[409]正座で愛してくれないか


タイトル:正座で愛してくれないか
掲載日:2026/04/11

著者:凪りえこ

あらすじ:
だらしない新人記者・今井ひよりが任されたのは、取材殺しと呼ばれる建築家・安西誠。ぶつかり合う二人だが、彼の静寂への執着と、彼女の内に眠る“正座”の記憶が交錯したとき、過去と現在が繋がり始める。
浮上する建築盗作疑惑、そして揺れる想い。これは盗作か、それとも――。
不器用な二人が辿り着く答えとは。



本文

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 いつものように寝癖のついた髪を掻き上げながら、朝の光を窓越しに眺めた。
 布団の中でゆっくりと身体を起こそうとするが、腕は重く、肩は昨夜の疲労をまだ抱えているようだった。
 窓の外は灰色に沈み、淡く光る街路樹の影が揺れている。
 今井ひよりは、重いまぶたを擦りながら、ため息をひとつ落とした。
「だらしないなあ」
 その言葉は口癖と化していた。
 だらしなさとは、自分の生活の乱れを指すだけではない。
 幼いころ、祖父によって幾度となく叩き込まれた教え――正座は心の表れ――との落差が、常に自分の内面で重く横たわっていた。
 ベッドサイドには散らばった原稿用紙と、インスタントコーヒーの空きカップ。
 パソコンの電源を入れると、画面の明かりが白く揺れ、昨夜仕上げかけの原稿が静かにそこにある。建築家でもあり空間デザイナーでもある安西誠への取材内容だ。

 厳格で威圧的。「取材殺し」と異名まで持つ彼にインタビューを任されたときは、背筋が凍った。
「今度の月曜日、安西先生の取材な。いま話題の空間デザイナー。知ってるだろ?」
 直属の上司である上杉はいい、入れ立てのインスタントコーヒーをすすっていた。
「知ってますけど」
 安西先生。別の名を、取材殺しの鬼。インタビューの内容次第で不機嫌を起こすと話題の器の小さい男である。
「なんで私に」
「なんでって仕事だから」
「いや、ここはまずお手本を……」
 頼んでも、首を振られた。
「一度、挑戦してみてもいいじゃないか。今後こんなことたくさんあると思うよ」
 座り心地の良さそうな椅子に腰掛けて、ノートパソコンを開いている。最近新しくしたオフィスの家具は、年功序列で順番に、いい椅子を選ぶことができるという、いまの時代にふさわしくない風習だ。
「頑張ります」
 呟きながら、デスクに戻り、安西という空間デザイナーの詳細を集め始める。
 HPにある顔写真を見て、ふんと鼻を鳴らした。腕を組み、遠くに視線を送っている。着物を着て、髪を後ろにオールバックにしている。年齢は私と同じ年らしい。
「えらそうに」
 デスクトップの顔を指ではじいて、鬱憤を晴らす。
 思わずため息を吐きながら、インタビュー内容を熟考する。
 どんな取材でも、その人の魅力を出すのがプロの技である。
 ちらりと見ると、上杉はあくびをしながら、本を読んでいた。眠そうだ。よっぽど座り心地がいいのだろう。
 昇進のためにもやるしかない、と喝を入れて、再びパソコンに視線を戻した。

 胸の奥で微かに何かがざわめく。それは違和感のようでもあり、期待のようでもあった。
 ようやく布団を抜け出し、カーテンを大きく引いた。
 朝のざわめきはまだ弱く、世界が完全に目を覚ましていない時間帯だ。
 だが陽の光は確かに、冷たく柔らかく、部屋の奥にまで届いていた。

 スマホが軽く震えた。
 画面を見ると、上司上杉からの通知だった。

 件名:安西先生の取材について
 内容:
 午後、安西先生の取材が入っています。
 最近、先生のデザインについて盗作だとの噂が出ていると聞きました。詳しい状況は追って連絡します。よろしく。

 胸の奥で、小さな緊張が芽生えた。
 盗作?
 画面を睨み、微かに眉を寄せた。


 取材とかインタビューとか、どのくらい受けるのがベストなのだろう。
 安西誠は、自分用に作った茶室で、引き立ての抹茶を飲みながら考える。
 静かだ。
 朝四時。
 世界が動き始める少し前。この静けさがたまらない。
 世の中のたくさんの喧騒から逃避するためにここを造った。
 いらない言葉や視線、そういう余計なものからシャットアウトしたかった。
 無理な設計を頼んで出来上がった自宅は、最高の仕上がりになった。
 茶碗を戻して、座布団の上で正座したまま、目を閉じる。
 深呼吸する。
 空気の流れ、冷たさを感じる。
 余計なものをすべて遮断することの美しさ、シンプルさが、性に合っている。
 誰にも邪魔されない自分だけの世界は、たまらなくほっとする。
 目を開けて、じんわりと広がる足先の痛みを感じる。血流がぎゅっとつまり、少しずつしびれていく。
 足を崩したくなるが、四時半までは座禅を組むと決めている。
「ふう……」
 静寂と痛みが織りなす、自分だけの世界。
 穏やかな心に、明日のスケジュールが頭をよぎった。13時から取材が入っている。
「面倒だな」
 無意識にため息をつきながら、頭を抱える。秘書から取材は積極的に受けるようにといわれて、できるだけ対応しているが、いつまで経っても慣れない。
 しかも、陰で取材殺しの鬼といわれているらしい。そんなにひどい回答をしているつもりはないけれど、一度泣かれたこともあったから、まあそうなんだろう。
「面倒だな」
 静かな茶室に似合わない乱暴な言葉だ。
「面倒だ……」

「取材をお願いしたい」という旨のメールが届いたのが三ヶ月ほど前のことだった。
 文面が古風で、余計な言葉がなく、ただ淡々と取材をする意味と目的や趣旨が並べられていた。
 数字稼ぎに媚びてくる記者も多い中、潔い誘いが気に入って引き受けた。もちろん、秘書からの頼みというのもあるが、記者がどんな人物なのかも重要だ。
 立ち上がり、しびれた足先をほぐすためにも、畳を掃除する。そして、考える。
 もしかして——。
 今井ひより。
 記者の名前に覚えがある。
 遠い昔、子供だったとき、一度だけ会ったことがある伝説の少女だ。
 伝説というと、他から見たら大袈裟と片付けられてしまうが、彼女がきっかけで人生が変わり始めたといっても過言ではない。
 それだけ、彼女の存在は大きい。
 もしも再会するとしたらと思うと、落ち着かない。
 まさか。
 まさか、いや、どうだろう。
 落ち着かない心を払拭するように、ほうきで丁寧にほこりを払っていった。


 駅前の喧噪は、朝の光に優しく包まれていた。
 今井は、だらしない格好のまま歩き、バッグの中で資料が揺れる音を気にしながら、取材先へ向かう。
 バックパックの肩紐は緩み、開いたポケットからペンが半分はみ出している。息が浅く、不安と期待が入り混じる。
 自分はだらしない――
 だからこそ、どこかで変わりたいという思いが、いつも胸の片隅にあった。
 正座の姿勢もすっかり忘れて久しいが、無意識に足先を揃えてしまう瞬間がある。
 それは、幼い頃の教えがまだ身体の奥に残っている証だろう。

 遅刻しないようにと早めに家を出たはずが、安西のオフィスのある最寄駅に着いてからなかなかタクシーが掴まらなかった。
 ロータリーには、すでにたくさんのタクシー待ちの人が並んでいた。
 慌てていると、列の目の前の男性が譲ってくれて、会釈し礼を言いながらタクシーに乗り込んで、目的地の住所を伝えた。
 ぶしつけに「なるべく急いでください!」と半泣きで頼んで、走り出すタクシーに揺られながら、仕上げたばかりのインタビュー内容に目を通す。
「これで大丈夫なんだろうか」
 ひどい寝癖を片手で直しながら、細かいミスがないか確かめるため、度の強いメガネをかける。
 一晩中、安西の魅力を引き立たせる内容を熟考して仕上げたインタビューは、そんなに悪い出来ではないはずだ。なんなら、最高の出来なのではないかとも思う。
「しかし、変わり者らしいからなあ」
 聞いた話では、家の中に自分専用の茶室があるらしい。
 建築家がわざわざ茶室をつくるなんて、特別な空間のはずだ。それについてインタビューできた記者はまだいない。
 安西の魅力を書くのであれば、ここを聞かずにはいられない。

 幼い頃の記憶が蘇る。
 厳しい家庭で育った私は、決まった時間に正座をするように教育された。
 朝起きたての祈りの時間と、食事のとき。
 この2つの時間、祖父に背筋を何度も指摘されながら正座で過ごした。
「美しい姿勢を保つのは生きる上で最も重要である」
 祖父は何度も口にしていた。
 姿勢の正しさは人生に反映する、姿勢の乱れは心の乱れ、とも。
 小さな私にとって足が痛くなるだけの儀式のようなものだったが、祖父にとっては絶対に欠かせない教えだったらしい。
 つま先に血液がじんわり広がり、痛みが帯びてくる感覚。
 毎日やらされていたあの痛みから学んだことは、祖父の人生訓でも、心の乱れでもなんでもなかった。
 その厳しさから、逆に奔放への憧れを強くさせてしまった。
 祖父が他界してから、正座を全くしなくなった。
 さらに、大学から始めた一人暮らしで、私はとことん怠惰になった。
 寝転がりながらお菓子を食べてテレビを見て笑うのが日常になった。亡き祖父は私を見て、乱れていると叱責するだろうか。
「はあ」
 遠い過去の出来事なのに、思い出すだけで憂鬱になる。
 タクシーから見える景色は住宅街に近づいた。
 もうすぐ目的地に到着する。

 白い壁とガラス張りの窓。
 無駄のない直線で構成された空間は、どこか冷たく感じる。
 建築家の性格が反映されてように見える。
 私は、入口で一瞬だけ足を止めた。
「……失礼します」
 取材が始まる。


 約束の時間ぎりぎりにやってきた記者を見て、呆れた。
 インターフォンが鳴り、画面越しから記者の表情を見た。
 こめかみに光る汗を見て、急いでやってきたのがすぐにわかった。
 時間に余裕のない暮らしをしているのか、シャツの襟元もよれている。
 だらしない印象を受ける。
 かつて、自分が神とさえ崇めたあの静寂の——と自分は読んでいる——少女ではないのは明白であった。
 あのころ、僕が子供のころに唯一影響を与えた少女。それは、この世のすべての音や空気や色を、まっさらな青で塗り替えるほど、雑音を消す姿勢の持ち主だった。
 がっかりしながら玄関までいき、記者を招き入れた。

「はじめまして! 今井です! 本日は貴重なお時間ありがとうございます」
 威勢のいいはきはきした口調と、大袈裟なくらいのお辞儀にひるんでしまう。ぱっと上げた顔はくまがひどかったが、口元には明るさが宿っている。
 明朗快活。そんな言葉がぴったりだ。
「どうぞ」
 ワークスペースまで案内すると、今井は興味津々という感じで、あたりをぐるりと見回していた。
「そこに座っていてください。お茶いれてきます」
 そういい、キッチンに向かった。

 あちこちから借金を募らせた親父の葬式は簡素なものだった。前日まで借金取りに嫌がらせを受けた母親とげっそりしながら当日を迎えた。
 雨の日の葬式は、一層憂鬱さが増した。
 今井の父親は、親父の学生時代の友人として参列していた。
 学生時代は仲が良かったとかで、家族ぐるみで付き合いがあったそうだ。
 遠い過去の友人が、わざわざ葬式に来るなんて、変わったやつだと、なんとなく好かなかった。
 葬式の長い鎮座で、すぐに足を崩した自分とは対照的に、今井の家はみんな正座を崩さなかった。
 静寂の少女はそのなかにいた。
 遠くに座る少女が目に入ると、いままでの概念が、音を立てて崩れていくのがわかった。
 すっと伸びた姿勢に、何時間を耐えうる正座は、意志の強さと静かな美しさを秘めていた。
 よく聞き取れないお経に、繰り返す南無に、彼女の視線はまっすぐ前を向いていた。
 これが恋でなかったら、なんて呼ぶのだろうと思った。
 一度しか会ったことがないのに、好きになってしまった。
 あのころの恋心が、今も同じ熱を込めたまま、ここにある。
 誰かの言葉で、恋はするではなく落ちるものだとあったが、その通りだと思う。
 僕は恋に落ちて、深い部分まで、今もなお落下しつづけている。
 二度と覚めない呪いにも似ている。

 ワークスペースに戻ると、今井はインタビュー開始のためか、鞄からパソコンやらメモ帳やらペンやらを、テーブルに広げていた。
 慌てているのか緊張しているのか、乱雑に物が広がっている。自分が細部までこだわる専門職をしているせいか、人を見る時、服装や髪型だけではなく、所作の慌ただしさを見入ってしまう。
 雑な人だな。
「どうぞ」
 目の前にお茶を差し出すと、鞄をまさぐっていた手を止めて顔をあげた。
「ありがとうございます。お気遣いありがとうございます」
 笑顔はとても感じのいい人だ。もったいない。
「時間がないので、早めにインタビューをお願いします」
 そっけない対応にも彼女は前のめりでやってくる。物怖じせずに、明るく、そうですね! と答えて明るい。
「それでは、開始します。本日はよろしくお願いいたします」
 仕事モードに切り替わると、表情が別人みたいに険しくなった。冷たさと——少しの静寂を秘めている。
「建築家を志したきっかけを教えてください」
 質問に絶句した。
 いままで、どの媒体でも散々聞かれたことだ。ネット上にいくらでも転がっている情報なんて質問してどうするんだ?
「それは、ぐぐったら出てきますよ」
「はい。申し訳ないです」
 記者は慌てて、では次の質問……と、メモをめくっている。もたもたしていて見ていられない。
「あなたみたいな記者は初めてです」
 思わず口にした言葉が自分でも驚くほど乾いていた。動揺を隠せない記者の顔色にきつく言いすぎたかと束の間反省する。
「初めてになれて光栄です」
 思いがけない反抗的な返事に、えっと間の抜けた声が出た。
「それでは取材の続き、お願いいたします」
 記者はメモを広げて、こちらを見据えていた。
「あ、はい」


 急いで駆けつけたのが気に入らなかったのか、安西はむっとした表情で迎え入れた。
 オフィスのなかに案内され、驚いた。
 外観は近代的なのに対し、入り口の扉を開くと室内はレトロの融合で、各部屋を渡る通路に、中庭の砂石や鹿威しがあり、見たことのない造りだった。
 タイムスリップしたかと錯覚するように、まるで子供のころに過ごした安心感があった。
 妙に落ち着く感じは、いつかの子供時代を彷彿とさせた。

 あれは、急な法事だった。
 父親の旧友が急死して、家族で向かった葬式でのことだ。
 人の少ない寂しい葬式だった。
 生前の信頼は、死後に形となって現れるんだなと感じた。なんせ、子供であるはずの少年があぐらをかきながら、だるそうにそこにいたからだ。
 さっさと終わってくれ、と言わんばかりの悪態で、お経の最中に居眠りをくり返し、わざとらしくあくびをしていた。
 隣に座る祖父に耳打ちされたのを覚えている。
「あの子はたるんでいるな」
 と。
「ひより、背筋を正しなさい」
 とも。
 厳格な祖父が若干猫背になった私の背中をつついた。姿勢を正せという、いつもの合図だった。
 足先がぴりぴりして痛い。だんだん感覚がなくなってくる。
 退屈な時間。眠くなるのを必死でこらえて、今井家の暗黙のルールである、美しい姿勢を維持する。
 ふと遠くから視線を感じて目をやる。
 故人の息子が、じっと見ている。睨むとか見つめるとかの視線ではない。
 驚くような表情をこちらに向けて、目を輝かせている。どんよりしたさっきの雰囲気はない。目が輝いていた。
 父親の葬式で嬉々とした表情をするなんて、いかれていると思った。

 それからも、時々あの日のことを思い出す。
 ふとした時に、そういえばあんなことがあった、と。
 あんな少年がいたな、とも。
 記憶が深く残っているのは、おそらく葬式の数ヶ月後に祖父が他界したからだろう。
 祖父がいなくなってから、厳しい正座のしきたりはなくなった。

 それにしても——。
 広げたパソコンから、視線を目の前にいる堅物に戻す。
「建築家になった理由」。
 たしかにネットに書いてある。それは確かにそうだ。
 しかし実際に面して言葉を聞くことで、記事全体に、どういう印象を持たせるかを決めたかったんだと反論したくなる。
 インタビューで怒られることは、日常茶飯事。
 特にこういった芸術家気質はこだわりが強く、そもそも質問に対して答えになっていないこともある。
 新卒から培った記者人生と、忍耐スキルで、このくらいでは、へこたれない。
 あなたみたいな記者は初めてです。嫌味な本音にも屈しない。
「それでは取材の続き、お願いいたします」
 そういうと、目の前の堅物の視線がさっきとは何か違う気がした。
 少しの違和感。
 あれほど呆れ顔でさっさと終わらせてくれよという雰囲気だったのに、いま目の前の彼は私に見とれている。ような気がする。
 気のせいだろう——。
「なぜ、茶室をつくったのですか?」


 大体の記者は、無愛想な返しをすると、その後怯んでろくにいかないのに対し、今井は違った。
 一瞬臆したように見えたが、すぐに切り替わった。
 それに——と思う。
 ——違う。
 なにかが、違う。
 目の前の記者は、どう見てもあの少女ではない。
 乱れた髪、整っていない呼吸、落ち着きのない所作。
 一致する要素は、どこにもない。
 ——なのに。
 視線を向けた瞬間、わずかに空気が静まる。
 小さく、息を吐く。
 説明がつかない。
 つける必要もないはずなのに、思考がそこに引き戻される。
 ——うるさい。
 静かであるはずの空間に、ノイズが混ざる。
 その原因が、目の前にいる今井のせいであることだけは、理解できた。

 この「なにか」の違和感が具体的になんなのかはわからない。
 なにか——、と考えて気づいた。
 やはり、あのときの今井ひよりではないかと。
 だらしなく登場しても、いざ集中するときの鋭い静かさは、あのころ感動した、あの姿のままだ。
 思わずじっとみてしまう。あのころの君ではないかと、いまの君を見ている。
 無意識に見つめていたら、今井が怪訝な顔つきをしたので、慌てて視線を逸らした。
 絶対に変なやつだと思われたと、恥ずかしくなる。
「なぜ、茶室をつくったのですか?」
 そうきたか!
 質問に対してなんて答えようかと迷う。
 静かさを求めてとか、自分だけの秘密空間が作りたかったとか、建築家として新しい挑戦のためにとか、理由はいろいろある。
 けれど、一番の理由は、静寂を求めていたからだ。
 もっと正確にいうと、子供のころに一度会ったきりの恋を引きずっているからだった。
 なんて答えるか迷っていると、
「あ、難しい質問でしたら、答えたくないと仰っていただいて、かまいません」
 と、今井が気を遣ってきた。
「いえ、そうではなく——」
 続きを言いかけたときに、秘書がオフィスのドアを勢いよく開けた。
「先生のデザインが盗作にあっています!」
 あまりの慌てぶりに、どうしよう! と混乱する秘書に、
「まあ、落ち着いて」
 と、何度も言い聞かせた。
 きょとんとした顔のまま、手にしっかりと分厚いノートを抱えたままの今井と目があった。
「すみません。急用が入ってしまいました。申し訳ないが、別日にまたお願いします」
 あ、それでしたら、と机に広げたパソコンや文房具をカバンにしまいながら、今井は帰り支度を始めた。
 要領のいいところに、申し訳なさを感じてしまった。
「本当に申し訳ない。埋め合わせは必ずしますので。申し訳ない」
 すると、今井は気にしないでくださいよと言いつつ、
「では、次回、他ではまだ公表していない茶室の秘密教えてください」
 と、ちゃっかり頼み込んできたのだった。
 慌てる秘書をなだめるためにも、考える間もなく、すんなりOKを出してしまった。
「お疲れ様でした。また後日! 茶室の秘密! よろしくおねがいします!」
 後ろで約束の確認をする今井の声が響いていた。

 あっという間に、静寂が失われていく毎日。
 余裕をなくした秘書をなだめながら、今井の姿を思い出していた。
 美しい姿勢だった。
 その瞬間、心の奥で何かが震えた。
 それは、静寂の中で芽生える恋心のように、微細で確かな感覚だった。
「あの時の……?」
 思わず呟きそうになるが、言葉にはならない。
 幼い日の記憶と、先ほどの記者が、微かにずれて重なる感覚――それが静かな胸騒ぎとなる。


「いやあ〜、ラッキーでした。どうやら盗作は本当みたいです。秘書の方が慌てていましたから」
 今井は、会社に帰るなり、威張りながら上司にインタビューが中断になったことを報告した。
「でも取材に関しては、安西先生の都合で中断になってしまったので、後日約束取り付けたんです。その際に茶室を取材できるようにお願いしました」
 私の言葉に、
「ちゃっかりしてんなあ」
 と、上杉は呆れたような感心したような顔をした。
「だって、こっちも仕事で行っていますから」
 フロアを忙しく歩き回る同僚を横目に、給湯室でインスタントコーヒーを入れる。
「まだ誰も茶室については、インタビューできてないですもんね」
「あの人は堅物だしな。それに、茶室は特にこだわりがあるみたいだし」
 同じように入れたてのコーヒーを啜っている上杉の横で、砂糖を二個追加しながら、
「あれ以上にまだこだわりが……」
 と、思わずつぶやいた。
「芸術家肌の人って、私、合わないです」
「そりゃそうだろうなあ。今井は神経質というわけではないし」
 もう何年も上杉の下で働いてきて——仕事で——、一番信用している。いや、もしかしたら仕事だけではないかもしれない。
 いつも全力で仕事に打ち込み、新卒から叱咤激励を受けて、ここまで成長できたのは、間違いなく上杉のおかげだ。
 彼がいなかったら、忙しすぎる上に、精神的にも追い込まれやすい記者なんて仕事を続けられなかったかもしれない。

 本気で仕事を辞めようとしたことがあった。
 あれは2年前のことだ。
 インタビューした際に、質問内容が相手の勘に触れてしまい、激怒されてその場で帰ってしまったのだ。
 癖の強いダンサーで、表現のなにに重きを置いているかという質問だった。
「なんだそんなこと」
 イライラしているのが肌感で伝わったときには遅かった。
「記者って、こんな質問するの? どんなことを大事にしているかなんて、見ればわかるよ。事前にちゃんと見たの?」
 謝罪と共に頭を下げると、ダンサーが立ち上がったつま先が視界に入った。
 私は取材NGを言い渡された。

 NGを食らったのはもちろんだが、自分の力量不足が悔しかった。元々気難しいのを知っていたんだから、もっと気の利いたことができたはず。いや、気なんか遣わない方がよかったのか––。
 いろんな気持ちが逡巡して、ぴったりと身体が動かなくなってしまい、有給目一杯休むほど塞ぎ込んだ。
 突然休んだものだから、部署の人間からは総スカンを喰らい、あんなことで休まれちゃ仕事にならないと睨まれた。
 それでもどうしても身体が動かず、有給も消化し終えたころ、休職か退職かの二択を迫られ、重い身体を起こしてぼーっとパソコンの前に座っていた。
 休職のメリット、退職のメリット、またそれぞれのデメリットを比較する参考HPを一通り閲覧し終えたころ、私は仕事を辞める決意をして、退職届を書くことにした。

 まずは何か食べようと、空腹になにか入れようと、近くのスーパーまで出かけた。
 食べ終えたら、いよいよ退職届を書こうと決めていた。
 スーパーで好きなものを好きなだけ買った。
 好きなものだから、それが身体にとっていいか悪いかなど関係ない。
 プリンやチョコレート、アイス、唐揚げや惣菜などをかごいっぱいに投入した。
 会計待ちをしていると、後ろから随分だなあ、と声がした。
 振り向くと上杉が立っていた。
「そんなに食ってたら、栄養過多でいい取材ができなくなるかもしれないぞ」
 一瞬だけ時間が止まったように感じた。
 取材……?
「なんですかそれ?」
 声に出した途端、止まらなくなった。
「私には向いていません。もうずっと辞めたかった!」
 レジ前で泣き出す女と、まるで俺が泣かせたみたいだと慌てる男は、他の人からどう映ったのだろう。
 なにか意味深な関係にでも見えるのだろうか、すれ違いざま小洒落たおばさまに、みっともないとつぶやかれてしまった。
 しかし人前で大泣きの失態をしたことで、私は一皮剥けたのだった。
 退職をやめて、休んだ分を取り戻すようにがむしゃらに働いた。面の皮が厚くなったのか、どんなインタビューでも以前のような謎の不安感はなくなり、どんな結果でもどうにでもなる、と都合よく解釈するようになった。
 自分ならできる、と。
 上杉は、あのとき私に直接なにかしたわけではない。
 激励したわけでも、怒るわけでもなかった。
 ただ単に、偶然スーパーにいて、彼なりのジョークが私には「負けるな」というエールとして届いただけなのだった。

 ぼんやりと過去を思い返し、やっぱり辞めなくてよかったと感じる。
 徹夜明け、剃り残しの目立つ上杉の顎先を見ながら、コーヒーを飲む。
「取材は難しいです」
「そりゃそうだ」
 言いながら軽くあくびをする上杉は眠気たっぷりといった感じだ。目元や口元にどうしてもゆるみが出てしまう。ぼーっとコーヒー片手に突っ立っている。
「早く飲まないとぬるくなっちゃいますよ」
「あ、そうだった。コーヒー飲むの忘れてた。やばいなあ」
 苦笑いしながら、ぬるくなったコーヒーを口に運び、まず、と言い放った。
「ずっとそのままにしてるから」
「はっはっは。部下に怒られるなんて、だめだなあ俺」
 上杉は踵を返し、デスクに向かった。
 さあ、今日も忙しい一日の開幕である。
 取材内容を練り直す。建築家、空間デザイナー安西の、最高の記事を書くために。


 作業部屋中央のダイニングテーブルに、盗作と思われるデザインが広がっていた。
「これ……」
 随分前に書いたものだった。
 あれは三年ほど前か。ちょうど行き詰まっていたころに書いたもので、結局没にしたけれど、建築家人生で分岐点となる、いまの要となるデザインだった。
 円柱の建物は、斜めから見ると三角や四角に見えるという、画期的なものだった。
「どれも同じ形に揃えることはできない」。
 自分の中でたくさんのテーマを込めたものだった。

「しかしまた、随分前のものを」
 思わずあんぐりしていると、
「だからじゃないですかね?」
 と、愛弟子の愛塚が渋い顔を浮かべている。
 彼との出会いは突飛なもので、雑誌で掲載されたデザインに惚れ込んで、いきなり飛び込んできたのだった。
 いまどき、弟子にしてくれ! と面と向かっていう人がいるんだと驚いた。何度も断ったが懲りずにやってきた。
 まずは最低でも建築家としての資格をとれというと、彼は親の反対を押し切り、大学を編入して建築科に進んだ。
 すぐに根負けするかと思いきや、大学に通いながらもここにきた。
 そうなるともう、反対する理由はなかった。
「しかしまあ、どこで拾ってきたのか」
 しかも非公開だったはずだ。
「よっぽど先生が好きなんでしょうね」
 愛塚は冗談をいう。
「建築って盗作で訴えるのは難しいんですよね?」
「そうだな」
 過去にも同じような経験がある。
 そのときは、あからさまに自分のデザインだとわかる造りで、すぐに対応したけれど、起訴してもあまり意味がないと弁護士に釘を刺された。
 しかし、同じ建築家で、しかもベテランの男にやられたから腹が立って仕方なかった。プライドがないのか、と本人に怒鳴りつけたくなった。
 時間とお金の無駄になるといわれたが、それでも裁判を起こした。自分のなかでプライドが許さなかった。
 見事に敗訴したが、今後同じようなことが起こらないようにという注意喚起という意味では、戦ってよかったと思う。
 今回盗作されたものは、自分の軸となる建築デザインのものだったが、ある意味もう模倣されてばかりだったので、
「これはまあ、仕方ないかもしれないな」
 と、すぐに諦めた。
「いいんですか?」
 秘書に睨まれた。
「これはいい。もう争うのはごめんだ」
 裁判は大変だった。
 2年間にも及ぶもので、心身ともに消耗した。どんなに大変で眠れない日々でも、毎日やるべき仕事があって、ありがたいことに案件も途絶えず、忙しすぎておかしくなりそうだった。
 忙しい日々が続いて、裁判が終わったころ、自分の家を建てた。
 自分だけの空間のなかに、さらに自分だけの空間をつくった。
 それが茶室だった。
 自分の建築、そして人生の基盤を教えてくれた、もう二度と会わないであろうあの子に思いを馳せた。
 二度と会わないあの子が、いまも自分の静寂をちゃんと持ちつづけながら、幸せでいてほしいと願った。
 静かさは、美徳だった。
 あの子は、誰よりも、自分のなかで輝き続けていた。
 盗作された建造物をスクリーン上からもう一度見る。いい家だ。
「盗作されるだけ、僕は大きくなったんだな」
「呑気ですねえ」
 横で秘書が呆れていた。
「なにも対処しなくていいんですか?」
「いや、この建築家に会ってくるよ」
「え?」
「実は知り合いなんだ」
 スクリーンに映る建築のHPの右上に見知った名前があった。
 堀内伸之。
 大学時代の知人だ。
 かつては親友だったころもある。
 ジャケットを手に取り、外に出た。快晴の、気持ちいい日だった。


 取材の続きの日程を組みたいのに、安西の秘書は具体的な時間をよこさない。
「わかり次第、折り返しします」
 そればかりで、まともに受け取ってもらえない。
「先生とは、続きの取材のお約束をしたのですが」
 そういっても、
「いま安西は忙しい時期でして」
 と、濁されてしまう。
 おそらく盗作問題に関わっている。安西は大学時代の友人だった、建築家の堀内にデザインの盗作をされた。
 それで、最初は許す気でいた安西だったが、堀内に会うといって、帰ってきてから人相が変わっていたという。
 訴えると躍起になっているらしい。
 最初のうち自分も大きくなったのかと感心していたらしいが、直面すると謝るどころか開き直られて怒りに火がついたそうだ。

 いろいろ大変なのだろう。
 確かに取材どころではない。しかし、こちらの仕事の都合もある。さらに頭によぎるのは、スキャンダルが起こったのであれば、さらにインタビューの深掘りができる。
 ずるい考えだし、嫌に感じるだろうが、試練を乗り越えた人の言葉は強い。
 きっと、以前会ったときよりも、もっといいものになると確信している。しかも、
「安西先生はもっとすごくなるんだろうな」
 デスクに突っ伏しながら、ふっと呟く。
 もっとすごくなる。心からの感嘆が混ざる。
 取材にあたり、彼のつくるものを何度もみた。
 掲載された雑誌はもちろん、受賞した建築に実際に足を運んだ。
 美しかった。
 安西の愛する静寂がわかる気がした。極端にシンプルな造形、しかし住み心地の良さそうなドアの開きだったり、扉の大きさだったりに、強いこだわりを感じた。
「どうした?」
 声をこけられ、顔を上げる。上杉が面白そうにこちらを見ている。周りでは同僚がせっせと電話をとったり、キーボードを叩いたり、各々納期に間に合わせようと必死だ。
「いえ、なにも」
「安西先生の件?」
「はい」
 苦笑いする。
「なかなか日程合わないんだろう」
「そうですね」
「それをなんとか調整するのも」
 上杉がいいかけて、
「記者の腕ですよね」
 と被せるように答えた。
「よくご存知で」
「たくさんご教授いただいたので」
 上杉は、まいったなと腕をあげた。
「なんか立派な記者になってきたな。ひよっこだったのに」
 上杉の笑みに癒される。
「頑張る理由があるので」
 濁した言葉には、遠回しに気づいてほしいというメッセージを込めている。しかし気づくこともないし、実際に気づかれてしまっては困る。
 上司と部下。この関係が一番心地いい。
 でも、本当は。
 自分でもわかっている。上杉が好きだ。
「ぼーっとして、体調でも悪いのか?」
 言いながら顔を覗き込まれてどきっとする。
「いえ、元気です」
 反射的に後ろに下がり、背を向けた。
「よーし、絶対アポ取るぞ」
 意気込みながら、一瞬取材のことなどどうでもよくなりそうだった。好きな人というのに、とことん弱い。
 好きな人がいると、仕事にならない。
 自分に喝を入れ直すように心のなかで何度も上杉の残像を振り払う。いまの自分に必要なことは、まず仕事だ。そして、安西の取材を完璧に行い、立派な記事を書き上げることだ。
 急にふっと思いついた。
「堀内先生にインタビューはどうかな……」
 思い立ったらすぐに身体が動いてしまう。
 すぐに堀内建築事務所に電話を入れると、本人が電話で応じてくれた。
「はい」
 電話越し、怪訝な声色だったが、怯むわけにはいかない。
「私、◯◯出版の今井と申します。堀内先生にインタビューをお願いしたく、お電話しました」
「あー、あのこと?」
 お互いに黙り込んだあと、
「いいよ。じゃあ、◯◯駅前のカフェに15時で」
 そう告げるとがちゃりと電話が切れた。
 今井は急いで身支度をしながら、なんだか忙しくなってきたとなぜか少しワクワクしていた。

10

 外の光は柔らかく、窓越しに差し込む午後の影がテーブルに斜めの線を描く。
 堀内は少し疲れた顔で現れたが、その瞳にはどこか誇らしげな色があった。
「はじめまして。今井と申します。今日は急なお願いにも関わらずインタビューの件、承諾していただき、ありがとうございました」
 深々と頭を下げた。
 カフェの奥、窓際の席。
 午後の光がテーブルに斜めの影を落としていた。
 私はノートを開いたまま、まだペンを持っていなかった。
 ——相手を見る。
 それが先だ。
「……で」
 向かいに座る堀内が、コーヒーに口をつけながら言った。
「例の件でしょ?」
 最初からそうくるか! と思った。
 遠回しに探る必要がないのは、ありがたい。
 同時に、やりにくい。
「はい。盗作の件について、お話を伺えればと」
 真正面から言った。
 堀内は一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「盗作、ね」
 あまりにも軽い言葉だ。
「そう見える?」
 試すような視線が飛んでくる。ほんの一拍だけ間を置いた。
「似ているとは思いました」
「正直だね」
「ただ、盗んだとは思いませんでした」
 その言葉に、堀内の眉がわずかに動いた。
「へえ」
 堀内は興味深そうな顔をした。
「なんで?」
「意図が見えなかったからです」
 私は静かに言う。
「盗むなら、もっとわかりやすくやると思います」
 堀内がふっと笑った。
「なるほど。じゃあ俺は中途半端に下手な盗作者ってことか」
「そういうことではなく」
「でも、似てるんでしょ?」
 かぶせるように言われる。空気が、わずかに尖る。
「似てますよ」
 私はあっさり認めた。
「構造も、思想も、かなり近い」
「ほら」
 堀内は肩をすくめた。
「だったら答えは簡単じゃないか」
「……影響ですか?」
「影響? この業界じゃ当たり前だろ」
 堀内は言い切った。その態度は、どこか挑発的だった。
 私はそこで、ようやくペンを持った。
 だが、書かない。
「当たり前、ですか」
「当たり前だよ」
 堀内は即答する。
「ゼロから生み出してるつもりのやつほど、危ない。みんな何か見て、何かを真似て、そこからズレていく。それを盗作って呼ぶなら、この業界全部アウトだ」
 理屈としては、通っている。
「……それでも」
 私は静かに言った。
「怒る人はいますよね」
 苛立ちからか、テーブルを叩いていた堀内の指が、ぴたりと止まった。
「そりゃいるだろうね。自分が特別だと思い込んでいる人は」
「安西先生も、特別だと思い込んでいる一人だと?」
 一歩踏み込む。堀内は答えない。代わりにコーヒーを飲んだ。
 苦い沈黙が落ちる。
 私は視線を逸らさない。逃げると、終わる。
「……違うな」
 ぽつりと、堀内が言った。さっきまでの軽さが消えている。
「違う?」
「俺が悪いんだよ」
 その言葉に、思わずペンが止まる。
「どういう意味ですか?」
 堀内はカップを置いた。少しだけ乱暴に。
「見すぎた」
 短く言う。
「見すぎた?」
「昔からだよ」
 視線を窓の外に向ける。
「安西の図面、好きだったんだよ」
 初めて名前を呼んだ。それだけで、空気が変わる。
「線の引き方とか、間の取り方とか。意味わかんないくらい綺麗でさ」
 堀内は笑う。だが、その笑いはさっきまでと違う。
「気づいたら、頭に残ってた。消えないんだよ、ああいうのって」
 指でテーブルをなぞる。まるで線を引くみたいに。
「で、あるとき自分で描いたら」
 そこで言葉が途切れる。
「似てた」
 静かに落ちる言葉に、安西への憧れが詰まっていた。
「自分でも、引いたよ。うわ、やっちゃったなって思った」
 私は小さく息を吸う。
「それでも、出したんですね」
「出したよ」
 即答だった。迷いはないみたいだった。
「なんでですか」
「負けたくなかったから」
 堀内は続けた。
「……認めたくなかった」
 その一言が、本音だろう。
 カフェのざわめきが、遠くに聞こえる。
「盗んだつもりはない」
 堀内は言う。
「でも、影響を受けてないとも言えない。その中途半端が、一番ダサいよな」
 自嘲気味に笑う。
 私は、ゆっくりと頷いた。
「正直ですね」
「いまさら取り繕っても意味ないだろ。どうせ、あいつは許さない」
 その言い方に、わずかな諦めが混じっている。
 私はペンを置いた。そして、まっすぐ言う。
「許すかどうかは、まだわかりませんよ」
 堀内が顔を上げる。
「は?」
「安西先生、怒ってますけど、それ、盗作だけが理由じゃないと思います」
「……どういう意味だ」
「大事なものに触れられたから、じゃないですか」
 堀内の表情が、わずかに歪む。
「……ああ」
 小さく、息を吐く。
「それは、あるかもな」
 否定しなかった。
「ちゃんと話したほうがいいと思います。影響を受けたってことも含めて」
 堀内はしばらく黙っていた。それから、ぼそりと呟く。
「めんどくさいな」
 ため息をついている。
「まあ」
 カップを持ち上げる。
「逃げっぱなしも、気持ち悪いか」
 堀内はほんの少しだけ、前を向いた顔だった。私はノートを閉じた。
「今日はありがとうございました」
「記事、楽しみにしてるよ」
 堀内は笑った。今度は、少しだけ素直な顔で。

 カフェを出て、空を見上げた。
 光がやわらかく広がっている。

 影響。

 その言葉が、胸の中で静かに響いていた。

11

 今井から何度も取材依頼の連絡がくる。

 安西はオフィスの窓辺に佇み、遠くに光る東京タワーを見ていた。
 取材再開を約束したにもかかわらず、なかなか時間がとれないのは、デザインの盗作問題のせいだ。

 直接、堀内に話を聞きにいくと、なんとこれは盗作ではないと言い放ったのだ。
 極め付けに、デザインは互いに影響しあうものとまで抜かしやがった。
「ありえない」
 腕組みしたまま仁王立ちで、怒りでおかしくなりそうだった。
 ありえない。謝罪の一言でもあるかと思っていたのにふざけるな。あれはどう考えても自分のデザインだと言い切れる。
 かつての、初恋。正座の少女。創作のアイデンティティは全部彼女が由来である。それを他人が盗めるはずがない。
「ふう」
 血が上ったままの頭は疲労困憊でおかしくなりそうだった。少しでも気持ちを落ち着けたくて静寂を求めて目を閉じる。
 記憶の向こうにいるあの少女。彼女にもし、もう一度出会うことができたら——。
 記憶の中にある静けさと甘美に宿る美しい少女に気持ちを馳せる。
「頭がおかしくなったのかな」
 もう子供の頃以来会っていない。
 しかし、いつか会えると思っていままで生きてきた。
 いつか会うことができる。なぜかそう感じる。
 もう一息つきたくて、窓を開けて風を浴びた。吹き抜ける風に、このまま面倒な厄介ごとすべて飛んでいったらいいのにと思った。

 オフィスの電話が鳴っている。
 あいにくみんな出払っていて仕方なく受話器をとった。
「もしもし」
「お世話になっております。今井です」
 うわ、と口にしそうになった。また取材のことだろう。彼女には悪いが、とてもいま取材する気になれない。
「取材の件ですよね」
 こうなったら、断るしかない。早くそうするべきだった。
「おそらく耳に入っているかと思いますが、いま色々と面倒が重なってまして。取材の日時を明確に組めそうにないんですよ」
 ざっと口早に告げたあと、
「申し訳ないですが、この取材は白紙に戻せないでしょうか。取材料の方は対応しますので」
 そこまでいうと、ほっとした。取材の日時をあらためて決められないのも、心が重かった。早く断った方がよかったのに、だらだらと引き伸ばして悪かったと思う。荷が降りたようにほっとした。
「それでは、よろしくお願いいたします」
 受話器を下ろそうとすると、電話口から待ってください! と大きな声が響いた。反射的に耳元に受話器を当て直す。
「はい?」
「取材とかかしこまったことではなく」
 今井はいった。
「ちょっとお出かけしませんか?」
「え?」
 お出かけ?
「え? お出かけ? なんであなたと?」
「お出かけといっても大したことではないです。甘いものでも食べませんか」
 うまく断ろうと言葉を選んでいると、
「オフィス近くまで伺いますね」
 そのまま今井は電話を切ってしまった。
 強引な人だと感じた。
「甘いものか」
 しばらく考えて、身支度を始めた。
「そういえば最近、食べてなかったな」

12

 やっと取材——というよりデート——をとりつけ、今井はジャケットに、普段は履かないピンヒールを揃えた。
 服装だけではなく、美容院で髪型も整えてもらうと、普段は絶対に見ない自分の姿があった。

 自分なりにきっちり済ませたあと、安西のオフィスに、タクシーで向かう。
 まずは相手の心を開かないと、いいインタビューはできない。
 そのためにも、きちんとした対応をしないといけない。
 きちんとした対応とは、身なりや言葉遣い、そして、心遣いも含まれている。

 近くまで来たところで、手鏡で顔を覗き込んでから、気合いを入れるようによし! と声にした。
 もうすぐそこという場所までいくと、オフィスの前に安西の姿をみつけた。
 タクシーに、少し待ってもらうよう伝えてから一度降りて、安西の元に駆け寄った。
 安西は驚いた顔をしている。
「近くに有名なケーキ屋さんあるみたいです。いきましょう!」
「はあ」
 半ば強引に安西とタクシーに乗り込み、歩いて数分のコーヒーショップまで向かった。

13

 本当に強引な人だ。
 目の前でおいしそうにケーキを頬張る今井を見て、感心せずにはいられない。
 取材とかかしこまったことではなく、甘いものでもといわれて、のこのこ着いてきたが、こんなのは自分らしくない。

 しかしケーキは本当においしかった。王道の、苺のショートケーキ。
「あっという間に食べちゃいましたね」
 口の端にクリームがついたままの今井が笑っている。
「久しぶりのケーキ。美味しかったです」
 照れ隠しでぶっきらぼうに答える。
「甘いものが好きとは意外でした」
 ようやく最後の一口が終わった今井は、ナプキンで口元を拭っている。
「たしかに。自分でも意外でした」
「気に入ってもらえてよかったです」
 夕焼けに染まり始めた午後。
 窓越しに当たる光に照らされた彼女の姿勢の美しさに驚いた。いつかの人に似ている。
 じっと見ていたら視線があってしまい、あわてて逸らした。
 ——近い。
 距離の問題ではない。
 この人は、近すぎる。
 まだ何も知らないはずなのに、踏み込まれている感覚がある。
 口には出さない。
 出した瞬間、輪郭を持ってしまう気がした。それが、なんとなく怖かった。
「姿勢いいですね」
「え?」
「いわれませんか?」
「たまに言われます。姿勢いいねって。あと、変な癖なんですけど、集中するときは正座してますね」
 人と打ち解けられない性格の自分が、ほぼ初対面の記者とケーキを食べに来てしまった理由がわかった。
「やっぱり君かあ」
 あまりに気の抜けた声に、今井は目を丸くしている。
「正座の。静寂の」
「正座で静寂の?」
「僕の原点です」
「ん?」
 しばらくして、今井はなにかに気づいたように、あ、と声を出した。
「なるほど」
 と、今井はいい、
「やっぱり」
 と付け足した。
「……やっぱり」
 僕は小さく息を吐いた。
「君か」
 今井は、少しだけ首を傾げた。
「遅いですよ、気づくの」

14

「先生は、影響を受けたのが、私の正座姿だったんですよね」
 追加でホットコーヒーとモンブランを頼んだ。
「そうです」
「私の祖父はすごく厳しくて、いつも正座や姿勢に気を付けるようにと言われていたんです」
「知っています。見たことがありますから。親父の葬式で」
 ふふふと今井は笑った。
「先生、盗作についてなんですが」
 いきなりインタビュー開始かと身を構えた。
「はい」
「先生が私に影響を受けたように、堀内先生もインスピレーションを受けただけなんじゃないですか?」
 まさかの堀内のワードに不意を突かれて、黙り込んだ。
「しかしあれはどう考えても」
「そうなんです。たしかに先生の作品に似ています。でも盗作って丸々もらってくことですよね。そう考えると、堀内先生の作品は、盗作とまではいえないかなと感じるんですが」
 事前に過去の建築物を確認していたことに驚いた。ただ、部数や数字を気にするだけの記者かと思っていたのに。
「堀内先生にもお会いしました」
「え? いつの間に?」
 いつの間にそんなことをしていたんだと行動力に驚いた。
 追加で頼んだモンブランを頬張り始める彼女を見ながら、いつの間にかペースを持っていかれている自分に気づく。
「堀内先生って、安西先生が好きなんですね。無意識に憧れが作品に投影してしまうんでしょうね」
 そう言われてしまうと、なにが盗作でなにがそうではないのかの、自分の中のボーダーラインが曖昧なのは認めざるを得ない。
 誰しもが誰かの影響の上に成り立っている。
 今井なら祖父の影響を無意識に引き継いでいるし、堀内は自分のデザインへの尊敬、僕なら、今井ひよりの静けさだった。
 影響は連鎖しあっているのは間違いない。
「そういわれてしまうとなあ」
 何気なく手に取ったフォークをじっと見つめる。
 今日ここに来たのは、強引な誘いを断れなかったからなのか、それとも本当に甘いものが食べたかったからなのか。
「おいしいですねえ」
 無邪気に笑う今井は姿勢がとても美しい。
「君のペースに巻き込まれているのかも」
 なんのこと? とでもいうように、今井は首をかしげた。

15

 障子越しの光は、白ではなく、わずかに黄を含んでいた。
 輪郭の曖昧な光が、畳の目に沿って静かに広がっている。
 足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
 音が、一段奥に引いたような感覚。
 手入れの行き届いた畳。
 わずかに残るい草の匂いが、呼吸の奥に沈んでいく。
 床の間には、簡素な掛け軸と、小さな花が一輪。
 余計なものが、ない。

 茶室は静寂。自分だけの居場所だ。
 ここは自分だけの空間のはずだった。
 それがいま、今井がここいる。
 しかも、抹茶を振る舞おうと、気に入りの茶碗まで用意した。

 つい数時間前まで、一緒にケーキとおいしいコーヒーを嗜んでいた。
 カフェを出てお開きになりそうなところを、今井はこれまた強引に、インタビューの続きをさせてほしいと頼みこんできた。
「それなら、せっかくだし茶室を見て行ったらどうですか」
 甘いケーキと美味しいコーヒーに上せたのか、インタビュー再開のついでに、自分でも驚く誘いをしてしまった。
 もう少しだけ話したいと思ってしまった。
 今井は二つ返事ではい! と答えた。

 彼女は小さく頭を下げ、茶を点てる僕の手元を見ている。
 ——やっぱり、違う。
 最初に会ったときも、そう思った。
 乱れた髪、荒い呼吸、崩れた姿勢。
 記憶の中の少女とは、まるで別人だった。
 ——なのに。
 茶筅が、静かに器の中を往復する。
 泡立てるというより、撫でるように点てる。
 その音に紛れて、彼女の呼吸が整っていく。
 視線を向けた瞬間、わずかに空気が静まる。
 小さく、息を吐く。
 説明がつかない。
 つける必要もないはずなのに、思考がそこに引き戻される。
 点てたばかりの抹茶を差し出した。
「……いただきます」
 彼女は小さく頭を下げ、茶碗に手を添えた。
 その指先を、追って、見ている。

「……盗作の件ですが」
 今井の声は、思っていたよりずっと落ち着いていた。
「インタビュー開始ですか」
「はい」
 即答だった。一切の躊躇がない。
 僕はわずかに眉をひそめた。
「あなたはどう思いますか。カフェで話したように、堀内はインスピレーションを受けているだけだと思いますか」
 茶室の空気が、わずかに重くなる。
「堀内先生、途中で、こうも言っていました」
 ——間があく。
「昔から、先生の図面が頭から離れないと」
 今井の顔をまっすぐ見た。
 茶室に沈黙が落ちる。湯気が、ゆらりと揺れた。
「……それは」
 口を開きかけて、止めた。否定する言葉が、続かない。
 今井は続けた。
「影響って、そういうものなんじゃないでしょうか。意識していなくても、残ってしまう。形を変えて、出てくる」
 心の中で何かが軋む。
「それを許せと?」
 僕はようやく言葉を絞り出す。
「許すかどうかは、先生が決めることです」
 今井は首を横に振った。
「私はただ、先生が怒っている理由が、少し違う気がして」
 その一言で、また空気が変わった。
「違う?」
 自分の声が低くなるのがわかる。
「何が違う?」
 今井は、適当な言葉を慎重に選んでいるようだった。
「盗られたから、じゃない。大事なものに触れられたから、じゃないですか」
 その言葉は、静かに、深く落ちた。図星だった。
「……あなたに」
 声がかすれる。
「何がわかるんですか」
 悟られたくない部分を見透かされているようで、否定したくなる。
「少しは、わかると思います」
 今井はくすくす笑い始めた。
「だって、全部、私から始まってるんですよね。この茶室を造ったのも」
 完全に時間が、止まった。

 ——正座。
 ——雨の匂い。
 ——白い光。

 遠い記憶が、一気に押し寄せる。目の前の今井ひよりと、重なる。

 あのときの背筋は、もっと鋭く、冷たかったはずだ。
 目の前の彼女は、どこか緩い。隙がある。あのころとは別人だ。
 完璧じゃない。
 むしろ、少し崩れている。
 なのにどうしようもなく、同じだ。
 僕は、初めて力を抜いた。
「……敵わないな」
 茶室の空気が、ゆるむ。
 完全に解決したわけではない。怒りも、違和感も、まだ残っている。
 それでも少しだけ、ほどけた。
 湯気が静かに立ち上る。
 お互い何も言わず、その揺らぎを見ていた。
「これ……、記事にしにくいです。茶室の秘密が私だなんて」
 今井は気まずそうな表情を浮かべていた。
「そりゃそうだ」
 おかしくなって笑ってしまった。

16

 茶室を出ると、外の空気は少しだけ冷えていた。
 一歩踏み出して、ふと立ち止まる。振り返ると、白い塀の向こうに静けさが残っている。
 さっきまでそこにいたはずなのに、もう別の世界のようだった。
「……影響、か」
 小さく呟く。
 盗作かどうかなんて、結局はっきりしなかった。正しい答えも、間違いも、まだどこにもない。
 それでもなにかが、少しだけ動いた気がした。

 初めて笑顔を見たとき、思わず見惚れてしまった。
 この堅物が、あのときの少年だなんて。
 懐かしい痛みまで蘇ってきた。
 正座を通して、また巡り会えるなんて、人生はわからない。

 ポケットの中でスマホが震える。
 取り出すと、上杉からのメッセージだった。
「例の件どうなった?」
 短い一文に、思わず笑う。
「いつも通りだなあ」
 安心する。上杉の言葉は、余計なものがない。考えすぎなくていい場所。
 いつでも戻れる場所でもある。
 画面を見つめたまま、少しだけ指が止まる。頭の中に浮かぶのは、茶室の静けさ。背筋を伸ばした時間。言葉がなくても通じた、あの空気。
 上杉といるときの自分は、安西に見せる自分ではない。
 逆に、安西と向き合っているときの自分は、上杉の前にはいない。
 どちらも、本当だった。どちらも、嘘じゃない。
「……困るなあ」
 小さく笑って、息を吐く。それでも、答えを急ぐ必要はない。私はスマホに視線を落とした。少し考えてから、短く打つ。
「まだ終わってません。むしろ白紙になるかも」
 送信。
 それから、もう一文打とうとして、やめた。

 スマホを見つめたまま、少しだけ考える。
 安西といると、疲れる。
 言葉を選ばないといけないし、気も抜けない。
 なにより誤魔化しが、きかない。
「……めんどくさい人」
 小さく呟く。
 あの空間で感じた静けさは、嘘じゃなかった。
 自分の中の、どこか深いところが反応している。
「……なんなんだろ」
 わからないまま、残る。そもそも、好きな人は1人に絞らなければいけないものなのだろうか。答えは出ないまま、スマホをしまう。
 それでいい気がした。

 一歩踏み出す。足先を揃えて、それから少しだけ崩す。きっちりしすぎないように。
 だらしなさも、残したままでいい。
 遠くに街の光が灯り始めている。
 完全には整わないまま、いくつもの影響を抱えたまま、それでも、自分の形で進んでいく。
「終わりじゃないな」
 今度ははっきりと言う。
 静けさと、ざわめきの両方を連れて、歩き始めた。


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