[407]正座で気分転換しませんか?
タイトル:正座で気分転換しませんか?
掲載日:2026/03/28
著者:海道 遠
イラスト:鬼倉 みのり
あらすじ:
ある夜、愛亜(まのあ)という十代の少女がクラブで踊りまくっていた。
夜明けまで踊って倒れているところへ、見知らぬ青年が現れ「正座で気分転換しませんか?」という。
すぐに足首を冷やす氷入りのバケツを用意して足を突っこむ。十分足が冷えてから自分も足を冷やし、正座の正しいやり方を教えてどこかへ消えた。


本文
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第一章 夜明けのクラブ
音の氾濫の中にいた。
音にまかせて踊りまくり、まわりの影にあわせて身体をくねらせ、汗が飛び散る。真っ赤なライト、青いライト、金色のライト、身体を貫かれる。履きなれない高いヒールで足が痛い。刺されたように痛い。
それでも踊り続けた。髪を振り乱し、化粧も汗で流れてしまおうがかまわずに。
どのくらい時間がたっただろう。
クラブのホールは静まり返っていた。床には紙ふぶきが散乱している。あれほど眩しかったライトも眼を閉じていて、もやもやと生暖かい空気だけが沈殿していた。
ソファから上半身を起こそうとした愛亜(まのあ)は、汚れた空気より重い身体を感じた。そして心も。
いくら踊り狂ったって、心の痛みが癒えたわけではない。
ステージの上に音もなく背の高い人影が立った。青年だ。
けげんな目を向けた時、ステージから声がぼそりと聞こえた。
「気分転換に正座でもしませんか?」
「―――はあ? なに言ってるのよ、あなた。ご覧のとおり踊り疲れて立てないのよ。正座なんてできるわけが――」
青年は素早くステージを降りてきて、愛亜の足を持ち上げた。
「ちょっと失礼」
「アイタっ」
「待ってなさい」
半泣きの愛亜を残して青年は楽屋からバケツを持ってきた。中には氷の塊と冷水が入っている。
「足を冷やしなさい。踊りすぎで腫れてるぞ」
両足を突っこまれた愛亜は、さっきとは別の悲鳴を上げた。
「ひゃあっ」
バケツから抜こうとした足を青年の手が握っていて、愛亜は三度目の悲鳴をあげた。
「なにするのよっ」
「慣れない高いヒール履くから、足首が腫れあがってる。冷やさないとダメだ。これから俺も冷やす」
青年はそう言って、もうひとつ氷の塊の入ったバケツを持ってきて靴下を脱ぎ、バケツに足を突っこんだ。
「ちょっと俺も調子に乗りすぎたかな」
青年のつぶやきが聞こえると、後は静寂が戻ってくる。
愛亜の足は氷水に冷やされて感覚がなくなった。
「どれ」
青年がバケツから自分の足を抜き、愛亜の足もバケツから抜いた。
足首を握ってみてから、
「床に正座しなさい」
「正座?」
「そのままじゃ足首が腫れあがるぞ。正座で気持ちも足首も落ち着けるんだ」
「正座したら、よけい足に負担がかかりそうじゃないの」
「だまされたと思ってやってみな。俺もやるから」
愛亜はぶつぶつ文句を言いながら床に座る準備をした。
「その前に……」
青年は愛亜の足首を自分の膝の上に持ち上げた。
「何するのっ」
「しばらくじっとして。手当するから」
「手当? どこも悪くないよ」
「心がささくれ立ってるだろ」
大きな手のひらが愛亜の疲れた足首をゆっくりさすっていく。じっくりと「痛みよ、取れなさい」と言うみたいに。
最初は驚いたものの、愛亜はじっとしていた。
しばらくマッサージした後、青年は愛亜の足を下ろし、「さあ、正座しようか」とにっこりした。
「すねを床につき、背筋を真っ直ぐにして、スカートの裾をお尻の下に敷いて。かかとの上にゆっくり座る。そうだ。顔を上げて。鼻筋からおへそまで一直線になるように。両手は膝の上に自然に置いて」
愛亜は言われる通りに順序よく正座した。
「そう、しばらくそのままで。足首の感じはどうだ?」
「まだ冷えてるから、よく分からない」
隣に青年も正座した。修行僧のようにピシリとした美しい正座だ。
「踊った後は。やはりこれに限る」
「そ、そう?」
「特に女の子はヒールの靴を履いてるから、足が疲れる。正座すると曲がっていた足首が矯正されるかたちになるから、足にいい効果をもたらせるんだ」
しばらくして正座をやめると、足がすっかり楽になっていた。
もう夜明けが近い。青年はいつの間にか姿を消していた。
第二章 早朝の公園で
樹々を片っぱしから木刀で殴りつける。朝のひんやりした空気を断ち切るように。
樹の幹に何度も何度も殴りかかり、植木の葉を散らし、花壇の花々を散らす。
「でやあっ」
愛亜はそうしなければ気がすまなかった。
池に走り寄っては、水面を叩いてアヒルの群れを驚かせる。
長い毛先から汗が飛び散り、セーラー服は汗で背中にくっついている。
ようやく大きな樹にもたれかかった時、肩で息をしていた。
犬の散歩に通りかかった主婦が、急いで回れ右をしてコースを変える。それほど彼女は殺気立っていた。
背中合わせのベンチから、いきなり声がした。
「君、正座で気分転換しない?」
愛亜はびくっとして樹から飛びのいた。
長身の大学生らしき青年が背後のベンチから立ち上がった。
「さ、そんな物騒なもの、手から離して」
木刀のことを言っているのだ。愛亜が木刀を握る手を見ると、血がにじんでいる。
「ちょっとやりすぎたかなあ」
がらん、と芝生の上に木刀を投げ出した。
「正座で気分転換しませんか」
青年が唐突に言った。愛亜は顔を上げた。
「あんたは、この前の」
先日、クラブで踊りまくって伸びてる時に、同じ言葉をかけてきた青年ではないか。
「正座で気分転換なんてできるわけないじゃないの。よけい緊張するわ」
「この前もできなかった? クラブで」
「やっぱりあの時の」
「なんだか、あの時も乱れてたね。ヤケになって踊りの嵐に身をまかせていた」
「放っておいてよ」
「できないね。これだけ傷つけられたんじゃ樹がかわいそうだ。正座して気持ちを鎮めてもらおう」
愛亜は青年を睨んでから、散らかった公園を見渡しため息をついた。
「やれやれ、正座するか」
「その前に手当だよ」
青年は愛亜をベンチに座らせ、自分は立ち上がって彼女の両腕をさすり始めた。
(不思議に心が落ち着いていく――)
「さあ、芝生の上で正座しよう」
この前と同じく言われる通りに正座してみると、緊張感よりも癒される感じの方がまさっていく。
木刀で樹に当たっていた激しい心が鎮まっていく。そればかりか、傷ついた樹の幹を見て、申し訳なかった気持ちまで湧き出した。
(ごめんね、あんたたちは何もしていないのに)
涙がこぼれ落ちた。
「樹や花に謝ったのかな」
青年が微笑んだ。
「落ち着いたようだな。さ、俺は行かなきゃならない。君もこれから学校だろ。ちゃんと行きなさい」
「あ、もう行ってしまうの?」
「ああ、これでも仕事があるんでね」
「今日の帰り、ここで会えない?」
愛亜は自分でも驚くようなことを口にしていた。
第三章 夕方の公園で
見覚えある人影が近づいてきた。
初夏なのでまだ明るい。公園にはまだ子供の声がする。
「すみません、時間作ってもらって」
愛亜はガバと頭を下げた。朝のざんばら髪ではなくちゃんと三つ編みにしている。青年は笑顔で答える。
「いや、大丈夫だよ。で、俺に何か?」
「私、栗原愛亜と言います。二度もお恥ずかしいところを見せちゃってすみません。それに手当と正座をさせて下さってありがとうございます」
「……悩みが多いようだね。君のような年頃は仕方ないよ」
「……私の悩み、聞いて下さいますか? ええと……」
「ああ、俺は神崎志郎。いいよ。君みたいな若い娘の悩みが解決するかどうか分からないけど」
「神崎さん。聞いて下さるだけでいいんです」
すがりつくように愛亜は言い、青年の茶色の瞳を見つめた。そして芝生の上に正座して頭を下げた。
「親友と別れてしまいました。もう修復はききません。それが原因で成績がガタ落ちしてしまい、両親に叱られました。無理言って進学させてもらった高校なので申し訳なく思っています。趣味や心の癒しがひとつもないことに気がつきました。それらが一時に押し寄せてきて、あんな風に爆発してしまったんです」
ベンチに座りなおした愛亜は、ぽつりぽつり話した。
「いっぺんに押し寄せたのは、辛かったね。言いたいだけ存分に言いなさい。俺も受け止めるから」
「ほんとう?」
涙があふれ出した。今まで我慢してきた涙だ。
子供みたいに、おんおん声を出して泣き始め、半時間くらい止まらなかった。しまいには志郎の胸で泣き出したので彼は慌てた。
公園にいた人たちに、
「あ、あのう、僕が泣かせたんじゃないですからっ」
言い訳しながら、愛亜の涙ごと抱きしめ続けた。
そろそろすみれ色の夕闇が濃くなってきた。
「愛亜さん、よかったら僕の仕事場へ来るかい? まだ何人か残ってるはずだから」
「お仕事場へ?」
「ここから歩いて五分くらいだから」
志郎の後をついていくと、住宅街の真ん中だ。そろそろあちこちの家に灯りがともり始める。
「ここだよ」
志郎が足を止めたところは、「よろず工房」という看板がかかっていた。
普通の住宅と変わりない。入ってみると玄関に大きな下駄箱があり、奥の部屋からざわざわと人声がした。
志郎に勧められるまま、スリッパに履きかえて部屋に入ると数人の男女がそれぞれの作業をしていた。
「人形がいっぱい……?」
「彫刻とか、木材の看板や金属の看板も扱ってるけどね。いろんな材料を元にいろんなものを作っている」
「志郎さんは?」
「これだよ」
かぶせてある白い布を取り去ると、和服で正座している女性の人形だった。
「行儀作法教室からの注文なんだ。それで正座に興味を持ち始めて、自分で習ってみたり、調べたり。着つけ教室まで見学に行ったり」
「それで正座を私に勧められたんですね。この人形は主に何の材料で作られているんですか」
「それには答えない方がいいんじゃないかな。興ざめしてしまいそうだから」
等身大の人形が、本物の着物を着て伏し目がちに正座している。まるで生きているようだ。背筋は美しく一本通り、かかとの上に美しく座っているさまは、さすが正座の見本だ。凛々しく隙がない。
愛亜は飽きることなく眺めた。
「今まで正座ってあんまりしたことなかったけど、よく見ると凜として美しいですね」
「昔、大陸から渡ってきた文化らしいけど、今では日常では日本だけの座り方らしい。韓国では結婚式でお相手を迎える時の座り方だと聞いたことがあるけど、あちらも結婚式場とかが主流になりつつあるだろうね」
「日本だけの……。もし、こんな完璧な正座で頭を下げたら、別れた親友は許してくれるかしら」
愛亜の瞳はすっかり人形に奪われていた。
「どんな事情かは分からないけど。そうだ、この人形を教室に搬送する時に見に来るかい?」
「いいんですか、ぜひ!」
こうして愛亜は人形を教室に搬送する時に見せてもらえることを、人形作家の神崎志郎と約束したのだった。
第四章 人形のモデル
教室では、行儀教室師匠の佐取みずほが待ちかねていた。トラックの荷台から梱包された人形を下ろす作業から家の中へ運ぶ作業まで、みずほ師匠が見守った。
作業は入念に人形に傷がつかないよう注意して行われた。
人形が床の間に置かれる。トラックから床の間まで、神崎志郎と愛亜もしっかり見守った。
床の間に据えられた人形はお披露目される。
白い布が取りはらわれた。
「まあ、なんて素晴らしいお人形!」
大人の貫禄十分な師匠だが、思わず手を打って喜んだ。心は無邪気な人らしい。
その人形は博多人形のような丸みを帯びて、美しい正座をしていた。肌の布も、着物も髪も、ひと針ひと針、志郎が心をこめて縫ったものだ。
搬入がすむと生徒たちが集まり始めた。
「まあ、なんて素敵なお人形」
「正座している様子が生身の人間みたい」
生徒さんたちはため息をつくばかりだ。
「この人形のモデルさんは?」
「本条紗貴子さんよ」
「道理で。お美しいはずねえ」
「噂をすれば、紗貴子さんよ」
あやめ柄の小紋の着物を着た、華やかな目鼻立ちの美人が入ってきた。
「先生、お人形の完成、おめでとうございます」
紗貴子という女性は師匠に丁寧に挨拶した。
とたんに、愛亜が慌てて席を立った。玄関へ走っていく。志郎は気づいて後を追った。
第五章 紗貴子
「どうしたんだ」
志郎の足音が背後から近づいてきた。
「ご、ごめんなさい」
「どうしたんだ、真っ青だよ」
志郎は側のベンチに座るよう、勧めた。
「すみませんでした。ご心配をおかけして。実は、さっき教室に入って来られた方が、私の喧嘩別れした元の友人なんです」
「人形のモデルをしてくれた本条紗貴子さんかい?」
愛亜はこっくり頷いた。
「まさかこんなところで再会するとは思ってなかった……」
「君たちの間で何があったんだい? もし話してくれるなら聞くよ」
愛亜は少々ためらってから、口を開いた。
「私たちは小学三年生から親友でした。どこへ行くのも一緒。おそろいの洋服を着て、同じものが好きで、姉妹みたいだねって言われていました。家同士との交流も頻繁でふたつの家族が一緒にご飯食べたりするのはしょっちゅうで、旅行へも何度も行きました。紗貴ちゃんはうちの両親に実の娘のように可愛がられ、私も紗貴ちゃんのご両親に可愛がってもらってました」
「……」
「でも、昨年、彼女のご両親が亡くなって、すべてが狂ってしまった」
「交通事故だったね」
「はい。……ひとり残った紗貴ちゃんは、親戚もいなくて天涯孤独になってしまったんです。しばらく私の家で暮らしていました。でも以前の雰囲気とはどこか違うよそよそしさで、なかなか馴染めないようでした。私も気になって、なるべく楽しいことは昔どおりにやってみたりしたんですけど、紗貴ちゃんは、遠縁のおばさんのお宅に引っ越すと言って出ていってしまったんです」
愛亜は少し言葉を切って、続けた。
「しばらくして、何度か会いました。でも以前のような心からの笑顔は消えていました」
「そうか、最近、紗貴子さんを見ない日があったが、そういうわけだったのか」
志郎は気の毒そうに地面を見つめた。
「そのうち、私の誘いにもあまり来なくなって、メールじゃ頼りなくって、私は手紙を書き続けたんです。返事は来たり来なかったり。それから突然、電話がかかってきたんです」
「なんて?」
「もう絶交よ! って」
「えっ」
「紗貴ちゃん、ものすごい剣幕で怒っていて、どうして突然、絶交なのか、聞いても答えずにそのまま電話を切ってしまって」
「……」
「きっと手紙に紗貴ちゃんを怒らせる言葉を書いてしまったんだと思います。言葉は凶器と言いますから、私が何か無神経に……」
「……」
「しばらくして、紗貴ちゃんは高校を転校してしまいました。もう二度と会うことはないと思っていたのに。今日、ばったり会ってしまったんです」
「そうだったのか」
志郎は真顔で聞いていた。
「両方とも、さぞ辛かっただろう」
「紗貴ちゃんを励ますつもりで書いた手紙だったのに、傷つけてしまったのが辛いです。何の言葉がそんなに紗貴ちゃんを怒らせてしまったのか。自分で思い当たらないことが情けなくて」
愛亜はさめざめと泣き始めた。
「君に悪気があったわけじゃない。ちょっとした誤解なんだよ、きっと」
「紗貴ちゃんはそれを言ってくれない」
しばらくふたりとも沈黙した。
向こうから子供たちの歓声が聞こえてくる。
「正座するかね?」
志郎の言葉にコクリとうなずき、愛亜は芝生の上に正座した。
正座して心を鎮めようとしたが、つい先ほど紗貴子に会ってしまったショックからか、震える唇を止めることができなかった。
(正座して誠心誠意、頭を下げたら紗貴ちゃんは許してくれるかしら)
第六章 行き違い
みずほ師匠と紗貴子は立派な人形に魅了されて、人形の前から去ることはできなかった。
「見れば見るほど立派なお人形ねえ」
師匠はほれぼれして人形を眺めていた。
「紗貴子さんにモデルになっていただいてよかったわ。私の思い描く完璧な正座人形だわ」
「先生にそんな風に言っていただけて嬉しいです」
紗貴子は長い髪を着物に似合うよう結い上げて美しい。
「ところでさっき、作家の志郎先生がおいででしたのに、どこへ行かれたのかしら」
とたんに紗貴子の表情が曇った。
「さあ」
「お人形の完成お祝いに、内輪の何人かでお祝いのお膳を用意してあるのよ」
「そのうち戻ってみえるでしょう。それより師匠、お人形に負けてはいられません。正座のお稽古をつけて下さい」
「まあまあ、紗貴子さんは真面目ねえ。わかりました。お人形より美しい正座をしてお客様を驚かせましょう」
師匠と紗貴子は座敷に離れて座った。
紗貴子は改めて立ち上がり、師匠の前に膝をついた。
背筋をピンとまっすぐして膝を畳の上につき、かかとの上に座り着物をお尻の下に敷き、両手は自然に膝の上に置く。流れるような所作である。
「よろしい。さすがに私の見こんだ紗貴子さんだけあるわ」
師匠は満足げだ。
やがて志郎が戻ってきて、師匠と紗貴子、副師匠と志郎の工房の代表の男性とで膳を囲むことになった。
床の間から、志郎の作った人形が見つめている。
「まあ、では、来年の大陸ドラマの大道具を御社でお作りになるんですか」
「そうなんですよ。初めてで気が重くてね」
師匠と代表が膳を楽しみながら話している。
紗貴子が代表と志郎にお酒のお酌をした。
「それにしても、この度はありがとうございました。立派な正座人形を作っていただいて」
師匠がお礼を言う。
「いや、まだまだ腕は未熟です。モデルの紗貴子さんにずいぶん助けられましたよ」
志郎は酒が回ったのか、真っ赤になって照れた。
夜更けて、志郎は蛍の飛ぶ庭に出た。夜風が気持ちいい。
「志郎先生。さっき、一緒に出て行った女の子……」
「気づいていたか、紗貴子さん。そうだよ。愛亜さんだよ。最近、偶然知り合ってね。師匠のところへ人形の搬入についてきたんだ」
「そうでしたか……」
紗貴子は複雑な表情をしていた。
「あの娘は私のことをなにか言ってましたか?」
「事情は全部聞いたよ。ご両親のご不幸も、君と別れたことも」
「狭い町ですからいつかは会うかもと思っていましたが、まさか正座教室で出会うとは思っていませんでした」
「率直に聞くけど、君はなぜ突然、彼女と別れたんだ? 彼女、とても心配して苦しんでいる」
「苦しんでいる? それはこっちの方です。彼女はご両親と幸せな環境に恵まれて青春を謳歌しているじゃないですか。私なんかいなくたって」
急に紗貴子の顔が険しくなった。
「それに、突然別れを告げたんじゃないです。ずっと前から愛亜とはさよならしたいと思ってました。彼女の家に引き取られた頃から」
「どうしてだい。彼女のご家族は君によくしてくれたんじゃないのかい」
「それは、とてもよくしていただきました。実の娘のように。だからよけい辛かったんです。私は両親と、もう二度とこんな風に平和に暮らせないんだと思うと……辛くて辛くて」
紗貴子の瞳から涙がぽろぽろ落ちた。
「なのに、愛亜は家族でイベントごとにパーティーを計画したり、レストランを予約したり、ずっと手紙を送ってくるんです」
「愛亜さんは、一生懸命あなたを励まそうとしたんだろう、きっと」
「……無神経だわ」
紗貴子の唇がきつくかみしめられた。
すっかり夜も更けた帰り道、志郎はふたりの少女の気持ちが痛いほど分かった。お互いのためを思ってのことだったのだろうが、行き違ってしまったようだ。
偶然、ふたりの少女と知り合った志郎はなんとかしてやりたいと思った。
まぶたの裏から、自分が作った美しい正座人形の面影がなかなか去らなかった。
第七章 正座の稽古
悩んだ志郎は、正直に愛亜に紗貴子がどうして別れを告げたのかを説明した。
いつぞやの公園である。
「そうだったの」
愛亜は顔色を変えてうずくまってしまった。
「紗貴ちゃんを力づけようとしていたことが、全部、傷つけていたのね。私ったらなんておバカなことを……」
「よくある行き違いだよ。そんなに自分を責めなくても」
「いいえ。ご両親を失った紗貴ちゃんへの配慮が足りなかったんだわ」
皮肉にも爽やかに晴れた梅雨の中休みだった。
愛亜はようやく顔を上げると、志郎に向き合った。
「志郎さん。私をあの人形を搬入した教室に紹介して下さい。私、本格的に正座を習います。そしてマスターしたら、ちゃんと正座して心をこめて紗貴ちゃんに謝ろうと思います。許してもらえなくても、そうしなきゃ気がすまない。10歳になる前からの仲良しだったんですもの。一生のおつきあいと思っていた友達ですもの」
「分かったよ」
志郎は苦笑いした。
「愛亜さん、君は何にも一生懸命だね。その気持ち、紗貴子さんに通じたらいいね」
彼はすぐに師匠に愛亜を紹介することを請け合った。
「稽古中に紗貴子さんに会うかもしれないよ」
「顔を合わせても、正座が完璧にできるまで、お話しないつもりです」
正座、行儀作法教室に愛亜は通いだした。
志郎がやらせてくれた大雑把な教え方ではなく、師匠の教え方は厳しくしっかりしていた。
たまに紗貴子と顔を合わせることがあった。最初は彼女も少し驚いたようだったが、何もなかったように接することにしたようだ。愛亜もまたそうした。
みずほ師匠には事情を打ち明け、紗貴子の両親が亡くなってちょうど一年の日に、正座して謝るつもりであることを告げた。
「ご両親の一周忌にですか」
みずほ師匠は目を丸くした。
「紗貴ちゃんのご両親にも謝りたいと思うのです」
「喪服を着て謝るのですね」
「はい」
みずほ師匠は言葉を止めて、愛亜を正面から見つめた。
「愛亜さん。あなたは自分の行動に酔ってらっしゃるんじゃないですか」
「え?」
「一周忌の日に謝れば、なんだかドラマティックな中で、紗貴子さんも許して下さると思いあがってやしませんか」
「思いあがってる?」
愛亜の眼も丸くなった。
「心をこめて謝れば、日にも服装にもこだわる必要はないと思うわ。しっかり頭を下げることができれば、きっと通じますよ。わざわざ一周忌の日を選んで謝るのはどうかしらねえ」
「不謹慎でしょうか?」
「不謹慎とは言わないけれど……」
みずほ師匠の言葉に考えこんでしまった愛亜は、一周忌の日を迎えても出かけるのをやめた。
一周忌の法要に呼ばれたのは、みずほ師匠と志郎だけだ。
ふたりとも紗貴子の両親とは面識がなかったが、親戚がいないのでふたりにお願いしたらしい。
法要の時刻が来て、愛亜は自宅から手を合わせた。
それから墓地で読経があり、料亭でお膳ということになっただろう。
愛亜は駆けつけたい気持ちを抑えてぼんやりと自宅縁側に座り、植木を見つめていた。
「愛亜」
振り向くと母親だった。
「本当は一周忌にお参りしたかったんでしょう」
「うん。でも師匠のおっしゃることも、ごもっともだし……」
「お母さんもお父さんも紗貴子ちゃんのご両親とは親しかったわ。一周忌にお参りに行きたかった」
家族ぐるみで仲良かったのだ。母親の思いもよく分かった。
「でもね、紗貴子ちゃんのご両親が望んでいることはなんだと思う? 愛亜」
「う~~ん、紗貴ちゃんの幸せ……だよね」
「そうね」
母親は優しくうなずき、
「あなたにお客様よ」
と言って部屋を出て行った。
変わって入ってきたのは、喪服のワンピース姿の紗貴子だった。
第八章 共に正座して
入ってくるなり、紗貴子はその場に膝をついた。そして、お尻の下に喪服のスカート部分を敷き、かかとの上に座り、背筋をピンとしてから膝に置いた両手を前にずらし、深々と頭を下げた。
「紗貴ちゃん?」
愛亜はわけが分からなかった。
「愛亜ちゃん。本日、無事に両親の一周忌を終えることができました。これも、一年前、私を引き取って下さったおじ様、おば様、愛亜ちゃんのおかげです。なのに、私はその温かいお心を踏みにじるように出ていき、愛亜ちゃんからたくさんの励ましのお手紙をもらいながら、お別れを告げてしまい……。私は穏やかな平和の中にいる愛亜ちゃん一家に嫉妬していたのよ」
「……」
「最近の愛亜ちゃんの様子を聞いたわ。かなりやけになってクラブで踊ったり、公園の植木を荒らしてしまったりしていたってこと。私が一方的に別れを告げたからね。本当に本当にごめんなさい」
しばらく畳におでこを押しつけたまま動かない。
「さ、紗貴ちゃん!」
愛亜は慌てて紗貴子の肩をつかみ、上半身を起こさせた。
「私こそ、私こそ、紗貴ちゃんに謝らなければ。私の思いこみで紗貴ちゃんを元気づけようと誘いの手紙ばかり出してしまって。紗貴ちゃんは辛かったのよね。うちの楽しそうな様子を見るなんて。私ってなんて鈍感だったのかしら。どうか許してね」
今度は愛亜がきれいに正座して頭を下げた。
「愛亜ちゃん、もういいのよ。こうして正座教室で再会できたのも、きっと母親のおかげ。母から日本のお作法――特に正座を身に着けられるよう、お稽古に通うように言われていたのよ」
「まあ。それは……」
愛亜には初耳なことだった。
「お母さまにお礼を言わなければならないわね」
ふたりは小高い丘の上にある紗貴子の両親の墓地にお参りした。墓標の周りは色とりどりのアジサイが咲き誇っている。
丘の上には、雨の後の爽やかな風が吹いていた。
改めて墓標に手を合わせてから丘を降りてくると、志郎が待っていた。
「ふたりとも、心のリハビリができたようだね。これできっと紗貴子さんのご両親も安心していることだろう」
愛亜と紗貴は、志郎にお礼を言った。
「どう? ふたりとも、正座で気分転換しませんか?」
「え?」
ふたりとも顔を見合わせた。
「志郎さん、その後、セクハラまがいの足のマッサージするんじゃないでしょうね」
愛亜がいたずらっぽく言うと、紗貴子が目くじらを立てた。
「なんですって、今の、聞き間違いじゃないでしょうね?」
志郎はバネ仕掛けのおもちゃのように飛びすさった。
「違いますよ、誤解ですっ。セクハラだなんて。踊りまくって疲れた足を回復させるために……」
「あはは、志郎さん、冗談よ。その節はマッサージして下さってありがとうございました。二度と無茶して踊りません」
愛亜の宣言に、志郎はホウッと肩を撫で下ろしてスマホを見た。
「正座教室で、みずほ師匠がお茶を点ててお待ちしていますってさ」
「じゃあ、さっき野原に咲いていた撫子(なでしこ)を摘んでいきましょう」
紗貴子が言い、愛亜の顔を見た。
「そうね。二輪そろった撫子を茶花にしてもらいましょう」
「二輪の撫子のように、ずっと仲よくいましょうね」
初夏の野を、ふたりの娘と青年がゆったりと歩いて行った。




