[49]正座の対面


タイトル:正座の対面
発売日:2019/04/01
シリーズ名:須和理田家シリーズ
シリーズ番号:8

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
定価:200円+税

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
大学までエスカレーター式に進学できるお嬢様学校の中等部に通うナズナは、お作法の時間が憂鬱だ。
正座で足が痺れ、お作法に向いていないと悩んでいるが、それを誰にも打ち明けられずにいる。
そんな時、叔父のハルヤの結婚が決まり、婚約者のスグルさんを連れて来ることになった。
ほっとできる雰囲気のスグルさんに、ナズナはお作法の時間の悩みを打ち明ける。
スグルさんはナズナに和室のある自宅で正座やお作法の練習を提案する。

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本文

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 これは今から遡ること十数年前、世間では『お嬢様学校』と称される女子中学校に入学した奥月ナズナと、その叔父庄司ハルヤの結婚、そしてお作法と正座にまつわる物語である。
 藤色に臙脂の縁取りがついたセーラーカラー、同色のプリーツスカートの制服は、近隣の女子学生の憧れだ。
 日本文化、芸術、外国語までも学ぶ中学校から大学までエスカレーター式に進める女子中学校に、奥月ナズナは通っている。
 愛情も経済面も恵まれて育ってきました、という感じの子女が集うこの学校の子たちは、お休みの日に遊びに行く時に「同じ学校の~さんと~で待ち合わせて、~へ行って、夕方五時に帰って来る」というふうに言えば、保護者は安心し、その点を十分すぎるほど心得ている。ちなみに学校帰りの飲食店の立ち寄りは厳禁である。
 自宅の最寄り駅より各駅停車で三つ先の上り方面の電車に揺られ、下車して徒歩十五分というのが、ナズナの通学経路で、満員電車に長時間乗る必要がないことは、大きなメリットだった。
 だいたい朝は駅から誰かしらと顔を合わせ、学校までの道のりはおしゃべりの時間になる。
 春からこの中学校に通い、生徒同士や先生と親睦を深める一泊講習旅行や体育祭、文化祭、合唱祭などを経て、だいぶ学校には慣れてきた。何より、穏やかな校風で、困っていれば名前を知らなくとも同学年、上級生、教員が声をかけ、手を差し伸べてくれる。
 いい学校に入れて本当によかった、とナズナは思う一方、学校に慣れるに従い、気が重い日が出てきた。
 入学以前から説明会でも見知っていたことだし、学校の特色としても挙げられていたが、この学校は中等部、高等部の間お作法の時間がある。ただ見て聞いていた時点では、特に気にも留めなかったし、母も願ってもないカリキュラムだと喜んでいた。
 しかし、やはり向き、不向きがあるのだろうか。
 もともと、お食事のマナーやお作法など卒なくこなす生徒が多い中、一般の公立中学でなら劣等感を抱かずに済んだかもしれないナズナは、明らかに自身がお作法の授業は向いていないと自覚し始めていた。
 中学一年生で習うお作法は、本当に簡単なものだし、そもそもお作法というものは難しいものではないと、先生はことあるごとに触れている。
 実際に最初のお作法は、お作法についてのお話を聞く授業だった。
 学校にある和室に生徒は制服で入り、正座をする。
 お作法の先生は上品な和服姿できれいに座布団に正座し、まだ緊張や戸惑いの表情を浮かべる新入生に柔和な笑みと穏やかな口調で、お作法についてわかりやすくお話してくださる。
 特に厳しく叱責されるようなこともないし、普通にしていればいいことも、わかった。
 だが、ナズナはこの先生のお話を畳に正座して聞く、という時点で辛かった。足が痺れるのである。
 最初の授業こそ、「足が痺れた」と立ち上がれない生徒はナズナのほかにも何人かいたが、二度目、三度目と授業の回数が重ねられるに従い、そうした生徒は減っていった。
 ナズナは足が痺れたことを極力周囲に悟られないよう気をつけることにも、疲れていた。
 学校で仲良くなった子は、ナズナに悩みを相談したことはないし、そうするとナズナもそういう話をするのは友達の負担になると思えて、言えなくなる。一緒に過ごすうちに、友達には同じ学校の高等部に通うお姉さんがいて、学校での悩みはお姉さんに相談していることもわかってきた。
 学校での悩みは、その内容にもよるけれど、同級生に漏れないところで解決させるのが穏便に学校生活を送る暗黙のルールなのかも知れない。しかし、ナズナの小学校時代の友達にお作法の正座がきついと打ち明けたところで、「そんな授業あるの?」とまずそこで驚かれるのは、何となく予想ができる。そこで驚かれて、それに笑いを交えて応じられる元気が今は、ない。

 鬱々とした気持ちでナズナは金曜日、自宅へ帰った。
 ナズナの自宅は広い敷地内に建つ二世帯住宅だ。
 一階は祖父母が住んでいる庄司家。四年ほど前から一人暮らしを始めているが、母の六歳年下の弟のハルヤの住まいもここである。
 二階は父と母、ナズナ、二歳下の弟の住む奥月家になっている。
 いつもは外階段を上がり、自宅のある二階に向かうが、今日は一階居間のある庭に面した窓から母の声がしたので、一階の庄司家のドアを開けた。
「お昼のお料理、サラダとキッシュ、マリネをお願いするのでいいかしら」
「そうね、あんまり食べないだろうけど、見た目も華やかなお料理が並んでいるって、いいと思うの。残れば、後でうちがあっと言う間に食べるから」
 祖母と母がソファに並んで座り、デリバリーの注文用紙を眺めている。
「ただいま」と声をかけると、二人が振り返った。
「おかえり」
「何、お客さんが来るの?」
「そうそう、ハルヤが結婚するので彼女連れて来るんだよ」と祖母が答える。
「え、ハルヤ、結婚するの? やっと?」
 物ごころついた頃から、母の弟のハルヤはナズナや弟の面倒をよく見た。休みの日も予定がないのか、家にいることが多く、社会人生活を満喫しているふうには見えなかった。子どもの頃からそうしたハルヤを見て育ち、ハルヤはそういう人なのだと捉えていたので、ナズナの中でハルヤは半永久的に未婚という捉え方だった。
「うん、会社の人だって」
「へえ、いくつ?」
「二十代前半だとか聞いたけど」
「そんなに若いの?」
 あのおっとりとしたハルヤに年の離れた彼女というのが、どうにもしっくりこなかった。現在ハルヤが三十四歳なのだから、二十代前半、二十四歳だとして十歳差ということになる。身近な二十代の女性を探しあぐね、そういえば学校の体育の先生が二十七歳だと言っていたのを思い出す。ハキハキとしていて、運動部の全国レベルの実力を持つ子にも、運動が苦手という子にも分け隔てなく明るい口調で話しかけてくれる先生だ。「あんな大人になりたいね」とか「憧れる」という子は少なくないし、ナズナもその気持ちはわかる。しかし、淡々としているというか、まだナズナが幼稚園だった十年前に二十四歳のハルヤも、現在のハルヤもそれほど差がないというか、十四歳のナズナが思うのもおかしいかも知れないが、ハルヤは「若い人」という感じがしない。そんなハルヤがナズナの知る体育の先生のようなハキハキとし、ナズナたちに親近感と憧れを抱かせる女性とお付き合いし、結婚するというのはどういうことだろうか……。
「大丈夫?」と訊くナズナに、「中学生がそんなこと心配しなくて大丈夫よ」と母は笑ったけれど、その顔には微かな不安があるのをナズナは見過ごさなかった。
「お昼、出すの?」
 ナズナは話題を変えた。
「うん、いろいろデリバリーを見たんだけど、ほら、コンビニの並びにある洋食屋さんでデリバリー頼めるっておばあちゃんがお隣さんから聞いたから、そこのお料理をお願いして、あとはうちでお稲荷さんとか、のり巻きとか、天ぷらとか、ちょっと作ろうと思って」
「へえ。ねえ、スイーツも用意した方がいいんじゃない? プリンとか」
 ついでに自分が食べたいものも提案してみると、「そうね。いつもクリスマスケーキ予約するところにおいしいプリンあったわね」と母は同意する。
 いつもなら「高いからまた今度ね」とあしらう母があっさりと頷くのは、それなりに気張っている所以だろう。
 かくして、日曜、須和理田スグルさんという、あまり同姓同名のいなさそうな女性がやって来る日になった。
 もともとは二人の訪問をナズナの祖父母が迎え、ナズナの母が少し顔を出す程度の予定だったが、料理を選ぶ段階でナズナが話に入り、自動的に全員分の料理やらプリンやらを準備するので、最初の『ご挨拶』までナズナの祖父母との四人で、その後の食事は庄司家と奥月家両方が顔を揃えることになった。須和理田さんにしたら、とんだプレッシャーだろうと思ったけれど、ナズナは何も言わなかった。
 この日の朝、ナズナの弟は地域のサッカーチームの活動があるので、朝七時半には家を出た。せっかくの休みなのでナズナは昼の十二時過ぎまで寝ていたが、その間にハルヤはスグルさんを連れて一階の庄司家に帰ってきたようだった。
 母はすでに庄司家の方にいて、弟が帰って来たら父とともに行く手はずとなっているらしかった。服装は制服で、との言付けまであった。
 次第に面倒になってきたが、庄司家に行かなければ昼食は出ない。
 弟が一時に帰宅し、三人で一階の庄司家へ行く。
 祖父母と母のサンダルの横にハルヤの革靴があり、その隣に小さな黒のパンプスが揃えられていた。
「こんにちは」と声をかけながら、上がる。
「待ってたのよ」という祖母の声に迎えられ、居間へ行く。
 入口に背を向ける格好で座っていたハルヤと、隣の女性が振り返った。笑顔でいるが、明らかに緊張しているのがわかる、硬い表情だ。とても大人しそうで、決してクレームなど口にできない人というのが第一印象で、ナズナのクラスの三分の一くらいがこういう感じだと思った。髪も肌も清潔感が漂い、傷みや荒れは全く見られない。まだ高校生だと言っても通るのではないか、と思う。
「姉の家族」とハルヤがかなり大雑把な紹介をし、須和理田スグルさんは、その大雑把な紹介にしかと頷き、「始めまして、須和理田スグルと申します。本日はお休みのところお邪魔させていただいております」とナズナたちに向き直り、手をついて頭を下げた。
「先生みたい」とナズナは小さく呟いた。
「え?」
 不思議そうに須和理田スグルさんは目を上げた。
「お作法の先生の正座みたいに、きれいですね」
 おっとりした人なのだろうか、数秒を要し、それから「いえ、とんでもないです」と大きく謙遜した。
「ナズナ、お料理運ぶの手伝って」と台所から母に呼ばれた。
 ナズナは弟と父も引き連れ、台所へ向かう。手伝おうと立ち上がろうとしたスグルさんが、ハルヤと祖父母に止められていた。
 台所のテーブルは、揚がったばかりのてんぷらが盛られた大皿やこれから使う小皿の山、お盆に並べられたグラス、のり巻き、そして洋食屋さんから届いたらしい大皿の華やかなサラダや、キッシュやサーモンマリネが所せましと並んでいる。
「じゃあ、持って行くね」
「気をつけて」
 その声を背に聞きながらリビングに入ったが、肩が揺れると、盛られた天ぷらが絨毯に転がった。
「ああ、大丈夫?」と祖母が腰を上げかけ、初対面の大切なお客さんの前でしくじってしまったことがナズナの蓄積されていた不安のスイッチとなり、涙ぐみそうにうろたえた時、それをそっと手に取ったのは、須和理田スグルさんだった。
 目を上げ、「これ、私がいただいてもいいですか?」と笑った。
 ほっとする、笑顔だった。
「あ、うん。ごめんなさい」
 何が? と問うような、気遣いをさせない優しさで首を傾げ、須和理田スグルさんは、バッグからハンカチを出すと、絨毯をそっと拭いた。
 ナズナは、こんな友達が学校にもほしいな、と思ったのだった。


 これから結婚する二人というのは、食事の時にもお互いに食べさせ合ったり、二人で小声で話したり、必要以上にくっついたりと、見苦しいほどべたべたしているものかとナズナは思っていたが、ハルヤとスグルさんは、年を取った姿がそのまま想像できるような穏やかな組み合わせで、庄司家、奥月家の面々が困る、ということもなかった。(後で母にこのことを言うと、『結婚の挨拶に行った家で、べたべたできるタフな人間はうちの家系にはいないし、あちらもそうでしょ』と呆れられた。)
 スグルさんがハルヤと同じ会社に勤めていることや、スグルさんのお兄さんは結婚していて男の子がいて、奥さんは二人目をおなかに授かっていることや、実家を建て替えるので、多分、庄司家、奥月家のような二世帯住宅になる予定だということを聞いた。
 スグルさんは、実家が古い日本家屋だったので、新しい家が楽しみだと言った。緊張で表情を強張らせていたスグルさんが、とても朗らかで自然な表情をしたのが、この話の時だったとナズナは思う。
「ねえ、今度スグルさんの家に遊びに行きたい」
 のり巻きを食べながらそう言ったナズナを皆が見た。
「ナズナ、もうハルヤはご挨拶に行ったから、行く必要はないのよ」と母がたしなめる。
「私だけで行ったら駄目?」
 一堂が明らかに動揺している。
 一体何を言い出すんだ、という表情だ。
「古い家で、本当に何も楽しいものがないですけど、それでも良ければ」
 小さな声でスグルさんが言った。
「そんなに気を遣わなくていいよ。結婚してから来ればいいんだから」とハルヤが間に入る。
「じゃあ、私の家、見てみる?」とナズナは立ち上がった。
「ええ」と母がナズナを『そんな話聞いてない、片付いてないからやめて』と目で訴える。
 ナズナは半ば強引にスグルさんを促した。
「でも、あの」とスグルさんは、おどおどと周囲を見渡している。
「いいじゃないの。ナズナ、三十分したらプリンを食べに戻って来なさいね」と祖母がまとめ、ナズナは意気揚々とスグルさんを自宅へ招待した。
 祖母宅を出て階段を上がり、自宅に入る。
「お邪魔します」とびくびくした様子でスグルさんが続く。
「どうぞ。誰もいないから」
 白い壁で統一されたリビングはソファセットが配置され、床には弟のサッカーのバッグが投げ出されている。キッチンの流しには朝使ったお皿が下げたままの状態で放置されている。昨日取り込んだ洗濯物もソファに投げ込まれたままだ。
 確かに人を呼べる状態ではなかった、とナズナは内心冷や汗をかく。
「散らかってるけど……」
「そんなことないです。素敵なお住まいですね」とスグルさんは敬語で答える。
 あまりに自分に遠慮している人なので、今まで友達にもしたことのないような強引な態度を取ってしまったことをナズナは後悔し始めていた。
「部屋、見る?」
 とてもリビングで話せる状態ではないので、そう提案した。
「いいんですか」
「うん、いいよ。こっちも散らかってるけど」
 居間から続く廊下にドアが二つ並び、その一つがナズナの部屋だ。
 ナズナの部屋の壁紙はピンクで、ベッド、机、タンスはかわいいデザインながらも母が厳選して選んだ海外ブランドの家具だ。
「素敵、夢みたい」
 部屋に入ったスグルさんは目を輝かせて、「かわいい」を連発した。
 ふっと、ナズナの心が温かくなる。
 中学に入ってあまり寄り道もできないし、自宅の離れている友達ばかりで、友達が家に来なくなって久しかった。
 この人のほっとできる雰囲気を、少しの間だけでも独占したかったんだ、とナズナは気付いた。
 座るように促すと、スグルさんはピンクの円形の絨毯に正座し、隣に置かれた大きなうさぎのぬいぐるみの頭を撫でた。誰もいなければ、ぬいぐるみに話しかけそうな雰囲気すらある。
「何か、私より年下の子みたい……」
 ナズナは小さな女の子を部屋に呼んだ錯覚に陥った。
 そういえば、さっきナズナが落とした天ぷらをあれから食事が始まり、「いただきます」と美味しそうに食べた時も、とても無邪気で、嘘のない感じで、密かに可愛いとナズナは思っていた。それは祖父母や母も同じだったようで、ほっこりと嬉しそうにスグルさんの様子を見守っていた。
 ハルヤが自宅に婚約者を連れてくる前、家族の中では、多分、不安と期待とがあったはずだ。できればこんな人がいい、という思いも。
 スグルさんは、庄司家、奥月家の期待を理屈抜きでほっとさせるかたちで、大きく上回ったのかも知れない。ああ、ハルヤがよくこの人を見つけてきた、そんな感じだろうか。それは、結婚云々にはまだ時間のあるナズナから見ても、初対面の、あれだけ緊張する場でありながら、「全く疲れない」という言葉に終始した気がする。
「あ、すみません。ハルヤさんと結婚させていただくのに、子どものように地が出やすいところを直さないといけないですよね」とスグルさんは改まった。
「ううん、そのままでいて。みんなそう願ってるよ」
「……そう、でしょうか」
「うん」
 大きく頷いたナズナは、スグルさんにお作法の授業が辛いことを打ち明けた。
 本来なら、初対面で、この先長く付き合うことになるこの人に、最初からそんな弱みは話したくないのがナズナの性分だ。けれど、些細なことながら、悩みの期間が長くなり、辛さが蓄積したところへ、理屈抜きにほっとできる相手と自分の部屋で二人きりになれたことは、救い以外の何ものでもないように思えた。
 スグルさんは黙って話を聞いた後に、「今度、うちで練習しませんか」と言ってくれた。
 それは、思ってもない提案だった。
 大人しそうなスグルさんは『大変ですね』とか、そんな相槌を打つくらいだろうとナズナは思っていたし、それで十分だった。
「うちは古い日本家屋で、本当にナズナさんのおうちみたいな素敵な洋風ではないですけど、和室がありますから、慣らしたらいいんじゃないですか。襖の開け閉めの試験なんかをやるんですか?」
「それはまだ先だって。今は座礼とか、そういうので、ゆくゆくは襖の開け閉めやお茶のお作法を学ぶって」
 驚きながら、ナズナは答える。
「じゃあ、座礼の練習を何度かやってみましょう。その様子を記録して、後で見ると更にできるんだって自信につながるかも知れませんよ」
 あくまで謙虚な姿勢で敬語だったが、スグルさんは実に簡潔にナズナの悩みを解決に導く方法を述べた。
「でも、それでも私あんまり、お作法得意じゃないから、成果が現れないかも知れない」
 そこまでしてくれて、成果がでなかった時のことが、今度は心配になり、先に言う。
「そうしたら、先生に相談したらいいんじゃないですか?」
 穏やかに、ほっこりと言われ、それはそうだ、とナズナの悩みは半減したのだった。


 翌週の土曜日、早くもスグルさんは約束を実行してくれた。昼過ぎにハルヤに連れて行ってもらい、須和理田家を訪れる。スグルさんのご両親が笑顔で出迎えてくれた。
 なるほどどっしりとした、かなり趣のある日本家屋だった。このお屋敷のような家に、ハルヤは結婚の申し込みに来たのだと思うと、今更ながらに『頑張ったね』と言ってあげたくなる。
 家の庭にはごつごつとした幹の桜の木があり、庭に面した縁側や、よく磨かれた板の間の床は、テレビでしか見たことがなかった。
 そして、かなり広い立派な和室に通された。
「先にお作法の練習をして、それからゆっくりする?」とスグルさんに訊かれ、ナズナは頷いた。
「じゃあ、まず正座の練習から。学校では座布団は使うんですか?」
 ナズナは首を横に振る。
 用意しておいてくれたらしい座布団をスグルさんは部屋の端に置いた。
 ナズナの向かいに正座をし、簡単に正座の仕方を説明する。
「まず姿勢を正して。あ、すごくきれいですね」とスグルさんはナズナの姿勢を褒めた。
「学校では制服ですよね。スカートはお尻の下に敷いてください。あ、そこはもう習いましたか? それで膝はつけるか、握りこぶし一つ分つけるように。そうそう。それから足の親指は離れないように。つくか、重ねるか、深く重ねるように」
 スグルさんの指示に従い、正座の姿勢を保つ。
 ここまで丁寧に指導されると、さすがに正座もきちんとできる気がする。正座をする時、ナズナは姿勢や膝について考えていなかった。
 この後、スグルさんもナズナとともに座礼の練習をやってくれた。
 スグルさんは事前に座礼について勉強しておいてくれたようで、やり方がナズナの学校のお作法と違わないかについても確認してくれた。
 ナズナの学校のお作法通りの練習を繰り返し、ひと息つく。
「どうですか?」とナズナに訊き、「うん、先生や皆の前でいきなりやってから、いつも緊張して正座の足も痺れていたんだと思う」と答えた。
「じゃあ、お守りってことで、動画に撮っておきましょうか」
 こういうところが、意外と手堅いとナズナは感じる。
 今出来る気になって自信がついても、時間が経っていつも緊張するお作法の授業になったら、また出来なくなってしまう可能性が高いのを見越しているのだ。
 ナズナの携帯で、ナズナが今日須和理田家で行った座礼の様子を、ハルヤが撮っていく。
 全てが終わると、スグルさんは拍手してくれ「これで安心ですね。お疲れ様」と言ってくれた。
 ハルヤがほっと息をつき、「できてよかったね」と叔父の顔で笑った。
 ちょうど週明けにお作法の時間があり、今回は座礼をグループごとに先生に見ていただくことになっている。それも憂鬱だったが、今日自信がついたことで、ナズナの心は軽く、晴れやかになった。
「そろそろ休憩する?」
 それまで奥の部屋にいたスグルさんのご両親がやって来て、テーブルを元の位置に置き、ケーキを出してくれた。
「好きなのを選んでね」と出してもらったケーキは、駅ビルに入っている洋菓子店の中でもかなり高価なお店のもので、年に一度か二度しか奥月家では買うことがない。
 自然と嬉しそうなのが表情に出たのか、スグルさんのご両親は目を細めてナズナを見ていた。
 おしゃれなカップにアップルティーを注いでくれる。
 温かく、優しい休日の家庭の中にいる安心があり、ハルヤの結婚する人は愛されて育った人だと感じた。今、ナズナを歓迎してくれるのは、この家の人の人柄もあるが、それ以上に結婚の決まった大切な家族のこれからを案じて、精一杯のことをしているのだと気付く。
 まだ、想像はつかないけれど、いつかナズナがスグルさんのように結婚が決まった時、ナズナの祖父母や両親も同じようにするのだろうと思った。そして多分、ナズナの母が結婚する時にもそうだったのだと思う。ごくごく当たり前の日本の一般家庭の風景のようなこの家には、そこに暮らす人が柔和に、温かく、けれど固い決意をもって守り、迎え、育んできたものが息づいている。その温かさ、優しさが、この家のあちこちに刻まれているのをナズナは感じた。
 何だか泣きたくなるように心が締めつけられ、「ナズナちゃん、どうしたの?」とスグルさんに訊かれ、気付くと、ナズナは隣に座るスグルさんの右手をフォークを持っていない左手で握っていた。
「ううん」と首を振り、向かい側に座って心配そうにしているスグルさんのご両親に頭を下げる。
「今日は我がままを言って、お邪魔してしまい、すみませんでした。それから、こんなふうにもてなしてくださって、ありがとうございました」
「まあ、立派なご挨拶を、どうも」とスグルさんのご両親は驚き、優しい笑顔で「いつでも来てね」と言った。
 お茶の後、須和理田家の仏壇でハルヤとともにお線香をあげさせてもらい、ナズナはここで心の中でご挨拶をした。


 せがんで見せてもらったスグルさんの部屋は、南向きの明るく窓が大きい畳の六畳間で、家具はよく見かける小学生が使う学習机とカラーボックスのみで、後は襖で閉められた押し入れに収納しているらしかった。
「片付けたんだけど、本当に何もない部屋でしょ?」とスグルさんが小さく言った。
 ハルヤが「ずいぶん頑張って片付けたな」と呟き、スグルさんに足を踏まれたようで、「いてっ」とうめいた。
 六畳間に三人で座り、ナズナは畳の匂いとあまりに心地よい日差しに、足を投げ出し、そのまま横になった。
「最高。ねえ、窓の外に電線に止ってるスズメが見える」
「どれどれ」とハルヤも寝転がる。
「建て替えても、この向き?」とナズナが訊き、「うん。ナズナちゃんのおうちみたいに一階、二階じゃなくて、右側が実家、左側が庄司家になる予定だから、この場所にまたこんな感じで部屋はできるよ」とスグルさんが答える。
「また、来たいな。建て替えたおうちも素敵だろうけど、この部屋とか、今のおうち、すごく居心地がいい。初めて来たのに、ずっと住んでいるみたいにほっとするね」
「本当?」とスグルさんが訊き返した。
「うん」と頷くと、「子どもの時から、本当は友達呼ぶの、少し苦手だったんだ」とスグルさんは言った。
「どうして?」
「うち、古くて、昔は盆栽なんかもあって、新築に住んでいる子の家と違うところが多かったから、そういうのを来た子が悪気はないんだけど、珍しがったりすると、壁を感じた」
「え、私、無神経なこと、言いました?」
 思わず敬語でナズナは訊いた。
「ううん」とスグルさんは首を横に振る。
「本当は、ナズナちゃんがうちに来たいって言ってくれた時は、それが不安だったけど、そういうことばかりじゃないんだって、二十四年ここに住んで、建て替えが決まった今になって気付いた。気付けて、よかったと感謝してるよ。ナズナちゃんは、ハルヤさんの姪っ子さんだけど、最後に部屋に呼べたお友達って感じがする」
 スグルさんはそう言うと、感慨深げに紐のぶらさがったかたちの電気や畳の目を見つめた。


 憂鬱でないお作法の時間は、これが初めてだったかも知れない。
 ナズナは正座をする前に、スグルさんと確認した正座の仕方に気を付け、スカートのプリーツのことまで配慮し、お尻の下に敷いて、足の親指同士が重なるよう、膝がつくよう、考える余裕を持てた。
 お作法の先生が正座をする生徒たちの向かい側にいつもの柔和な笑顔で正座をし、授業が始まる。
 背筋を伸ばし、体の重心がしっかりしていることもあって、足は痺れなかった。先生の話にも集中できた。グループごとに授業の成果を先生に見ていただく際にも、先生の前で慌てることなく正座をし、落ち着いて座礼に臨めた。
 これまで長く感じたお作法の時間はあったという間に終わった。
 お作法の授業で習った礼をし、授業が終了する。
 足が痺れないまま、穏やかな気持ちでナズナは立ち上がる。
「今日、なんかいつもと違うね」
 振り返ると、友達がナズナの変化に気付いてくれたのか、そう言った。
「……うん」とナズナは頷く。
 心に少し余裕ができたこともあって、ナズナはスグルさんのことや、お作法の時間が苦手だったのが、少し克服できたことを友達に話した。
 友達は意外にも「わかる」と言った。
「私も最初は緊張して、お作法の時間、少し苦手だったんだ」
「そうなの?」と驚いたナズナに、友達は頷く。
「でもみんな、平気そうだったから、頑張ろうと思って。頑張ろうと思った時期は、肩に力が入っていたけど、そこから慣れると楽ってことは、お姉ちゃんに聞いた」
「へえ」とナズナは頷く。
「それに、お作法の時間って、無理に正座する時間だと思うと憂鬱だけど、いつか大切なご挨拶の時に、言葉で色々伝える前に、きちんと正座してご挨拶ができれば、その段階で、そういう気持ちが伝えられるっていうのは、いいことだよね」
 ナズナはその言葉に「あ」と思った。
 ハルヤとともに、祖父母宅へ来たスグルさんがきちんときれいな正座をしていた時に、何も考えずに対面したナズナから見ても、その居住まいから、言葉を交わす前の段階で、その緊張や精一杯の気持ちは自然と伝わった。スグルさんにそういう気持ちがあるのはもちろんだが、その気持ちとともに、きちんとした正座はその誠意を正確に伝えてくれるものなのかも知れない。
「『どこへ出ても恥ずかしくない女性』みたいな言い方だと、何か、今それができない状態はどうなのかとか考えて色々思うけど、幸せにつながるって考えれば、自然と先生のお話も聞く気になれると思う」
「そうだね。ああ、もっと早くそういうのも聞いておけばよかった」
 これまで円滑な関係を続けたいがために、友達と一定の距離を置いていたことをナズナは後悔した。
「ええ? 話すよ。ナズナちゃんはそういう悩みみたいなの、あんまり話すの好きじゃないんだろうなと思ってたから言わなかっただけで、言ってくれれば、話も聞くし、私も話したいから」
「本当?」
「うん」と頷いた友達は、やっぱり育ちが良さそう、という感じがして、でもその声や笑顔は、普通の同年代の女の子で、友達のそれだった。
「ねえ、嫌じゃなかったら、今度うちに遊びに来て。電車で三つ目の駅。方向も一緒だよね。もし、おうちの人が『いいよ』って言ってくれる日があったら。いつかスグルさんにも会ってほしいな。年は十歳上だし、頼りにもなるけど、なんか妹みたいなところのある人でかわいいの」
 友達は「ええ、行きたい! いいの? 絶対行くね」と言った。
 十二月を一ヶ月後に控えた秋、ナズナに中学校生活での親友ができた。


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