[386]あかつき色の翡翠姫ビワネ


タイトル:あかつき色の翡翠姫ビワネ
掲載日:2025/10/27

シリーズ名:スガルシリーズ
シリーズ番号:4

著者:海道 遠

あらすじ:
 季節神のうりずんが、翡翠石に自分の名前を刻んでいると、矢が弾かれて翡翠石は真っ二つになり翡翠の内側は黒鉄になっていた。
 悪い予感を感じた彼は、あかり月光菩薩の夫、スガルに八坂神社へ行きスサノオの尊の動向を探ってほしいと頼み、スガルは引き受ける。
 翡翠産地では輝公子があかり菩薩に一つの品を預け、その品はあかり菩薩から美甘の祖父へ。祖父から美甘へ手渡され、黒鉄の産地へ向かう。
 黒鉄の産地にうりずんと美甘たちが到着し、小さな木箱を出して蓋を開ける。
 大きな翡翠――【琅玕】(ろうかん)という最高級の翡翠の指環が入っていた。
 スガルは丹後地方の洞窟であかつき色の衣の女人を翡翠造りの牢で発見。
 彼女は翡翠の輝公子の従姉だった。隣の牢の男がスサノオと呼ばれていたと証言。
 スガルは急ぎ都へ戻り、帝に翡翠一族を『兇つ奴党』から救うべく、正座をしてかしずく。
 出雲の黒鉄のタタラ御前も『兇つ奴党』に宣戦布告。
 月足らずの子を身ごもるマグシ姫に陣痛が起こり、スサノオのまぼろしが現れる。



本文

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第一章 岩牢の姫

 スサノオが姿を消して十日。
 彼の身を案じて、八坂神社で待つ、マグシ姫の心労が続いていた。
「お父様が無事でいてくださいますように」
 つぶやきながら、お腹をさすっている。
「スサノオの尊さまはお強いお方。絶対に帰ってこられますよ」
 戻ってきた美甘姫と子どものゆいまるが、話し相手になってくれるのが慰めだ。

 一方、丹後地方の海岸洞窟を調べていたスガルは、スサノオが閉じ込められていた牢の隣にも同じく翡翠の部屋があることを発見した。壁には翡翠の壁を伝って、のうぜんかずらの花が咲いている。
「ここは――?」
 小さな覗き窓が岩でふさがれており、こじ開けると、あかつき色の衣の女性が意識を失って倒れているではないか。
 スガルは部下と力を合わせて扉を開け、女性を助ける。
「おい、目を覚ますんだ」
 頬をたたくと意識が戻ったので、水を与えた。女性は驚くほどごくごく飲んだ。
 洞窟の外では、あかり菩薩が待っていた。
「そのお方は?」
「漁り夫(いさりお)の家をあたってくれ。この方を養生させねば」
 幸い付近の漁り夫が家を貸してくれた。漁り夫の女房が、
「ご看病させていただきます。そのお方は、高貴そうな……」
 夕方になると、女人ははっきり目を覚ませた。
「あんたの名前は? 翡翠の牢に入れられていたのが分かるか?」
「はい……」
「俺は神仙軍の少尉スガルという。あんたは?」
「ビワネ……と申します。あかつき色の翡翠の守り神を仰せつかっておりました」
「なるほど、確かに鮮やかなあかつき色の着物だな」
「私は翡翠地方の支配者の一族のひとりで、翡翠の輝公子の従姉(いとこ)に当たります」
「ご体調は?」
「水を与えてくださったのは貴方さまですか? 翡翠は乾燥に弱いのですが、水をたんといただいたので気分はよろしいです。ありがとうございます」
 女人の唇にも血色が戻ってきたようだ。
「何故、牢に?」
「ある日、平和だった翡翠一族の地方に『兇つ奴(まがつど)党』と名乗る一族が襲撃してきて、翡翠の輝公子を洗脳してしまったのです。意志の弱い輝公子は『兇つ奴党』に協力するようになってしまいました」
「ふうむ」
「私はなんとしても、きゃつらの言いなりになるまいと心に決め、抵抗しましたが、牢に入れられてしまい……牢にはのうぜんかずらの黄橙色の花が咲いていて……あの花は『兇つ奴党』に穢されたものにはびこるのです」
「うむ。赤い花が咲いていた」
 ビワネ姫は足を押さえて顔をしかめた。
 岩牢での長い生活のせいで、ビワネ姫の足は痛んでいたが、あかり菩薩が診てみて、骨には異常がないと判った。
「しばらく安静にして、痛みがなくなったら正座の所作をお教えする。きっと治る。想念で正座の万古老師匠に伺ってみたところ、翡翠石の上に正座すると完治するとのことだ」
「ありがとうございます」
 ビワネ姫はほっとして、漁り夫の家で横になるとすぐに深い眠りに入った。

 翌日、スガルがあかりとふたりで訪ねてみると、ビワネ姫はすっきりと生気のある顔になっていた。
 彼女は記憶をたどった。
「牢に入れられてから何日かして、隣の牢に男性が閉じ込められた気配を感じました。『兇つ奴党』のひとりが『スサノオ』と呼んでいました」
「スサノオの尊さまだ! やはり『兇つ奴党』に捕まっておられたのだ」
 スガルが背後のあかり菩薩を振り向き、うなずきあった。
 ビワネ姫の追憶は続く。
「毎日、たくさんの黒鉄(くろがね)が地下水路を通って都に運ばれていきました。翡翠の輝公子が【琅玕(ろうかん)】と呼ばれる最高級の翡翠に、スサノオさまへ言葉を吹き込むよう強要しました。その頃、輝公子は完全に洗脳されており、昔の優しい面影はありませんでした」
 ビワネ姫は悔し涙をにじませた。
「スサノオさまは、『言うことを聞かなければ八坂神社のマグシ姫の身に何が起こっても知らぬぞ』と脅され、やむなく朝廷軍とあかり菩薩軍とを同じ場所に集まるよう【琅玕】に 言葉を入れました。一か所に集めることは『兇つ奴党』の思うツボなのですが」
「ありがとうございます。ビワネ姫。ただちに神仙軍の鹿の樹(かのじゅ)将軍にも報告し、私もあなたの護衛兵として都へ向かいます」
 にわかに都へ出立支度で騒がしくなった。

第二章 都にて

 スガルは朝廷に到着するなり、帝(みかど)直属の軍隊の前で、丹後でのことを報告した。
「というわけで、スサノオの尊さまの行方はまだつかめておりませぬ。翡翠一族の娘を丹後で養生させております」
 報告を終えてから、スガルはあかり菩薩と鹿の樹将軍の軍隊に向きなおり、
「『兇つ奴党』の手にスサノオの尊さまが捕らわれている。しかし、いつまでも『兇つ奴党』の好きにはさせん! あかり菩薩さまの軍のお力をお借りして巻き返しを謀り、必ず翡翠の里を奪還する!」
 出撃の声が辺りをどよもした。
 あかり菩薩軍と鹿の樹将軍の軍とが、後に続いた。
 スガルも参戦に武者震いしていた。鹿の樹将軍が馬を寄せてきて、ヨダレを垂らさんばかりの顔つきで、
「おい、丹後で拾ったビワネっちゅう姫さんも、なかなかええおなごだなあ〜、肉付きはいいし。な、スガル」
「私はあかり菩薩さま一筋ですっ! 兄上と一緒にしないでくださいっ」
 言ってから、スガルは立ち止まった。
「兄上、いつの間にビワネさんに会ったのです?」
「美女の匂いには敏感でな。翠鬼が透視で見せてくれたんだよ」
 目尻を下げて白状した。
「……ったく!」
 スガルはプイッと視線を逸らせ、馬を進ませた。

 都の空に稲光が走り、薄暗い雲が集まってきた。
 八坂神社の上空にもオロチの鱗(うろこ)のような雲が流れてきた。昼間だというのに奥殿は真っ暗である。
 マグシ姫は心配の上に辺りが薄暗いので、震えはじめた。
 美甘ちゃんも膝に抱っこしている、ゆいまるを撫でながら心もとなくなってきた。

 座敷の奥に納戸に通じる廊下がある。
 重い扉が音もなく開いて青白い顔が覗いた。まるで爬虫類のような口角から赤い舌がちろちろしそうな、目つきが狡猾そうな若い男の顔が見えて、
「スサノオはまだ戻っておらぬようだな」
 とだけつぶやいて、すぐに引っ込んだ。
「きゃあああっ!」
 美甘ちゃんが叫んだ。
「そ、そこに白い顔の男が~~! 誰っ?」
「スサノオさまの偵察に来たんなら、兇つ奴党かしら?」
 大きい雷鳴が響き、座敷が真昼のように白く照らされた。
 美甘ちゃんとマグシ姫は抱き合って悲鳴をあげた。
「者ども、納戸周りを警戒せよ! ふたりとも元気出して! 私がついているじゃないか」
 うりずんが部下に命令して奥殿を一周してきて、よいしょと、あぐらをかいた。
 美甘ちゃんが睨んでいる。
「分かった、分かった」
 正座に改めた。
「とにかくスサノオの尊さまは、ちょっとやそっとで『兇つ奴党』になど屈したりはなさらない。きっとどこかに元気でいらっしゃるよ」
「無責任な言い方ね」
 美甘ちゃんの目がいっそう怖くなった。
 うりずんは奥ちゃんの耳にささやく。
「じゃあ、私も捜索に出かけていいのか? ここに姫君ふたりと『やや桃さん』だけになってもいいんだな?」
「い……いいわよ。マグシ姫とゆいまる3人なら、怖くないわ」
「意地っ張りの美甘、ポンカン、夏みかん!」
「んまっ、うりずん、凝りずん、憎まれずん!」
 ふたりは顔を突き合わせて「あかんべえ」をした。

「さて、もうひと巡りしてくるか」
 うりずんが立ち上がりかけた時、ゆいまるがよちよちやって来た。
「チチ、抱っこ、抱っこ~~」
「よし、ゆいまる、おいで」
 うりずんは息子を抱いて再び境内へ出ていった。マグシ姫は親子の後ろ姿を見てため息をつき、少し目立ってきたお腹を見下ろして撫でた。
「君さま、早く帰って来られますように。やや桃さんの元に……」

 境内でゆいまるを肩車して歩いていたうりずんは、東の山へ目をやり一歩も動けなくなった。
 山の中腹から、むっくり首をもたせ上げた巨大なものがある。それも何本もだ。
(なんて巨大なんだ……)
 話に聞くヤマタノオロチに違いない。暗い緑のぬめぬめとした身体に巨大な鱗がびっしり。眼は山吹色に輝き、牙と同じ色をしている。
 それぞれの頭が真っ赤な口をくわりと開けている。
 一頭がぬ~っっと、近づいてきた。
「ゆいまるっ」
 うりずんは慌てて息子をしっかり抱きしめた。
「ゆいまるを飲み込むなら、私を先に飲み込め、オロチめ!」

第三章 タタラ御前と炎

 黒鉄一族の里では――。
 館の大きな部屋の卓上に大きな緑の翡翠の指環が静かに置かれている。
 タタラ御前はずっと睨みつけていた。スサノオの尊の言葉を聞くことができたが、指環から瘴気(しょうき)が漂い出て止まらない。
 スサノオの言葉は真実だろうが、どうも嫌な気配を振りはらえないでいる。
 タタラ御前の胸には答えはすでに出ている。
 翡翠の輝公子は、もはや清らかな存在ではない。『兇つ奴党』とやらに支配されている。スサノオの尊は彼らに捕らえられたに違いない。
(どうすれば奪還できるか―――)
 それを考え続けていたのだ。

 庭では大きな篝火が火花をパチパチと弾けさせて、夜空を焦がしていた。
 タタラ御前は急に卓上の指環をつかむや、篝火目がけて投げつけた。篝火は指環を飲み込み、ボウッと燃え上がる。
「御前! 何をなさいます! 翡翠輝公子からのお品をっ!」
 周囲の者たちが口々に騒いだ。
 タタラ御前は、彼らの前に腕を伸ばしてさえぎり、炎の中の指環を見つめ続けた。
 やがて炎は揺らぎ、燃え上がったかと思うと何かのカタチを示して動きを止めた。
 出来上がったカタチは人の顔だった。
「――タタラ御前、指環を受け取ってくれたかな?」
「そなたは!」
「そうさ、そなたのよく知る翡翠の輝公子だ」
「違うわ! 翡翠の輝公子はそんな邪悪な目をしないわ。――お前は翡翠一族の里に襲いかかったヤマタノオロチの残骸だね!」
「おやおや、残骸とは――これはご挨拶だな、タタラ御前」
 憎々しげに、顔は炎の中で笑った。
「我がいなければ、翡翠一族は生き延びることができなかったろうに、それが恩人に対する言葉なのか?」
「貴様の力など借りずとも翡翠は永遠の存在だ! つまり黒鉄ともまた一蓮托生だ! 翡翠も黒鉄も滅びはせぬ」
「そうかな? ふふふ……。我らが取り憑いて抜け殻にした人物の元で、翡翠も黒鉄も生き延びられると思うておるのか?」
「白状したな、ヤマタノオロチ! いったい誰を抜け殻にした?」
「さあな? 誰だろうな?」
 顔のカタチは炎の中に紛れたかと思うと、オロチの舌がちろちろする何本もの火の柱に溶けてしまった。
「ヤマタノオロチ! どこへいった? 卑怯だぞ、誰に取り憑いたか、白状せぬか~~!」
 タタラ御前は絶叫したが、篝火は燃えて沈黙が続くばかりだ。

 庭の隅から白いものが飛び出してきた。タタラ御前がよく目を見開くと、白いうさぎではないか。
「うさぎ――? お前は何だ?」
 続いて、うさぎの出てきた暗闇から白い着物を着た逞しい体格の男が現れた。のっしのっしと歩いてきて、タタラ御前の前にやってきた。
「そなたは?」
「俺はうさぎの恩人だ。ご先祖の危機を嗅ぎつけてやってきた」
 高原の湖のような瞳をした男だ。勾玉(まがたま)の連なった緑の翡翠の首飾りを着けている。白いうさぎが彼の腕の中に飛びこんだ。
「ご先祖の危機――? そなたはもしや?」
「私には名がたくさんある。うさぎの周りでは、皆、大国主(おおくにぬし)と呼ぶ」
「大国主の命?」
 大和神話の中では知らぬ者がいないくらいの有名な神だ。
「ご先祖を救わねば、私が存在しない。ちと遠くへ行ってくる」
「あっ! いずこへ?」
 大国主と名乗った男は、止める間もなく篝火の中へ飛びこんだ。赤黒い炎が一瞬、青く燃え上がった。
 タタラ御前は呆然と見送るしかなかった。

第四章 陣痛

 うりずんがゆいまるを大切そうに抱えて、駆け戻った。
「奥ちゃん、地下へ逃げろ! ヤマタノオロチがやってくるぞ!」
「はあ? 何言ってるの? 何にもいないわよ」
 うりずんは一生懸命に、蔀戸(しとみど=上下に開け閉めできる木戸)を閉めて回っている。

「……うっ……」
 マグシ姫は、かすかな異変を感じた。
 まだ目立たなかったお腹が、どんどん膨らんでいく。
「これは、どうしたことなの?」
 美甘ちゃんもボーゼンとした。
「まだ六月(むつき)なのに……。美甘ちゃんっ! 痛みが来たわ!」
「ええっ、そ、早産かしら!」
「お腹が急速に大きくなっていく――!」
「そよぎ! そよぎ! 来て!」
 美甘ちゃんはうりずんを呼んだが、うろたえるばかりで頼りにならない。
「巫女長を呼んで!」
 巫女長が息せききってやってきた。
「もうお産まれになるのですかっ! 早すぎでは……」
「でも、さっきから、間をあけて痛くなるわ。これは陣痛なんでしょう?」
「そうです! なんだってこんなに急に……よりによって、スサノオの尊さまの行方がしれない時に」
 巫女長は目を血走らせて、巫女を呼び集めた。
「神社の裏手の産屋にお移しします! 湯を沸かしなさい! 産婆さんを呼びに行って!」
 巫女がふたり、草履を飛ばして産婆さんを迎えに行った。数人は巫女長と一緒に姫を産屋まで運んだ。
 美甘ちゃんは、ゆいまるを巫女に預けてから、マグシ姫の十二単を脱がせ始めた。
「マグシ姫、落ち着いて。私がついていますよ」
「美甘ちゃん、手を握っていて……」
 白い産衣1枚になったマグシ姫は、最高の痛みが押し寄せてきたと感じた。と、同時に耳元で声がした。
『マグシ、しっかりせい。これから産もうとしているのは、私、スサノオなのだぞ』
「君さま……?」
 手をしっかり握ったのは、スサノオの尊その人に間違いない。
「ご無事でいらしたんですね……」
『いや、私の魂は『兇つ奴党』に抜き取られてしまった! 今、ここにいるのは抜け殻だ。今から私の魂と我が皇子を産んでもらう。マグシよ、しっかり産んでくれ』
「な、何を仰せなのか、私には……」
 陣痛がひどくなっていく中、マグシ姫は懸命に頭をめぐらせた。
「君さまの魂が抜き取られた! ――甦るには、私が君さまの魂と皇子を産むしかないのね!」
「スサノオの尊さまがお帰りになったんですねっ! 私には見えませんでしたが。ああ、頭がどうにかなりそうなお話ですが、姫さま、私もついておりますから!」
 美甘ちゃんが、マグシ姫の顔の汗を拭きながら励ます。
「ありがとう、美甘ちゃん、頑張るわ」

第五章 ふたりを産む

 いよいよ産まれるかという時に、スサノオは白い影となって薄く消えていった。
 マグシ姫は、うんとうんと唸りながら頑張る。
「君さま! ちゃんと産んだら、ご褒美に温泉旅行連れていってくださいね! いや、ブランドバッグでもいいですから~~~!」
 目の前がかすみながら、正師匠万古老の教えが思い浮かんだ。
『はぐく女(め)さん(妊婦さん)に教えていたじゃろうが。肝心の時には口で息をするのじゃ!』
「はいっ」
 力のかぎり、美甘姫は息んだ。
 大きなものが自分の身体から産まれていく感じがした。
 苦痛ではなく、どちらかというと心地よい感じさえする。

「ふぎゃっ、ふぎゃあっ」
 ――しばらくしてから産声が聞こえた。意識がはっきりしてきた。
 巫女長が産湯をつかわせた皇子を傍らに寝かせた。
 真っ赤な顔をしているが、鼻筋の通った元気な可愛い赤さまだ。
「おめでとうございます!」
 巫女長と美甘ちゃんとお産婆さんが、3人そろって手をついて挨拶した。
「え? 私が産んだのは、この子ひとり?」
「そうですよ。他に誰を?」
 巫女長が不思議そうな顔をした。
(じゃあ、君さまはどこに生まれてしまったのかしら? 変ねぇ、確かに伴侶を産むという感じがしたのだけど。どこかの空間に飛ばされたとか?)
 急に不安が押し寄せてきた。

 長い夜が明け、外はすでにあかつき色に染まろうとしている。
 若い巫女が駆けてきた。
「マグシ姫さま、神仙軍のスガル少尉さまがお見えです!」
「スガルくんが?」
 スガルが軍列を抜けてやってきたらしい。産屋の外で一礼した気配がする。
「ご産後間もなくですので、扉越しに失礼つかまつります。ただいま丹後に滞在しております、翡翠一族のビワネ姫からの文をお持ちいたしました」
 巫女が預かり、文が読まれた。

『マグシ姫さま
 スサノオの尊さまは、昨夜、丹後の海岸で旅人に発見され、保護させていただきました。お元気でございます。翡翠一族も信頼している、スサノオの尊さまを心こめてご看病いたしますので、ご安堵なさいますように。
                ――ビワネ』

「良かった! 君さまが丹後の海岸におられた!」
 文を胸の上でくしゃくしゃに握り締め、美甘ちゃんと嬉し泣きした。
「スガル、ありがとう。この翡翠一族のビワネというお方はどなた?」
「えっと……翡翠一族の……憧れ……の的のお姉さん…じゃなくて……、お産婆さんの長老で、信頼できるお婆さんですよ!」
「そう。あなたから、くれぐれもよろしくお伝えしてくださいね」
 マグシ姫は、ようやく安堵して横になった。
 うりずんが簀の子にいるスガルにすり寄り、
「おい、ビワネ姫って若いグラマーな女性だって、お前の兄上から聞いたが?」
「しっ、し――っ!」
 スガルは呼吸不全になるほど、シ――ッとした。
「うりずんさん、ビワネさんは人間換算すると100歳くらいのお婆さんですよ!」
 簀の子の突きあたりにひきずっていき、
「うりずんさん、マグシ姫さまは産後すぐなんですよ! ジェラシーなど起こされてはお身体にさわります!」
「あ、そっか」
 こっちを向くと、怒って赤くなった美甘ちゃんと顔を突き合わせた。
「そよぎ! あんたなんか、オロチに食われてしまうがいいんだわ!」
 巫女に預けていたゆいまるを抱っこして、神社を後にした。

第六章 スガル対翡翠一族

 スガルは隊列に戻り、越の翡翠地方へ進軍した。
 途中で思いがけなく、ビワネ姫が単身、騎馬で追いかけてきた。
「スガル少尉!」
「どうしたのです? スサノオの尊さまは?」
「信頼できるお方に看病をお願いしてきましたから、ご安心ください!」
「信頼できるお方――?」
「私が責任もって信頼できるお方と言い切ります。そのお話は後ほど」
「はあ……」
「私も翡翠一族の輝公子と戦います! お連れください!
 輝公子はもはや翡翠一族ではありません。オロチに魂を売ったのですから」
 ビワネ姫の眼光は強い。決意が見てとれた。
「分かった。皆の者、進軍――!」
 スガルの采配が振られた。
「来たんだ、ビワネ姫ちゃん~~~」
 列の最後列にいた、鹿の樹将軍が目尻とヨダレを垂れんばかりの顔になった。

 翡翠一族も迎え討つべく備えをしていた。
 青白い顔の翡翠輝公子は、舌なめずりしてスガル軍の様子を部下から聞き、やる気十分だ。
「神仙軍が人間の朝廷の味方をしてよいのか? 人間が翡翠を手にできなくなってよいのか? よいなら、とことん叩きのめしてやる! スサノオのいない神仙軍など、虫けら同然だ!」
 戦いの火ぶたは切って落とされ、丸一日、激戦が繰り広げられた。多くの神仙軍兵士が攻撃され、倒れていく。
「はははは、神仙の兵どもがこれほど脆弱(ぜいじゃく)とはな!」
 翡翠の輝公子の進軍が止まらない。
 その時――、青毛の馬の騎馬が、戦乱を突っ切ってやってきた。
 翡翠の輝公子とスガル軍の対峙する場で青毛の馬は止まった。騎乗の人が鎧を脱ぎ、艶やかな黒髪が鮮やかに下ろされた。
 腕の中には――。
 小さな赤ん坊が抱かれている。
「翡翠軍、この赤さまの前で神仙軍に逆らうか! スサノオの尊の皇子さまであるぞ!」
 翡翠軍はざわめいた。
「スサノオの子だと?」
「スサノオの尊は『兇つ奴党』に魂を抜かれたはず――!」
 青毛の馬の騎馬の主は、
「わらわは黒鉄の里のタタラ。尊さまはお救い申し上げてわが手にある! そして、赤さまはまさしくご嫡子! 感じるがよい、神仙の魂の力を!」
 翡翠軍は神仙の新しい命の息吹を、いや脅威さえ感じてひるんだ。
「おお――!」
 スガル軍は拳を上げてから、次々と下馬し、皇子の前に正座してかしずく。
 ビワネ姫も感激の涙を流しながら駆けつけて、皇子さまの前で正座して静かに頭を下げる。
 スガルもおもむろに馬を下り、恭しく正座し、皇子に頭を下げた。
 翡翠軍の兵士たちは、手も足も出せない状態でぼんやりしている。
「何をしている、今だ!」
 輝公子が叫んだが、誰ひとりとして剣を赤子に向けようとはしなかった。できないのだ。
 目に見えない強大な力が皇子の周りに張られている。
 スガルが黒鉄の女神タタラ御前から、皇子を受け取った。
「タタラ御前。よくぞ皇子をお連れ申してくださいました」
「スサノオさまご無事の吉報と、皇子ご誕生の吉報が同時に入りましたので都へ急ぎ、軍を追ってまいりました。さすがスサノオの尊さまの皇子さま、急な旅にも動じられず――」
 みどりごの皇子は何も知らず、すやすやと眠っている。
「ただ、粗相をされたので私の衣はびっしょりですが」
 タタラ御前は苦笑してつけ加えた。

第七章 青い湖の水

「今なら、スサノオの子を狙えるぞ!」
 翡翠輝公子がわめいているが、将も兵士も動かない。軍の指揮はたちまち落ちてしまった。
 軍の背後から、黒い大きな幾重にもトグロを巻いた影が、上空に抜け出し消えてゆく。

 ビワネ姫が翡翠の輝公子に駆けよった。
「輝公子、しっかりしてください! 私のことが分かりますか?」
 焦点を結んでいなかった輝公子の瞳が蘇った。邪悪な色が消え、純粋な色が見える。
「ここはどこだ……皆、どうして戦の格好を?」
「何も覚えていらっしゃらないのですか!」
「ビワネ姫、あなたまで戦支度をして……。いったいどこの国と争っていたんですか! あれほど争いは禁じてあるのに」
「貴方に憑りついた者どもを全く覚えていないのですね!『兇つ奴党』という輩を! 洗脳された貴方の無茶な命令で、私まで洞窟の牢に閉じ込められていたのですよ!」
 ビワネ姫は、ハッとした。
「翡翠一族が『兇つ奴党』の縛りから解けたのなら、あの方はどうなったか……戻らなければ!」
 ひらりと馬に乗り、西へ走り出した。
「ビワネ姫!」
「丹後へ戻ります! スサノオの尊さまが気がかりです!」
 東へ進んできた神仙軍の中を一騎ですり抜け、戻っていく。

 馬をひらすら走らせた。都へ戻ると、北山へ入る付近で翡翠色の細身の鬼が馬を止めた。
「あなたは確か……」
「翠鬼と申します。姫さま、八坂神社に寄ってください」
「何故? 急いでいるのよ!」
「スサノオさまをお救いするためです。丹後で尊さまを発見された方から想念が届いたのです」
「発見されたお方から想念が?」
「八坂神社には地下湖があるという言い伝えがあります。そこには青龍さまが住まわれています。スサノオさまをきっと護ってくださいます」
「青龍……青龍さまが」
「地下湖の水を、スサノオさまに飲ませてあげてくださいとのことです」
「わかったわ。翠鬼、あなたの言うことを信じるわ」
 ビワネ姫は馬首を八坂神社へ方向を向けると、すぐに東の八坂神社に駆けつけ、宮司さまから地下湖の場所を聞き出した。
 奥殿の床下に地下へ通ずる道があった。
 真っ暗な中を提灯だけで進んでいくと、やがて、目の覚めるような青い透明な水を湛えた湖が待っていた。
 瓢箪(ひょうたん)に水を入れ、自分も存分に水を飲んだ。
「なんて新鮮で聖なる水でしょう! これならきっと……」

第八章 大国主の命

 二日かかって日本海側へ出て、スサノオの尊を預かってもらった方の元へ急いだ。海岸の漁り夫の家だ。
 女将さんが出てきた。
「ああ、ビワネ姫さま! 長い距離を……お身体は大丈夫ですか」
「翡翠の四方形に正座して元気をもらったから平気よ。それより、スサノオの尊さまとあのお方は?」
 スサノオの尊は海岸に佇んでいた。背後に似たような後ろ姿の男がついている。
 砂浜を踏みしめて、ビワネは緊張して彼らに近づいていった。
「貴方さまは大国主の命さまですね」
 白いうさぎを抱いた男が振り向いた。とても穏やかで安らげる瞳の男だ。
「そうです。貴女さまは?」
「翡翠一族のビワネと申します。スサノオの尊さまを発見してくださったとか。八坂神社の皆さまに代わりお礼申し上げます」
「いやいや、私の先祖ですから当然のことをしたまで」
「スサノオさまのお加減はいかがです?」
「八坂神社の地下湖のお水をお持ちいたしました」
 瓢箪を見せた。
「青龍が棲むという湖の――。さっそく飲ませてさしあげてください。オロチに憑りつかれていたお身体が癒されることでしょう」
「はい!」
 ビワネ姫はそっとスサノオの背後に寄った。
 スサノオが瓢箪に口をつけて飲みはじめたとたんに、空から何かが降ってきた。
「な、何かしら」
 手で受けると、青い小石だ。
 見上げると青い龍が、空を覆うように飛んでいるではないか。
「青龍さまだ!」
 大国主の命が叫んだ。
「降ってきたのは青龍さまの鱗だな」

第九章 瑞兆

 都の空にも青い石が降った。都の空にも青龍が舞ったのだ。人々は「瑞兆だ」と言い、喜んで青い石を受け取った。
 石とは言っても淡雪のように軽く、手のひらに受けたとたんに消えてしまうのだった。

 スガルが丹後地方に到着した。
「お~い!」
 大きく手を振りながら叫ぶと、海岸にいるビワネ姫とスサノオの尊、大国主の命は振り向いた。
 スサノオの尊が元気よく手を振り返す。その瞳には輝きが戻っていた。
「スガル!」
「スサノオの尊さま、すっかりお元気に……」
 スサノオはスガルの肩をたたいた。
「心配かけたな。皆のおかげでこの通りだ。ビワネ姫が持参してくれた地下湖の水を飲んでから、みるみる力が湧いた」
「八坂神社では、マグシ姫と皇子さまがお待ちですよ! 早く帰ってさしあげてください」
「うむ。妻と子が世話になったな、スガル」
「お役に立てたかどうか……。皆さま、ご無事で何よりです! 皇子さまに何とお名前を命名されるか、皆、楽しみにしております」
「名前……名前か……」
 スサノオの尊は視線を空に漂わせた。

第十章 再び名前刻み

 翡翠一族の軍は越の村落に帰り、平和が戻った。
 スガルとうりずんは奈良に戻り、先日の続きの翡翠に名前を刻む作業を再開した。
 新しい石は純粋な緑の翡翠のみ。もう内部に黒鉄が隠されてはいない。
 ふたりは桃の矢でコツコツ刻んでいく。
「名前って大切だな」
 うりずんがしみじみとつぶやく。
「はい。名前の通りの人生を歩んでいく気がします」
「スガル。お前の名前の意味は?」
「笑わないでくださいよ。ジ、ジガバチの体形を表わす女のことのようですが……」
「はあっ?」
「俺って、そんなに腰細いですか?」
 スサノオの尊もやってきた。
「皇子の名を決めたぞ、『碧天丸』だ! 青龍に因んだ名だ!」
 うりずんとスガルは、ナイショ声で、
「『へきてんまる』さま……なんだか派手だな」
「八坂神社のご祭神の皇子ですから、いいんじゃないですか」
「……マグシ姫がいいとおっしゃるのなら」
「ジガバチより、よほどいいぞ!」
 うりずんは笑い、スサノオの尊は張り切って翡翠石と矢を運んできた。

 ――その時、林の上を青龍が慌てて飛ぶのが見えた。
「しまった~~! 龍は鉄の矢が苦手だったんだ!」
 スサノオはあたふたした。


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