[246]正座のぬれ縁


タイトル:正座のぬれ縁
掲載日:2023/02/12

シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:25

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容:
某善位高校工芸家二年の気瑶(きよう)は、学部長先生のご友人である華道の家元、堂葉さんに出展作品のぬれ縁を買わせてほしいと頼まれる。気瑶は無料でいいと答えるが、後日、堂葉さんより、お弟子さんを集めてのお勉強会とお食事会への招待を受け、和装一式を贈られる。
困惑した気瑶だが、堂葉さんやお弟子さんを前に着物で正座ができないと失礼に当たる、と先生に相談すると、演劇部の一年男子から指導を受けることになり……。



本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。


 某善位高校は、全国レベルのスポーツ推薦クラスのほか、学力テストにより上位三十名で編成された学費免除の特待生クラス、それに次ぐ特別コースの設けられた、一学年二千人を超える、大規模で設備の充実した学校である。そしてもうひとつの特徴が、文系、理系に分かれた普通科の学科のほか、技術系の学科があることである。
 先丁気瑶は、某善位高校の工芸科二年生だ。
 工芸科は昔あった機械学科を一新し、パソコンの最新技術から溶接、木工に至るまでを勉強できる学科で、その充実したカリキュラムと新しい設備、そして進学、就職のどちらでも実績のある科として人気が高く、遠方から通学している生徒も多い。
 通学時は制服だが、授業の大半は学校指定のつなぎの作業服に帽子を被って受ける。
 校内では、スポーツ推薦で入学したスポーツクラスの男子が人気だが、つなぎ姿で校内を歩く工芸科の男子もそこそこに人気があり、そうした男子とともに頑張る数少ない女子も、普通科の生徒からかなりの人気があった。
 気瑶は今年、某善位高校で二度目の文化祭を迎えた。
 文化祭には、桧を使用したぬれ縁を出品した。
 二年生の出品は、ぬれ縁、ベンチや椅子などで、気瑶の出品作はごく一般的ではあったが、個人的に工夫した点としては、ぬれ縁の端に小さな台をつけ、ぬれ縁の中心部には取り外しのできるトレイを設置した。これは、自宅で飼っているパグ犬がソファに上がれなかったことと、ソファでつい横にお菓子の袋を置いて、それをこぼしたり、上に座ったりした出来事がヒントになった。
 作品には、それぞれの学年、クラスと氏名を添付し、文化祭当日は校内を自由に回れる。
 気瑶も友達と、演劇部の発表や、クラスでやっている喫茶店などを回った後に、自分たちの発表の場に戻った。
 すると、学部長先生と、和装の六十過ぎと思われる二人が、気瑶の作品の前に立っている。
 なんだろう、と思い、近づくのを躊躇っていると、「ああ、いいところに来た」と、学部長先生が満面の笑みで気瑶に手招きする。
 この学部長先生は、驚異的な記憶力の持ち主で、一学年二千人を超すこの学校の生徒のほとんどの名前や学科、そして学校活動などを把握している。
 この時も、作品の名を見ただけで学部長先生はすぐに気瑶を呼んだ。
「こんにちは」と、気瑶があいさつすると、「先丁くん、こちら、僕の学生時代からの友達の、堂葉くん。今は華道の先生をしている」と、隣にいる、厳しそうな和装のおじさんを紹介した。気瑶が会釈すると、「このぬれ縁は、出展の後、どうするのですか」と訊かれた。
 意図が理解できぬまま、気瑶は、「持ち帰る予定もないですし、学校のどっかに置かせてもらいます」と答えた。
「それならば、私に買わせてもらえないだろうか」
「ええええ!?」
 気瑶はずいぶんと、驚いた。
「堂葉は、先丁くんの作品をとても気に入って、ぜひ、同じものを作ってほしいと言っていてね、まずは本人に訊いてみたらどうかと話していたところだよ」と、学部長先生が笑って頷く。
「持ち帰っていただけるなら、そのままあげます」と、気瑶は答えた。
「いやいや、それはいけない」と、堂葉さんは首を横に振る。
「……はあ。でも、材料費なんかも学費に含まれていますから……」
「いや、しかしね……」
 納得しかねる堂葉さんに、「まだ学生だから、何かお礼でもそのうちしたらそれでいいんじゃないか」と、学部長先生が助け船を出してくださった。
「そうか……。そうだな。だがね、君は自分の技術や才能を、もっと自覚すべきだ。それは経験の年月ではないのだよ」
「……はあ」
 何やら難しいことを堂葉さんは言い、学部長先生とともに、立ち去った。


 それから間もなくのこと、朝のホームルームで気瑶は担任から、随分と立派な封書を受け取った。
 まるで結婚式の招待状のような豪華なしつらえだ。
 なんだろう、と開けてみると、何やら筆使用の達筆で、厳かなあいさつがしたためられ、次に印字された用紙に時間、場所、そしてまた別の用紙に呉服店の場所と連絡先が記されていた。
 時間をかけて読み返すと、堂葉さんは華道の家元で、この度、門下生が集まり、秋をテーマに先生である堂葉さんがお花を活けるのを見せていただき、勉強する。その会に気瑶はご招待された、ということらしい。そして、それに先立ち、同封された呉服店へ行き、和装一式を揃えるように、お代は全て堂葉さんが持つ、つまり、先日の文化祭で差し上げたぬれ縁のお礼にご自宅の勉強会の後のお食事会へのご招待に加え、その時の衣装として和服をプレゼントしてくださる、ということらしい。
 ……なんだか、とんでもないことになった、ということだけは、気瑶には理解できた。
 こんなことなら、三千円とか、五千円とか適当に言って、お金をもらった方がよほど気楽だった。
 きっと、堂葉さんも、その方が楽だっただろう。
 ああ、自分はなんて面倒な選択をしてしまったのだろう……。
 気瑶は大きくため息をついた。
 気瑶にとっての一大事とは無縁のクラスメイトが、ホームルームの時間であってもくだらない話で馬鹿笑いをして、担任に注意されている。それでも止まらない馬鹿笑いが次第に周囲に広がり、なぜか笑いの発端を知らぬクラスメイトまで、机を叩いて笑う有様だ。何の悩みもなく、笑っていられる全てのクラスメイトが気瑶には無性に羨ましい。
 しかし、今何の気概もなく笑っているクラスの中には注文家具店を代々営む家の子や、匠、と呼ばれる家具職人の元への弟子入りを考えている子は多く、そういう意味で言えば、気瑶は遅れをとっていると感じていた。
 それらと同じではないが、前進といえば前進だ、社会勉強だ、と気瑶は自身に言い聞かせる。
 そうして放課後、やや不安ながら気瑶は一人、駅とは反対方向の呉服店へと向かった。
 呉服店は、気瑶でも知る有名店ではあったが、七五三の時の衣装は兄が作りに行き、気瑶はそれをそのまま着たので、呉服店に足を踏み入れたことすらなかった。入り口横のガラスからは、見事な振袖が見られるようになっている。そして店内には和装用のバッグだの、小物だのが黒塗りの棚に置かれていた。
 学業柄、気瑶は棚を眺め、材質や造りなどを細かに観察した。
「いらっしゃいませ」と声をかけられ、気瑶は我に返り、「お花の堂葉さんからの手紙で……」と、どう説明したものかわからず、堂葉さんの名前だけを出した。店員さんは「承っております」とお辞儀し、気瑶の名前を確認すると、「奥へどうぞ」と案内してくれる。
「はあ……」と、それに続くと、通路の先に畳の上がり框があり、それを囲むように壁一面に様々な和服がかけられている。
 明らかに不慣れな気瑶が、一応学校指定のローファーを揃えて畳に上がり、立っていると、「こちらへどうぞ」と、呼ばれる。
「本日は、お着物をお選びいただくよう、堂葉様より承っております。まず、簡単にサイズの方をお計りいたしますね」
 糊のきいたワイシャツに紺地のしわひとつないズボンの男性は、さすが呉服店の店員といった感じで、気瑶のジャケットを預かると、すぐに無駄な動きなく、メジャーを胸ポケットから出し、採寸に取りかかった。
「とても手足が長くて、身長もおありなので、少し袖と裾をお出しするようになりそうですね」と、笑顔のまま言う。
「ああ、なんか、すみません」と、どう答えたものかと、気瑶は応じる。
「とんでもございません。きっとお着物もお似合いになりますよ」
「……はあ」
 とてもそうは思えないが、気瑶は適当に相槌を打つ。
 採寸が済むと、「何かお着物へのご希望はございますか」と訊かれた。
「何もわからないので、ありません」と気瑶は答えた。
「では、あらかじめ堂葉様より承った、正絹のお着物の中からお選びしてもよろしいでしょうか」
「しょうけん?」と気瑶は訊き返した。
「簡単にご説明いたしますと、まじりもののない、絹だけのお着物のことです」
「絹!?」
 気瑶はつい、大きな声を出した。
 絹といえば、高級品である。
 それくらいのことは、気瑶にもわかる。
 気瑶の中では、浴衣のようなものを買ってもらうものだとばかり思っていた。それでも、気瑶からすれば十分に高価なお返しである。
 それが、けた違いどころではない、絹の着物!?
「だ、駄目です。親に怒られます。汚しても、弁償できません。無理です。帰ります」
 気瑶は顔の前で大きく手を振り、「無理、絶対無理。ない、ない」と繰り返し、後ずさる。
 店員さんはやや困った表情を浮かべ、「では、堂葉様にお訊きしてみましょうか」と提案し、素早く店の子機を手に取った。
 その間にも逃げ帰ろうとする気瑶を目で制しつつ、電話口で丁寧で落ち着いた様子で言葉を交わしている。
 そして、「堂葉様から先丁様に代わるようにと」と、子機を渡す。
 電話口からはすぐに、先日顔を合わせた堂葉さんの声がした。
「やあ、この前はありがとう。あれから、早速こちらで使わせてもらっています」
「いえ、そんな、あの……」
「着物はね、私の方で用意したいと思ったものだから、何も気にしなくていい。もし、気を遣ってくださるのならね、こういう時はうんといい、気に入ったものを選びなさい。本当は反物から選んで仕立ててもらいたかったが、それでは間に合わないのが残念でね。とにかく、気遣いは無用。よろしいですか。では」
 そこで通話は終わった。
 だいたいの内容は理解しているらしい店員さんは、「遠慮なさらず、とおっしゃっていましたか?」と笑顔で尋ね、「では、こちらへお戻りください」と、呆然としている気瑶からするりと子機を受け取り、「お若いですし、背もありますので、こんな色味もよろしいんじゃありませんか」などと、姿見の前に立つ気瑶に次々と着物を着せ替えていく。
 これも素敵ですね、こちらもよろしいかと……、という声を聞きつつ、最終的に薄曇りの空のような淡い紺の無地の着物と、それよりやや濃い同色の無地の羽織に落ち着いた。
 そうして気瑶がお役御免、と思ったところ、次に羽織紐、帯、巾着袋、足袋、草履と続き、ほかに着物の下に着るものなど、一体いくらになるのか考えるのも放棄するような買い物が続いた。
 そうして店員さんはリストを確認した後に、「お着物は後日お受け取りに来られますか? 当日当店にお立ち寄りいただいて、着付けもできますが」と切り出した。
 つまり、当日、ここへ来れば着物を着せてくれるらしい。
「じゃあ、お願いします」と気揺は頭を下げ、どうにかこうにか店を出たのだった。
 まだ日の高い時間に店にやって来たが、店を出た時には完全に日は落ちていた。
 長い一日だった。
 途方もない疲労感で歩いていた時、ふと、気瑶は先日の文化祭で見た演劇部の公演を思い出した。
 なぜ思い出したかといえば、演劇部の演目が時代劇で、出演者は皆、着物だったからだ。
 そして、その出演者たちは演技もさることながら、大層正座や所作がきちんとしていた。
 何気なく、見過ごしそうになるが、ふと立ち上がった時の動作や、小走りになる際の、普段の動きとは違う様子に、気瑶は自然と引き寄せられたのだった。
 今日は、制服の上から簡単に着物や羽織をかけて、気瑶はずっと姿見の前に立ったままだったが、堂葉さんのお宅へお呼ばれする、ということは、つまりは座ったり、立ったり、まあ、長い時間を、あの着物で過ごすことになる。なんだか、とんでもなく気前よく、高級な着物を買ってくださった堂葉さんだが、ということは、着物に精通しているお方であり、そのお方が贈ってくださった着物を粗末に扱う気はなくとも、うっかり転んだり、汚したりすれば、それは堂葉さんの心遣いを踏みにじることになるのではないか……。
 ああ、と気瑶は大きくため息をつく。
 だったら、制服で伺います、と着物をお断りすればよかった……。
 今からでもそうしたいが、付きっきりで、これにしましょうか、こちらはどうでしょうか、と採寸後さまざまな着物から、気瑶に合うものを選んでくれたあの店員さんを思い出すと、それもできなかった。


 翌日、気揺は担任の先生に、正座や所作についての相談に行った。
 事の次第を知っている担任は、うーん、と考えた後、ちょうど職員室を出て行くところだった一年の男子生徒を呼び止めた。
「ちょっと、勇秀くん。頼み事があるんだけど」
「なんでしょう?」
 気瑶はふと、見覚えのあるこの一年生は誰だったか、と首を傾げる。
「君、演劇部だったよね?」
「はい」と、短く頷く。
 そこで、ああ、この一年生は照明係をやっていた、と思い出したのだった。
 劇が終わった後、大道具を運び出している様子を眺めている時に、この一年生が前を通りかかったのだ。
「演劇部は出演者以外も全員が正座と所作を勉強したって聞いたけど」
「そうです」
「こちらの先丁くん、今度有名な華道の家元の先生のお宅に、着物で伺うことになってね、全然正座もできてないから、ちょっと教育を頼んでもいいかな?」
「……構いませんけど、僕今、部の脚本を書いているので、その合間でしか時間が取れませんけど」
「ああ、全然構わないよ」と担任は頷く。
「あと、その見返りといってはなんですが」
「何かな。僕のポケットマネーなら期待しないでね」
「しませんよ。次の劇の大道具、少し協力してもらえませんか?」
「いいよ、好きに使いな」と、担任は視線を気瑶に向ける。
 この一年生に世話になるとも、演劇部の大道具作りを手伝うとも、気瑶は言っていないが、話は勝手に進んでゆく。
「じゃあ、後はよろしく」と言い、担任は小テストの採点作業に戻った。
「行きましょうか」と勇秀くんに言われ、「はあ」と気瑶はそれに続く。
 勇秀くんは職員室を出ると、すぐに渡り廊下にある自習用の机に鞄からノートパソコンを出して起動させ、その隣に参考書を三冊ほど置いた。どの参考書にも何枚もの付箋が貼ってある。その付箋の所を勇秀くんは確認し、着席した。なんとなく、気瑶が隣の席に座ると、「何してるんです?」と勇秀くんは起動したパソコンのキーをものすごい速さで操作しながら言った。
「いや、勇秀くんの用事が終わるのを待ってろってことだと思って」と気瑶が困って答えると、「僕を待っていると、八時過ぎますよ」と言い、「背筋を伸ばして。足の親指同士が離れないように。手は膝と太ももの間でハの字に置く。脇はしめるか軽く開く程度に。膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらいで。ああ、それからスカートの場合はお尻の下に敷くように。これも正座を学ぶ時に大事なので」と早口で説明した。
 つまりは、今、この場でご指南してくださる。
 言い換えれば、生徒が常に通り過ぎる、この職員室前の廊下で、ほぼ初対面の一年生の元、正座をするということだ。
 激しく誤解を呼びそうだが、勇秀くんは場所も教え方も譲歩するつもりはないらしい。
 ……致し方ない。
 そう腹を決めた時、ぽいっと小さなパッケージを渡された。
 見るとウェットティッシュだ。
「一応、人の歩く場所ですから、よかったらどうぞ」
「……ありがとう」
 だったら、初めから座るべき場所で教えてくれればいいものを。
 親切なのか不親切なのか、さっぱりわからない。
 ささっと座る場所を清め、気瑶はその場に正座した。
「背筋が伸びていません」
 ちらり、と気瑶を見て、勇秀くんが注意する。
「はい」
 思い切り背筋を伸ばす。
「膝が離れすぎています」
「はい」
「足の親指同士、離れていますよ」
「はい」
 そこまで直したところで、勇秀くんはふいに立ち上がり、「先生」と科学教師を呼び止めた。
「はい、どうしました?」
「ここ、ちょっといいですか」
「いいですよ」
 そんなやり取りの後、科学教師は職員室に入り、すぐに出て「これから部活なんですよ」と勇秀くんに言って、小走りに去って行った。
「また背筋が伸びていません」
 一瞬、あの科学教師に向かって言ったのかと思ったが、気瑶への注意だった。
「……はい」
 勇秀くんは再びパソコン画面に視線を向けた。
 途中、騒がしくやって来た演劇部の女子部員にその場で台詞の練習をさせ、勇秀くんは「もう一度」を繰り返し、その女子部員が怒り爆発の直前でオーケーを出して解放した。
 その間廊下を通った生徒は、机に向かう勇秀くんの前でひたすら同じ言葉を大声で繰り返す女子と、その横で瞬きもせずに正座する気瑶とを見て、一体何をやっているんだろう、というような不思議な顔をしては立ち去って行ったのだった。
「今日はここまでにしましょう」という言葉で我に返ると、勇秀くんが気瑶を見おろしていた。
「帰るの?」と気瑶が訊くと、「僕はまだここでやることがありますから」と言う。
「お呼ばれしている会は、いつですか?」と訊かれ、気瑶が「来月です」と答えると、「自宅で正座する習慣をつけて、あと数回はこちらで見た方がいいでしょう。僕は大抵放課後はここにいるか、演劇部にいます」と続けた。
 ……要するに、これで終わりというわけではないらしかった。
 まあ、気瑶がうまく正座ができようが、できなかろうが、この勇秀くんにとってはなんの利害も発生しないわけである。
 そう考えてみると、冷たく見えるが、なかなかに責任感がある人らしい。
「どうもありがとう。お先に」と言い、気瑶はその場を去った。


「もっと本気で踏み込んで、まだまだ、まだ踏み込める!」
 気瑶が演劇部の部室に近づくと、中から厳しい叱責が聞こえて来る。
 どうしたものかと思いつつ、控えめにノックし、戸を開けると、スパーン! と小気味良い音とともに、先日勇秀くんの前で台詞を繰り返していた演劇部員の一年女子が剣道の道着に素足、髪をひとつに束ね、台本を手にした目の前にいる勇秀くんの額を思い切り、新聞紙で作られた棒で打ったところだった。
「……日ごろの私情、入ってなかった?」と勇秀くんは額を撫でながら冷静な視線を女子に向け、女子はすっかり曲がった新聞紙の棒を眺めながら、「まさか。本気で踏み込めっていう、監督の指示通りにしただけですよ。第一、私情で恨むことなんて、そんなの言い出したらありすぎて、とてもこんな紙の棒じゃあ足りないですよ」と、白々しく笑う。
 三年生が「頼もしい限りだよ。これだけ熱心な指導と演技なら、当日が楽しみだね」と、やや無理矢理感を抱かせるとりまとめをし、「勇秀くんのお客さんかな」と、気瑶に皆の視線を集めさせた。
「ちょうどよかった。これから一端、正座の練習に入るところだから」と、勇秀くんは前髪を直しながらやって来た。
「これから?」と気瑶は尋ねた。
 もしかしたら、気瑶のために予定をずらしてくれたのかもしれない、と考え、お礼を言うべきかと迷う。
「そうだよ。こうやって疲れる演技指導をした後は、みんな一度、冷静になる機会が必要で、その時に作法も一緒に学べば合理的だからね」と、勇秀くんは軽く頷く。
 こうしてこの日は演劇部員とともに、正座をすることになった。
「背筋を伸ばして。親指同士離れないように。女子は座る時、スカートを広げずお尻の下に敷くのを忘れないように」と、簡単な注意事項とともに、正座が開始される。
 ここへ来てよかった、と気瑶は第一に思った。
 ほかの人の真っ直ぐに伸びた背筋を見ているだけでも、十分に気を引き締められる。
 足がしびれるのはまだ続いているが、それでも当初の一か所に気を取られると、ほかの箇所で注意が入る、ということもなくなってきた。
 どのくらいそうしていたのか……。
「今日はここまでです」という部長の声がし、気瑶がふっと気を抜いた時だった。
「一大事でございます!」という甲高い声が響き、びくり、と気瑶が肩を揺らすと、あの道着の女子がさっと立ち上がり、そのまま走り出し、部室を飛び出して行った。
 一体何が起こったのかと気瑶が開け放たれた部室の扉を眺めていると、すぐに道着の女子が戻って来た。
「うん、だいぶ感じはつかめてきた」と、勇秀くんが冷静に頷く。
「演技でね、正座をしているところから急な報せを受けて走り出して、舞台に登場、という場面がなかなか現実味が感じられないっていうので、実際に正座をした後に走ってみる、というのを今はやっているんだよ」と三年生が気瑶に説明してくれた。
「……そうなんですか」と、気瑶は戸惑ったまま、頷いた。
 演劇部の練習というのが、どこもそういうものなのかはさっぱりわからないが、何やら極めようとしている気概は感じられた。
「……ところで、大道具の協力って何すればいいんですか」と、来たついでに気瑶は尋ねた。
 大抵のものはこの学校の設備で作れるが、いくつもの工程があるものだと、時間もかかるし、設備を使用するのに一応先生に許可を取らなければならない。
「ええと、」と部長はちょっと考え、「今ある大道具を実際見てもらった方がいいですかね」と提案した。
「ああ、その方が」と気瑶が頷き、部の練習が続行される中、気瑶は部長とともに教室の端へと移動した。演劇部で使用する道具の置かれた場所と、役者が練習する場所とは古い木製の本棚で区切られていた。
 本棚には、台本や演劇に関する資料、メイク道具が仕舞ってある。
「こっちが衣装で」と部長が示した方には、スチールのハンガーラックとプラスチックの衣装ケースにぎっしりと衣装が収納されていた。
 その横にある衣文掛けに着物がきちんとかけられている。着物は何枚もあり、更にこの前気瑶が呉服店で見た、和紙に包まれた長細い包みがいくつも衣装ケースの上に重ねられていた。多分、帯を包んで保管しているのだろうことが気瑶にはわかった。
「大道具が、こっち側です」と言う部長の言葉で、気瑶は衣装の置かれた場所から視線を移す。
 教室後ろの壁側に、数センチの高さの大きな台や、木製の箱型のもの、その奥に背景用のベニア板があった。そして手前に括られた長い竹の束が立てかけられている。
「お願いしたいのは、これなんです」と部長は竹を指す。
「これは、どうしたんですか」と気瑶が訊くと、「ホームセンターで買いました」と言う。
「はあ」と気瑶は頷き、真っすぐな竹の束を眺めた。
「これで、腰の高さくらい、横は一メートルくらいの竹垣を作ってもらいたいのですが……、できますか? 本当は出来上がっているものを買おうと思ったのですが、予算を削れるところは削りたいのと、自分たちでなんとかなるかな、と思ったものの、なかなか手が出せずにここまできてしまって……」
 俯く部長に「できますよ」と気瑶は答えた。
 これなら溶接も必要ないし、一人で作れそうだった。
「本当ですか?」と、部長は大層喜んでくれた。
「うち、脚本家と役者の希望は多いんですけど、舞台を作りたいって希望者がいないんで、毎回背景の絵を場面ごとに描いてベニア板に貼って、それをめくっていくっていう手法だったんですよ。だけど今回は、手前に竹垣がほしくて、すごく助かります」
 この会話がキッカケで、気瑶は舞台の制作を学ぶ学校や、そうした仕事があることを初めて知ったのだった。


 正座の指導を受けながら、気瑶は竹垣を完成させ、あっという間に堂葉さんのお宅に伺う日になった。
 午前中に呉服店を訪れ、着付けをしてもらい、着ていた服や靴は紙袋に入れてもらった。紙袋を提げて駅へ行き、ロッカーに入れた。黒の巾着袋はいらないのではないか、と思ったが、携帯や財布、学業柄たまに使う小さなノートとペンを入れるのに、大層役立った。
 気づけばずいぶんと人目を引いたが、秋という季節柄、七五三で両親、子どもとが和装ででかける家族連れを何組も見かけたので、自分もそういったうちの何かだと周囲は思うだろう、と気瑶は考えた。
 今度は駅ビルに入り、母親に指定された和菓子店で五千円札を出し、気瑶自身は食べた記憶すらない高級菓子の詰め合わせを買った。
 その袋を提げ、タクシーで堂葉さんのお宅へ向かう。
 着物やお花のお勉強会に関して、案の定気瑶の家族は驚愕し、遠慮すべきだと言ったが、そうした事態を予測していたかのようなタイミングで学部長先生から電話が入り、事の次第が学部長先生の口から伝えられたのだった。そういうことなら、と家族は複雑な顔をしつつ了承したが、とにかく失礼がないように、と繰り返した。そして、菓子折代とタクシー代を渡された。
 堂葉さんのお宅は駅からすぐの閑静な住宅街の一角にあった。
 古いお屋敷だったが、広大な敷地を囲む外壁から松の枝が伸びた門に至るまで、よく手入れされているのがわかる。
 インターフォンを押すと、すぐに返答があり、門まで堂葉さんの奥さんと思われる和装の女性が現れた。
「今日はありがとうございます」と、実に美しい礼をする。
 気瑶は慌てたが、「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」と、事前に用意していたあいさつをしてお辞儀した。
「いえいえ、そんな大層なものでもございません。いつもいらっしゃる生徒さんたちを集めての簡単なお勉強会ですから、楽になさってくださいね」と、和装の女性は物腰柔らかに返す。
「……はあ、いえ、」と、曖昧に返事をする気瑶に、「今日はほかにご用事などなかったのかしら。学生さんはお忙しいでしょう。ご無理なお願いをした上に、こんなふうにご足労いただいて……」と続ける。
「そんな、とんでもないです。本当にありがとうございます」と気瑶は頭を下げた。
「お礼を申し上げるのは、こちらですよ。ささ、どうぞ中へ」と勧められ、趣ある庭園横の飛び石の先にある母屋へと恭しく案内された。
 引き戸の玄関は、その扉も大きく、上がり框の前には石の沓脱が置かれ、大層威厳と風情があった。その玄関内には、きれいに草履と革靴が並べられている。ざっと二十名以上が来ている、ということだろうか……。
「お邪魔します」と気瑶は礼をし、草履を脱いだ後、膝を揃え、袖に手を添えて草履を揃えた。この一連の動作は、演劇部の文化祭での公演で役者が行っていた所作で、たまたま覚えていたことが役に立った、と気瑶は演劇部に感謝したのだった。そこで、先に渡すべきだった菓子折の存在に気づき、「あの、よろしかったら召し上がってください」と差し出し、「どうかお気遣いなさらずに。ご丁寧にありがとうございます」と受け取ってもらい、ほっと胸をなでおろす。
 そうして、すぐに奥の間へ通されると、広い座敷にお弟子さんと思われる、およそ、三十代から六十代くらいの和装かスーツの方々が並べられた座布団に正座していた。気瑶は周囲に会釈し、そっと着席した。
 隣に座っているご婦人は「新しいお弟子さん? とてもお召し物が似合ってらして」と気瑶に笑いかけた。
「いえ、僕はお花のことは全く……。お着物も先生に用意していただいて来ました」と、正直に答えた。
 二人の会話は静かな和室に響いており、内容は先生のお弟子さん全員に聞こえているはずだった。
 だが、こうした品ある場だからか、気瑶を振り返ることなく、皆、正面を向き、背筋を伸ばして正座の姿勢を崩さない。
 気瑶はふと自身の正座を見直し、背筋を伸ばした。
「それはそれは……。よほど先生に見込まれたのですね。先生は本当にお若い頃よりお花も学業も、優れたお方で、その分余裕があるというのかしら。周囲にも親切でしたけれど、決して嘘をつかないお方でもあるんですよ。こんなふうにお弟子さんの集まる場にお呼びして、お召し物もご用意されて、そんなこと、長く先生のもとで学んでおりますけれど、初めてのことですよ」
 ……このご婦人が嘘をついているとは思えなかった。
 しかし、そのまま額面通り受け取るのは、さすがに憚られた。
 堂葉さんとの経緯をどう説明したものか、と気瑶が思っていると、その堂葉さんが登場した。
 秋を意識した、深い紅葉のような色の着物に、緑色の羽織だ。
 場の緊張が一気に高まるのがわかった。
 気瑶は再度背筋を伸ばした。


 もう、何がすごいのかわからない世界で、ひたすら正座をして耐える場だと覚悟していたが、気瑶は堂葉さんの活ける花にすっかり見入ったのだった。
 勉強会の後、堂葉さんはお弟子さん一人一人と言葉を交わし始めた。
 堂葉さんとの短い会話が済むと、お弟子さんたちは、多くが自家用車で乗り合わせて来ていたようで、飛び石から玄関へと続く門とは別に自動で開けるシャッターのついた広い駐車場へ行くというのが、お弟子さんと、玄関でお見送りをする堂葉さんの奥さんとのやり取りから伝わってきた。先ほど気瑶に声をかけてくれたご婦人も、前方に座っていたスーツの男性の車に乗せてもらうようで、「また、後でお話いたしましょう」と気瑶に声をかけて、玄関へと向かって行った。ご婦人に「はい」と返事をしたものの、車で行かなければならないのなら、ここでお暇しようと思い、その前に今日のお礼を伝えるため、気瑶はお弟子さんたちに囲まれている堂葉さんを少し離れたところで待った。
 そして、その間に、つい気瑶は立派な梁や、木製の引き戸に見入った。
 開いていた木製の引き戸の向こうは打って変わった洋間で、庭に面した大きな窓があり、その先には気瑶が文化祭に出展したぬれ縁があった。
 まるで、この家のためにしつらえたかのようにしっくりと馴染んでいる。
 そして、そのぬれ縁に気瑶が取りつけたトレイの部分にパックのジュースが置いてあり、端につけた台には、小さな靴がひとつは真っ直ぐに、もう片方は横に転がっていた。……ついさっきまで、小さな子がそこにいたのが感じられる、とても温かく、優しい情景だった。
「久しぶりの作品との再会はいかがですか?」と声をかけられ、振り返ると、「お待たせしました」と、堂葉さんが立っていた。
「あ、今日はご招待いただき、ありがとうございました。お礼が遅れましたが、お着物まで……」と、気瑶は慌てて頭を下げた。
「とにかく似合うよいものを、とお願いしたんだが。よかった、よかった」と、堂葉さんは頷いている。そしてポラロイドカメラを手に、「作品との写真を撮りましょう」と提案する。
「え、あ、はあ」と気瑶が曖昧に頷いていると、「おやおや、これは失礼」と、洋間のガラス戸を開け、パックジュースを手に取る。
「あ、あの、撮っていただけるようでしたら、そのままで!」と、気瑶はそれを留めた。
「……その、とても、幸せな感じがして、僕は好きな状態です」
 驚いた顔をした堂葉さんは僅かの間を置き、「そうですか」と柔らかく、柔らかく微笑んだ。
「今日もお弟子さんたちが来るまで、孫がここで遊んでいてね」
「そうなんですか」と、気瑶は相槌を打つ。
「じゃあ、撮りましょう」と言い、いつの間にか堂葉さんの奥さんが二人の草履を持って来てくれ、そのまま庭へ出て、まず作品だけを撮り、次に気瑶と作品を、気瑶と堂葉さん、それから気瑶の希望で堂葉さんと奥さんとを撮ってもらった。ポラロイドでの撮影は、どれも二回ずつ行った。カメラから出て来た写真は、堂葉さんご夫婦と、気瑶とで分け、写真はこれまた和紙の趣ある封筒に入れてくださったのだった。
「本当に今日は何から何までありがとうございました。……何もお返しできなくて、申し訳ないですが、お礼だけは精いっぱい伝えさせてください」と、気瑶は頭を下げた。
「まあ、ちょっと座ろう」と、堂葉さんは気瑶が進呈したぬれ縁に促し、手際のよい奥さんがお孫さんのジュースと靴を片付け、お茶をお盆に載せ、ぬれ縁に取り付けたトレイに置いてくださった。もう、ほかのお弟子さんたちは食事の場所に到着しているのではないか、と気瑶は心配したが、「みんなには、先に始めておくように言ってあるから心配ない」と、それを察したように堂葉さんは言った。
 その食事の辞退を伝えようと思った時、「先丁くんは、この先、こうしたものづくりで生きて行こうと考えているのかな」と訊かれた。
 気瑶は「そうですね。具体的なことは全く考えていませんが、そうできたらいいと思っています」と答えた。
「目標があるのなら、もっとしっかりなさい」
 強く、力のこもった口調だった。
 気瑶は驚いて堂葉さんを見た。
 堂葉さんは正面を見つめたまま、続ける。
「いつか……、そういう考えを私は否定しません。しかし、より夢を現実に近づけるためには、今からできることはある。そして、それをやっておくことは決して無駄ではないと思う」
「はい」と、気瑶も視線を正面に戻し、頷いた。とても真摯な心もちだった。
「私は、先丁くんの勉強する分野は全くわからない、素人だ。だが、よいと思う、その直感には自信がある。うちで使う花器も、大学の学生さんの作品を学祭で見つけて、買ったんだ。それから、その学生さんが独り立ちするまで、長い時間がかかったけど、ずっと私はその陶芸家の顧客にしてもらっている。つまりね、私は先丁くんのものづくりに特別さを感じた。この先も顧客として、長い付き合いをさせてほしいと思っている。今回、こんな堅苦しいところへわざわざ呼んで、申し訳ないとは思ったが、こういう、世代の異なった顧客が高校生の頃からすでにいる、ということは、この先、先丁くんが進学するにしろ、就職するにしろ、いつか独立するにしろ、微力ではあるが、助けになるのではないか、と思ってね。……私の伝えたいことは、わかってもらえただろうか?」
 そう締めくくり、堂葉さんは気瑶を見た。
 気瑶は大きく頷き、改めて頭を下げた。
 ああ、自分は何もわかっていなかった、と気瑶は思った。
 堂葉さんのお礼は、高級な着物でも、格式高いお花の勉強会でも、この後の豪華であろう食事会でもなかった。
 気瑶の才を見出し、それを自覚させ、その力を少しでも光の方へと導くための手助けだった。
「すみません、あまりに立派な世界を前にして、堂葉さんの本当の心遣いを見誤っていました」
 気揺がそう言うと、「まあ、和服を持っていることも、お花のこうした会に出てみるのも、先丁くんがこの先どんどん脚光を浴びるようになった時に少しは役立つこともあるでしょう。ああ、そうした時には、今度こそ反物から選んでしつらえた着物を贈らせてもらうよ」と、堂葉さんは笑った。
「いえいえいえ、本当に、もう」と、気瑶が慌てて固辞する。
「だから、そういうことは何も気にしなくていい。それにね、この先、また先丁くんの作品と幸運な出会いをした時には、私を顧客の候補に入れてほしい。ほかの客より優先してほしいなどと、野暮は言わないから、その点は安心してほしい。そして、もちろん、その際にはそれ相応のお代はお支払いする」
 穏やかで、けれど揺るぎのない眼差しだった。
 気瑶は深く、深く感謝し、「よろしくお願いします」と頭を下げたのだった。


 その後、草履から靴だけを車内で履き替えた堂葉さんの運転する高級外車に乗せてもらい、ついた先の食事会の席で、気瑶は高校生ということで、お弟子さんたちからは、子ども、或いは孫のように親しまれ、さまざまな料理を勧められ、学校生活などの質問を受け、ほぼ食事会の中心的な存在になり、結果的に大層楽しい時間を過ごしたのだった。帰りも堂葉さんに駅まで送っていただき、食事会の店で持たせてもらった土産の菓子折まで提げて帰宅したのだった。
 学校では、演劇部の大きな低い板、平台というものが傷んでいるのに気づいて補修しておいた。
 部員が慣れない手つきでベニア板を切っているのを見て手を貸した。
 そうして、正座の指導を受ける期間が終わっても演劇部に出入りするようになった気瑶は、部長から、「出られる時だけでいい」と、演劇部に誘われ、そのまま入部した。舞台美術というのがどういうものか、と思っていた気瑶には、新たな分野を学ぶ機会でもあり、またほかに大道具の担当がいないことから、自由な発想で作っていけるのもよかった。
 気瑶の高校生活はまだ続き、進路もはっきりとはしていないが、それでも未来、というものが明るく、そして地に足をつけ、踏み出していけるものとして考えられるようになったのだった。


あわせて読みたい