[226]白馬神の正座



タイトル:白馬神の正座
発行日:2022/05/01

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:52
販売価格:200円

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容
 明治の中期。農家の娘、まとわは農作業、家事、何をやっても駄目な子で、足手まといの「まとい」と呼ばれて家族や友達からもバカにされていた。
 飼っている農耕馬も、まとわと同じく何をやっても失敗ばかりで、「駄馬」なので「ダバ」と呼ばれている。まとわはいつも失敗して叱られているダバの気持ちが分かるのだった。
 ある日、気品ある狩衣すがたの旅の若者がまとわの家で休憩し、「正座」という座り方をまとわに教えてくれる。

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本文

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第 一 章 駄馬のダバ

 明治時代の半ば。世の中はすっかり文明開化の時代だが、農村にはあまり関係ない。米や作物が豊かにできるかどうかの生活が続く。
 農家の女の子、まとわは十五歳だ。
 簡単に結い上げたお団子頭からおくれ毛をはみださせて働いている。
 まとわの家の農耕馬は、農作業でスキを引かせてもまっすぐ歩けない、すぐへばる、荷車を引かせても横道にそれる。なのによく食べるわで、家族は困っていた。あんまり駄目な馬なので、そのままダバと呼ばれている。
 まとわ自身も、農作業を手伝ってもうまくいかない、グズ、グズと言われ、台所では鍋は焦げつかせる、お裁縫では縫い目が曲がってしまう有様で、父、母、姉から叱られてばかりいた。「足手まとい」から「まとい」と呼ばれている。
「や~い、や~い、足手まといのまとい!」
「何をやらせても役立たずのまとい!」
 近所の同じ年頃の子たちからも「まとい」と呼ばれてバカにされている。誰も本名の「まとわ」で呼んでくれない。
「ねえ、ダバ。あたいも仕事がよくできないから、お前の気持ちがよくわかるよ。頑張っても頑張っても出来ないんだよね」
 日暮れ、小川でダバの足を洗ってやりながら話しかける。
「ダバにはなんとか頑張ってほしいよ」

 ある日、いつものように農作業をしていると、旅の若者が休憩に立ち寄った。ふたりの供を連れて、薄い黄緑色の狩衣をまとっている。
「馬の働きがよくないとな」
 若者がダバのことを聞きつけて尋ねた。
「はい。どうしたものかと思っています」
「私は天橋立明神の磯清水を守る役目を仰せつかっておる神官だ。磯清水を飲めば、生き物すべて生き生きとして動けるようになる」
 明神様の土地へ帰る途中だという。どこか神秘的な若者は、まるで都の貴族のようだ。
 まとわは、若者に尋ねた。
「もしかしたら、その水を飲めばダバも優秀な馬になるでしょうか?」
「おお、きっとなるとも」
 力強い答えが返ってきた。
 青年の休憩している座り方を、まとわは初めて見た。こんなきれいな座り方はかつて見たことがなかった。お供の者が敷いたゴザに、膝を折って座っている。何と上品なのだろう。
 父親や兄は、あぐらをかいて座るのだが――。

 できるだけお世話しようと思い、新しい草鞋を用意して若者の足を湯で洗った。洗い終えるとまた独特の座り方をした。
「この座り方は正座というのだ。やってみるかね」
 所作を教えてくれた。
 まとわは一生懸命やってみたが、順序を間違えてばかりの上に、やっと座れたと思ったら、すぐに足がしびれてひっくり返ってしまった。
「繰り返し稽古するがよい。私も物事がうまくいかぬゆえ迷うこと、悩むことはしょっちゅうだ」
「神官様のような高貴なお方でも物事がうまくいかないことがあるのですか」
「あるとも、うまくいかないことだらけだ。そうでないと、人は努力しなくなるだろう?」
「そうか、そうだよね」
 まとわは感心した。
「結局、自ら努力しなければ何事も成さぬのだ」
 笑って行ってしまった。

 畑に撒く大切な作物の種や苗を荷車で運んでいる時に、ダバが畦道を踏み外して荷車が傾き、川に落としてしまった。
 まとわとダバは、父親にこっぴどく叱られる。
「この役立たずの駄馬め! 一年分の種や苗が台無しだ。もう我慢ならん。売り飛ばしてやる」
「待って! 橋立明神の磯清水を飲ませるから。そしたら、きっと賢い馬になるから。あたいも頑張るからお願いだよ、おとう」
 土下座して家族を説き伏せ、天橋立への旅に出た。

第 二 章 橋立明神に到着

 いくつも山を越え、海を目指す。ダバに乗ったり綱で引っぱったりしながら、十日も旅をしただろうか。野宿したり農家の軒先で寝かせてもらったり。ようやく山と山の間に海が見えた時には、踊り上がりたい気分になった。
 まとわは海を見るのが初めてだ。
「ほら、ダバ。海が見えたよ。橋立明神様まで後少しだよ」
 ダバは「ぶるるん」といななく。のんきなニコニコ顔と言ったら。

「これが天橋立か~~」
 まとわは、ダバの背から見える美しい景色に圧倒された。
 天橋立というのは、丹後の海にある長さ一里くらいもある細長い砂洲のことである。山の上から眺めると龍が天に昇る姿に見えるというので、昔から人々のあこがれの地になっている。
 晴れた空の下、青い海の中を長く続く砂洲は、龍に見えて見事だ。
 ダバは「ヒヒ~~ン」と歯をむき出す。

 明神さまは、細長い砂洲の中ほどにあるという。
 松が砂洲の上に、たくさん生えている。旅人や物見遊山の人がひっきりなしに通る。
 知恵の文殊堂という寺の巨大な山門があり奥に行くと本殿がある。お参りすると知恵を授かるというので、たくさんの人が線香の煙をかぶってにぎわっている。
「ダバが磯清水を飲んで賢い馬になりますように」
 まとわも手を合わせた。

 ぼろぼろのはげた着物を着た男の子が声をかけてきた。まとわと同い年くらいだろうか。
「お前、その馬をどうするんだ」
「橋立明神様の磯清水を飲ませようと思って、はるばる旅をしてきたのさ」
「その太くてみっともない馬にかよ」
「みっともないたぁ、何さ」
「だって足は太いわ、毛並みはボサボサだわ、さっきから見てるとヌシの言うこともきかずに、ポクポクとのんきに歩いているじゃないか」
「だからきれいで賢い馬になるように来たんだよ」
「無駄だと思うけどな」
 憎まれ口を聞きながら、男の子はついてくる。
「いつまでもついてこないでよ」
「案内が必要だろうと思ってサ。おら、座々丸ってんだ。物見遊山のお客に座るためのむしろを一回一銭で貸してるんだよ」
「案内なんていらないわよ。もう橋立に到着したんだから。明神様はこの砂洲の途中にあるんでしょう、一本道だから迷子になったりしないわよ」
「さっき、文殊堂という寺があっただろう。この橋立は、文殊堂の境内なんだぜ」
「へえ。それがどうかしたの」
「もし、通行料でも要りようだったら、お前、金子は持ってるのかよ」
「金子? お金なんて持ってないわよ。来る道で農作業の手伝いしたり、赤ん坊がいたら子守したりしながら、ご飯にありついてきたんだから」
「アハハ、冗談だよ。通行料なんか要りようじゃねえよ。そんなことしたら、橋立明神の神様に怒られちまわ~~な」

 橋立明神は松の林の中にひっそりと建っていた。磯清水の木造りの四角い井戸が本殿の脇にある。
 本殿から出てきたのは顔色の悪いガリガリに痩せたおじいさんの宮司だ。眼がとろんとして口をへの字に曲げている。
(感じわるっ! というより、生気のない宮司さまだなあ)

 磯清水は思ったより小さな木造の四角い井戸だ。さあ、ダバに水を飲ませられると思ったが、水は枯れてしまっている。
「諦めて帰るがよい。磯清水は枯れ果てた」
「枯れ果てた~~?」
 まとわの全身の力が抜けた。せっかくここまで来たというのに、井戸の水が無いなんて。
 座々丸も驚いている。
「今までこんなことはなかったのに、どうしたんだろう」
 宮司の機嫌も悪い。
「まったく、このままでは参拝客が寄り付かなくなってしまう」
 まとわも途方に暮れた。
「どうしよう……、はるばるやってきたのに」
 何も知らず、鼻面をすりよせてきたダバの顔を撫でてやる。
「家へ帰ったら、お前は売り飛ばされるしねえ」

 考えたあげく、再び井戸に磯清水が湧き出るまで待つことにした。
 座々丸が肩をすくめて、
「そんなの、いつになるか分からないぞ」
「それでもせっかく来たんだから、待つことにするわ」
「……」
 座々丸はいつのまにかいなくなったと思ったら、戻ってきた。
「近くの旅籠で、住み込みの女中の仕事を見つけてきてやったぞ。ダバにも荷役の仕事をしてくれだって」
「ええ? ほんとうか、そりゃ」
 まとわは、初めて座々丸に感謝した。
(そうそう、正座を教えてくれた美しい高貴なお侍が帰った時には、もう磯清水は枯れていたのだろうか。そうだったら、がっかりしているだろうな)
 思いを馳せるまとわだった。

 それから三月の間、まとわは磯清水が湧き出るのを待ちながら一生懸命、旅籠で下働きの仕事をした。

第 三 章 ご神馬、戻る

 旅籠で働いていると地元の人や旅人から色んな話が耳に入る。
「最近、雨がとんと降らないねえ」
「作物は育たないし、どうすればいいんだろう」
「井戸の水は……まだよみがえらないのかな」
「そうそう、聞いたか、橋立明神の宮司さまの話」
「なんだよ、それ」
 こそこそ話をしている女中もいる。

 ある朝、まとわが橋立明神に鳥居前を掃き掃除をしていると、突然、井戸の奥から地響きのような音が響いてきた。
 大きな化け物がトンネルの奥から唸っている声のようにも思える。
 声だか音だかは、だんだん近づいてきた。木造りの井戸がはじけ飛んだと思ったら、磯清水が噴き出ると共に井戸を壊して、白い馬が躍り出てきた。
「きゃーっ! 何?」
 井戸からはまだまだ水が湧き出て、井戸の屋根を壊して、松の木より高く吹きあがっている。あたりはびしゃびしゃだ。
「あれ? 白い馬は?」
 まとわが頭かぶった水を降りはらっている間に、白馬は変身して、ずぶ濡れの狩衣を着たままの青年がいた。
「あなたは、あの時の!」
「おお、あの時は世話になったな、娘。名はなんという?」
「まとわといいます。さっき、お姿が白い馬に見えましたが」
「私は、磯幻馬という橋立明神の神馬の化身なのだ。この前、お前に会った時は、他の地方から水の事情の視察に行って、ここへ戻る途中であった」
「ご神馬の化身だって?」
 まとわは驚いて言葉が続かない。
「ここのところ雨が降らぬ。磯清水の水脈から山手の水田に引いてもよいかどうか、宮司どのにお願いしたのだが承知されない。水が出ないのだから仕方あるまい」

 座々丸の言うことによると、干ばつになると、面倒くさがりやの宮司はあちこちから水乞いされて機嫌が悪くなるらしい。
「領地民がすべて、ここへ来て土下座するなら考えてやってもよいぞ」
 などと意地悪なことを言うのだとか。
「水ならさっき出たじゃないか。磯幻馬さまが馬の姿で出ていらした時に」
「あれは海水を引き寄せてしまっただけなのだ」
 まとわは二度もがっかりした。

「宮司はリュウグウノツカイという深海魚を食べたらしいぞ」
 座々丸がだしぬけに言い出した。
 リュウグウノツカイという魚は、深海に住んでいるがゆらゆらと浅瀬に泳いでくることもあるらしい。
 海岸に打ち寄せられていると、地震や不漁になるなど不吉な言い伝えがある。名前は美しいのだが、巨大で長い。頭部から鶏のとさかを伸ばしたような紅い飾りがある。
「宮司さまはこの魚を食べたために竜神さまの逆鱗にふれ、磯清水の井戸の水を止められちまったんだって」
「そんなバカな。何を言ってるのよ、座々丸ってば」
 まとわは相手にしなかった。

 雨が降らない日が続いていた。
 田畑は干上がり、作物にも影響が出ている。この地方は傘が手放せないというのに異常な天候だ。
「どうも、天変地異が起こる予兆のような気がする」
 磯幻馬は暗い面持ちだ。
「雨が少ない。干ばつになるだろう。やはり頼りは地下水脈の磯清水だ」
「磯清水だけじゃ、そんなにたくさんの水がまかなえないんじゃないかい?」
 座々丸が言う。
 磯幻馬は、海に向かって正座し、ずっと水平線を見つめていた。

第 四 章 地震

「水神として信仰されている竜や蛇にも力になってもらう」
 磯幻馬は言い出した。
「そんなことができるの」
 まとわと座々丸は呆気に取られていた。
「私ひとりでは手が足りぬから、まとわの馬にも名誉挽回のためについてきてもらう。よいか?」
「ダバのこと?」
「そうだとも。ダバの汚名を返上させてやらなくては。同じ馬として不憫だからな」
 磯幻馬は苦笑いしながら、ダバの鼻面を撫でた。

 いきなり地鳴りがした。ゴゴゴという恐ろしい音だ。ダバが目をひんむいていなないた。
 神社の屋根がぼろぼろ崩れたと思ったら、立っていられなくなった。磯幻馬が叫ぶ。
「地震だ! まとわ、座々丸、建物から離れて、頭にむしろをかぶり、地面に伏せろ」
 しばらく横揺れが続き、宮司が悲鳴を上げて飛び出してきた。直後、山崩れのような音がして、神社の屋根が上から押さえつけれたみたいにぺしゃんこになった。

 しばらくして、まとわが目を開くと、神社が倒れた粉塵が舞い上がって境内は真っ白だ。
 まとわと座々丸の上に、磯幻馬がかぶさっていた。
「磯幻馬さま……」
「ふたりとも、大丈夫か?」
「は、はい」
 磯幻馬は立ち上がって、海の見える場所へ走っていった。
 戻ってきて言うことには、
「かなり大きな地震だった。余震に気をつけるように。陸側の人家に火の手が上がっている。それに、沖の色がいつもと違う」
「どういうことですか?」
「津波の恐れがあるかもしれぬ」
「津波って?」
 まとわが目を丸くして口走ったので座々丸が、
「地震で揺られた海水が、一気に陸に押し寄せるんだよ」
「なんだって?」
 まとわは真っ青になる。山の中に暮らしていたので、海の怖さを知らない。
 宮司が地面に伏せたまま、泣き叫んでいた。
「おやしろが、おやしろが! わしの代でこんなことになってしもうた!」
「宮司どの、山手へ避難して下さい。津波が来るかもしれません」
 磯幻馬は厳しく言ったが、宮司は腰が抜けて立ち上がれない。仕方ないので、背中に背負って山手へ走り出した。
「行くぞ、まとわはダバのくつわ(馬の口元に着ける馬具の一種)を引っぱって座々丸もついてこい!」
 天橋立の根元まで行くと、山手へ逃れようとする人々で混乱していた。
「余震に気をつけながら、山をめざすぞ!」
 磯幻馬が先導する。

第 五 章 峰尾姫への願い

 山手に寺がいくつも建てられた寺町という区域がある。
 被害をまぬがれた寺は、避難してきた人々を受け入れていた。
 住職や修行僧は人々を受け入れる準備に大わらわだ。まとわや座々丸も手伝い、本堂は人で埋め尽くされた。

 小高い境内から町が一望できる。家々から火の手が上がり、火消の組長があちこちに幟を持って駆けつけている様子が見てとれた。
「あああ、うちの辺りが燃えている……」
「うちの家も……」
 皆、呆然として見守るばかりだ。
「皆の者! 泣いているいとまはない。食料を運びこみ、寝床を整えるのだ! ただし、老人、怪我人、子どもはおとなしくしているように」
 指揮をとっているのは磯幻馬だ。人々は狩衣姿の若者の正体が分からないながらも雄々しい精気に圧倒され、命令に従っている。
 彼は境内に農耕馬を持つ者を集め、しっかり言い渡した。
「食料運びに農耕馬を使ってくれ。足元に気をつけてな」
 まとわが連れているダバへも、眼を見つめて鼻面をさすりながら、
「頼んだぞ、ダバ。今、頑張ってこそ、まとわに恩が返せるのだ」
「ヒヒン! ブルブル!」
 ダバは前足を踏んでシャキッと立った。まとわは目を見はり、
「こんな元気なダバを見るの、初めてだわ」
 男も女も元気な者は、近くの農家から作物を工面したり、漁民は急いで港まで行き、魚も運んだ。余震と火に気を付けながら寺の大きなかまどで飯を炊き始めた。
 本堂は板張りなので冷える。あちこちからむしろやゴザが集められてきた。

 農耕馬に混じって、ダバも荷役に使われる。通れる道は荷馬車を引き、通れないほど瓦礫が散乱しているところは、背中に荷を積んで山の道と人家を往復した。
「ダバ、逞しいね、頑張れ」
 くつわを持って、まつわも頑張って歩く。

 一方、磯幻馬は、津波を食い止めようと竜神に懇願するために舟で沖へ出た。海面に大きな渦巻きが起こり、竜神が海上へ上がってきた。
 その姿は磯幻馬にしか見えない。
 リュウグウノツカイを、宮司が食べたことで怒り狂っている。
「許さぬ! 罰に地震を起こしてやったわ」
「竜神さま、民には何の罪もありませぬぞ」
「そなたに我の悔しい気持ちが分かってたまるものか」
 逆に渦巻きを起こして海底へ戻った。
「竜神さま、竜神さま!」
 そのまま二度と浮き上がる気配はない。困り果てた磯幻馬は港へ戻り、白馬に変身して走った。山の神にお願いして山崩れを食い止めるつもりだ。
 山へ走る。大江山へ馬の姿で急いだ。

 たてがみが風に乱れて瞳の前をじゃました。
 息が荒くなり身体から湯気が立った。しかし、そんなことには構っていられない。緑がどんどん多くなり、上り坂を極めようとしていた。
「おや、そこを走ってゆく白馬は磯幻馬ではないか?」
 耳元で鈴のような声がしたので、磯幻馬は足を止めた。
「そのお声は、峰尾姫さまですか」
「おお、やはり磯幻馬。久しいのう。いかがいたした? そのように急いで」
 磯幻馬は青年の姿に戻った。
 目の前に天平時代を思わせる色鮮やかな絹の着物をまとった女神が立っていた。額に梅の文様が紅で描かれている。
「先ほど地震がありましたが、山では被害は?」
「わらわの領地は大事ない。海での地震でありましたね」
「竜神さまのご機嫌を損ねたのです」
「そなたがか?」
「いえ、私ではありませんが」
「じゃろうのう。そなたは竜神さまのお気に入りじゃ。磯清水を操れる立場なのじゃからのう」
「その磯清水ですが、竜神さまのご機嫌を損ねて止められたばかりか、天橋立の町は地震で大きな被害を出しているのです」
「それはなんということ……」
 峰尾姫は桃色の紗の布の袖で口元を押さえた。
「お願いがございます」
 磯幻馬は膝を折って正座した。
「山から小石ひとつ落とさせぬよう、お守りいただきたいのです」
「……分かりました。力を尽くしましょう」
 峰尾姫は、しっかり承諾した。

「宮司さまが避難場所におられない! 磯幻馬さまが背負っていらしたのに」
 宮司の姿が見えないことに、まとわは気づく。座々丸とふたりで手分けして各地の避難場所を回ったが見つからない。
 宮司はすっかり怯えてしまって、港の漁船の中で隠れているところを漁師が発見する。
「海の神が、竜神が怖いっ! リュウグウノツカイの罰が当たったのじゃ。あれは竜神の使いじゃからな。どうしよう、どうしよう、竜神が怒って津波が来る~~~!」
 まとわと座々丸が駆けつけた時には、宮司は目の焦点が合わず着物もちゃんと着れていないという取り乱しようだ。
「宮司さま、舟におられては危ないです。避難所になっている寺へ行きましょう」
「い、嫌だ、嫌だ、皆、わしのことを知っておるじゃろう。皆に殴る蹴るされるに違いない!」
「宮司さま、とにかく逃げましょう。いつ津波が来るかわかりません」
 ふたりは宮司を引きずっていこうとしたが、舟のへさきにしがみついて離れない。
 ダバがやってきて、すました顔で一発蹴り上げ、自分の背中に宮司を乗せて走り出した。まとわと座々丸も後に続いた。

第 六 章 リュウグウノツカイ

 竜神の怒りはおさまらない。
 はるか沖の方に不吉な白波が見え始める。津波だ。
 磯幻馬は白馬となって港へ駆け下りていき、人間に戻ると、
「漁師共よ、まだ残っている者がいれば、山手の寺へ逃げよ! 津波が来るぞ!」
 あちこちの漁村へ叫んで回った。
 宮司を運んでいくダバと出くわした。磯幻馬は引き留めた。
「宮司さま。竜神さまに土下座してリュウグウノツカイを食べたことを謝ってください。そうしないと、津波は一回でおさまらないかもしれませぬ」
「わ、わしが土下座じゃと。仮にも由緒ある橋立明神の宮司であるわしが、土下座などできるものか!」
「貴官のせいで、多くの住民が地震で家を失い、ケガをしているのですぞ。それでも地域を鎮守する明神の宮司と言えましょうか。さあ、海の見える丘に立ち、竜神さまに土下座して謝るのです。私が正式な正座をお教えしますゆえ」
「正式な正座じゃと? 正座とは何じゃ。わしに命令するとは、こざかしい」
 宮司の目は血走っている。しかし、磯幻馬はその身体を肩に担ぎあげ、丘へ登り始めた。
 まとわと座々丸もついていった。
「さあ、ここからなら海がよく見えます。白い波が見えるでしょう」
 ざわざわと津波が見える。
 潮風に乗って低く重い声が届いてきた。竜神の声だ。
「きさま、神官でありながら、よくもリュウグウノツカイを食したな。罰として磯清水の井戸を枯らしてやったのに、我の怒りに気づかなかったのか」
「ひえっ、井戸の水が枯れたのは、竜神さまの……」
 宮司は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「なんの罪もないリュウグウノツカイを、なぜ食したのじゃ? 我の一番の寵姫だったのだ」
 磯幻馬もまとわたちも驚いた。竜神の怒りが激しいわけが判った。
「ひええ、お許し下さい、竜神さま! わしはリュウグウノツカイを食したりしておりません」
「なに? ではどうしたのだ」
「珍しい魚ゆえ、多少でも金子になろうかと漁師に売ったのです」
「売っただと――?」
 竜神の声がいっそう恐ろしく響いた。
「ひえ、おた、お助けください!」
「我の愛する姫を売っただと―――」
 墨が渦巻いたような雲が集まってきた。晴れていた空は、あっという間に暗くなって雲の中に稲光が見え始めた。
「宮司どの!」
 磯幻馬が叫んだ。
「このままでは竜神さまの雷に打たれて、そなたは処刑されまする。早う土下座して謝るのじゃ。心から、心の底から謝れば竜神さまとて許してくださるに違いない」

第 七 章 正座して謝る

 雷鳴がとどろいた。
「お、お助けくださいっ!」
「その座り方では駄目だ。竜神さまは神の天部(天界)におわされる神様だ。それなりの謝り方がある。まず美しく座るがよい」
 宮司はやっと顔を上げて磯幻馬を見た。
「よろしいか、こうして背すじを真っ直ぐに伸ばして立って下さい。身体の芯を直立させるつもりで」
 宮司はよろよろ立ち上がり、真っ直ぐにしようとした。
「……はい、そうです。次に地面に膝をつきます」
 座々丸が、素早くむしろを二人分敷いた。
 磯幻馬が膝をつき、宮司も着物の乱れを慌ててなおし、膝をつく。
「そして、着物をお尻の下に敷き、かかとの上に静かに座るのです」
「こ、こうか?」
 どっと滝のような雨が降り出し、雷も鳴りだした。宮司はたまらず、磯幻馬の身体にしがみついた。
「うわ~~~~っ」
「宮司どの、しっかりなされ!」
 磯幻馬の声にビクッとして、自分のむしろの上に戻って座りなおす。
「頭を下げて……額を地面につけて、心の底からお詫びするのです」
「りゅ、竜神さま、わしが悪うございました。悪うございました。寵姫さまとは知りませず、漁師に売ってしまいました。どうぞ、この上はお好きに処分なされてくださいませ~~~」
 泣きながら何度も雨の流れる地面に額をつけた。

 雷はますます、竜神の怒号と共に荒れ狂った。
 暗雲からの火柱に、龍がぐるぐる回りついている姿が稲光に照らされる。
「竜神さま、私からもお願いでございます」
 磯幻馬も願った。
「各地は干ばつで農民が困っております。磯清水をもう一度元通りに清水の湧く井戸にしてやってください」

 激しい雨と雷が続く。
「駄目か……」
 磯幻馬の唇が噛みしめられた時、雨が弱まって、背後の山からなんとも爽やかな風が吹いてきた。
 どこかで見たことのあるこげ茶の馬が、鞍に人影を乗せて登ってくる。

第 八 章 月夜の水浴び

「ダバ……!」
 ずぶ濡れになったまま、崖の上にいたまとわは、ダバの姿を見て大きく口が開いた。足がすんなり伸びて、なんと美しい馬になっていることだろう。
 鞍には目も眩むような美女が乗っているではないか。しかも、ふたりも。
「峰尾姫さま」
 磯幻馬の口から思わずもれた。
「そなたとの約束通り、あれから山からは小石ひとつ落とさず、守りましたよ」
 峰尾姫はにっこり笑って、ダバの背を降りた。
 それから背後に乗っていた紅色の着物をまとい髪にも大きな紅色の飾りをつけた娘に手を貸して馬から下ろした。
「こちら、竜神の寵姫、リュウグウノツカイさまよ」
「えっ」
 磯幻馬もまとわも、驚いて目を見開いた。海に向かって一心不乱に土下座していた宮司も、驚いて立ち上がった。
「どういうことですか?」
「それより、津波は大丈夫ですか?」
 峰尾姫が磯幻馬に尋ねる。沖の白波はあれから近づいていない。
「は、はあ。未だに近づく気配はありません。それよりリュウグウノツカイさまをどこからお連れされたのですか? いずこにおられたのでしょう?」
 リュウグウノツカイは、恥じらって下を向いたままだ。
「リュウグウノツカイよ、こちらは竜神さまのご信頼厚い磯幻馬さまです。自らいきさつをお話なさいますか?」
 峰尾姫が尋ねると、リュウグウノツカイは前髪から雨のしずくを垂らしてコクンと頷いた。
「いつもは大海原の竜神さまのお側におりますが、数か月前から人間界を覗いてみたくて、橋立明神の井戸へ行っておりました。ある月夜、清水が気持ちよくて、井戸端で水浴びをしていましたら……」
 その光景を思い浮かべて真っ赤になった座々丸に、まとわが睨みつけ、磯幻馬は、「コホン」と咳ばらいした。
「宮司さまに見つかって叱られてしまいましたの。『ここは神のおわされる神聖な場所、おなごが水浴などしてはならぬ』と」
「宮司のおっさん、そのまま襲いかかったんじゃないだろうな」
「座々丸、なんてこと言うのっ?」
「だってやりかねないぜ。売り飛ばしたとかも、ウソだっただろ」
「わらわは売り飛ばされたりしていません。宮司さまは風邪をひいてはならぬからとおっしゃって着替えを貸して下さっただけです」
 きょとんとしてリュウグウノツカイは答える。
「このことを、竜神さまに正直に申し上げました。宮司さまにお世話になりましたと。そうすると竜神様がたいそうお怒りになって、井戸の水を止めてしまわれたのです」
「竜神様は、かなりなヤキモチ妬きですからね」
 峰尾姫がクスリと笑った。
 いつの間にか雷が止み、雨も小雨になっている。
 磯幻馬が宮司を振り返り、
「宮司どの。これはどういうことだな? ついさっき、寵姫さまと知らず売ってしまったとお詫びしていたではないか」
 宮司はふたたび、その場に土下座した。
「申し訳ございませぬ。売り飛ばしたと言えば、証拠はなくなり罪を咎められないのではないかと、つい出まかせを言ってしまいました」
「愚かなことを……。正直に申せば、竜神さまとておとがめ立てなさらなかっただろうに。宮司どのの出まかせのせいで、このような大惨事が起こってしまったのだぞ」
「申し訳ございませぬ、誠に、誠に……」
 土下座に土下座を重ね、宮司は地面で小亀のように小さくなった。

「さて、竜神さまはこの話を聞いておられたはずです。もう津波は来ませんね」
「良かったこと」
 峰尾姫はほっとした。
「しかし地震の被害は大きい。これからの復興作業が大変だ。怪我人や亡くなった方がいないか、私の配下に調べさせます。峰尾姫、いろいろお世話をおかけしてありがとうございました」
「なんの、これしき……磯幻馬さまがお困りの時はいつでもおっしゃってくださいませ」
「分かりました。山までお送りいたします」
 大きく真っ白な袖を振ると、瞬時に磯幻馬の姿は輝くばかりの白馬となり、前足で地面を蹴って姫に促した。姫は軽やかに白馬にまたがり、馬の腹を蹴って出発した。
「リュウグウノツカイさまを竜神さまにお返ししなくては!」
 まとわは我に返り、ダバの背に乗って彼女を後ろに乗せた。
「座々丸、宮司さまを避難所にお連れして」
「任せろ、もう目を離さんぞ」
 三人は三方向に散って走った。

第 九 章 まとわ、ダバと故郷へ

 まとわが故郷へ帰ったのは、それから数か月後である。
 ダバに乗って帰ると、両親が泣いて迎えてくれた。
「よくぞ無事で帰ったな、まとわ。ご苦労だった」
 地震のことは離れた村にも風聞が届き、まとわも文を書いていた。
 あれから、山の女神から大量の材木が送られてきて、家を失った人のために建てられた。怪我人は出たが、幸い亡くなった人はいなかった。
 あの時の大雨で日照りは解消され、橋立明神の井戸には磯清水が戻ってきて、ダバもお腹いっぱい水を飲むことができた。
 まとわの父ちゃんが不思議そうに、
「お前の手紙に、ダバは美しい馬になったと書いてあったが、前のとおり、見栄えのしねえ馬のままでねえか」
「一時だけ、そう見えたのよ。でも、復興のためによく働いてくれたわ。もう仕事のできない馬じゃないよ。ねえ、ダバ」
 ダバはまとわの言っていることが分かったように、ブシュッと鼻で息をして馬面をすり寄せた。
「まとわ、お前も頑張ったんだってな。宮司さまからの手紙で知ったぞ」
「宮司さまが手紙を……」
 どうやら肝っ玉の小さかった宮司さまは、穏やかになったようだ。
「うん、炊き出しで料理もできるようになったし、何より磯清水のことを教えて下さったお方が『正座』というお行儀のよい座り方を教えて下さったんだよ。そのおかげで平和が戻ってきたんだよ」
 晴れやかな笑顔でまとわは答えた。

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