の多くは、高校生になったら、複合ビル、百貨店が立ち並び、流行のグルメが常に出店する駅近の学校を選んだ。
 確かに、小学校高学年頃、そうして中学校に入学後は、仲のいい友達と出かけるとすれば、地元駅から上り電車に乗り、多くの人が使用する、路線が集まる駅に行き、そこに多くある複合ビルで流行のキャラクターの文房具をお揃いで買ったり、ファストフードの期間限定のものを食べたり、百貨店で服を見て歩いたりするのが定番であった。そうして、その出先で同じクラスの誰に会ったとか、そういうことが週明けの話題になった。
 つまり、セイの生活圏内の同世代にとって、いわゆる都心は特別な場所であった。もし、そうした都心の高校に入学すれば、定期で毎日特別であった場所へ行けるわけである。
 まあ、都心の方は高校の数もそれなりに多いが、人の多い地域故に、やはり人気も高く、入試の際には倍率なんかも視野に入れる必要がある。
 そんな中、セイは自転車ですぐの某栄富高校を選んだ。
 生徒数は少ないが、学校で定められた学力があれば大概合格できるし、何よりもセイは地元の中学校からの延長上に等しいこの某栄富高校が肌に合った。
 ボランティアで来ている方は、子どもの頃から知っている人が多かった。地域のお祭りで毎年顔を合わせている人や、近所のパン屋さんや八百屋さんのおじさん、おばさんなんかもいる。そうして、まあ、学年に数人くらいは小学校、中学校で一緒だった生徒がいる。
 この家から近く、顔見知りばかりという条件はセイにとって大きかった。
 これまで知らなかった人たちと会って、友達をどんどん増やすのが好きな子もいるけれど、セイは今いる環境、今いる人とのつながりが居心地がよかった。
 そうして、この学校は自然が豊かなことや、生徒数が少なく、ボランティアの方を含め毎日植物や野菜に関わる大人が多いせいか、穏やかな雰囲気であった。
 暑い日の体育の終わりに校舎へ戻ると、すれ違ったボランティアの方が「暑かったでしょう。流しの横に氷水につけた冷やしトマトがあるから、よかったら食べてね」と声をかけてくれたり、放課後食堂の前を通ると、「マフィンの差し入れがあるけどどう?」とお茶に誘ってくれる環境は、向き不向きがあるだろうが、昔から地元のお祭りなんかに参加していたセイは、素直に「ありがとうございます」と言って、その恩恵を受けていた。そうして、この学校の多くの生徒がそうした性格であった。
 つまり、通学に便利で居心地がよい学校だから、セイは某栄富高校を選んだ。
 そうして、ついでというか、某栄富高校には書道部があった。
 セイは小学校の頃から書道教室に通っていた。
 最近は複合ビルのフロアで書道教室を見かけるが、セイが通っていた書道教室はお寺であった。
 このお寺もセイの家の近くで、濃い緑の立ち込めた、黒土の庭の先にお寺と、ご住職のお住まいがあった。
 このお寺のご本堂で、セイは書道を学んだ。
 板の間の教室で、セイは背筋を伸ばし、スカートをお尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、正座する。
 このお寺の書道教室に通う子どもは皆、姿勢がよく、きれいな正座をしていた。もともと通っている子たちから、居住まいを正すことをセイは学んだと今になって思う。
 お寺の書道教室は大概が中学生までで、小学校低学年が最も多かった。
 そんな中、セイは中学三年が終わるまで書道教室に通った。
 できれば高校からも書道は続けたいと思っていた。
 進学する大学によっては、書道が必須授業に入っている科もあるようだが、まずは高校だ。
 だから、某栄富高校に書道部がなければ、それこそ都心の複合施設の中にある書道教室でも探そうかと考えていた。
 だが、運よく、某栄富高校には書道部があった。
 指導してくださるのは、国語を教えている質網(しつもう)先生で、書も大層な腕前であった。なんでも、大学生の時のアルバイトに賞状を書く仕事をしていて、それでかなりの収入になったと聞いたことがある。痩躯の男の先生で、何やら厳しい雰囲気を感じたが、セイの書をじっくり見て、実に柔らかく微笑んだ。
 セイは質網先生の指導を受けるにあたり、硯や筆を買い替えた。厳密には質網先生の使っているものはどこで買えるのかを訊き、同じものを購入した。これまで使用していた硯よりもずっと大きいものだ。その硯で部が始まる前には墨を擦り、準備をする。
 某栄富高校の書道部には、校舎と馬術部の間にある、日本家屋が使用されていた。もっと校舎寄りの方には、部室兼倉庫になっている新しい赤い屋根の建物もあって、当初セイもその中に書道部があると思っていたが、新入生歓迎会で配られた冊子の書道部欄には、この赤い屋根の建物の先と記されていたので、ずいぶんと慣れた高校ではあるが、一体どういう場所なのだろうと訝しながら、書道部の活動場所まで行った。馬術部の休憩場所と兼用であるが、板の間二十畳ほどの二間続きのこの家屋は、手前が馬術部、奥が書道部と一応場所は決められていた。もともとは、この某栄富高校がまだ一学年二十人くらいで、今の大きな校舎がない頃、天体観測や夕涼み会なんかに使用していたと聞く。
 しん、とした部室にセイは一番乗りするのが好きであった。
 知っている人の多くいる学校を選び、そうした人との交流を好んでいるが、その安心した環境下で一人、心を鎮めるのも好きであった。
 ひんやりした板の間は、ローファーの中で熱くなった足裏に心地よく、網戸にすると、森林独特のしっとりとした緑と土の交じった風が舞い込む。夏になると、風向きによっては、馬術部から動物園で漂うのに似た匂いがするが、それもそれで、といった生徒が某栄富高校では大半である。
 セイは並べられている長机の一番後ろの端の席で、書道の準備を始めた。
 セイは部の中では、書道歴が長いので、使う紙が大きく、横にして二人で使える机を縦方向で使ったり、後ろの板の間に新聞紙を敷いての書道をするので、入部した当初からその席になっていた。ほかにも、書道上級者はいるのだが、優しい先輩は、セイにその席に使えるようにしてくれ、大きめの紙を使っての書道の時には、後ろへ移動している。
 あの、先輩、やっぱり場所、せめて交代で使うとかにしませんか、とセイは言ったが、先輩はそれは、もし、来年同所さんみたいな新入生が来たら譲ればいいんだよ、と言ってくれたのだった。


「ほら、ここに書道部って書いてあるよ」と男子の声がした。
 墨を擦るのを妨げない、穏やかな口調である。
「ああ、うん」ともう一人の声は、少し緊張していて堅い。
「すみません」と穏やかな声をかけられ、セイは「はい」と顔を上げた。
「あの、今からでも書道部は入部できますか?」
「はい」とまたセイは答えた。
「あの、こちらの紙矢(かみや)くんが、入部希望なんですけど、いいですか」
「はい」とセイはまた返す。
「どう? なんか、窓も大きいし、よかったね」
「うん、ついて来てくれてありがとう」
「まだ一緒にいようか」
 二人の会話が聞こえてくる。
 二人一緒の入部ではないらしい。
 そうして、この紙矢くんとやらは、同級生の付き添いがないと、入部をしに来られないのか……。
「もう大丈夫だよ。本当にありがとう。次のバス、間に合う?」
「うん。じゃあ、行くね。また明日」
 バスの時間。
 某栄富高校はスクールバスが運行していて、大概の生徒はそのバスを利用している。公共のバスも運行しているが、大抵はスクールバス利用で、帰りがけに、「バスの時間」というのをよく聞く。自転車で帰れるセイには関係ないが、こののどかな校内にあっても、そうしたセイの生活圏内とは異なる情報は入る。
 ようやく、墨を擦り終えた。
「あの、僕、紙矢和良羽(かみやわらわ)といいます」
「私は同所セイといいます」
 お互い、そこで黙った。
「ここ、いいところですね。窓が大きくて」
 先ほども窓、と言っていた。
 どういうことなのか。
「はい。エアコンもありますけど、あんまり使う機会はないです」
「はあ」
 風の入り方を言っているのではないらしい。
「ああ、先に説明します」
「なんでしょう」とセイは訊く。
 なんだか、敬語でへんな感じの会話になっているが、どう修正していいかわからない。
「僕、この学校に来てだいぶ平気になったんですけど、開放的というか、窓の近くなんかの場所が落ち着く性格で、それでこの学校にしたんです。書道部に入りたいとは思っていたんですけど、あんまりにも緊張した空間だと自信がなかったので、友達の実土利(みどり)くんに付き添ってもらって来ました」
 ……そういうことか。
「私はこの高校が一番近かったからなんですけど、地元の知っている人がいると安心感があって、新しい環境より、落ち着く環境が好きでこの学校にしました」
 学校選びもいろいろである。
 そこまで話したところで、先輩の書道部員六名がやって来た。
「さっき食堂でクッキーもらったから、みんなの分ももらってきた。後でいただこうよ」
「ありがとうございます」とセイが返す。
 そうして、「こちら、入部希望の紙矢くんです。先輩、この窓側、誰も使っていないから、紙矢くんの指定席にしてもいいですか?」と、和良羽を紹介し、それとなく窓側の席をいつも使えるよう伝えた。
「おお、ようこそ書道部へ」と先輩は喜び、「歓迎の印に、このクッキーを差し上げます」と言い、「それ、もらったやつですよね」とセイが付け加えた。
「じゃあ、今日はどうしようか。一応、卒業生が置いて行ってくれた書道道具があるから、それを使って、質網先生に指導してもらおうか」と先輩が提案し、「ありがとうございます」と和良羽がお辞儀する。
 板の間での書道は大丈夫か、とセイはやや心配になったが、和良羽は背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間でハの字に揃え、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬように正座している。
 ああ、よかった、とセイは他人事ながら安心した。
 質網先生はとてもよい先生だけれど、そうした所作にも厳しいところがある。
 入部初日に正座で注意されるのは、見ていても忍びない。
 ほっとした時、「うわああ」と和良羽が悲鳴を上げた。
 びくり、とすると、「虫、虫が」と網戸を差す。
「ああ、ナナフシでしょ? この学校普通にいるよ?」と、セイは拍子抜けして答えた。正直、悲鳴を上げた和良羽よりも、驚かれたナナフシにセイは同情した。
 そうして、某栄富高校では毎年、山で小学生が遊べる日に、虫が好きでやって来る子がいたことを思い出したのだった。


 質網先生は、和良羽の名を聞くと、すでに和良羽を知っていたようで、「書道部にようこそ。ゆっくりとやっていきましょうね」と言った。
 そうして、和良羽が書道初心者だと言うと、漢字の一のお手本を出し、それを半紙に書くところから始めるように言った。
 書道歴が長い者は、漢詩なんかを条幅紙(じょうふくし 半紙より大きな紙)に書く課題に入る。
 セイもお手本を元に、漢詩を書き始めた。
 そうして、一段落し、ふと顔を上げ、驚いた。
 前で漢字の一の字を練習している羽良和は、背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬよう正座し、一心に漢字の一を書き続けている。その集中力たるや……。
 大概は、漢字の一の字をずっと書くとなると、なんとなく飽きてくるものである。途中で足を崩したり、ちょっと外を眺めたりもする。
 だが、この部の活動時間、和良羽はずっと正座し、一の字を丁寧に書き続けた。途中で質網先生が助言をすると、それを一度小さく繰り返し、「はい」と返事し、忠実に助言を具現化する。
 この人、すごい……。
 書道には自信のあったセイだが、やや、その自信が揺らいだ。


 夏休みを前に、書道部では文化祭に展示する作品をそろそろ決めようという時期に入った。
 某栄富高校は、文化祭は地域の方をお招きするお祭りのような面もあって、例えば馬術部では子どもたちの乗馬体験をやったり、家庭部では事前に焼いた大きめのクッキーにデコレーションをするし、毎年ボランティアの方によって、野菜収穫体験も開催されている。
 まあ、そうした中で、書道部は校舎内の一室を借りて作品展示をし、一応部員が解説をするのに、当番制で待機する。
 その解説について、時折、この漢文は何の文献ですか、とか、この小さな字を書く筆はどういったものなんですか、とか、この最後に押されている印はどういう意味ですか、などと訊かれることがあるのだそうだ。
 大概のことは答えられるのだが、ただ我が子の作品を見に来た保護者と異なり、探求心のある方がおいでになると、若干緊張すると先輩は言っていた。
 質網先生は、そんな部員の様子を見ると、「では、これを機に漢詩についてもしっかり学びましょう」と言った。
 質網先生はもともと意識が高く、定期テストもなかなかに難しいので有名である。
 質網先生からすればなんでもないというか、そのくらい学ばなくてどうする、という考えなのはよくわかる。
 だが、文化祭の後には定期テストもあって、それ以前に作品も仕上げる。
 なかなかに忙しいのではないか、とセイは思うのだが、書道部員の正面の机の前に正座する質網先生は背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間でハの字になるように揃え、親指同士が離れないようにしている。
 ぴしり、としていて全く隙がない。
 この先生を前に、とてもとても、無理ですとか、ましてや面倒ですとは言えない。質網先生は、図書室に資料があるので、各自で調べておくようにと言い置き、一応、と資料をコピーしたものも配布してくださった。
 質網先生としては、生徒自らが事前準備で、展示作品に関する質問には答えられるようにしてほしいところだったのだろう。もちろん、漢詩を書く上で訳やおおよその背景は理解しているが、それを人に説明する、尚且つ、誤りがないよう、となると訳が違う。
 そんなわけで、セイを含めた書道部は文献なんかを覚えることになった。
 一応、毎年展示候補になる作品を前提に、その資料を読んで、質問に対応できるように心がけた。
 これを部員同士で文化祭での解説を想定してやってみたのだが、何時代、およそ何年に誰が、とか、どういう背景で、とか、そういう情報が幾つもの資料を一度に読んだので滅茶苦茶に入り乱れる始末だった。
「先輩、それ、違いますよ」
「え、なんだっけ?」
「そこ、時代、間違えてませんか?」
「いや、合ってるって」
 ついつい資料を投げ出したくなる中、部員の度肝を抜いたのは、紙矢和良羽だった。
 なんと和良羽は、質網先生の資料、自分でいくつか図書室で調べた資料、そうしてほかの部員が持ち寄った資料の全てを空で言えた。延々と続ける様子に、皆、固唾をのんだ。
「ちょ、ちょっと待って。これ、全部覚えたの?」
「まあ、一回見れば十分です」
 一回?
「ああ、紙矢はね」
 そう言って、質網先生が部室に入って来た。
「紙矢は別格だから」と質網先生は苦笑し、「紙矢は、それをもう少し短く、相手がわかるように」と言い、「はい」と和良羽は少しの間黙り、誰に話すでもなく、順を追って、大層理路整然とした説明を始めた。
「ねえ、もうずっと紙矢くんに文化祭の時に居てもらった方がよくない?」と先輩の一人が言い、誰かがぷっと吹き出した。
「まあ、いいですけど」と言う和良羽に、「嘘だよ。平等にやろう。まあ、学力とかには差はあるんだろうけど」と先輩が付け足し、「差どころじゃないんじゃない?」と、また別の先輩が言い、失笑が起きたのだった。


 当初は大混乱だったが、毎日時間を置いて、朝や昼休み、夜と資料をじっくり読んでいけば、もともと興味のあった漢詩への理解も深まり、自然と説明もできるようになった。ただ、クラスの友達はそうした経緯がないから、漢詩のよさについて目覚めたセイの話をあまり受け付けないのは悲しかったが、まあ、それも仕方がない。
 昼休み、食堂の隣のソファでお茶を飲みながら、漢詩の資料を読んでいると、「お疲れ」と書道部の先輩二人が顔を出した。そうして、「そこで紙矢くんにも会ったよ」と、和良羽を促し、ソファの部屋へ連れて来る。
「今日、もし何にもなかったら、どっか行かない?」
 先輩の提案に、「どこ、とは?」と、やや構えてセイは訊いた。
 駅前のあんまり数は多くはないが、ファミレスとかカラオケとか、そういうところだろうか。
 某栄富高校に入学して以来、すっかりセイは某栄富高校より先の都心へは出ていない。
「全然考えてないけど、ええと、紙矢くんはどこがいい?」
「前に、駅の方のお好み焼き屋に友達と行ったくらいで、全然知らないんですけど、できればゆっくりできて、あんまり人の多くないところがいいです」
「同所さん、どっか知ってる?」
 自転車通学で地元のセイに先輩が訊く。
 浮かんだのは、釣り堀、農園、牧場……。
「ここから少し歩いた牧場で、ソフトクリームとか、プリンとか、マフィンとかを食べられるカフェなら……」
「そんないいところあるんじゃん、行こう、絶対行こう」と先輩二人は乗り気で、ちらりと見た和良羽も頷いている。
 セイにとっては、毎日自転車で通るところで、特に何かを思うこともなかったが、どうやらこの人たちには珍しいらしい。


 放課後、四人で行くと思っていたら、なんと部員全員が集まっていた。
 徒歩で行くし、カフェは牧場の中にあるし、それで大丈夫なのか、と、この牧場とカフェを営む昔からの顔見知りのご夫婦を思い浮かべながら、セイはやや不安を抱いた。
 しかし、牧場につけば、「あー、牛、牛がいる!」と、皆が大興奮である。
 学校に馬術部があるし、敷地内には猫もアヒルも亀もいるが、それでも牛を見ると声を上げるらしい。
 住宅の環境上、セイの周囲は大きなワンちゃんを飼っている家も多いし、まるでドックランのように広い庭の家も珍しくない。
 そうして、芝生の柔らかい牧場を歩き、奥にあるカフェに着いた。
 そこでみんなでソフトクリームを頼み、お土産にマフィンを買って帰るという部員も結構いた。セイにとっては、もうすっかり食べ慣れたマフィンである。庇のついたウッドデッキの席に、長机の席があり、そこに全員で座る。
「ああ、いいところだね」
「同所さん、いいところに住んでいるねえ」
 嫌味は感じなかった。
 心から言っているようである。
「うちの妹が好きだから、今度連れて来てあげようかな」とか、「親がプリン好きだから、今度一緒に買いに来ようかな」と言う。
 そうした中、和良羽は、無言で空を見つめ、大層気持ちよさそうに髪を風に躍らせている。
 ふと、先輩の一人が「紙矢くんて、頭、いいよね」と小さく言った。
 皆が、ここ最近、思っていたことではある。
「いいかどうかはわからないですけど、覚えるのは、得意だと思います」と和良羽は答えた。
「例えば?」
「わかんないですけど、……漢字検定の一級までは小学校の中学年までに取れました」
 しん、と静まり返った。
「模試は、そんなに受けないですけど、たまに受けると、一応全国で十位以内には入るかな」
 目を見開き、全員が和良羽を凝視する。
「すげえ!」
「めっちゃいいじゃん!」
 部員たちは大いに沸いた。
 セイが言うのもなんだが、誰一人、ライバル心を抱かない。クラスで定期テストの順位が三番でイヤッホー!と雄叫びを上げる某栄富高校内に於いて、和良羽のような偉業を成し遂げた者はそもそも皆無なのではないか。
「でも、漢詩の資料だって、今、みんな説明できるようになりましたよね」と、和良羽が言う。
「まあ、そうだけどさ。俺らが何日もかかるのを、紙矢くんは本当に短い時間でできて、その分、ほかのことができるってことなんだからさ」
 先輩の一人が言うと、「確かに、そうですけど」と和良羽は曖昧に頷く。
「ねえ、その分の時間にもっと高度な勉強してたら、すごい博士になれるんじゃない? 研究者とか……」
 まあ、それはそうだな、とセイも思った。
 優れた能力に恵まれれば、その分先へ先へと新たな挑戦ができ、そうして成功するのだろう。
「そうかも、知れないですけど」と、和良羽は首を傾げる。
「僕、こう、効率的に何かを決めてやっていくっていうのが、あまり得意ではないみたいなんです。検定も家でちょっとやって、それで合格できたし、勉強もそんな感じで、音楽とか聞きながら家でやるのがやりやすくて。無駄のない緊張感の漂う教室で静かに授業を受けるのが、苦手で」
 皆、和良羽の話を聞いている。
「今、この学校に入って、僕にはこういう場所や時間が必要だとやっとわかりました」
「そうなの? じゃあ、また来ようよ。同所さん、この辺り詳しいし、ここのカフェもいいし、ほかのところも紹介してもらおうよ。毎日通えるのって、紙矢くんたち一年生は三年弱で、俺らはもう、二年、一年なんだから。この学校に来ているから、行きやすいところってあると思うしさあ」
「いいね、行こうよ」
 書道部でのちょっとした息抜きのはずだったが、地元探検の部のような雰囲気になってきたのをセイは感じたのだった。


 不思議なことに、牧場のカフェに行った翌日の部活では、皆、いつもより筆ののりがよかった。
 そろそろ展示用の作成を始めてもいいのではないですか、と質網先生がおっしゃってくださったほどだった。
 そうして計画前倒しで、展示用の書に入った。
 二週間後、それぞれの展示用作品が完成し、そのお祝いにと、また牧場カフェに行った。そうして、その日はプリンを買い、すぐに学校へ戻った。
 職員室に顔を出し、質網先生に部室に来ていただけますか、と声をかける。
 机を皆が向かい合うように並べ、プリンを置く。
 部室にやって来た質網先生に「さっきみんなで買ってきました。どうぞ」と部員みんなで言う。
 質網先生はいつもの厳しい顔のままだが、驚いた様子で目を見開き、「ありがとうございます」とお辞儀した。
 皆が、机の前に正座する。
 背筋を伸ばし、スカートはお尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向き合うように揃える。
「さすが、書道部、お行儀がいいですね。みなさん、立派です」と質網先生がおっしゃった。
「先生でも、そんなふうに褒めることがあるんですね」と先輩が言い、やや、質網先生の表情がひきつった。
 つい、部員は笑ってしまい、見ると、和良羽も笑っていた。
 ああ、今、紙矢くんにとって必要な時間なんだな、と思うとセイは嬉しくなる。
「では、いただきます」と質網先生が言う。
 その声で、プリンの容器に取り付けてあるスプーンを皆が取った。


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