[106]正座のスーパーガール


タイトル:正座のスーパーガール
発売日:2020/12/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:14

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:40
定価:200円+税

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
某出井高校生徒会長の大史は、意見交換会で知り合った某瑛高校生徒会役員の慈(めぐみ)に、学校見学会での茶道体験の見本を頼まれる。
了承した大史だったが、某瑛高校は自由な校風の某出井高校とは異なり、日本文化を学ぶ上品な学校だ。
茶道体験で失敗すれば慈にも迷惑がかかると考えた大使は、お花の教室に通っている某出井高校の女子二人に頼み、お花の教室に来る予定のお作法の先生から正座のご指導いただけることになり……。

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本文

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 短パンで駆けあがったプールサイドは初夏の日差しで熱く乾いていて、塩素の匂いが鼻腔を満たした。
 青く透き通るプールの水面はきらきらと光り、その中へ美しいフォームで飛び込む水泳部員が一定の間隔を開けて泳いで行く。
 跳ねあがる水しぶきは、端場久の心を子どもの頃のプール開きを思い起こさせた。驚くほどに冷たい水と背を照らす日差しの熱さの記憶は、心を否応なく高揚させる。
 そして今、久は某出井高校の水泳部の初の撮影で、新たな感動の中にいた。
 それぞれのコースから同時にプールに飛び込んだ部員の中で、ひと際目を引く選手がいた。否、一年生で水泳は初心者だと後で聞いたことを考えると、厳密には選手ではないのだろうが、久からはどう考えても『選手』と呼ぶにふさわしい、そんな泳ぎだった。豪快にしぶきを上げたバタフライだが、そのフォームは専門的な技術を知らぬ久から見ても、とてもきれいだった。
 写真部の先輩は首から提げた大きな一眼レフカメラですでに撮影を開始していて、久も慌ててスマートフォンをカメラモードにして写真を撮った。
 撮影に集中する写真部のシャッター音を傍で聞き、プールからは絶え間ないしぶきの上がる水音が響き、その間で久は一人、二つの凝縮した世界から置いて行かれている気がした。それは、高価なカメラを使いこなしている先輩や、身体能力を活かし、泳ぎを心から楽しんでいる水泳部員、いわば『夢中になる』ことの中にいる人と、そうでない自分との違いだと感じた。そして多分、久のように人との差を意識する時間もないほどに、満たされた時間を過ごしてきたと思われる、豪快なバタフライで泳ぎ切り、プールサイドに上がってゴーグルを外したのは、同じクラスの間中永だった。
 この時久は、間中永が運動全般を得意とするスポーツ少女なだけではなく、きれいな正座で生け花もできる、久にとってのスーパーガールであるとは考えもしなかった。

 写真部でよく行う運動部の撮影は、ポーズを決めた自撮りやインスタにあげる新商品のお菓子や、友達と連れ立って行った絶品ラーメンとは違う、ということを久は思い知らされた。水泳部の撮影は、プールに飛び込んだ瞬間をとらえたと思った写真はぶれていたり、もう着水していたりで、満足に撮れた写真は残念ながら一枚もなかった。それを見た先輩たちは大爆笑だったが、「気持ちはわかる。これからだ」と明るく力づけてくれた。
 その後、バスケ部の撮影でもシュートの瞬間も見事に失敗したし、テニス部のサーブの瞬間も撮れていなかった。
 写真を撮る、ただそれだけだと思っていただけに、自分の考えがいかに甘かったかを反省する。
 しかし、そうした中で、久は失敗に終わった水泳部の画像を密かに残していた。
 写真自体は全くの失敗の連続だったが、あの時、瞬時に過ぎていく感動をどうにかして留めたい、と心の底から思ったことは、残しておきたかった。
 久の通う某出井高校は、自由な校風と部活の盛んさで知られている。
 制服は黒をベースにしたブレザーにズボン、スカートの何世代も前のデザインだが、多くの生徒はその制服に私服を合わせて登校しており、制服のモデルチェンジの要望は全く出ていないらしい。
 久も周囲の様子を窺いながら、制服のズボンに私服のシャツを合わせて登校するようになり、夏のような陽気の五月の今日はTシャツ着用で登校した。両親は某出井高校の校風については知っているものの、入学早々にそんなに自由な服装で登校して大丈夫か、とやや心配していたが、この高校の生徒会長をはじめとする生徒会役員がかなり自由な服装で登校し、全校朝礼などでも先生に咎められているのを見たことがないことから、大丈夫だ、と確信している。
 少し前には部活が盛んな高校故の悩みである部活の予算配分についての新しい案が出された、というので多くの部は部長と副部長、或いは部長とマネージャーが出席したのだが、写真部の副部長が昨夜遅くまでネットを見ていて寝不足だと言うので、その代理で久は一年生の新入部員であるにも関わらず、その説明会に出席した。その時も生徒会長は体育祭の色別対抗リレーで着るような原色の青の私服でいたし、他の生徒会役員もテーマパークへ遊びに行くような服を着ていた。この日、予算についての説明を行ったのは同じクラスの鹿毛山計太だったが、計太もほかの生徒会役員ほどではないが、明るい色のボーダーのポロシャツだった。それに対し、落ち着いた色合いの久の私服など、もしこの学校でも世間一般の制服に沿った『模範』の基準が存在するとすれば、模範まではいかなくとも、無難な類に入る。
 しかし、某出井高校では、学校内外、また一切学業や功績に関わらず、毎日を何かしら楽しめることが生徒の大きなバロメーターになっている。
 クラスどころか、学校中の誰も知らなさそうな古い洋楽ばかりをこよなく愛する生徒や、アートな作品を作って店に委託で置いてもらっている生徒、アイドルを目指してスクールに通っている生徒、祖父母の家の畑を手伝うところから、新たな野菜作りに没頭する生徒と、実に毎日の過ごし方はさまざまで、それは某出井高校に限ったことではないのかもしれないが、某出井高校の最大の特徴はそうしたそれぞれの心を占めるものを、周囲が実に好意的に応援することだ。十代で見つけた何かは、時に周囲の価値観によって大きく揺るがされ、それにより時には損なわれる可能性がつきまとう。それが嫌で、心の奥に仕舞って、自分だけで守る秘密主義はありがちで、久自身、それが普通であり、ある種の十代の特別さだとも考えていた。しかし、心を占めるものを人に堂々と言える、ということがどれほど自尊心を強くし、夢へ近づけてくれるか、ということを某出井高校に入学し、一ヶ月余りの間に深く学んだのだった。そして、それぞれに温めているもののある人を目の当たりにする日々の中で、久は何度も自分を振り返った。
 某出井高校の生徒会長は、調子がいいだけに見えて、司会、進行、あいさつなどが砕けているようで実にうまく、頭の回転がよくて記憶力に優れた、そして何よりも毎日を楽しそうに過ごしていると思われ、職員に信頼され、生徒に慕われている。三年の生徒会長と一年生の久とは二学年の差はあったが、二年を費やしても久はとてもあの生徒会長には届かないと思う。遠くから見ていても、いつも肩の力を抜いていて、誰に対しても朗らかで、失礼ながら能天気というか、あんまり物を考えていなさそうで、全校集会の時に先生の話で会場がざわめいていればそれをさりげないフォローで鎮め、体調が万全でなく立っているのが辛そうな生徒をいち早く見つけ、保健室に行くよう促し、朝礼での生徒会報告を短時間の説明で切り上げたりしている人だ。
 久はポケットに入っているスマートフォンの存在を確かめる。
 久の入った写真部は、大人顔負けの一眼レフカメラや三脚を所有する部員から、デジタルカメラやスマートフォンで撮影する部員までさまざまで、その活動方法も比較的自由だ。それが久が写真部に入った理由のひとつだったが、きっかけは、入学時に入部したい部を決めていた何人かのクラスメイトとの付き合いであちこちの部をまわり、その時によく出くわした写真部の活動に心ひかれるものがあったからだった。久自身は何か新たに運動を始めてもいいとも思っていたが、どうしても、という希望がまだない中で、入学前にこの学校はいい、と思ったそれぞれに生き生きした部活動をこうして撮影し、残しておける部というのが、一番希望に近い気がした。
 そうして久は写真部に入部し、先輩達についてあちこちの部の撮影に参加するようになった。
 写真部は文化祭にこれまで撮りためた写真を掲示して発表するが、その時に撮影したほかの部の部員に許可を取ることになっている。しかし、それは某出井高校では建前というか、部活に入部した時点で部員に写真部や学校の広報などの撮影が入ることは説明されており、事前に了解は得ている。
 更には久も出席した先の生徒会の予算説明会で、新たな予算配分の提案がされ、今後映像部や写真部は各部活の記録係要員として呼ばれ、そうした撮影でかかる費用を部の予算として出してもらえるようになり、撮影を依頼した部も以前のような保護者の協力や撮影のためのカメラなどを個人で新たに購入したり私物を持ち寄る必要がなくなる、という部活同士の互助的な方法が取られることになり、写真部への需要もできた。しかし、写真部の部長はとても真面目な人で、もし仮に自分は人に見てほしくない写真を知らない間に撮られて、大勢の人の前に掲示されたら嫌だ、という考えから、文化祭前には忙しくとも各部を回って作品を事前に見せるようにし、依頼されての写真撮影をするようになってもそれは変えないと話していた。そうした面も久は好感が持てた。その部長の撮る写真はカメラが高性能であることもさることながら、とても重要な瞬間を実に的確に捉えていた。生徒会長に抱いたのと同じように、久はこの部長にも、例え自分が高性能なカメラを持てたとしても届かない、という思いがある。けれど、久の中で、もっと微細に、きれいな撮り方をしたい、という思いが生まれた。あの水泳部での撮影の時、僅かの間でも遠くに感じた『夢中になる』位置へ、行きたかった。写真部の先輩と、間中永のいる、あの位置へ少しでも近づきたかった。
 久が写真を撮る上での目標を抱いたきっかけとなった間中永は、同じクラスの女子だった。
 正直、この時まで久は間中永が水泳部であることも、おぼろげにしか知らなかった。
 某出井高校の水泳部は文化祭でシンクロを披露し、高い人気を誇っている。そのシンクロに感動し、水泳部に入部する人がいる、という話は以前から聞いていた。新学期の自己紹介では、後居ウタという、ほっそりとしていて真面目そうで、好んで制服を学校パンフレット通り着ている、この学校では希少な存在であり、正直かなりかわいい女子が初心者ながらに水泳部に入る、と言い、クラス中が湧いて、久も水泳部といえば後居ウタ、という認識で、久も心の中で勝手に応援していた。
 だから、誠に失礼ながら後居ウタと行動を共にしている水泳部の間中永はあまり意識していなかった。
 それ故というのもあっただろうか、わからないが、久は水泳部での撮影で間中永の泳ぎを見て、心から驚き、感動した。
 そして、ふと人に自信を持って見せられる写真一枚撮れていない自分の現状に落ち込む。
 某出井高校の生徒に限らず、もちろん皆が皆、目的や夢へ向けた道のりが順調というわけではないだろう。今はうまくいっていなくとも、これから、と前向きに捉えているところにいる生徒もいるとは思う。けれど、それにしても今の自分の写真では、とても『写真部で頑張っています』とは言えない。
 悩んだ久が先輩に間中永のことは伏せ、写真がうまくなるにはどうすればよいかと相談すると、あくまでも持論だけど、と前置きした上で、写真の練習はもちろんだが、写真以外のほかのことを磨くのもいいのではないか、と言われた。ほかのこと、と言って久に浮かぶものはすぐにはなかったが、先輩が言わんとすることは理解できた。そのために何をしよう……、そう考えている時、ちょっとした出来事があった。


 学校でおそらく一番有名な生徒であろう生徒会長が、久のいる教室を訪れた。
 廊下側前の席の男子に生徒会長は声をかけ、間中永と後居ウタを呼んでほしいと頼んでいる。
 教室内ではこの日ある小テストのための勉強を友達同士や個人でそれぞれ行っていたが、生徒会長の訪問に一気に意識が教室の入り口に集中した。頼まれた男子は生徒会長と楽しそうにふざけながら、間中永と後居ウタを呼び、二人は廊下で生徒会長と何やら話し始めた。久は三人の様子が気になり、トイレに行く振りをしながら廊下に出て、様子を覗った。三人はポケットから携帯を出して連絡先の交換をしていた。生徒会長が呼んだのは女子二人で、交際申し込み云々ではないのはわかっていたが、久は内心気が気ではなかった。大抵の女子は、否、男子もかもしれないが、生徒会長と話すと喜んでいる。一般的に見て、間中永と一緒にいる後居ウタの方がかわいい、と称される女子だから、生徒会長とて、もしこの二人のうちどちらか、といえば後居ウタの方が気になるのではないか、と久は邪推するが、間中永だって生徒会長に教室まで来て呼ばれれば嬉しいだろうし、生徒会長ほど人気のある男子であれば、一般的にかわいいと称されるであろう後居ウタよりも、さわやかで、潮の香りが漂ってきそうな、似たような子のいない、間中永をいいと思うのではないか……。
 ぐるぐると久は迷走を続け、トイレでおざなりに手だけを洗って廊下に出ると、生徒会長はとっくにいなくなっていたし、間中永と後居ウタも席に戻っていた。
 久は胸中穏やかでないまま、通常通り授業を受けた。
 そしてこの日、間中永が担当している教師の資料とクラスで集めたノートを教室から運ぶのを見て、「手伝うよ」と後を追った。
「いいよ、大丈夫」と間中永はさわやかに笑って、もし女子高にでも行っていたら、文化祭の劇あたりで王子様役をやっていそうだとつい見とれ、「ちょうど職員室に用事があるから、そのついで」と口実を作って、資料の上に山積みになっているクラスで回収したノートを全て抱える。
「ありがとう。だいぶ軽くなった」と間中永は言った。
「今日も、これから部活?」と訊くと、「ううん、違う。そっちは?」と訊かれ、「今日は体操部の撮影」と答えた。多分、また失敗作ばかりだろうけど、という呟きは心に留めた。
「この前、水泳部の撮影も来てくれていたよね」と間中永が言い、その「来てくれていた」という表現が嬉しくて、久は頷いた。本当はここで撮った写真を見せられればいいのだが、失敗作ばかりでそれができないのがもどかしい。久は気を取り直し、話を続ける。
「間中さん、水泳部だったんだね。すごく楽しそうで、撮影していても楽しかったよ。運動神経がいいのも僕でもわかるし、運動全般得意そうだね」
「まあ、昔から何かしらやってはいたけど、水泳は初心者。だけど先輩がフォームとか、本当にわかりやすく教えてくれる部だから上達もできる。それに、最近なんだけど、華道教室にも通うようになったから、本当に高校に入って新しいことを始めているところ」
「……華道教室?」
 久は耳慣れない言葉に訊き返した。
「うん、スポーツのクラブとか、そういうのは結構入っていたんだけど、華道ってやってみたいと思っていてもなかなか勉強できるところがなかったんだよね」
 この、ただ廊下を歩いているだけでも躍動感あふれる雰囲気の間中永が正座をして花を生ける、というのが失礼ながら久には想像できないまま、頷く。
「確かに。ヨガとか、英会話とか、パソコンとか、そういう教室なら駅の方で見かけるけど、子ども向けとか大人向けが多いし、僕たちの年代が習い事で行くっていうと、まず予備校になるよね」
「そうそう。だけど、たまたま公民館でやっている、すごく入りやすいところが見つかって、ウタが一緒に入ってくれて、通っているんだ。その教室が今日なんだけど、生徒会長も生徒会の後に来ることになったんだ」
 生徒会長の名前が出て、久はやや顔を強張らせた。
 もしかして、間中永と仲良くするための口実に一緒に華道を始めるということだろうか。あの如才ない会長のことだ。すぐに華道もマスターして、間中永に尊敬され、それに対して気さくさ全開でどんどん仲良くなっていく、という筋書きがあるのでは……。
「でも会長、忙しいんじゃない?」と久は訊いてみる。
「うん、そうだと思う。今日も生徒会の後に来るんだし。別に華道を始めるんじゃなくてね、なんか茶道体験に呼ばれたから、その前に正座をきちんと学びたいんだって。それでちょうどそういうお作法の先生も、華道の先生つながりで来るから教えてもらうってこと」
「あ、そうなんだ」
 学校から華道教室までこれからずっと一緒に通って、華道を学ぶのではと勝手に思っていた久は、少し安堵する。
「うん、ぶつけ本番でやっている人かと思ったけど、割と慎重なんだね」
 間中永はそれ以上会長に興味を抱いているふうでもなくそう言って、楽しそうに笑っている。
 話しているうちに職員室が近づく。
 今だ、今しかない、と久は思う。
「あの、僕さ、写真部の初心者で、今、いい写真を撮るために、いろいろほかのことも勉強しようと思っているんだけど、その華道教室、今度僕も入ることってできるのかな。それとももう募集は終わった?」
 思い切ってそう訊いてみると、間中永は構える様子もなく、「ううん、毎回行った時にお金を払って、先生に教えてもらえるの。もちろんずっと前から通っている大人もいるし、時間がある時だけ来る小学生もいるよ。私とウタは生け花教室の日が毎週部活がない日だから毎回通えているけど、行けなくなった日があっても連絡の必要もなくて、すごく良心的な教室なの」と間中永たちの通っている華道教室について教えてくれた。
「じゃあ、今度、僕も行っても平気かな?」
「うん、大歓迎だと思うよ」と間中永は笑った。
 そして、「明日にでも華道教室の場所と時間、先生の連絡先と一応私の連絡先、教えるね」と言い、到着した職員室のドアの前で大きく「失礼します」と言ったのだった。


 翌朝、間中永は教室で久の前まで来ると、「昨日言ってた華道教室と、連絡先」と小さな紙を渡してくれた。
 そのやり取りが嬉しくて、妙に緊張して久は何度も頭を下げ、「ありがとう」と言った。
「来週の華道、私とウタ、部活の臨時ミーティングがあって少し遅れるけど、一人で行ける?」
 そう訊いた間中永に、久は大きく頷き、「大丈夫」と答えた。
 写真部の活動は大丈夫なのか、とも間中永は心配してくれたが、写真部は現時点では慣れない一年生のために団体で行動しているが、基本的には自由行動で行うので問題ない、と久は写真部の活動について説明した。
 こうして次の華道教室の日、久は公民館の華道教室を一人で訪れた。
 引き戸を開け、「あの、今日初めてなんですけど」と言うと、慣れた様子の受付の和服の女性が「どうぞ」と迎えてくれた。名前を書きながら、久は「同じ高校の人に教えてもらって来ました」と伝えた。
「永ちゃんとウタちゃん?」と訊かれ、厳密には教えてくれたのは間中永だけだったが、「はい」と頷いておく。
「華道は、初めてですか?」
「はい」と頷き、本当に来てよかったのだろうかと一瞬不安になった久に、「うちの教室は先生のお考えで、出入りも、発想もとても自由なんですよ。もちろん、ご指導はきちんとしてくださいますけど。だから、小学生の生徒さんも多くて、『とても感性豊かな作品に出会えて、学ばせてもらうことの方が多い』って先生もおっしゃっているんです」と受付の女性は説明してくれ、「先生、今回初めての生徒さんです」と、奥で小学生の姉弟と思われる二人の指導をしていた和服の女性に声をかける。振り返った和服の女性のその先に、色とりどりの花を小さなガラスの花器に生けた作品と、大きな陶器の花器に淡い色の葉をふんだんに使った作品とが見えた。
「初めまして」と微笑んで、立ち上がる先生を前に、久は「あの、」と言い、「僕、某出井高校の写真部なんですけど、その作品、撮影してもいいですか」と訊いていた。先生と受付の女性は顔を見合わせたが、「今日は、お花のお稽古かしら、それとも部活の撮影でいらしたのかしら」と先生に訊かれ、久は「あ」と思い、「僕は写真の初心者で、もっといい写真を撮るために、お花の勉強をしたいと思って来ました。お花のお稽古でお願いします。ただ、その、すごくその作品がよかったので、もし差し支えなければ撮らせてもらいたいのですが」と説明した。
 先生は「そういうことなら」と頷いて、小学生と思われる姉弟に「このお兄さんが二人の作品を素敵だから写真に撮りたいって言っているんだけど、いい?」と訊き、二人が頷くと、久を振り返った。
「いいそうよ。ただ、一応、二人のおうちの方が迎えに来た時にもこのことはお話して、万が一許可が取れなかったら画像を破棄してもらうことになりますけど、それでいいですか?」
 柔和な物腰だが、この教室の責任者としてのしっかりとした面が感じ取られ、久は「もちろんです。無理なお願いをしてすみません」と言った。
「いいえ。うちとしても、そんなふうに見てくれる方がいることも、作品をそうして撮影していただけることも、嬉しいことですよ。ホームページにたまに作品を掲載するんですけど、私、あんまり写真が上手ではないから大変なの」
「あの、もし、僕でお役に立てれば、写真のデータをお送りします」
「まあ、そこまで……」
「でも、僕もまだ本当に写真は始めたばかりで、まだスマートフォンでの撮影なんですけど」
 そう言って、じゃあやっぱり、と遠まわしにホームページの写真の件は断られるか、と久は思ったが、「まあ、二人三脚で進歩できるってことね。こちらのお花の教室と、写真のお勉強と」と先生はにこやかに笑った。
 そして、「では、撮影の方が終わったら、お花を始めましょうか」と言ってくださった。


 久はその後、ほかの大人の生徒さんたちの作品も撮影させてもらった。これまでの俊敏に動く運動部の撮影とは違い、花を撮るのはさすがにぶれたり、肝心の花がまるで写っていないということはなかった。久にとっては、これまでの写真と比較すればよい出来だが、さまざまな写真を撮っている写真部の部長の意見をもらわないと、まだ何ともいえず、自信がないところだった。
 それでも一心に写真を撮る久を華道教室の先生も大人の生徒さんもとても良心的に受け止め、喜んでくれたのがありがたく、このご厚意に応えられるよう、もっと上手くなりたいと久は思った。
 そしていよいよお花を生ける、という時になって、間中永と後居ウタが教室へやって来た。
「あら、じゃあ、三人で始めましょう」と先生は言い、二人がお花や花器を選んでいる中、久も先生の助言を受けながら二人に倣った。
 初めてのことなので戸惑いつつ、花器やはさみを前にした久だったが、ふと見ると間中永がとてもきれいな姿勢の正座で花を生けていた。昔から運動を続けているからか、もともと姿勢がよく、身体の均整も取れていると思っていたが、こうして静かな場で自分の世界へと入っていく間中永もまた、久を引きつけた。あんなにも躍動的で美しい動きをする上に、静の世界でも自身を確立しているとは……。間中永は、どこにもいない特別な女の子だと久は改めて思った。
 花を生けながら、何度が座り直していると、間中永が「正座で生けるとわりと落ち着くよ」と声をかけてくれた。
「いや、でも、苦手で」と久は言葉を濁した。
 いつも自宅のダイニングの椅子がソファに座り、自室では寝転がってスマートフォンをいじっているので、きちんと正座をして何かをするという習慣がなかった。
「まあ、私も最初は正座が苦手で困ったんだけどね」と間中永は、久に同意するように頷いた。
「正座の仕方を教えてもらって、だんだん慣れてきてからは、大丈夫になったよ。まあ、無理にずっとする必要はないと思うけど」
「あの、よかったら、教えてもらえるかな」と久は言った。
「私でいいの? きちんとした先生に教えてもらった方が……」
「永がきちんとした先生に教えてもらったんだから、それをそのまま教えられればいいんじゃない?」と、後居ウタが言った。久が間中永を特別だと思っていることを見透かされたか、と動揺したが、後居ウタはこれといった裏の意味のない表情で、本当に何でもないことだが、こういう素の部分で後居ウタはいい子なのだ、さすが間中永と友達だけある、と妙に感心した。
「そうか。じゃあ、私でよければ……」
 間中永はそう言い、立ち上がった。
 間中永が久の隣にやって来て、久は緊張する。
「まず、端場くん、姿勢を直そうか」
 間中永はそう言って、久の背を正した。
 やや凝っていた背がすっと伸ばされて楽になる。
「膝はつけるか、握りこぶし一つ分離れるくらいで」
 昔からスポーツをやっていて人との距離が近いだろう間中永がすぐ傍に来て、指導してくれる。
「あれ、また肩に力入ってない? 大丈夫?」
 不思議そうにしている間中永に「一人で教えられると緊張するかもね」と後居ウタが言い、久の隣に正座をする。
「スカートはお尻の下に敷くんだよね」と後居ウタが、スカートの時の正座についても教えてくれる。
「そうそう、足の親指同士は離れないように」
「はい」と後居ウタが笑ってそれに従う間に久は足の親指同士をつける。
「そうそう、手は膝と足の付け根の間でハの字になるようにして」
「どうかな……」とまだ緊張は解けないものの、後居ウタのおかげで正座に集中できてきた久が訊くと、「いいと思いますよ」と後ろからお花の先生が声をかけてくれた。
「私もお作法の先生ではないですけど、きっと褒めてもらえると思います」
「ありがとうございます」と久は正座の姿勢でお礼を言う。
 正座でお礼を言うと、より心が込められているような気がしてくる。
「それでは、お花の方、続けましょうか」と言われ、久は正座のまま先生についてもらい、生け花を再開した。


 生け花を習い始め、久は部活以外でも学校帰りのふとした風景や、ビルの軒下のツバメの巣の様子、道の端に咲いている花などを撮影するようになった。生け花で実際に花に触れることにより、以前より被写体の微細な部分を表現する意識が高まったと感じる。
 正座の方も生け花の教室以外でも意識するようになり、剣道部や柔道部の練習の撮影の際には、撮影で歩き回るまでの時間、正座をして待つようになり、顧問の先生や先輩から思わぬところで褒められることもあった。その話の流れで、今度の練習試合の撮影を頼みたい、と言われた時には驚いたが、部長は「普段から所作のきちんとした人は、やはり信頼される、ここは部全体で見習いたい」と言った。久は生徒会長や部長の優れているところには及ぶことがないだろうけれど、自分にとって伸ばせるところもあるのだと学んだ。
 生け花教室では、間中永が近くにいると相変わらず緊張するが、それでも各段に上達していると先生が目を細めて頷く。ありがとうございます、と言って、間中永の作品を見れば、とても繊細で優しい世界が小さな花器の中に広がっている。間中永の姿勢はいつも真っすぐで、その真っすぐさは、間中永の心と同じだと久は思う。心にあるものを表現したい、という素直さが生け花というひとつの表現によって、今、ここにあるのだと思う。生け花は展示会のほかは、生けた後に花を包んで持ち帰る。だから久はその前に、いつも間中永の作品を撮影する。撮影した画像は先生と間中永に送っている。もちろん、ほかの生徒さんの作品も久は撮影するが、仮に誰の作品かを伏せて撮影したとしても、いつも一番心引かれるのは間中永の作品だという確信があった。
 季節は春から夏へと移り、増額された部の予算で格安購入できた中古のカメラを借りて久が水泳部の記録会の撮影に臨んだ際には、間中永が自己ベストを出し、水泳部員に満面の笑みで手を振る瞬間を撮った久の写真がコンクールに応募する作品として選ばれることになる。


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