[272]狐の嫁入りと婿の正座


タイトル:狐の嫁入りと婿の正座
掲載日:2024/01/28

著者:海道 遠

内容:
 二十歳のイズナは通勤の帰り道に、見慣れないマホガニーの扉を見かけて、正装した若い男性が美しいマナーで女性を見送るのを目撃する。また、初夏の宵に、電車の中から山肌に灯りの行列を見たイズナは、陽射しが残っている中を小雨にあい、「狐の嫁入り」だと感じる。
 先日の扉の前を通りがかると和風の格子戸になっており、例の男性が飛び出してきて、イズナの腕をつかんで屋敷内へ引っぱって行く。屋敷の奥座敷では大勢の人々が居並び、金屏風に白無垢の花嫁が正座していた。



本文

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第一章 謎の扉

 夕暮れ。見上げると空はやや明るい。
(年が明けてから、日の入りが少しだけ遅くなったわ)
 イズナはウエディングコンサルタントの見習いをしている二十歳だ。今日も幸せそうなカップルが数組、打合せにやってきた。そんな職場からの帰り道――。
 駅前の商店街を抜けると住宅街が続く。毎日の通勤で通り慣れている。
(あれ? こんなところに、扉が)
 長い植木の垣に挟まれて、見慣れないツヤツヤとしたキツネ色のマホガニーの扉がある。
(こんなところに扉があったかしら? 道に面して門じゃなくて扉がある?)
 周りは住宅街だ。扉の奥を覗こうとしても、両側は植木が茂っていて見えない。
(いけない。早く帰らなくちゃ、お母さんが心配するわ)
 母親に電話してから、帰路を急いだ。
 最近、イズナは、母親がうつむいて溜め息ばかりつくことが気にかかっている。幼い頃から過保護な母親だが、娘が大人になっても子供としての扱いから抜けきれないらしい。
「お仕事はうまくいってるの?」
「上司の方や同僚の方々とは、うまくいってるの?」
「働きすぎで疲れてやしない?」
 思春期から、そんな母親を持て余してきたが、母親の態度は変わらず帰宅する度に同じことを聞かれるのだった。
 昨年、イズナが短大を卒業して社会人になると、母親はいっそう元気が無くなった。

 例の扉のことが通りかかる度に気になる。人が出入りするところは見たことがないが、なんとピカピカの扉なのだろう。どんな人が住んでいるのだろう。

 ある日、いつものように通りがかると、ガチャリと扉が開いた。イズナは立ち止まった。
 グレーのセミフォーマル姿の背の高い男性が出てきて、女性を送り出すところだった。
(なに、この貴公子然とした人はっ)
 姿勢のよい大人の女性にライトコートを着せかける。巻き毛の優雅な女性は洗練された感じで頭を下げ、
「ありがとうございました。また来週、宜しくお願いいたします」
「はい、ご苦労様でした。お気をつけてお帰りください」
 女性は向かい側の駐車場に置いてあった車に乗りこみ、エンジンをかけると発車させ、窓から笑顔で頭を下げた。
 男性も、遠ざかっていく車に深く頭を下げて見送った。お辞儀の姿勢が美しい。
 ため息するほど完璧なマナーのふたりだった。
(一瞬、披露宴のお開きかと思ったけど、違ったようね)
 やがて男性が扉の内側へ戻ろうとして、かたわらに立っている女の子に気づいてにっこりした。
 イズナは慌てて笑顔を返そうとしたが、うまく笑顔にできなかった。
(きっと引きつった変な顔になったわ)
 帰り道に何回も後悔した。
(もし、また、あの男性が扉から出てくるところに居合わせたら、ちゃんとした笑顔をしなくちゃ)

第二章 狐の嫁入り

 その後、男性とは、なかなか出くわすことは無かった。
 季節が移り、つつじの咲く時期も過ぎようとしていた。
 イズナが帰りの電車から窓の外を眺めていると、日が暮れて黒々とした彼方の山裾(やますそ)に灯りが点々と並んで移動していくのが目に入った。ちろちろと木立に見え隠れする飴色の灯りだ。
「何の灯りかしら。幻想的だわ」
 パラパラと小雨が降ってきて、電車の窓に雨粒が張りついた。陽射しはまだある。
「狐の嫁入りだわ」
 陽射しがありながら降る雨のことを、『狐の嫁入り』と呼ぶ。なぜそう呼ぶのか知らないが、先ほどの電車の中から見えた灯りの列は、本物の狐の嫁入り行列のように思えてきた。

 駅に下りて家に向かう頃には雨は止んでいた。例の扉の前に差しかかった時、気がついた。扉は和風の格子戸に変わっていて、左右両側に大きな飴色の家紋入りの提灯が掲げられている。
 難しい家紋の下には、『仙道』と黒々とした墨で書かれている。
 突然、格子戸が開いて男性が出てきた。
(キタ―――!)
 イズナは笑顔を返すどころか固まった。男性は意外にも羽織袴姿だったのだ。この前のスーツ姿とまったく別人ではないか。
 やにわに男性に腕を捕まれて中へ引っぱられた。
「な、なんですか、いきなり」
 格子戸の内側には、山林に囲まれた豪農風の大きな屋敷が石畳の通路の向こうに見え、両脇には、玄関と同じ大きな提灯が並んで飴色のぼんやりした光を放っている。
(ここは住宅街のはず……。どうしてこんな山の中のお屋敷が?)
「わけは後で話すから、黙ってついて来てください!」
 男性はイズナに有無も言わさず、手を引いていった。
 奥の広間では大勢の礼装の人々がずらりと並んで正座し、白無垢の花嫁が金屏風の前で緋色の毛氈(もうせん)の上に正座して待っていた。
 男性は列席者の前で、ヒキガエルが這いつくばったような正座でベタッと土下座した。
「申し訳ありませんが、結婚できません」
 ザツな座り方のせいで袴がぐちゃぐちゃだ。
「僕は西洋風の現代マナー教室を開いています。三か月間のパリ留学から帰ってきたら、すでに婚礼のお膳立てがしてあり、花嫁とも初対面なんです」
 金屏風の脇に座っていた、父親らしき紋付袴羽織姿の紳士が口を開いた。
「讃永(たたえ)、仙道の家に申し分のない花嫁だ。隣山の町長さんのご令嬢だ。留学の間に探しておいてやったのだぞ」
「そうですよ、讃永。あなたにぴったりの聡明な方よ」
 母親も熱心に言う。
 両親のかたわらにいた白髪に白いあごヒゲの老人が、憤然として言う。
「初対面の嫁をもらうなんぞ、当たり前じゃぞ。讃永」
「大祖父さん。ご無礼ですが現代はそうではないのです。じ、実は……、ここに連れてきた女性が、マナー教室の共同経営者で僕のフィアンセでもあります」
(えっ……)
 イズナは驚きのあまり、声が出ない。
(いったい何の話? 私はこの人と会うのは二度目なのよ。共同経営者? フィアンセだなんて!)
 白無垢の花嫁の、純白の袖から先だけ見える指先が華奢で眩しい。
 花婿と老人のやり取りを黙って聞いていたが、ようやく綿帽子を少し上げた。愛くるしい瞳だ。イズナと同じくらいの年齢かと思われる。
「あのう……」
 花嫁の紅いおちょぼ口から言葉が洩れた。
「私でよろしければ、美しい正座をお教えしましょうか?」
「は?」
 讃永はきょとんとした。
「僕の開いているのは、西洋風の現代マナー教室です。日本の正座教室ではありませんが……」
「生徒さんにではなく貴方さまにです。お世辞にも先ほどの正座は美しいとは言い難い所作とカタチでしたので」
 一同はシ~ンとなり、イズナも目を見張った。
 愛らしい花嫁から、こんなズドンとした辛口の批評が飛び出すとは!
 讃永も呆然としている。
「初対面の花婿さんに堂々としたもの言いをする人ねえ」
 列席者から小声がもれた。

「そこまでおっしゃるなら、正座のレッスン、いや、稽古をつけていただこうではありませんか」
 讃永は花嫁に挑戦するように言い放った。
 花嫁は、
「正式な所作を習ったわけではありませんが、生家で、母親から日々の生活の中で教わりました」
「ほほう」
「私の名は森谷喜狐(きこ)と申します。宜しくお願いします」
 讃永の前に流れるような所作で座り、白い指先を畳の上に置いて静かに頭を下げた。

第三章 正座のお稽古

 花嫁の喜狐はその場に立ち上がり、白い打ち掛けを介添えの女性に脱がせてもらった。
「まず、正しい正座の所作のお手本をお見せいたします」
 綿帽子も脱がせてもらい、顔をあらわにした。
 広間にいた一同から、ほう〜と、ため息が洩れた。
 高島田に結い上げられた漆黒の髪につぶらな黒い瞳といい、利発そうな額といい、申し分のない花嫁だ。
「まず、背筋を伸ばして立ちます。背中に両肩を寄せて胸を張り、そして床に膝を着きます。着物をお尻の下に敷き、静かにかかとの上に座ります。両手は静かに膝の上に置きます」
 素晴らしく麗しい正座の出来上がりだ。広間の一同は見惚れてしまった。

「少し気をつけただけで、相手様に失礼のない正座ができます。そうそう、そこのあなたのように」
 いきなり花嫁から声をかけられ、イズナは我に返った。
 知らぬ間に、花嫁の指導に合わせて正座をしていたのだ。
「あら? 私、いつの間にか……」
「とてもお上手ですよ。娘さん。あなたは讃永さまのフィアンセで、お仕事のパートナーでしたね。現代のマナーがお出来になる方は飲みこみの早さが違いますね」
「あ、いえ、私は……」
 イズナは、
(ここで一同の誤解を解かなくては!)
 とっさに思った。
「私は新郎さまに、たまたま手を引かれておじゃました、通りすがりの者なんです」
 一同はざわついた。
 一瞬、呆れた表情を見せた喜狐だったが、やがてにっこりした。
「では、私と同じ状況かもしれませんわ」
「え?」
「昨日、両親からいきなりこの縁談を告げられて、古い慣わしの花嫁行列で嫁いでくることになったのです。途中で何度逃げ出そうと思ったことか。でも、お供や駕籠(かご)を担ぐ男衆は、厳しく見張っていましたから脱出することができませんでした」
 ちょうど広間に到着した喜狐の父親と母親らしき礼装のふたりも、娘の話を聞いた。
「喜狐、お前にとって素晴らしい男性を見つけたつもりだ」
「そうよ、喜狐さん」
 喜狐は両親の方を向いた。
「お父様、お母様、お相手の讃永さんは、私には勿体ない素晴らしい男性です。不服などありません。ただ、私は愛し合う者同士として結ばれたいのです」
 讃永が、勢いよく立ち上がった。
「花嫁と僕は意見が一致しました。ともかく今回の縁談は白紙にさせていただきましょう。よろしいですね? 喜狐さん」
「はい!」
 喜狐は晴れた顔で答え、両手をついて讃永に座礼した。
「ご招待した皆さまには大変申し訳ないことをいたしました。この通りお詫び申し上げます」
 先ほど喜狐が見せてみた所作の通りに、讃永は正座し、列席者一同に深々と頭を下げた。喜狐も並んで正座して頭を下げた。
「せっかく、似合いの夫婦(めおと)じゃと思ったが、しかたないのう……」
 白ヒゲの大祖父も引き下がるしかない。
 列席者はぞろぞろと大広間を下がっていった。

 喜狐も、廊下へ出て駕籠の待つ玄関へ向かって歩きかけたが、讃永が呼び止めた。
「喜狐さん、花嫁ではなく僕のマナー教室の正座専門講師になっていただけませんか?」
「ええっ?」
 喜狐は驚きのあまり、ぴょんと飛び跳ねた。
「そして、君!」
 讃永はイズナにも声をかけた。
「さっきは皆さんに見え透いたウソを言って申し訳ありませんでした。今度こそ本当にお願いします。君にはアシスタントになってもらいたい!」
 イズナも飛び上がりたいくらい驚いた。

第四章 新しい正座教室

 二、三日してから、台所仕事をしている母親に声をかけた。
「お母さん、実はね……」
 謎の家の婚礼さわぎのことは言わずに、転職することだけを伝えた。
「え? 正座の所作を教えるお仕事ですって?」
 母親は水仕事の手を止めて、振り向いた。
「日本の行儀作法には詳しくないでしょう。できるの?」
「最初は研修で習うから大丈夫よ。ウェディングコンサルタントの見習いやってたんだから、同じ礼儀作法のお仕事よ」
「そう……。あなたがそう決めたのなら。でも心配ねえ、職場を変わるなんて。お父さんはなんとおっしゃるかしら?」
 父親は、娘のやることにはほとんど口出ししない大らかな人だ。
「大丈夫よ。心配しすぎないで、お母さん」
 母親に心配させないよう、イズナはにっこり笑った。
「お父さんにも、ちゃんと報告するから」

 讃永のマナー教室へ初出勤日。
 イズナが行ってみると、格子戸は最初に見たピカピカのマホガニーの扉に戻っていた。
 首をかしげながらノッカーでコツコツすると、讃永がスーツ姿で出迎えた。
「ようこそ、イズナさん」
 イズナの手を取って迎え入れる。
 庭には屋敷のかたわらに、新築の広い和風の棟が建っていた。玄関に立つと新しい木と畳の香りが満ちている。
(婚礼さわぎの夜から半月しか経っていないのに、いつの間にこんな棟を建築したのかしら? なんだかキツネにつままれたみたい)
 喜狐もやってきた。
 今日は自分の車で運転してきて、快活なパンツスタイルだ。白無垢の花嫁と同じ人とは思えない。
 イズナ、讃永、喜狐の三人は、座敷に座った。
 喜狐が自己紹介する。
「うちは両親が古風で厳しくて。山中の実家暮らしでしたけど、そろそろ仕事を探して自立したいと思っていたところだったの。正座のお稽古を教えることになるとは意外でしたけどね」
(喜狐さんて、話しやすそうな女性だわ)
 イズナは感じた。
「私は、林イズナと申します。ウェディングコンサルタントの仕事をしていました。こんなに急に、習いながら正座教室のお仕事をすることになるとは思ってもみませんでした」
 讃永が口を開いた。
「僕の環境は先日の婚礼の事情どおりだ。古風な親の言いなりになるところだった。西洋マナー教室もパリ留学も、親の反対を説得して実現したんだ」
 イズナは苦笑した。
「うちの母親も心配性で。なかなか自由にはさせてくれません。いったいいくつだと思っているのでしょうね?」
「親にとっては、子どもはいくつになっても心配のタネなんだろうね、きっと」
 喜狐が自分たちで淹れた紅茶を味わいながら、にっこりした。
「私たち、親の囲いの中でおとなしく生きてきた共通点があるんじゃないでしょうか? これも何かのご縁でしょうね。仲よくやっていきましょうね」
「はい。宜しくお願いします、正座の先生」
 イズナも笑顔で応え、讃永もうなずいた。

第五章 仙狐(せんこ)

 三人は新しい教室で、正しい所作を身に着けるべく稽古を始めた。喜狐がお稽古をつけて、イズナと讃永が習う。

 ある日、讃永は母家(おもや)の父親から呼び出された。
 父親は座敷の床の間を背にどっしりと座っていた。
「何ですか、お父さん、改まって」
「まず、座りなさい」
 讃永は言われるとおりにした。
「先日の夜、大祖父さんは、お前の言うとおりに引き下がって喜狐さんとの縁談を諦めた。白いあごヒゲをさわってのんびりしているように見えるが、あれでも神通力を持つ『仙狐』の高い位を持っているのだ。ひ孫のお前が、いきなり婚礼放棄したことを立腹しているに違いない」
「大祖父さんが立腹!」
 讃永は真っ青になった。
「顔には出さぬが、おそらくな……」
「どうすればいいんですか」
「自分で考えることだ。お前ごとき青二才なんぞ大祖父さんからすれば、ちっぽけな存在でしかない。これ以上、逆鱗(げきりん)に触れれば神通力で消し去られてしまうぞ」
 父親はそれきり口をつぐんでしまった。
 讃永は、突き放されたことを感じた。
「大祖父さんに僕を認めてもらうには……」
 母家から新築の棟に戻る間に、庭を睨みつけ、空を睨みつけ、讃永は考えた。
「なんとしても『西洋マナー教室』と『正座教室』を成功させるしかない!」

第六章 一日教室

「喜狐さん、僕とイズナさんの正座はどんな具合です? 人様にお教えできるレベルになったかな?」
 讃永が、座布団をかたづけている喜狐に尋ねた。
「そうですねえ。お稽古を初めて七日……。お二人とも、十分、人様にお教えできるでしょう」
「そうか。ありがとう。喜狐さんのおかげ様です。感謝いたします」
「お役に立てたのなら嬉しいですわ」
「じゃあ、イズナさんも、こっちへ来て座ってくれ」
 呼ばれたイズナもやってきて、床の間の前に三人は膝を付き合わせた。
「そろそろお弟子さん募集に取りかかろうと思う」
「はい!」
 喜狐が元気よく答えた。イズナは少し緊張している。
(いよいよ正座教室、本番ね)
「先だって一日教室の生徒さんを募集しようと思うのだが……」
「一日教室! 大賛成ですわ、讃永さん。まずは無理のない日数で生徒さんたちに正座に触れていただくことですよね」
 喜狐の瞳が輝く。
「ネットで募集広告を出すつもりだが、この通りの小規模な教室だから、一度にどっと来られても困るんだ。まずは、君たちのご友人やご親戚、ご家族など、一日教室に参加できそうな方に声をかけてみてくれないか」
「分かりました!」
 ふたりはうなずいた。

 イズナはその夜、両親と夕飯中に話してみた。
「お母さん、どうかしら? 私が正座のお稽古つけるから一日教室の生徒として参加してみない? 私の指導しているところも見られるし、お母さんも美しい正座の所作が身につくわよ」
「一日教室ねえ……」
 母親は視線を宙に浮かせたり、手元のおかずを眺めたりしながら考えている。
 父親が目を細めて、
「ちょうどいい機会じゃないか。母さんはイズナの仕事ぶりが気になっていたようだし、参加すればどうかな?」
「そうねえ。じゃあ、――参加させていただくわ」
「ありがとう、お母さん。一日教室の参加者、第一号になるかも?」
 仕事ぶりを見てくれれば、母親の過保護も少しは緩くなるだろう。イズナもほっとした。

 一日教室の当日。
 参加予定者は、イズナの母親と喜狐の学生時代の友人が男女五人だ。
「初めまして。イズナの母親でございます。娘がいつもお世話になりまして」
 初夏に相応しい花々の柄の落ち着いた小紋を着てきたイズナの母親は、まず玄関で讃永に立ったまま深々と頭を下げた。
「こちらこそ、イズナさんには大変、お世話になっております。今日は固くならずに楽しんでいってください」
 母親が座敷に上がり、イズナは喜狐を紹介する。
「こちらは、私に正座指導してくださった喜狐さんです」
「初めまして。イズナさんのお母様。今日はご参加していただきましてありがとうございます」
 母親は部屋の外の廊下に即席に正座し、指をそろえて頭を下げた。
「喜狐先生、宜しくお願いいたします」

 イズナは、母親に指導を始めた。
「背すじを真っ直ぐに立ってください。視線は正面に。床に静かに膝をつきます。着物をお尻の下に敷いてかかとに座ります。両手は静かにお膝の上に乗せてください」
 ふたりで同時にやってみた。
「どう? お母さん、ちゃんとできてる?」
「うん。まずまずできてると思うわ。喜狐先生にも見ていただきましょう」
 母親は喜狐からも及第点をもらって、とてもご機嫌である。
 正座の一日教室が気に入り、週に一度通うようになった母親は、いきいきしてきた。以前のように、イズナの行動ばかり心配することも少なくなった。
 一日教室に友人を誘ってみると言い出し、連れてきた友人は五十人近くもいた。イズナは驚く。
(お母さんって、私にベッタリしてばかりだと思っていたら、学生時代の友人や、パート先の方々やママ友さんや、その他、私の知らない方々まで。社交的だったんだ)

第七章 危機

 それから数か月――。
 順調に滑り出したかと思われた讃永の正座教室だったが、経営がうまく行かなくなる。特に落ち度やお月謝値上げの心当たりもないのに、辞めていく生徒さんが続出するのだ。
 イズナたちが不思議がっていると、喜狐がある朝、慌てて飛びこんできた。
「讃永さん! 私たちの正座教室の生徒さんが減っていくわけ……。どうやら駅の向こう側に、有名な八丁堀流作法教室が開かれた影響らしいですわ!」
「八丁堀流お作法教室だって? あの一流の! それは、うちでは対抗できない!」
 讃永は頭を抱えこんだ。

 大祖父の耳にも入ったらしく、讃永は呼びつけられた。
 座敷で待っていた大祖父は眉間にシワを寄せ、白いヒゲの下の口は引き結ばれている。
「讃永……。お前の正座教室とやらが芳しくないとか?」
 讃永は小さくなって正座をしていた。
「これ以上うまく行かぬようなら、仙道家の家督を愛弟子の林狐久里(こくり)に継がせる」
と言い出す。
「林狐久里? それは誰のことですか?」
「お前の正座教室で教えている、女子(おなご)――林イズナの父親じゃ」
「なんですって! イズナさんのお父さんが、大祖父さんのお弟子だったとおっしゃるのですか」
「いかにも。婚礼の夜に、お前があの娘のイズナを連れてきた時から、気づいておった」
「ど、どうして?」
「ワシの神通力をあまく見るでないぞ、讃永。狐族(きつねぞく)の長になるために、仙狐になる修行を長く積んだのじゃ」
「仙狐の神通力……」
「ふんっ」
 大祖父が力むと、縁側の外に見えていた教室用の新しい棟が、いきなりぼんやりと消えた。
「わわっ、僕の正座教室がっ」
 讃永は慌てたが、次の瞬間、教室は元どおりの佇まいに戻った。
「元々、ワシの神通力で建ててやった棟じゃ。ワシの胸先三寸で消すこともできるということじゃ」
 大祖父はふんぞり返ってあごヒゲを撫でた。
 讃永は一分(いちぶ)の隙もないよう、丁寧に正座して頭を下げた。
「正座教室の経営不振の件、僕の不行き届きにより、誠に申し訳ございません」
「……」
「必ずや立て直し、しっかり継続いたします。ですから家督相続は直系血族の私に継がせてくださいますよう、何卒宜しくお願い申し上げます」
 畳に額を着けて、長く長く頭を下げた。

 緊張の沈黙が落ちた。
 庭からの陽射しが夕暮れの気配を帯びた。
「申したな。では、励むがよい」
 讃永は再起のチャンスを与えられた。
 讃永が座敷を下がった後、彼の父親がやってきた。
「大祖父様。私からもせがれのこと、お礼申し上げます」
「なあに」
 大祖父は相好を崩した(=にっこりした)。
「叱咤激励(しったげきれい)するついでに、あやつの正座が本物かどうか見てみたかったのじゃ。ふぉっふぉっふぉっ」

第八章 再出発

 讃永を筆頭に奮起したイズナと喜狐は、正座教室の立て直しのために頑張る決意をした。
 喜狐は、習得していた茶道を活かし、茶道教室の一環として正座を教えるという提案をした。
「茶道用にお部屋の一角に茶釜用の畳を用意していただかなければなりませんが……」
「わかった。急いで用意しよう。茶道と合体すれば生徒さんも楽しみが増えるだろう」
 讃永は快諾した。
「ありがとうございます。イズナさんも、茶道のご経験があるそうです」
 喜狐は実家の知り合いをたどって奔走し、生徒を何十人か確保した。
「喜狐さん、助かります!」
「せっかく始めた正座教室ですものね。続けられるよう頑張りましょうね」
「そうだとも」
 思わず、讃永は喜狐の白い手を力をこめて握った。
 漆黒の瞳には誠実さとやる気がみなぎっていて、見入ってしまう。
(喜狐さんは素晴らしい女性だ……。こんな女性と人生を歩みたい)
「そうそう。正座教室にしっかりと名前をつけませんか? その方が覚えていただきやすいですし、私たちも誇りを持てます」
「それはいい考えだ」
 イズナも呼び、三人で名前を考えた。
「いろいろ考えたが『仙道流』はどうかな? 僕の苗字だが」
「よろしいんじゃないですか。讃永さんがご自宅で始められた教室ですから」
「私もいいと思いますよ。『仙道流』」
 喜狐とイズナも賛成した。
「仙道流」と名づけられた正座教室は、徐々に勢いを盛り返す。

 ある日、イズナは茶道具をそろえている時に、喜狐の左手の薬指に指環を発見した。
「あら、それは、もしかして……」
「へへへ、気づかれちゃった。お察しの通りよ。讃永さんからプロポーズされたの」
「まあ、おめでとうございます! ご両親の決定ではなく、おふたりのお気持ちでご婚約されたのですね!」
「ありがとう。これもイズナさんがいて下さったからだわ」
「私は何もしていませんよ。おふたりは元々、結ばれる運命だったんですよ」
 披露宴を解散したふたりだったが、今度こそ気持ちを通じ合わせたようだ。

 イズナは、父親が狐族の仙狐だと讃永から聞き、驚きを隠せなかった。
「全然、知りませんでした。お父さんが狐族で讃永さんの大祖父さまの弟子だったなんて」
 讃永にもらすと、
「僕も驚いたよ。世間というのは広いようで狭いものだ」
「ということは、私は『半妖(はんよう)』ってことですよね? 母親は人間ですから。でも、人間と変わらないと思うのですが」
「狐族と言っても祖先からの言い伝えがあるだけで、普通の人間だよ」
 説明したものの、讃永の心に大祖父から呼び出された時の光景がよみがえっていた。
 大祖父が念力を送り、教室の建物が消失しそうになった時の恐ろしい光景が。
『ワシの胸先三寸で消すこともできるのじゃ』
 讃永は度胸を決め直した。

第九章 狐の嫁入り二組

 晴天の日曜日、縁側でゴルフ道具を磨いている父親と花壇の世話をしている母親に、イズナはそっと切り出した。
「仙道讃永さんに聞いたんだけど、お父さんとお母さん、駆け落ちしたんですって?」
 父親は手に持っていたクラブを落とし、母親はプランターに入れかけていた肥料を、ドドドと雪崩のように入れてしまった。
「ど、どうして讃永先生がそんなことをご存知なの?」
 母親の声はドギマギしていた。
「讃永さんの大祖父様は、お父さんのお師匠様だそうよ。それでお母さんとのことを知っておられたのよ」
「そ、そう……」
 母親は肥料を元に戻し、ゆっくり花の苗を植えてから片付けた。
「イズナ。それは本当のことよ。お父さんは『仙狐』の修行を受けた狐族なの。生きる世界が違うからって双方の両親から結婚を反対されたのよ。それで仕方なく……」
 情けなさそうに母親は打ち明けた。
 父親が縁側に座ったまま照れ臭そうに頭をかき、
「仙道のお師匠さんは、お元気か? あの爺さんにはかなわないな。俺たちのすべてをご存知だ」
「それでね、お父さん、お母さん。ちゃんと座ってちょうだい」
 イズナは改まって言い出し、ふたりは縁側に正座した。
「駆け落ちってことは、結婚式を挙げていないのよね? 実は、讃永さんと喜狐さんが近々に結婚式を挙げることになったの。おふたりがイズナさんのご両親も一緒に合同結婚式、合同披露宴をされませんか? って」
「合同結婚式?」
 イズナの両親は顔を見合わせ、父親は頭髪を立てて跳びすさった。

 秋も深まり、日暮れが早くなった。
 讃永の家では玄関が和風の引き戸に変えられ、両側に提灯が掲げられた。
 実家で花嫁行列を調えた喜狐は、最初の時と同じく駕籠に乗り、前後を大勢の男衆、女子衆(おなごしゅう)が連なって仙道家に向かった。
 一方、イズナの父親は仙道家の座敷で、讃永と共に金屏風の前に正座して花嫁の到着を待っていた。
 イズナの母親は話を聞いて、
「この歳になって花嫁衣裳だなんて。留袖で十分よ」
 照れて抵抗していたが、
「一生に一度なのよ。お母さんは白無垢に憧れていたってお父さんから聞いたわ。是非、着てちょうだい。私が教えた正座をして駕籠に乗り、高砂の席で正座してちょうだい」
 娘の熱心な勧めに母親はそうすることにした。
 当日、支度の出来た母親は、娘に手を引かれて駕籠に乗りこみ、正座する。
「きれいよ、お母さん」
「この子ったら」
 白無垢の打掛、綿帽子に身を包んだ母親は、提灯の灯りに照らされて幽玄な世界に溶けこんでいる。
 先頭の男衆が拍子木をチョーン、チョーンと打ち鳴らした。その音も宵闇に吸いこまれていく。
 その後ろを「寿」と書いた手持ち提灯をかかげ、晴れ着をまとったイズナが続く。
 仙道家まで細い行列がゆっくり続き、到着した。喜狐の行列も到着したばかりの様子だ。
 イズナが駕籠の引き戸を開け、母親が降りるのに手を貸す。屋敷の奥座敷へ進むと列席者が居並ぶ奥に、緋色の毛氈と金屏風の前に花婿ふたりが待っていた。
 ふたりの花嫁がそれぞれの花婿の隣に正座した。
「おほん、おほん」
 白ヒゲの翁(おきな)が紋付袴羽織姿で立ち上がった。
「ご列席の皆の衆、この度は、ひ孫の讃永と弟子の林狐久里の合同婚礼にようこそおいでくだされました。ひ孫たちは正座教室を切り盛りし、林狐久里の娘御のイズナさんが手伝うてくれておる。この先もいろんな試練が待ち受けておろうが、どうか二組の夫婦を祝って美しい正座をご覧になってやってくだされ」
 大祖父が思いきり目尻を垂らして紹介した。
 二組の男女は日頃、教室で教えられているとおりの所作で正座し、三々九度を行った。
 仙道流正座の特徴は、静かでありながら所作に俊敏な味あり、相手を尊敬する思いが満ちている。
 イズナが縁側から夜空に目をやると、月虹(げっこう)が見え、小雨がぱらついている。まさに「狐の嫁入り」だ。

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