[78]正座先生と秋の模擬試験
タイトル:正座先生と秋の模擬試験
分類:電子書籍
発売日:2020/01/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:76
定価:200円+税
著者:眞宮 悠里
イラスト:鬼倉 みのり
内容
サカイ リコは、茶道と正座の普及のため活動する、高校3年生。
正座の技術と知識に関しては『正座先生』と呼ばれるほどの実力を持つリコだが、今は大学受験を優先して、勉強に励む毎日を送っていた。
そんな10月のある日、リコは友人のナツカワ シュウとキリタニ アンズが、塾の模試で思うような成績を出せなかったことを知る。
優秀な二人の思わぬ悩みに触れたリコは、なんとか二人が気分転換できる方法を探そうとするが……その秘策は、なんと『正座』にあった!?
『正座先生』シリーズ第22弾は、受験勉強を頑張るリコの視点から、正座の日常的な活用方法を伝えていきます!
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本文
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1
わたし『サカイ リコ』は、茶道と正座の普及のため活動する、星が丘高校の三年生だ。
わたしは高校二年生の夏まで、正座に強い苦手意識を持っていた。
だけど、学校祭で行われる茶道部の茶会に参加したいがために一念発起。
友達に一から正座を教えてもらい、ついに苦手意識を克服したのである。
これによって自信をつけたわたしは、学校祭当日、茶会に参加するだけではなく、勇気を出して茶道部に入部。
その後も自分なりに全力を尽くして活動した結果……今では正座の技術と知識に関しては『正座先生』と呼んでもらえるほどの実力を手に入れた。と、思っている。
だけど現在のわたしは、部活や趣味よりも大学受験を優先して、志望校合格に向け、勉強に励む毎日を送っていた。
志望校の星が丘大学には、茶道サークルがある。
なのでわたしは、合格後ぜひそこへ入会して、大学生になってからも茶道を続けていきたいのである。
……と、最近こんな現状を、改めてもう一度確認してみたくなった。
それは、今が高校三年の秋で、正座はともかく、茶道からはちょっと離れ気味だからである。
わたしは高校二年生の夏からずっと、主にこの茶道と正座に情熱のすべてを注いできた。
けれど、今は将来のために、これまでよりも少しだけ距離を置いている。
結果、正座は日常生活で使える範囲程度でのみ使い、茶道に関しては、ほぼまったくやっていない状態だ。
なのでわたしは、ある日、こんな言葉を思い出してしまった。
それは『あなたから○○を取ったら、何が残るんだ』という言葉である。
まず、この言葉の意味について確認しよう。
『○○』とは『あなた』の得意なもの、あるいはとても大切にしているものを指している。
次に、『取ったら』という言葉は、その『○○』を失ってしまう、あるいはやめてしまうという意味で使われていることが多い。
つまり、この言葉は『あなた』に、あなたが得意なものや大切なものから離れたら、残るものは何もないのではないか? と、問いかけているのである。
なので、わたしはこれを『ちょっと嫌な言葉だな』と思っている。
わたしは、たとえ『○○』が『あなた』から消えてしまったって、残るものは絶対にたくさんあると考えているからである。
少なくとも自分に関してはそうだと思っているし、というか基本的に、どんな人でもそうだと思っている。
たとえば茶道を学ぶとき、身につくのは、お茶をたてる技術だけではない。
茶道の成り立ちとその歴史に関する、知識。
正座という、茶道において必要な姿勢を取るための、技術。
お客様をもてなすための、気づかい。
お菓子やお花を楽しむ、感性。
一つのことに熱心に取り組む、集中力。
丁寧な、所作。
パッと思いついただけでもこんなにたくさんあるし、もちろん、この他にもいくらでもある。
つまり、茶道を学ぶあいだにふれたもの、知ったこと、思い出という名の経験が、すべて自分の糧になるのだ。
だからわたしは、たとえ自分がある日突然茶道ができなくなったって、得たものは他にもたくさん残ると思っている。
……なので、つまりこれ、何が言いたいのかというと……。
今回のわたしは、まったく茶道をしない。
だけど茶道部の活動で培った正座の技術を生かして、受験勉強に応用したり、友達の息抜きを手伝っちゃうぞ!
……と、いうことなのである!
2
「弱ったな。僕としたことが、自信をなくしそうだ」
「私もまるで同感です。
……こんなことを言ってはいけないとわかっています。だけど、このままでは……」
高校三年生の十月のある夕方は、こんな二つのセリフで始まった。
……だけどこれ、どちらもわたしのセリフではない。
「だ、だ、大丈夫? ナツカワ君、アンズ。きっと、二人とも多分疲れているんだよ。
こんなことだって、時にはあるよ」
こちらが、わたしのセリフである。
つまり、今自信をなくしているのは、わたしではない。
だけどこのセリフ、みなさまには、実際に自信をなくしている友達『ナツカワ シュウ』君と『キリタニ アンズ』の二人よりも、明らかに慌て、不安を感じているように聞こえるだろう。
その理由は……。
「時にはこんなこともある。確かにサカイ君の言う通りだろう。
……しかし、今回はそれが訪れたタイミングが問題なんだ。
十月の模試でこの成績……この結果を気にせずにいられるほど、今の僕には心の余裕がない」
「これもまた同感です。
正直なところ……私は今、志望校への合格が危ぶまれていると感じています」
わたしよりもずっと頭が良くて、落ち着いていて、頼りになるナツカワ君とアンズが……揃って模試の成績を落としてしまったからである。
「あわわわわ……」
ナツカワ君とアンズは、わたしと同じ高校三年生だ。
三人とも進学希望で、来年の冬に大学受験をする。
だから今こうして三人そろって学習塾に通っている。
逆に言えば『実はまだ受験生ではないので、十月の模試の結果が悪くても、ひとまずOK。次頑張ろう』ということにはならないのである。
さらにナツカワ君とアンズは、日ごろ成績が非常によく、よって志望校も、かなりの難関大学である。
ナツカワ君に至っては、本命は東京大学なのだ。
なので『実は、そこまで高偏差値の大学は受験しない。ゆえに、十月の模試の結果が悪くても、ひとまずOK。きっと合格できるだろう』ということにも、ならない。
しかも、二人の成績はこれまでずっと良かった。
いつもA判定……とは言わずとも、誰も二人の志望校合格を疑っていなかった。
むしろ、今話題になっていないわたしの方が、周囲にはよほど心配されてきたのである。いや、今も結構心配されているけれど。
……そう。事態は、思った以上に深刻だ。
「どうして急にこんなに成績が落ち……。ごほん。
良くない結果になっちゃったんだろう。二人とも、心当たりはあるの?」
『成績が落ちた』と言おうとして、わたしは慌てて軌道修正する。
今『落ちた』という言葉は使わない方がいい。
それは『縁起を担いでいる』というのもあるけど、それだけではない。
これ以上の二人の不安をあおり、その気持ちを『落としたくない』からである。
……しかし、自分からこんな質問をしておいてなんだけれど、実はわたし、その原因をわかっている。
二人は、相当に疲れているのだ。
「ううむ……わからない。勉強時間は九月までよりも多くとっているし、十月に入ってからは数学部にも顔を出さないようにしている。
単純に、勉強時間と成績が比例するという考えであれば、確実に成績は良くなっているはずなんだ」
「私も、おおむねナツカワ君と同じ状況です。
さらに私個人に限れば、今回特に苦手な分野が出題されたとか、模試当日体調を崩したということでもないのです。
むしろ、全体的に自信があったくらいです。
まったく原因がわかりません」
しかし、この二人には、疲れている自覚がまるでないようだ。
二人とも、顔色は真っ青だし、お肌は荒れ気味だし、両目の下にはペイントしたみたいにくっきりクマがあるし、声にもいつものような張りがない。
特にナツカワ君は、そのメガネの奥の瞳に輝きがない。
もしナツカワ君がマンガやアニメのキャラクターであれば、今彼の目の中には、疲労や混乱の象徴である、大きなうずまきがグルグルと描かれているに違いない……。そんな危機的状態なのである。
ナツカワ君は今ご本人が言った通り数学部所属で、絵に描いたような理系だ。
普段の彼は、その高い知性を生かした冷静な状況分析を得意としており、わたしはこれまでずっとそれに助けられてきた。
というか、ナツカワ君の力添えがあったからこそ、わたしは今回の模試で比較的まともな結果を出せたくらいなのである。
でも今はその分析は正確に行われず、適切な結果を導き出せていない。……どうしよう。
アンズに至っては、以前よりかなり痩せてしまった。
アンズは元アーチェリー部所属で、引退するまでは『裏部長』と呼ばれるほどの優秀な選手だった。
当然、かなり熱心に活動していたし、後輩の面倒も積極的に見ていた。
部外者のわたしから見ても、一人で三人以上分は働いていたように思う。
つまり、引退前の方が明らかに運動量は多い。
消費カロリーという観点から見れば、アンズは今、以前より太ってしまってもおかしくないのである。
……でも、痩せてしまった。
手の甲なんて、五本の指の骨がそれぞれくっきり浮いてしまっており、それらが手首に向かって伸びているのが、レントゲン写真を撮らなくてもしっかり確認できるほどだ。
正直、見ていられないくらいである。
どうしよう……。
……とにかく二人は今『志望校に合格する』『模擬試験でよい結果を出す』という高い目標を達成しようと頑張って、必死に努力している。
その結果、すっかり疲れてしまい、正常な判断力を失いつつあるのだ。
その根拠はこうだ。
まず、たくさん勉強しようとすると、どうしても睡眠時間は削られてしまう。
これだけで、脳にはかなりのダメージが入る。その日に蓄積した疲労も回復しきらない。
さらに、勉強で一日中頭を使うことで、カロリーは脳へ多く回されるだけでなく、消費量そのものも普段より多い。
当たり前のことをあえて言葉にさせてもらえば、勉強すればするほど、お腹はすくのである。
だけど勉強中心の生活は、食事の時間も不規則になりがちだ。
ひどいときは、長時間何も食べられない場合もある。
つまり、ハードな受験勉強中は、肉体的にも、精神的にも、思うようなエネルギー補給ができないのだ。
そして、受験が終わるまでは、気軽に遊びに行くことなんて、もちろんできない。
中にはうまく息抜きをする人や、理由をつけてサボる人もいるだろう。わたしはそれも必要なことだと思っている。
だけど、二人の真面目な性格なら間違いなく、全然遊んでない。断言できる。
ナツカワ君に至っては、所属していた数学部だって勉強に関する部活なのに、そこにすら行ってないなんて。この調子なら、コンビニにお菓子を買いに行ったり、ちょっと散歩したりとか、そんなことさえしてないかもしれない。
それでも、学校や塾に行けば、二人は友達に会える。
ここである程度、精神的に癒されるのは間違いない。二人は周囲の人たちにとても慕われているからだ。
だが、今はやはり、時期が時期。しかも、星が丘高校の生徒の大半は大学進学希望だ。
学校は、行っても同級生は勉強の話ばかり。塾に関しては、もはや言うまでもない。
少しは元気になれても、思うほどの回復ポイントにはならないような気がする。
であれば、少し一人の時間を作って、休憩するのはどうか? 趣味で気分転換は? ……と提案したいところだけど、やはり真面目すぎる二人である。それさえもしていない気がする。
つまり今の二人には、エネルギーが明らかに足りてない。うまく回復できるポイントもない。と、推測できるのだ。
「……ですが、リコの成績がよかったのには安心いたしました。
三人そろってよくない結果を迎えては、目も当てられません」
「まったくだ。少し時間はかかってしまったけど、ようやく勉強の成果が目に見えて現れて来たね。本当によかったよ。
サカイ君の先生の一人として、僕は嬉しい限りだ」
なのに二人はわたしの心配をしている。今、そんな場合じゃないよね!?
だからわたしはなんとかして、二人にその疲労を自覚させなくてはならない。
せめて、今自分たちがどれだけひどい顔をしているかくらいは、わかってほしい!
「ありがとう、二人とも。
……でもわたし、それは、二人のおかげだと思ってるから。
ねえ、あのさ。二人の話を聞いて思ったんだけど、二人は最近、自覚がないだけで、すごく疲れてるんじゃないかな。
だから思うような結果を出せなかったんじゃないかと、わたしは思うんだけど」
「えっ?」
しかし、正気を失っているナツカワ君とアンズは、思った以上に手ごわかった。
「リコったら、何を言っているのですか。
今日の体育で、私がマラソンを上位で走りきったところ! リコも見ていたでしょう?
これは、疲れた人間には到底不可能なことではありませんか?」
「……いや、でもっ! アンズ、その次の授業で、らしくもなく、ちょっと居眠りしちゃってたよね? わたし、見てたよ?
……それは、疲れてるってことじゃないのかなあ?」
「おやおや、そんなことがあったのかい。
……でも、たまの居眠りくらい、誰にでもあることさ。気にすることはないよ、キリタニ君。
だけど……サカイ君、ありがとう。君が僕たちを心配してくれていることは、よくわかった」
「本当!? ナツカワ君。ようやくわかってくれたんだね?」
「ああ、わかっているよ。
だから僕は改めて伝えたいんだ。『心配することはないよ』と。
僕たちは、今回たまたま成績が芳しくなかっただけだ。
気にすることじゃないよ。
ましてや、その原因が疲労だなんて、ありえない。僕たちはとても元気だ。
まだまだできる。まだまだ頑張れる。まだまだ勉強できる。
そうだよね、キリタニ君?」
「ええ。ナツカワ君。私達はいたって正常です」
えぇーっ! そんなはずない。そんなはずないからー!
二人のあまりの無自覚さと頑固さに、わたしの目の前は、クラクラと歪んできた。
というか、ナツカワ君ってば、さっそく発言が矛盾している。
さっきは『時には調子の悪いこともあるかもしれないが、今回はタイミングも悪い』『十月の模試でこの成績では不安だ。気にしないでいることはできない』って意味合いのことを言っていたのに!
今『気にすることはない』って二回も言ったけど、少しは気にしてほしい……。
ああ、こんなの、わたしの知ってるアンズとナツカワ君じゃない。
早く。早く何とかしなくっちゃ。
「そっ、そっ。そっかあ。じゃ、じゃあ、いいのかなあ?」
「そう。いいんだよ。サカイ君!」
「そうですよ。リコ!」
でも……。
今は、二人を説得できる手立てがない。
「とりあえず今日はもう帰ろうか。勉強もしなくちゃならないし!」
仕方ない。一度撤退しよう。
わたしは泣く泣く敗北を認め、ひきつった顔と、震える声で、二人に家に帰ることを提案した。
3
「ということなんです。
トウコ先生。なんとかする方法を一緒に考えてくださいませんか」
「ほほぉ……。確かにそれは重症じゃな」
一人で頭をひねってもいい策が出ないときは、できるだけ早く誰かに相談するに限る。特に、今回は時間もないし。
ということで、さっそくわたしはやってきた。
茶道部の特別講師『ヤスミネ トウコ』先生のお住まいにである。
「まず、今の話を聞いて……マフユはどう考える?」
「おっ。拙者でござるか? 拙者も、この作戦会議に混じってよいのでござるか?」
「あっ! はい、ぜひ! マフユさんの意見もぜひ聞かせてほしいです」
いきなりお知らせするが、このトウコ先生、実は人間ではない。
わたしたちの住む星が丘市を守る『星が丘神社』の神様なのである。
つまりわたしは今、星が丘神社の敷地内にある、トウコ先生のお宅にお邪魔しているというわけだ。
さらにトウコ先生は神様なので、そのお世話をする従者のみなさんと一緒に暮らしている。
そんな従者のみなさんもまた、人間ではない。全員、精霊様である。
そして、そのうちのお一人が、トウコ先生が今お呼びした『ヤスミネ マフユ』さんなのであった。
わたしが話し終えると、トウコ先生は、少し離れた位置でお茶の準備をしていたマフユさんを呼びよせる。
するとマフユさんは、お茶のセットを持って、テーブルまでやってくる。
こうしてわたしたちが一つのテーブルに揃った光景は、一見女子高生が、三人でおしゃべりしているようにしか見えない。
なぜかというと……今回は詳細を省くけれど、トウコ先生やマフユさんという『人ならざるもの』は、その容姿をある程度まで容易に変えることができる。
結果、お二人は今、わたしと同じくらいの年齢の女の子にしか見えないからなのだった。
「実は……拙者も昨日ナツカワ殿に会ったのでござるが。
リコ殿が申す通り、なんだか様子がおかしかったござる。
目はぼんやりとうつろで、そのくせ突然不気味に光り輝く瞬間もあり……。
正直なところ、正常とは言い難い雰囲気でござった。
にもかかわらず、ナツカワ殿本人は、まるで普段通りのようなつもりでおられた。
あれでは己を客観的に見られていないに違いない! ……と、拙者も思うでござる」
「やっぱりマフユさんもそう思う? でも、本人はどうしても認めてくれないんだ。
わたしからもいろいろ言葉をかけてみたんだけど、どれも効果がなくて。
だから、どうしたらいいか悩んでるんだ」
マフユさんは、現在従者としてのお仕事の一環で、星が丘高校に通われている。
学年は、わたしより二つ下の一年生。
部活はわたしと同じ……というか、トウコ先生が特別講師を務めているという理由で、茶道部に所属している。
なので、茶道部と縁の深いナツカワ君とも仲がいいというわけだ。
ちなみにそんなマフユさんの実年齢は、わたしよりも、わたしのお母さんよりも、わたしのおばあちゃんよりも、ずっとずっと上である。
なのでわたしは『年上の後輩』という目上の存在のマフユさんに、敬語でお話しするようにしているのだった。
「つまり今回のリコの目的は二つ。ナツカワとアンズに
1・ 疲労を自覚させる
2・ 疲労を取り除く方法と、今後疲労をためにくくする方法。この両方、あるいはいずれかを伝授する
ということじゃな?」
「そうなります!」
さすがトウコ先生、わたしの願いをすんなりまとめてくださった。
トウコ先生とわたしは、今年の五月に出会った。
星が丘神社は昔から『部活動の神様がいる』と噂されるほどの場所で、部活に励む星が丘市の学生たちの聖地である。
なので、当時茶道部の指導をしてくれる人を求めていたわたしはワラにもすがるような気持ちでこの地を訪れ、トウコ先生と知り合ったのである。
だけどそのときは、トウコ先生が本物の神様だなんて知らなかった。
わたしは境内でお掃除中だったトウコ先生を、巫女さんか何かだと思って話しかけ……そのうちに正体を知り……そして茶道部の指導者になって下さいとお願いし……今日にいたるのである。
そう。『星が丘神社には、部活動の神様がいる』というのは、噂ではなく、真実だった。
しかもその神様は、なんと様々な高校に直接出向いて指導をしてくれるという、すごい方だったのである。
こうしてわたしの必死のお願いで星が丘高校茶道部の特別講師となったトウコ先生は、翌日から神様であることは隠して、星が丘高校に定期的に通うようになった。
つまりマフユさんは、それをサポートするために、生徒となったのである。
「わたしはこんな状態の二人を放っておけないんです。
正直なところ『自分の勉強が順調ってわけでもないのに、人の心配をしてる場合か?』
と、思われるかもしれないんですけど……。
必要なことなんです。だからお力をお借りしたくて」
だけどわたしは、トウコ先生には反対されてしまうかもしれない……という不安を抱えていた。
その理由は、今自分で発言した通りである。
確かに先日の模試の結果は、そこそこよかった。
だけどわたしにとって、星が丘大学合格は、やっぱりちょっと難しい願いだ。
『合格したいのなら、友達の心配なんてしていないで勉強しろ』と言われてしまったら、返す言葉もない。
そもそも、二人と知り合うきっかけになった茶道部にさえ、今わたしは顔を出せていないという状況にあるのだから。
だけど、トウコ先生は違った。
むしろ『やれ!』という表情を浮かべてくれている。
「何を言っておる。
わらわはむしろこれ、よい傾向だと思っているぞ。
これまでおぬしは、何か一つの出来事に夢中になると、他が見えなくなることが多かった。
結果、人の気持ちの解釈を誤ってトラブルになったり、無理をしすぎて、体調を崩したりしていたよな。
それが弱点だと、ずっと指摘されていたじゃろう」
「はい」
「だが、今回は違う。
今回のおぬしは、ナツカワとアンズという、二人の友のことがよぉく見えておる。
これは少なくとも、変化してるということじゃ。
……というか、夏頃はおぬしも勉強のしすぎでガイコツみたいに痩せておったのに、その自覚もなく勉強していた。
つまり、今のナツカワとアンズと同じ状態だったんじゃが。
いつの間にか持ち直して、今は友の心配をしている。
これを成長と呼ばず、歓迎もしない師がどこにおる?
確かにおぬしの言う通り『二人を心配することが、おぬしにとって勉強から逃避するための手段になっているかも?』という懸念はある。
じゃが、わらわはそれを加味しても『やるべきだ』と感じておる。
さあ、具体的にはどうやって二つの方法を探す?
時間はないぞ?」
「拙者もトウコ様に同意でござる。
まず、ナツカワ殿は拙者の友人の一人でござる。
次に、アンズ殿とはあまりお話ししたことはないでござるが、リコ殿の長い友人で、リコ殿をいつもサポートしてくれる、よい方だということは存じ上げておりまする。
結果、拙者にとってもお二人は、いつも元気であってほしい方。
つまり助けたいという気持ちは、拙者も同じ。
協力させてほしいでござる。
仮に、もし、リコ殿がどうしてもこの『二人を救出する作戦』を実行する時間が捻出できない場合は……。
代わりに拙者がこの仕事を引き受けるでござるよ。
拙者はもう何回も高校生やってるでござるから。勉強も余裕でござるし!」
「トウコ先生。マフユさん……!」
二人の優しい言葉に、ジーンと感動してしまう。
一人では難しいと思っていたことも、協力してくれる人が見つかった途端、急に何とかなるような気がしてくる。
「だが、その前におぬし一つ伝えておくぞ。
誰かのために行動するのは尊いことだ。
だが、同時に危ういことでもある。
相手から思うような反応が得られなかったときに『こんなに尽くしたのに』と残念に思ったり、『なんで自分の気持ちをわかってくれないんだろう』と恨んだりしてしまうかもしれないからな。
だから『誰かのため』に行動するときは、同時に『自分のため』にもなることを目指せ。
それならたとえどんな結果になっても、おぬし自身は得をするからな。受けるダメージも、確実に小さくなる。
いい意味での保険ということじゃ」
「……はい」
トウコ先生の言う通りだ。
二人はあの調子だし、今回に関しては、全力を尽くしたところで望む結果が得られるとは限らない。
であればやはり『二人のため』だけでなく『確実に自分のため』にもなるポイントを探さなくてはならない。
たとえば、わたしがこれまで苦手意識を持っていて、でももう一度やってみたいことを、二人を誘って一緒にやってみる。
これによって、わたしは苦手の克服を目指す。
二人は、一度勉強から離れることで、ちょっとリフレッシュできる。
……というのはどうだろうか。
ええ。
実はこれに関しては、題材として、ちょうどいいものがある。
それは……。
「……で? 何かいい策は思いついたか?」
「思いつきました」
「えっ!? 早いでござるなあ!」
「で、これは当然ながら、お二人の協力が絶対必要なものになります。
具体的には、ぜひこのお屋敷を会場とさせていただきたいというか」
「なんじゃ? ここで何をするつもりなんじゃ。言うてみい?」
「それはですね……」
それは、わたしが正座に苦手意識を持つ要因になったこと。
もしこれに成功していれば、わたしの人生は大きく違っていたかも……。
ということだった。
4
「座禅会?」
「そう! 三人で。トウコ先生とマフユさんのお宅で、座禅をしにいかない?」
かくしてわたしは二人を『座禅会』に誘うことにした。
幼い頃に思いっきり失敗し、一緒に参加したお友達と、その場にいたみなさんに迷惑をかけ、すっごく恥をかいてしまった『座禅会』に……。
「とても楽しそうだ。精神的鍛練にもなりそうだね。
でも、僕たちは今、勉強を最優先にしなくてはならないからなあ」
「その通りです。リコ。参加したいのはやまやまです。
だけど。申し訳ないけれど、今回は……」
だがしかし、ナツカワ君とアンズの反応は芳しくない。
でも、わたしはひるまない。
こうなることは、あらかじめわかっていたからである。
だからこそ、何百年も生きていて『部活動の神様』として色んな高校生の指導をしてきたトウコ先生と、その従者をやりながら、何回も何回も高校生活を過ごしてきたマフユさんのお二人に、協力を依頼したのである。
……つまり、策はある。
「まぁ、そう言わないで。
今回は来てくれると、こんな特典があるんだよ。
まずアンズには、マフユさんが今回のために特別にゲットしてきた、すごいものをあげます!」
「……すごいもの?」
ここで、アンズの眉がピクリと動いた。
これはちょっと意外である。
普段のアンズなら、こんな反応はしない。
どんなに興味があって、今すぐに飛びつきたくなる話でも、話を最後まで聞いてから判断する。それがアンズだからである。
確かにこの展開は、わたしには都合がいい。
でも、同時に悲しくもなる。
つまりアンズは、普段の自分を維持できないくらい、やっぱり精神的に追い詰められているのである。
「すごいもの。それは、アンズの志望校の過去問と、過去五年間の出題傾向を独自にまとめた問題集です!
過去問だけなら本屋さんに行けば手に入るかも知れないけど、独自の問題集はここでしか手に入らないよ。
アンズ。『星が丘学習塾』のタカハシ先生って知ってる?
その方が作られた問題集だよ。
タカハシ先生とマフユさんは個人的に親しくて、今回特別に借りることができたの」
「まぁ……! それは、すごいです。
タカハシ先生のことは存じ上げています。
人気がありすぎて、授業の予約が取れないほどの方ですよね。
その方が作られた問題集なら、私の成績も……!」
ああ、またアンズらしくもない言葉が聞こえてきて、わたしは胸が痛くなる。
いつものアンズなら、安易に誰かに頼ったり、まだ内容を確認してもいない問題集にすがったりはしない。
手持ちのもので最大限頑張るのが、アンズという人なのである。
だが、食いついてくれてはいるので、今は良しとしよう。
少なくとも、アンズは座禅会に来てくれそうだ。
ちなみにタカハシ先生とマフユさんの関係は『元同級生』である。
先ほど言っていた通り、マフユさんはトウコ先生のお手伝いをするために、これまで何度も女子高校生に変身しては、いろんな学校に通ってきた。
そのうちの一校で出会ったのが、タカハシ先生というわけである。
二人は当時、とても親しかった。マフユさんが、最終的に正体を打ち明けたほどに。
そして、当然今でもとても親しいので、今回これが実現したのだ。
さらにちなみに言うと、星が丘市には、過去トウコ先生とマフユさんのお世話になった方がたくさんいる。
お二人はそれくらい、星が丘市の学生たちを助けてきたのである。
「そしてナツカワ君には、トウコ先生特製・東大予想問題をプレゼントします。
トウコ先生はね。今は茶道部を指導して下さっているけど、過去には『絶対東大に合格する部』の特別講師を務めていたこともあるの。
そのときは、部員全員を東大に現役合格させたというすごい実績があるんだよ」
「す、すさまじい……。
ハッ。そういえば聞いたことがあるぞ。
星が丘市北区にある、月光学園高校の『絶対東大に合格する部』の伝説を。
あれは、嘘などではなかったのだな……」
ああ、ナツカワ君もやはりおかしい。
『絶対東大に合格する部』のことを口にした途端、急にテンションが上がっている。
特に目つきが危険だ。
マフユさんが先日言っていた『目はぼんやりとうつろで、そのくせ突然不気味に光り輝く瞬間もある』『正常とは言い難い雰囲気』というのは、まさしくこれだな……。という感じである。
だが、今はいい。
わたしはこんなナツカワ君とアンズの現状を変えるために、座禅会を開くのだから!
「で、どうかな? 二人ともこれ、欲しくない?
座禅会、来ない?」
「行きます。単に座禅をするだけでは……と思っていましたが、よい問題集もいただけるようなので……」
「僕もだ。ぜひ参加させていただきたい。ヤスミネ先生とヤスミネ君に『当日はよろしくお願いします』と伝えておいていただけるかい」
……あぁ、やっぱりおかしいよ二人とも!
ナツカワ君も、アンズも、一度言ったことを簡単に翻す人じゃなかった。
受験勉強って怖い! 普段あんなに落ち着いた人を、こんなに変えてしまうなんて!
でも、これで終わりにしてやる。
座禅を使って、わたしが二人を元に戻してみせる。
絶対! 絶対だからねー!
そう誓いながら、わたしは次の言葉を口にした。
「では、土曜日の十時に、星が丘公園入口で待ち合わせしようね」
5
こうしてわたしたちは、トウコ先生のご自宅で『座禅会』をする運びとなった。
それでもナツカワ君とアンズは、どちらかというと問題集のことが気になっているようだ。
座禅を始める直前になっても、ちょっとソワソワしている。
『早くこれを終わらせて、問題集を見てみたい』そんな雰囲気である。
でも、今はそれでいい。
座禅とは、心を落ち着けるためにやるものだ。
始めるときは、まだちょっと気が散っていたって構わない。
「ナツカワ、アンズ、今日はよく来てくれたのう。この家の責任者のトウコじゃ。
今日は楽しく過ごそう」
「同じく、この家に住んでいるマフユでござるー!
二人とも、ここへ来るのは初めてでござるな。来てくれて嬉しいでござる」
「いえいえ、こちらこそ。お二人とも、本日はお招きいただきありがとうございます。
茶道部の活動に参加させていただくのは、今回が初めてとなります。
リコの友人の、キリタニ アンズと申します。
本日はよろしくお願いいたします」
「ヤスミネ先生、ヤスミネ君。
いつもお世話になっております、同じくサカイ君の友人の、ナツカワです。
茶道部の活動に混ざるのは久しぶりですね。
今日はよろしくお願いします」
「いやいや、二人とも、今回は茶道部の活動ではないぞ。
わらわが個人的におぬしらを呼んだだけじゃ。
今日は、茶道は関係ない。それどころか、正座をする必要さえない」
「えっ?」
「え?」
二人は、やはり驚いている。
二人とも、わたしといえば、茶道か、正座だと思っている。
そこにトウコ先生とマフユさんも加われば、なおさらである。
だから、今日は茶道部の活動の一環で座禅をやり、自分達はそこに誘われたのだと勘違いしてしまったようだ。
少なくとも、二人は今日、完全に座禅中正座をする気で来ていたらしい。
「座禅に、決まった姿勢というものはないんでござるよ。自由な姿勢で始めてくれてよいのですよ」
「そうなのですか? 私達、てっきり正座でするものだと」
「……ああ、もちろん正座で始めてくれてもよいぞ。
だが、足が痺れてきたり、同じ姿勢を続けるのが不安になってきたりしたときは、すぐに崩してくれてかまわん。
これは茶道の時と同じじゃな」
「……どうする? キリタニ君。ああでも、サカイ君は当然正座をするよね」
ナツカワ君が、少し困ったようにわたしの方を見る。
だけどわたしは、申し訳ないけれどこう思う。
『来た。来たぞ!』と。
『正座をしなくていい』と言われ、二人はどうしたらいいかちょっとわからなくなっている。
であれば、わたしのセリフはこうだ!
「うーん。わたしは正座しない! あぐらで始めてみるよ。
だから二人も、自分が好きな姿勢で始めて欲しいな」
「ええっ!?」
二人の声が重なる。相当驚いているようだ。
そこに、マフユさんがたたみかける。
「当然椅子も用意してるでござるよ!
最近は『どこでもできる座禅』というのが流行っていて、椅子に座って座禅をする方も増えているでござる。
要は、姿勢よりも、精神の状態を優先するのが座禅なのでござるな。ささ、遠慮なく」
わたしは『正座先生』として、正座を普及する活動をしていく上で、いつも思うことがある。
それは『正座の良さを少しでも伝えていきたいけれど、正座を強要してはならない』ということだ。
たとえば今、わたしが正座で座禅を始めたとする。
すると、二人はわたしに気を遣って、なんとなくわたしに続いて正座をしてしまうだろう。
これは、結果的に『強制』に等しい。
だからわたしは、あえて最初は正座をやめてみた。
今日の参加条件は『楽な格好』なので、わたしたち三人はジャージでそろえてきた。
なのであぐらも、余裕でできる。
「では、せっかく用意していただいたことですし、椅子に座らせていただきます」
「そうだね。僕も椅子に座ってみようかな?」
そして、精神の余裕のなさは、本人から何となく、判断力と自主性を奪う……ような気がする。
アンズは、椅子を持ってきてくれたマフユさんを気遣うように椅子を選び、ナツカワ君もなんとなくそれに続いてしまった。
もちろん、椅子で座禅すること自体は、まったく問題のないことだ。
ただこの選択は、二人が自分の意思でしたものかというと……ちょっとあやしい。と、わたしは思う。
「それじゃあ始めようか。
最初に確認しておくが、座禅とは、精神統一のために行う、禅における基本的な修行法のことじゃ。
今日はみんなでそろって、決まった時間に行うが、一人で座禅する場合は、好きな時間にやってみると良い。
『この時間は縁起が悪い』などといったものはないぞ。
ただし、空腹時、満腹時の座禅は勧めない。
集中しづらいからな。
服装は、今日定めたように、楽なものが望ましい。
やはり、集中の妨げになるようなものは推奨できないということじゃな。
たとえば、締め付けるような服装、その場所の温度に合っていない服装はお勧めしない。
それから先ほども言った通り、姿勢は自由じゃよ。
おぬしたちにはおそらく『座禅は、正しい姿勢で行うもの』という認識があるじゃろうが……。
最近は椅子どころか、立ってする座禅というものも広まっておる。
今日のように、部屋の中で床に座ってする場合も、好きに座ってよいのじゃぞ。
推奨されている座り方もあるが、今日に関しては気にしなくて良いぞ。
……ただし、わらわは今回、座禅はせず、姿勢の先生となる。
つまり、適宜姿勢を変えて、お手本を見せることだけをするというわけじゃ。
『結跏趺坐』『半跏趺坐』といった、座禅においてポピュラーな姿勢を知りたいときは、わらわの姿勢をまねてみてくれ。
本格的に座禅を習慣にするなら、これらの座り方がお勧めじゃからな。
そして、最後になったが、座禅での具体的な精神統一方法を伝える。
それは、身体と、呼吸と、心を整えることじゃ。
それぞれ『調身』『調息』『調心』というぞ。
まず『調身』をする。
自分なりに適切だと思う姿勢になり、身体を落ち着けるんじゃ。繰り返しになるが、今回はこれを自由に決めてよい。全員初心者じゃからな。
次に『調息』をする。
個人的には、これをしっかりやると『座禅をやっている』という感じがするぞ。
まず、座禅をするときは鼻呼吸で、腹式呼吸じゃ。
とりあえず、口呼吸は避けような。
鼻で、ゆっくり、一定の間隔で呼吸をして、呼吸を整えていく。
すると、だんだん気分も落ち着いて行くというわけじゃ。
そして『調心』じゃ。
これはもうそのままじゃ。姿勢と、呼吸に手助けしてもらって、心を整えていく。
とはいっても、人間、雑念からは逃れられないものじゃ。
『調心』しながら、いろんなことを考えてしまうことじゃろう。
それは自然なこと。
雑念はそもそも、あるものだと思って接した方が気楽だぞ。
たとえば『雑念を消そう』と思うこともまた、雑念である……。といった、深みにハマっていくからな。
以上じゃ。じゃあ、やってみよう」
「はいっ」
かくして座禅は始まり、ピタリと静かになった部屋に、呼吸の音だけが聞こえるようになっていく。
そしてわたしは、さっそくトウコ先生の言葉が本当であったと実感する。
雑念は簡単には消えそうにない。
であれば、いっそ、しばらくは考えごとをしてやる気持ちで進めてみよう。
ナツカワ君とアンズの予想通り、わたしは最終的には正座で座禅をするつもりでいる。でもしばらくは様子を見る予定だ。
だからこの『しばらく』は考えごとタイムである。
わたしは目を閉じて、自分の心の中に集中することにする。
……そう。たとえば、この前わたしはこんなことを思った。
それは『あなたから○○を取ったら、何が残るんだ』という言葉が、どうしても好きになれないということである。
まず、この言葉は『あなた』に、あなたが得意なものや大切なものから離れたら、残るものは何もないのではないか? と、問いかけているものであるとする。
でもわたしは、たとえ『○○』が『あなた』から消えてしまったり、離れてしまったりしたって、残るものは絶対にたくさんあると考えている。
たとえば茶道を学ぶとき、身につくのは、お茶をたてる技術だけではない。茶道をやめたって、茶道で得た経験は必ず糧になる。
少なくとも自分に関してはそうだと思っているし、その根拠は他にもある。
わたしは子供の頃、お友達の『マジマ ユキ』さんと座禅教室に出かけた。
だが、先生の話をきちんと聞かず『座禅とは、絶対に正座してしなければならないものだ』と誤解してしまった。
結果、足が痺れてしまい、座禅を続けることに失敗した。
これによって、正座に苦手意識を抱くようになってしまったのである。
つまりわたしは、高校二年生の夏まで『正座』から逃げ続けていた。
でも、『茶道』を始めたいと思ったことで、わたしはもう一度『正座』に向き合った。
結果、今では『正座』はとても得意なことの一つになり、今は、この特技を利用して、さらに新しい世界を見ることはできないかと思っている。
わたしはその新しい世界を、今『座禅』に定めたいのである。
トウコ先生がおっしゃった通り、座禅には決まった姿勢はない。あぐらをかいてもいいし、正座をしてもいいし、椅子に座ってもいい。立ってする人だっている。
でも、本格的に座禅をするのであれば、先ほどおっしゃっていた『結跏趺坐』『半跏趺坐』を学ぶ必要も出てくる。
つまり座禅を続けるにあたり、わたしは今後、正座以外の姿勢で座禅をすることになっていくかもしれない。
でも、もし違う姿勢を選んでも、『正座』が『座禅』をもう一度やってみるきっかけをくれたことは変わらない。
得意なことは、自分に自信を与えてくれる。
その自信は、新たなチャレンジをするときのエネルギーになる。
つまり『正座』がわたしに、新しい可能性をくれたのだ。
わたしはそんな風に、もっといろんな世界を見てみたいのである。
……さて、そろそろよさそうか。そーっと、二人に気づかれないように正座になろう。
と、思って目を開けてみると、そこには意外な世界が広がっていた。
ナツカワ君も、アンズも、いつのまにか椅子から降りて、正座をしていたのだ。
もしかして、これは……。
あとで、ゆっくり話を聞いてみよう。
そう思いながら、わたしは正座になり、また目を閉じる。
そして今度こそ、呼吸だけに集中を始めた。
6
「自分なりに正しい姿勢をしようと思ったら、いつの間にか正座をしていたよ。
気づかないうちに、僕は相当正座に親しんでいたみたいだ」
座禅終了後、みんなでお菓子を食べていると、ナツカワ君がポツリとこういった。
「だから、途中から正座をしていたの?」
「そうだよ。……今日、来た当初は正直なところ問題集目当てだったからね。
慣れている正座をしてしばらく座禅をして、なんとなく時間を過ごそうと思っていた。
……でも、椅子に座りながらいろいろ考えているうち、こう思ったんだ。
『確かに椅子での座禅は新鮮な経験だ。やってみてよかったと思っている。でも、今、自分が本当にしたいのは、この姿勢ではないのではないか?』と。
そしたらもう、姿勢を正座に変えていた。
でも、座禅中は会話できないから、一人、サカイ君の言葉を思い出しながらね。一つずつ、改めて正座の姿勢について見直してみたんだ。
すると気づいた。
正座をするために姿勢を正すとき、ぼくは自然にお腹を引いている。このとき、ゆっくりと呼吸をするのが、自分にとっての精神統一につながっていると。
それから、肩も落とすだろう?
このとき、自然と脇が締まるのが気持ちがいいな、と。改めて思った。
そして、いつものサカイ君のおすすめである『両手を膝の上に、カタカナのハの字にして置く』だ。
どうやら僕も、これをなかなか気に入っているらしい。
正座を始めた頃、僕は特にこれを意識していた。
だから、ハの字にするだけで気持ちが引き締まって『自分は今、正座をしているぞ』という気持ち……つまり『良い姿勢でいるぞ』という気持ちになる。
すると、心はとても自然に落ち着いたんだ。それまでは周りが気になっていたけど、久しぶりに自分とゆっくり会話をして、やがてそれもなくなって……。『無の境地』みたいなものに入れた気がしたよ。
……なんだか、さっきから『自然』という言葉を使いすぎて、かえって不自然に思われてしまいそうだけれど。
本当にそう思ったんだ。僕の暮らしに、すっかり正座は馴染んでいた。
なのに最近は正座をする余裕もなくなっていて『正座は自分を整えるために必要なもの』という認識すらなくしかけていたと。
今日、連れてきてもらえてよかったよ。
問題集も素晴らしいが、もっといいものに出会えた。
憑きものが落ちた気分なんだ。
このところの自分は相当に疲れていたんだなって、ようやく自覚したよ。
サカイ君の先日の指摘は正しかった。
これからは、少々意識してでも休息をとるようにする。
……『成績が芳しくない』という意味で、精神的に余裕を持ちづらいという状況は改善されていないが……。
正座をすれば気持ちは落ち着くと、今日思い出せたからね」
「わたしも同意見です。
ナツカワ君の言葉を借りるのならば、なんだか最近の私は『同意見です』といった意味合いの言葉を使いすぎて『本当は違う意見なのでは?』と思われてしまいそうですけれど。
本当にそう思ったのです。
私はリコのほかのお友達に比べると、少し正座と距離がありました。
元々自主的に取っていた姿勢の一つではありましたが、ナツカワ君やマフユさんのように、茶道部の活動に参加したことはありませんでしたからね。
ただリコがとても大切にしているものなので、なんとなく『よいものである』という程度の認識でした。
本日、リコとナツカワ君はちょうど目を閉じていたときだったので、お気づきにならなかったと思いますが……。
トウコ先生は、正座の方法も改めて教えてくださりました。
ナツカワ君が今お話しされたこと以外のものですと、私は『前方に体重を落とす』というのが、正座を長く続けるうえで良いと思いました。
トウコ先生が、わざと大きな動きをつけて教えてくれたので、理解できました。
これによって体重がかかと側にかかりすぎることなく、長時間正座をしやすくなるのですね」
「なんじゃ、わかっていたのか。
『座禅中はおしゃべりできんから、教えるの難しいのう。伝わったじゃろうか……?』と、不安に思っとったのに。
さすがアンズは優秀じゃな。
その呑み込みの良さなら、今ちょっと成績が思わしくなかろうと、すぐに取り戻せるじゃろう。
これはナツカワにも言えることじゃな。その分析力を安定して発揮できれば、東大に入れる。
元『絶対東大に合格する部』の特別講師として保証しよう」
「ありがとうございます、トウコ先生。
……そういえば、私、最近寝不足だからか、朝もすっきり起きられなかったのですが……。
起きてすぐに正座をすると、身体の交感神経を高める効果があるそうですね。
これによって血流が促進され、下半身に圧がかかって、血流が悪くなる。
すると、身体が血を流そうと働き始めるので、目が覚めるのだとか。
さっそく明日から、やってみようかと思います」
「ふふふ! お二人とも、トウコ様とリコ殿が『正座をする必要はない』という姿勢を見せても、自ら正座をされた。
その結果、さらに正座の良い面に気づいてしまったのでござるな!」
「そういうことだね、ヤスミネ君。
君の言う通り、サカイ君があえて最初正座をしなかったことで、僕らはようやく、自主的に考えられるようになり始めたんだと思う。
まったく。サカイ君は最初から正座をしたかったろうに、僕たちに気を遣ってくれたんだろう?
自分が正座をしたら、全員正座をする雰囲気になってしまうって」
「あはは、バレちゃった。実はわたし、あぐらの姿勢も好きなんだけど、やっぱり楽だから。
自分の中ではあんまり『正しい姿勢』って認識にはなってないみたい。
途中から正座を始めたら急に気持ちがしゃんとして、自然と呼吸が整って……ナツカワ君の言った『無の境地』に行けた気がするよ」
「なんじゃ、本当に正座が大好きじゃな、おぬしらは!」
「あはは。そのようです」
こんな風にみんなで笑いながら、わたしは思う。
少なくとも今後しばらくは、全員がそろうことはない。
座禅をしたくても、そのときはみんな、バラバラだろうと。
でもきっとそのときは、きっとまた『正しい姿勢』として、わたしと、ナツカワ君と、アンズは、自然に正座をしていることだろう。
もしその後、もっと色々試してみたくなって、座禅で正座以外の姿勢を取るときも……。
正座から得た経験を糧に、わたしたちは新しいことを始めていくのだ。
そう思うと、たとえ正座から少し距離ができてしまうときも怖くない。
正座をしていないときも、わたしは『正座先生』なのだ。
それは、正座をきっかけにいろんなことを知って、正座をきっかけに、自分の未来を開こうとしているからだ。
そう思うと、受験勉強をもっと頑張れる気がしてきた。
よーし……。
「よーし! ナツカワ君もアンズも普段の感じに戻ってくれたし、この後は問題集をもらって勉強しちゃいますか!」
「いいですね。気持ちも落ち着いたことですし、久しぶりにリコの勉強を見て差し上げます」
「すばらしい。トウコ先生がお許しになられるなら、僕も勉強していきたいです。いかがでしょうか?」
「よいぞよいぞ! いっそ今日は全員泊まっていけ!」
「わー! みなさんとまだまだ一緒に過ごせそうで、拙者、嬉しいでござるー!」
秋の模擬試験がきっかけで始まった今日の座禅会は、勉強会に形を変えて、まだまだ続いて行きそうだ。
楽しい思い出がさらに増える予感がして、明るい気持ちになったわたしは、つい、こんなことまで言ってしまうのだった。
「勉強も正座も、もっともっとできる子になっちゃうぞー!」
と。