[205]正座の君に憧れて



タイトル:正座の君に憧れて
発行日:2021/09/01

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:40
販売価格:200円

著者:降雪 真
イラスト:如月れい

内容
中学二年生になった佐藤は毎日のようにケンカに明け暮れ、指導員の手を焼いていた。
 そんなある日、指導員から「茶道部に行って少しは落ち着け」と言われる。嫌々ながら向かった先には、凛としたたたずまいで正座する美しい少女がいた。佐藤はその姿に憧れ正座を始めるようになるが、その練習方法は椅子の上に正座したりとめちゃくちゃで。
 正座は少年をどう変えたのか、そして少女との行方はどうなるのか……。

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本文

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 その人は背筋をぴんと伸ばし、じっと前を見据えていた。だけどその目はどこか寂しげで、不思議と目が離せなかった。

「お前ももう中学生なんだから、少しは落ち着いたらどうだ」
 生活指導の林は、呆れたように息を吐き目の前でだらしなく椅子に座り込む少年を見下ろした。あちこち傷だらけの少年は、じろりと林をにらみつけると興味がないようにすぐにふいとそらしてしまった。どちらの視線も交わることなく、ピリピリとした空気の中、無為な時間だけが過ぎていく。
「……なぁ、いい加減大人になったらどうなんだ。いつまでこんな馬鹿げたことを続けられるわけないだろう。お前の将来のためにもならないし、周りにも迷惑がかかるだけじゃないか」
 その言葉に少年はピクリと反応すると、乾いた笑いを浮かべ射貫くような目でにらみつけた。
「俺の将来のことなんか、これっぽっちも気にしてないくせに。いい加減なこと言ってんじゃねえよ」
 少年はがたりと立ち上がり、椅子を蹴飛ばす。「ガンッ」という大きな音に林が身をすくめている隙に、少年は立ち去ろうとしていた。慌てて林は止めようとしたが、少年は一切耳を傾けることなく部屋を出て行ってしまうのだった。
「あぁ、もう。面倒だな」
 林は誰にも聞こえないような小さな声でぼやくようにつぶやくと、少年の背中に向かって呼びかけた。
「茶道部の西園寺 佳菜江がお前を待っている」
 その言葉に少年は立ち止まると顔をしかめながら振り返った。
「あぁ? 何で俺が茶道部になんか行かなくちゃなんねえんだよ」
 すると林はにやりと笑ってこう言うのだった。
「お前、甘いものが好きらしいな。いま茶道部に行けば、限定の和菓子を用意している。茶道を学んで、少しは落ち着くことを覚えろ」
 忌々しそうに舌打ちする少年の頭の中には、とある一人の顔が思い浮かんでいた。
「あの野郎……」
 しかし和菓子が、それも限定の和菓子が魅力的なのはたしかだ。少年は天を仰ぎ見ると、観念したように茶道部へと向かうのだった。


 部屋に入った途端、ピンとした空気に思わず立ちつくした。
 まず目を引かれたのが、背筋の伸びた美しい姿だった。西園寺佳菜江は正座のままこちらをじっと見つめていた。
「佐藤君、遅かったじゃないの」
 はっと目を覚ましたように我に返った佐藤に、西園寺は手で座るように促した。
「……そこじゃないわ。何でそこに座るの?」
 西園寺の横に座りこみ、茶器をしげしげと見ようとする佐藤。西園寺はそれに構うことなく、冷静に対面に座るように促した。
「なぁ、茶ァなんてどうでもいいからさ。とっとと限定っていう和菓子をくれよ」
 茶器を見るのに飽きたのか、足をだらしなく前に投げ出しながらぶちぶちと文句をついていると、すっと目の前に和菓子が差し出された。桜の形をした美しい練り菓子だ。思わず伸ばした手を、西園寺がたしなめるように叩いた。
「何すんだよ!」
「ここは茶室です。作法に則り、正座をしていただかなければ、これは差し上げられません」 
 佐藤はキッとにらみつけたが、西園寺はどこ吹く風と澄ました顔を崩さない。佐藤はちらりと和菓子を見るとついに根負けしたのか、しぶしぶ正座した。そして「これでいいんだろ」というと返事も聞かず和菓子を口に放り込み、一口で食べてしまうのだった。
 ……うまい。その和菓子は、佐藤がいままでに食べたことがないほど繊細で、深い味を感じさせるものだった。さて、これでもう用もないし、帰るとするか。すっかり満足した佐藤が立ち上がろうとしたとき。
「お座りください」
 西園寺の強い射すくめるような眼差しと声に、思わず佐藤は立ちかけていたのを慌てて正座に戻した。
「茶道はお茶を飲んでこそ。それに、甘い口に抹茶は、とてもおいしいものなのですよ」
 さっさと終わらせるしかないか。有無を言わさぬその笑みに、佐藤はため息をついた。
 西園寺が慣れた手つきでお茶を点てる中、佐藤はその様子をぼーっと呆けたように見ていた。頭の中には先程食べた和菓子のことばかり考えていた。
「どうぞ」
 そうこうするうちに、いつの間にか目の前には大きな茶碗に入れられた抹茶があった。佐藤はちらりと西園寺を見て飲んでいいか確認すると、片手で手に取りぐいっと一息に飲み干した。
「……甘くねぇ」
 開口一番、佐藤は空になった茶碗を見ながら困惑した顔で言った。
「だけど、うめえなコレ」
 普段食べる抹茶味の菓子から、抹茶は甘いものだと思い込んでいた佐藤は驚いていた。初めて飲んだ抹茶は、ほのかな苦みこそ感じたが、まろやかで、舌に残る風味が心地いい。佐藤は満足げに深く息を吐いた。
「お粗末様でした」
 深々と下げられた西園寺の顔が、すっと上げられるその所作に、佐藤は目を奪われた。
「佐藤君、お疲れ様。どうしました?」
 きょとんとした顔で首を傾げる西園寺を見て、「何でもねーよ」と佐藤は慌てて立ち上がろうとした。そのとき。
 足がまるで自分のものじゃないようにぐにゃりと曲がり、佐藤は盛大に前のめりに倒れてしまうのだった。
 足がじんじんとしびれて、まるでぶよぶよとした肉がまとわりついているみたいだ。少し触っただけで、ビリビリと痛みが襲ってきて、とても立ち上がれそうにない。
「あらまぁ、大丈夫ですか?」
 見慣れているのだろう。のんびりとした声で西園寺が呼びかけている。佐藤は脂汗のにじむ顔を伏せながら、足のしびれが治るのをじっと待つしかない。羞恥心のあまり、佐藤は逃げ出したいのに逃げ出せない自分の足と、ここに来ることになった原因となった、とある人物を呪った。


「おい須崎、手前よくも林に俺のこと話しやがったな」
 翌日、佐藤は教室に入るなり須崎 晃のもとにつかつかと歩み寄ると、大きな音を立てて机を叩いた。教室がざわつく。それもそのはず、二年であるはずの佐藤が、三年の教室にいることがおかしいのに、さらに下級生が高圧的な態度で乗り込んできたのだから。
「バレちゃったか」
 須崎は肩をすくめると、気まずそうに顔を掻きつつも、席に座ったまま佐藤を見上げた。
「当たり前だろ、林が俺のこと……」
 佐藤はそこまで言いかけてから、きょときょとと周りを見渡し、須崎にだけ聞こえるよう小さなことで言った。
「甘いもん好きなんて、知るわけねえだろ」
 須崎はそんな佐藤を呆れた目で見ている。「なんだよ」じろりとにらむ佐藤に、ため息をつく須崎。
「そうは言ってもだな。もう中二になったんだし、いつまでも喧嘩ばっかりしているわけにいかないのも確かだろう。林だって、一応心配して言っているんだから」
 佐藤は小馬鹿にするように笑った。
「あいつが心配しているのは、生活指導として責任問題にならないか、だろ。んなの知ったこっちゃねえよ。俺のことなんて、誰もわかっちゃくれないんだ」
「その様子だと、茶道は効果がなかったようだな」
 諦めたようにため息をついた須崎だったが、その言葉を聞いた途端、佐藤は顔を赤らめた。須崎はそれを見て目を見開いていたが、何かを思いついたのかニヤニヤとしながらこちらを見てきた。
 イヤな予感がする。こいつがこんな顔をするときはロクなことにならねえんだ。
「なぁ佐藤、今日の放課後付き合えよ」

 須崎はいつもこうだ。歳は一つ上だけど、運動神経だって悪いし、ケンカだって弱い。なのに心の中を見透かしたように、こちらの痛いところばかりついてくるから、いつだって言うことを聞かされるんだ。佐藤は近所に住む須崎に、これまで何度も苦渋を飲まされてきたのだった。
 ぶちぶちと文句を垂れる佐藤と、その悩みの大元である須崎は放課後、茶道部にいた。最初は行くことを断固拒否した佐藤だったが、「この前ケンカして呼び出されたことは黙っていてやるから」と言われては断れない。佐藤が忌々しそうににらみつけても、にこやかな笑みが返ってくるだけだった。


 急な来訪にもかかわらず、西園寺は驚く素振りを見せることなく迎えてくれた。「すぐに用意しますから」。そう言われ部屋の外で十分ほど待ってから部屋に入ると、西園寺は昨日と同じように正座して凛としたたたずまいで迎えてくれるのだった。
 茶室の中を、西園寺がお茶を点てる静かな音だけが響いている。
 今日の和菓子は桜餅だった。ころころと小さいピンク色の餅に、桜の葉が巻かれている。佐藤は昨日と同じようにそれを一口で頬張ると、満足げに噛みしめている。それを見た須崎は苦笑していた。
 甘いものを食べ、最初はご満悦だった佐藤だが、次第に足がまたじんじんとしびれてきた。腰を浮かしながら恐る恐る足を触ると、すでに感覚が薄れているのがわかった。
「足を崩してもいいですよ」
 そんな佐藤を見かねたのか、西園寺が声をかけてきた。
「正座は慣れもあります。佐藤君も今日はお茶を楽しみに来てくださったようですから、無理強いはしたくないのです」
 それならと、佐藤は嬉々として足を崩そうとした。だがふと視線を感じて横を見れば、須崎がニヤニヤと笑いながらこちらを見下ろしているのがわかった。
 その様子を見て「チッ」と盛大に舌打ちをすると、佐藤は再び足を組みなおし、どっかりと正座し直した。
「正座くらい、何時間だってしてやるよ」

 足がしびれ、いよいよ感覚がなくなりもう限界かと諦め始めた頃、ようやく茶が振舞われた。佐藤は飛びつくようにして飲んだ。
「うめぇ」
 佐藤は思わず唸った。隣では須崎が「お点前頂戴いたします」と言ってから、茶碗をくるくると回してから飲むと、「結構なお点前でした」などと言って深くお辞儀をしているのが見える。気のせいか、すました横顔に胸がざわつく。
 だが佐藤が本当に腹を立てたのはその後のことだった。
 さあ帰ろうと立ち上がろうとするのだが、やはり足がしびれてうまく立てない。佐藤が呻いているすぐ横で、須崎がすくっと立ち上がった。そして余裕しゃくしゃくのおすまし顔で、佐藤を見下ろし、ふふんと笑うのだった。
「なんでお前立てんだよ」
 ギリギリと歯ぎしりしながら見上げる佐藤。
「重心を前にずらした方がよろしいかと」
 そこへ不意に、西園寺がぽつりと言ったので、佐藤は思わず二度見した。どういうことだろうと言葉を待ったが、西園寺はそれ以上話す気はないようだった。すると須崎が「本当はもう少しからかいたかったんだけどな」と肩をすくめ、説明してくれた。
「佐藤はどっしり後ろに構えすぎなんだよ。もっと顎を引いて。そうそう。それから背筋をしゃんと伸ばせば……。うん、どうだ? 自然と重心が少し前に行くだろ。これならしびれにくいはずだ。正座は正しい姿勢をすれば、すぐにしびれることはないんだ」
「あとは重心を左右にずらしたり、足の親指をずらしたりとかな」須崎はそう言って体をずらす素振りを実演して見せてくれた。
「……なんで最初から教えてくれなかったんだよ」
 じとっと拗ねたような目でにらむ佐藤。だがそこで、ふと気がついて西園寺を見た。
「だけど西園寺はそんな素振り見せなかったぞ」
 すると西園寺はことりと首を傾け、何でもないことのように言った。
「私はもう、慣れてますから」
「……よし、決めた」
 須崎が正座する姿は確かにサマになっているように見えた。だけどもじもじと動く姿は格好悪い。西園寺の正座は、別格のように美しく見えた。
「俺は須崎みたいな小細工なしで、ずっと正座してみせるぜ」
 突然大声で宣言した佐藤に、驚き、目を見開いていた須崎だったが、呆れたように笑った。
「それはちゃんと立ってから言えって」
 前に倒れながら、少しでもしびれないように浮かべていた佐藤の足をぺしりと叩いた。すると佐藤は身悶えし、涙を浮かべながら須崎をにらみつけるのだった。


 次の日、佐藤が席についておもむろに座布団を取り出すと教室はざわついた。それもそのはず。椅子の上に佐藤が正座し始めたのだ。
「おい、佐藤。お前一体どうしたんだ」
 授業中、古典を教える林は、頭抜けて座高が高い佐藤を見て言った。開いた口がふさがらないといった様子だ。クラスメイトは林の発言に、このときばかりは胸を撫でおろし、よく突っ込んだと心の中で盛大な拍手を送った。その日は一日中気になりつつも、佐藤が怖くて何も言えずにいたのだ。中でも佐藤の後ろの席にいる生徒は、黒板が見えず涙目だったという。
「何って……日本伝統の正座っすけど、何か悪いんすか」
 林は何事か言いかけて口をぱくぱくしていたが、全てを諦めたように大きく息を吐くと、「いや、何でもない」と言って何事もなかったかのように授業を続けた。佐藤の後ろの席の生徒は声なき悲鳴を上げた。

 どうせすぐに飽きてやめるだろう。
 林は初めて佐藤が正座をしているのを見たとき、そう思って大して気にもしてなかった。
 若気の至りだ。林は知っていた。中学時代というのは、誰しもがこういった”周りとは違う、少し変わったこと”をしがちなのだ。しかしそれは一種の熱病のようなもので、かかりやすいが醒めやすい。そして大人になってから、何故あんなことをしたのだと恥ずかしさのあまり身悶えし、黒歴史として固く封印するのだ。
 本物は、何も特別なことをしようとせずとも、ただ外れていくのだ。
 だが佐藤は予想に反し、それからも正座することを辞めようとしなかった。
 もしや茶道部に行かせたあてつけで、俺の授業中だけ正座しているのか。そう思ってほかの教員に訊いてみたが、どの授業でも同じように正座しているようだった。面白いのは、賛否両論だったということか。
「ほかの生徒の邪魔になる」という教員もいれば、「授業に参加しているなら、座り方くらい目くじらを立てる必要もない」という者もいた。印象的だったのが、「そういえば佐藤、最近顔つきが変わってきた気がしません?」という意見だった。
 そう言われてみれば、正座をするようになってからというもの、授業を真面目に受けるようになったし、何より立って歩いているときも背筋が伸びて姿勢がよくなった。心なしか顔つきもすっとしてきた気がする。
 そんなまさかな。それなら生徒は全員正座させなきゃならんじゃないか。林はふっと笑うと頭を横に振った。問題がないなら、このまま放っておけばいいだけだ。


 佐藤が授業中も正座するようになって、半年が過ぎた。その頃には周りの生徒もすっかり佐藤の奇行にも慣れ、気にも留めないようになっていた。そればかりか、どうやら〝ケンカばかりしているヤバい奴〟から〝ちょっと変わった奴〟に認識が変わりつつあるのか、気安く話しかけられるようになったのだった。授業が終わるたびに足がしびれて身悶えする佐藤に、いつまでも警戒心を抱き続けるなど不可能だったのだ。
 これには当の本人も困惑せざるを得なかったが、菓子代を稼ぐための小遣いのせびり方や、おすすめのスイーツ店などを教えてくれるので、まぁいいかと放置しておくことにしたのだった。
 だがある日、同じクラスの女生徒から気になることを言われた。
「ねぇ佐藤君、西園寺さんと一緒にいて大丈夫?」
 訳がわからずむすっとしていると、女生徒は慌てて言った。
「いや別に、悪い人だって言ってるわけじゃないのよ? ただ茶道部って、西園寺さんしかいないじゃない? 茶道部の人って、あの人が入ってからすぐに辞めちゃったらしいから」
 理由を聞いても「よくわからないけど」という話に、佐藤は耳を傾ける気にならず、いつしか忘れてしまっていた。

 そうこうしているうちに長時間正座してもしびれることも減ってきた。嫌々ながらも、お茶を点てる手順も覚えた。佐藤は自分の成長を思い、思わず頬を緩ませながら、今日も茶道部の茶室へと向かうのだった。
「今日の和菓子は何だろうな」
 だがその日、いそいそと茶室の扉を開けようとしたとき、中から声がして、思わず佐藤は扉を開けようとした手を止めた。楽しげな声が聞こえてくる。佐藤は思わず耳をすました。
「え、それ本当ですか晃さん」
「本当だって、マジマジ。佐藤の奴、いまだに授業中も正座してるらしい。あれはあいつも本気だぜ。佳菜江ちゃんもそろそろ気づいてやっても……」
「噂には聞いてましたけど、絶対嘘だって思ってました。え、気づくって何にですか?」
 佐藤は身を翻し、帰ろうとしている自分に気がついた。まだ今日は和菓子を食べていない。だが引き返そうとするが、どうしても足が言うことを聞いてくれないのだ。扉越しの二人の声が、いまだに耳に残っていた。
 西園寺、須崎と名前で呼び合ってんだな。あいつもあんな風に笑うんだ。頭の中をぐるぐると、色々な考えが巡っている。佐藤は自分でも訳がわからないまま、ショックのあまり走り出していた。


 あれから一カ月。それまで毎日通っていた茶道部に、佐藤は一度も行っていない。何度か須崎が「今日は一緒に行かないか」と誘いに来たが、気のない返事を返していたらその内来なくなった。授業中に正座をすることもなくなった。
 その日もだらしなく寝そべりながら窓の外を眺めていると、突然誰かにポカリと頭を叩かれた。「何だよ」と頭を起こすと、そこには目を細め、こちらを見下ろす林がいた。
「佐藤、お前今日茶道部に来い」
 佐藤は文句を言ってやろうと口を開くが、林は興味もないと言わんばかりに早々に授業へ戻ってしまった。
 誰が行くか。初めはそう思っていたが、目をつむると林の顔が思い浮かんだ。林は以前と違い、まっすぐこちらを見据え何かを言おうとしているのが伝わってきた。
 渋々茶道部の茶室へ行った佐藤だったが、いざ扉を前にすると開ける気にならない。仕方なく前をウロウロしていると、突然ガラリと扉が開いた。
「遅いぞ佐藤。呼びに行こうと思っていたところだ」
 出てきたのは林だった。林を透かし見るようにして中を覗くが、そこに西園寺の姿はない。佐藤はほっと胸を撫でおろし中へと入っていく。その姿を林は痛ましい者を見るような目で見ていた。

 いつもの癖で同じ場所に座ると、なんと林はいつもなら西園寺が座る場所につき、お茶の準備を始めるのだった。
「先生って、お茶点てられたんすね」
 驚き、つい漏らしてしまった言葉に、林は何でもないことのように答えた。
「顧問だからな。お茶くらい点てられるさ」
 その言葉に驚きのあまり立ち上がる佐藤。
「なんだ、あれだけ茶道部に通っていて、誰が顧問かも知らなかったのか。あの日、特別な和菓子を用意したのは誰だったと思ってたんだ?」
「高かったんだぞ、あれ」林は呆れたように笑った。林が点てたお茶は、西園寺と同じくらいおいしかった。
「俺はな、母親の影響で子どもの頃から茶道教室に通っていたんだ」
 林はお茶を飲む佐藤を見ながら、誰に言うともなく、独りごとのようにつらつらと話し出した。
「子どもの頃、茶道ができる俺は特別だった。一生コレで生きていけると思ってたんだ。すぐにそんなの無理だって気がついたけどな。容姿や家柄、たたずまいからくるオーラみたいな、自分ではどうしようもないものを見せつけられて。それでもちょっとは特別なものがあるんじゃないかって、色々試して挫折した。俺は特別な存在じゃなかったんだ。今までの努力はムダだと思った。だから俺は教師になった」
 林はいつの間にか自分にも入れていたお茶を飲んでいた。
「西園寺は俺から見ても特別な〝バケモノ〟さ。その立ち振る舞いが、目を引き付けて離さない。あいつを見て気後れするのもおかしくないほどに」
「だけど」そう言って林は詰め寄り、佐藤の肩を強く握った。
「この半年間、お前は毎日正座していたな。初めはすぐにしびれていたのに、いまではこうして茶が飲み終わって長々と話をしていても平然としている。この半年は無駄じゃなかったんだ。佐藤、お前は気づいていないかもしれないが、姿勢はよくなったし、顔つきも前とはまるで違う。よくなっているんだ。勝てなくてもいいじゃないか。どうして辞めてしまうんだ?」
「それは……」
 佐藤が言い淀んでいると、扉が開き、そして西園寺が入ってきた。


「ごめんなさい。また私が何かしてしまったのよね」
 その顔はいつもどおり無表情だが、伏せられた顔はどこか悲しそうに見えた。
「いつもそうなの、私は空気を読めないから」
 ぽたりぽたりと、流れる涙が畳を濡らす。最初は驚き、気まずそうに顔をそらしていた佐藤だったが、それを見ると慌てて駆け寄り、「そうじゃない」と言った。だが西園寺は「いいの、わかっているから」と言うばかりで、話も聞いてくれない。終いには「私が茶道部を辞めるから、佐藤君には残ってほしい」と言い出してしまった。茶室内はそれを止める林と泣く西園寺でめちゃくちゃだ。
「あーーー、もう!」
 突然大きな声を出した佐藤に、二人が驚いてこちらを見ているのがわかった。頭をがしがしと掻きむしりながら、佐藤は言った。
「もう何言ってるかわかんねぇよ。俺バカだから難しいことわかんねぇけど。前西園寺が須崎と話しているの聞いて、なんか胸がもやもやしたっていうか、気まずかっただけ。ただそれだけだから」
 ぽかんとした顔で見つめてくる二人。
「だから! カナエとアキラって名前。二人で呼び合ってたろ。二人が付き合ってんなら、俺いたら邪魔じゃねえかって思ったの。そんだけ!」
 そう言って腕で隠したその顔は、耳まで真っ赤だった。やりきれない沈黙が続いたかと思うと、「ぷっ」と吹き出すように二人は笑いだした。
「なんだ、そんなことか」
 林はひとしきり笑ったかと思うと、「余計なことしてすまんな」と言って茶室を出て行ってしまった。
 残された佐藤と西園寺は、気まずそうに顔を伏せていた。
「『あの』さ」
 声が重なった。二人は顔を見合わせ声を出して笑いあった。
「晃さんは私のお姉ちゃんの友だちなの。同じ西園寺だから、名前呼びは癖みたいなものよ。恥ずかしいから呼ばないでって言ってるの。……私、てっきり佐藤君は私のせいでつまんなくなって、だから辞めちゃったのかと思ってたの。でもなんだ。そういうことだったのね」
 佐藤はかっと顔が沸騰するように熱くなるのを感じた。恥ずかしい。いっそのこと殺してくれ。
「春樹君」
 名前を呼ばれ、観念したように顔を上げた。
「また明日も来てくれるわよね。じつは私、前春樹君がケンカしているのを見たことがあるの。皆倒しちゃった後、ぴんと背筋を伸ばしてじっと前を見ていた。でもケンカに勝ったのに、どうしてあんなに悲しそうな目をしているのかなって不思議で目が離せなくて。そう、綺麗だなって思ってたの。だから一緒に茶道ができるのが嬉しいの」
 佐藤は思わぬ言葉に言葉を失った。嬉しい。飛び上がって叫びたかった。だがそこで、「それにしても」と西園寺がくすりと笑って言った。
「名前を呼ばれなくて拗ねるなんて、春樹君って意外と子どもっぽいところもあるのね」
 そういうことじゃないんだけど。佐藤はがくりと肩を落としたが、初めて見た楽しそうに笑う西園寺の顔を見て、なんだがどうでもよくなってしまった。

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