[383]穢れた黒鉄(くろがね)と清らかな翡翠


タイトル:穢れた黒鉄(くろがね)と清らかな翡翠
掲載日:2025/10/15

シリーズ名:スガルシリーズ
シリーズ番号:3

著者:海道 遠

あらすじ:
 季節神のうりずんが、祠の前で正座して挨拶をし、翡翠石に自分の名前を刻んでいると、突然、矢が弾かれて翡翠石は真っ二つになっていた。桃の矢を使っていたはずが、いつの間にか黒鉄の矢になっており、翡翠の内側は黒鉄になっているではないか。
 悪い予感を感じたうりずんは、あかり月光菩薩の夫、スガルに八坂神社へ行きスサノオの尊の動向を探ってほしいと頼む。



本文

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第一章 再会

 美甘(みかん)ちゃんが、よっこらしょ! と背中に背負っていたゆいまるを下ろした。
「いらっしゃい! 美甘ちゃん、お久しぶりね! ゆいまるくん、大きくなって!」
 待ちきれない様子でマグシ姫が、八坂神社の奥の間から出てきた。
「こんにちは、マグシ姫さま。この子ったら、日々どんどん動き回って……手に負えないのよ」
「だあ!」
 ゆいまるは早くも部屋じゅうを這いまわっていたが、笑顔でマグシ姫の胸に飛び込む。
「ああ、急に抱っこはダメよ、マグシ姫さまは、今、大切なお身体なんだから!」
「抱っこ、抱っこ~~」
 構わず抱っこするマグシ姫へ、美甘ちゃんは、
「いかがですか? 悪阻(つわり)のお加減は」
 美甘ちゃんはイタズラっ子の母になり、マグシ姫もようやくスサノオの尊のお子を授かったのだった。
「ありがとう。この頃少し食べられるようになったわ。前は全然、喉を通らなかったけど……」
「良かった。以前はお痩せになっていたから心配しましたよ」
「美甘ちゃんは悪阻の時、わりと楽そうだったものね」
「そうでもなかったですよ。どうして女だけこんなに苦しい思いをしなくちゃならないのかしら? って、ずいぶん悩みましたもの」
 美甘はため息をついた。
「そうねぇ。―――愛する方の息子を産む―――。次世代の命を産む―――。思うより大変だわ」
 マグシ姫も大きくため息をつく。
「マグシ姫さまは、とりわけスサノオの尊さまの皇子さまをお宿しなのですから、くれぐれもお気をつけくださいませね」
「神の子も人間の子も尊さは同じよ」

第二章 ゆいまるの腹痛

「ん? どうしたの、ゆいまる」
「たい、たいたいたい、ぽんぽんたいたい……」
「え? お腹が痛いの?」
 ゆいまるはお腹が痛いと言い出し、母の美甘ちゃんとマグシ姫は慌てる。
「ぽんぽん、この辺?」
「ちゃうちゃう!」
 美甘ちゃんがお腹を触ってみても、ゆいまるは首を振って泣くばかりだ。
「いつも通り、午前中のご飯、食べただけよね」
(平安時代は一日二回の食事だった)

 スサノオの尊がやってきた。
「誰か、薬師を」
 八坂神社お抱えの薬師は薬草を与えて帰ったが、夜になっても下痢が治らず、ゆいまるは苦しむ。

 その頃、山の中の小さな古い神社で、うりずんは正しい正座の所作で――、背筋を伸ばして立ち、膝を着き、衣のすそをお尻の下に敷き、かかとの上に静かに座り心静かに両手を膝に置き、頭を下げる所作を済ませてから翡翠に自分とゆいまるの名前を彫っていたところ――、
 翡翠の石に矢がヒビが入り、石は真っ二つに割れた!
「これはどうしたことだ? うまく彫れていたのに、もう少しのところだったのにぃ~~!」
 握っていた矢を見ると、鉄製のものに変わっている。 
「習わし通りに桃の木の矢で彫っていたのに、いつの間にか黒鉄の矢に変わっている! 何故だ!」
 ひんやりとしたものに心臓を突かれる感じがした。
 その時、翠鬼が森の枝をつかんでひょいひょいと渡ってきた。
「うりずんさん! 京の都の八坂神社へ遊びに行ったゆいまるくんが!」
「どうした?」
「お腹が痛くなったそうです。……おや、翡翠石に黒鉄の矢で刻まれてたのですか」
「最初は桃の矢だったけど、いつの間にか黒鉄に変わってたんだよ」
「桃の矢で翡翠に文字を刻もうなんて無茶ですぜ! 翡翠の硬さと言ったら、鉱物の中で一番硬いんですから。黒鉄でも無理無理!」
 翠鬼は顔の前で手のひらをパタパタした。
「桃の矢は何せ神秘の力を持つから、通常の力の順番を上回ると思ったんだが」
 うりずんはもう一度、翡翠の亀裂を見つめた。中に黒鉄が見える。隙間から黒いオロチの舌がちろちろと出たり入ったりしているではないか。
(まさかオロチ? 『兇つ奴(まがつど)党』! ――?)
 うりずんは心臓を黒いヘビに巻きつかれたような感触がして、息が止まりそうになった。
「あっ、それより、ゆいまるくんが!」
 翠鬼の声に、うりずんは我に返った。
「……何か悪い予感がする。京の都まで行ってくる」

 薬師が処方した腹痛用の薬草の量が間違いだったと分かり、うりずんは激怒する。
「なにぃっ! 薬師が薬草の量を間違えた? それで、ゆいまるはまだ苦しんでいるのか!」
 スサノオの尊も騒ぎを聞きつけて、奥の座敷からやってきた。
「何の騒ぎだね?」
「何の騒ぎだ、ですって~~! 尊さま! のんきすぎます! 子どもが薬師に薬草の量を間違えられて苦しんでいるんですよ! お宅も赤さんが生まれたら、あの薬師に診てもらうんですかっ! ありゃあヤブですよ!」
「そよぎ!」
 美甘ちゃんが興奮する夫を、怖い目で睨んだ。
「スサノオの尊さまになんて口のききよう? ちゃんとご挨拶してちょうだい」
「美甘奥ちゃん! 今日ばかりは奥ちゃんの言うこと聞けないよ! ゆいまるがお腹を壊したんだから」
「マグシ姫さまも心配してくださってるのよ。ご心労はかけられないわ。今、お腹の赤さまに何かあったらどうするつもりなの?」
 うりずんは思わず口をつぐんだ。
 美甘ちゃんが頭を下げて、
「スサノオの尊さま、マグシ姫さま、とんだ失礼をいたしました。ゆいまるはそのうち落ち着くでしょうから安心しておやすみになってください」
「本当に大丈夫かしら」
 スサノオがマグシ姫の袖を引っぱってうながし、ふたりは奥の寝所へ消えた。

第三章 名前彫り仲間

 翌日、ゆいまるの腹痛は快方に向かったので、うりずんが馬に乗り、美甘ちゃんとゆいまるを乗せた牛車を先導して、奈良の自宅へ帰ってきた。
 うりずんは鞍の上で、ずっと考え事をしていた。
 反対側から牛車が来て、窓から鹿の樹将軍が顔を出した。
「お~~や、一家おそろいでお出かけだったのか~~~い?」
 いつものでかい声で叫ぶ。
「ええ。京の八坂神社まで」
「美甘姫さんとスサノオの尊さまは、お元気だったかい?」
「はい」
「そう言えば、うりずん、最近、見なかったな」
「ええ。翡翠の刻み石に名前を刻んでいたのです。本名の『そよぎ』が判った時点で彫るべきだったんだが」
「翡翠の名前刻み石? 聞いたことがあるが、スガルもまだ刻んでいないはずだ」
 鹿の樹将軍はアゴヒゲを撫でながら、ぶつぶつと、
「スガルは休暇で任地から帰っているから、声をかけてやってくれ!」
「諾(だく=OK)です!」

「翡翠に名を刻む?」
 スガルは不思議そうに聞き返した。
「私も刻んだ方がいいでしょうか?」
「幼名でよいだろうから、刻んだ方がいい。『名づけていただきました』という神への報告だからな。――それと、ちょっと尋ねたいことがあってな」
「何でしょう」
「それは作業しながら聞いてもらおう」
 翡翠石に名前を刻む森の中の作業場には、邪鬼の二人組、天燈鬼と竜燈鬼も来ていた。スガルも子どもの頃からすっかり打ち解けている。
 うりずんは、新しい翡翠石を前にして昨日の黒鉄の矢を取り出した。手の切れそうな鋭い矢じりが冷たい光を放っている。
 スガルもため息をついた。
「恐ろしいほど黒光りした斬れそうな矢じりですね……」

第四章「兇つ奴党」の疑い

「スガル、お前、スサノオの尊さまの元にしばらく置いてもらっていたことがあったな」
 うりずんが尋ねた。
「はい。八坂神社のお手伝いのため、数年前にしばらく」
「スサノオの尊さまとは懇意(こんい)になったか?」
「はい。主にスサノオの尊さまの小間使いをさせていただいておりましたから。私のような若輩者にも丁寧に接してくださいました」
 スガルは胸をはって答えた。
「その間……何か腑に落ちないことはなかったか?」
「……は?」
 スガルは不思議そうな顔をした。
「腑に落ちないどころか、私にはもったいない勉学をいろいろ教えていただきました。――どうかなさいましたか?」
「八坂神社に滞在中に、こういう鉄製の物を見なかったか?」
「鉄製の物……」
「武器の種類では?」
「少しはありました。自衛の備えですが、このような矢じりや刀剣がいくつか地下の倉庫にあったと思います。野盗が増えてきて物騒になったそうですから」
「そうか……」
「ただ、私は実物を見たわけではありませんが。木箱に入れられて、地下の水路を通って日本海から地下の倉庫に運ばれてくることは、うすうす知っておりました」
「スサノオさまはその管理を?」
「はい。宮司さまとご相談の上だと思いますが」
 うりずんは小刻みにうなずいた。
「おい、兄貴、いつぞや聞いたような話じゃねえか?」
 竜燈鬼が天燈鬼の肩をつついた。
「ん? もしかして『兇つ奴党』の盗品の運搬の話かい?」
「そうそう。あの時も『兇つ奴党』が八坂の地下水路を使っていただろう」
「そういえばそうだな。また、あいつたちが動き出したとでも言いたいのか?」
 うりずんは二匹の邪鬼どもに目を向けた。
 かつて『兇つ奴党』は、さんざん正座教室の万古老やうりずんのやることを阻害していた。しかも、スサノオの尊が千数百年前に倒したヤマタノオロチそのものと考えてよい一味である。
 うりずんはスガルを連れて、翡翠石のある場所に戻った。今度はしっかり桃の矢であることを確かめて、おのおのの名前を「龍文字」で彫りはじめた。

第五章 尊への疑惑

 刻み文字をはじめて間もなく、うりずんの矢が「キィ~~~ン!」という音で翡翠とぶつかった。手元を見ると、またもや矢が黒鉄に変わっていて、亀裂の隙間から翡翠石の中に黒い鉄のカタマリが見えた。
 スガルの手元でも、また同じく桃の矢が黒鉄の矢に変わり、翡翠石の中に黒鉄がある。
「これはいったい……、どういうわけでしょう?」
「どうも、この前から名前刻みがうまくいかないな。日を改めよう」
 うりずんは矢を地面に投げ出し、立ち上がった。
「スガル。あかり月光菩薩が任地から帰還されたら、ふたりで彫るといい」
「は、はあ」
 スガルは、はにかんでうなずいた。
「あかり菩薩は、ただいま翡翠の産地、越(こし)の国の糸魚川(いといがわ)へ見回りをしております」
「ほう。それは偶然だな。祠に納める石も糸魚川産のものだ」
「そうでしたか」
 うりずんは、スガルの肩に手を置き、
「続けて少し用事を願ってもよいかな」
「はい。何でしょう」
「実はな……」
 うりずんは少し声を落としてスガルの耳元に寄り、
「スサノオの尊の行動を探ってきてほしいのだ」
「な――なんですって!」
「黒鉄の矢じりの入手の流れを、スサノオさまが何かご存知かもしれない」
「黒鉄の産地からの流通経路はだいたい把握しております。しかし、独占しているのは出雲族で、黒鉄のことに大和国のスサノオさまが関わっておられるとは思われませんが。何か?」
 スガルは考えながら言った。
「さっきの翡翠石の中身を見ただろう。黒鉄が隠されていた。翡翠と見せておいて、誰かが黒鉄を運んでいた恐れがある」
 スガルはしばらく顎に手をあてて考えていたが、
「分かりました。スサノオさまの元へ赴き、しばらく探ってまいります。尊の疑惑を晴らすために――」
 スガルはうりずんと別れると、すぐに自宅へ帰って旅支度をした。それから紙を取り出して筆を持った。
「翠鬼!」
 翠鬼を呼んだ。
「これをあかり菩薩さまに」
 翠鬼はキビキビと文を受け取り、真剣な表情でふところにしまうと姿を消した。

第六章 みかんの土産

 あかり菩薩は信頼できる部下数十人を連れて、越の国の糸魚川の翡翠の産地に滞在していた。
 翡翠が外国から大和(日本)国に密入された疑いがあり、翡翠の値打ちが下がってきて調査に来ていたのだ。
 糸魚川で翡翠を取り仕切る男神は、翡翠の輝公子(きこうし)と呼ばれている年若い男神で、誠実で性格もよく、翡翠師と呼ばれる原石掘りの男衆からも信仰を得て慕われている。
 あかり菩薩に対しても、慇懃(いんぎん)な態度で接していた。
「月光菩薩さまがわざわざ、お出ましとは、ご苦労さまでございます」
 翡翠の輝公子はスガルと同年代なので、あかり菩薩はややドギマギしてしまい、夫を恋しく思い出した。
「いえ、これも月光菩薩の任務ですから。歴史の長い翡翠に何かが起これば大事です。しっかりお守りせねば」
「さすがは月光菩薩さまです」
 翡翠の輝公子は、尊敬の眼差しを返してきた。

 そんな中、夫のスガルからの文を翠鬼が届けに来た。あかり菩薩は目を通して、
「黒鉄が大和国に大量に流れこんでいるそうです。何か影響はありますか」
「今のところ、こちらには影響はありませんが、上古(古代)から翡翠と黒鉄は不思議な結びつきがあります」
「と、申されますと?」
「天帝さまにお送りする黒鉄は、人目をごまかすため翡翠にくるんで運ばれたとか。戦支度の時など、大量の黒鉄が移動する時の目くらましにするために」
「まあ」
(今回の件とよく似たやり方だ……)
 月光菩薩は思った。
「そして逆に、翡翠が宝石として神々に運ばれる時は、鉄製の箱に入れ、大切に運ばれたのです。――ですから、黒鉄と翡翠は切っても切れない関係なのですよ。黒鉄の女神と呼ばれるタタラ御前とも信頼厚く結ばれています」
 翡翠の輝公子はしみじみと語った。千年以上ものやり取りで築きあげた双方の信頼を、あかり菩薩は感じた。

 菩薩軍が翡翠の里を後にする日、輝公子は部下と共に見送りにやってきた。
「スガルは何か判り次第、続けて連絡すると言っている。しばらく待とうと思います」
 あかり菩薩に言われ、輝公子は頭を下げた。
「さて、黒鉄のタタラ御前の元へ行かなければならない。わらわは神仙女学校の同級生で昔から顔見知りなのだが。翠鬼、ついてきてくれるか?」
「いいですよ。スガルくんの奥方さまを護るためなら、どこでもまいります」
 翠鬼はひとつ返事で引き受けた。
「タタラ御前に会いに行かれるのでしたら、これを」
 翡翠の輝公子が進み出てきて、あかり菩薩に小さなものを手渡した。
「おお……これは」
 大きな透きとおる緑の石を施した指環だった。
「最近、産出した【琅玕】(ろうかん)という最高級の翡翠を指環に加工した物です。あの方には最高のものが似合う」
 秘境に眠る湖のような色だ。輝公子もおそらく、タタラ御前の指にはめられた光景を夢見ているようだった。
「輝公子さま……確かにお渡しいたします」
 あかり菩薩はしっかり預かった。

「黒鉄の女神タタラ御前というお方は?」
 翠鬼が尋ねた。
「鉄鉱石の産地、出雲地方を取り仕切る女神で大和の国の黒鉄のことならすべてご存知の方だ」
 あかり菩薩はふと顔を上げて、
「そうだ。確か、うりずんさんの奥方、美甘姫のご実家は紀伊の国でみかん畑をお持ちだったな。ちょうどよい。タタラ御前はみかんに目がないのだ。寄り道して土産に持って行こう」
 あかり菩薩は片目をつむった。
「おや、珍しくウキウキしてらっしゃいますね」
 翠鬼は感じていた。

第七章 みかんの里

 海岸線の道をつたい、紀伊の国、美甘姫の実家に到着した。山の斜面はみかん畑に覆われている。
 美甘ちゃんの祖父上は、大喜びであかり菩薩一行を迎えた。
「これはこれは、出雲まで回り道になりますのに、わざわざ紀伊までお寄りくださり、この家はじまって以来の栄誉になります! どうぞ、ごゆるりとなさってください」
 美甘ちゃんの祖父上は、立派な白髪のアゴヒゲをたくわえた好々爺(こうこうや)だ。月をかたどった餅や、飾りにみかん色の玉石を嵌めた剣などをお迎えの品として納め、あかり菩薩はかしこまってお礼を言った。
「何もありませんが、みかんだけはどっさりあります! まだ青い早生(わせ)ですが、お好きなだけ召し上がってください!」
 祖父上はにこにこしている。
「実は、これから訪ねる出雲地方の鉄の女神と呼ばれるお方はみかんが大好物なのです。少々、お土産にしたいのですが」
 あかり菩薩は遠慮げに言った。
「おお! そりゃあ、持ってこいですな。どうぞどうぞ、あちらのご一族にも行き渡るくらい、お好きなだけお持ちください」
「ありがとうございます!」
 宴が終わってからは、祖父上とあかり菩薩は新鮮なみかんを食べながら積もる話をした。
 あかり菩薩は中座して、翠鬼を簀の子に呼び出して少し話し、先に旅立たせた。
「――で、うちのお転婆な美甘は、ちゃんとやっておりますかのう? うりずんさんの奥方として、ゆいまるの母親として」
「はい、それはもう。季節神の奥方さまですから、琉球への移動もあり大変でしょうが、可愛い奥方として母として頑張っておられます」
「ゆいまるは大きくなっておるじゃろうのう……。初着祝いに京の都へ一度、上った時に顔を見ただけじゃが」
「もう、少し歩かれるのですよ。正座教室にも通っておられるとお聞きしました」
「ほほう、正座をのう」
 祖父上はひ孫の近況を聞き、目を細める。
 あかり菩薩はゆいまるの幼い姿と合わせて思い出し、胸が熱くなった。
(孫やひ孫を持ったお祖父どのはこんなに熱く思いを馳せられるのだわ。もし、私が母になる日が来たら……)
 夫のスガルを思い出したあかり菩薩は頬が熱くなるのを感じた。それから、何故かスガルの親代わりの兄、鹿の樹将軍を思い出した。
(とっ、とんでもないわ、最初は将軍から目をつけられたというのに! 私の最愛の人はスガルただひとりよ。私が育てたんですから――!)

第八章 八坂神社にて

 スガルは八坂神社でスサノオの尊の動向を探っていた。『兇つ奴党』に操られる恐れがあるからだ。
『兇つ奴党』はヤマタノオロチと深いつながりがある。オロチが地上にのたうっていた姿は、まさしく黒い川に見えたという。人を食らう悪魔と言われ、這いずった痕(あと)には黒い流れができ、瘴気(しょうき)を放ち、人間が呼吸できなくなるらしい。
 スガルの背筋に悪寒が走る。
 今、大和国に運ばれてきている多くの黒鉄は、ヤマタノオロチを連想させた。
 『兇つ奴党』がスサノオさまを洗脳して大和国をむしばむために画策しているように思えてならない。
 それほど、最近のスサノオさまからは、覇気が感じられない。
 スガルが話しかけても、上の空で返事しているような感じだ。だが、このことを「やや桃さん」(胎児)がお腹におられるマグシ姫にお話しするわけにはいかない。
(それに、翡翠石の中に埋め込まれていた黒鉄――、俺とうりずんさんの名前刻みを拒否して、矢を弾いたようにも思える)
 スガルが思いの深みに埋没しかけていた時――、甲高い声に目が覚めた。
「スガルくん! うちの祖父から便りが届いたわよ。翠鬼が持ってきてくれたの!」
 美甘ちゃんが八坂神社に遊びに来ていたのだった。
「それはそれは。何と?」
「あかり菩薩さまが私の実家に寄ってくださって、みかんをたくさん積んで、出雲地方に向かわれたそうよ」
 出雲地方の黒鉄の一族を束ねるタタラ御前は、みかんと藤の花と白鷺がお好きだと聞いている。
(ははん、土産にしたのだな)
 スガルは妻の消息を聞いて、少し気持ちが明るくなった。黒い川からヤマタノオロチを連想しても、まさか黒鉄のタタラ御前が関係あるはずはない。ましてや、スサノオさまと関連があるはずが――!
 首をぶんぶん振って不吉な思いを吹き飛ばした。
「でね、私も出雲地方に行くことにしたの!」
 美甘姫が叫んだ。
「え、ええっ――! 姫さま、今、なんと?」
「祖父上の命で、急に黒鉄のタタラ御前さまとお逢いすることになったの。みかんがとってもお好きなら、同じ名前のお前ととても強いご縁だから、お逢いしなさいって。ゆいまるのお世話はマグシ姫さまにお願いしたから、手伝ってあげてね!」
 美甘姫ははしゃいでいる。早くも牛車を用意させて、窓から手を振っている。
 うりずんから、スガルに想念が届いた。
(しばし、美甘奥ちゃんと出雲に行ってくる!)
 スガルは呆れた。
(まったくあの夫婦は、そろって風来坊なんだから! 俺よりかなり年上のくせして。しかし、うりずんさんがついていてくださると、美甘姫もあかりも安心だ)

第九章 黒鉄の御前

「ここが出雲地方なのね! マグシ姫の故郷!」
 美甘姫は牛車の窓から乗り出した。目の前に水色の水平線が広がっている。
「お危のうございます、姫さま!」
 侍女が後ろからしがみついた。
「あれは宍道湖(しんじこ)という湖だそうです。もうすぐ黒鉄御前のお館に着きますよ!」
 鉄師一族の住まう山の中の一帯に入ろうとしていた。険しい中国産地の真ん中に村落が見える。
 女人の声が聞こえてきた。
 館から走り出てきた黒髪の女人が、笑顔で手を振っている。
「美甘姫~~!」
 衣の上に簡易な鎧を着けていて、満面の笑みで牛車に駆けよってきた。
「京の都の美甘姫でいらっしゃいますね!」
(黒鉄の御前っていうから、もっと怖そうな方かと思ってたら……ひぇっ!)
 牛車から下りた美甘ちゃんは、いきなり鎧の胸にぎゅうっと抱きしめられた。
「思った通り、可愛いお方! 頬がピチピチの早生みかんみたい! ――私、タタラ御前と呼ばれております」
 御前は笑顔が弾けている。
 ふたりの傍らを、みかんを山盛り積んだ馬車が何台もすりぬけていく。
 美甘姫は地面に背筋を伸ばして立ち、膝をついて衣のすそに手を当てながらお尻の下に敷き、かかとの上に座った。正座が出来上がって深々と頭を下げた。
「お初にお目もじいたします。美甘と申します」
「まあっ! まあっ! なんて素敵な座り方! 可愛い姫君でしょう! 本当にうりずんさまの奥方さま?」
 黒鉄のタタラ御前は、美甘ちゃんの頭を抱きしめて頬っぺにチューまでする始末だ。
「きゃあっ、あのう……」
「あ、ごめんなさい、つい。でも香までみかんの香りがいたしますわ!」
 紅鬱金(べにうこん)色の髪の青年が咳ばらいしながら近づいてきた。
「無事にご到着か」
「そよぎ(=うりずん)、お待たせ!」
「ようやく私が目に入ったかね、美甘奥ちゃん」
 苦笑している夫の胸に、美甘ちゃんは飛びこんだ。

第十章 指環の中に

 鉄館と呼ばれるタタラの居館に、うりずんと美甘は通された。
 うりずんが小さな木箱を出して蓋を開けた。
「あかり菩薩さまが翡翠輝公子からお預かりしてきたお品です」
 それは、見たこともない大きな翡翠――【琅玕】(ろうかん)という最高級の翡翠の指環だ。深い湖の結晶のように青く煌めいている。
「あかり菩薩さまのお預かりになったお品が、どうしてここに?」
 美甘姫が不思議そうにしている。
「あかり菩薩はそなたの祖父上のお宅に寄っただろう? 一番早生のみかんの中に忍ばせてもらったのだ」
「まあ。あなたとあかり菩薩とお祖父さまったら、いつのまに、そんな共謀を?」
「共謀はいいよな~~。お祖父上はご存知ないことだ」

「――深い緑色なのに透き透っているわ」
 美甘ちゃんがそっと指環を持ち、
「翡翠輝公子の代わりに、はめさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ。お願いします」
 タタラの薬指にぴったりはまった。太い純金の台がついた指環だ。上背のある彼女の体格に引けをとらない。
「とてもよくお似合いです」
「ありがとう、美甘姫。遠くの輝公子さま……」
 タタラ姫の感動の涙から、鉄と翡翠のつながりがよく分かった。

「ところでタタラ御前。単刀直入にお伺いする。京の八坂神社のスサノオの尊は、黒鉄のことに何か関わっておられるか?」
 うりずんは表情を引き締め、タタラ御前の真正面から尋ねた。
「黒鉄のことにスサノオの尊さまが――?」
「そうだ。貴女なら正直に答えてくださると信じて伺った」
「――それは汚れた黒鉄のことですね。ヤマタノオロチと申す汚れた黒鉄――。うちが製造して扱っている鉄鉱石から作られる鉄製品は――、汚れた黒鉄とは何の関わりもございません。このタタラ、命を賭してお答えします」
 きっぱり言った。
「ましてやスサノオの尊さまが汚れた黒鉄と関わりがあるなどと――……」
 その時、突然、タタラ御前の指環から薄緑色の光条が、ピカッと何本も放たれた。
「こ、これは……」
 眩しさに、その場にいたうりずん、美甘はじめ、お仕えの者たちまであまりの穢れなき光に圧倒されて、口をきくことができない。
 うりずんが勇気を出して指環に近づき覗きこんだ。そこには、スサノオの尊の姿が映し出されていた。
【証言を入れておく。私はこの何か月か、正体を隠して八坂の地下を行き来する男衆に接近してみた。睨んだ通り、彼らは『兇つ奴党』だった。ヤマタノオロチの残骸のような輩だ。黒鉄を大和に運び込み、戦を起こそうとしている。相手は京の朝廷だ。どうか、これを聞いた者は八坂神社にいるスガルという青年に知らせてほしい……】
 声はそこで途切れていた。
 皆、青くなって立ちすくんでいた。
「『兇つ奴党』ですと。聞くのも汚らわしいヤマタノオロチ?」
「戦を起こそうとしている?」
「ス……スサノオさまは、この声を指環に入れてからどうなさったんだろう?」
「時間がない!」
 うりずんが立ち上がった。
「都に帰還する! 出立するぞ!」

第十一章 朝廷へ

「スガル! スサノオさまは捕らわれの身になっているかもしれん! 急いで捜索を!」
 周りの少しの護衛を引き連れ、八坂神社に戻るなり、うりずんはスガルを呼んで命令した。
「うりずんさまは?」
「鹿の樹将軍と共に朝廷に赴き、このことを検非違使庁に訴えて調査してもらう!」
「わかりました」
 スガルは鬼ども3匹を連れて、神社の地下へ急いだ。

 うりずんと鹿の樹将軍は検非違使庁へ馬を駆り、この件を訴えた。
 その時、地響きのような馬蹄音が近づいてきて、500騎ほどの騎馬の兵士が都に入ってきた。
「うりずんどの!」
 簡易な鎧に白い衣姿、白い馬を駆けさせてきているのは、あかり月光菩薩だ。
「おお、菩薩、ちょうどよいところへ。丹後地方に向かいますよ!」
 うりずんが、再び馬に乗りながら言った。

 丹後地方の北の果てに、岩がごつごつしている場所がある。ひとつの洞窟は八坂神社の地下につながっており、『兇つ奴党』はその水路を使って翡翠で覆った穢れた黒鉄を運んできていた。
 うりずんはすぐに部下に、あかり菩薩軍と共に洞窟の捜索をさせた。スサノオの尊が閉じ込められている可能性がある。
 日本海の波が打ち寄せる入口から侵入すると、数里も進んだろうか。スガルが倒れているではないか。
「スガル! しっかりしろ、スガル!」
 あかり菩薩も蒼白になって駆け寄った。
 頬をぴたぴたされると、スガルは目を開いた。
「うりずんさん……。あかり!」
「スガル! 怪我は?」
「大丈夫。ちょっと『兇つ奴党』とやりあっただけです。それより奥の岩牢にスサノオさまが!」
 うりずんとあかりは、すぐに岩牢を見つけ出したが、もぬけの殻だった。
 岩牢はすべてが翡翠で造られていた。
「翡翠――? こんなに大規模な牢を翡翠で造れるのは……」
「翡翠の輝公子しかいまい」
 あかり菩薩はがっくり肩を落とした。
「翡翠の輝公子が、スサノオさまを監禁して我らをおびき寄せたのだ。彼は穢れた黒鉄と穢れた翡翠、両方扱う『兇つ奴党』のひとりだったのだ。スサノオさまはいったいどこに……」
 うりずんの言葉に、あかりは愁眉の間にいっそう深いシワを寄せた。
 スガルは北の断崖に登り、声をかぎりに叫んだ。
「スサノオさま―――!」
 兄ゆずりの響く声が波間に反響していく。


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