[130]第8話 書道のすヽめ


発行日:2008/11/16
タイトル:第8話 書道のすヽめ
シリーズ名:やさしい正座入門学
シリーズ番号:8

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
販売価格:100円

著者:そうな
イラスト:あんやす

販売サイト
https://seiza.booth.pm/items/3177710

本文

 「心を無にする」とは、何も考えないことだと思っていた。布団の中から天井を眺めていた私は、そう思いながら無に心を馳せようとしていた。
 でも、違った。人は生きている限り《ただ何も考えない事》なんてきっとできない。いや、むしろそれでいいのかもしれない。
 私が小学生の時にこんな事があった。
 場所は教室、私は前から三番目の席だった。次の科目は書道の時間で、生徒は先生が来る前にセカセカと水を用意したり、半紙を用意したりと忙しくやっていた。殆どの子は、墨汁液を持参していたが、中には自分で墨から磨りたがる人がいる。私もそうだった。書道セットの中の手触りの良い棒状の墨が、「ドーゾワタシヲ磨ッテクダサイ」と言わんばかりにスズリの横に置いてあったのだから、磨りたくなってもしょうがない。
 普段はみんな墨汁液を使うのだが、誰かが墨を磨りだすと途端にそれは周りにも感染する。今度は周りが墨を磨りだすと、自分もやってみたくなるのは人間の性だろうか……私も水をスポイトに取ってきて、スズリに入れた。そして、いざ磨ろうとした時に、誰かが静かに言った。
「心を無にして磨るんだぜ」
おぉ……彼は、全てを卓越した者のように言う。今にしてみれば、「っはん」と一笑したくなるようなキメ台詞だが、あの頃はそれがカッコイイことに思えて、何が何でも心を無にして磨りたくてしょうがなかった。
 透明な水に墨をつける→磨る→磨る→磨る。しかし、人間何も考えないことほど恐ろしい事はない。考えなくちゃだめだ。いや、考えるまでもいかなくとも、周りに注意くらいは払わなければいけない。「心を無にしよう、無にしよう」と頑張っていた私は、目を開けてある事に気がついた。
「前の人の背中が、ところどころ黒くなっている」
なぜなら、墨だからだ。いや、そんな事を言っている場合ではない。
 この時、私は本当の意味で心が無になった気がした。……いや、多分「無」などという境地とは程遠く、ただ《思考が停止した》。無にする事ばかりを考えて、墨を磨る力を加減していなかったのだ。ん?無にする事ばかりを考えて……《考えて》!やはりそうだ、そうなのだ。人の頭は、常に無になることは出来ない。真っ白に《なる》事はできても、思考を一時的に止める事ができても、行動し生きている時間を自分から「無」にする事など、きっとできない。力んで無にしようとすればするほど、更に考えてしまうのだ。
 考えている状態は、いわゆる「無」ではない気がする。それが神職の方に及ぶと、こういう「無」と同じかどうかは定かではないが……。
 ちなみに、前の席に座っていたその旧友は、自分も袖に飛ばしていたらしく、全く問題ないと笑ってくれた。なんて良い友人。なんて大らかな心。ごめんね、墨を飛ばした防災頭巾、椅子、背中!私もあの子のように大らかな、そして良い笑顔になりたいものだ。……その割には記憶の中の笑顔がぼやけていて、上手く思い出せないが。
 さて、そんなこんなで書道をしてみた。何かを書きたいわけではないが、いわゆる《無》の状態になって書道をしてみたいのだ。《無》といえば、なんだかんだ習字や墨を磨るという動作を連想してしまう辺り、私もステレオタイプの人間なのかもしれない。そうと決まれば早速用意をする……。《無》というものを考えるために書道をするとはいえ、用意をしている内に何だかワクワクしてきた。
【セットオン!】

 そして、墨を磨る……磨る……。磨っている内に、何か新しい事に挑戦している気がしてきた。幼い頃、学校の授業や夏休みの宿題で、嫌というほど書道をしたにも関わらず、である。幼い頃と同じ書道であっても、目的が違えば、また別物なのだろうか。この新鮮さは、ただ単に懐かしがっているだけではない気がしている。
 まぁ、それはいい。そんな懐かしい思い出に心を馳せたりしている内に、何だか墨汁にキラキラしたものが見えてきた。これぞ幼い頃にどこに消えるのか不思議だった、墨の彫りを埋めている金ぱくである。大人になってこうして見てみると、案外謎は単純だったりする……。
 漆黒の中で光る金ぱくは綺麗だな……塗り物のようだな……なんて思っていたら、
【あ、いつも磨っていた方向と逆側から磨ってしまった】結局、全部使う事を考えれば、どちら側から磨っても同じかもしれない。いや、しかし、次のように考えてみると分かりやすい。
「先の丸くなった鉛筆を削ろうとしたら、間違えて反対側を削ってしまった」
機能性は大して変わらないが、気持ちの上でこれはちょっとしたガッカリかもしれない。今更だが、私はおっちょこちょいである。
 それはそうと、気づけば雑念ばかりである。これでは「無」など程遠い。《雑念ばかりの書》というのも面白い響きであるのだが、今は「無」について考え(?)たい。
 それから私は、「この金ぱくにはなんの意味があるのだろう」「書いてる時に金ぱくが悪さをして変な線ができたらどうするんだろう」などという雑念を払いながら、墨を磨り続けた。磨っている間は、実に不思議だった。普段、何の音もしていない静かな場所に居ても、ちょっとした雑音やキーンという音が気になるのに、今だけは何も気にならなかった。磨る事に集中している、というよりは、頭と体に一本筋が通っているような、《研ぎ澄まされたような感覚》である。

 さて、墨を磨る姿勢だが、あなたが墨を磨る時はどうしているだろうか。今、私は椅子に座って磨っている。当初、私の頭の中では書道は日本のもので、正座で行うのが一番だと思っていた。
 しかし、よくよく考えてみると、書道とは元々中国から入ってきたもの。だとすると、椅子に座って書くのが本来の書き方だろうか。もうひとひねり考えてみると、日本に入ってきた時点で日本風にアレンジされているのだから、どんな書き方だって良いのだろうか。ならば、私はやはり正座を推奨する。なぜなら、私は墨磨りをしていて思ったからだ。
「正座だと磨りやすい」
書道の教科書などにも、椅子に座ったままでの正しい磨り方は載っているし、足とお尻に重心をかけて踏ん張る事で、安定して綺麗に書きやすく・磨りやすくなるという人もいる。まぁ、二箇所で踏ん張れば安定はするだろうとは思うのだが……それは置いておいて……。
 磨りやすい理由は、ご自身で確かめられた方が良いだろう。言葉だけだとなんとなく複雑なので、実際にしてみた方が納得がいくと思うのだ。どうするのかというと《エア墨磨り》である。これは、実際は手元に墨が無いが、あるように想像して動作をしてみる事である。つまり、《エアギター》もしくは、《エアあやや》のようなものである。
 まずは、椅子に座った姿勢で磨ってみて欲しい。次に、床に正座をした姿勢で磨ってみて欲しい。何か感じられただろうか。まず前者だが、書道を椅子に座って行う場合、当たり前だが椅子には机がついている。そして、当然、墨は机の上で磨る……私は、どうもそれが苦手なのだ。だって、机の上で磨ると、腕が直角、又は斜め下に動くじゃないか。よく分からなかった方は、消しゴムで想像してほしい。そして、余裕があれば《エア消しゴム》にトライである。机の上で、ケシケシと細かく腕を動かすより、広い床の上で腕を自由に斜め上に引き上げる方が、消しやすくはないだろうか。これはかなり個人的な意見かもしれないが、私はそう思った。
 ちなみに、もっと他のやり方は無いかと、立って床のスズリを磨ってみたが、ダメであった。どうにも細かい作業を離れた場所からするには、難しいらしい。更に、ダメ元で横になって磨ってみたが、これはもっとダメだった。磨る度にバランスが崩れるし、何より眠くなるのだった。あれはやる気をそぐ姿勢かもしれない。少し涅槃(ねはん)を想像して仏教のそれっぽく磨ってみたのだが……恐るべし、横寝。
 それらを踏まえて、もう一度「書道」というものを考えてみると、やはり畳(床でも良いが)の部屋で正座して書くスタイルが一番あっているように思える。やはり、その時代に築かれた文化は、その時代の生活に合ったものである。丁度、日本が習字に合った暮らしをしていたから、きっとその文化が根付いたのだろう。

 さて、そんなこんなで、一番磨りやすいと思った和室で本格的に書いてみた私だが、特にこれといって字が上手くなった等のことはなかったので、書いた書は撮らないでおく。本当は撮るつもりだったのだが、いくら場所を変えようが、いくら書きやすかろうが、元々の字の上手さは練習あるのみだという事を思い知ったからだ。久しぶりに書いた書は、見られたモノではなかったのである……トホホ。
 とまぁ、やはり書きやすさは大事で、姿勢も大事である事は確認できたので万事良しとしよう。表面だけに限らず、何かをする時の《姿勢》は、大切だ。それによって行動が変わり、結果に影響すると思うのだ。

 話しは最初に戻るが、色々考え、そして実際に書道をしてみて思った事がある。やはり、人は《心を空っぽにすることは出来ない》。いや、もしかしたら、空っぽな状態を心とは呼ばないかもしれない。しかし、集中したり研ぎ澄ましたりすることは出来る。悟りを開く、まではいかなくてもいいと思うが、心を研ぎ澄まして、《雑念などを受け付けない状態》こそが、いわゆる一般的な「無にする」の意味になるのではないか、と思った。

 さて、ここに、長きに渡って親しまれている般若心経の写経がある。全て漢字で書かれている経文だ。
 悩みで心がいっぱいの時、気分を変えたい時、精神を統一したい時などには、ただひたすらに、無の境地に心を馳せてみてはいかがだろうか。世の中、「どうでもいい事」が目立って、気になって仕方ない。それを時には、重要な事と思い込んでしまう事も、しばしばある。人間、たまには、心を無にした方が、良い考えがひらめくと思う。《雑念を払って》、本当に大切な事を見つけてみよう。

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