[110]おっさんの正座


タイトル:おっさんの正座
発売日:2021/01/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:40
定価:200円+税

著者:ひでまる
イラスト:V.K

内容
 元不動産営業マン43歳の立川は正座が出来ず苦しんでいる。
 リストラにあい次の転職先の会社ではお客様との打ち合わせ時正座が必須だが、正座が長く出来ず、顔が歪み、お客様に不安を与えてしまう。
 上司からお客様クレームを受け、即刻改善を命じられ、妻からの勧めで正座教室を受講する。
 そこで立川は先生からきつい指導を受け、投げやりになるが…わがままなおっさんが自分を見直し、不器用にも前へ進む人情物語。

販売サイト
https://seiza.booth.pm/items/2646790



本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。


 上司石井の怒鳴る声がシンバルのように事務所内に響き渡る。他の社員はフルートを吹くかのように、軽やかに聞き耳を立てながら、念入りにパソコンを覗き込んで仕事をしている振りをしている。
「君宛に二件のクレームが上がっている。いずれも人的クレームだ。お客様宅訪問に関する横柄な態度が上がってるぞ!」
「その二件は契約が取れていますし、お客様から怒られるような事は一切してないですよ」
 立川は右眉の上を掻きながら、不服そうに言った。
「じゃあ、なんでアンケートはがきの欄に、お前のクレームが書かれてるんだ!」
 机を強く叩く音が事務所に響いても立川は動じない。以前勤めていた不動産会社でも同じような詰め方があったからだ。前職同様、営業で饒舌に話す事は得意だが、些か馴れ馴れしい態度が出て、お客様に不快感を与えてしまうのが立川の悪い所であった。
「もしかしたら馴れ馴れしい言葉が出たかもしれません。以後気をつけます」
「言葉やない。態度や。打ち合わせ中の座る態度が悪いやって」
「普通に座ってるだけですが……」
「地べたに座る時はどうしてるんや?」
「胡座をしてます」
「それがおかしいんや! どんな時も正座やろ。うちの会社入る時、誠実に礼儀しく、お客様第一の接客マナー教えてもらったはずやろ? 営業の接客マナー講座にも正座あったやろ?」
「知ってます……ですが、正座出来ないので」
「なんでや?」
「足が痺れて五分、十分経つと身体が辛くなって顔が苦しくなってくるんです。その苦しそうな嫌な顔を、お客様に見られて不安にさせるのも嫌なので敢えてしないんです」
「そんなん言い訳やんけ。改善せえや」
 蝉の鳴き声のようにうるさい声を右から左に流したいが、営業で打ち合わせ時正座が出来ないのは致命傷である。まして引越の契約をする為、お客様宅訪問が多いこの会社では地べたに座って話をする事が特に大切だ。椅子に座ってゆっくり会話出来るほど、この仕事が甘くないのは重々立川も理解はしていた。
「早急に……対応します」
 返す言葉もなく自責の念に駆られながら、立川は事務所を出た。真夏の強い日差しと蝉の鳴き声でさらに疲労が溜まる。「うるさい」と頭の中で何度怒っても、苦労の波は止まる事なく押し寄せてくる。立川は右へ左へと項垂れながら改善策も思いつかず、気落ちした表情で自宅へと帰った。


 正座をしながら食事をすると、足に意識が集中して食事も喉が通らなくなっていく。立川は痛みの意識を変え、違う意識へ移す妙案を思いついたが、その案はすぐに無理だと実感した。正座をすると足の痺れで顔がおどおどしくなり、焦点が正面へと落ち着かない。時間をおき、足を何度か組み直してやってみたが結果は同じだった。その姿を見ていた妻の沙織が尋ねた。
「さっきから何してるの?」
「見ればわかるやろ、正座や」
「なんでまた急に? しかも食事中に……」
「仕事で必要なんや。営業で打ち合わせ時正座せんと、お客様の目、こっちへ向いてくれへんねん。営業で売上低いと給料上がれへんやろ?」
「そうやけど、急にやっても……」
「こういうのは普段からやって慣れておけば楽になるんや!」
 立川は説得力があるように言ったが、何度やっても姿勢が崩れて右へ傾いてしまう。集中力は徐々になくなっていき、垂れた身体を起こすのさえ億劫になっていった。
「気乗りするかわからんけど、駅前のさ、会社行く方とは反対側に七階建てのテナント入ったビルあるんやけど、そこの正座教室行ったら?」
「正座教室ぅ?」
 立川は右足の甲を左右へ動かしながら、苦痛顔をさらに歪めた。昔から習い事は嫌いで、先生に習いを請うというのはどうも性に合わない。しかも大厄を過ぎた四十三歳のおっさんが正座を習うと誰かに知られたら、恥ずかしくて顔を見せることが出来ない。
「嫌やわ、そんなせんでいい」
「そういうと思ったわ。別に行かんでいいけど、ご飯食べる時くらい普通にしてな。見てる方も鬱陶しくて嫌やわ」
 沙織は食べ終わった食器を早々に引き上げ、キッチンへと向かった。反論しようと言葉に出そうとしたが、沙織の言うことが正論で、ただ洗い物をする沙織の背中をじっと眺めるしか出来なかった。たった一つの正座に苦しめられる俺の人生。このまま何もせず営業を続けることは出来るが、石井からの嫌みを言われ続けるのは嫌だし、まともな正座ができないまま終わる自分にも腹が立つ。
 立川は弛んだ腹と重い腰を持ち上げ、疲れた頭と身体を癒やしに風呂場へと向かった。


 夜の駅前を徘徊するのには慣れているが、人通りが少ないビルの中に入るのは億劫だ。休みの日にわざわざ時間を使って行くのが嫌なので仕事帰りに時間を調整したが、やはり習い事に時間を合わせるのは面倒くさい。だが状況を改善することが出来ない立川に教えを請う以外選択肢はなかった。沙織に教えてもらった情報を頼りに、巷でも人気と云われる(本当に人気があるかどうかわからないが)正座教室の看板を見つけ、ノックもせずドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
「本日十九時に予約していた立川なんですが……」
「立川様ですね? お待ちしておりました。先生をお呼び致しますので少々お待ちください」
 愛想のいい受付の女子大生は一度会釈をし、裏手の方へと消えていった。元々あった小さな医院を改良したような小さな空間で、先ほどの受付と待合座椅子が二つほど、左奥手には診療室だったような大きな引き戸が存在感を示している。立川は広告パンフレットに電話予約のみ受付可と書かれていた事に疑心を持っていた。通常は月に何度かは講座教室を開催し、集団指導するのが普通だが、この正座教室にはそれがない。ましてはこの小さな空間で一体何が出来るのだろうか。
「お待たせしました。奥へどうぞ」
 ゆっくりと解き放たれた引き戸を通ると、そこは楽屋を思い出させるような小さな六畳の畳部屋だった。右手側に大きな鏡が三つ飾られており、部屋中央には正方形の木の机が置かれている。机を挟んで左右には紫色の座布団が敷かれており、右手側に着物を着た女性が座っていた。年は四、五十代ほどだろうか、小さな鼻に整合性のとれた目、ふくよかな
 耳に簪を差した気品のある髪型は、まる老舗旅館の女将といえる風体だった。
「神崎と申します。この度は如何しましたでしょうか?」
「どうなさいましたか?」と病院の先生が尋ねるセリフを笑顔で問う神崎に、怪訝に思いながらも立川は表情に出さずに話した。
「長い時間正座が出来ずに困ってるんです。正しいやり方を教わりたいと」
「具体的には?」
「正座をして約五分で右足首が痺れて、それ以上すると痛くて辛いんです」
「そうなんですね……気の毒かもしれないですが、正座は正直辛いですよ。正しいやり方を教えることは出来ますが、あなたの望むような痛みを緩和する回答はないかもしれません」
「何も痛みを緩和するとか言ってないですよ。正座を長く出来たらそれでええねん」
 無下な答えに少し苛つき、相手を少し睨んでしまった。
「気を悪くしてしまい失礼致しました。では早速ですが、一度正座を見せて頂けませんか?」
「スーツ姿のままですか?」
「えぇ、その姿でお願い致します」
 立川は躊躇いながらも神崎の向かい座布団に座り、正座をした。その姿を始終見つめる神崎の目は鋭く、まるで立川の正座を採点するかのようにじっと見つめていた。
「両脚が少し、左右に開いてますね。真っ直ぐに向けて、両脚の親指をくっつけて下さい」
「こう……ですか?」
「そうですね……ただ、他の身体の部分が曲がらないように意識して下さい。特に背筋が曲がっているので、少し辛いかもしれないですがピンと真っ直ぐにできるように」
 神崎の指示通りやって少し姿勢がよくなった気がする。ただ時間が経つにつれ、足が痺れ始めてきた。
「先生、そろそろ足が痺れてきましたわ。もういいですか?」
「私がいいというまでやりましょう」
 立川の苦痛に歪む顔に神崎は動じず、同じように正座をしている。改めて神崎を見ると、背筋はピンと伸び、頭は垂れず顔は正面を向き穏やかな表情をしている。両手は太ももの上に置き、正座をしている姿がごく自然に見えた。
 十分、二十分と経過をした。立川の顔から汗が噴き出し、両脚をもぞもぞさせ痺れをごまかそうとしたが無意味だった。貴重な時間、一体俺はなぜこんな辛い事をしているのだろうか? と頑張る意欲から、イライラと相手への嫌悪感が募っていく。
「いいですよ。正座を一度やめましょう」
 神崎の一言で、立川は素早く足を崩し、両足を真っ直ぐに伸ばした。足が痺れて感覚がなく、疲れも溜まったのか、人目を気にせずそのまま上半身を倒し、畳の上でバンザイをした。
「次の生徒さんも来ていますので、寝転ばれるのは……」
「ちょっとくらい休憩させてーや」
「困ります。休憩されるのはけっこうですが、ここは指導する神聖な場所なので、せめて座って下さい」
「足が痺れて伸ばさんと無理や、頼むわ」
「これ以上ご迷惑をかけるようであれば、お代金はけっこうなので帰って頂けませんか?」
「何でや? 言われた事ちゃんとやったん? 正座長く出来るようになったし、もうちょっと何回かすれば……」
「次回はございません。それに何度やっても同じです。疲れてくると全体のバランスが右に傾いてくる癖があるのでそれを修正する必要があります。また正座は心を清め、お互いを尊重し合うものです。立川さんの正座は言い方が悪いですがやってあげてる感が出て、相手に失礼な印象を与えてしまいます。例え正座が下手で形が崩れていても、心がしっかりとあれば相手に良い印象を与えます」
 神崎の言葉に立川は言葉を失った。何も始めたての初心者なのに人生を全て否定され、見透かしたような口ぶりに怒りを感じた。先生という名の権限を武器に、人の駄目な部分を愚直に並び立てる習い事はやはり嫌だ。立川は早々に身支度を整え、神崎に目を合わすことなく無言で部屋を出て行った。
 夜の街に蝉の声はない。飲み帰りの時間であったのか、すれ違う楽しそうな会話をくぐり抜け、重い足通りで自宅を目指す。神崎の言葉が頭の中で反芻し、自分の心を削っていく。
「畜生め」
 やっと出た怒りの言葉も、自分の情けなく脆い声に自分の弱さを知る。小石を蹴って、小石を踏ん付けても、自分が踏まれてるような気がして情けなくなってくる。人通りの少ない住宅街を一人歩いて行く。そこには蝉の声も人の声すらしない。誰かそっとでいいから自分に何か話しかけてきて欲しかった。


 煮えくり返った言葉を吐き出さず酒と一緒に飲み込んで、沙織と一緒にテレビを眺めていた。沙織は正座教室へ今日行った事を知っていたが、特に興味がないのかその話題をしてこなかった。
「先に寝るわ」
 寝室へ行こうとした時、沙織は言い忘れたかのように尋ねてきた。
「そういえば正座教室どうやったん?」
「うーん、なんか姿勢教えてもらったけど結局足痛くなって、そのままずっと止めるって言うまでやれって言われてしんどかったわ」
「正座ってずっとやってたら足が痛くなるもんじゃないん?」
「そうやと思うけど、正しいやり方やったらもっとマシになると思うねん。でもあそこはあかん。俺の正座の意識がないとかやってる感出てるとかで悪口言いおって、挙げ句の果てには次の生徒来てるから休憩せんと出て行ってくれって……もう教わる気ないわ」
「でもあんたが悪いんやろ? すぐにやる気なくして足痺れたから正座止めようとするし、寝そべって先生に注意受けてもそのまま横になってたんやろ?」
「なんで知ってるんや?」
「だって先生、私の友達やもん。そりゃあ旦那の態度くらい紹介した私からしたら聞くに決まってるやん」
「なんで言わへんかったんや?」
「私の友達って言ったらあんた恥ずかしいからって絶対に受講せえへんやろ。ここらへんに正座教室そこしかないし、一度相談したら気軽に来てやって言われたから、あんたに薦めてん。でもあんたの態度聞いてたら、途中で追い出されるのも納得するわ。いつも自分のわがまましか言わんもんなぁ」
「わがままちゃうやん! 休ませてくれって言っただけやん」
「他人の部屋で自分がしんどいからって勝手に横になる奴いる? たかが正座数分しただけやん。正座ってそういうもん違うやろ? 正座して相手が不快に思うような事って正座って言えるの?」
 沙織の言葉に返すことは出来なかった。確かに足が痺れて、イライラして自分の要望ばかり伝えていた自分に対して、わがままだと悟った。今まで自分が接したお客様も、顔では快く受けていたが、心の中では不快を感じていたかも知れない。
「でも、痛いのは痛いし……スーツ伸びて不格好になるし」
 情けない言い訳しか出なかった。
「スーツなんか何度もアイロンして綺麗にしてあげるよ。正座が不格好で、足痛いのもわかる。でも自分はこれだけ頑張ってるねん、足痛いから早くしてやとか自分のわがままを相手に見せたらあかん。心落ち着かす為に正座したら?」
「心落ち着かす……」
 正座の意義とまではいかないが、自分は何故正座をするのか問うてみた。営業の売り上げを上げるためだけに正座をするのか? それ以外に目的があるのか?
「まぁ、強制はせえへんからゆっくり考えたら? 友達には私が代わりに謝っとくから」
 眼鏡を外した沙織の目は梅干しのように小さかったが、その真面目な眼力に立川の酔いはすっかりと覚めてしまった。扇風機の風が自分の足元へ当たる度にぞっと震える。自分はこんな事も出来ないかと思うようなエゴが生まれ、怒られた時に出る嫌な汗が足裏ににじみ出てくるのが分かった。
 寝室へと続く真っ暗闇の階段をゆっくり上りながら、立川は沙織の言葉を繰り返し思い返していた。


 翌日昼休憩を外で済ませていたら、突然携帯が鳴り出した。着信番号を見ると、会社からだった。
「はい、立川です」
「石井です。昼休憩にすまんな、聞きたい事があって。先日君が訪問してくれた新規のお客様から連絡があって話をしたいのだそうだが……」
「またクレームですか? すいません……」
「いやいや、クレームではなく良い話だと思うよ。ただ会社携帯へ電話しても繋がらないそうなんだが、どうしたんだ?」
「えっ!? 鳴ってませんが……」
「なら今すぐ着信を見てみろ!」
 立川は上着のジャケットの右ポケットを探るが、携帯は見つからなかった。
「すいません、今手元にないみたいで後で確認します……」
「後って何時なんや? 出勤時は必ず携帯しておくように言ってるはずやろ?」
 石井の怒鳴る言葉よりも、携帯の居場所が分からず冷や汗が流れてくる。どこにやったんだ? 退勤前は使用していたので退勤後の電車か、自室か、それとも……
「おい! 聞いているのか? 自宅にあるんだったら今すぐ取ってこい! 他のお客様からの問い合わせも掛かっているかもしれない。連絡がとれない営業を使っている会社は信用の薄い会社になるんだぞ。お前の対応でみんな迷惑かかんや!」
「分かりました。でも……」
「でも、何や?」
「落とした可能性もあるので、ちょっと」
「落としたぁ? 何しとんねん! すぐ戻ってきてちゃんと報告せぇ!」
 強烈な電話のガチャ切り音が耳に響いた。石井は根は真面目で部下に対しても評判はある方だが、お客様に対してのクレームや社員のミスになると、怒濤に関西弁で捲し立て攻めてくる癖がある。常に社員は往復ビンタをされたような気持ちになり、石井が考える誠実な営業マンへと調整されるのだ。立川は残りのラーメンを早々に食べ、涼まる暇もなく、颯爽と店を飛び出した。
 石井に酷く怒られた後、立川は喫煙所でタバコを吹かした。タバコの煙が宙に舞う度に自分の心も宙に消え入りそうになるが、至福の時間に肩の荷が楽になる。石井から本日の業務は中断して、早急に携帯を探すように指令が出た。もし見つからなければ次回のボーナスは一部カットすると言われ、自分の情けないミスで沙織にも入れず、何もする気が起きない。だがタバコとお酒のお小遣いを確保する為にも立川は行動する以外、道はなかった。
 一通り思い当たる所には電話はしたが、良い回答はなく、沙織に自宅を探してもらっても見つからなかった。
「もしかしたら……」
 二本目のタバコを吸おうとした時、正座教室へ行った際、ジャケットを着たまま寝転んで休憩したのを思い出した。あの時先生に怒られ、気が逆上し早々と帰ってしまったが、携帯を落としてしまったかもしれない。点けたタバコをそのまま吸い殻へ押し込み、慌てて正座教室の電話番号を調べ、問い合わせをした。
「正座教室受付の青井です」
「すいません、昨日正座教室の講座を受けた立川なんですが……」
「立川様、昨日はありがとうございました」
「あのーもしかしたらなんですけど、昨日携帯をそちらへ置き忘れたかもしれなくて、ご存じないでしょうか?」
「携帯ですか? 少々お待ち下さいね」
 リズミカルな曲調が保留音で流れる。それに反して立川は息を殺して神妙な面持ちで待った。
「立川様、お待たせしました。確認した所、携帯はございました」
「ありがとうございます! 助かりました。今から取りに行きたいんですが大丈夫でしょうか?」
「申し訳ございません。あいにく携帯は神崎が所持しておりましてこちらにはないんです。こちらには保管する場所がないので、もし無くしてしまったらと思いしまして……」
「そうなんですか……」
 喜びに陰りが出たのがすぐに分かった。あの先生にまた会わないといけないのか……正座教室へ再び行くのさえ嫌気がするのに、また先生へ会うなんて、どの面下げて行ったらいいのか、謝った方がいいのかと考えると、気分が落ち込んで吐き気がしてくる。
「それに神崎は今出先でここにはいないんです。本日十九時以降であれば可能ですが……」
「じゃあ……それでお願いします」
「神崎にもそのように伝えておきます」
 切った電話を投げつけたかったが、立川にその勇気はなかった。三本目のタバコに火を点け、沙織へ相談し取って来てもらう事も考えたが、彼女を巻き込むと余計面倒くさくなりそうなので止めた。それに「またわがまま言って」と携帯を無くした事に加え、自分の性格を再度否定されそうだ。
 時計を見ると時刻は十六時だ。小学生が帰路する頃だ。彼らの笑顔で帰る姿を見ると心温まり、家で遊ぶ楽しそうな姿が頭に浮かぶ。その頃俺は敵地へと出陣し、奮闘しているだろう。なんとも不平等で狭い世界を大人は生き抜いているのだろうと立川は思った。


 十八時五十分、立川は正座教室にて正座をしていた。神崎が来る前に特別に部屋を空けてもらうよう交渉し、無音の中一人で正座を始めた。もちろん上手くしようという邪心はなく、ただ純粋に正しい正座をしたいと思い、背筋を伸ばし、両脚の指が離れないよう意識し、正面を向いた。数分経つと少し右へ傾く癖がある為、時間が経つ毎に重心へやや左に寄せ、なるべく真っ直ぐになるように調整をした。例え形が崩れて辛くなっても神崎が来るまで、正座をしようと心に決めていた。表面的な謝りではなんと伝えたらいいか分からず、立川なりの姿勢で謝罪したかった。
 何十分経ったか分からないが、引き戸から光が差し込んで来たかと思うと、着物姿の神崎が入ってきた。
「遅くなって申し訳ございません。お待たせしました」
「こちらこそ、すいません……」
 前屈みに頭を下げようとしたら、そのままの勢いで畳へ転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「えぇ、正座してたら足痺れてしまって……情けないですなぁ」
 神崎は立川の横へ正座し、笑顔で言った。
「いいえ、とても良く出来ていましたよ。身体も右に寄らずしっかりと前を向いていますし」
「本当ですか? そこだけ一生懸命意識しました」
「意識することは本当に疲れますし、何よりも慣れていない分身体が痛いと思います。それを実行することも大変素晴らしいですが、また来てくれた事が本当に嬉しいです」
「先日はすいません。不格好な姿と失礼な言葉を言ってしまって」
「良いんですよ、気にしていません。こちらもきつい言葉を言ってしまい申し訳ございません。それよりも正座の形も良くなりましたが、気持ちも変わってましたよ」
「気持ち?」
「えぇ、心落ち着いて正座してましたよね? 以前は正座をする事にあまり良く思っていない印象を受けましたが、先ほどの正座はそのような印象はありませんでした。相手に対して誠意が伝わる心こもった正座でしたよ」
「そうですか? 確かに……イヤイヤ正座をするというよりも、しっかりとした正座をしたいという想いがあったかもしれません。相変わらず足は痺れて痛かったですけど、いつもより集中していたと思います」
「それが本当に大切なんですよ。気持ちがしっかりとあって良い正座が出来るんです。形の善し悪しは教えてもらえば後から調整出来るんですから」
 神崎は笑顔で褒め称えてくれた。その優しさに今までの苦労が癒やされた。
「携帯渡しておきますね」
「ありがとうございます。本当に色々お世話になりました」
「また正座の事で何かありましたらお声かけて下さいね。奥様経由でも大歓迎です」
「妻もこの度はお世話になりました」
「すいません、直接助言したかったんですけど帰られてしまって……申し訳ございませんでした。奥様から伝わるような感じになってしまって」
「それはこちらのセリフですよ。はっきりと言ってもらえたおかげで正座について考える事が出来ました。先生に教えられた『心こもった正座』完璧じゃないですが、少しずつ頑張っていきます」
「応援しています。こちらこそありがとうございました」
 神崎の笑顔に見送られながら引き戸を開け、部屋を出た。少しばかりの精進で心が嬉しくなり、希望の道が見えてくるような気がした。正座は心でするもの、そう教えてもらった神崎に感謝するとともに、自分の未熟な部分を振り返り、まだまだやるべき事があると考えると、少し楽しくなってきた。
 受付の人にもお礼をし、部屋を出ようとすると意外な人物と出会った。


「あれ?」
 引き戸を開けると石井が驚いた顔でこちらを見つめた。立川は何と言っていいか分からず少し直立不動で立っていたが、携帯の件を思いだし、話し出した。
「石井部長、携帯見つかりました。ご迷惑をお掛けしましてすいませんでした」
「あぁ、そうか、良かったな。それよりも……」
 石井は携帯の事を忘れていたかのように聞き流し、言葉を続けた。
「まさか、君がここの正座教室に通っているとは……」
「まだやり始めた所ですよ。自分ではどうしても正座をきちんとする事が出来なかったので、妻に勧められて受講することになりました」
「立川君、君はえらいなぁ。正直、正座の事で君が出来ないと諦めていて、どう指導していいか悩んでいたんだよ。折角入った営業から違う部署に回されるのも嫌だろ? それを本気で考えるだけじゃなく、実行することは素晴らしいよ。そもそもここの正座教室って厳しいだろ?」
「そうなんですか? まだ始めたばかりでちょっと……先生は優しいですよ」
「優しいけど、駄目な部分をはっきりと言うだろ? それで嫌になって辞める奴も多いみたいなんだ」
「確かに……でも僕の駄目な部分をちゃんと言ってくれたので、落ち込むよりもなにくそやってやるって、思いました」
「それが大切なんだよ。俺もお前以上に年取ってるが、駄目な部分を言われると腹立つもんな。年取ってもなにくそって思う精神が大切なんだよな。俺も最近正座がなかなか続けれなくて、自分でも客観的に身体のバランス取れてないなぁって思う時、先生に教わりにいくんだよ」
「部長もですか?」
「そうだよ、俺もみんなに言うからにはちゃんと出来てないとおかしいからな。立川君のように正座に悩んでいた時期があって、ここへ来て正座を勉強したんだ。今もまだ勉強中だけどな」
「そうなんですか……僕も正座をしたらいいだけだと考えていた事が、ここへ来て自分のためだけじゃなく、相手、お客様の為にどう印象を与えるか考えるようになって、まだまだ自分の考えは甘いと感じました」
「非常に良い事だよ。お客様に笑顔を与えることが何よりもいいからな。身だしなみにしろ、トークにしろ、正座にしろだ」
「同感です。これからも頑張っていきます」
「おう、明日も頼むぞ」
 立川はスッキリとした表情でビルを出た。人生の約三分の一を過ぎた自分はもう何も体得することがない、ある程度の人生経験を積んだ調子に乗った自分だった。それが正座という一つのスタイルで、初心に戻り、学び精進する大切な事を学んだ。
「会社で一番正座が上手い奴になりたいなぁ」
 都会の夜空に、ネオン街に負けないくらい月が輝いてる。誰からも左右されない純粋の美しい月を、いつまでも眺めていた。


あわせて読みたい