[92]座ガール


タイトル:座ガール
分類:電子書籍
発売日:2020/05/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:40
定価:200円+税

著者:ひでまる
イラスト:V.K

内容
幼馴染(沙保里)に誘われて、正座クラブ創設を手伝う事になった勇人。
正座に興味がなく、苦手だった彼が、ある日を境に正座と沙保里に魅かれていく。
剣道部へ所属する勇人が正座へと心揺れ動く青春物語。
そこには正座を愛する沙保里の苦悩があった。

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本文

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「正座クラブを創らない?」
 高校生活も慣れた四月のある昼休み、幼馴染の斎藤沙保里は焼きそばパンを頬張りながら言った。
「せいざ? あぁ星座観測研究ね。そんなのあったけ?」
 俺は鞄から部活案内書を取り出し、閲覧したがそのようなクラブはなかった。
「違うわよ! 座る方の正座よ。星なんか夜空を見上げればいつでも観れるじゃない」
 いつでもは語弊であるが、山に囲まれた田舎の俺たちの高校では、空気が澄んでいて星がきれいに観賞することができた。近所に星座観測所も設置され、てっきり星座とばかり思っていたが。
「正座ぁ? 何だよ突然、変なこと言いだして」
「正座をすることが好きなの。そして何よりもその大切さを人に伝え、広めていきたい。それを成し遂げるのはクラブが一番でしょ?」
「でしょ? って言われても正座興味ねぇし。そもそもなんで俺を誘うんだよ? 誘う友達いるだろ?」
「勇人いつでも暇でしょ?」
「暇じゃねぇし。沙保里がいない中学の間、剣道を習ってたんだよ。中学には剣道部がなかったんだけどよ、この高校にしかない剣道部に入部するのが夢だったんだ」
「ふーん、剣道をね。意外だなぁ」
 物心ついた時から沙保里とは一緒に遊んでいた。それが中学に入って突然、沙保里の父親の仕事の関係で、沙保里は東京へと引っ越した。「バイバイまた今度ね」とすぐにでもまた会えるようなさらっとした別れ言葉で、父親の大きな手に引かれて丸三年……寂しさを紛らわす為に、俺は剣道を始めた。それが何もなかったかのように沙保里は突然帰ってきた。
「同じ高校に行くことになったから宜しくね」と。
「昔みたいに石ころタワーを作ってる時間はねぇんだ。しかも正座のクラブを創ろうってどっからその発想が出たかわかんねぇが、とにかく俺はなしにしてくれ」
 チャイムが鳴った。昼休憩が終わりを告げる。
「わかったわ。とりあえず今日はあきらめるわ。でも明日その考えは変わるわ」
 沙保里は支度を整え、早々と教室を出ていった。
「明日……何があるって言うんだよ」
 窓の外に浮かぶ雲の形が妙に長細く横に繋がっていた。俺はそれをじっと眺めていた。


 次の日の放課後、生徒たちが一斉下校する中、沙保里から剣道場へ来てと呼び出しをされた。意味もわからないままただ呆然と指定された時間を教室の机の上で片肘をついて過ごした。
 剣道場へと続く廊下を歩きながら考えた。なぜ、俺が、剣道場に? 正座クラブの創設を断った俺への嫌がらせなのか? ありもしないような想像をしながら、俺は勢いよく扉を開けた。
 剣道場の右奥(窓側付近)に沙保里はいた。正座をしながらジャージ姿で彼女は俺の方を見ていた。その異様な光景に入るのを少し躊躇ったが、何もしなくては始まらないと思い、平然を装いながらゆっくりと沙保里の方へ向かった。
「おう、待たせたな」
 胸がドキドキしていた。それは剣道の試合が始まる前の高まる鼓動とはまた違っていた。
「こっちこそ呼び出してごめんね。勇人が魅かれた剣道がどんなものか見たかったんだけど、今日クラブやってないんだね」
「あぁ、そうだな」
 沙保里のゆっとりとした言葉とは裏腹に、俺は何をされるか緊張は止まらなかった。
「正座って落ち着くよね」
 同意を求めるというよりは一人呟いて言った。
「わたしさぁ剣道のこと知らなかったんだけど、剣道も礼法の一つとして正座するんだね?」
「あぁ、稽古をする上で何回もするよ。俺は苦手だけどな」
「苦手なんだ?」
「正座をするとすぐに足が痺れてしまってな。それにじっとする事が苦手なんだ」
「じゃあ正座クラブに入って練習だね」
「なんでそうなるんだよ」
 冗談まじりのような言葉も沙保里の顔を見れば本気だとすぐにわかった。
「一度さぁ一緒に正座しようよ。ここ日差し入って暖かいんだから」
 正面の床を叩いて、こっちへおいでと促してきた。改めて沙保里を見ると、肩にかかる長い黒髪は真っ直ぐに整えられ、後ろの方で一束に結われていた。薄化粧で左目尻の下に、小さなホクロがゆっくりと浮かんでおり、見た目は大人しそうな美少女だが、正座に関する熱意は溢れていた。
「少しだけだからな」
 反論しても埒があかない事を知っていた俺は、制服姿でゆっくりと沙保里の前へ正座をした。
「やっぱり制服姿だとやりにくいな」
 そう言った俺に沙保里はゆっくりと微笑んだ。
「正座すると落ち着くでしょ?」
「うーん、どうだかなぁ」
「足の組み方が悪いのよ。それに……足痛くなると頭垂れるでしょ? もっと背筋伸ばして!」
「俺、正座クラブの講座受けにきたんじゃねぇよ!」
 大声で叫んでしまった。道場内がさらに静寂に包まれていく。
「そうね……確かに正座クラブに入ってるわけでもないし、講座を受けに来たわけじゃない。
 でも私は勇人に正座の良さを知ってもらいたくてやってるの。それに稽古でも正座するんでしょ? 正しい正座をすればより集中して、稽古に望み、上達も早くなるわよ」
 言い返せなかった。技の練習を積み重ねるだけで、基本の礼法はいつまでも上達せず、顧問の先生からも何度も改善するように指摘されていた。
「正しい正座を学べば、俺でも出来るのか?」
「私にまかせなさい。正座クラブの創設を手伝ってくれる代わりに、正座を教えていくから。正座クラブが部として認められたら、いつでもやりたかった剣道部へ戻っていいから」
 日が暮れ始め、窓から夕陽が射し込んできた。それは徐々に沙保里に近付き、彼女の姿を照らしていく。神々しく、やさしい光が天使の輪のように彼女を纏っている。俺は正座をする彼女の姿に目を奪われていた。
「しんどかったら足崩していいよ。正座は嫌がらないでする事が大切だから」
「あぁ、そうだな」
 一つ前の彼女の言葉を忘れてしまった。遠い目をしながら思い返していると、
「実はもう正座クラブの創設の認可は受けていて、今はメンバー募集中なんだ。メンバーも何人か声を掛けていて、手探り状態で進んでいるの。まだはっきりした事は決まってないけど、またわかったら言うね」
 沙保里は立ち上がり、俺の側を通り過ぎた。
「今日私が言った背筋をピンと伸ばすこと、一度家でやってみてよ。少しでもいいからさ」
 沙保里はにっこりと微笑み、剣道場を去っていった。
 日が沈み、影が長くなってきた。足が少し痺れ、足首を片方ずつ伸ばしながら、ゆっくりと痺れが緩和するのを待った。彼女が正座する姿を思い返しながら、俺はしばらくその場に座っていた。


 黒を基調としたモノトーンな自室に、真っ白なカッターシャツを放り投げた。沙保里への恋の意識は今までなかった。幼馴染の良き友達と思っていた。だが正座をする彼女の姿を見て、正座と恋の意識がはっきりと変わった。
 普段着に着替え、改めて正座をしてみた。沙保里に言われた、彼女にもっと近付きたいというのもあるが、彼女が指摘した頭を垂れないようにする、ただこれだけで少し正しい正座の形が取れたと自分で実感した。
 猫背にならないように背筋を伸ばすようにした。頭も出来る限り正面へ向け、頭のてっぺんから足の指先までが真っ直ぐになるように意識をした。すると俯いた視野が一気に広がった。晴れやかとは言い難いが、少し心落ち着いた気持ちでいる自分を感じた。もちろん足の痺れは感じるが、集中している。その集中力が剣道の稽古によって、いかに大切か実感することが出来た。
「まだ完成形ではないな」
 足を崩し、ベットに仰向けになった。完成形ではないからこそ、正しい正座を一つ一つ学んでいきたいと思った。苦手だった正座を一つの指摘で、好意の対象へ変化した。この少しの変化、その成長を誰かに話したいと思った。そう、沙保里へ。その想いを考えると、正座クラブ創設への返答は、もう決まっていた。
 暗い天井にかかった簡易照明の橙色の輪を眺めながら、明日の対話を待ち望んでいた。


 どしゃぶりの雨だった。横雨で傘を差しても、半分以上の身体が濡れてしまった。降りつける雨は俺の視界を遮り、行く手を阻む。でも昨日の沙保里に対する恋の気持ちが、俺の心を前へと後押ししてくれた。
「昨日の正座クラブの件、俺やるよ」
 朝のショートルーム前、沙保里へそう言った。手伝うのではなく、本当は正座クラブへ入部し、正式に正座を学びたかった。
「そう言ってくれてありがとう。正座をより広めることができて嬉しいわ。実は現在私を含めて四人の生徒がクラブのメンバーなの。これで勇人を入れたら五人……クラブとして活動できる最低人数が五人だから、やっと部として認められる事が出来るわ。もちろん勇人はもう少しメンバーが増えたら、剣道部へ戻っていいからね」
「もうそんなに人がいるのか?」
「えぇ、興味があってやってみても良いっていう子がいたのよ。まだみんなの初顔合わせはまだだけどね」
「俺はその……ける事は出来ないのか? 昨日正座をして沙保里の言われた事をやったら、上手く出来たんだ」
 肝心の「ずっと居続ける」をちゃんと言えなかった。無理だと面と向かって言われたら、心が折れて泣きそうだったからだ。
「ホントにやってくれたの? エライねー、昔のあんたならそういう面倒くさい事は一切しなかったのにね」
「俺もやる時はやるんだよ。でさぁ正座の事なんだけど背筋を伸ばしてするだけで、全然型が変わったんだ。びっくりしたよ!」
「正座は姿勢が基本だからダラダラしてやったり、頭を垂れてすると気持ちが集中出来なくて駄目なんだ。ちょっとのやり方で、意識が変わるのよ」
「それは俺もやってみて良く分かったよ」
「良かったわ。やらないで自分の理屈ばかり並びたてる人もいるから大変だわ。正座はもっと大切にされるべきだわ」
 なぜ沙保里がそこまで正座を大切にするのか聞きたかったが、始業ベルが邪魔をした。
「忘れてたんだけど、今日初めて正座クラブのメンバーで初顔合わせをするんだ。私だけじゃ心許ないから勇人も来てよ。女の子ばかりで嫌かもしれないけど」
「良いよ、別に俺暇だから。授業終わったら声掛けんな」
「うん、あっ先生が来たよ。お願いねー」
 ほのかなシャンプーの香りを残して、沙保里は自分の席へと戻っていった。


 放課後、沙保里と共に茶道部を訪れた。茶道部は三年ほど前から指導する先生が体調を崩し、長期休暇をとっていた。当時在籍する生徒もその年に卒業する三名しかおらず、先生がいないのと、生徒がいなくなったのを機に部は自然と廃部になった。
 表札は当時のまま残されており、掃除は行き届いていなかったが、箒を掃くだけで、使用するには苦はなかった。校長先生も経費がかからない部活活動は賛同で、茶道部の功績や思い入れはなく、一言返事で正座クラブへと移行した。
 入口の引き戸を開けると、石畳の玄関があり、靴を入れる棚が左横に備え付けられている。向かって右側には障子があり、障子を開けると畳みの匂いが、風と共に漂ってきた。
「集合時間は確か……十六時だったはずだから、あと三十分くらい。それまでに一度掃除をして、座布団をひいて、あっその前に入口に正座クラブの表札を貼らなきゃ」
 慌ただしい沙保里を横目で見ながら、ここで行われる正座クラブの光景を想像した。沙保里と対面して横一列に並んで正座している女生徒達。その中に自分の姿を描く事は出来なかった。
「鍵、教室の鍵どこだっけー」
 沙保里の言葉に右ポケットに手を入れ、鍵を手渡した。
「まだ時間あるだろ? なんか手伝いたいけど、指示ないと動けないぞ」
「そうだね、ごめんバタバタしちゃって。ちゃんと来てくれるとか、指導できるかと考えると落ち着けなくて」
「正座して落ち着いたら? そのための正座なんだろ?」
「そうね……勇人の言う通りだわ」
 沙保里はゆっくりと脚を曲げ、足首を地面につけた。身体が猫背にならないように真っ直ぐにしながら、顔を正面に向ける。両足が開かないように足の親指を引っ付け、スカートはお尻の下に敷き、手を太ももの上にそっと置いた。
「勇人も正座したら? あと十五分くらいだし、一緒に待っていようよ」
「あぁ、いいぜ」
 沙保里と肩を並べて正座をした。顔が俯かないように意識をしながら、ゆっくりと脚を曲げた。
「いいね、上手く出来てるよ。足が痺れてきたら、崩していいからね。徐々にやっていきましょ」
 時計のない部屋で二人で静かに待った。隙間風がほんのり吹いていて、顔に当たる度に心地よく感じる。正座をする時間はとても長く感じたが、沙保里といるととても短いものに思えた。すでに時刻は約束の十五分程過ぎていた。無論俺は十分程で足を崩していた。
「まだ来ねぇなー、場所わかんねぇのかなぁ」
 入口から顔を何度か覗かせたが、それらしき人はいなかった。時が経つほど、見かける人の数も減ってくる。
「日程、今日で合ってるよな?」
 俺はふと思いついた直感を沙保里へ投げかけた。
「うん、二十一日の十六時って書いて渡したよ」
 沙保里が書いたであろう部活活動の案内書には確かに二十一日と書いていた。だが「1」を斜めにして書く癖が沙保里にはあり、人によっては「7」だと勘違いしそうな「1」だった。
「二十七日にみえるけど」
「二十一日の今日よ!」
「俺は七に見えるな」
「見えないよ、一じゃん!」
「もしかしたらみんな間違えてるかも」
「そんなことはない」
 沙保里は少し思案げにした。
「そんなことはないけど、あり得るかもしれない」
 沙保里の顔は不安になっていく。ゆっくりと立ち上がったが、何も思い浮かばなかったのかまた座り、顔を両手で塞いだ。
「どうしよう……」
「とりあえず、今日は終わりにして二十七日また来ようぜ」
「来なかったら?」
「その時また考えよう」
「それじゃ遅いよ!」
 沙保里の大きな声が響いた。強く覇気のある声だったが、消え去った瞬間、無音に寂しく包まれた。それは沙保里の心情を表すようだった。
「でも、どうしようもない事は確かだろ? 年学年も名前を知らない人を見つけるのは、とてもじゃないが難しいよ」
「そうよね……ごめん、大きい声出して。二十七日来るかもしれないから諦めちゃだめよね」
 最後の語句が消え入りそうな声で沙保里は俯きながら言った。
「勇人、今日はありがとう。先に帰ってるね」
「あぁ、また今度な」
 陽は暮れ、外は薄暗くなっていた。陽に晒されない沙保里の帰る姿は一層寂しそうに見えた。


 沙保里と言葉を交わすこと無く、二十七日の当日を迎えた。声をかけるタイミングは幾らかあったが、相手を見つけ出す手段も情報もなく、妙案が思い浮かばなかった為、声をかけられずにいた。沙保里の方も進展が何もないのか、声をかけてくる事はなかった。
「行こうか」
「そうだね」
 お互いの顔をちゃんと見ずに、二人は横に並んで歩き始めた。顔を見ると俯いた、悲しそうな相手の顔を眺めると、自分もより悲しくなりそうな気がして、お互いが干渉せずに、正座クラブまでの道のりを重々しく歩いた。
 鍵はかけずにしていた。もしかしたら自分たちがいない間に入部希望者が来て、何かメモを置いてくれているかもしれないと考えたからだ。日程を間違えひょっこりと顔を見せたがいなかった、もしくは活動案内版の右端に追いやられた手作りの小さな「せいざクラブ」の案内書に、他の生徒が興味本位で駆け付けてくれる場合もあるかもしれない。もちろん全て先生の了承の上でだ。
 ゆっくりと引き戸を開け、胸が高まる想いで中を覗き込んだ。そこには予想されていた人もメモ書きもなく、以前嗅いだ畳みの匂いと座布団だけがあった。
「やっぱりダメよね……」
 沙保里は座布団に腰掛け、ため息をついた。身体を目一杯縮ませ、そこに自分がいないかのように消え入りそうになっている。沙保里の気持ちを考えると、自分も早く空気になって消えたかった。
「まだ集合時間よりは早いぜ?」
「そんな事はもう分かってる」
 集合時間よりは幾分か早かったが、状況は変わらないと分かっていた。重い雰囲気が部屋を包み、早くこの場から立ち去りたかったが、俺にはどうしても沙保里に聞きたいことがあった。
「何故そこまで正座にこだわるんだ?」
 沙保里は俯いた顔をそっと上げたが、返事はしなかった。
「嫌なら言わなくてもいい。ただ沙保里が何故そこまで熱意を持ってやるかが気になって」
 相手に誠意を見せれるよう俺は正座をした。背筋を伸ばし、両手を膝の上に乗せ、沙保里の返事があるまでじっと待った。
「良い正座ね。形も良いしね」
 沙保里も勇人に見習い、正座をした。真正面に向き合う二人は心穏やかに見つめ合っていた。
「初めは正座をするのが、嫌だった。本当に、毎日毎日……」
 沙保里は遠い昔を思い出すかのようにゆっくりと話し始めた。
「小学校の……うーん、四年生くらいからかなぁ。学校の勉強についていけず悪い点数を取ったら、いつも父に罵声を浴びせられた。怒られ、時には仕打ちをされ、反省が終わるまでずっと正座をさせられた」
「ひどい話だな……なぜ俺に言わなかったんだ?」
「言って解決する問題じゃなかったから。現に先生に相談しても何も変わらなかった」
 沙保里は瞼に涙を浮かべた。辛い過去の記憶の鍵を解放することによって、抱えきれない悲しい感情を支える事は出来なかった。
「それも普通の正座じゃなくて、ちゃんとした正座をしないと許してもらえないの。少しでも肩が斜めになったり、顔が俯いたりするとやり直しになるの」
「……」
「正座をする時間が悪魔の時間だった。でも……」
 沙保里は少し息を吸い込み落ち着かせようとした。涙は頬を流れるが、一向に拭こうとせず、正座をしている」
「中学生になって父が死んだ。不慮の交通事故に遭ってね。一瞬だった。命って本当に一瞬で終わるんだって思った。悲しい、嬉しいって思うよりも、心がぽっかり空いた感じだった。父親がいない自分。正座だけを教えられた自分。そんな自分がこれからどうなるの? ってすごく不安になって」
「ごめん、俺が余計な事を聞くから、思い出したくない事を思い出させてしまって」
「いいの」
 沙保里はやっと頬の涙を拭い、晴々とした表情で言った。
「父がいなくなって、正座をする時間が増えたの。集中したい時、落ち着きたい時、泣きそうな時、どんな時でも正座をすれば落ち着くの。どんどん正座をする時間が増えて、そして好きになって来たの。今でも父の事は嫌いだし、正座をさせられた事も思い出したくない。でも父が遺してくれた正座は、今の自分の糧でもあるし、誇りだと思うんだ。そんな素晴らしい正座をみんなに伝えたいと思ったのは最近の事なの」
「元々正座が好きだと思っていた。そんな大変な事があったとは知れず、ごめんな」
「いいのよ、正座をするって聞くと礼儀とか、しんどいとかマイナスなイメージを持つ方が多いから。だから『せいざクラブ』を敢えてひらがなで表記して、まずは来てもらって体験してもらおうと考えたの。でも『星座』と間違えて幻滅させてしまったのかな」
「……確かに表記は間違えやすいかもな。でも沙保里のしている事はりっぱだし、俺も正座を正しく習って、良かったと思う。だからしょんぼりする事はねぇよ」
 脚を崩し、沙保里の方へ手を差し伸べた。陽に照らされた影が映り、影も同じく手を差し伸ばしている。その時障子の方から声が聞こえた。


「あの~すいません~」
 間の抜けたか細い声と同時に障子が開けられていく。
「あっ!」
 沙保里の驚いた声に先頭にいた目の細いおさげの女の子はびっくりし、後ずさりしようとしたが、後ろ二人の女の子に促され、三人とも部屋の中に入って来た。
「来てくれたの?」
 元気な声とは裏腹に、沙保里の表情は少し不安げだった。
「まぁ、そうですね……」
 おぼつかない返答に沙保里も何と応えたらいいか困っているようだった。後ろ二人も先頭の女の子に任をまかせているようで口を紡いでいる。
「正座やる?」
 沙保里は意を決して言った。たとえ断れても動じない決意がそこには表れていた。
「……最初は、断ろうと……考えて、たんですけど……」
 おさげの女の子は俯いた顔で続けた。
「私たち誘ってくれて嬉しかったんですけど、正座やっぱり嫌だなーって、断ろうって思っても、その場で断れなくて……、直接言って断ろうと思って、今日来たんですけど……すいません障子越しに先輩の声が聞こえて、話を聞いたら、正座いいかもって思って」
「それで?」
 沙保里はこぼれる笑顔を抑えて、相手の言葉を促した。
「正座クラブに入りたいです!」
 三人全員が声を並べて応えた。沙保里は先程流した涙を忘れたように、別の涙を流している。透明に輝く嬉し涙が一粒、二粒と、畳に落ちてゆっくりと消えた。
「沙保里良かったじゃん! でもやっぱり今日じゃんか! みんな二十七日で思ってるよ」
「えっ……そうじゃないんですか?」
 長身のすらっとした髪の女の子が不安げな顔をした。
「勇人、それ言わないで! ごめんね、本当は二十一日だったんだけど、私の字がへたくそで「七」に見えたみたいでごめん」
 沙保里の返す声が明るく、勇人にも笑みがこぼれる。沙保里の前へ進む姿に元気が出てくる。
「本当にいいの? 嫌なら入部しなくてもいいんだよ?」
 沙保里は夢でないように、念入りに確認をした。
「えぇ、最初は星を観測するクラブと勘違いしてたけど、今日ここへ来て正座をすることって素晴らしいんだなって先輩の話しを聞いて、みんなで入部を決めました」
 一番後ろに立っていた少し茶髪がかかった化粧気のある女の子は笑顔で言った。
「やっぱり『せいざ』ってひらがなで書くからだよ」
「ごめんなさい。でも、嬉しい」
 おじぎを何度もする沙保里に三人それぞれが握手をした。
「これで、みんな『座ガール』ね」
「バザール?」
 勇人は聞き間違えたように問い返したが、部員もそれぞれ分からないような顔をしていた。
「違うわよ、『座ガール!』 正座をする女子の事よ。最近の子に合わせて私が付けたのよ」
 自慢げに語る沙保里に部員は苦笑していたが、勇人は少し寂しい思いをした。俺は男子……座ガールには入れない。
「もちろん勇人も『座ガール』よ。女子じゃないけど、正座を学ぶ想いは一緒よ。さぁみんな立ち話もなんだし、正座しよう!」
 沙保里の合図で皆、沙保里と対面して正座した。
「肩に力を入れないで、負荷がかからない程度に真正面を見て~そうそう、足の両親指をつけるときれいな姿勢になれるよーしんどくなったら休んでいいからね」
 レッスンというより沙保里の自然な雑談の中、正座をしている部員は楽しそうだった。俺もまたみんなと一緒に正座をする事が心地よく、楽しい。そして沙保里といる時間が幸せだ。
「沙保里、俺も部員でいいんだよな?」
「うん、いいよ。勇人が良ければ、ずっといていいよ」
「ありがとう、剣道部入らずにずっといるよ。ずっといたいんだ」
「勇人がいてくれて、私も嬉しい!」
 二人の頬が赤くなっていく。蒸気機関車が始動するように、部屋の温度も上昇していく。
 周りから自然と拍手が喝采し、部屋を幸せの音で包み込む。陽が傾き、部屋が薄暗くなっても、笑顔と笑い声は夜に負けないくらい輝いていた。


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