[372]お江戸正座30


タイトル:お江戸正座30
掲載日:2025/08/05

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:30

著者:虹海 美野

あらすじ:
おせいは味噌屋の娘である。友達は酒屋のおりき、干物屋のおすえである。
手習いの頃から三人は似たり寄ったりの幼馴染であったが、なんとおすえが干物問屋の若旦那たっての希望で、干物問屋に嫁ぐことが決まった。
しかも、おりきにもいい人がいる、と打ち明けられ、おせいは驚くばかりだ。
兎に角おすえに話を訊こうと、おりきとともにおすえに会うが、おすえは思ってもない良縁に恵まれたのに、嬉しそうではない。
訳を訊くと……。

本文

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 おせいは味噌屋の娘である。
 小さな店が軒を連ねるこの界隈で育った。
 昔からの仲良しは、酒屋のおりきちゃん、干物屋のおすえちゃんである。
 どの家もお商売をしていて、大きな問屋というわけでもなく、贅沢を言わず、穏やかにといった暮らし向きが似ていた。
 そうして、手習いも一緒で、お昼に弁当を食べるのも、遊ぶのも、この三人を含めた数人であった。おせい、おりき、おすえに交じる子は、その時々で変わったが、おせい、おりき、おすえの仲は変わらなかった。
 三人とも、手習いでは大人しく勉強をしているものの、実はそれほど身が入っておらず、時折退屈するのも同じであった。
 一応正座はきちんとし、文机には向かう。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は閉めるか軽く開く程度。そうして座っているから、先生に注意されることはない。
 何か悪さをするわけでもなく、かといって大人に褒められるような、年下の子の面倒をよく見るとか、せっせと店の手伝いをする、ということがないのもまた然り。
 なんとなく、この二人が同じなら、まあいいか、という意識があった。
 もう手習いも終え、それぞれの店の手伝いや家事をやる年になり、毎日会うことも、遊ぶこともなくなった。
 けれど、数日ぶりに会えば、「久しぶり」と言う仲であることに変わりはなかった。
 そんな三人に変化が訪れる日がくるとは、おせいは考えもしなかった。


 今になって思うと、おすえと最後に他愛もない話をしたのは、おすえが店の前を掃除していた時であった。
 おせいはおりきと一緒で、いつものように数日ぶりに会っても、「久しぶり」と言って笑った。
 あの時、おすえの家の近くに越してきた、陶器店諏訪理田屋のおつぎという娘が近くでやはり掃除をしていたのだ。
 おつぎはおせいたちと同年代に見えたが、もう人の妻であった。
 夫婦二人でやっている店のようだが、どうやら夫の実家の後ろ盾があるようで、なんとなく、お商売には余裕が感じられた。そうして、そこの旦那も、旦那といってもそれほど年を取っているでもなく、そこそこに品のよい様子の人で、おつぎのことも大層大事にしているようであった。
 新しく、自分たちと同年代の娘が近所に越して来たなら、仲良くすべきか、とおせいは思っていた。おりきも同じであろう。おせい、おりき、おすえの三人は、手習いなんかでも新しく入って来た同年代の女の子がいれば声をかけ、向こうが一緒にお弁当を食べてもいいかとか、一緒に帰ってもいいかと言えば、うん、そうしようと頷き、仲良くなった。気ごころ知れているのはおせい、おりき、おすえの三人だが、それでも、新しい友達ができれば、それなりに楽しくやってきた。
 だから、まあ人の妻であっても、同年代で新しく来た娘ならば、仲良くするというような意識がおせいの中にはあった。おりき、おすえも同じであると思った。
 ところが、このおつぎという娘、なんだか、つん、としているというか、よそよそしいというか、全くこちらに近づかない。
 前に通った時には、旦那と仲良く話していたから、無口で人付き合いが嫌いというわけではなさそうである。
 だが、おせいにとって、女子(おなご)同士では仲良くなる気はなさそうなのに、夫とは仲睦まじく話している、というのが、解せない。もっと言ってしまえば気に入らなかった。
 だから、おせいとおりきとおすえで道で話している時、おせいは、おつぎという娘がどんな感じかをそっとおすえに訊いた。
 あんまり感じがよくないとか、そんなふうに言うと思っていた。
 だが、おすえはおせいの意に反して、おつぎを褒めた。
 なんとなく、面白くない思いがたちこめた。
 おりきも同じようだったと思う。
 おすえと別れた後、「なんか、あんまり冗談なんかが好きじゃなさそうね」と、おりきは控えめに、おつぎを非難し、おせいも「本当」と頷いた。
 そうして、その後、おすえは干物問屋の若旦那との縁談が決まった。
 心の底から驚いた。
 聞いたのは、店に来たおすえの家の近所に住むご隠居さんからだ。
 そう、おすえ本人から最初に聞いたのではなかった。
 おせいは驚き、すぐに下駄をひっかけて、おりきのところへ行った。
「ねえ、おすえちゃんが干物問屋の若旦那と結婚するって!」
 一拍子置いて、「えええええ、どういうこと?」とおりきが盛大に驚いた。
 この声を聞いて、ようやくおせいも自身が驚いているのを実感した。
「ちょ、ちょっと、ちょっと」
 店の上がり框前にいたおせいを、おりきは袖を引っ張って、奥の座敷に連れて行った。
 あれだけ周囲を気にせずに伝えたのに、二人は密談でもするように居住まいを正し、膝を詰めた。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
 お互いに、何をかしこまっているんだろう、と僅かの間、ぷっと吹き出す。
 こういう時に、緊張感に耐え切れず、つい気を抜いてしまうのが、おせい、おりき、そうしておすえであった。そのおすえが、結婚。しかも干物問屋の若旦那ときた。
 いやいや、笑っている場合じゃあない、と二人は目を合わせる。
「一体全体どういうこと?」
「私もさっぱりわかんないんだよ。ただ、干物屋のおすえちゃんが、干物問屋の若旦那と一緒になるって聞いてさ」
「干物問屋って、あのやたらと大きい店だよね」
「そうそう。おすえちゃんの店が品を卸してもらっているところだよ」
「ええ、なんでおすえちゃん?」
「だったら、私でもいけるんじゃない?」
 そこでまた目を合わせ、束の間笑う。
「おせいちゃんがいけるなら、私もいけるよ。そんなこと言ったら、みんないけるんじゃない?」
 おりきの言葉に、「みんなってことないでしょう? みんなって言うなら、何年か前に利き饅頭で賞金をもらった婆さんだって含まれるってことじゃない」とおせいが若干むっとして言うと、「あの婆さん、旦那いるでしょう」とおりきが真面目に答える。夫婦揃って健康で長寿なのは有名である。
「そうだよ。あの婆さんだって旦那がいるんだよ! それで私やおりきちゃんに誰もいないっておかしい話じゃない?」
 おせいはそう捲し立て、そこでおりきが『うん、本当だよね』と言うのを待った。
 だが、おりきは黙っている。
 え、何?
 おりきが目を逸らす。
 そうして、「あのね」と実に言いづらそうに、もじもじと膝の上で指を絡めた。


 基本的におせいは気楽な娘である。
 手習いでなかなか算盤が修得できなくとも気にしなかったし、米の水加減を間違えても、まあ、いいか、と思う。
 だが、今回は違った。
 おすえちゃんが結婚すると聞いて、気にならないわけがなかった。
 そうして、おりきちゃんにまで決まった人がいると打ち明けられ、まあ、いいか、とも思えなかった。
 えええ、なんで?
 私たち、似たり寄ったりだったよね?
 なんでおすえちゃんには良縁があって、おりきちゃんにいい人がいるの?
 家に戻っておすえの縁談について詳しく聞くと、なんでも干物問屋の若旦那たっての希望でおすえは、嫁ぐことになったのだという。
 そうして、おりきちゃんはこの前、店まで来た人に恋文を渡されたのだそうだ。少し前から店に来るその人がおりきちゃんも気になっていたのだそうだ。
 悶々とした思いでおせいは膳を前にする。
 両親も、兄も無言である。
 おせいの家は味噌屋だけあって、三食のめしに必ず味噌汁が付く。
 大概朝は甘さ控えめの味噌であさりのむき身を入れた味噌汁、昼、夜は甘めの味噌で野菜の味噌汁である。
 今も、甘めの味噌を使った味噌汁をすすっているが、今日はその甘さもいまいち舌に届かぬ気がする。
 正座をし、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度でお行儀よくしてはいるが、どんな形相かは自分でもわからぬ。
 沈黙に耐え切れなくなったのか、突然父が「そうだ。今度うちで利き味噌大会でも開くか。それで干物屋のおはなちゃんの時みたいにご縁が生まれるかもわからないしな。まあ、おせいが優勝なのは間違いないから、賞金は用意しなくていいか。ははは、ははははは」と、どこを見ているのかわからぬ遠い目をして、一気にしゃべり、乾いた笑い声をあげた。後に続いて笑う者は誰一人いなかった。
 何年か前に、干物屋のおすえの一番上の姉、おはなが、口入屋の翁とその友人のご隠居さんの思いつきで開いた利き饅頭大会を縁に、当時口入屋で働いていた久三と一緒になったことを、父は言っているらしいが、今回そこの末娘のおすえが祝言を挙げることになった。話題選びの失敗にもほどがある。ちなみにその利き饅頭大会で賞金をもらった一人が、昼間おりきと話した健康で長寿の婆さんである。
 おせいはめしをかきこみ、味噌汁の椀を空けると、「ご馳走様」と膳を持ち、立ち上がった。
 その後ろで「あんた、なんでそう余計なことしか言わないの」と言うお母ちゃんの声と、「黙ってた方がマシってもんだろ」という兄のひそひそとした声がしっかりと聞こえたのだった。


 翌日、家に籠っているつもりであったが、どうにもじっとしているのが性に合わず、おせいは家を出た。そうしてまず、おりきの家へ行った。昨日、若干気まずいまま別れたおりきだったが、おせいが来たのを見ると、「私も会いに行こうと思ってたんだ」と下駄をひっかけて出て来た。
「昨日は、ちょっと驚いて……。ねえ、それより、おすえちゃんのところへ行ってみない? 今日、明日に祝言てことはないと思うけど、いろいろ忙しくなる前に会いたいと思って」
「本当よね。行きましょう」
 おりきとおせいは、気が逸るのを押さえられず、速足になる。
 そうして、おせいの家の前を通りかかったところで、「ごめんください」と声をかけているおすえに出くわした。
「おすえちゃん!」
 おせいとおりきが同時に声を上げる。
「ああ、よかった! 会えた!」と、おすえが笑った。
 眉の下がった、何やら情けない笑顔だった。
「私、二人に話したいことがあって……」
 おすえが話そうとしていたことは、見当はついていたが、おせいとおりきは「うん、わかったわ」と頷いた。
 そうして、おせいの家に入った。
「お母ちゃん、ちょっとお友達が来たから、部屋にいるね」と声をかける。
「ああ、」と顔を上げた母は、おすえを見て何か言いかけたが、「ゆっくりしてらっしゃい」と言い、すぐに茶と饅頭を出してくれた。普段は茶くらいしか出さぬ母だが、今日はおすえが好きだからか、饅頭もつけてくれた。
 母が襖を閉める際に、おせいとおすえは「ありがとうございます」と座礼した。
 三人とも、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、正座していた。
 そうして、しん、と僅かの間があった。
「おめでとう」と開口一番言ったのは、おせいだった。
 言った後に、おすえの話を聞いてから、と思っていたが、気がせいでいた。
「ありがとう」とおすえは頭を小さく下げた。
 おりきも「よかったね。おすえちゃんおめでとう」と言う。
 だが、おすえは、おせいやおりきが思っていたような、満面の笑みの幸せそうな表情ではなかった。
 どことなく、顔色も悪い。
「……おすえちゃん、どうかしたの?」と、おりきが小さく訊く。
 おすえは、「何でもないけど」と言いながら、首を傾けるばかりだ。
 一体どうしたというのか。
「ねえ、おすえちゃん、私たち、ちょっと口が軽いとこやうっかりしたところはあるけど、本当に内緒にしたいことは、三人だけで、ほかの人には話さなかったよね。おすえちゃんのお父ちゃんやお母ちゃん、お姉ちゃんたちにも言わないから、話せるなら、話してみて」
 おすえが、手元に落とした視線を僅かに上げる。
「そうよ。まあ、私たちどっちも、人の妻じゃないから、どこまで役に立つかわからないけど、できることはするから」
 おりきが続けて言う。
 おりきはどこでいい人がいることを言うのだろう、とふとおせいは思ったが、それは黙っていた。
 今は、祝言の決まったおすえちゃんの話が先である。
「うん」と言いながら、おすえは茶を飲んだ。
 そうして、「私、本当に大丈夫なのかな……」と、おすえは小さく言った。
 大丈夫、とは?
 おせいとおりきは顔を見合わせた。
 どういうことか、というふうなおせいとおりきを見越して、おすえは続ける。
「きっと、世間の人はみんな、どうしてあの問屋の若旦那が私とって思ってるんだろうけどね……」
 私たちもまず、それを思った、というのは、おせいもおりきもさすがに言わなかった。
 そうだ、おすえの古くからの友達であるおせいとおりきが、それを思うのはさすがに情がなさすぎた、かも知れぬ。
「もしかして、二人も、思った?」
「え? まさか、ねえ、おせいちゃん」
「うん、大切な友達のおすえちゃんのことだもの」
 慌てておせいとおりきは目を合わせて頷き合う。
「まあ、いいよ。私のことよくわかってるもんねえ」とおすえは力なく笑った。なんのかんの言って、一番肚が据わっているのがおすえであった。たまに何かちょっとしたことをやらかした時、おせいとおりきは『どうしよう、どうしよう』、とおたおたするばかりだが、そういう時、三人の中では頼りになるのがおすえであった。そのおすえが、こんな力のない笑い方をするなんて……。
「おすえちゃん、しっかりしてよ!」とおせいが言う。
「そうよ!」とおりきも頷いた。
「いつものおすえちゃんじゃあないわよ。ねえ、話してみて」
「ありがとう」とおすえは力なく、礼を言う。
「つまりね、どう考えても家も違うし、私がそこへ嫁ぐっていうのがどうしてなのか、嫁いで大丈夫なのか、って」
 おせいとおりきは黙った。
 確かに、近所ではあるが、あの干物問屋とおすえの家の干物屋や、おせいの家の味噌屋、おりきの家の酒屋では、明らかに違う。
 手習いの頃から、所謂(いわゆる)裕福な家の子というのは見てきた。
 着物から、弁当に入っているおかず、習い事なんかでの手習いの後の過ごし方と、何もかもが違う。
 幼い心に、世の中はそういうものだ、というのは理解する以前に浸透していたのだと思う。
 そう考えると、おすえの言いたいこともわかる。
 ただ、嫁ぎ先が決まった、それが大きな問屋の若旦那の元、しかも若旦那たっての希望……。これだけ聞くと、万事がうまくいき、否、行き過ぎていて、一体どんな善行をしたと言うのだ、と訊きたいくらいであったが、冷静に本人の立場になれば、ああ、とも思う。
「だけど、そのお相手の若旦那がおすえちゃんがいいと言っているんでしょう?」とおりきが訊く。
「まあ、一応」とおすえは頷く。
「おすえちゃんの方はどうなの?」と、おせいが訊く。
「もしかして、ほかに思う人がいるとか、その若旦那のことを好きになれそうもないとか……」
「ああ!」と、おりきちゃんが手を打つ。
 しかし、おすえは「ううん、とても親切で、素敵な方よ」と言う。隠しているつもりでも、口元や頬が緩み、嘘でないのがわかる。
「ああ、そう」と、おせいとおりきは取り越し苦労の溜息をつく。
「なら、何も心配いらないじゃない」とおりきは、明るく、力強く言った。いつもなら、『じゃあ、一体なんだって言うのよ』、とでも言っているところだろうが、今回は結婚という大きく、三人にとってまだ知らぬ話だけに、言葉の選び方も慎重になり、おすえの心をどうにか浮上させようと必死である。
 おせいも、それに加勢しようと、おりきに続く。
「おすえちゃんが、掃除がいい加減で、書も算盤もそれほど得意でもなくて、気が向いた人にしか感じよくしなくて、お客さんにもそんな感じなのも、よく知ってるよ。変にいい人でないのが、おすえちゃんがいい人ってことなんだと私は思う」
 精いっぱいの思いで言ったが、おすえはやや複雑そうな顔をしている。
「それ、褒めてるの?」
「当たり前じゃない!」と、おせいは頷いた。
「そうだよ! いい人になろうとしないところが、おすえちゃんの場合は最大のいい人ってことなの!」
 おりきも力を込めて言う。
「そう、かな」
 おすえは茶を飲み、「うちの近所の陶器店諏訪理田屋さんのおつぎさん、あのご新造さん、知ってるでしょう? 前におせいちゃんとおりきちゃんにおつぎさんのことを訊かれた時、私、本当はおつぎさんがお店の仕事をきちんとやって、お客さんにも親切で旦那さんにも大事にされて、あまりにも出来過ぎている人で、本当は好きじゃなかったの。その後で助けてもらって、やっといい人だって思って、仲良くなったけど、最初、好きじゃなかったの。そういうところについては、どう?」
 おせいとおりきは顔を見合わせる。
 今はおすえの結婚への考えを前向きにするよう鼓舞していたのに、今度は近所のご新造さんの話が出る。
「もう、今は自分のことだけ考えなよ」と、おせいが呆れ、「そうだよ。会ったばかりの人のことはわからないし、思うだけなら、仕方ないって。私だって、あの人嫌いって思ったもの。ちょっとひがんでたんだと思うけど。そういうのも含めて、人ってそういうものだし、私は、言わなければ済むようなことまで打ち明けるおすえちゃんはやっぱりいい人に違いないと思う」と続けた。
「そうよ。いい人になろうとする人は大勢いるけどね、敢えてそうしないままのおすえちゃんがいいと思うの」
「そういう人って、滅多にいないじゃない」
 更におせい、おりきが重ねて言うと、おすえがふっと笑った。
 そうして、饅頭を食べ、「おいしい」と言った。
 幼い頃から知っているおすえだ、と思った。
 おすえは、知り合った幼い頃から、人と自分の差を感じても、あれがいいね、ほしいね、と言ったことがない。まあ、おせいもおりきも似たようなもんで、やたらと上を見て騒ぐところがなかったが、特におすえは、これみよがしといったふうにいいものを目の前にしても、心が動かぬところがあった。好物は饅頭くらいだ。
 もし、おすえが目の前でこうして饅頭を嬉しそうに食べているところを見れば、どんな人でも、この人と一生一緒にいたいと思うのではないか……。否、それはさすがに言い過ぎか。
 兎に角、おすえの心の内の不安は、おせいとおりきとで晴らせたらしい。
 そのことが嬉しかった。


 おすえが嫁ぐまで、やはりいろいろと準備もあったが、その間を縫って、おせいとおりきは子どもの頃のように頻繁に会い、茶屋に行ったり、昔花を見に行った神社なんかを巡った。
 話すことはいくらでもあった。
 そうして、おりきのいい人にも会った。
 感じのよい人で、おりきちゃんとお似合いだと思った。
 おりきのいい人は、茶屋で少しだけおりき、おせい、おすえと話し、全員の勘定を済ませて、早々に店を出たのだった。
「ねえ、おせいちゃんにはいい人いないの?」
 嫁ぎ先も決まり、悩みも晴れたおすえが訊く。
「いないよ」とおせいは答える。
「おすえちゃんが問屋のご新造さんになって、おりきちゃんもこれからお祭りもお花見も私とは行かないだろうから、これからはお店を手伝おうかな。私が遊びに行っていた間、いつもお父ちゃん、お母ちゃんが店を守ってくれていたんだし、店番くらいならできるから」
 本音と開き直りが半々であったが、実際に口にしてみると、なかなか悪くない、とおせいは思った。時には、お父ちゃん、お母ちゃんと出かけてもいい、とも思う。そうすると、これからまだやりたいことは結構あると気づく。
 茶屋で飽きずに昔の話をし、帰りがけに、買い物帰りの陶器店諏訪理田屋のおつぎに会った。おすえとおつぎはもう、だいぶ親しい様子だ。おせいは、「こんにちは」と、おつぎに声をかけた。少し表情を硬くし、「こんにちは」とおつぎが頭を下げる。
「こんにちは。私はおりきといいます。こっちはおせいちゃん。私たち、おすえちゃんの昔からのお友達なの。よろしくね」
 おりきがそう言うと、「こちらこそ、よろしくお願いします。おつぎと申します」とおつぎが少しぎこちなくだが、微笑んであいさつした。
 どこかわだかまりを感じていた人物であったが、こうして話せば、なんのことなく、心はほぐれるようだ。
 そうだ。
 子どもの頃、こんなふうに、おせいたちは、越してきた子に声をかけた。
 仲良くなる子も、それほどでもない子もいたけれど、みんなで遊ぶのは楽しかった。
 そうした機会もなくなったと思っていたが、そうでもないかも知れない。
 玩具を手に、走って行く子たちを見ながら、おせいは穏やかで満ち足りた思いで目を細めた。

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