[93]正座の開幕


タイトル:正座の開幕
発売日:2020/06/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:11

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:52
定価:200円+税

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
ウタは文化祭で見た水泳部のシンクロに感動し、某出井高校水泳部に入部した。
初心者のウタは運動神経のいい永と仲良くなる。永の希望で二人は公民館の華道教室に参加する。
お花を楽しく学べたが、永は正座で足をしびれさせてしまう。
お花の先生のお師匠様が某瑛高校という日本文化も学ぶ学校で教えているという話から、ウタと永は某瑛高校の学校公開に行くことにする。
そこで会ったお作法の先生の案で二人は正座の指導を受け……。

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本文

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 後居ウタはこの春、某出井高校に入学した。
 某出井高校は自由度が高く、部活が盛んなことで有名な高校である。
 最寄り駅からはほとんどビルのないのどかな風景が広がり、そこから学校までの道のりを某出井高校の生徒が通う。
 某出井高校は一応校則があるものの、制服や髪型に関しての規制が緩く、入学後二週間もすると生徒はそれぞれの個性を出し始める。某出井高校の制服はもともと黒をベースにしたブレザーにスカートとズボン、リボンとネクタイのシンプルなデザインだが、それに各々制服以外のリボンをつけたり、中に色のついたシャツを着たりしているので、特に生徒から制服のモデルチェンジの要望は出ていないらしい。
 その中で、ウタは入学前の採寸で作ったままのスカート丈に一応指定となっているワイシャツ、黒のハイソックスにローファーで通学している。思い思いに制服を着崩し始めた某出井高校の中では、ある意味ウタは個性際立った存在になりつつある。
 某出井高校は運動部の数がとても多い高校で、入学前からどの運動部に入るか決めている子も多く、ごく一部の子ではあるが一般入試の前に高倍率の難関を突破し運動部の推薦で入学を決めるケースもあるし、一般の推薦入試での面接でも入学後の希望に部活を挙げるケースが某出井高校では一般的だ。
 そういう子は入学とともに入部も決定していることが多く、通学には学校名と部活名の入った大きなエナメルのショルダーバッグにスニーカーが定番だ。その中でウタは、紺のスクールバッグのほかに、この春からはビニールバッグを提げている。中に入っているのはタオルとゴーグル、水着だ。
 ややこの学校の校風に合っていないと自覚しつつも、某出井高校をウタが選んだのは、この高校の文化祭で見た水泳部のシンクロだった。
 プールサイドに詰めかけた観客の熱気と水泳部員の眩しすぎる笑顔と演技、その中に自分も入れるのかな、入りたいな、と思った。悲しくないのに涙が溢れて拍手をして、もう絶対にこの高校に行こうと心に決めた。
 ウタはもともとは、この某出井高校と同じ沿線にあるお作法、お茶、お花の授業のある大人しやかな印象の某瑛高校を希望していたが、同じ塾の友達のコトが某出井高校を希望していて一緒に二校の文化祭に行くことになった。だからウタが某出井高校の文化祭に来たのは、コトの付き合いだった。偶然といってしまえば偶然の、そんな巡り合わせだった。そしてその偶然の巡り合わせはコトにも起こって、コトは某瑛高校を選んだ。
 この文化祭で志望校を変更したのが中学三年の秋だったので、ウタはあまり周囲を冷静に見る期間なく希望のままに突き進み、某出井高校に入学した。
 入学後の自己紹介で、『水泳部に入ってシンクロをやりたいです』と言うと、一瞬クラスのみんなは驚いた顔で黙り込み、それから誰かが「頑張れ」とか、「応援するよ」とか、そんなことを言い出して、よくわからないけれどフォロー的な雰囲気で盛り上げてもらった。
 水泳部にもすぐに行き、水泳経験は中学までの授業のみの初心者で運動経験も体育の授業以外はないですと言ったウタを水泳部の先輩はちょっと驚いた顔で見て、それから「そっか」と頷き、「一緒に頑張ろうね」と笑った。その時はそういうものだとウタは思ったが、その後やって来た新入部員の顔ぶれは、どこそこの大会で何位に入ったとか、何度優勝したことがあるとか、そんな人たちばかりだった。見た感じもしっかり運動経験を積みました、といった様が見て取れる、健康的で締まった体型だった。
 これは誤ったかもしれない……、そう冷や汗をたらしたウタに声をかけてくれたのが、同じクラスで水泳部に入部した間中永だった。
 永は「同じ、同じ、初心者仲間同士頑張ろう」と気さくに声をかけてくれ、若干硬い表情のウタを慮ってか、買ったばかりの冷たいジュースを突然ウタの顔につけて「驚いた」と笑ったり、ウタが振り返ると変顔をしたりして、ひたすら明るく接してくれる。というか、そもそも水泳初心者でも、永は根っからのスポーツ少女で、昔から何かしらスポーツをやっていて、中学校では女子バレー部だったという。水泳の初心者なのは同じでも、スタートも基礎も、そもそも素材が明らかに違う、とウタは思った。永もそれはわかっているだろうが、わかっているからこその思いやりと、恐らくは根っからの明るさで、とにかくウタを常に笑わせ続けてくれる。


 某出井高校は屋外プールのみの設備で、学校のプールの使用は五月から十月中旬までだ。それ以外の期間はよその屋内プールに行って練習をしたり、トレーニングをしたりしている。
 この日も放課後昇降口に集合し、部のみんなで屋内のプールに行った。
 水泳は初心者だという永だったが、もともとの運動神経と体力で力強い泳ぎを見せる。
 まだ水泳初心者ということで、フォームが整っていないためか豪快に飛沫が上がるが、その水泳を専門にしていないけれど体力と運動神経がある、というのが逆に際立つ、見ていても爽快な泳ぎだった。
 タイムもそこそこによくて、フォームを先輩に直してもらったりして、更なる向上を目指している。一方のウタは言うまでもなく永のようにはいかず、どうにかこうにか泳ぐのが精いっぱいだ。
「頑張れ」と、ウタに先輩も一年生も声を惜しみなくかけてくれる。
 初めは肩身の狭い思いでいっぱいだったウタも、次第にほかの部員とともに、うんとタイムの速い先輩に対しても「ファイト」とか、そんな声かけをするようになった。頑張っているのは皆同じで、この声かけも部活動のひとつだと気づかされた。
 一日、一日自身が変化していくのをウタは実感した。
 そして何よりも、水泳部は明るかった。
 新入生歓迎会の時も先輩たちは『エアシンクロ』と銘打って、シンクロの演技を体育館で再現し、『エア』だからできないところを含めての発表は、新入生からの受けも最高によかった。
 あれを見て、どうしてみんな水泳部に入らないんだろう、とウタは本気で思った。
 それくらい、水泳部はウタを夢中にさせた。
 某出井高校の文化祭では様々な部の発表が注目されている。その中でウタは水泳部を選び、日々練習に励んでいるわけだが、もし文化祭での発表を見る側としての楽しみだけを考えれば、何も水泳部に入る必要はなかった。在校生のお客さんとして文化祭当日プールサイドに駆けつければよかったわけである。これまでのウタならそう考えたはずだ。けれど、今回だけはいつもと違った。初めて、自分に合っているとか、できるかとか、そういう可能性よりも希望が先立った。
 クロールのターンがまだあまりうまくできず、部活の解散後もやや鼻を赤くしていたウタに、これからランニング十キロを余裕でこなせそうな永が「帰ろう」と声をかけた。
 ウタが頷くと、「ねえ、後居さんはこういうの得意?」と、出入り口前の掲示板に貼られたポスターを指した。
 華道の教室の生徒募集だった。
 門下生になって毎週必ず通う、という教室ではなく、『毎週公民館で華道教室を開くので、希望者はそこで習えます』、といった内容で、行く時にその回の費用を支払えばいいようだった。
「得意っていうか、母親がお花とお茶、着付けの教室に通っていたから、小さい頃は何度か一緒に連れて行ってもらったりしたこともあるし、本格的に習ったことはないけど、こういう感じでやるっていうくらいは……」
「そうか」
 頷いたまま、永はまだポスターを見ている。
「ここ、行ってみたいの?」とウタが訊いた。
「……こういう日本文化を学んでみたいとは思っていたんだけど、機会がなくて。この週一回の曜日ってちょうど部活休みの日だし、行けそうだけど、いきなり一人で行くのが心配」
 ウタは永を見上げた。
「一緒に、行ってみる?」
「いいの?」と永がぱっとウタを見る。
「私でよければ」
 控えめに言ったウタに、「これ以上の適任いないって」と永はがしっとウタの両肩をつかんで力説し、その後で我に返り、「でも、部活休みの日で、ほかにやりたいこととかない?」と訊く。
「大丈夫だよ」とウタは頷く。
 これであと一日はバレー部となれば厳しいが、お花ならウタにはそれほど負担にならない。
「ありがとう」と永は歯を見せて嬉しそうに笑った。


 先週までは部活のない平日だったが、今日は永と公民館へ行くことになっている。
 一応事前に華道教室のポスターに書いてあった連絡先に電話をし、内容を確認した。
 電話に出てくださったのは四十代くらいと思われる優しく、はっきりとした口調の女性で、初心者の高校生がいきなり行っても大丈夫か、という質問にも「歓迎いたします」と言ってくれ、電話の終わりには「お待ちしています」と添えてくれた。
 連絡をしたのはウタで、隣で永はその様子を見ていた。
 会話を終えたウタが「高校生の初心者でも大丈夫だって。優しい感じの先生だったよ」と伝えると、永は「よかった」と、これまでウタが見た中で一番安心した顔をしていた。そして「ありがとう、ありがとう」とウタに飛びついた。
 正直なところ、こういった教室はそれほど多くはないまでも、探してみればほかにもありそうなので、今回の教室が万が一に無理だったとしても、それはそれで仕方がないとウタは思っていた。けれど永は本当にこの教室に望みをかけていたようだ。ウタに飛びついたまま跳ねている永と一緒に跳ねつつ、ウタは「うん、よかった」と頷いた。
 そして今日がその初日だ。
 公民館は駅から少し歩いた、静かな通りにある。
 植え込みがきれいに手入れされ、入り口横には併設された駐車場と駐輪場の案内が出ていた。
 体育館と図書館も併設されているようで、明るい入り口を入ると、奥の体育館へ向かう人や図書館へ向かう人が見られた。
 奥のボードに書いてあるその日の予定を見て、二階の和室に向かう。
 和室の前には先生の名前と『華道教室』と書かれた紙が貼ってある。
「ここだね」
 そう言って永を振り返ると、永はかなり緊張の面持ちをしていた。
 水泳部の先輩と五十メートル自由形を泳ぐ時、飛び込み台に立ち、先を見つめる永は堂々としたもので、その豪快な泳ぎからは、ちょっと想像のつかない様子だった。ウタからしてみれば、水に飛び込んでそこからひたすら泳ぐより、畳に座ってお花を生ける方がよほど気楽なのだが、永の場合は逆らしい。
「初心者でも大丈夫って聞いていたし、平気だって」
 ウタが永に声をかけるが、永の表情は硬い。
「そうだよね」と頷くが、無理をして笑っているのがわかる。
 どうしたものか、と思いながらウタは開いている引き戸から「こんにちは」と中へ入った。
「こんにちは」
 にこやかに二人を迎えてくれたのは、畳に正座し、テーブルの前に控えた和服の女性だった。
「あの、今日初心者で二人お花を習いたいのですが」とウタが言うと、「ではこちらで受付をお願いします」と促された。
 テーブルの紙に氏名を記入し、お金を払う。
 奥を見ると、まだ小学校中学年くらいの子どもたちが正座し、お花を活けていた。
「お道具はこちらのものを使いますか」と訊かれ、「すみません、お願いします」とこれもウタが答える。
「はさみはお二人とも右利きのもので大丈夫ですか」と利き手を確認され、ウタが永を振り返り、永が頷いたので、「はい」と応じた。
 受付の女性が「先生、こちらの学生さんお二人初参加です」と声をかける。
「いらっしゃい」
 座敷の奥で年配の女性の指導をしていた和服の女性が振り返る。
 あ、この人が電話に出てくれた『先生』だ、とウタはその声とゆったりした物腰から推測した。
「よろしくお願いします」と永が大声で礼をした。
 多分、女子バレー部の頃の先輩や顧問の先生が来た時のあいさつなのだろう。
「こちらこそよろしくお願いします。立派なあいさつをありがとうございます」と先生はお辞儀をして、それをにこやかに返した。
 それからビニールシートの上に並んでいるお花と、お花を活ける器、剣山から、それぞれ好きなものを選んでみましょうと言った。
 お花は初心者でも活けやすい、ウタでも慣れ親しんでいるチューリップやガーベラ、ヒマワリなど、それに柔らかな緑の葉が何種類か用意されていた。
 座布団の敷かれた空いている席に並んで座り、永とウタは先生の指導のもと、お花を活け始めた。
 先生の指導ははさみの使い方や剣山の使い方までで、それ以降はどんどん自由な発想で、と言い、ほかの生徒さんの作品を回って見始めた。
 器は永がガラスの楕円形のものを選び、ウタは深緑色の陶器を選んだ。
 横で見ていると、永はかわいらしく、繊細な雰囲気のある作品を目指しているのがわかり、コトの方が骨太な作品という感じがした。
「すごく素敵だね」とコトがほめ、先生もやって来て「本当に素敵な作品ですね」とほほ笑んだ。
 お花は持ち帰れるそうで、剣山から外し、用意してもらっていた新聞紙に包み、ビニール袋に入れた。
 借りた道具を返そうとウタが言うと、「ちょっと待って」と永が小さく言った。
 さっきまであんなに楽しそうにしていたのにどうした? と、ウタが不思議に思うと、永が「足、しびれた」と漏らした。
「え?」
 この華道教室は和室で行われていたので、座敷に座ってお花を活ける。
 特に指導はされていないが、暗黙の了解でどの人も正座をしていた。
 ウタは気にかけなかったが、昔から母親と一緒に着付けやお茶、お花の教室に行く時には誰に言われるでもなく正座をしていたし、子どもの頃からの習慣からか、正座で足がしびれる、ということはなかった。
 だが、運動するのは慣れていても、正座をするのには永は慣れていなかったようだ。
 しかも、初回の生け花とあって、かなり緊張もしていた。
 つい楽しくて生け花に夢中になり、永のそうしたことまでウタは気づかなかった。
「私、二人分片付けてくるよ」
「でも、自分で借りたものだから」
「じゃあ、ここのテーブル、拭いといてくれる?」
 ウタはそう言って、器などが置いてあるテーブルにあったふきんを取ってテーブルに置き、永が座っていられる理由を作ってから、道具を受付の女性の指示に従い、片付けた。
「この後、みなさんで少しお話してから解散ですけど、どうしますか」と受付の係りの女性に訊かれ、ウタは永をちらりと見る。
 先生とお話できるせっかくの機会だが、今はそれどころではなさそうだ。
 先に来ていた小学生が受付の女性に「ありがとうございました」と言って帰って行き、受付の女性がそれに応じた。
「あ、今日は用事があるので、次の時に参加してもいいですか」とウタが訊き、「もちろんです」と受付の係りだった女性は頷いてくれた。
 ウタは足をさする永に「立てる?」と小声で訊き、永は「うん」と頷いた。
「とりあえず、出て、外で休憩しよう」と言い、永の手を引き、先生にもあいさつをして教室を出た。


 翌週から学校での屋外プール練習が始まった。
 新入生歓迎会の時に『エアシンクロ』を披露した明るい先輩たちは、朝廊下で会った時から陽気に歌っていて、ウタを見ると「後居ちゃん、今日から学校のプールだからね~」とミュージカル調で告げ、踊りながら去って行った。その浮かれようからも、先輩たちがいかに学校でのプールを楽しみにしていたのかがうかがえる。
 来週からは朝練もあるらしい。
 五月のプールはまだ水が冷たいと先輩たちに聞いていたが、運よくこの日は夏のような陽気で、先週までの室内プールのようにはいかないけれど、それはそれで楽しめた。そして何より、文化祭でシンクロを見たあのプールでの練習が始まったことがウタは嬉しかった。
 永の泳ぎはますます上達し、先輩と早くも記録会での出場種目を話し合っている。
 そんな永たちを見ていると、「ウタちゃんも出るんだからね」、と言われ、「え」とウタは驚いた。
「だってウタちゃん、水泳部でしょう」と当たり前のように言われ、なんだかそのことにじん、とウタは嬉しくなる。
 翌日のお花の教室では、やはり三人ほどの初参加の人がやって来て、先生はその人たちを中心に指導をして回っていた。
 二度目となるとだいぶ勝手もわかってきて、以前から華道をしている人の作品を見る余裕も出てきた。
 そうは言っても今回も永は足をしびれさせた。
 今回は足のしびれがおさまる頃にほかの生徒さんたちも片付けを始め、先生とのお話にも参加できた。
 その席で、ウタと永がどうしてこの教室に来るようになったのかを訊かれ、ウタは母親が習っていて馴染みがあったことと、永に声をかけてもらったことを話した。
 永は「私スポーツは結構いろいろやってきたんですけど、お茶とかお花とか、そういう日本文化を学ぶ機会がないままだったんです。どこかで習えないかとも思ったんですけど、なかなか合いそうなところがないし、難しそうで。そんな時にこの教室のポスターを見ました。それでも一人だったら、諦めていたと思います。後居さんが一緒に来てくれるって言ってくれたから、思い切って来られました。まだ、始めたばかりですけど、これからも続けていきたいです」と言った。
「高校生がお花の教室を探すとなると、予備校のように広告もたくさんないし、なかなか難しいかもしれませんね」と先生は頷いた後、「私の師事している先生は、高校に教えに行っているんですよ。私もこうして小学生の生徒さんから大人の生徒さんまで来ていただいているので、今度学校公開の時に見学させていただこうと思っているの。ここから近い学校で、某瑛高校ってご存知?」と周りを見る。
「知っています」とウタは頷いた。
「私、中学三年の秋まで某瑛高校を考えていたんです。文化祭も行きました」
「そうなの?」と永がウタを見る。
「うん」と頷くウタに、「後居さんは、確かに某瑛高校って感じがする」とウタたちの親世代の生徒さんが言った。
「いい学校ですよね。お作法とお茶とお花の授業があって、共学で、男の子もそういう授業が受けられて」
 親世代の生徒さんたちの言葉に「へえ」と永が興味を示す。
「先生、それ、私も行くことってできますか」と永が訊く。
「学校公開で、土曜日の午前中だけど、間中さんたちの学校の授業がなければ大丈夫なんじゃないかしら。受付で名前を書くと思うけど」
 学校公開は一般的に中学生とその保護者、塾の講師が受験を視野に入れて訪れることが多い。
 他校の生徒はあまり来ないと思うが、永は行ってみたいらしい。
「ねえ、部活午後からだから、ちょっと見に行かない?」
「いいけど……」
 やや言葉に詰まるウタに先生が「もしよろしければ、私と一緒に行きますか? 先生へご挨拶をしたりするけど、時間が大丈夫なら」と誘ってくれた。
「いいんですか?」
 そう訊く二人に先生は笑顔で頷いた。


 先生とは某瑛高校最寄り駅で待ち合わせをした。
 永は筋金入りの運動部という感じで、時間に正確、いつでも溌剌としたあいさつをする。
 そんな永といると、自然とウタも背筋が伸び、声を張るようになった。
 永はふざけることや面白いことが大好きだが、授業は真面目に聞くし、提出物も丁寧に取り組んで日程を守る。
 某出井高校は制服の着方や生徒の言動は自由度が高めだが、授業の取り組み方や生活態度は至って真面目だとウタは最近になって思うようになった。ウタは一見真面目な生徒で、まあ、それは嘘ではないが授業は時々聞き逃しもあるし、提出物も朝慌ててやって間に合わせることも実はある。けれど、大声で笑って騒いでいる周囲のクラスメイトはそうやって休み時間に発散して授業が始まれば集中するし、決められたことをきっちりと守る。これも体育会系が多いが故なのかもしれない。
 今日も永は朝から元気で明るくて、爽快な笑顔で後から駅に着いたウタに手を振ってくれた。
 和服姿でやって来た先生にもあいさつし、某瑛高校に向かう。
 某瑛高校は駅からすぐの場所から某瑛高校の先生が立ち、笑顔で迎えてくれた。
 丁寧なあいさつに迎えられ、入り口では校内見取り図と各クラスの時間割表をもらい、お手洗いの場所まで教えてもらった。
 その親切さに慣れない永は若干居心地悪そうにしている。
 この高校に入るつもりで中学三年の秋まで勉強をしていたウタだったが、ややこのお迎えが晴れがましく感じた。そのことに自身でも驚く。某出井高校でも学校公開があったが、昇降口を入ってすぐのところに受付があるだけで、ほかに案内はない。校内の生徒は来校者に大声であいさつするが、それは来賓向けではなく、習慣によるものだ。それが入学したウタには大ざっぱというよりは、大らかという好ましい印象で、その校風の中にいる自身をどこか誇らしく感じている。
 だからこそ、ウタの選ばなかった某瑛高校を「いい学校ね」と言う後ろから来た中学生の親子連れの言葉に心の中で素直に頷いた。
 廊下を進み、早速先生とともにお花の授業をしている教室へ向かう。
 教室では各自が机の上でお道具を揃え、お花を活けていた。
 この風景はウタや永が公民館で先生に習っているのとほぼ同じだった。
 生徒の半数は男子だったが、見ていると結構丁寧にお花を活けている。
 時間割表を確認すると、この授業は二年生で、ウタはつい水泳部のふざけてばかりの先輩たちがここでお花を活ける姿を想像し、笑いたくなるのを堪えた。
 しかし、思ったほどに授業は堅苦しいものではなかった。
 時々ふざけて隣と話したりしている生徒もいるが、それを特に注意されることもなく、先生からは指摘というよりは、作品のよさについての評価が主だっているようだった。全体的にリラックスした雰囲気が漂っている。
 先生のお師匠様は、先生に気づくとにっこりと微笑み、先生は会釈した。
 授業が終わると、廊下のテーブルで先生と先生のお師匠様、そして永とウタは少しの間談笑した。
「先生、こちら公民館で教えている私の生徒さんなんです」と先生は先生のお師匠様に二人を紹介してくれ、永とウタはあいさつした。
「お花は楽しいですか」と訊かれ、永とウタは頷く。
「時間も場所も、先生も本当にとてもいいです」と永は答えた後、「私は日本文化を学ぶのが今回が多分初めてで、公民館の和室では正座が少し……」と続けた。
「あら、それならこちらにはお作法の先生の授業もあるから見ていかれたらどうかしら。ほら、今こちらに来る先生がお作法の先生よ」
 先生のお師匠様はそういうと、にこやかにこちらへやって来る同じく和装の先生に手を振った。
「こんにちは」ととてもきれいにその先生は礼をした。
 多分、これもお作法の一環で角度などもあるのだろうとウタは思った。
「こちらね、私のお弟子さんの生徒さんなの。今日わざわざ部活の前に来てくださったんですって」と三人を先生のお師匠様は永とウタの名前も確認して紹介し、「それでね、こちらの生徒さんが正座を少し学びたいみたいなの。次の時間お作法の授業入ってましたよね」と、永の事情を話し、次の授業を確認する。
「ええ、今日は学校公開ですから、この学校の特徴であるお茶、お花、お作法は入っているはずですよ」
「よかった。それじゃあ、次の時間、こちらの生徒さん見学に行かれるからよろしくね」
「ええ、もう来られるようなら、少し正座のご指導いたしましょうか」
 お作法の先生はそう言って永とウタを見た。
「あの、でもいいんですか?」と永は訊いた。
 ウタと永は高校の制服で来ていて、これから高校受験をする中学生でないことはお作法の先生もわかっているはずだ。
 つまり、この高校に入学の予定のない他校の生徒に指導をしてくれるのか、ということを永は尋ねた。
「ええ、まあ短いお時間ですけど。せっかく来てくださったんだし、見るのも勉強になりますけど、やってみるのも勉強になるでしょう?」
「なら、行ってごらんなさいよ」と先生のお師匠様は勧めてくださる。
 先生も「ちょっとこっちで休み時間に生徒さんのお花を見せていただいてから、私も伺うわ」と、後から来てくださると言う。
「よろしくお願いします」と永が大声で頭を下げ、ウタもそれに続いた。


 思った以上に広い和室だった。入り口はほかの教室と異なり、三和土があって、そこで靴を揃えるところから学ぶのかもしれない。
 和室の奥、最前列となる場所で、先生は「始めましょうか」と言った。
 まずは正座をする。
「ええと、間中さん、でしたよね。あなた、とても姿勢がいいですね。体幹がしっかりしているのがわかるわ」と先生は永の姿勢をまず褒めた。
「正座する時に背を丸めがちな方が多いのですけれど、これだけしっかりできるのは素晴らしいです。それから、後居さん、でしたよね。正座には慣れてらっしゃるのかしら。とてもきれいにできています」
 先生はまずそんなふうに二人を褒めてくださる。
「では、正座の基本のお話をしておきましょうね。背筋を伸ばす、はもうできていますね。それから、肘を垂直におろすようにして、手は太ももの付け根と膝の間にハの字で重ねずに。膝同士はつけるか、握りこぶしひとつくらいで。足の親指同士が離れないように。それから、スカートはお尻の下に敷いて。……どうですか?」
 先生はゆっくりと正座について説明し、二人を見る。
 足の指やスカートを直した二人に先生は「最初に足がしびれたのは、緊張のせいもあったかもしれませんね。大丈夫。きちんとできていますよ」と笑った。
「ありがとうございます」とお礼を言ったところで予鈴が鳴る。
「じゃあ、後ろの方で見ていらしてね。積み重ねって大切で、ここへ来る生徒の皆さんも最初は足がしびれたって言ってたけど、二回目、三回目になるとだんだん慣れてくるんですよ」
 二人は頷いて、教室の後方へ移動した。そこへ「おはようございます」というあいさつとともに、生徒が入って来る。
 他校の生徒という立場から一瞬たじろいだが、生徒たちは二人を見ると少し不思議そうな顔をした後に「今日は来てくださってありがとうございます」とお礼を言い、永が「勉強しに来ました。よろしくお願いします」と、体育会系の口調で堂々とあいさつをした。全く感じの違う双方だったが、不思議と温かな空気と友好的な雰囲気が漂った。
 その後ろからお花の先生と、お花の先生のお師匠様までもがやって来た。
 お作法の先生はウタと永がお作法を見学に来た経緯と、お花の先生とお師匠様の関係を説明し、授業に入った。
 この日見学したお作法の授業は一年生で、まだ今日が二度目だということだった。
 それでも一度あの優しく、けれどしっかり指導してくださる先生の授業を受けたクラスのお作法の授業は後方から見ていても、とても見事だった。
 ウタは、中学生の時に一緒に某瑛高校と某出井高校の文化祭に行った友達のコトの姿を探したが、このクラスではないようだった。


 先生と駅で別れ、永とウタは電車に乗る前にパン屋さんに寄った。
 某出井高校のそばにもパン屋さんやお弁当屋さんはあるが、たまに降りた駅で見かけたパン屋さんも気になるところだ。
 レジに並んで気がつくと、選んだ覚えのないウサギの菓子パンがトレイに入っていて、はっと永を見ると「ウタ、たくさん食べないと泳げないよ」と笑う。
 ウタはカツサンドを後ろのケースからトングで取ると永のトレイに置き、「永もたくさん食べないと正座で足がしびれるよ」と笑う。
「ほら、足はしびれてないかな」と永の足を膝でつつき、永が「ほら、クロールのターンが上達しないよ」とウタの鼻を指先で触る。
 ふざけ合っている間にレジの順番が回ってきて、はしゃぎすぎたことを二人は反省した。
 某出井高校に着き、教室でパンを食べていると廊下を通りかかった水泳部の先輩が顔を出した。
「え、何そのパン、どこで買ったの?」と永がウタのトレイに入れたウサギのパンを目ざとく見つける。
 パン屋の場所を教えると、「家そっち?」と訊く。
「今日はお花の先生と一緒に某瑛高校のお花とお作法の授業を見学してから来たんです」とウタが答え、「私たち、大和撫子ですから」と永が続ける。
 先輩は「泳げる大和撫子、かっこいいじゃん」と笑う。
「先輩、このカツサンド、一個食べます?」
「いいの?」と先輩が永からサンドウィッチを受け取り、すぐに食べる。
「そうそう、今日記録会の出場種目決めるから、ちゃんと考えておいて」
「え?」
「掲示板に書いてあったし、前から言ってたって」
 先輩は「遅れるなよ」と言いながら、去って行った。
「どうしよう……」とウタはそれきり黙り込み、ウサギのパンも口をつけている箇所をちぎって食べ、後は永にあげた。
 かくして部活は通常どおり、準備運動の後にどんどんと泳ぎ、その後、それぞれのタイムを取った。
 そしてタイムを発表し、ウタのタイムが発表されると先輩が拍手してくれ、「この短期間でずいぶん速くなったね」と褒めてくれた。そして、「記録会、出ようね」とウタの目を見て言った。
 いつもふざけて明るいばかりの先輩たちを見渡すと、皆真剣な目でウタを見ている。
 ああ、この人たち、自分たちの大会もあるのに、初心者の私のことをずっと気にかけてくれていたんだ……。
 ウタはうつむき、数秒涙ぐんだ。こういう時、クロールのターンがうまくいっていなければ、鼻が少し赤いのも涙ぐんでいるのも、そのせいだと言い訳できたのにな、と思う。思い返してみればターンの練習もずいぶんとしたし、先輩たちも丁寧に面倒を見てくれた。気づけばクロールのターンも失敗することはなくなっていた。
「はい……」
 小さく頷いたウタに「覚悟しとけよ。来週からは朝練あるからな」と先輩たちは笑って言ったのだった。


 帰り道、「私、先輩たちに何を返せるのかな」とウタは永に訊いた。
 ずっとスポーツをやってきて、先輩後輩のどちらの立場も経験している永なら何か答えをくれる気がした。
 けれど永は「何もいらないんじゃない」と言い、「だけどさ」と言うウタに「じゃあ、某瑛高校のそばのパン屋でウサギのパンでも買って差し入れたら」と提案され、いつ買いに行こうかと思い始めたところへ、「いや、パンがほしければ先輩たち、自分で買いに行くでしょう」と言う。
「でも、お礼がしたいよ。こんなによくしてもらって、その気持ちを伝えたい」
「それなら簡単だよ。きちんと練習に出て、本人が納得する結果を出せばいいんだよ」
「あ」とウタは永を見上げた。
「まあ、それが実は一番難しくもあるけどね」
 そう言って正面を向いた永は、もう記録会のことを考えているようだった。
 いつも明るくて、ふざけてばかりいる永と一緒にいて、ウタもだんだんとふざけるようになってきていた。それが永と一緒に過ごす上での自分の変化だと思っているところがあった。けれど、ふざけて明るい永も確かに永で、それと同時にとても真剣に部活に打ち込んでいるのも永だった。励ましてもらってばかりであまり見ていなかった永の真剣な眼差しをウタはしばらくの間見上げていた。
 永はウタを振り返り、「来週から朝練楽しみだね」と笑い、駅で別れた。
 もうだいぶ日が長くなったが、それでももう辺りは夕闇に包まれる時間帯だ。
 部活での疲れもあり、地元駅に着いて眠気を感じ始めたところへ「ウタちゃん」と声がかかった。
 中学校の時、塾で仲がよかった、某瑛高校を選んだ友達のコトだった。
「あ、久しぶり」
 驚いたウタはコトと思わず手を取り合った。
「今日ね、午前中、そっちの高校行ったんだよ。会えなくて残念だったけど、今会えてすごくうれしい」
「え、来てたの? 会いたかった。でも本当、今会えてうれしいよ」
「今帰り?」と訊かれ、ウタは頷く。
「そっちも?」と訊くと、「うん、部活」とコトが頷いた。
「そうなんだ、私も」
「ウタちゃん、高校の文化祭でシンクロ見て感動していたけど、もしかして……」
「そうなの。水泳部に入ったの」
「どう? 楽しい?」
「うん、先輩たちもいい人だし、友達もできたよ。今度、記録会も出るの」
「すごい、すごいね」
 コトは目を輝かせて、本当にウタの部活動を褒めてくれていた。
「あ、うん、始めたばっかりなんだけど……」と、ウタは小さく付け加える。
 なんだか久しぶりに会ったコトに見栄を張ってしまったような罪悪感があった。
「始めたばっかりなんて、高校では珍しくないよ。始めることが大切なんだよ」
 コトはそう言って笑った。
「じゃあ、また今度ゆっくり会おうね。連絡するね」
「ありがとう、私も連絡するね」
 ウタはそう答え、「じゃあ、私こっちだから」と信号が変わって歩き出す友達を見送った。
 つい自分の部活の話をして、コトの部活のことを訊きそびれてしまった。
 即座に『始めることが大切なんだよ』と言い切った、コトの目は真っすぐで、とてもきれいだった。
 何かを見つけたんだ、と思う。
 何を見つけたのか、今度訊こうと思った。
 その時、自分はどんなことを話すのだろう。話せるのだろう。
 永の明るい笑顔と真剣な表情、先輩たちの『記録会、出ようね』と言った時の眼差しとが浮かぶ。
 永や先輩たちからは、今の自分はどう映っているのだろう。
 そして、記録会の日は……。
 月曜からの朝練と当時のことを思うと、ウタは果てしないほどの緊張を抱く。
 そして、それと同時にわくわくとした感情がどんどんと心を押し上げていくのを自覚していた。
 ウタは大きく頷き、先輩のように踊って歌いたいのを堪え、歩き出した。


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