[397]お江戸正座37


タイトル:お江戸正座37
掲載日:2026/01/16

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:37

著者:虹海 美野

あらすじ:
おひなは、茶葉を扱う諏訪理田屋本店の娘である。
おひなは十三、兄の文吉は十六になった。兄の文吉はお商売を学ぶ傍ら、戯作者の叔父にも学ぶ日々である。
一方のおひなはお稽古三昧の忙しい日々だ。
お稽古仲間の娘たちとは、付かず離れずの仲で、その付き合いは心底楽しいとは思えていなかった。
ある日、お茶のお稽古におはるという娘が入門した。
江戸に来たばかりの大店の娘であるおはるは、底抜けに明るく裏表のない性格で……。

本文

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 おひなは、茶葉を扱う諏訪理田屋本店の今年十三になる娘である。
 諏訪理田屋は、とんでもなく大きなお店というわけではないが、確かお父ちゃんで三代目だったかで、そこそこに名も知れている。お父ちゃんは男七人の長男で、跡を継いだ。次男の叔父は暖簾分けをし、諏訪理田屋陶器店を商い、三男の叔父は茶葉を扱う諏訪理田屋の支店を出している。そうして四男から六男までの叔父は婿養子に入り、七男の叔父は戯作者である。名は店名と同じ諏訪理田と名乗っている。
 だから、江戸のおひなの住む界隈では、諏訪理田屋、といえば、大抵の人は、『ああ、あの諏訪理田屋さん』とか、『お茶のお店の』とか、『陶器店の方もご親戚?』とか、たまに『戯作者に同じ名の人がいましたね』とか、そんなふうにおひなの家のことを知っている。老舗の有名店、とはゆかぬが、まあ、そこそこにお商売は順調で、ありがたいことに、諏訪理田屋の名を継いだ叔父、婿養子に入った叔父、戯作者の叔父、その家族も息災である。
 おひなはそんな家で、のんびりと育った。
 手習いは昨年に終え、今は一日にひとつかふたつのお稽古をしていて、それなりに忙しいが、充実した日々を過ごしている。
 おひなには、文吉という兄がいるから、おひなは今のところ婿を取る予定もない。
 兄の文吉は今年で十六。
 毎日お父ちゃんや番頭さんについてお商売を学んでいる。
 手習いで算盤、読み書きはそこそこに好きだったから、その点はお商売をする上でよかったのだろうな、とおひなは思っている。
 お父ちゃんは、文吉を跡取りと考えていて、今もそれは変わらないけど、お商売一辺倒ではなく、剣術道場に通うことも提案していた。だが、文吉は気乗りせず、戯作者の叔父に幼いころに会って以来、すっかり戯作に魅了された。お父ちゃんは、正直なところ、お商売に不向きであった戯作者の叔父をあまり評価していなかったし、その叔父の家に文吉が通い出すのも当初は戸惑ったようだった。だが、文吉は今のところ、お商売を第一に真面目に学び、その上で戯作の勉強をしているから、お父ちゃんはそのことに関しては何も言わない。
 その時のことは、おひなもなんとなく、覚えている。
 確か、戯作者の叔父が子を授かった時に、差し入れかお祝いかを持って行くお母ちゃんについて行ったのが始まりだった。
 お母ちゃんは七人兄弟の長男であるお父ちゃんの元に嫁いだというのもあるからか、お父ちゃんの弟、そのご新造さんへの気遣いを欠かさぬ人である。だから、戯作者の叔父が子を授かった折にも、お母ちゃんはご新造さんを見舞いに訪れた。この時、『邪魔はしないから』とかなんとか言ってせがんで、兄の文吉とともに、おひなも赤さんを見せてもらいに行った。
 赤さんの可愛さはもちろんであったが、そこで文吉は、戯作者の叔父の部屋にある書物の山や、戯作に触れ、興味を示した。否、興味なんてものではない。それこそ寝食よりも大事だと思うほどではなかったか。何せ手習いで食べる弁当を携え、限りある昼の休み時間にまで叔父の家に通っていたほどである。
 まあ、おひなはそこまで戯作に関心はなかったが、行儀作法のお教室を開いている叔母をすぐに好きになった。そうして、お作法のことも少し学ばせてもらった。
 茶葉を扱う店の娘でもあるし、お作法は全くの初心者というわけではないが、背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、肘は垂直になるようにおろし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにするという正座の基本から、戸の開け閉め、座礼なんかを軽く教えてもらった。
 叔父のご新造さんは、まだ叔父が戯作者として身を立てるのが心もとない頃より、叔父を思い、いつか一緒になった時に暮らしを支えられるようにと、お武家様にご奉公し、行儀見習いを身につけたおひとであると聞いた。きりりとした、芯のあるお人だと、幼いながらに思ったのを覚えている。
 おひな自身は十三で、それがどういう心持ちかはわからぬが、わからぬおひなから見ても、この叔母がしなやかで凛々しいお人だということはわかった。


 そんなおひなの毎日は、あちこちの習い事で顔を合わせる、近所の娘たちとの友人関係が大部分を占めている。
 先にも述べたように諏訪理田屋は、そこそこに古く、周囲にも知れたお店であるが、お稽古事に毎日通う娘たちは、大きなお店の子である場合がほとんどである。
 その中でもいくつかの同じお稽古で顔を合わせる数人くらいの友達の輪のようなものができていて、一緒にお稽古をし、その合間に他愛のないことを話す。
 手習いの頃のような騒がしさはないが、その分、女の子ならではの、ちょっと鋭いことを言う子もいるし、それに笑ったり、受け流したりする子もいて、それぞれで、その中ではおひなは大人しくしている方であった。
 お稽古仲間は、あくまでお稽古をする中で、お互いにうまくやっていくための仲だから、あんまり砕けたことをおひなは話さない。仲間の中でしっかりしている子の言うことに頷いたり、笑ったりするくらいである。
 たまにお父ちゃんにお稽古は楽しいか? と訊かれる。
 そういう時、やや気を遣う仲間とのことが浮かび、すぐに「はい」と答えられない。それが少し申し訳ないとおひなは思う。
 お母ちゃんはそういうところにおおらかな人で、合う人と合わぬ人がいて、そういう中でやっていく方法を知るのも学びのうち、と言う。
 確かにそうだけれど、正直に言えば、おひなにとって、今のお稽古仲間との付き合いは少し窮屈でつまらなかった。
「まあ、お茶でも飲んでひといきつきなさいな」と、お母ちゃんが丁寧に茶を淹れてくれる。
 おひなは背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、肘は垂直になるようにおろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、お茶をいただく。
 苦味と甘味が絶妙で、香り高い茶である。
 おひなはふうっと息をついた。


 そんなある日、お茶のお教室に新しい娘が入門した。
 稽古仲間の娘がおひなに教えてくれたところによると、新しく入る娘は江戸に来たのは最近で、家が何かのお商売が大成功したのだと言う。
 確かに、この前、大層間口の広い大きな店ができた。お商売にもたけている様子で、お仕着せの若い男が威勢のよい声を張り上げ、道行く人が店の方へと集まっていくのを見た。
 そうか、あのお店か。
「いったい、どれだけすごいお姫さまかしらね」と、一人が皮肉を言い、ほかの娘が笑った。
「大きな駕籠で来るんじゃないかしら」
「お付が十人くらいいるかも知れないわね」
 やっかみ半分、ひやかし半分といったところか。
 ここに来る娘も、お付がいる者はいる。
 だが、まあ、近場でのお稽古でもあるし、駕籠には乗っていない。
「お茶をいただくのも難儀するほどの大きな簪を挿しているかも知れないわね」
「とんでもなく裾の長い着物かも知れないわよ。茶室に入るのに、後ろの人が踏まなきゃいいけど」
 口々に勝手なことを話していると、「あの、お茶のお教室はこちらでよろしいでしょうか」と、身なりの整えられた大人しそうな娘が遠慮がちに生垣から声をかけた。
 おひなたちはつと、黙り、「はい」と答えた。
「おはるさま、こちらです」
 大人しそうな娘が来た道を戻って行く。
「ありがとう。もう、みんな帰っていいから」
 明るく、親しみを感じる声、そう、手習いの頃によくいた子どものような話し方だ、とおひなは思った。
「そうはいきません。旦那さまに、まだおはるさまは江戸に慣れていないから、くれぐれも頼むと言われております」
「大丈夫、大丈夫、もう道は覚えたから。こっちに来てひと月も経つんだから、とっくに慣れたって」
 あははは、といかにも大口を開けて笑っていそうな声がする。
「では、お稽古が終わりました頃にまた参ります」
「いいって、いいって。一人で帰れるから。お父ちゃんに怒られるのが心配なら、さっき通ったところにある団子屋でのんびりしていたらいいじゃない。私も、こっちでお茶より、団子屋に行きたいんだから。ああ、あのいい匂い。たまらない」
「おはるさま……」
「とにかく、大丈夫、大丈夫。ゆっくりしてなって。あはははは!」
 そんなやり取りの後、おひなたちの前に現れたのは、とても体格がよく、底抜けに明るい笑顔の娘であった。


 お茶のお稽古より、団子屋に行きたい、というおはるの言葉は、明らかに、お茶の稽古をこれからするという娘たちの反感を買った。さすがにこれはおひなとて、やや不愉快であった。
 ただお金に物を言わせて、稽古通いをさせようという家の考えが見え隠れするように思える。たしかにお稽古に通うのにはお金が必要だ。だが、入門するからには、それなりの心構えはほしいところである。それが礼儀であることは、幼いながらに、皆、わかっている。
 だから、その言い方は……、とおはるに対して思った。
 そのおはる、さすがに茶をいただくのに難儀するほどの簪や、引きずるほどに長い裾の打掛なんかは着ていないが、それでも、錦糸を使った着物に、こしのある黒髪をぞんぶんに活かした髪の結い方をしていた。大きなお店では、朝、髪結いが来てくれると聞くが、おはるの家もそうなのであろう。
 要は、贅を存分に尽くした装いである、ということだ。
 やや渋めの色味を好み、襟や裏地にちょっと趣向を凝らすのが好きなおひなたちとは、おはるは違っていたし、明らかに家の裕福さが段違いであった。
 そうして、その装いはとてもおはるに似合っていた。
 堂々とした佇まい、明るい笑顔。
 まさに、晴天や花の咲き誇る季節のような、おはるという名にふさわしいお嬢さんであった。


 お茶のお稽古の前に、先生からおはるの紹介があった。
 年はおひなと同じで、家は先ほど噂で聞いた通りの、最近できた大きなお店であった。家には兄上が二人いるようで、おはるは末子であった。末子の長女というのは、やはり親が気張って着飾りたくなるものなんだな、とおひなは思った。おひなも、おはるほどではないが、幼い頃からお父ちゃんが、これもおひなに似合う、いや、こっちもいい、両方もらうか、というふうに、よくおひなのために仕立てる反物を買ってくれていたのを思い出す。そこは、ここに通うほかの娘にも覚えがあるようであった。
 さあ、ではお稽古を始めましょうか、と先生が微笑んだ。
 茶室に入り、掛け軸と生けられた花を見る。
 掛け軸は小さな童が描かれていた。
 その時、ぶっと、吹き出す声がした。
 おはるが、「何これ、なんか私でも描けそう。ええ、これ、先生が描いたんですか?」と言った。
 あまりにも緊張感のないおはるの、思ったことそのままの発言に、つい、おひなは笑ってしまった。
 確かに、そう言われてみれば、そんなふうにも見えてくるではないか。
 だが、我に返れば、周囲は真冬の霜柱のような冷たさで、おはるを見ていた。そうして、仲間の娘の一人がおひなちゃん、気を付けて、というふうに非難の目を向けている。
 なんだか、おはるよりも、釣られて笑ったおひなの方により非難の目が向けられている気がする。
 しまった!
 ああ、こういうところでうっかりしていて……。
 おひなは慌てて俯いた。
 だが、まだ笑い足りず、口に力を込める。
 先生は「心の思うようにね。いいことよ。今日はおはるさんが初めて来る日だから、笑顔でお稽古ができるようにと、この掛け軸を選んだんですよ」と言う。
 ここの先生は、本当に穏やかで、どこまでも心大きなお方である。
「まあ、先生、ありがとうございます。全然お茶のことがわからない私のために」
 あははは!と、おはるは気負わずにそれに応じている。
 あまりに素直というか……。
 大物というか……。
 だが、おはるの『素直』、『大物』は、こんなものではなかった。
 お稽古のため、皆が正座する。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、肘は垂直になるようにおろし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、白足袋の足は親指同士が離れぬように。
 先生に渡された菓子を前に、皆、懐紙を出し、ひとつづついただくのだが、おはるは「え、この小さいのひとつ?」と、真面目に菓子を見つめた。
「そうよ」と、おひなは見兼ねて言った。
「そうなのね。へえ。これで腹の足しになるのかしらね。いただきます」
 おはるはそう頷き、懐紙に見様見真似で菓子を取る。
「わ、美味しい。……小さいけど」
 先生はにこにことし、茶を点てる娘を見守っている。
 先生のお手本を見て、もうずいぶん慣れたが、やはり先生と皆の前で茶を点てるのは、今でもおひなは緊張する。
 おはるは今日初めてだから、見学のみである。
 そうして、今日の茶のお稽古が終わった。
 皆を仕切る娘が、おはると親しくなるな、とほかの娘を鋭い視線で制し、澄ました顔でおはるの前を黙って通り過ぎようとした。
 その時であった。
 ずっとほかの娘が茶を点てるのを、正座して見ていたおはるが立とうとしたところで、足がしびれて「あっ」と、よろけた。
 咄嗟に何かを掴もうとしたのだろう。
 前を通った娘の袖をしっかと掴んだ。
 おはるは娘の袖を掴んだまま、座敷に倒れた。
 袖を掴まれた娘はあっと、中腰になって堪えようとしたが、おはるが倒れたところで膝をつき、一度はおはるを振り払おうとした。だが、袖をつかんだおはるの手の力は思ったより強かったらしい。
 おはるを振り払うのに失敗した娘の手は、己の身を支えようとし、目の前にあった襖に向かった。
 襖が柱のように頑丈はなずもなく、廊下の方へ外れた。
 座敷がしん、と静まり返った。
「いったあ」と言うおはるの間の抜けたうめき声と、「あんた、気をつけなさいよ!」と言う娘の金切り声が重なる。
「あらあら、どうなさったんです?」
 茶器をしまいに行っていた先生が驚いて戻って来る。
 娘たちが慌てて、襖に突っ込んだ仲間に「大丈夫?」と手を貸す。
 掴まれた袖が破れたりしなかったのは、幸いだ、とおひなは内心思っていた。
 ようやく起き上がった娘は、「おはるさんが倒れこんだんです」と先生に訴える。
「まあ、二人ともお怪我はない?」
「はい、申し訳ありませんでした!」
 明瞭な返事とともに、おはるは、すた、と立ち上がる。
 そうして、「ちょっとごめんなさいね」と、手早く襖を元に戻した。
 大変手際がよかった。
 そうして、うっかり袖を掴んでしまった娘にも、「本当にごめんなさい」と頭を下げた。
 謝られた娘の方が驚き、「これからは気をつけてちょうだい」と言い、その場を辞したのだった。


 驚いたことに、その後、お茶のお教室以外でも、おはるとおひなは顔を何度も合わせた。ほかの数人の娘たちも然り、である。
 おはるは、次に会った時、娘たちに明るい溌剌とした笑顔で、「こっちでも一緒だなんて! よろしくね」と気安いあいさつする。
 そうすると、なんだかみんな、調子が狂って、「あ、うん、よろしく」と返す。
 お稽古時には、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、肘は垂直になるようにおろし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座する。
 その際、娘たちはまたおはるの巻き添えにならぬようにと警戒し、隣には座りたがらない。そうして、大抵、おひなが隣に座った。おはるは、そのことには気づいているのか、いないのか、おひなにはわからぬが、楽しそうに「今日もお隣でよろしくね」と笑う。おひなも、なんだか明るいおはるに釣られて笑顔になり、「こちらこそ」などと返す。そうかと思うと、「ああ、足をしびれさせて、うっかり袖をつかまないようにするから安心して」と、他意なく言うから、ひやり、とする。「そういう時はおひなちゃん、遠慮なく逃げてね、まあ、逃げられる余裕があればだけどね。あはははは!」と、手を叩いて笑う。「ああ、そうね。そういう時は頑張ってみる」と答えるおひなに、「本当に面白いんだから」と、ばあん、と背を叩いて、また笑う。なんとも賑やかな娘である。
 おはるはどの習い事も初心者であったが、歌と踊りは抜群に上手かった。声に伸びと張りがあり、身体の動きは大きく、そうして優雅である。おはるが褒められるたびに、ほかの娘たちは面白くない顔をしていた。
 そうしてお教室が終わると、おはるを無視して、娘たちは皆で帰るのであった。最近では、ただ皆で帰るのではなく、お稽古の後、お稽古とお稽古の合間の時間なんかを見つけて、それぞれの家へ順番に寄る約束までできた。言うまでもなく、そこにおはるは含まれていない。
 おひなはそれが気づまりであった。
 だが、気づまりであるなら、自分でそれを変えるなり、意見を言うなりすべきである。
 わかっているが、おひなにはそれが難しい。
 そんな考え事をしながら、踊りの稽古をひとりしていたら、手から扇がするり、と抜け、よりにもよって、障子に刺さっていた。
 ちょうどそこを通りかかった兄の文吉が「うわっ」と短く声を上げた。


 兄の文吉がお商売の後、戯作者の叔父のところへ行くと言う。
 お母ちゃんが、戯作者の叔父のところはまだ子も幼いし、ご新造さんは行儀見習いのお稽古の先生をしていてお忙しいだろうから、とお菜を詰めたものを託した。子の玩具も添えられている。
 それらを文吉とおひなは手に、叔父の元へ向かった。
 中からは、大層楽しそうな声が聞こえてくる。
 まだ、行儀見習いの稽古が終わっていないのだろうか……。
 そう思いつつ、庭に周り、勝手口の方から声をかけた。
 すると、なんと顔を出したのは、叔父夫婦の子を抱いたおはるであった。
「あら、おひなちゃん!」
「おはるさん! どうして?」
 互いに目を丸くする。
「文吉さんにおひなちゃん、いらっしゃい」と、叔母が迎えてくれ、奥から「おう、来たかい」と戯作者の叔父も顔を出す。
 文吉とおひなはお母ちゃんに渡されたお菜の詰め合わせに玩具を渡す。
「いつもすみません。ありがたくいただきますね」と、受け取ってくださる。
「おいしいお菓子がありますから、よかったら、ゆっくりしてってくださいな」
 叔母に勧められるがままに、文吉とおひなは上がり込む。
 文吉は叔父のところで今書いている戯作の話を聞いたり、本を借りたりするのが日課で、すぐに叔父の部屋に入って行った。
 おひなは、叔父夫婦の子を抱いたおはると向かい合って座った。
 うっかり気を抜かず、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、肘は垂直になるようにおろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
「おひなちゃんは、本当にお作法もお茶も何もかもできるお嬢さんだわね」と、おはるが言う。思ったままと言った感じの、嫌味のない様子である。
「そんなことはないけど……。おはるさんの方がよほどお嬢さんでしょ」
「ないない」と、おはるは、子を膝に抱いたまま、首を横に振った。
「だって……!」
「確かに、今、うちはお金はあるよ」
 これまたまあ、よくそこまであからさまに言うもんだ、とおひなはあっぱれ、という思いでおはるを見ていた。
「見ればわかるでしょう?」と、これまた、おはるはあっさりと言う。
「それは、うん……」
 口ごもるおひなを、おはるは大きな目で見ている。
「うちはね、もともとはお爺ちゃんの代に家族総出で小さなお店をやっていたの。それがお父ちゃんの代で、お商売が大成功して、どんどんお店が大きくなって、江戸へ出て来たのよ」
 そうなんだ、とおひなは小さく頷いた。
「だからね、小さな頃はお父ちゃん、お母ちゃんが忙しくて、人も雇っていなかったから、兄ちゃん二人もお商売を手伝ったし、私も自分でできることは頑張ったの。頑張ったっていうか、それが当たり前というのかしら? みんなを喜ばせたくてごはんを炊いてみたけど、水が多くてね。それでも、みんな、おはる、頑張ったなって、おいしい、おいしいって食べてくれたの、嬉しかった」
 ふいに、すん、と鼻をすする音がして、振り返ると、叔母がお菓子と茶を盆に載せ、立ったまま、涙ぐんでいる。
「やだ、先生、そんな、泣かないでよー!」
 おはるがあっはっは、と笑う。
「ごめんなさいね」と、叔母は泣き笑いし、「どうぞ」と盆を置き、茶と菓子を出してくれた。
「先生って、ことは、おはるさん、行儀見習いも?」と、おひなが気づく。
「もう、おはるか、おはるちゃんにしてよ」と、おはるが言う。
「じゃあ、おはるちゃん……」
「はい!」と、元気よく返事すると、おはるが抱いていた叔父夫婦の子も、一緒に「はい」と言う。
 かわいくて、皆で笑った。
 叔母が子を「ありがとう」と、おはるから抱き上げる。
「掃除とか、飯炊きなんかは、お手のもんなんだけど、お稽古事は全然したことがなかったから、どれも初心者なの」
 自分のことを、こんなふうに「初心者なの」と言えるおはるの心を、おひなは尊いと思った。
 そうだ。
 おはるは見栄を全く張らない。
 その清々しさ、そうして、底抜けの明るさに、ずっと引かれていた。
「だけど、おはるちゃん、踊りも歌も本当にお上手よ。習った期間が長いかどうかじゃないわ。芸ってそういうものなのね。私、おはるちゃんの歌や踊りの番になるの、楽しみだもの」
「えー! 嬉しい!」と言って、おはるがおひなの手を取った。
「みんな、もうお稽古事に慣れているでしょう? 迷惑をかけないか、いつもね、そういうことを思っていたから」
「そんなことないわよ。一緒にやるから学べることも多いし、みんなで学ぶから、続けられるってこともあると思うわ」
 おひながそう言うと、「おひなちゃん、立派になったわね」と、叔母が微笑んでいる。
 おひなはこそばゆかったが、自分でも前進はできるものだと思った。
 ここのところ、ずっと何やら心が落ち着かなかった。
 居心地が悪かった。
 どうにかならないかと思っていた。
 自分でも、どうにかできることはあるのだと、どこかでわかっていたではないか……。
「ねえ、おはるちゃん。今度のお茶のお稽古の後ね、うちにみんなが集まる日なの。都合がつくなら、来ない?」
「いいの?」とおはるが目を輝かせる。
「もちろん。私が来てほしいんだから!」
 まあ、ひと悶着あるのは覚悟の上だ。
 けれど、おはるはいい子だ。
 本当は、みんなもう、それに気づいている。
 ただ、戸惑っているのもあるだろう。
 意地もあるだろうし、不慣れな相手を前に受け入れがたい思いもまたあるだろう。その全てに倣うわけでなし、何かを強要するでもなし。そうやって、うまくやっていくのもひとつの方法ではなかろうか。
「ねえ、その日、もし嫌でなければ、おはるちゃんのことをみんなに話してほしいわ」
 そう言うと、おはるは菓子を手に、「まかせて! でもずっと私だけ話し続けたら、おひなちゃんが止めてよ」と言う。
 今度はおひなが「まかせて!」と答えた。

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