[333]お江戸正座19
タイトル:お江戸正座19
掲載日:2025/01/18
著者:虹海 美野
あらすじ:
佐久造は料亭の板場で働く三十前。
味覚の鋭さに、仕事の丁寧さと器用さから、仕事の腕は主のお墨付きであるが、時折粗暴な言動が見られた。
ある日、主が佐久造にいずれ店を持たせてやりたいが、粗暴なところが心配だと質屋の大旦那に相談しているのを聞いてしまう。
質屋の大旦那は行儀見習いに佐久造を通わせては、と助言する。
困惑しながらも行儀見習いに行った佐久造は、そこでまず正座を習うが、つい気の短さが出てしまい……。
本文
当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。
1
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、着物は尻の下に敷き、手は太もものつけ根と膝の間で指先が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにする。
そんなふうに教わった。
佐久造(さくぞう)は、そこそこに大きな料亭の板前である。主(あるじ)は一代で、小さな貸店舗の飯屋を今の料亭に育て上げた。そうして、佐久造は、以前の貸店舗時代、店の評判が評判を呼び、客が増えた頃に下足番で通い奉公から始め、そのうちにお運び、野菜の下ごしらえと任されるようになり、板場で働けるまでになった。つまり、主にとっての一番弟子のような存在である。
佐久造は野菜の切り分けから、出汁の取り方に至るまで、とにかく丁寧で手を抜かぬ。そうして、大層器用でもあった。主はそうした佐久造の素質を早い頃から見抜いていた。だから、主は自身の息子たちが手習いを終えた後、いきなり帳場や板場には入れず、まずは下足番から学ばせ、佐久造の元でも十分に修行を積ませた。
どうしても身内がかわいく、ひいきにしたくなるのが人の性(さが)というものだろうが、主はそれをしなかった。
佐久造はそうした点に於いても、主を心から尊敬している。
だがしかし、佐久造にはなかなか直らぬ、至らぬことがあった。
それは、料理に関しては主のお墨付きをいただいているが、それ以外のことでは粗暴な言動が時折あった。
そのたびに、せっかくお客が喜び、褒めてくださるものを作れる才があっても、粗暴な一挙一動があれば、全て水の泡になる、と主に諫められた。それはわかっている。だが、どうにも身につかぬ。いつも苛立って、粗暴な言動をした後に、ああ、またやっちまった、と思う。
反省し、謝っても、その行いが関わった人の頭から消えることはないのだ。
ある日のこと、昼の仕事が終わり、板場を出て廊下を歩いていると、襖の向こうから主の話し声がした。立ち聞きなど下衆な真似がよくないのは承知だが、主が「佐久造」と己の名を出しているのが聞こえ、つい、立ち止まった。
「佐久造は本当に料理の才に恵まれている。いずれうちの息子が店を継ぐことになりましょうが、その時、佐久造の望みを聞いて、どうするかを私も考えなけりゃあと思いますがね、もし佐久造が望むのであれば、暖簾分けをして、店を持たせてやりたいと考えております」
主の言葉に、佐久造の目頭は熱くなった。
まだ子どもで何もできなかった佐久造に下足番を任せ、そこから帳簿のつけかた、料理と、店のいろはを教えてくれたのは、全て主である。そうして、おかみさんも幼い子がおりながら、佐久造を大層大事にしてくれた。着物も食べるものも我が子と同じように用意してくれ、佐久造をいつも気にかけてくれた。
それに報いようと努力してきた。
その主が、なんと、ゆくゆくは己に店を持たせてくれようと話しているではないか……。
「それはそれは……。誰にでもできることじゃあありませんよ」
そう答えているのは、この料亭の常連である質屋の大旦那である。
うんうん、と頷き、感無量で立ち去ろうとした時、「ただ、」と主が言いよどむ。
なんだ?
佐久造はそっと身を襖に寄せた。
「あれは、ちいと粗暴なところがありましてね。どれだけ言って聞かせても直りません。もし、店を持つとなれば、板場のことだけじゃあない。お客さんをもてなすこと、時には理不尽なことでも頭を下げたりもしますし、忙しくたって、それを表に出さず、涼しい顔でいなけりゃあいけないことだってあります」
「ええ、わかります。それは、お商売をしていれば欠かせない」
二人の会話を聞き、何やら話の雲行きが怪しくなってきたと佐久造は感じる。
「一体、どうしたもんですかねえ」
「それで私にご相談なすった」
「ええ、ええ、そうなんです。何かお知恵を拝借できないかと思いまして」
嫌な汗が出てくる。
私を一体、どうするっていうんだい……。
……事と場合によっちゃあ、こっちだって考えがある。
佐久造が身構えていると、「こうしたらどうでしょう」と質屋の大旦那が何かを思いついた様子で言う。
なんだ、どうするんだ。
「私も人づてに聞いた話ですが、諏訪理田という戯作者のご新造さんがお武家様の元での奉公を終え、行儀見習いの教室を開いているそうですよ。ご存知でしょうか。ここから、そう遠くはありませんがね……」
「もしかして、その戯作者は、実家が茶葉店を商ってはおりませんか?」
「おや、ご存知でしたか?」
「ええ、うちの娘も通っております」
「それは話が早い」
「しかし、行儀見習いとは、若い娘が通うところではありませんか? そんなところへ佐久造が大人しく行くでしょうか」
そうだ。
若い娘と一緒に稽古なんぞ冗談じゃあない。
「あなたも甘いお人だ。下足番から一流の料理人に佐久造を育てたというのに……。それで店を持たせてくれるっていうのに、断るなんぞ、初めから、店を持つのも無理も同然ですよ」
「まあ、しかし……。ほかの娘さんにご迷惑になったり、そちらのお教室の看板に瑕(きず)がつくようなことにでもなると思うとね、私も気が重い」
「ああ、そこですね。確かに。それじゃあ、ほかの生徒さんの来ない時間にお願いするというのはどうでしょう」
「そこまでしてくださるでしょうか」
「ものは相談。何年も通うってわけじゃあありません。なあに、私の方から話を持っていってみます。お嬢さんが通われているのに、万が一にも話が決まらないと、お互いやりにくくなってしまうかも知れませんからね」
はあっと、佐久造は大きなため息をついた。
2
質屋の大旦那は、今の店が小さな頃から通っていた馴染客だ。
佐久造が不慣れな様子で下駄を預かる際にも、「ありがとう」とか、「慣れたかい?」と声をかけ、そのうちにお運びをするようになると、「今日のおすすめは何だい?」と尋ね、板場に入ってからは、「おいしかったよ」と告げ、佐久造を見守ってくれ、客の立場から佐久造を育ててくれた。
ああ、その質屋の大旦那と店の主二人に相談の席を設けさせてしまうとは……。
いやはや、申し訳なく、なんとも不甲斐ない。
事前に話の内容を知っていた佐久造は、大人しく主の提案に応じた。
思っていたよりも、素直に佐久造が「はい」と頷き、「ありがたく、精進いたします」と手をついた時には、主がちょっと驚いて首を後ろに引いた様子が察せられた。
主は、その後質屋の大旦那、それに行儀作法の師と話し合いをしたようで、ほかの娘さんのお教室の入っていない、昼餉後の時間に教えを賜るのだと佐久造に言った。そうして、これは質屋の大旦那の名案というか、苦肉の策というか、とにかく、店の弁当を昼餉に料理人である佐久造が届ける、という名目で通うよう取り計らってくださった。なんとも頭の下がる思いである。三十を前にした身体もそこそこに大きい板前が行儀作法を習いに行くというのは、どうにも矢張り外聞が気になる。かといって、版元でもなく、戯作者でもない佐久造が、あの夫婦の元へ通えば、もしやご新造さん目当てでは、とよからぬ噂が立ちかねぬ。
そうしたわけで、弁当を届けるという名目の元、行儀作法に通うのがよかろう、ということになった。まあ、特別に稽古の時間を設けてもらうのだから、その分の心づけ、というのがその内情ではある。
3
ほかの娘たちと稽古しなくていいことに安堵した佐久造は、だがしかし、若いご新造さんと二人向き合っての時間というのは、果たして大丈夫なのだろうか、と別の不安が浮かんだ。
持って行く弁当は、白飯の小ぶりのおにぎり、魚の切り身、青い柚子の中をくりぬき、そこに海鮮を入れた蒸し物、かまぼこ、香のものにした。真四角の弁当箱を四つに区切り、一人前づつ詰めた。
板場の昼の仕事が終わり、まかないをかきこむと、「ちょっと行ってきます」と弁当の包みを抱えて板場に声をかける。
誰も不思議に思わぬようすで、送り出してくれた。
主のありがたい配慮に頭がさがる。
店と人々で賑わう通りを抜け、少し行ったところにある閑散とした辺りに目指すお教室があった。行儀見習いの札が出ている。
ごめんください、と門前で声をかけた。
すると、門の横から「はい」と男の声がした。
着物を着崩した細身の男が、煮干しを手に現れる。
訪問先を間違えたのでは、と佐久造は思い、再び札を確認する。
佐久造はまず料亭の名を告げ、そこの板前の佐久造と申しますと伝えた。
すると、その男は、「これはこれは、以前も夕餉に豪華な弁当をいただき、ご馳走様でございました」と丁寧に頭を下げるが、嬉しそうに佐久造の抱えた弁当の包みに目を遣るではないか。
「ああ、あの、こちら、お届けに参りまして」
「それは本当ですか?」
じゃれつく犬の如く、全く警戒の様子なく、男は佐久造に笑顔を向ける。
幼い頃の佐久造でも、もう少し人との距離というものを取るようにしていたが、この男はどういうことか……。
そこへ、「佐久造さんですか? お待ちしておりました」と、美しく、芯ある様のうかがえるご新造さんが現れた。
「本日より、お世話になります」と佐久造は柄にもなく、緊張する。
「あなた、版元の方が夕刻にいらっしゃると言っていたでしょう。それまでに髪と髭を当たって、着替えておいてくださいな」
ご新造さんにそう言われた男は、「ああ、そうだった。その前に猫が来た時にと煮干しをね……」と説明する。
「だったら、縁側にでも置いておいたらよいでしょう。あなたがいなくても、煮干しがあれば猫は用足りますよ」
「ああ、ああ、そうか」
「そうですよ。それから、こちら、今日からお稽古に通ってくださる佐久造さん。ご厚意でお弁当も持って来てくださるそうよ。私が出ますから、これから佐久造さんがいらしても、執筆してらしてくださいね」
まるで母親のようなご新造さんである。
だが、この男、「そうか、そうか」と素直に頷いている。
このすっかり安心した様を見ると、この男、ご新造さんにしっかりと守られて、それ故に警戒心を抱く必要もなくなったと見える。
おめでたい男だな、と思ったが、この男を見るご新造さんの目の優しさに、若干の僻みがあったと気づく。
ご新造さんに言われるまま、庭の方をまわって男は家に入り、佐久造は引き戸を開けた入り口の方へ促された。
そうして、お教室に使っていると思われる室内でご新造さんと向かい合う。
ご新造さんは、障子の開け閉め、それから正座をここではお勉強いたしましょう、と言った。
たかが、障子を開け閉めする、たかが座敷に座る。
謝礼に弁当とは高くついたもんだ、と佐久造は心の中で呟いた。
「まず、背筋を伸ばしてくださいな」
きりっとした声が響いた。
背に力を入れる。
「佐久造さんは背が高いので仕方がないかも知れませんが、もう少し顎を引いて」
「はあ」
「膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度に」
「はあ」
「ああ、それから着物はお尻の下にきれいに敷いてください」
……先に言ってくれ。
「はあ」
「足の親指同士が離れぬようにして、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように」
「はあ」
「背筋を伸ばしてください」
「あ、はあ」
つい、ほかに気がいった。
「ほかの幼いお嬢さん方も、もう少し集中力がございますよ」
「……はあ」
「ああ、膝が開き過ぎです」
「ああ……」
「今度は足の親指同士が離れています」
「……ああ」
「背筋は伸ばして」
ああああああ!
「しゃらくせい! やってられっか!」
佐久造はそう言い、仁王立ちで言い放った。
目の前で正座をしているご新造さんは、驚いた様子もなく、佐久造を見上げている。
「今日のお稽古はまだ終わっておりませんが、どういたしますか?」
そう小首を傾げ、佐久造に訊く。
佐久造は、はた、と我に返る。
このまま帰って、経緯を話す場面が浮かぶ。
主は、どんな顔をするだろう……。
ぺたり、と佐久造は座った。
「申し訳、ありません……。稽古をつけてください」
「承知しました」と、ご新造さんはにっこりと笑った。
4
たかが行儀見習いを家計の足しに家で教えるご新造さん、と甘くみていたが、読みが外れた。
あのご新造さん、にこやかで落ち着いているが、実に厳しい。
そうして、佐久造の気の荒さにも全く動じぬ。
今日の昼も佐久造は、はあっと溜息をつく。
鰹を葱と生姜で和えた料理を出す季節だ。稽古後、すぐに食べるのだから、これも仕出しの弁当でも持っていける。
持参する弁当は、全て佐久造に任されていた。
材料をけちるなとも、豪勢にしすぎるな、とも言われていない。
つまりは、どのくらいの価値があの稽古にあるかを自分で見定めよ、ということなのであろう。
そんな佐久造の心を知らず、あの家の旦那ときたら、まあ、嬉しそうにすること……。
あれで戯作者だというのだから、世の中わからぬ。
あのご新造さんと一緒になる前は、実家でぬくぬくとして、ご新造さんと一緒になってからは、全てご新造さんに面倒見てもらっている、世間知らずだろうと佐久造は忌々しく思った。
だが、板場でちょっと聞いた話によると、確かにあの戯作者は実家の商いも順調で苦労知らずだったらしいが、そこから師の元に弟子入りし、そこを出た後は、大層みすぼらしい、町はずれの家に一人住まい、しかも自炊もままならないものだから、かなり心もとない食生活だったと言うではないか。
そう思うと、なんだかあの呑気な顔の裏には苦労もあったのだろうと同情するが、ふと考えれば、その心もとない食生活を本人がどこまで悲しく、わびしく思っていたかは謎である。
佐久造は、江戸では一般的な、取り立てて余裕があるわけでもないが、毎日の飯に困らぬ家で育った。だが、朝のあさりの味噌汁、米の炊き加減、時折おすそ分けでもらう饅頭の甘さ、と、口にするものへの関心は高かった。贅沢を言って、あれが食べたいだとか、これが嫌だとか言うことはなかったが、そこにある素材で旨いものを食べたいと思えば、自ずと狭い炊事場に立った。
そのうちに、近所に小さな料理屋ができ、そこの主が包丁の手入れをしている様子や、米を炊いている様子を見に行くようになった。食材の買い出しについて行くようになった。手習いに通っていて、自分の家から飯の時間になれば声がかかる子どもだったから、何か魂胆があるわけでもなく、本当に料理屋の様子が面白いのだろうと主もおかみさんもわかっていてくれていたようだった。店の客が増え始め、その頃には佐久造の手習いも終わる頃で、下足番を買って出たのが、板場で働くことになった始まりだ。
だから、佐久造が読み書きを手習いで教わっても、それを殊更追わず、料理に邁進するように、あの戯作者も、食を自ずと手掛ける欲は起きず、戯作者の道を進んでいるのだろう。
そう考えれば、ああ、なるほど、人にはそれぞれに向いているものというのがあるものだ、とつくづく思う。
そんなことを考えながら歩いていると、菓子屋の暖簾を客と店主と思しき二人が出て来た。
「ありがとうございます」
そう言い、店主はきれいにお辞儀をした。
何気ない所作である。
客もどこまで見ているかわからぬ。
だが、そのちょっとした所作ひとつに、この店を営む上で学んだであろう多くのものごとが、確かに表れ、光っていると佐久造は感じた。
これまでは、何でもなく通り過ぎていた、一人の商人の所作に目がいくのは、やはり行儀見習いに通うほどに、自分には足りぬものがあると痛感したからだ。
必要とは言われなかったが、今日から足袋を履いている。
ごめんください、と師の家の前で声をかけ、先ほどのお辞儀を思い出して、一礼した。
5
襖の開け閉めと正座についての稽古を、ご新造さんにつけてもらうことになり、早ひと月が経った。
襖の開け閉めと一言で片づければそれまでであるが、美しい所作のための決まりがあるので、ちょっと動きを誤れば、襖に近すぎたり、遠すぎたりする。
口うるさく言われるだろうと佐久造は覚悟するが、どこでどう誤ったかを佐久造が自覚しているのがわかっているのか、師は何も言わぬ。
ただ、もう一度と佐久造が言えば、はい、と頷く。
何人もの娘たちが習うのであれば、ここまで自分の思うように教えてはもらえまい。
またとない機会を主とこの師に与えてもらったのだ、と思う。
そうして、正座は最初の頃は背筋を伸ばすに始まり、まあ、細々と注意を受けたが、今では正座をして師と向き合い、談笑する時間もできた。
それでも、佐久造は習ったことを意識する。
背筋を伸ばし、着物は尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬように、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
師がその前で今日は茶を淹れてくれた。
ゆっくりと急須の茶葉に湯を注ぐ。
ふんわりと柔らかな緑が広がるかのような茶の濃い香りが漂う。
「いい香りですね」と佐久造が言う。
「新茶の時期は過ぎましたが、時折、主人の長兄が店の茶を差し入れに来てくださいます」
「あの、それはどこの店でしょうか……」
「諏訪理田という茶葉を扱う店でして、主人の次兄も暖簾分けをしております」
「そうですか。どこでこの香りを知ったのか……」
記憶を手繰り寄せるが、まだわからぬ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
正座のまま、佐久造は丁寧に応じる。
湯呑から立ちのぼる湯気と香りが、優しい。
口に含むと、甘味と苦味が絶妙の茶が広がる。
しっかりとした味と香りであるが、すっと鼻腔と口に優しく広がる。
味と香りから、記憶を手繰り寄せる。
あ、と思い出した。
お嬢さんが持ち帰った小さな茶筒だ。
いただきものだと言っていたが、おかみさんが淹れてくれたことがあった。
あの時の茶であったか……。
納得の面持ちで頷く。
おいしいものを、主夫婦は、佐久造の舌に記憶させてくれる。
それは、下足番をしていた頃からだ。
今思えば、そんな子どもにわかるか、勿体ない、と考えるのが大人の常だと感じる。だが、主夫婦はそれをしなかった。この子にはわかる、と、事あるごとに口にした。主夫婦は当時それほど余裕があったわけではないが、貴重な食材が手に入ると、必ずそれを家族と、当時たった一人であった雇人の佐久造とに少量づつでも分け、その味を記憶させた。恐らく、あの茶もその一環であったのだろう。
佐久造は両親も大切だが、その次に大切なのは、間違いなく主夫婦だと考えている。
佐久造は茶を置き、「初日は、大変な失礼をいたしました」と、手をついて今更ながらに師に詫びた。
「いいえ」と返した師は、笑っている。
顔を上げると、「佐久造さんは正直な方です。腹の中からきれいなお人というのは、こういう方なのだと思いました。理屈ではわかっておりましたが、こんなに間近で見るのは初めてで、もう関心するやら、おかしいやらで……」と、まるで面白い演目の話でもするように優美な様子である。
正座は言うまでもなく、美しい。
背筋を伸ばし、着物は尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬように。
一番くつろいでいる様子がこれであるかのような正座で、師は笑っている。
「佐久造さん、よく頑張ってこられましたね。もう、ここでお教えすることはございません」
佐久造は、キツネにつままれたような心持ちで、師を見た。
「それから、お弁当、本当にありがとうございました。うちの人が、それはそれはまあ、楽しみにしておりましてね。今度はこちらから、時々ですが、参らせていただきます」
「ありがとうございます」
佐久造は再び手をつき、頭を下げた。
6
店に戻り、主に報告と礼をと思ったが、すでに板場に入る時間だった。
きれいに手入れした包丁で、今日入ったばかりの魚を捌く。
主の息子二人も板場におり、その様子を手を動かしながらも、じっと見ているのがわかる。とうに二人とも、一人で板場を任せられるくらいになっているが、それでも貪欲に、腕のいい料理人の仕事はよく観察し、己のものにする。子どもの頃の佐久造が、無意識に主から学んでいたのと同じである。
ただし、佐久造は自身の成長と店が大きくなるのが、だいたい同じであったから、ひとつづつ覚えてここまでやってきた。その点、主の息子であるこの兄弟は、手習いを終えた頃には店がもう大きくなっていたから、下足番から、お運び、帳場、板場と全ての場を学んでおり、それをほかの奉公人の何倍も早く習得している。それでいて、長くひとつのところで頑張っている者に引けをとってはいけぬのだから、相当に努力しているのは、黙っていてもわかることであった。
汁物ができ、その味の確認をお願いしますと言われる。
出汁の取り方をきちんと学んだのが、よくわかる。
もう、何度も、確認はいらぬと言ったが、あと一度だけ、と言う。佐久造は絶対の自信があったから、そんなことは一度もなかったが、彼らのそれは慎重であり、お商売を決して侮らない証拠であると感じる。
この店の鰹節を選ぶ際、佐久造は主に呼ばれ、共に相談して決めた。
「いらっしゃいませ」と声がする。
「年を取って、食は細ったが、ここの料理はすっと食べられる。それでつい、足が向く」
話しているのは、質屋の大旦那だ。
「ありがとうございます。こちらへどうぞ」
「酒は控えているので、膳だけ頼みたい」
「はい。承知しております」
「ありがとう」
そんなやり取りを聞きながら、魚を焼き、軽く塩を振る。
吸い物が出来上がる。
質屋の大旦那は飯も一緒に頼む客である。
膳はひとつ。
他の客への膳をお運びが持ってゆく。
魚が焼き上がり、飯に吸い物、香の物、かまぼこが盛り付けられる。
「この膳は、私が」と、佐久造は申し出た。
「少し離れるが、頼んだ」と板場に声をかける。
もう私がいなくても、大丈夫だろう、という思いを視線で主の息子たちに送る。
「はい」と主の息子たちが返事をする。
佐久造は膳を持ち、質屋の大旦那の客間へ向かった。
すり足で、膳が揺れぬように気を付け、襖の前で正座し、「失礼いたします」と声をかける。行儀見習いで学んだことが、自然とできる。
襖を開け、膳を運ぶ。
そうして、料理の説明をした後、正座で背筋を伸ばす。
着物は尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士向か向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにする。
「このたびは、私のことでお力になっていただき、ありがとうございました。至らぬ点を反省し、ありがたく精進いたしました。この御恩、決して忘れません」
佐久造は座礼した。
「おやおや、これはこれは……。随分と大人になったじゃあないか」
質屋の大旦那はからからと笑った。
「いやね、以前の佐久造も正直で私は好きだったんだが、この先のことを考えると、どうだろうと、ここの主とも話してね。ああ、それにしても見違えた。これからも楽しみにしているよ」
質屋の大旦那の懐の深さに、今更ながらに頭が下がった。
7
店が終わり、順番は逆になったが、主に礼を伝えようと思っていたところ、主の方から話があると呼ばれた。
佐久造は、昼間の質屋の大旦那の時と同じように、襖の開け閉めから行儀見習いで学んだ通りにし、主の前に正座した。
主とおかみさんが並んで座り、佐久造を迎える。
これまで気づかなかったが、主もおかみさんも、所作が美しい。
おかみさんが茶を淹れてくれる。
行儀見習いの師の元でいただいた茶と同じ香りがした。
この二人は小さな料理屋から始めたはずで、その間に子を育て、佐久造の面倒も見た。寝る間も惜しいほどに忙しかったはずである。
それなのに、二人とも、美しい正座のできる人である。
背筋を伸ばし、着物は尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
「行儀見習いの方は、無事に終わったようだな」
「ご報告が遅れ、申し訳ありません。私の至らぬことを、このように気にかけて直していただき、どうこの御恩をお返ししたらよいか……」
「そうか。それなら、早速頼みたいことがあるんだが」
「はい、なんでしょう」と佐久造は顔を上げた。
「おつたの祝言が決まった。その祝言の席で出す料理を頼んでもいいか?」
おつたとは、この店のお嬢さんである。
佐久造より一回りは下であった。
……もう、そんな年か。
佐久造が下足番をしていた頃に生まれ、お運びの仕事をしていた頃によちよちと歩いていた子である。
「……おめでとうございます。お嬢さんの門出にそのような大役を承り光栄です。精いっぱい、努めさせていただきます」
「楽しみにしているよ」と主は応じる。
「それから、少し気が早い話だが、おつたの祝言が終わったら、佐久造、お前の新しい店をどこに出すか、決めよう」
主はそう言うと、優しい目で頷く。
佐久造は主とおかみさんを見上げ、それから深く、頭を下げた。
揃えた手の甲に、涙が落ちた。
祝言の食材をどうしようかと考えを巡らせながら、佐久造は町を歩く。
あれから暫くした後、行儀見習いの師は、そこへ通う口実の弁当だけを謝礼として受け取り、銭の受け取りは一切しなかったと聞いた。それでも、弁当の代金から稽古の分を差し引いた不足分のお代をお支払いしたい、とまで言ったそうだから、本当に清廉なお人だ。
だが、こっちにしてみれば、それで人生が大きく拓けた。
弁当をいくつ持っていっても足りぬ、といったところだ。
かといって、それを素直に伝えてこれまで通り弁当を届けては、却って向こうの負担になり兼ねぬ。
何か理由をつけて、ついでに、というのがよさそうである。
まずは、お嬢さんの祝言の折、そのおすそ分けとして、心からの礼を込めた弁当を届けよう。ついでにあの主の嬉しそうな顔を拝めれば、それこそ、こちらにとって御の字である。