[351]正座したいヤマタノオロチ


タイトル:正座したいヤマタノオロチ
掲載日:2025/04/22

シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:11

著者:海道 遠

あらすじ:
 うりずんが正座教室の警護を休んで旅に出る。
 京から北西へ―――日本海側に向けて馬を駆った。但馬、因幡の国を過ぎ、何日めかで出雲の国(現・島根県)に入った。馬を下りて鳥髪峰(ちょうはつほう)へ登る。
 その昔、ヤマタノオロチが出没したと言われる霊峰だ。山すそで、スサノオの尊とマグシ姫が出会った場所である。
「兇つ奴(まがつど)党」という正座教室に妨害を加える存在を知った時から、出雲地方のことが気にかかっていた。


本文

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序章 うりずん留守に

 猛暑が少しおさまった9月、うりずんが妊婦さんのための正座教室の万古老師匠を訪ねた。
「しばらく遠出をします。その間、警護のお手伝いが出来ませんが、半夏(はんげ)さんにも報告しておきましたが、都合が悪いそうです。どうにか宜しくお願いします」
「えっ、うりずんさんが来れないの? 筋肉満々の半夏さんも?」
「うっそ〜〜〜!」
 生徒の「はぐく女(め)」(=妊婦)さんたちは不満そうな声を上げた。
 おやつを作る途中のマグシ姫が、教室に飛び込んできて、
「また『兇つ奴(まがつど)』党に狙われたら……」
「大丈夫ですよ。2、3日で帰りますから」
「でも……」
「イザとなったら藍万古(あいばんこ)さんが救ってくださいますよ」
 うりずんは、陽気な顔で荷物を馬の背に乗せた。
「美甘ちゃんは?」
「今日はまだ来ていないわ。元気で帰ってきてくださいね〜〜」
 マグシ姫は心配そうに見送った。
「分かった。美甘ちゃんにもよろしくね!」

第一章 霊峰

 うりずんは進路を、京から北西へ―――やがて日本海側に向けて馬を駆った。
 海辺を伝い、そのまま西を目指す。但馬、因幡の国を過ぎ、何日めかで出雲の国(現・島根県)に入った。
 馬を下りて鳥髪峰(ちょうはつほう)へ登る。
 その昔、ヤマタノオロチが出没したと言われる霊峰で、山すその村で、スサノオの尊とマグシ姫が出会った場所である。

 「兇つ奴党」と名乗る、正座教室に妨害を加える存在を知った時から、出雲地方のことが気にかかっていた。
 うりずんは、出雲地方に足を踏み入れたことはないが、何故か心の奥から呼び寄せられる何かを感じていた。
 気候や風土は、なじみのある琉球とは似ていないが、自分は何処の土地で生まれ育ったのか常に知りたいと思い、求めていた。
 自分の真の名前「梵(そよぎ)」は、誰が名付けたのかも知りたい。その手がかりが、出雲の国にあるような気がするのだ。
 それらを探す旅でもあった。

 ヤマタノオロチが現れたと伝わる霊峰だ。
 登山道にも登頂にも高山植物が咲いて美しい。
 遠くに青い山々が重なって濃い色薄い色を描き出し、誠に美しい景観だ。
 陽射しに恵まれ、初夏の風が吹き渡り野鳥の声がする。こんな平和な山にヤマタノオロチの巣があったとは信じ難い。

第二章 少女スダチ

「梵(そよぎ)くん!」
 振り向くと、12、3歳の少女が立っている。
「君は? 私の名前を、どうして知ってる?」
「や〜ね〜、いつも呼んでるじゃない」
 短い丈の着物を着ている。
「君……、美甘ちゃん? 美甘ちゃんじゃないか!」
 うりずんが走り寄ると、少女は怪訝な顔をした。
「あたいはスダチよ。木こりの娘の。やだわ、梵くん、あたいを忘れちまったの? 幼なじみのあたいを!」
「幼なじみ―――?」
(スダチだって? 木こりの娘? 記憶にない。どこから見ても美甘ちゃんじゃないか。―――ん?)
「一緒に座仙女(ざせんにょ)さまに正座の所作を習ったじゃないの。忘れたの?」
(正座を共に習った? 座仙女さま?)
 よく見ると、美甘ちゃんは公家の姫さまで、いつも美しい装束をまとっているが、この娘は丈の短い着物を着て手甲脚絆(てっこうきゃはん)を着け、顔は薄汚れている。
(待てよ、美甘ちゃんは今頃、京の正座教室で生徒さんのためのおやつを作っているはず)
 うりずんは、やっと気づいた。
「お前、美甘ちゃんじゃないのか」
「ちがうってば! 美甘って誰よ? 梵くんたら」
(どうやら、時間軸がズレてしまったようだ。それともこの娘は美甘ちゃんの前世の人物だろうか? だとしたら、時間を大幅にさかのぼってしまったようだ)
「えっと、スダチちゃんとやら。今のこの山の管理は誰が?」
「管理って何?」
 尋ねても分からんようだ。
「役人が来るか?」
「役人って何のこと? 今日の梵くん、なんだか変よ」
 しかし、見れば見るほど美甘ちゃんとそっくりだ。
「私は確かに『そよぎ』という。ここは、ヤマタノオロチという首が八つもある大蛇が住んでいる。危ないから帰りなさい」
「知ってるわよ。ヤマタノオロチの1番端っこのオロチとは友だちだから、会いに来たのよ」
 女の子はとんでもないことを言った。
 うりずんは慌てて、
「会いに来ただって〜? 食べられるぞ、ヤメときなさい!」
「食べたりしないわよ。『兇つオロチ』は。あ、8つの中で1番端っこの細いのが『兇つオロチ』っていうんだけどね、心根が優しいオロチで、座仙女さまが正座のお稽古を村人にさせているのを見て、自分も正座して、もっと心を静かに保ちたいのですって」

第三章 正座したいオロチ

「オロチが正座を?」
 うりずんはその場面を想像してみて、思わず吹き出しそうになった。
「足が無く尻尾だけのオロチが、どうやって正座するんだ?」
「だから、それが叶うように朝夕、天の神さまにお祈りしてるんですって。健気でしょう」
「いくら神さまでも、聞けるお願いと聞けないお願いがあるだろうよ。人間に空を飛ばせるようなお願いだ」
「梵くん。今日はやたらと冷たいわね!」
 ふくれた顔のスダチちゃんとやらに睨まれた。
「どこかへ風みたいに行っちゃう風来坊の梵くんより、『兇つオロチ』はずっと優しいわよ。龍文字だって教えてくれるんだから!」
「龍文字――?」

 その日は、待っても待っても「兇つオロチ」は現れなかったので、また明日来ると言って、スダチちゃんは帰った。
 うりずんは星空を眺めて野宿しながら、どうすればオロチが正座できるか考えてひと晩を過ごした。

「そうだ! 少々手荒だが、この方法しかないだろう」
 夜明けになり、うりずんは湧き水を見つけて顔を洗った。
 そこへ、昨日のスダチちゃんがやってきた。
「梵くん、おはよう」
「スダチちゃん、『兇つオロチ』に正座してもらう方法を考えついたぞ」
「え、本当?」
「うむ。彼が現れるのを待とう」

第四章 ヤマタノオロチの末っ子

 しばらくすると「ずっずっずっ」と、地面を大きなものが擦る音がして、次の瞬間、間近に大蛇の大きな頭があった。
「うわ~~~!」
 眼もチロチロする舌も血のように赤い。大きな口には鋭い牙が何本も光っていて、うりずんはすくみ上がった。
「『兇つオロチ』よ。梵くん、怖がらなくて大丈夫よ」
 スダチちゃんがオロチの鼻ヅラをヨシヨシしたので、ヒゲがウニョウニョと浮遊した。
「ね、オロチ。こっちは、幼なじみの梵くんよ」
「幼なじみだっけ?」
 うりずんは、スダチちゃんに誤魔化されたような気もするが、自分の記憶が曖昧でイマイチはっきりしない。
「ところで『兇つオロチ』さん、他の7頭のオロチは?」
「俺たちは昼間はぐっすり寝ている。昨夜の酒はいつもより強くて、まだ皆、夢の中だよ」
「あんた、正座の稽古がしたいとか?」
「ああ。しかし、この身体じゃ膝を曲げようにも……」
『兇つオロチ』は、しょんぼりとした。
「元気を出せ。しばらくだけ人間の身体にしてやるから」
 うりずんは、片目をつむった。
「しばらく人間にしてくれるってか、青年よ!」
「ああ。7頭の兄弟が目を覚まさないうちに稽古をつけてやろう」
「そいつぁ、有り難い!」
 龍の眼は優しい光を帯びた。
「あたいも一緒にやってあげる」
 スダチちゃんまでやる気満々だ。
「じゃあ、7頭の兄弟とつながっている身体はどうなるんだろう……?」
 オロチがそんな心配をしているうちに、いつの間にか仲間の頭と尻尾が8本ある身体から独立して、2本の人間の足が生え、地面に立っていた。
「うわあ、2本の足で立つって怖いな。頼りなくてグラグラする」
 兇つオロチは、足をもらうと同時に人間の顔になっていた。ヒゲがぼうぼうで髪は伸び放題の男だが。
「これ着て! 父ちゃんの着物だけど。はだかじゃ寒いでしょ」
 スダチちゃんが急いで、どこからか男物の着物を持ってきた。
「どうだ、オロチ。立てるかな?」
 うりずんが声をかけた。

第五章 正座のお稽古

「だんだん立てるようになってきたぞ」
「では背筋を伸ばして、身体を一直線にして……」
「うわ! こんな感じは生まれて初めてだ。いつもクネクネしてるから」
「いいか? 地面に膝をついて」
 スダチちゃんも、うりずんの掛け声通りに膝をついた。
「後ろの衣を手で押さえながら尻に敷き―――、かかとの上に座るのだ。かかとはVの字にしても良い」
「し、尻に敷く! 難しいなぁ、尻がどこにあるか分りゃしねえわ」
「はははは! そりゃ無理ないね!」
 スダチちゃんが涙を出して笑う。
「娘っこ、笑いごとじゃねえんだ、俺は生まれたばかりの人間なんだから」
『兇つオロチ』の顔が引きつっている。
「とりあえず、尻と思われるところに見当をつけて敷き、かかとの上に座る」
「かかと? かかとって何だ?」
「ここよ。足のとんがったところ」
 スダチちゃんが助け舟を出す。
「足の……ここか。なんせ、自分の足を見るのは初めてで……」
「そこにお尻を乗せるの!」
「かかとの上に……お尻を乗せる……」
 オロチにとっては、正に生まれて初めての経験だ。今まで自覚したことのない身体の部位に、慣れない所作をするのだから。
「こ、これでいいのかな?」
「そう! それでいいんだ。じっとして」
 うりずんが力づけた。
「うむ。美しく座れているぞ」
 うりずんに言われた途端、バタッと倒れ込んだ。
「うりずん! そろそろ他のオロチが眼を覚ましそうだよ」
 スダチちゃんが岩山に耳を済ませながら叫ぶ。
 崖から石ころが転がってくる。オロチたちが目を覚ましたのかもしれない。

第六章 ヤマタノオロ七チ現る

 案の定、ヤマタノオロチの影が迫ってきた! と思った瞬間、『兇つオロチ』は人間の姿から8番目のオロチの姿に戻っていた。
 うりずんとスダチちゃんは岩陰に隠れた。
 7頭のオロチのうちの一頭が、
「おい末っ子、お前、俺ら兄弟と離れてどこかへ行っていなかったか?」
『兇つオロチ』は慌てて、
「い……行ってないよう! 身体がくっついているのに、どうやって行くんだ?」
「……それもそうだな。が、お前は人間と近しい行動するから、油断できん。子どもと親しくしたり……」
「親しくしてないよう! 龍文字を聞かれて仕方なく教えてやっただけだよ」
「それ見ろ、親しくしているではないか」
 それを聞いたうりずんは、
(龍文字? ヤマタノオロチは龍文字が分かるのか)
 龍文字は龍が使う文字で、読んだり書いたりするのは龍族に限られている。
(ヤマタノオロチは龍族なのか)

第七章 青い実の涙

 数年前に時間はさかのぼる。
 出雲の国―――。
 太古の昔から山の奥深くに住むヤマタノオロチは、正座する人間を心の内で羨んでいた。しかし、オロチの身体ではうまく正座できない。
 スダチという娘が丁寧に正座の所作を教えてくれたが、8本の尻尾が邪魔になってうまく正座できない。
 イライラが溜まって怒りのマグマがヤマタノオロチの心の深奥(しんおう)に蓄積され―――。
 天変地異を頻繁に起こすようになった。
 火山の噴火をいざない、風神雷神を呼び寄せて、暴風を吹かせ、大雨を降らせ、落雷させ、津波を呼び――山崩れをも起こし―――。

 家族や家を失った民たちは、崇拝していたヤマタノオロチに裏切られたと思い、悲しみと悔しさをぶつけるようになり、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせた。

「お前のような怪物がいるから、災害が後を絶たぬのだ――」
「お前はカタチだけではなく、心まで怪物なのだ」

「悪いのは我らの方か―――」
 ヤマタノオロチは嘆いた。
 オロチらの鱗は涙と共にポロポロと落ちてゆき、地上で宝石のような青い実となった。
 人々は「リュウノヒゲの実」と呼んだ。それらは風が吹くと、泣くようにリンリンという音を響かせた。

 ヤマタノオロチと一緒に泣いたのが、娘、スダチだ。八つの頭のオロチと共にみかんを食べながら、涙を拭いてくれた。中でも八頭のうち、末っ子の「兇つオロチ」はスダチを慕うようになった。
「ワシを恐れぬのか? スダチ娘」
「あんたの瞳は優しいもの。あんたの落とした涙や鱗は、特別美しい瑠璃色の実となって、か細い声で泣く。側にいてやりたいよ」
「兇つオロチ」は瞼を赤くした。
「……礼に、龍文字を教えてやろう」
「龍文字?」
 オロチは舌をチロチロさせて、地面に見慣れないカタチの文字を書いていく。
「へえ〜、これが龍文字! なんて書いたの?」
「ワシの……ワシの妻になれば教えてやろう」
 オロチはスダチの手を固く握った。
「『兇つオロチ』……」
 スダチは恥ずかしそうに、彼の手に視線を落とした。

 末っ子を覗くオロチたち7頭は、村人たちの罵倒(ばとう)に腹が煮えくり返って治まらず、ある老夫婦の娘を毎年ひとりずつ食べることで、なんとか憂さを晴らしていた。
 老夫婦はアシナヅチ、テナヅチといい、今年は8人めの末の娘が食べられる番だ。

第八章 スサノオとの出会い

 ちょうどその頃、悪行ばかりしていたヤンチャのスサノオの尊が神々の話し合いの末、高天原を追放されて出雲の国に下ろされた。
「ここが出雲の国という人間の国か」
 穏やかで豊かな土地だと聞いていたのに、村には暗い悲しみが立ち込めている。
「これはどうしたことだ――? 田畑は荒れ、作物は見えず、馬や牛は痩せ細っている。川は氾濫を起こした痕跡があり、空は常に鉛色だ」
 スサノオの尊は、村々を偵察しながら更に進んでいった。

 老夫婦と幼い娘が泣いていた。
「いかがした? 何ゆえ泣いておるのだ」
 スサノオの尊が尋ねてみると、老夫婦は、
「今夜、末娘を恐ろしいヤマタノオロチに、人身御供(生贄いけにえ)に差し出さなければならぬのです。そうしなければ、村人に凶事が起こると言われて……」
 と打ち明けた。スサノオの尊は驚きを隠せなかった。
「人身御供だと? やたら狂暴と聞くヤマタノオロチに!」
(それで、村は荒れ果てて活気がないのだな)
「マグシや、マグシや。わしらのたったひとり、8人姉妹の最後に残った娘よ」
 老夫婦は娘を抱きしめ、尽きることなく涙を流している。

 まだ年端のゆかぬ娘だというのに、その娘――マグシ姫の美しさは女神のように神々しく、肌は真珠色とも淡い虹色とも言い表わせない色に輝き、瞳は黒耀石の輝きを放ち、小さな唇は、まるで金平糖薔薇(こんぺいとうバラ)のごとく愛らしい。
 その上、いじらしいことに、
「わらわは村人のためなら、どうなってもよいのです。でも、わらわがヤマタノオロチに食べられてしまったら、お父さまとお母さまには子どもがいなくなってしまう。老いたおふたりは、どうなってしまうことか。それが心配で……」
 そう言って、さめざめ泣き続ける。
 スサノオの尊は逞しい青年になっていたが、思いやり深い娘に、たちまち恋に落ちてしまった。

 正義感の強いスサノオは、老夫婦に宣言した。
「安心しろ、俺がヤマタノオロチを退治して娘を助けてやる!」
「旅のお人、これはなんと心強いお言葉を!」
 老夫婦は感激した。
「何度も醸した(かもした)強い酒を造るのだ。そして八つの門を作れ!」
 スサノオは神通力でマグシ姫を櫛のカタチに変え、自らの髪に刺した。
「しっかり私の髪につかまっておれ、マグシよ」

 人身御供が食べられる夜が来た。
 陽が暮れ、山の向こうから人里に現れたヤマタノオロチは、酒樽の匂いに気づき、長い身体をうねらせて近づいてくる。
 村人の家を壊そうとしているオロチを見つけては、スサノオは走り回って岩の上や屋根を跳び、オロチにかぶりつかれそうになりながら、酒樽の置いてある門へとおびき寄せた。
 オロチたちは作られた門から1頭ずつ進入して、酒樽を嗅ぎあてると、頭を突っこんで酒を飲みはじめた。
 ぐびぐびぐび……。
 やがて――、7頭とも、ぐでんぐでんに酔っぱらって地面に倒れ込んだ。巨体が倒れる際の衝撃といったら、大地が揺れ動くほどの大きさだ。
 その機を逃さず、スサノオは剣でオロチを切り刻もうとした。が、ひとりの幼い娘が立ちふさがった。スダチだった。
(何者だ、この娘は。マグシと同じ年頃ではないか)
 スサノオは、やや面食らった。
「スサノオの尊さま、お願いです。オロチたちを許してやってください。頭が八つもある凶暴な姿に生まれただけで、悪気のあるものはおりません。ただ、人間の正座所作が羨ましくて荒れていただけの――可哀想な生き物なんです」
「だからと申して、罪もない少女を毎年食べるとは許されることではない。老いた両親の気持ちを考えることなぞ、獣のオロチには不可能なことだろう」
「いいえ!」
 スダチは、スサノオの尊の前から動かない。
「オロチの中には心優しい者もおります。どうか、お考えなおしくださいませ」
「むむ……」
 スサノオは決心がつかず、振り上げた剣を下ろすことができずに泥酔したオロチを睨みつけるばかりだ。

 ふと、頭髪に挿していた櫛を思い出して手をやった。
「ヤマタノオロチ。やはり貴様らを斬らねばならん。俺はマグシを妻にすると決めたのだ。それと引き換えに貴様らを闇に葬ると、マグシの両親に誓ったのだ」
 スサノオの尊は剣を置いた。意志を新たにして背の矢筒から矢を一本取り、弓につがえて一番端の細いオロチに的を絞った。
 歯を食いしばり、オロチを射抜こうとした、その刹那――。
 マグシの声が聞こえた。
「スサノオの君さま、お待ちください!」
「む?」
「わらわの心は、スサノオの君さまのもの。もう決めました。どこまでもついてまいります。ですから……ですから、ヤマタノオロチの命を助けてやってください」
 スサノオの両眼が見開かれた。櫛を手の上に乗せて見つめた。
「マグシよ! 7人の姉を喰われた怨みは忘れるというのか? 老いた両親の願いは叶わずともよいのか?」
「わ……わらわとて悔しゅうございます。でも、オロチどもに刃を向けたところで姉たちは生き返りません。オロチ共もまた罵倒されて苦しみ、荒ぶってしまったのでしょう。人間もオロチ共も同じく、弱くもろい精神の持ち主です。どうぞ、お慈悲をかけてやってください……」
「マグシ……」
 スサノオの尊は神通力を解き、マグシを人の姿に戻した。彼女はその場に正座して、頭をそびやかした。射干玉(ぬばたま)の漆黒の髪の毛がまっすぐ背に流れ落ちた。
「それに、そこなおなご――スダチが申すには、オロチすべてが悪ではないと。1頭のオロチは、座仙女さまの正座の稽古を受けたいと願っておるとか。スダチと梵(そよぎ)と申す青年から聞きました」
「そのようなことを信じるのか?」
 マグシ姫は、スサノオの尊の視線を真っ直ぐ受け止めて、訴える。
「信じます。ヤマタノオロチにも純真な心を持った者がいると」
 マグシ姫の頬は紅潮し、真摯な瞳は青年を射ぬいた。
「わらわや両親がヤマタノオロチの罪を赦してこそ、終わりの見えない戦いに終止符を打つことができると信じます。どうか、ヤマタノオロチを許してやってください。両親には、わらわが話して分かってもらいます」
「マグシ、お前というおなごは……」

第九章 座仙女、現る

 森陰から、朱い布を顔面につけた女人が現れた。目鼻立ちがくっきりして、芯の強さが感じられる。
「よくぞ申した、マグシよ」
 マグシの母親が、朱い布をつけた女人に駆け寄って正座した。
「座仙女さま。幼いながら、大きな決意をした末の娘の言うことを聞いてやりたく思います」
「ご母堂どの、よろしいのか? 7人の娘御たちを喰ったオロチどもを許しても」
 老母は連れ合いに支えられながら、顔の前に手を合わせうなずいた。
「よろしいのです……。7人の娘を失ったことで、オロチが1頭でも正座を習いたいと思ってくれる日が来ましたゆえ」
 両親は肩を震わせて支えあった。
 マグシ姫がうなずき、スダチに目を向けた。
「スダチさんは『兇つオロチ』さんを信じているのね」
「はい。もう村人を襲ったりはしません。何故なら龍文字で『我の魂は、そなたと共に』と書いてくれたのですもの」
「あなたは龍文字が読めるの?」
 スダチはマグシ姫の問いに、首をかしげながら、
「繰り返し見つめているうちに、心で読めたような気がします」
「スサノオの尊さま。『兇つオロチ』とスダチさんは、信じるに値する方たちですわ!」
 顔を輝かせて、スサノオに呼びかけた。
 スダチに向きなおり、
「スダチさん……梵という人を連れてきてくださってありがとう」
「梵がどうかした?」
「梵さんは、座仙女さまが正座を教えたお方だそうです。戦う意味の『そよぎ』――癒される微風としての『そよぎ』の名を持ったお方――今日、この日にヤマタノオロチを救う巡り合わせのために、出雲に来てくださったに違いありません」
 うりずんが篝火の向こうから姿を現した。ふわふわしたやや茶色の長い髪が、篝火の爆ぜる火花に映えて美しい。
「座仙女さま。『兇つオロチ』という末っ子のオロチには、正座の所作の基本は教えておきました」
 うりずんは、座仙女の前にひざまずく。
「今、分かりました。座仙女さまが私の名付け親だと」
「ほほほ、勘づいたか。そよぎよ。どうじゃ、琉球の地の季節神に相応しい名前であろうが?」
「はい。ありがとうございます。南の国のそよ風のようでありたいと思っております」
「うむ。これからは、真に愛する者にしか明かしてはならぬぞ」

 スサノオの尊がその様子を見ていた。
「座仙女さま、では、オロチの正座指導を宜しくお願い申し上げます」
「うむ。尊さま、残りのオロチ共にも、毎日、『平和』を説教いたしますゆえ、村のことはご安心めされませ」
「ありがとうございます。これで安堵してマグシと新しい生活をはじめられます」
 スサノオとマグシはふたりそろって、座仙女に頭を下げた。

 見慣れぬ男が、まばゆい剣を捧げ持ってスサノオの尊の御前にひざまずいた。オロチの末っ子だ。
「この剣は――」
「私が人間にしていただいた際に現れた剣でございます。おそらくこれは――」
「三種の神器のひとつ、草薙(くさなぎ)の剣――!」
 スサノオは剣をしっかり握ってみた。ずっしりした重厚さ、鞘(さや)も束(つか)も、特別な飾りは無いが、内側から光り輝くように感じる。
「間違いない。これを姉神に捧げるために高天原(たかまがはら)へ戻ろう。さぞ、お喜びになるであろう」

 スサノオは明けゆく薔薇色の空を見上げ、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「俺自身、荒ぶって悪行しまくり、姉神から故郷を追放されたばかりであった。他人のことを罰するなどと思い上がっておった……」
「君さま……。何ゆえそのように荒ぶっておられたのですか?」
「ははあ、体裁の悪いことを白状させるつもりだな、マグシ」
「だって、君さまのことは何だって知っておきたいのですもの」
「母親が亡くなり、治めるように言われた海の世界にもなじまず、自暴自棄になっていたのだ。今では姉神に心から申し訳なかったと思っている」
 マグシ姫は、スサノオの手を両手で包んだ。
「これからは、わらわがずっと、君さまのお側におります」
「マグシよ――我が妻よ――」

 篝火に照らされて、一部始終を見届けたうりずんもまた、満ち足りた気持ちで木陰から座仙女に座礼をした。
 スダチが、
「座仙女さまって、しわくちゃのお婆さんだとばかり思っていたわ」
「神仙の方だから、ご自分で姿を決められるのだ」
 うりずんの答えに、
「なんだ、そっかぁ。道理で若すぎるし厚化粧だと思ったわ!」
 うりずんが慌ててスダチの口をふさぎ、「シーッ、シーッ」とした。


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