[233]オオオニバスの上で正座すれば



タイトル:オオオニバスの上で正座すれば
発行日:2022/08/01

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:52
販売価格:200円

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容
 二十歳のいずもは彼におせっかいをやきすぎて、ふられてしまった。
 反省して、性格を変えようと星占いの本を読み、ひとり暮らしを始めようと家を出るが、五歳の姪っ子の美咲が見つけてついてくる。
 美咲のおねだりで、途中、植物園で「オオオニバスの上で正座しよう大会」に出場することになってしまう。
 姪っ子の美咲は成功。次はいづもだが、見事に池に落ちて、オオオニバスのクキも折ってしまう。

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本文

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第 一 章 家出同行人

 心臓がどきどきした。けど、荷づくりの手は止めずに、いずもは一階の居間からの両親や兄弟の朝食中のおしゃべりが続いていることを確かめた。
 日曜なので、皆、ゆっくりしている。でも、誰かが出かける前に家を出なければ気づかれる。リュックに、片っぱしから衣類や日用品を詰め込んだ。夜明けまで眠れなかったが、ようやく決心がついた。
 家を出るのだ。
 何かが足元から落ちた。最近買った星占いの本だ。
(大切なもの、忘れるとこだった!)
 リュックに慌てて戻しながら、スマホで今日のラッキーカラーをチェックする。
(グリーン? ミドリか……。今着ているTシャツ、モスグリーンだけどな。ま、いっか)
 ぬき足さし足で階段を降り、靴を手でつまんで玄関を出て、住宅街を十メートルほど歩いた。
「いずもちゃん!」
 後ろから呼ばれて飛び上がった。振り返ると、家族のひとりの姪っ子の美咲がパジャマ姿で立っていた。いずもは姉夫婦とその娘、美咲と同居しているのだ。
「ああ、美咲ちゃんか……」
「いずもちゃん、どこ行くの? そんなに大きなリュックで。美咲も行く!」
 美咲はまだ五歳の幼稚園年中さんだ。
「どこも行かないわよ。すぐ帰るから。美咲ちゃん、まだパジャマのまんまじゃないの。はい、おうちへ戻ってね」
「ヤダ! きっとどこか遊びに行くんでしょう。美咲も行くう!」
 いずもは慌てて美咲の口をふさいだ。
「美咲? どこ行ったの? 朝ごはん食べましょ」
 美咲の母親、つまり、いずもの姉の声がする。
「ほら、早く戻りなさい。いずもお姉ちゃんもすぐ戻るからねっ」
「イヤダ! 美咲も行く!」
 とっさに姪っ子の手を引っぱって、いずもは駆けだした。バス停から、もうすぐバスが発車するところへ美咲と一緒に乗りこんだ。
「ね、どこ行くの?」
 座席に座ってから、美咲が目を輝かせている。
「ホントにどこ行くか分からないのよ。遊びに行くんじゃないのよ」
 美咲はつまらなさそうに窓の外に目をやった。
 いずもは秘密の家出が失敗して、途方にくれていた。
「ね、次で降りて、反対側のバスに乗るから、おうち帰りましょう、美咲ちゃん」
 窓の外を眺めていた美咲が、
「あっ! 今の看板! 『おにばす』って書いてあった! あそこ行ったことある! 植物園だ!」
「美咲ちゃん、『おにばす』って読めるの?」
「うん、読めた! 植物園行こう、いずもちゃん!」
「待って、あなた、パジャマのまんまよ」
「可愛いからワンピースとおんなじよ。パジャマズボン脱げば」
 美咲はさっさとズボンを脱いで、バスの出口へ歩いていった。
「あ、お母さん、料金一八〇円ですよ!」
「お母さんじゃないです。まだ二十歳ですよ! もう……」
 いずもはバス代を料金箱に入れて、仕方なく美咲を追いかけた。

第 二 章 オオオニバス正座大会

「ね? 『おにばす』って書いてあるでしょ?」
 美咲は、大急ぎでいずもに結わえてもらったツインテールをぶらんぶらんしてにっこりした。
 植物園の玄関である。
 大きな看板に、「オオオニバスで正座しよう大会」と緑色で書いてある。
「オオオニバスって、大きな熱帯の蓮の葉っぱのことかな?」
 美咲はいずもの手をしっかり握って、どんどん中へ進んでいく。
 初夏のいろんな花々が咲き乱れている。種類のいろんなアジサイはもちろん、ツツジや背の高いタチアオイがローズ色に鮮やかに咲き、薄むらさきのアガパンサス、テッセンのピンクや濃いむらさきも美しい。
 大きな池があり、ショウブ、スイレン、蓮の花、そして――、美咲が、
「うわあ~~でっか~~い!」
 叫んで水辺に駆け寄った。
 水面に、大人がゆったり乗れそうな緑色の丸い葉が、全部で十枚ほど浮かんでいる。
「こんなでっかいの、初めて見るよ、いずもちゃん!」
「ほんとうね。私も初めて見るわ。熱帯植物なのね。浅いタライみたいになってる」
「タライってなぁに?」
「洗面器の親分みたいなの」
 玄関にあった看板と同じ『オオオニバスで正座しよう大会』と書かれた看板があり、人だかりができている。
 植物園の係員らしき青年がメガホンを持って説明している。
「ひとりずつ乗って下さい。係員がお助けしますから、慌てずに。正座が成功した方には、サボテンの鉢植えを一個進呈します!」
 赤い花のつぼみがついているサボテンの鉢をかかげている。
 池では別の係員が胴まであるゴム長をはいて、池に下半身まで水につかって待機している。
「ねえ、美咲も乗るぅ~~」
「ええ? こんな葉っぱの上に乗るの? 落ちたら水にはまっちゃうのよ」
「うん! だいじょーぶ!」
「美咲ちゃん、正座できるの?」
「できる! 幼稚園で教えてもらったもん」
 芝生の上で正座してみせる。言い出したらきかない美咲だ。
「あら、小さいお嬢ちゃん、ちゃんと正座できてるわね」
 そう言いながら駆け寄ってきたのは、ショッキングピンクのスウェットスーツを着た、係員の腕章をつけている大柄な美人だ。
「いらっしゃい、お姉さんが乗せてあげる!」
 あっという間に美咲の手をつかんで水辺へ連れて行く。
「あ、待って、待ってください」
 いずもが追いかけた。
「大丈夫ですよ、お母さん。危険が無いように係員はたくさん配置してますから」
(だから、お母さんじゃないって……)
 いずもは肩をすくめて後をついていった。
 近くで見ると、オオオニバスの葉のまわりや表面には長いトゲがいっぱい生えていて、ピンクの大きな花も咲いている。
「葉の上にはビニールシートが敷いてありますから、トゲが刺さる心配はありません」
 青年の係員が言っている間に、美咲は大柄美人に手を貸されて、葉の上に乗ったところだった。怖がりもせず、ちょこんと可愛い正座をした。
「乗れた! 乗れたよ、いずもちゃん、写真撮ってえ!」
「写真たって……」
 いずもは写真どころじゃなく、ひやひやしながら見ているのがやっとだ。青年係員が爽やかな白い歯を見せて言った。
「わたしどもで記念撮影しますから大丈夫ですよ」
 ~~というわけで、美咲は、オオオニバスの上で正座してバンザイしているところを、ばっちり記念撮影してもらった。
 ご機嫌で岸辺に上がった美咲は、
「次はいずもちゃんよ!」
「ええっ!」
(そんなつもりは全然ないってば! なりゆきでここまで来たんだから。ましてや池に落ちたりしたら……)
「さあ、次はお母さんの番ですよ」
 青年係員が言う。
(だ~か~ら~、お母さんじゃないって……)
 断ろうとしたが、大柄美人の係員が有無を言わせず、いずもを岸辺へ連れて行く。
「や、やめてください、私、この身長で六十ニキロあるんですよ!」
 慌てて口に手をふさいだが、大声で言ってしまったので周りの見物人からクスクス笑いがもれた。
「大丈夫です。六十五キロの私でも乗れますから。はい、蓮太郎くん、手を貸して!」
 大柄美人はひまわりのように笑って、いずもの身体を青年係員に指図して、ひょいっとオオオニバスの葉の上に乗せさせた。
「ちょっと、そんな強引にっ!」
 葉の上でじたばたした瞬間、足がズルッとすべった。
 バッシャーン!
 いずもの身体は大きな飛沫と共に、蓮を蹴って池の中へ沈んでいった。

第 三 章 家出がバレた

 見事に家出がバレてしまった。
 スマホが水浸しになったので、仕方なく植物園の電話を借りて、家へ連絡すると両親と姉夫婦が飛んできた。
「いずも、どうして植物園なんて!」
「美咲、オオオニバスの上に乗ったの? 危ないじゃないの!」
 母親と姉がキンキン声で騒ぐ。
 オオオニバスは、水面下でクキによって放射線状につながっている。ひとつが水中に没したので、クキにひっぱられて他の葉も水中に沈み、反動でいちばん太いクキが折れてしまったのだ。
 植物園の青年係員と大柄美人が、いずもの家族に頭を下げた。
「大切なお客様を危険な目にお合わせしてしまい、申しわけございません」
 ショッキングピンクのスウェットスーツの美人は、芝生の上に素早く正座して両手をつき、頭を下げた。
 それにならって青年係員も隣に正座して謝った。
「あ、私もジタバタしたから悪かったんですよ。オオオニバスをめちゃくちゃにしてしまって、こちらこそすみません」
 いずもも立っているわけにもいかず、芝生の上に正座して頭を下げた。
「なにを謝ってるの、いずも。あなたは悪くないんでしょ。強引に乗せた係員の方たちに問題があるんでしょう?」
 母親が少々、厳しい言い方をしたので美咲が泣き出した。
「おばあちゃん、美咲が悪いのよ。オニバスに乗ろうって言ったの、美咲だから。みんなを叱らないでえ~~」
 それまで腕を組んで黙っていた、いずもの父親が、
「誰も悪くない。とりあえず今日は帰ろう」
 泰然として帰りをうながした。

 その夜はあまり会話なく皆で夕飯を食べてから、美咲とママの瑞穂が寝室へ行った後で、父親が口を開いた。
「で、いずも、どうして家出したいと思ったんだ」
「う~~ん、あのう、そのう、自分の性格を変えるために、ひとり暮らししようと思って……」
「ひとり暮らしですって!」
 母親が叫んだ。
「どうして、急に。何か不服があるの? 家族の誰かと喧嘩したの?」
「してないわ。そんなんじゃないの」
 美咲を寝かしつけて二階から降りてきた姉が、居間の入口で足を止めた。
「お母さん、大丈夫よ。いずもはわりとしっかりしているし、家族のことは大好きよ」
「水穂、あんた、いずもから何か聞いてるの?」
「いいえ。今日のとこは疲れてるだろうし、勘弁してやって。母さん」

 いずもが二階の自分の部屋に入ると、すぐ後ろから姉も入ってきた。
「今朝、決行するとは思わなかったわ」
「ごめん、お姉ちゃん。美咲ちゃんに見つかっちゃって」
「ふたりとも無事だったから、なんとも思ってないわ。で、その後、彼から何か連絡あった?」
「ないわよ。あっちから別れてくれって言われたんだから。あ、くれぐれもお母さんたちには、私が失恋して家出しようとしたことはナイショにしてよ」
「分かってる。でも彼も彼よね。おせっかい焼かれて嬉しい人は嬉しいと思うんだけどな」
「やりすぎたらしいわ……」
 いずもはしゅんとした。
「ひとり暮らしだから、お料理作りに行って、洗濯そうじもして、拭き掃除もばっちりよ。お料理は栄養のこと考えて、メニュー決めたわ。彼の好き嫌いもちゃんと聞いて。実家がお金持ちだからお財布のヒモ緩いから注意して、洋服も好みをききまくって。朝起きる時間も目覚まし時計で起きられなかったらいけないから、私がモーニングコールしてたし、会社を退社する時には連絡のメールするように言ってたし、自宅マンションには、セキュリティつけてもらって、昼間の用心のためにね。それから……」
「いずも」
 姉が真正面に来て顔を見た。
「それは、おせっかいじゃなくて『束縛』っていうのよ」
「だから、性格を変えたくて……」
「わかった、わかった、今日はお風呂入っておやすみなさい」
 姉は静かに部屋を出ていった。

 いずもはベッドに身を投げ出し、天井を見つめた。
 昼間見た緑がいっぱいのオオオニバス池の光景が思い出され、美咲がバンザイして記念撮影した嬉しそうな顔や、ショッキングピンクのスウェットスーツの大柄な美人の姿が浮かんだ。
(あの女性、何者かな? やけに正座がキマッてたけど)
 彼女のスウェットスーツが、ミドリの蓮の葉の中で咲くピンクの花のように見えてきて――、いつの間にか眠りに落ちた。

第 四 章 弟子入り

 二、三日して、いずもはもう一度植物園を訪ねた。
(あのオオオニバスをむちゃくちゃにしちゃったんだもんな)
 池へ行くと、その日も『オオオニバスの上で正座しよう大会』が開かれていた。子どもがそっと手を貸してもらって葉の上に乗っている。先日、いずもが乗った蓮のひと株は水面でめくれあがったり沈んだりして、お客様の役には立たないようだ。
(乗せられたとはいえ、実際、葉っぱを蹴って水没させたのは、私だからなぁ……)
 事務所に入りづらくてしばらく大会を見物していたら、岸辺の芝生に、先日のショッキングピンクのスウェットスーツの美人が、朝顔柄の浴衣を着て立っていることに気づいた。
 藍色の地に白と赤い朝顔柄が、目鼻立ちのくっきりした顔にとてもよく似合う。
 池の畔でオオオニバスを見つめていたかと思うと、蓮太郎の手を借りてそっと葉の上に乗り、まっすぐ立った。
 オオオニバスは多少ゆらゆらしているが、左右からスタッフが腰まで水に浸かり、サポートしている。
 しかし彼女はまったく手助けが要らないようだ。葉の上に膝をつき、お尻の下に浴衣をきれいに敷いて、かかとの上に座った。
 まるで空気の流れのように正座した! しかも所作の順序通りに座って成功したのだ。
 座った後は、目を閉じてじっと浮いている。
 岸辺の見物客からパラパラと拍手がわいた。
(私の時と大違いだわ……)

 いずもはその場を離れ、事務所を訪ねた。
(少々、お偉い方かな?)
 数台のデスクの奥に、おじさんがひとりで座っている。
「先日は申し訳ありませんでした。オオオニバスのひと株、お高いと思いますし、それだけじゃなくお世話してこられた係の方々のご苦労を無にしてしまいました。どうか弁償させてください」
 丁寧に頭を下げた。おじさんは穏やかな表情で立ち上がった。
「いや、こちらにも落ち度はありましたから、お気になさらないでください」
「でも……」
「係の者の手間賃とか計算すると、五十万以上はしますよ。そこまで請求するわけにはまいりませんから」
「五十万……!」
 いずもは絶句した。
 そんなに高額とは思わなかった。とても払えない!

 しゅんとなって事務所を後にすると、晴れやかな声が聞こえてきた。
 芝生の上に緋色の毛氈が敷かれていて、真っ赤な番傘を広げられている。
「さあ、オオオニバスの上に乗られるお客様も、乗られないお客様も、正座のお稽古をしてみませんか?」
 大柄美人が叫んでいる。
 周りの家族連れが、ざわざわしながら寄ってきた。
「正座のお稽古って何?」
「お稽古しなくちゃ正座できないの?」
 親子連れやカップルが首をかしげている。
「正座には、ちゃんと所作があるんですよ。どうぞ、お稽古してみてください」
 女性は先ほどオオオニバスの葉の上で見せた通り、てきぱきと正座の所作をやってみせた。
(これだ!)
 いずもはピンと来た。
 大柄美人のところへ走っていき、頭を下げた。
「先日は申し訳ありませんでした」
「あら、この前の。いえ、こちらこそ申しわけありませんでした」
 青年係員も駆けつけてきて、いずもに頭を下げた。
「僕はオオオニバス係の蓮太郎と言います」
「私は蓮太郎くんから手伝いを頼まれた、天峰あまねと言います。彼の大学時代の知り合いです」
「あのう、天峰さんの正座は素晴らしいです。お作法の先生ですか?」
「はい、そうですよ」
 ハキハキした答えが返ってきた。
「やっぱり! 私を弟子入りさせて下さい」
「あら。どうしたの」
「実はあの日、家出しようと思って出かけたんです」
「え? 家出?」
「どうして家出しようと思ったかと言いますとですね……。おせっかいが過ぎて、彼氏からサヨナラされてしまったんです」
「あら」
「このおせっかい焼きの性格を変えたくて。ひとり暮らしすれば少しは変えられるんじゃないかと思って。それに、よ~~く考えると、彼に世話を焼きたかったというよりは、感謝されたくてやっていたんじゃないかと思いはじめましてですね、それじゃ、エゴイストじゃないかと……」
「ストップ!」
 あまねがいずもの唇の前に人差し指を立てた。
「私、ぐずぐず理由を言う人は苦手なの。うちへ正座のお稽古に来るのね」
「はあ、それは……」
「来たいって言ったわよね?」
 あまねの眉間がちょっと寄せられた。
「は、はい、言いました」
「じゃ、決まりね。明日、私の自宅へいらっしゃい!」
「明日?」
「家出するつもりだったんでしょ? いっそ、うちへ住みこみで来たらどう?」
(この強引な感じは、きっと獅子座生まれだわ)
 いずもは星占いの本を思い出した。

第 五 章 あまねの家で

 独身女性なのに、風流な一戸建ての家に住んでいる。
 庭には植物園も顔負けの色とりどりのアジサイが咲き誇っている。
 和風の玄関のチャイムを鳴らすと、昨日とは違うお抹茶色の浴衣姿であまねが出てきた。
「お座敷へどうぞ」
 十畳くらいのお座敷は、茶道の釜も炊ける造りになっている。
「浴衣、持ってきた?」
「はい」
「後で着付けを教えます」
 ふたりで冷茶を一服飲んでから、
「お作法をちゃんとすることは、人格形成にも役立ちますという教えで、亡き母がやっていたお教室だからここを継ぎました。今は、お弟子さんはあなたひとりだけどね、来たからには頑張ってもらうわよ」
 あまねの言葉に、いずもは、
(きっとリーダー性の迫力が強力すぎて、お弟子さんはやめたか来ないんじゃないかな? 早まったかな?)
 などと思った。
「あなた、今、心の中で早まったかな? とか、ぐじぐじ考えているでしょう。私はそういうの大嫌い!」
(きゃあっ、獅子が吼えた!)
 いずもはどこかの穴へ隠れたくなった。
 あまねは表情を柔らかくして、
「そんなに怖がらない! あなた、習い事したことないの? 茶道や華道のお師匠さんて、たいてい言うことはビシッと言うのよ。そんなに怖い人間じゃないつもりよ。遊び心もあるから、植物園の蓮太郎くんの仕事も手伝ってるのよ」
「はあ……」

 浴衣の着付けを習ってから、正座の稽古をすることになった。
(なんだかオオオニバスの池に、半ば無理やり乗せられた時みたいな強引さだわ……)
 いずもはおずおずと浴衣の着付けを習った。
「立派な総絞りの浴衣ね」
「祖母の形見なんです」
「そう! お祖母さま、きっと喜んでらっしゃるわね、孫娘に着てもらえて」
 あまねが黄色い帯の裏地の赤を斜めに折って見せ、見事に結んだ。
「では、正座のお稽古よ。この前、オオオニバスの池で見たかもしれないわね。背すじをまっすぐに立って。身体の芯が中心に来ていることを意識して。そして畳の上に膝をつく。かかとの上に座る際、浴衣に手を添えてお尻に敷いて。そうそう。両手は膝の上に乗せます」
「はい……」
「少し背すじが丸まっているわよ、しゃんとして!」
「はいっ!」
 十回くらいやり直しを命じられた。

 夕飯はまたもや、おっかなびっくり、あまねと一緒に台所に立って作った。一般的な家庭料理だ。
 その日の献立は鯛のお刺身、あさりのおすまし、豆腐の冷や奴というシンプルな品だったが、あまねが考案したという冷や奴のたれがいろんな香辛料と大葉の刻んだものが混ぜてあり、絶品だった。
 夕餉はもちろん正座していただきながら、
「明日は植物園へ蓮太郎くんのお手伝いに行きます。あなたもいらっしゃい!」
 きっぱり言い渡された。

第 六 章 蓮太郎

「今日から、いずもさんも植物園で働いていただきます。私の手伝いということならいいでしょう?」
「ああ、この前の。いいですよ。オオオニバスならまだ数はあるから『正座大会』も続いてやっています」
 蓮太郎は眩しい白い歯で、にっこりして迎えてくれた。

 準備をしながら、あまねが大きな声で、
「いずもさん、あなた、彼に世話を焼きすぎて失恋したって言ってたけど、どんなことしたの?」
 いずもは一瞬、固まったが、正直に言った。
「お料理作りに行って、洗濯そうじもして、拭き掃除もばっちりよ。お料理は栄養のこと考えて、メニュー決めました。彼の好き嫌いもちゃんと聞いて。実家がお金持ちだからって、お財布のヒモがゆるいので注意して。洋服も好みをききまくって。朝起きる時間も目覚まし時計で起きられなかったらいけないから、私がモーニングコールしてたし、会社を退社する時には連絡のメールするように言ってたし、自宅マンションには、セキュリティつけてもらって――」
 あまねの大きな口がポカンと開いた。
「そりゃあ、逃げ出したくなるわ」
「それ、怠け者の俺ならお願いしたいです!」
 そう言って駆け寄ってきたのは、蓮太郎だ。
「え?」
「俺って、めんどうくさがり屋だし優柔不断だし、料理もできないし、当然、栄養なんてむちゃくちゃにしか摂れてないだろうし、洋服も何が流行なんだかチンプンカンプンだし、よく寝坊して遅刻しそうになるし、家を出る時にはよくカギをかけ忘れるし……。そういうことしてくれる人がいたら、大助かりですよ!」
 いずもとあまねは、ポカンと彼の言葉を聞いていた。
「あ、誤解しないでください、いずもさんの彼氏に立候補しようとか、ずうずうしいことは思ってませんので」
「当たり前よ。蓮太郎くん、よくそんなで社会人やってるわね!」
 あまねが歯に衣着せない言葉を投げつけた。いずもがおずおずと尋ねる。
「あのう、蓮太郎さん、もしかして射手座生まれですか?」
「そうですが。よく分かりましたね」
「だって、あまりに大らかなご性格ですから」
「大らか……そういう言い方もありますね。あまり細かいことにこだわらず、くよくよしないんです。自由人とか言われます」
 照れ笑いした。
「羨ましいです。私はかに座生まれで、おせっかい焼き。人のことが気になるくせに、自分は小さな言葉にキズついてしまうんです」
「よく知ってるねえ」
「失恋した原因を知りたくて、星占いの本を読みあさりましたから」
「へええ。でも、星占いだけに縛られない方がいいよ。自由人から言わせると。他の占いだっていっぱいあるじゃないですか」
「はあ、まあ」
「ボクは、いずもさんの彼氏を知らないけど、そこまで尽くしてくれる彼女をふったりする人の気持ちが分からないな。しばらくお互いが治そうと歩み寄るとかできなかったのかな……」
 蓮太郎がこんなにおしゃべりする人とは思わなかった。しかも聞いていて嫌味がない。
「あ、仕事中だった。いずもさん、よけいなこと言ってすみませんでした。気にしないでくださいね」
 と言って、運びかけの荷物を持って、持ち場へ走っていった。
(気にしないでくださいねったって、気になっちゃいますよ、『互いが治そうと歩み寄るとかできなかったのかな』なんて言われると……)
 いずもは、植物園の草むしりを黙々とやり続けた。

「お昼にしましょうか」
 あまねが呼びに来た。朝、ふたりで作ったお弁当を持参してきているのだ。事務所でふたりはお弁当を広げた。
「また、ぐじぐじ考えてるんじゃないの? 蓮太郎くんの言ったこととか」
 あまねはお茶をつぎ足しながら言った。
「確かに自由人ね、彼は。それでも、たまにうちに正座のお稽古に来るのよ。正座して目を閉じて何か瞑想して帰るの」
「そうなんですか」
「何も悩んでなさそうだけど、そういうところを見せないだけ。愚痴や不満を抑えられるのは、とても大人だと思うわ。私と正反対だから」
「あまねさんは、ズバリ、獅子座でしょう」
「どうしてそう思うの?」
「勇ましいですもの。周りの人をぐいぐい引っぱっていく」
「さあ、どうでしょう? あなたの作ったつくねのハンバーグと海苔を巻いた卵焼き、とても美味しいわよ」
「あ、ありがとうございます」

第 七 章 ハス折れて地固まる

 オオオニバスは今日も純白の花を池のあちこちで咲かせて見物客の目を楽しませている。花は、二日めにはピンク色に変わり、花のつとめを終える。
 初夏の緑に縁どられた池は、生命力に満ちている。

 ある日、ふと気づくと『オオオニバスの上で正座しよう大会』の列に並んでいるのは元カレの哲史ではないか!
 夏の高級そうなスーツ姿だ。
 いずもは何度も目をこすって見てみた。
(間違いない。哲史さんだ。どうしてここへ?)
 いずもの目はクギづけになった。芝生にホースでまいていた水が、出っ放しになっても気づかない。
 そのうち哲史の方が気づいて、いずもに手を上げた。
 いずもは走り寄った。
「哲史さん、どうしてここに?」
「君の姉さんに聞いたら、ここで働いてるっていうから見物がてら、君の借金を肩代わりしに来てやったんだよ。小遣いの一部で。植物園に被害を与えたそうじゃないか。ぼうっとしている君らしいな」
「え、肩代わり?」
「ああ、園長さんに被害額の五十万、払っておいたから」
 いずもは驚いた。
「そんな……、どうしてそんなことを? あなたに頼んだ覚えはないわ」
「君に払えるわけないだろう。人のおせっかいばかり焼いて、自分はバイトも長続きしないんだから」
「そ、それはその通りよ。だけど……」
 いずもの瞳に悔し涙が浮かんだ。根性なしであることは、一番指摘されたくない。
「被害は私が与えたのよ。どうして哲史さんが肩代わりするのよ」
「手切れ金代わりかな」
 いずもの心臓が凍りついた。
(哲史さん、こんな冷たいことを言う人だった?)
 植物園用のエプロンを膝の辺りでもみ絞った。
「ねえ、早く行かないと、順番来ちゃうわよ。オオオニバスだかなんだか知らないけど、正座の大会」
 かたわらから、サングラスをずらせて、茶髪の巻き毛の女性が言った。
「ああ、そうだったな。これ、俺の今カノ。お前と違って、ぜんぜん束縛されないから自由でいいぜ。あ、このスーツいいだろ。三十万したんだぜ」
 いずもの心臓にクサビが打ちこまれた。

 哲史は彼女の肩に手を回し、オオオニバスの待ち列に戻った。
 やがて順番が来て、係員に守られながらハスの葉の上に乗る。
「おお、乗れたぜ。おい、お前も来い! 大丈夫だって」
「ええ? 私も乗るの?」
 彼女も驚きながらも、まんざらでもないらしく、長い足を伸ばして岸辺からハスの葉に乗ろうとしている。
「お客様、大人おふたりはお断りしております!」
 とっさにあまねが止めたが、遅かった。
 よろめいた彼女をささえようとした哲史ともども、池へザバ――ン! 見事に落ちた。
 葉とクキが巻きついて、ふたりはもがいている。
「大変、助けなきゃ!」
 飛び出しかけたいずもを、あまねが止めた。
 蓮太郎がふたりを引き上げた。
 哲史も彼女も細かい藻まみれになって、芝生の上へようやく上がった。三十万のスーツが台無しだ。
「なんてイベントやってるんだ、責任者を呼べ!」
 哲史が藻をペッと吐き出し、怒鳴った。
 蓮太郎が立ちはだかった。
「その前に、哲史さんとやら。いずもさんに正座して謝ってください」
「は? なんだ、お前は」
「いずもさんの上司です。さっき、いずもさんにひどいことを言いましたね。仮にも恋人同士だったんでしょう? 同じ男として許せません」
 蓮太郎は毅然として言った。
「あんたにゃ関係ないでしょう!」
「あります。元はというと、あなたのせいでオオオニバスひと株が折れてしまい、今また、もうひと株がむちゃくちゃになった。そしてそれと同じくらいひどく、いずもさんの心を踏みにじったんだ」
「うるさいっ! オニバスだかなんだか知らんが、ひと株でもふた株でも弁償してやるよ、すりゃいいんだろっ」
 哲史の彼女も緑色の顔をしてにらみつけ、ふたりは去っていった。
 あまねが背後から吼えた。
「あんたなんか、正座する値打ちもない男よ、さっさと行って!」
「あまねさん……。さすが獅子座ですね。すごい迫力です」
「私が獅子座ですって? いつそんなこと言った?」
「だって……」
「私はあなたと同じ蟹座よ。母性本能強いのよ」
「え……ええっ?」
「私だって言う時には言うのよ。ああ、胸がスッとした。いずもちゃんは失恋のショックで性格まで変えようとしてるのに、あんな、人の思いやりが分からない男、こっちからふってやりなさい」
「……」
 いずもは黙って池の方を見ている。
「まだ分からないの? あんな男、もう未練はないでしょう」
「はい。今度のお稽古日に蓮太郎さんと正座のお稽古がしたいです。させてください」
「ふふふ」
 あまねが含み笑いした。
「『星座』占いが、『正座』で結ばれたご縁ね」
「オオオニバスもですね。それと、美咲ちゃんでしたか。おしゃまな姪御さんもキューピッドね」
 蓮太郎がやってきた。
「いずもさん、今度、ご一緒に正座の稽古しましょう。自由人だけど、正座の所作は守らなくちゃと思ってますよ!」
 いずもはにっこりした。
「蓮太郎さん、私もそう思います」


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