[361]下がりみずらよ さようなら?


タイトル:下がりみずらよ さようなら?
掲載日:2025/06/09

シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:16

著者:海道 遠

あらすじ:
 うりずん(そよぎ)と美甘ちゃんが正式の夫婦になった。そのショックのせいか、美甘ちゃんの幼なじみの薫丸(くゆりまる)は下がりみずらの髪をやめると言い出す。
 夫婦ケンカをしたスサノオの尊とマグシ。マグシ姫は家出して湖国の衆宝観音さまのところへ身を寄せる。
 うりずんが古代琉球の神の世界でも披露宴をすることになり、薫丸はみずら髪を切らずに琉球へ向かう。その宴会では正座などまったく行われず、客の神さま方は乱れ切っていた。それを目の当たりにした美甘ちゃんは――!


本文

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第一章 ウワサ

 九条家の薫丸の屋敷に、オダマキがバタバタと到着した。オダマキは普段なら入れない傀儡子(くぐつし)の一員だが、門番たちはよく顔を覚えている。
「おや、人形使いのオダマキちゃんじゃないか」
「く、薫丸くんはいる?」
 走ってきてドキドキする胸を押さえていると、侍女のひじきが水を持ってきてくれて、たくさん飲んだ。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「だって、薫丸くんが、下がりみずらの髪を切るって聞いたから、まさかと思って!」
「そうなの。ついにその日が来るのよね」
「どうして、急にそんな決心したのかしら? 薫丸くんと言えば下がりみずら。下がりみずらと言えば、薫丸くん。九条の町中ばかりでなく、傀儡子の興行する河原や辻でも有名だったし、それに……。あのみずらは、赤ん坊の時に毛が濃かったから、母上が最初に結ってくれたって自慢してたじゃない!」
「でも、そのうちお別れしなければならない日が来ると思ってたのよ。美甘姫のご親戚の鴇姫さまの若君が、初めてみずらをお結いになってね、とっても可愛くて――」
「へええ」
「それをご覧になって、みずらを結うのを止めようという気になられたとか。私も何回も結わせていただいたわ」
 ひじきもみずら髪と別れ難いらしく、大きなため息をついた。
「薫丸くんは?」
「裏庭で弓のお稽古をしてらっしゃるわ」
 オダマキが裏庭へ回ると、薫丸がお付きの者と、的をめがけて弓矢の稽古をしていた。
 矢をつがえたりするたびに、輪になった優雅な下がりみずらが揺れる。ひたいに浮かぶ汗が思春期のぎこちない美貌と相まって、オダマキは見惚れた。
 最後の矢が的に中った(あたった)。
「頑張っているわね」
 薫丸はオダマキに気づいて、片肌を脱いでいた衣をお付きの者に手伝わせて元に戻した。
「聞いたわよ。元服するんだって?」
「ああ、次の吉日にな」
「なんでまた?」
「なんでって……いつまでも、みずらってわけにいかないだろう」
「上古(じょうこ)の時代なら、おじさんになってもみずらなのにね。なんかきっかけでもあった?」
 オダマキの勘は鋭い。
「美甘(みかん)姫さまのこと?」
 薫丸はオダマキをチラッと見た。
 都では、美甘姫が琉球の季節神、うりずんさまを婿に迎えられたとのウワサで持ち切りだ。いくら貴族でも、神さまとの縁組は考えられない。
 庶民は、姫さまが何かにとり憑かれたのではないかとか、実は婿どのの姿が見えていないのではないかとか、とんでもないウワサが飛び交っている。
 宮廷のお上でさえ、神が婿入りするほどの美しさと聡明さを備えた姫を見ておくべきだったと、悔しがっているとかいないとか……。
 その美甘姫が薫丸と又従兄の間柄で、婚約するだろうと思われていたから、都の庶民たちはよけい意外に思った。つまり薫丸は、失恋のショックで、大切なみずら髪をやめると言い出したと思われている。
「うりずんさんが、美甘姫さまのところへ婿入りされると聞いた時は、あたいもびっくりしたけど……」
「所顕し(ところあらわし=披露宴)も済まされたようだ」
「薫丸くん、わりと落ち着いているのねえ」
 薫丸は簀の子に座った。
「うりずんさんがおいら、いや麿(まろ)に会いに来たんだよ」
「え?」
「『美甘姫は私が幸せにする』ってな。ただ、自分は神仙の者だから、歳をとらずに、いずれは美甘姫が先に旅立つ日が来るだろうって。その時、自分は耐えられるだろうか、だって! 逆に、うりずんさんに、もし何かあって消滅? した時に美甘姫はどうするだろう、だって!」
「まあ! すんごく先のことじゃない!」
「そうでもないよ。神さまからすれば、人間の命なんて短いものだそうだ」
「そんなこと言われたって、困るわねえ」
「困るよ。うりずんさんが、やもめになった時の心配までしていられるかってんだ! ただな、季節神のうりずんさんが、そこまで心配しているってことは、美甘ちゃんはよほど愛されているって分かったんだ。だから――ふたりを祝福することにした」
 照れ臭そうに、薫丸は視線を空へ向けた。
「そうか……。気持ちを振り切るために、みずら髪を切ることにしたのね」

 オダマキは、トボトボと河原の傀儡子一座のところまで帰った。
 親方と、でかい体格の半夏が迎えた。
「どうだった?」
「本当だったわ。成人の儀式を済ませて、みずら髪とはさよならするんだって」
「へええ。薫丸がみずら髪でなくなったら」
「黒い冠か烏帽子(えぼし)を被るようになるのよ」
「へええ。想像できねえな」
 半夏も目が「点」になっていた。

第二章 マグシ姫

 傀儡子一座がその日の興行をたたんでネグラに帰ろうとしていると、光り輝くような少女が現れた。こんな美しい姫さまを傀儡子の誰も見たことがない。
 オダマキが、人形たちを風呂敷に包む手を止めた。
「マグシ姫さま!」
 マグシ姫は、悲壮な顔をしてオダマキの腕を引っぱって物陰へ連れていった。
「オダマキちゃん。美甘ちゃんとうりずんさんのこと聞いた?」
「は、はい」
「九条家の薫丸さんのことを好きなのでしょう? てか、薫丸さんにもどんな顔をして会えばいいのか……。集団で友達だと、やりにくいわね」
「薫丸くんは、幼稚園舎の時から美甘姫さまとご一緒で、又いとこ同士。当然、夫婦になるものと思い込んでいた人々がほとんどだったと思います。でも、急にうりずんさんとご結婚されて……。そういう時の気持ちは、あたい、よく分かります」
「オダマキちゃん」
「あたい、以前はおやつの先生、リ・チャンシーさんを好きでした。でも、奥さまやお子さんがいらっしゃると聞いて、いつの間にか気持ちが冷めていきました。……自然に幼なじみの薫丸くんに想いが復活して――」
 オダマキが汚れた手でゴシッと涙を拭いたもんだから、顔が汚れてしまった。
 マグシ姫は驚いた。
(オダマキちゃんて、わらわより若いのに恋愛と失恋経験が豊富!)
「マグシ姫さま、ごめんなさい。つい、つまらない話を……」
「いいえ。わらわは、そういうことにとんと疎くて何の役にも立てなかったわ。恋愛も知らないうちに、スサノオさまの妻に決まったので……」
 マグシ姫の眼に涙があふれ出した。
(すべて、うりずんさんの急な押し入り婚のせいよ!)
 マグシは腹が立ってきて傀儡子たちの一座を後にした。八坂神社に帰って、スサノオの尊に事情を話した。
「そりゃあ、誰を好きになるかは、自分だとて分からない。うりずん神は、自分のお気持ちを偽らない方だから、急に美甘姫を可愛く思われたのだろう」
「君さまは? その昔、出雲で私と会われた時に何か思われたの?」
「この末っ娘が今夜、ヤマタノオロチに食われる人身御供なのか、気の毒になぁと……。トシとった爺さんと婆さんは泣いているし……」
「それだけ?」
「ヤマタノオロチっちゅうのを倒さなければならんな~~と」
「それだけ?」
「ああ」
「わらわは君さまにとって戦利品みたいなもの?」
「まあ、そうなるかな? 何年も想いに想って結ばれたんではないし」
 それまでスサノオの君の両手を包んでいたマグシ姫は、手を離した。
「わらわだって、君さまほどトシの離れたお方の妻になるとは、思いもしませんでしたよ! お世話になりました!」
 ガサツな正座をして、ペコリと頭を下げると、少しの着物を荷造りしはじめた。
「お、おい、どうした」
「出ていかせていただきます。皇子をお産みできなくて申し訳ございませんでした」
「おい! 誰もそんなこと言ってないだろうが。それに、出雲へ帰っても両親は亡くなっておらぬぞ。どこへ行くつもりだ」
「わらわにも分かりません」
 荷物を背負うなり、マグシ姫は本殿の正面へ行き、心をこめて祈り、スタスタと鳥居をくぐって町へ出て行った。参詣客がいっぱいで、巫女さんたちはまったく気づかなかった。

 町の雑踏を歩きながら、マグシ姫は途方に暮れていた。
「本当にどこへ行こう……? 美甘ちゃんとこにお泊りさせてもらうわけにいかないし、万古老師匠にはご心配をおかけするだけだし、アテがないわ」
 歩いていると、「湖国の寺、参詣」という看板が目に止まった。

第三章 衆宝観音

 湖国の寺――。三井寺も秋を迎えて参拝客であふれている。
 マグシ姫は都から瀬田の唐橋を越えて、近江の国に入った。
「確か、三井寺にいらっしゃるとお聞きしているけど……」
 やっとのことで三井寺に到着した。草鞋(わらじ)のヒモが切れそうになってしまった。
「あのう、こちらに衆宝観音とおっしゃる観音さまがおいででしょうか?」
 熊手で掃き掃除している若い修行僧に尋ねた。
「はい。おられますよ。今はまだ、お部屋においでかと」
 こじんまりして趣味のよい植木に囲まれた離れへ案内された。
 衆宝観音さまは身支度して、庭の所定位置に行かれるところだった。
「初めまして。京の八坂神社におりましたマグシと申します」
「マグシ姫さま? まあ、スサノオの尊さまの奥方さま! どうぞ、狭いところですが、お上がりくださいな」
 衆宝観音は、快く迎えてくれた。
(「苦」から救ってくださる観音さまですものね。来てよかった……)
「京から徒歩で来られたの? それはお疲れでしょう。さあ、お座りになって、蓮饅頭でも召し上がってくださいませ」
 手のひらに乗り切らない大きなサイズの饅頭を、マグシ姫は夢中で食べた。途中でみっともなかったかな、と食べるのを止めた。
「手前で申し上げるのもなんですが、蓮饅頭、美味しいでしょう。ここの名物なのよ」
「はい、色も薄桃で、蓮の花らしくてサイコーです!」
「どんどん、召し上がれ」
「お肉がつかない程度にいただきます!」
「姫さま、もっとお肉がついてもいいくらいですわ」
(え? 胸がペッタンコなのがバレたかな?)
 マグシ姫は、衆宝観音さまの妖艶な美しさをまぶしいと思いながら、拝見した。
(わらわももう少し大人になったら、このようにふっくらした女性になれるのかしら? ――世の中にはこんな輝く女性もいっぱいいらっしゃるのに、スサノオさまは、よくぞこんな胸ペッタンコのわらわを妻にしてくださっていたことだわ……)
 蓮饅頭を頬ばっているうちに、神社に残してきた夫を思い出して、涙がジワッと出てきた。
「まあ、どうなさったの?」
「な、なんでもありません。お饅頭があんまり美味しくて……」
「ホホホ、今、お茶をお淹れしましょうね」
 観音さまの淹れてくださったお茶を味わい、ゆっくりしているところへ、木戸がとんとんと叩かれた。
「おや、どなたかしら? ご住職がご挨拶に見えたのかしら」
 観音さまが立つまでもなく襖が開いて、紅鬱金(べにうこん)色のふわふわ髪の男性が入ってきた。

「う……うりずんさん! うほうほっ!」
 驚いたマグシ姫は、また饅頭をノドに詰めそうになった。
(どうして、うりずんさんがここに――?)
 襖を開けるなり、衆宝観音さまを抱きしめるではないか!
 観音さまが急いでその手を押しとどめた。
「マグシ姫さま! これは失礼を……」
 彼は急ぎ、正座して頭を下げた。
 マグシ姫がいくら鈍感でも、衆宝観音さまとうりずんの間柄は察しがついた。
「三井寺へ参拝がてら、おじゃましておりましたの。うりずんさんは? 今、お忙しいのでは?」
「そ、そのことで観音さまにご挨拶に来たのだ」
「挨拶とは?」
 うりずんは、丁寧に正座し直した。
「此度、京の美甘姫とご縁があり、正室にすることになりました」
「……」
 しばし、沈黙が流れた。
「それは、おめでとうぞんじます」
 衆宝観音は屈託なく微笑み、
「そんな日が来ると思っていましたので、わらわのことはどうか、お気になさいませず。こうしてわざわざご挨拶に来てくださるほどお気にかけていただいて光栄ですわ」
「貴女さまとのご縁は変わりませんので、そのご挨拶に参ったまでのこと――」
 うりずんは堂々と言った。
「こんな歳ふりた女までお忘れにならず、ありがとうございます。でも、しばらくは美甘姫さまのことをお大切に、共に過ごしておあげになってください」
 マグシ姫は小さな口をあんぐり開けた。
(うりずんさんたら、観音さまを二番目の方にするおつもり? 美甘ちゃんとほやほやのご夫婦なのに、堂々と側室として続ける宣言を!)
 うりずんはマグシ姫の眼を見て、念を押した。
(マグシ姫、今日のことは美甘にはナイショだよ!)
 呆れるばかりだ。
(もちろん、申しませんわよ。美甘ちゃんが悲しまれますもの。それにしても、殿方って――!)
 スサノオの尊のことを思い出し、またもや怒りが頭をもたげてきた。

第四章 『チュー』すると……

 うりずんが帰った後、マグシ姫は衆宝観音さまに、家出の理由を打ち明けた。
「夫は、私をヤマタノオロチ退治のご褒美として迎えただけで、愛したわけではないと申しますの。わらわも流れに添っただけで、絶対に結ばれたいと思い結ばれたわけではないことに気づきました」
「――それで?」
 観音さまは静かに聞いていた。
「それで、と申されましても」
「そのことにお腹立ちになり、今日、わらわの元に来られたのね。そのお怒りこそが、スサノオの尊さまを愛しておられる証拠だとお気がつかれないの?」
「あ……」
「姫さまは、上古の昔、ヤマタノオロチ退治のご褒美だったかもしれませんが、今では離れることなど叶わぬご夫婦でしょう?」
「――」
 衆宝観音さまの言葉が心に沁みて、マグシ姫は観音さまが庭にお座りに行かれてからも、しばらく正座したまま静かにしていた。
 そこへ、うりずんが戻ってきた。
「マグシ姫さま、言い忘れた! 美甘は、やや桃さんを宿したかもしれないと本気で思いこんでいるが、彼女には『チュー』しただけだ。だから、無下(むげ)に否定しないようにお願いしたいんだ」
「ええ? 『チュー』したら、やや桃さんが宿るんじゃないんですか?」
「マグシ姫……貴女も、美甘と同程度の知識ナカマだったのか!」
「? ――? ――?」
 首をかしげているうちに、うりずんは、よろけながら出て行ってしまった。
(何かショックだったのかな?)
「……なんで、わらわはここへ来たんだったかな。そうそう、美甘ちゃんとうりずんさんが所顕し(ところあらわし)の宴を催されたので、何故だかスサノオさまとケンカして、観音さまにグチを聞いていただきたくて……」
 蓮饅頭が乗っていたお皿が目に入った。
(あ、さっきの蓮饅頭がとても美味しかったから、正座教室のおやつに、作り方を教えていただこう!)

第五章 号泣

 衆宝観音さまのところで正座のお稽古もやり、蓮饅頭を共に作り、心が晴れ晴れして、2泊したマグシ姫が京の都へ帰ってきた。
「おや?」
 八坂神社周りが騒がしい。見張りの神官に交じって検非違使(けびいし)があちこちを警戒している。
「なんだか物々しいわね?」
 ひとりの巫女がマグシ姫を見つけるや、大声で叫んだ。
「スサノオの尊さま〜〜! 宮司さま〜〜! マグシ姫さまですよ〜〜!」
 スサノオの尊が草履をひっくり返して本殿から飛び出してくるわ、宮司はご祈祷の最中だったらしく、お祓い棒を持ったまま飛び出してくるわの騒ぎだ。
「マグシ〜〜〜〜〜!」
 スサノオの尊が両手を広げてぶつかるなり、マグシの頭をぐちゃぐちゃに抱きしめた。
「どんなに探したことか! 美甘ちゃんとこにもいないし、万古老師匠の教室にも洞窟にもいないし、邪鬼たちに頼んで、かなり広域を探してもらったんだが気配はない! うりずんさんに聞いても知らないって言うし……」
(ま、まあ、うりずんさんが言うわけないわよね。それに衆宝観音さまが、結界を張ってくださったから……)
 苦笑いせずにはいられない。
「マグシ! どこへ行ってたんだ! どうかなってしまいそうなくらい心配したぞ!」
「スサノオの尊さま……」
 ホッとして泣きじゃくる夫を見て、マグシ姫も、
「うわ〜〜〜ん!」
 号泣爆発してスサノオの胸で泣きはじめた。
「ごめんなさい、ごめんなさ〜〜い! マグシはどこへも行かないわ! 帰るところってスサノオさまのところだけしかないですもん!」
「愛してる、マグシ! 一瞬たりともどこへも行くな! お前がいないと生きていけない〜〜〜!」
 アゴのヒゲまでヨダレでぐちゃぐちゃにして、スサノオは泣きじゃくった。
「思い出したぞ! お前がご褒美になる前に愛してしまったことを! 褒美とか戦利品とか関係なく愛したんだ!」
「スサノオさま、大好きよ、大好きよ! 褒美の品でもお土産の品でも文句は言わないから、側においてください!」
「未来永劫、離すものか〜〜!」

 見ていた宮司さんは、もらい泣きしはじめた。
「ご祭神さまご夫妻は、なんと純粋な愛で結ばれておられるのだ……」
 巫女さんたちは、呆れた顔の人もいる。
(スサノオの尊さまって、お若い奥方さまに甘いんだからぁ)
(マグシさまもマグシさまよ。一緒におやすみしているだけで赤さまが来られると思っていらっしゃるのよね。ネンネさんね〜〜)
(美甘姫さまも、どっこいどっこいらしいわよ?)

第六章 波紋

 一方、薫丸は吉日に成人の儀を行い、万古老師匠が烏帽子親となることが決まった。
 乳母は嬉しいながらさめざめと泣き、ひじきが慰めていた。
「お母さんたら、前から若君のみずらを切るのが夢だと言ってたじゃないの」
「そうなんだけど、いざ、吉日が決まったとなったら、よちよち歩きくらいからの若君を思い出してしまって……『下がりみずらに水干』が若君のお決まりだったんで」
「まあ、分かるけどね……」

 うりずんの上位の神、真南風(マハエ)の神が、うりずんと美甘ちゃんのお式と結婚披露宴を執り行ってやろうと言いだした。
「祝福というより、美甘の首実験だな」
「首実験? ひどい言い方ね……! 琉球の神さまたちに顔合わせってこと?」
「神たちはお前に興味津々(きょうみしんしん)なだけだ。―――あっ!」
「な、なぁに?」
「確か出席する男性は、みずら結いが決まりだ」
 使い神がやってきて几帳越しに、特に新郎は絶対にみずらを結わなければならないという。
「薫丸くんみたいな感じ? 琉球の神々もあんな髪型なの?」
「琉球では違う髪型のはずだよ」
 琉球の神々との交流をサボっていたうりずんは、しきたりについて全く知らない。美甘ちゃんにも曖昧(あいまい)な返事をした。
「披露宴なら、薫丸くんもお招きしたいわ」
 美甘ちゃんが言いだした。
「いいのか?」
「もちろんよ。幼稚園時代からのお友達の薫丸くんをお招きしないなんてできないわ」
「薫丸くんはどう思うだろうな?」
「え? どーゆー意味?」
「……薫丸くんが下がりみずらを切るなんて言いだしたのは、私たちのせいじゃないのか?」
「……私たちのせい?」
「薫丸くんが本気で美甘を好きなら、披露宴に来るのは辛いんじゃないか?」
 美甘ちゃんは黙りこんだ。しばらくして、
「薫丸くんは心の狭いおのこじゃないわ! 堂々と私たちを祝ってくれると思うわ。それに薫丸くんには私なんかより、もっとしっかりした見守り役がいるわ」
「え?」
「オダマキちゃんよ。あの娘はずっと薫丸くんの側にいるわ。とても大人よ。結ばれるのは無理でも、薫丸くんがこの先、奥方を何人持とうとずっと見守っていくと思うわ」
 うりずんの胸がチクリと痛んだ。
(美甘と結ばれることは、薫丸くんだけでなくオダマキちゃんの人生まで影響を及ぼすことになるのか……)
(貴族と傀儡子の身分差―――。人間の世の中の固執した物事を変えるのは難しい。オダマキちゃんの薫丸くんへの想いは、残念ながら、成就しないだろう)
(その点、神仙では神たちはわがまま放題だ。片思いであろうと強引に攫って(さらって)いく)
(私も同様だ―――。だが、離したくない――。美甘―――)
 うりずんは美甘ちゃんの黒髪に顔をうずめた。

 権威を持つ真南風の神さまの申し出を断るわけにもいかず、うりずんはみずら髪を結うことにした。
 招くお客さまも、男子はみずら髪を結っていただく。それが琉球の神の世界の習わしだと判った。
(うん? 薫丸くんの成人の儀は、確か明日では――!)
 ガバと身体を起こした。
 美甘ちゃんは、目をこすってむにゃむにゃし、
「ん……どしたの、そよぎ」
 夜明けの一番鶏が鳴いている。
「大変だ! 薫丸くんが髪を切ってしまう!」

第七章 予定変更

 九条家の車寄せには、朝廷のお偉い方々の牛車がひしめいていた。お偉方の舎人たちもせわしそうに行き交っている。
 お客たちは、まず、薫丸の両親に元服の祝いを述べ、祝いの品を納めに行く。
 うりずんと美甘ちゃんは手をつないで、ごった返している九条家へ突入した。
「あ、奥では、若君さまがお支度中です!」
 女房が止めるのも構わず、座敷へ駆け込んだ。
 薫丸は今、正に長い黒髪に剃刀(かみそり)をあててもらう寸前だ。正座して目を閉じ、静かにその時を待っていた。
 傍らには烏帽子親の万古老師匠が、めったに見ないお祝いに相応しい豪華な文様のお直衣をまとって控えていた。
「おや、どうした、うりずんと美甘ちゃん!」
「待って、待ってください、髪を切るのは!」
 美甘ちゃんが叫んだ。うりずんも続いて、
「もし! 成人の儀、今しばらくお待ちを!」
 ふたりは急いで正座して、万古老師匠に頭を下げた。
「むむ? 何ごとじゃの?」
 薫丸も目をまん丸くして、ふたりに目をやった。
「薫丸くん、私たちの披露宴に出席していただきたいの!」
「披露宴? 所顕し(ところあらわし)の儀は済んだのでは?」
 薫丸くんが尋ねた。
「琉球の神さま方が開いてくださる披露宴がこれからなの! その宴に、薫丸くんも出席してもらいたいのだけど、みずら結いが決まりなのよ!」
「ええ?」
 薫丸が「どうしよう?」という顔を、万古老に向けた。
「うりずんさん、その披露宴はいつじゃ?」
「それが――今宵なのです」
「では、薫丸くんのおぐし上げを少しずらすことはできるかな。その前に、うりずんさんの披露宴をすませ、その後、薫丸くんの元服の儀を行うことにすればよろしいかな?」
「陰陽師に時刻を占ってもらわなければ!」
 九条家の者が駆けていった。
 急なふたつの大きな催しの時刻変更となり、特に、これから薫丸の成人の儀式に出席する予定の貴族たちが、バタバタと予定を変えなければならなかった。使いの者が右往左往し、九条家の饗応の料理の支度をする者たちが大騒ぎになった。

 薫丸の髪に剃刀をあてた者の手が止まった。
 うりずんが両手で胸を押さえて、へたりこんだ。
「良かった〜〜! 間にあった〜〜!」
 薫丸が不思議そうに、うりずんを見た。

第八章 琉球の聖地にて

 うりずんと美甘姫の神さま方の披露宴は、琉球の聖地で催される。ふたりは万古老師匠と薫丸を連れて、そちらへ向かった。
「ほほう、琉球の神仙の世界は美しい野山じゃのう」
 万古老は目を見張った。一同の眼下には濃い翡翠色の海が広がり、瑞々しい野原に降り立った。
 野原の真ん中に壮麗な宮殿が建っている。
 濃いみどり色のアゴヒゲを生やした男が、紅色の着物を着て門のところに立っていた。
「世が真南風だ。季節神のうりずんと新婦、めんそーれ(いらっしゃいませ)。お招きしたお客人も、めんそーれ」
 うりずんは門の前で膝を着き、衣に手を添えてお尻の下に敷き、かかとの上に座った。
「ほほう、うりずん神の正座の所作は、我らと同じだな」
 真南風大神は、うりずんの正座の所作を見て感心した。
 宮殿から侍女たちが出てきて、うりずんと美甘ちゃんをそれぞれ別の部屋へ引っぱっていった。

「イタタタ……痛い痛い! お手柔らかに……」
 うりずんは神の世界の宮殿の奥で沢山の侍女に囲まれて、さっそく髪を結われる。
「髪が波打っているので、どうしても櫛がすんなり通らないのです。少しの間、ご辛抱ください!」
「なんてお美しい紅鬱金色のおぐしでしょう!」
 侍女たちはうっとりしながら、髪を結っている。
「褒めなくていいから、痛いのは勘弁してくれ」
 さんざん寄ってたかられて、ようやく紅鬱金色の美しい輪の下げみずらが出来上がった。
 波打った黄金の光沢が更に美しさを増す。

 侍女たちは鏡を見せた。
「うむ。悪い気はしないな。美甘ちゃんは?」
「お見えになりましたよ」
「おお!」
 真紅の龍の刺繍模様の花嫁衣装を着た美甘が現れた。髪は琉球風の髷に結われている。目鼻立ちがはっきりしている顔(かんばせ)に映えて、よく似合っている。
「美しさと威厳が感じられます」
 手を取ってきた侍女は見惚れて言った。
「琉球神国の巫女長そのものです」
「美甘ちゃん、綺麗だよ」
「……そよぎも、みずらがよく似合うわ」

 薫丸もみずらを結ったまま万古老師匠も出席し、琉球の神さま方も挨拶して、結婚式は滞りなく行なわれた。
 その後、披露宴となったが、うりずんたちには何も見えない。
 祭司を努めた厳格そうな年配の女性が、ふたりの元へやってきた。特有のカラジ結いという巻貝のような結い髪がツヤツヤと光っている。
「巫女のナナジと申します。つつがなく、うりずん季節神と美甘姫さまのご婚礼の儀式を執り行いました。もうすぐ披露宴の席に、王の按司(アジ)殿下と妃殿下が見えられます」
 ナナジ巫女は美甘の正面に正座し、
「琉球神国の巫女長として、相応しい花嫁さまです」
「美甘が琉球神国の巫女長?」
「実は、巫女は終生独身と決められているのですが、さすが、うりずん季節神! 佳き方を見つけてくださいました。特例として巫女たちの全員一致で、美甘姫さまを琉球神国の巫女長に推薦いたします」
「ええっ?」

 そこへ、毛皮つきの赤い着物を着た若い女性が走りこんできた。
「万古老師匠の妹弟子の赫女(かくじょ)と申します! この度は、うりずんさんのご婚礼とのこと、是非とも描かせていただきたく、参上いたしました。私、絵師でもあります」
「おお、赫女!」
 うりずんと万古老は驚いて振り返った。
 赫女は手早くその場に背負ってきた風呂敷包みを広げ、キャンバスと絵具を取り出した。
 どうやら、赫女には披露宴の様子が見えるらしい。
「ねえねえ、そよぎ」
 さっきから美甘ちゃんが、うりずんの袖をクイクイと引っぱっている。
「私を琉球神国の巫女長にって言われた話……」
「あんなの冗談だよ。お前のような子どもに務まるわけがない」
 素早くラフスケッチを終えた赫女が、ふたりにキャンバスを見せた。そこには、酔っぱらってあぐらをかいている者や、寝転んでいる者など、乱れ切った琉球の神さまたちの姿が描かれているではないか。
「なんだ、この様子は! ひどいもんだな」
 美甘ちゃんの瞳の奥に、やる気の炎がむらむらと燃え上がった。
「そよぎ! 私、琉球神国の巫女長の座につくわ! そして、ビシッと皆さまに正座を教えこむわ!」
「な、なに~~? 本気か、美甘!」

 薫丸が真剣な顔で正座したまま固まっていた。
「薫丸くん。帰り支度しようか? 都では、お前さんの元服が待っている」
 万古老師匠が声をかけたが、
「みずら髪を切る気がなくなりました……。もっとやるべきことができたんです!」
 薫丸の口調は強くなった。
「琉球神国で正座を人々に広めること! 美甘ちゃんひとりじゃ大変だから、おいらもやります!」
 万古老師匠が、
「そうか。それなら、もちろんワシも時々は手伝うぞよ」
「薫丸くんのみずらは結局、生き延びたようだね」
 うりずんが、にっこり笑った。


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