[57]あーちゃん、うんちゃん、正座でお礼


タイトル:あーちゃん、うんちゃん、正座でお礼
分類:電子書籍
発売日:2019/06/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
定価:200円+税

著者:海道 遠
イラスト:keiko.

内容
 高校生の花野子は毎朝、登校の前に東大寺の周りをランニングしている。毎朝、決まって眼にするふたりの青年。ひとりは丘の上から大声で叫んでいて、もうひとりは樹にもたれて静かに読書している。不思議な二人だった。
 ある日、花野子は背後から呼び止められるが、それは毎朝、丘の公園から大声を発している若者だった。果たして何者なのか? いったい花野子に何の用事があるのか? そんな様子を遠くから見守っているのは、東大寺に坐する大仏様である。さて?

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本文

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第 一章 謎のふたりの青年

 この春、生まれた子鹿の背中の白い斑点がたんぽぽの綿毛のようだ。そんな子鹿も何頭か混じった鹿の群れがのんびりと若い草をはんでいる。
 いつも高校へ向かう前にそんなところをランニングしている花野子。花野子が毎日巡る東大寺は、遥か彼方になだらかな山脈を背負ってどっしりと人間の街を見守っているかのようだ。
 ランニングコースの途中に、小高い丘の上に公園があり、いつも大学生くらいの青年が発声練習している。演劇部なのかな、アナウンス部なのかな、それとも応援部? と思いながら花野子は通りすぎる。
 丘を降りて、しばらく走るともうひとり同年代の男性がいる。難しい顔をしてくぬぎの木にもたれかかって本を読んでいる。
 どちらも背が高くて体格はいい。大声あげてる青年は武道家タイプ。読書青年も静かな感じだが逞しそうだ。どちらも怪しい感じはしないので、花野子が朝のランニングを始めてからずっと見かけてはいるが、コースを変えたことはない。
 たまたま夕方に丘の公園を通りかかった時も、ふたりとも、朝と同じ状態で、ひとりは大声で空に向かって叫び、ひとりは読書していたのでびっくりしたことはあるが。

第 二章 金塊、あずかっちゃった!

 ある日のこと、花野子が少しコースを変えて、小さな山寺へ登ってみると本堂の縁側にひとりの小太りのお坊さんが墨の衣を着て座っていた。半分目を閉じて瞑想しているようだった。
 木々の中の細い山道を降りると街は紫の暮色に包まれていた。
 辺りは誰ひとりいない。住宅には、ぽつぽつと灯りが点りかけている。
 ふと気づく。
 背後から足音が聞こえてくる。人の気配がする。街灯に映った影は男と分かったとたん、ぞっとした。不審者―――?
 大通りに出て助けを求めたくても歩いている人もいない。車もまばらだ。しばらく小走りに進んだが、まだ気配は背後にぴったりとついてくる。
(どうしよう、もうすぐ奈々ちゃんの家だわ。飛び込んで助けてもらおうかな?)
 頭の中に(どうしよう)だけが渦巻いて、冷や汗が垂れてきた。
「おい、そこの君」
 ついに声をかけられた。びくんとして足を止めた瞬間、肩を大きな手でガッシと捉まえられた。
「君ってば」
「な、なんですか」
 街灯に照らされた顔を見ると、いつも丘の公園で大声で叫んでいる大学生風の青年ではないか。
「あなたは、あの」
「君、毎日、東大寺の方へランニングしてるよね?」
(どうして、私のコースまで! この男、ストーカー?)
 よけい引きかけたが、
「頼みたいことがあるんだが」
 青年はちゃんとした清潔感あるポロシャツ姿で丁寧な口調だ。
「何でしょうか」
 花野子は必死で胸の鼓動を抑えながら問い返した。
「これを」
 青年は背中のリュックからハンカチに包んだものを取り出した。
「これは?」
 ハンカチを払いのけた青年の手のひらには、薄暗がりでも燦然と輝く金塊が乗っていた。花野子が驚いたのはいうまでもない。
「そう、延べ棒にはなってないが金塊だ。これを、〇〇町の〇〇さん宅へ届けてくれないか。先日、お父さんが交通事故で亡くなり、幼い息子さんを抱えて奥さんが困っておいでなんだ」
「どうして、こんな高価なものを私に預けて、そのご家庭に?」
 もっと事情や青年の名前を訊こうとしたが、
「じゃあ、頼みましたよ」
 青年は去ってしまった。受け取った金塊はやたらとズシリとする。

第 三章 謎、深まる金塊の男 

 翌日の夕方、部活が終わってから、花野子は青年に言われた家を訪ねてみた。
 すると、今、帰宅したばかりのような慌ただしい様子で四十歳くらいの女性が扉を開けた。不思議そうな顔をしている。
「どなた?」
「大和花野子と申します。若山高校の生徒です」
 花野子はハンカチを広げながら、金塊を差し出した。
 女性は花野子の話を聞いて、
「確かに主人はひと月前、車にはねられて亡くなりました。でも、そんな男性に心あたりは……」
 女性も首をかしげるばかりだ。
「こんな高価なものをいったい誰が」
「名前も言わず行ってしまったんです」
「でも、見ず知らずの方からいただくわけにはいきません。交番へ届けますわ」
「あ、お待ちください」
 花野子はケータイを取り出した。
「匿名で不思議なメールが届いてまして、『亡くなったご主人に大変お世話になりましたからその品はそのまま受け取って息子さんのことにでもお役たていただければ幸いです』と。多分、金塊を預けた男性からだと思います。どうして私のアドレスが判ったのかしら」
「主人が何かしたのでしょうか」
「さあ、そこまでは何も。でも、善意のもののように思えます」
 家の奥から男の子の声が飛んできた。
「母さん、ご飯、まだ? お腹ペコペコだよ、ボク」
 後日、宝飾店に鑑定に持って行った女性は、息子の大学までの教育資金にまで十分な額の金塊だと知り、気絶しかけたのだった。

 数日後、またもや夕暮れに現れた人影は、花野子の傍らを通り過ぎ、「ありがとう」だけ囁き、風のように去った。

第 四章 モテ期? 

 陸上部の部員たちが、ウォーミングアップしていた。
「ねえ、花野子、この頃、嬉しそうじゃない?」
「好きな人でもできたのかしら」
 奈々ちゃんが下半身のストレッチしながら軽く言う。
「さあねえ、毎日、東大寺の周り一周ランニングなんてマネ、私にはできないけど、ご利益でもあったのかしら」
 未来ちゃんが身体を動かしながらからかう。
「ところで、前から不思議だったんだけど、花野子っていつから入部してきたんだっけ?」
「さあ?」
「さあ、って奈々ちゃん、家、近くでしょ」
「近くかどうか行ったことないもん」
「え、同じ中学じゃなかったの?」
「違うわよ」
 花野子がいつから高校の陸上部に参加したのか、誰も答えられなかった。

 数日後の朝も花野子は走っていた。すると……。
 住宅街の一角で庭木の手入れをしていた庭師さんが、「お~~い」と声をかけて、高い樹からするすると降りてきた。
 振り返ると、若くてイケメンではないか。先日の金塊を頼まれた青年とはまた違うタイプだ。
(今月は私、モテ期なのかしら)
 花野子の頭にそんなことがよぎる。が、真顔を作って振り向いた。
「何かご用ですか?」
 立ち止まると、周りに庭師の藍色の半纏を着た男たちが大勢集まってきてふたりを取り巻いた。
「いきなり、すんません。あのう、うちの祖母ちゃんがですねえ~~」
「は? お祖母ちゃん?」
「夢に見たって言ってきかないんですよ。東大寺の南大門の金剛力士のうんちゃんが何百年も前から背中が痒いらしいんですが」
「金剛力士のうんちゃん?」
「ああ、うんって口を閉じてる吽像の方だよ」
「はあ? その吽像が背中が痒い?」
 花野子が口をあんぐりするのも無理はない。庭師の半纏を着た若者は自分の背中を見せて指差し、
「ここら辺。ちょうど真ん中で手が届かないから、うんちゃんが、あんたに掻いてほしいんだそうですヨ」
「どうして、うんちゃんが私をご指名? アラ、呼び方、移っちゃった」
「そうです。俺たちの方が高い所には慣れているから向いてると思うんですけど。祖母ちゃんが夢の中で東大寺を毎朝、ランニングしている女の子にお願いしてほしいって言ってるってきかないんですヨ」
「南大門に立ってる金剛力士さんが私のことを知ってるっていうこと?」
「で、昇るのは俺たちが足場を組むか、はしごで命綱つけて手伝いますんで、祖母ちゃんの願いを叶えてやってもらえませんか?」
 若者の輝いた瞳は大真面目である。
「学校が終わったら、今日、お迎えに行きますから、祖母ちゃんに会ってやって下さいヨ。あ、俺、いや僕は木神造園の樹市っていいます」
「は、はあ」
 半ば無理やり約束させられた。半纏を着た庭師二十人くらいにぐるりと囲まれては、断ることもできなかった。

第 五章 木神造園の社長  

 玄関の門が屋敷かと思うようなデカい家だ。
 時代劇の役所のような建物の木の看板には「木神造園」!
 仁王立ちになって待ち構えていたのは、枯れ木のように細いお婆さん、髪はロマンスグレイできっちりまとめてあるが、異様に力強い眼の輝きだ。
 彼女の背後には、今朝のような半纏を着た、頭にハチマキの男衆が五十人ほど控えているだろうか。しわぶき(咳)ひとつたてず、女主人の背後で見守っている。半纏の襟には「木神造園」の文字が染め抜かれている。
「花野子さんですね。ようこそおいで下さいました。私は造園の社長、松江です。マゴの樹市から話を聞いて下さったと思いますが、うんちゃんの夢のことを」
「は、はあ」
 花野子は顔がややひきつったまま、一歩踏み出す勇気が出ない。
 今朝、呼び止めた若者、樹市が門の中へ花野子をひっぱっていった。大きな虎のつい立てのある玄関から上がり、長い廊下をいくつもカクカクと曲がり、素晴らしい緑あふれた、池に橋まで架かった広大な庭を横に見て、奥座敷まで通された。
 三十畳くらいあるだろうか。畳の縁には金襴緞子? 襖絵も松の枝が素晴らしく描かれていて、欄間も松が彫られていて幅五メートルくらいの仏壇がきらめいてデーンと置かれている。
 ふかふかの座布団が出されたので、おそるおそる乗っかってみる。花野子の家はダイニングで食事、リビングではソファなので、正座はまったくしない。
 社長の松江さんを待っているうちに足がじんじんしてきた。
(正座なんて、とんでもないわよっ!)

 松江社長がやっと奥座敷にやってきた。
 後ろにやはり半纏にネクタイ姿の男が黒塗りの漆の盆に何かを捧げ持っている。
「改めまして、木神造園の松江でございます。代々、東大寺の庭の剪定をまかされております」
「そうなんですか。大和花野子と申します」
 頭を下げたとたん、痺れた足から力が抜け、前にすってんころりんしてしまって、まともに畳に顔面をぶつけた。
「おお、大丈夫ですか。足はくずして下さいませ」
「は、大丈夫です」
 と、言いながら真っ赤になってしまった。前にひっくり返った時、きっと短いスカートがめくれておじさんから丸見えだったに違いない。
 松江は自分から座布団を降り、畳に直に正座して美しく三つ指そろえた。
 さすがに昭和ひとけた生まれの方のお行儀はすごいわ、などと、花野子は感心するばかりだ。
「この度はようこそ、おいで下さいました。花野子さん。どうかどうか、うんちゃんが何百年も苦しい思いをしている背中の痒みを掻いてやって下さいませんでしょうか?」
「あんな大きな背中を、私が」
「ですから、お手伝いは極力、私どもがさせていただきます。どうぞ、どうぞ、うんちゃんの苦しみを取り除いてやって下さい。その暁には、ほれ」
 松江は背後の男に眼で合図を送った。男は黒塗りの盆を持ったまま、膝でにじりよった。
 木神家の紋が入った紫の風呂敷がめくられると、眩しい眩しい金糸銀糸をたっぷり使った花嫁衣裳の打掛が乗っていた。
「これをお納め下さいませ」
「こんな豪華なお品を? 背中を掻くだけで?」
「これもうんちゃんのたっての望みです。私の夢の中で、いつもお寺に走ってくる可憐な女の子に礼として受け取っていただきたい、と」
「え~~~!」
 触れるのも躊躇われるような見たこともない華やかな打掛だ。今度は足よりも手が震えてきた。
「私、結婚するかどうかもわからない、まだ高校生ですよ」
「しかし、うんちゃんが是非、そうしてくれと。べつに嫁入りしなくとも、お好きなように。私は言われたものを用意しただけで」
 松江はにっこり笑った。

第 六章 東大寺の金剛力士像

 東大寺の南大門……実は、花野子は苦手なのだ。
 ふたりの金剛力士像の形相の凄まじさ、筋骨隆々とした逞しすぎる身体。睨まれているだけで心臓が縮みあがる。大きな足も今にも歩き出してきて踏みつぶされそうだ。
 本堂の大仏様をお護りする役目だから仕方がないのだが。なんだか自分が節分の鬼を怖がっている子どものような感じもする。
 だから、ランニングの時も南大門は避けている。
 なのに、口をひんまがらせて食いしばっている吽像の金剛力士が何百年も背中が痒くて苦しい思いをしているだなんて意外だった。天下無敵だと思っていたのに、まるで人間の悩みではないか。
(あんな怖い顔していても、動けないんじゃ背中に手が廻せないよね……)
 金剛力士に初めて少しだけ同情した。
 早朝に東大寺に足を向けた。観光客は殆どいない。日中、観光客とお店の物売りと鹿の群れで賑やかな奈良公園はひっそりしていた。歩いて近づくのとランニングしてとでは見える景色が違う。
 石畳を進んで南大門までやってきた。力士たちを見上げる。いつも見る時よりも大きく感じる。
 阿吽の対になった守護神―――宇宙の始まりと終わりを意味しているともいうらしい。
 うんちゃんの方を見つめていると、どことなく花野子に「頼む」と言っているように思えた。宇宙が終わるまでに背中を掻いてくれと。
(怖いけど……)
 困ってる人? を放ってはおけない。決して花嫁衣裳に釣られたんじゃない。
 かくして、うんちゃんの背中掻きは、ひとりの女子高生によって実行されることになった。

第 七章 金剛力士像に登る 

 庭師の衆が、東大寺の南大門、金剛力士像にはしごやロープをかけているという噂はすぐに古都中に広がった。
 たくさんの見物人が押し寄せてきた。いつもの何倍もの観光客や地元住民まで。東大寺本堂でさえ人が少なくなってしまった。
 松江社長が腕組みして見上げる中、
「お~~い、お嬢さん、このはしごをどうぞ!」
 樹市がはりきって叫んだ。花野子は部活用のトレパン姿でやってきたが、あまりの見物人の多さに真っ赤になってしまった。
(えらいこと引き受けちゃったなあ)
 力士の足の甲へ登るのも足が震える。
「ほら、俺がはしごを支えてやっから、まず力士の膝小僧まで頑張れ」
 先にはしごを登っている樹市が手を差し伸べた。その手に必死ですがり、下を見ないようにはしごを一段、一段、登っていく。
「きゃ―――! 花野子、何、やってんの!」
「落ちないで―――!」
 部活仲間の奈々ちゃんたちまでやってきている。
「やるっきゃない!」
 花野子は肚をくくってはしごから上からのロープに移動した。ロープに足を使ってつかまり、登っていく。この一週間、樹市に特訓を受けた成果が出ているようだ。やっと力士の腰布まで登ることができた。腰布は比較的、でこぼこしているので足場を作りやすい。
「やった―――!」
 見物人から大きな歓声が沸き上がった。

第 八章 ゴジラの遠吠え 

 先に力士の肩から下ろされたロープを登って、樹市が背中の真ん中辺りに宙ぶらりんになっている。
「祖母ちゃん、この辺か――?」
「もう少し右、いや、左だ!」
「ここか? よーし、お嬢さん、ここまで頑張って。もうすぐだ」
(気軽にここまでとか言わないでよっ、どんだけ高いと思ってんの? 背中はツルツルでロープしか頼りにならないしっ!)
 文句がこみあげてくる。が、花野子はロープを握りしめ、ただ登っていく。どこまで登ったんだろう、風がひどい。つい下を見てしまうとアリンコのような人だかりにふらふらになりそうだ。
「そこじゃ! 花野子さん!」
 松江社長の声がメガホンで大きく響いた。
 肩に乗っていた庭師の老人が熊手を落としてくれて、花野子は右手を伸ばし、はっしと受け取る。花野子の身長くらいある大きな熊手だ。
 そして、左手でロープを握り右手で熊手を持ち、力士の背中を掻き掻きし始めた。
「この辺かな……、こんなんでいいのかな」
 力士の吽とつぐんだ口を見守っていた松江社長が唸った。
「お……お……」
 庭師の衆も見物人もどよめいた。
 力士の口がだんだん開いていくのだ。そして、ぎょろぎょろした目玉が、ぎゅっと閉じられた。
「うおおおおおおおぉぉぉぉっっ! そこ、そこ~~~~!」
 まるでゴジラの遠吠えのような声が、東大寺全体に響き渡った。

第 九章 不思議な空間で

 暗いけどほんのりと夜明けのバラ色が満ちているような中で、花野子はうっすら眼を開け、だだ広いところに横になっていることに気づいた。
 ゆっくり起き上がる。
(ここは……?)
 薄暗くて冷たい床の上、辺りは何も見えない。
『あっ!』
 花野子の眼が見開いた。
『思い出した! 力士様の背中を掻こうとして登って……そうだ、ロープを握りしめて……』
 気づくと手には、大きな熊手を持ったままだ。
 その時、やにわに上の方から荘厳な声が降ってきた。
『娘御よ、ようやってくれたのう』
『だ、誰?』
『金剛力士の吽像である』
『ええっ?』
『よくぞ何百年も歯がゆかった痒みを取り除いてくれた。礼を申すぞ』
『ほんとに金剛力士様……』
 金剛力士の声には誠実な心がこもっていた。花野子は大きく息をした。
『私、力士様の役にたったんだわ』
『時に、娘御』
 力士の声がいっそう改まった声色になった。
『背中を掻いてもらうついでにそなたに頼み事があってな』
『え、まだあるの?』
『そう迷惑そうな顔をするでない。礼は先に渡してあるじゃろう。花嫁衣裳の打掛を』
『では、あれは力士様が』
『うむ。庭師を通して預けておいたのじゃ』
『あんなに豪華な刺繍の打掛を?』
『わしら阿吽像じゃが、大仏殿ができてから大仏様をお守りするために何百年――千年近くも門に立ち続けてきた。が……そろそろ疲れてきた。しばらくでよいから座りたいのじゃ』
 情けなさそうな声になった。が、別の方からもうひとつの声が響いた。
『休むためだけではないぞ。一度、大仏様に隷属の証として守護させていただいているお礼を申し上げたいのじゃ。正座して、頭を下げたいのじゃ』
『あなたは?』
『吽像の横に立つ阿像じゃ。娘御。先だって、そなたにてて御(父親)を亡くしたオノコのところへ金塊を持っていってもらった』
『え、じゃあ、あの人は……阿形の力士様だったの? あなたがいつも丘の公園で大声出してる人?』
『うむ』
 花野子はポカンと口を開けた。ナゾの空間から目覚めた。
『えっと』
 力士たちの願い事を思い出し、制服姿で東大寺へ向かった。
 五月の晴れの朝だ。新緑が眩しい。
 南大門を、大きな敷居を飛び越えて通過する。金剛力士の二体は黙ったままだ。この前の騒ぎが嘘のようだ。しかし、ぎょろりとした眼は花野子を見守っているらしいのが感じられた。
 大きな大きな屋根―――、東大寺を前にして朱塗りの廊下が張り巡らされている。その隅っこに、老いた小太りなお坊さんがいることに気づいた。いつぞ山寺で見かけた、瞑想していた方だ。
 お坊さんは花野子の方へ歩いてくると、サンタクロースのような真っ赤なほっぺでにっこりした。なんでここでサンタ? と思ったが、花野子にはそう見えたのだ。
「何かご用かな、娘さん」
「大仏様にお願いに行くんです。力士様たちを一度、座らせてあげて下さい、と」
「ほほう」
 お坊様は眼を細めて好々爺そのものの微笑みを浮かべている。
 と思うと五月の陽光が満ちていた景色は急に、またもや薄暗い闇の世界になった。
「ここは、あの空間。夢の中かな」
 キョロキョロする花野子の前にはお坊様が立ったままだ。
「娘御、力士どもの遣い、ご苦労であったのう」
 気高い声に変わったと思うと、お坊様の姿はみるみる巨大化し―――、大仏様が半眼でそこにいらした。花野子は、ただただアングリ絶句して見上げるだけだ。
 大仏様の前に、なんてちっぽけな自分―――。

第 十章 あーちゃんとうんちゃん

「我らの願いをお聞き届けいただきまして、恐悦至極にございます」
「―――至極にございます」
 聞き覚えのある背後からの雄々しい声ふたつに花野子が振り返ると、人間の大きさになって金剛力士、阿吽像が、ふたりそろって片膝をついて頭を垂れていた。
「あなたたち!」
「花野子どの、お礼を申し上げる」
「申し上げる」
 阿吽像は、ギョロ眼のまま、花野子を見上げてにやりと笑った。
「これで千年近い足の疲れが吹っ飛んだ」
「座ることができたのね!」
「うむ。力士様というのは、堅苦しい。わしのことは、あーちゃんと」
「わしのことは、うんちゃんと呼んでくれ」
「あーちゃんとうんちゃん」
 花野子も微笑み、
 「あのう、あーちゃんはどうして、お父さんを亡くした男の子に金塊を差し上げたの?」
「あの子のてて御(父親)がわしの足に書かれた心ない落書きを洗って消してくれたのじゃ。勤めに遅れるのも構わずにな。そしてその後、急いでいた、てて御は災いに遭ったというわけじゃ。わしは申し訳なくてのう」
「そうだったのね」
 突如、あーちゃんとうんちゃんは恭しく座りなおした。片膝立てをやめ、正座し、金剛杵という仏様の敵を追い払うぶっとい武器を前に置いた。黙って一部始終を聞いていた大仏様に向かって。

第十一章 大仏様にお礼

「長きにわたり―――」
「長きにわたり―――」
「我らにご警護の任を賜り―――」
「賜り―――」
「深くお礼申し上げまする」
「お礼申し上げまする」
 あの荒々しい金剛力士が清々しく正座して、穏やかな表情で深く頭を下げるさまは、なんと美しいことか。身体の朱色はどんなに剥げていようと。
 長きにわたり任務を遂行してきた誇りが満ちている。
 大仏様は半眼で微笑みかけ、
「うむ、うむ。真に長き勤め、ご苦労じゃ。褒めてとらすぞ。これからも励むように」
「これは、勿体なきお言葉―――」
「お言葉―――」
 いかつい手をそろえて地面につく。その上に熱いものがボタボタと落ちた。
「あーちゃんとうんちゃん、泣いているのだわ」
 花野子の胸も熱くなった。
「時に、そなたたち、変わった座し方をしておるな」
 大仏様の半眼が少し開いた。
「これは、正座と申すそうで、我らの作られた時代よりはるかに下った、ここ大和の国の人間たちが習慣にした座し方でございます」
「立派な形じゃのう、清々しいぞ」
「心が正される思いになりまする」
「なりまする」
 あーちゃんとうんちゃんが答えると、大仏様まで真似をして胡坐を解き、座りなおそうとした。

 瞬間、花野子は五月晴れの朝の南大門の金剛力士像たちの前に立っていた。
「どうしたの? 大仏様も正座したの?」
 力士たちは金網に囲まれて、もう何も言わない。動かない。

第十二章 乙女たち

 部活の仲間たちが、ウォーミングアップしていた。
「ねえ、花野子、最近、来ないわね」
「うん。金剛力士の背中に登ってから見ないわね」
「どうしたのかな」
「あの子って、本当にいつから私たちの学校に来たのかしら」
 汗をかいて頑張ってる彼女らの傍らを鹿の群れが駆けていく。
 彼女らのひとりが「あっ」と叫んだ。
「花野子―――鹿の子???」
 大人の鹿に混じった子鹿(鹿の子)は背中の白い斑点を散りばめて、ぴょんぴょん跳ねて、東大寺の方へ駆けて行った―――。

 何年かして、木神造園の跡取り息子、樹市がそれは豪華な打掛をまとった可愛い花嫁をもらったとかの噂が流れたが、真実かどうかは定かではない。


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