[395]空師(そらし)の危険な恋文
タイトル:空師(そらし)の危険な恋文
掲載日:2026/01/07
シリーズ名:スガルシリーズ
シリーズ番号:8
著者:海道 遠
あらすじ:
美甘姫は、万古老に越(こし)の国から呼んだ空師(そらし)のミツアミ青年の正座のやり方を見せてから、スガルを警護に座仙女(月兎路)の元へ都の北の杉林へ向かう。見慣れぬ美青年、深青(しんじょう)という男も同行した。
杉林の中で鴇姫やその子、鏡丸と再会し座仙女の屋敷にとどまり、ミツアミの一回転する正座をお見せした。
その夜、月兎路の部屋へ忍び込む昏い影があった。

本文
当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。
第一章 空師(そらし)を呼んで
美甘ちゃんが翡翠一族の輝公子に指環を返して、無事に都へ帰ってきた。
迎えに出てきたうりずんが、スガルに労いの言葉をかける。
「ご苦労だったね。じゃじゃ馬のうちの奥ちゃんは、さぞお世話をかけたことだろう」
「は……、いえ、何のお役にも立てませず」
スガルは今までで一番、冷や汗をかいた。
奥方さまが命がけの空師のマネごとをやりたいと言ってきかなかったとは、ヤブヘビになってお叱りが返ってきそうで、とても言えない。
「翡翠一族の本城が倒れてしまったそうじゃないか。天高くそびえる城とは、今まで見たことがないが」
「東寺の五重の塔のような高さのお城でした。翡翠の立派な岩城でしたが、闇の力を持ったのうぜんかずらと闇の世界の龍に全体を巻きつかれ、乾燥していて城の老朽化もあり、崩れてしまったのです」
「なにっ、闇の世界の龍が! これは油断できんな……」
うりずんの顔は曇った。
一方、美甘ちゃんは愛しの我が子、ゆいまると感激の対面を果たした。
「ゆいくん、お利口にしていた?」
ゆいまるは乳母とご機嫌よく遊んでいたが、美甘姫を見つけると、トコトコと急いで歩いてきて胸に飛びこんだ。
「たあしゃま!」
抱きしめると、なんともいえず幼児のふわふわした身体が可愛くてたまらなかった。
第二章 空師のミツアミ
越(こし)の国で、ミツアミという空師の奇抜な正座の仕方を見た美甘ちゃんは、師匠の万古老に紹介するため、彼を呼び寄せて正座教室に連れていった。
「俺は、杣人(そまびと)の頃、樹に登る選手権の選手だったんですが、ビワネ姫に城付近の空師をするよう引き抜かれたんですよ」
正座の所作は習ったことがないらしい。
「そんなに俺の正座のやり方、変わってますか?」
空師になる前は、大陸で大道芸をやっていたという。
(やっぱりそうだったか)
と、思った美甘ちゃん。
(どこか、傀儡子一座の仲間と同じ匂いがしたんだ)
ミツアミくんの奇抜な正座所作を万古老に見てもらう。窓からツルを持ったまま飛び込んできて、着地する前に一回転し、その反動で座るという所作? だ。
「おお! これはあっという間の正座じゃな!」
万古老師匠も目を見開いた。
ミツアミが説明した。
「敵から攻撃を受けた時も、次の瞬間に一回転して正座を整えて、すぐに受け身に帰れます」
「う〜む。正座の欠点は、攻撃されてもすぐに立てないことじゃからの。床の上に転がってからなら、すぐに体勢を立て直せるのう」
あまりの奇抜さに万古老は度肝を抜かれたが、唐渡りの所作とは、ほど遠いものだ。
「所作というより武術と呼んだ方が良さそうじゃ」
うりずんが、
「うりずん拳法の身体護法と似ています」
「なるほどのう」
「もうおひとり、お会わせしたいお方がおられるのですが」
美甘ちゃんが言った。
「どなたかな」
「座仙女の月兎時(つきとじ)さまです」
「月兎時……ああ、独自に生徒を集めて正座と武術を修行している座仙女だな。美甘姫、そなたは会ったことがあるのかの?」
「いえ、お会いしたことはございませんが、ウワサでは男衆を集めて勇ましいご指導をなさっている、そして、美しい正座の所作もなさると……」
頬を紅潮させて答える美甘ちゃんは、かなりその女性に憧れている様子だ。
「あちらがよいと仰ればよろしいぞよ。ワシも面識があるゆえ」
面識があるどころではない。万古老は、秘密裡に容貌を変えて「深青(しんじょう)」と名乗り、用心棒として? たびたびやり取りしている。
最近は万古老のことを冷やかして「深青さま」などと呼ぶ者もいる。
万古老は、そのことには反応しないで相好を崩して応じた。
第三章 北山へ
2日後、美甘ちゃんは、ゆいまると乳母を連れてミツアミを座仙女の屋敷に案内するため、牛車で都の北に向かった。
警護役は、またしてもスガルだ。
スガルは美甘ちゃんにとって少年時代から馴染んでいて気がおけない間柄なので、また、ご指名されてしまった。
(他に誰かいないのかよ、俺はいつになったら、あかりとまったりできるんだ〜〜!)
とは、口が裂けても言えない。鹿の樹将軍が怖い目をして、
「光栄なお役目ではないか! 誰のおかげで仰せつかったと思っている? ワシが最初にあかり菩薩と知り合ってやったから、お前はあのお方から愛情、た〜〜っぷりに育てられたんだぞ。それにワシは以前からのうりずんの友人だ! その奥方の護衛のお役目だ。お前と美甘奥方ちゃんはなるべくして主従になったんだ!」
「そ……それはそうかもしれないけど……知り合ってやったって、兄上がナンパしたんじゃ……」
「四の五の言わず、しっかり警護してこい!」
……というわけで、スガルはしぶしぶ引き受けた。
ゆいまるまで連れていくと知った時は、逃げ出したくなったが、
「待てよ……ゆいまるさまが一緒ということは、美甘姫はあまりお転婆できなくなる。今回は、少しは楽だろう」
思い直してお供をすることにした。
牛車の後ろから、見慣れない青年将校も共に加わっている。男のスガルから見ても、硬派で惚れ惚れする顔つきと体格の青年だ。
(誰かな……? 警護長の俺に挨拶がなかったぞ)
彼の周りにいる兵卒も、キビキビして仕えている。
列の真ん中に空師のミツアミが、愛具のヨキを肩に担いで馬に乗っている。都が珍しいらしくキョロキョロしている。
一行が町並みを抜け、北へ向かうと鬱蒼とした杉が道の両側に生え、空が狭く感じられる。昼なお暗いとはこのことだ。
スガルの元へ、ひとりの兵士が駆けてきた。
「警護長! 進みながら、杉やツルの伐採を空師のミツアミどのがやっていくそうです」
「ミツアミがそう言ったのか?」
「座仙女さまから、深青(しんじょう)さまに使いが来て命令を告げたそうです」
「深青さま? 後ろにいるイケメン将校か。座仙女さまとお知り合いだったのか」
以前まで「藍万古」と呼ばれていた若い時代の万古老が、例の「謎の深青」とは、スガルは気づくはずもない。
第四章 子どもたち
ミツアミは、側の杉にスルスルと登っていった。
腰に命綱を着け、弾むようにポン、ポンと下りながら、鮮やかに枝の伐採をしていく。
ツルの先を何本か引き出して、止まっている行列の牛車向けて叫ぶ。
「お付きの女房どの方! お手を煩わして申し訳ないが、ツルを何本か束ねて普通の縄くらいに三つ編みにしてもらえないだろうか! ひと目ずつ、ギュっと編むのですぞ」
ツルの先を何本か投げた。
数人の女房は、
「ツルを三つ編みにするのですってよ!」
「わあ、手が荒れちゃう……」
「それどころじゃないのよ、あなた!」
急いでツルを拾い、牛車の傍らに緋色の毛氈を地面に敷いて、三つ編みを編みはじめた。
「私も編むわ!」
美甘ちゃんも女房たちと一緒に編みはじめる。
「姫さま、おっぱいのお時間じゃないですか」
「乳母に任せておくわ」
美甘ちゃんは、ゆいまるの側にいる時はできるだけ自分の母乳を飲ませることにしているが、こういう時は乳母に頼っている。
やがて、長いツルの三つ編みが数本出来上がり、美甘ちゃんは地面から、ポ~~ンと上に向かって投げた。
「はい、ありがとうよっ」
ミツアミが待ってましたとばかりに受け取り、枝に縛りつけると、ぶら下がって別の木の枝に飛んで行った。
「まあ、まるで猿(ましら)のよう……」
女房たちが呆気に取られていると、
「わ~~~い、待て~~!」
子どもたちの声が聞こえてきた。
美甘ちゃんが見上げると、見覚えがある顔立ちの幼い男の子が三つ編みのツルにぶら下がって飛んできた。
もうひとり。赤毛の男の子もやってくる。
「あ、あんたは遊児じゃないの!」
以前、南の島に薫丸と緑林の島にいた、ここなつの妖精の「ここなつ遊児」だ。あの頃のままの身体の大きさで、相変わらず赤い髪の毛だ。
「あれ、姫さま!」
遊児も美甘ちゃんを覚えていた。もうひとりの黒髪の男の子は、子ども用の水干(すいかん)を着ている。
(どこかで見たような?)
と思っていると杉の根元に、
「危ないわ、気をつけて!」
騒いでいる女人がいる。
「あのう、もしかして……」
美甘ちゃんが声をかけると、振り向いたのは遠縁にあたる鴇姫(ときひめ)ではないか。狼信仰の神社の氏子総代家へ嫁いだのだ。
「まあ、鴇姫お姉さま! こんなところでお会いするとは!」
「美甘ちゃん? まあ、お久しぶり!」
枝の上が気になっているようだ。
「うちの子が枝を飛ぶのが大好きで、牛車でここまで遠出してきています。何せ高いところなので困っておりますの」
「まあ、空師のように? 鏡丸さまでしたね」
「おたあさま、見ていてくださいね!」
可愛い男の子の声が響き、枝から枝へツルを持って渡っていく。
狼信仰の氏子総代家の子でもある鏡丸は、少しの間に見違えるほど成長していた。
鏡丸と一緒に、ここなつ遊児も森の中を飛び交っている。
「お、いいスジしてるじゃないか」
離れた枝に立って、ミツアミも見物していた。
第五章 月兎路(つきとじ)
ひとしきり、子どもたちが遊んで気がすんでから、美甘姫一行は、座仙女と呼ばれる月兎路(つきとじ)という正座師匠の元へ急いだ。
杉林の奥に屋敷はあった。この屋敷の周囲に色鮮やかな黄橙ののうぜんかずらがたくさん咲いている。短い夏の間に、咲けるだけ咲こうという情熱さえ感じられる。
(一夜だけの花だから伐採しては可哀想ね。ミツアミにはナイショにしておきましょう)
玄関に侍女と男衆が迎えに出て、更に奥の女あるじの元へ案内する。
美甘姫、ミツアミ、スガル、鴇姫、深青と呼ばれている男が奥座敷に入った。
口元を濃い緋色の布で覆った目元の美しい女人が待ち受けていた。
「山奥によう参られた。うりずんどのの奥方さま」
「此度はお時間をお取りくださいまして、お礼を申し上げます」
美甘ちゃんにしては、かなり神妙に口を開いた。
「先日、越の国の翡翠一族の本拠地へまいりまして、翡翠輝公子とビワネ姫にお目通りしてまいったのですが」
「だいたいのことは聞いておる」
あまり関心が無さそうに座仙女は受け答えした。刀を床の間に置き、男装している。
べたべたした女同士のおしゃべりは好まないようだ。
「その城に雇われていた『空師』が、こちらのミツアミという者です」
ミツアミはコチコチになって、慣れない正座をして頭を下げた。
「空師のミ、ミツ、ミツアミにございます。生まれは……」
「出自はよい。そちの変わった正座の所作を見せてみよ。なんでも、外の樹木から――」
「で、ではお見せいたします。説明するより、お目にかけた方がよろしいかと思いますのでっ」
「ふむ」
ミツアミは蔀戸(しとみど)の脇から簀の子へ出て、庭の外側にあった杉の木に登っていった。ある程度の高さに達すると、
「まいりますよ~~!」
いつも枝を伐る要領で、杉の枝から一直線にツルを持って飛んできた。
続いて簀の子から頭を丸めて転がりながら座敷へ入り、くるりと一回転して着地した。正座ができていた。
「おお!」
月兎路が眼を見はった。
「今のは……お世辞にも唐渡りの所作とは申せぬが、どこかで見たような気がする……」
「さっきの、おいらの正座のやり方とおんなじだ!」
簀の子から身を乗り出して覗いていた男の子が、高い声で叫んだ。
「まあ、そなたは!」
「姫さま、また会ったな」
ここなつ遊児が、美甘に向かって「ニッカリ」した。
背後に控えていた見慣れぬ美形男が、
「自分のやり方と同じと申したな、坊主」
「うん!」
返事するが早いか、遊児は杉の木に登りツルの縄を持ってミツアミのようにでんぐり返って正座してみせた。
「これは、一度、椰子の木から落ちた反動で覚えたワザなんだ!」
「まあ、ミツアミくんとそっくりの正座のやり方ねえ」
美甘姫が感心した後、月兎路が口を開いた。
「敵が攻撃する恐れのある時は、良い動き方じゃな。瞬時に攻撃態勢に移ることができる。万古老師匠からお聞きした通りだ」
彼女は深青という青年に視線をやった。
「は、誠にその通りで」
「礼儀の所作としては認められぬが、万が一の時に役に立ちそうじゃ。おのこ、遊児と申したな。大人になるまでその感覚を保つように」
「はいっ」
ここなつ遊児は元気よく返事し、ミツアミも席に戻った。
「ミツアミの空師よ。そちも、ますます宙返りの所作を磨くがよいぞ」
「ははっ」
「本日ははるばる越(こし)の国から来たことでもあるゆえ――、美甘姫どのの警護の者も、こちらへ!」
スガルはどきりとした。
紅の口元の布の上からの視線は、「緋色の魔女」とでも呼ぼうか、刃(やいば)のような鋭い美しさを湛えている。決して笑わない。
(怖い~~~。逃げたい~~~っ)
スガルは正直に思った。
仕方なく言われるままに、正座の所作の見本を拝見することとなった。
第六章 所作を習う
「では、部屋に入るところから。皆さま、少しお待ちください」
月兎路は音もなく立ち上がり、簀の子から庭へ降りていった。
一同は、月兎路の後ろ姿をじっと見つめる。
決して彼女の一挙手一投足を見逃すまいと、食い入るように見つめていたが、夕ふ星(ゆふづつ)の紫色の中に溶けこむように見えなくなった。
「……?」
「……?」
美甘姫もスガルも顔を見合わせたり、庭に目を凝らしたりしたが、彼女はふっつりと消えてしまった。
数刻が過ぎただろうか。
いきなり風を切る音がしたと思うと、長いツルを握った月兎路が簀の子から飛び込んできて、床で俊敏に一回転して座った。
皆は度肝を抜かれて、しわぶき(咳)ひとつ立てられない。
「ほほほ……失礼した。今のは座興だ。空師ミツアミのマネをしただけだ。ここからが真の所作だ」
月兎路は口元の紅い布を取り去った。簡易な皮鎧にくくり袴をまとった姿に、くっきりした目鼻立ちはよく似合う。
「背筋を伸ばして立つ。胸を張って!」
まるで……檜扇(ひおうぎ)の花のように強くしなっている立ち姿だ。
「前に膝をつき手を添えながら、衣の裾をお尻の下に敷く。両のかかとで『V』の形にしておき、その中に座る。どうだ? 正座ができただろう」
月兎路の見本を見ながら、所作をしていたスガルたちは驚いた。
「本当だ! いつの間にか正座ができている!」
「それも美しい正座が!」
月兎路が言い足した。
「『V』の形にして座れば、少しはシビレ防止になるからな」
皆から感嘆が上がった。
「――とは言っても、私とミツアミさん以外は、外から一回転しながら飛び込んで正座するのは禁止です!」
「――どうして?」
「危険だ! 日頃から鍛えていないのに、怪我する恐れがありすぎる! 遊びも禁止です!」
「えええ~~?」
ここなつ遊児がいちばん、不平そうな声を上げた。
鏡丸と顔を見合わせてがっかりしている。しかし、母親の鴇子姫は、改めて正座して月兎路に頭を下げた。
「ありがとう存じます。月兎路さまから厳しく言っていただければ、子どもたちも納得いたします」
「いや、なに、子どもは奔放に遊ぶのがいちばんだと思うが、あの遊びは、もう少し大きくなってからの方がいいであろう」
月兎路は、後方にいた深青青年と視線を交わした。
「剣術や弓術の稽古なら、それがしが見てさしあげよう」
第七章 密会
月兎路は屋敷の離れに滞在客の部屋を設けていた。
晩夏とはいえ陽が短くなりつつあり、大きな満月に近い月が出ていた。
美甘ちゃんは離れに移る時に、ふと白い満月に不吉な影を見たような気がした。
「おたあしゃま?」
手を引っぱるゆいまるに急かされ、もう一度、月に目を戻したが、美しい月が見えるだけだった。
「見間違えたのかしら? 月の表に怖い顔を見たような気が……」
すぐにそんなことは忘れて、子どもらの世話をしながら夜具の支度にかかった。侍女が渡り廊下を走って行き来している。
美甘ちゃんは、鴇姫と共に子どもの世話をしていたが、屋敷に到着した時に見た、のうぜんかずらが渡り廊下から目についた。
敷地内の細い通路が見え、そこにも黄橙色の花房が垂れ下がっていて顔の半分は見えないが、一組の男女が塀に寄りかかって頬を寄せ、話に没頭しているのが見えた。
(月兎路さま? お珍しく緋色の衣を……。対面におられるのは、まだ馴染みのない青年将校の「深青」さま?)
(月光の下、のうぜんかずらに囲まれて、なんてお美しいおふたりかしら……。深青さまは月兎路さまの想い人であられたのね)
うりずんの面影が恋しく思われた。
夜更け、美甘ちゃんは屋敷の寝所でゆいまるを寝かしつけながら、宵に見ちゃったラブラブの二人の様子を思い出して(むふふ……)となっていた。
あんなに猛々しい益荒乙女(ますらおとめ)にも、愛しいお方がいらっしゃったなんて)
(まだお話したことないけど、深青さまという方、うりずんと同年代にしては落ち着いてらっしゃるわぁ……。とっても頼りになりそう……)
ゆいまるは、おっぱいをお腹いっぱい飲んで美甘姫の腕の中で寝息を立てはじめた。
御簾の隙間から、真昼のような銀色の光が射し込んできた。
第八章 気高き所作
美甘姫は息を飲んだ。
同時に黒く大きな人影が光をさえぎって簀の子を進んでいく。横顔は夕暮れの月の表に浮かび上がった、口が耳元まで裂けた鬼の顔だった。
渡り廊下の向こうの月兎路さまの寝所へ入っていく。角のある者を美甘姫ははっきり目にしてしまい、恐ろしくて声が出せない。
それでも必死で追いかけて、月兎路さまの御簾まで後をつけていった。
(あれは……いつぞや、スサノオさまの身体を乗っ取っていた『月神』(がちじん)では……)
(『月神』は嫉妬深い月の邪神で、愛した者を自分のものにしないと気がすまないのだ……。あの時も、スサノオさまのお身体に憑りついて執着していた……)
『月神』は、月兎路さまの褥(しとね)に迫り、上から覆い被さっていた。
「そなたの寝息を我に……」
口元に顔を近づけて囁いている。その時、美甘ちゃんの心の奥から思いがけない勇気が出た。
力を振り絞って立ち上がり、鬼を突き飛ばした。
「誰か! 宿直(とのい)の方はおられませぬか! 月兎路さまの元に物の怪が!」
突き飛ばされた月神は、起き上がるなり黄色く光る目で美甘ちゃんを睨みつけた。
「おのれ、小娘め……」
唸りを上げた時、御簾が切り裂かれ簀の子にスガルが立っていた。
「ス……スガルくん! 月兎路さまをお守りして!」
月神は恨めしそうな顔をして、銀色の月光に紛れて姿を消そうとした。
そこへ、一回転しながら飛んできたのは小柄な青年だった。
「ミ……ミツアミ……!」
美甘ちゃんが叫んだ。
彼がヨキで薙いだ(ないだ)空間から、のうぜんかずらの葉と花が散った。
「くそ、逃したか!」
ミツアミは間髪を入れず庭に飛び出したが、月神の影は銀色の月光に紛れた。
「月兎路さま、しっかりなすってください!」
美甘姫が声をかけると、彼女はやっと目を開けた。
枕元の剣に手を伸ばしたが握れない。
「何があった? 頭が重くて……」
「『月神』という物の怪が、月兎路さまの身体に憑りつこうとしていたのです」
「なんだと?」
スガルが廊下で見張りに立っていたところへ駆けつけたのは「深青」だ。
「月兎路っ! 無事か!」
「深青さまっ!」
月兎路は豊かな黒髪を乱して、彼の胸に飛び込んだ。
「今年……、のうぜんかずらの花がほころび始めてから、毎夜、部屋に黒い影が忍びこんでくるのを感じて警戒しておりましたが」
「して、大事ないか!」
「はい……。あの者が狙っているのは、おそらく気高き正座の所作でしょう」
「気高き正座ができる、そなたが無事で良かった……」
深青は月兎路を力いっぱい抱きしめた。
「す、すまねえ、逃がした」
ミツアミが戻ってきて地団駄(じだんだ)踏んだ。
第九章 告白
ミツアミが、思いがけなく朝までかかって部屋の隅で文机に向かっていた。
朝になって、美甘姫が子どもたちに支度をさせていると、ミツアミが文を持ってやってきた。
「なあに?」
「月兎路さまに渡してもらえねえか?」
「座仙女さまに?」
「妖魔のようなのに襲われておられたが、オラはお守りできなかった。その謝罪文だ」
「まあ、律儀な人ね。あなたは座仙女さまの配下ではないのに……」
「頼んだよ!」
ミツアミは手を振って、足早に去っていった。
美甘姫と寝室を共にしていた、鴇姫が彼の後ろ姿を見て、扇を口元にあてて笑った。
「あの方、月兎路さまをお好きなんじゃなくて?」
「え? ミツアミが?」
「ご自分で物の怪から守って差し上げたかったのに、先に『深青の方』が守られたので悔しいのよ」
「へええ、ふ~~ん、そうだったの……」
「美甘ちゃんは相変わらず、うといというかなんというか」
鴇姫は笑っていた。
身支度をすませたゆいまると鏡丸は、朝餉をとるなり、杉から飛ぶ練習のためにミツアミの後を追って外へ出ていった。
預かった文を、美甘姫は月兎路に渡しにいった。
「ミツアミから文?」
月兎路はやや意外そうに受け取り、文を読むなり顔色を失くした。
はらりと落ちた文には、のうぜんかずらの花が挟まれ、男文字で書かれていた。
「我、月神(がちじん)は、空師の青年に憑りついた。これで、そなたの気高き正座の所作を奪うことができる」
美甘ちゃんは、思わず読んでしまった。
(月神がミツアミくんに……。なんてこと……)
秋の風が吹き込み、文をひらひらさせた。
心の中に、これから起こり得る不吉なことがよぎるのを止めることができなかった。




