[77]正座の未来
タイトル:正座の未来
発売日:2020/01/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:6
分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:40
定価:200円+税
著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル
内容
某瑛高校一年の朝子は、夏休みに学校説明会にやって来た中学校時代の後輩男子、夕紀に会う。
夕紀と朝子は小学生からの付き合いで、朝子の受験が終わった中学三年の春休みには一緒に出かけもする仲だ。
某瑛高校入学を夕紀は検討しているが、某瑛高校は夕紀と異なる大人しい男子が多く、正座をするお作法やお花、お茶の授業があるのが不安だと言う。
夕紀の不安を解消するため朝子は中学の先生に正座指導を頼み、夕紀を文化祭へ誘う。
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本文
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1
某瑛高校一年の上部朝子は、七月下旬の夏休み中、文化祭準備のための登校で、その日中学生向けの学校説明会があることを思い出した。
夏休みの午前九時半の電車内及び通学路は人もまばらなはずだったが、この日は緊張の面持ちの親子連れが電車内から通学路に多く見られた。通学路の途中で学校の先生にも会った。某瑛校では、駅からほぼ直線の通学路にも案内のため教師が待機している。
「おはようございます」、「学校説明会の方ですか? この道を真っ直ぐお進みください」といった声かけが繰り返されている。
一年前は朝子も失礼がないようにと緊張しながら挨拶をした先生からも、今では「おはよう」とか「今日は文化祭の準備?」と声かけを頻繁に受ける某瑛校の一員になった。
そうした今や気軽な挨拶の中で、「朝子先輩」という訊き慣れた声に朝子は振り返った。高校一年生の朝子を「先輩」と呼び、しかも「朝子」と呼ぶのは、振り返る前からわかっていた。
「夕紀、どうしたの?」
朝子は驚きと嬉しさで、そう訊いた。
早田夕紀は、中学時代の朝子の一学年下の後輩男子だった。朝子が小学校高学年から中学校三年まで通っていた塾での四年間と、三年間務めた図書委員で二年間一緒だった。塾はアットホームな雰囲気で、同学年だけでなく、ほかの学年とも交流があったことと、図書委員会では夕紀が朝子の後に委員長を引き継いだことで、自然と仲良くなった。そして、朝子は夕紀をかわいい後輩だというほかに、中学を卒業して会えなくなるのは寂しいという思いがあった。それは夕紀も同じだったのか、卒業式の日に夕紀は朝子のもとへ来て、「受験のお守りに校章をください」と頼んだ。朝子は「来年、高校合格したら夕紀の校章をくれるならいいよ」と言った。
その後春休みに一緒にプリクラを撮り、ずっと行きたかったパンケーキのお店に行った。たまに携帯電話を利用したSNSで短い会話を交わしたが、夏休みに入り、夕紀が受験で忙しくなることは同じ塾に通っていた朝子は十分に理解していたので、朝子からは連絡を控えていた。
その間に、高校生になった朝子の周囲ではとなりのクラスの三人の男子が素敵だと騒ぐ子たちを筆頭に、浮き足だった雰囲気が上昇し、入学後に仲良くなった朝子の友人、ハルカまで同じクラスの世田協太と何やらいい雰囲気になりつつある。どこか寂しさを感じながら、真面目に学業に専念し、文化祭準備もさぼらずに参加していた朝子にとって、夕紀との再会は思いがけない嬉しい出来事だった。
色々話したいこともあったが、夕紀は母親同伴で学校説明会に行く途中ということもあり、朝子は二人を気遣い「じゃあ、またね」と先に行こうとした。しかし、小学校から塾で頻繁に会っていた夕紀の母は「急いでいるの?」と訊き、「いえ、教室に十時集合なので」と曖昧に答えた朝子に「説明会も十時からなの。一緒に行きましょうよ」と屈託のない笑顔で誘った。
にこにことする夕紀の母の前で、朝子は夕紀に「図書委員の方、どう?」とか、「夏休み、学校の宿題もあって大変でしょう」と無難な話題を振った。夕紀は朝子の在学時の担任の先生や、図書委員担当の先生の最近の話を加えて返した。なごやかな雰囲気で歩を進め、朝子と夕紀の会話が一段落したところで、夕紀の母が「すごく先生も生徒さんも感じがいい学校だって聞いていて、夕紀もここに入れたらいいんだけど、朝子ちゃん、どう? その分きちんとしないといけないとか、校則が厳しいとか、正座をする授業とか、そういうのはうちの夕紀大丈夫かしら」と、朝子に尋ねた。
急な質問に、朝子は夕紀を見た。夕紀は去年より背が伸びて、入学した頃からの「かわいい後輩」という感じでもなくなってきている。基本的なことは守るので、塾での宿題忘れでの居残りを見たことや委員会のさぼりはなかったと思う。ただ一方で、些細なことでも本人が納得できなければ塾に入って間もない頃でも先生に反抗期特有の生意気な口調で突っかかることもあったし、委員会でも三年生の先輩にも横柄な態度で異議を唱えたこともあった。
某瑛校は、元女子校で、お作法、お茶、お花の授業があり、昼食は食堂で給食をいただくことになっている。そういった面から、中学校では大人しく、従順と思われる男子がこの学校を選ぶ傾向にあった。それを考えると、真面目だけれど、基本的に従順な態度から入るわけではない夕紀はどうなのだろう、とふと朝子は思う。
「お作法なんかの授業は男子も受けていますけど、初めから上手な人ばかりではないです。正座で足が痺れたって子がいても、全然珍しくないです」
朝子は朝子から見た校内での一般的な情報を夕紀の母に伝えた。
どう話そうかと思った時に浮かんだのが、四月のお作法の時間に正座で足を痺れさせた友達のハルカと、ハルカとそれをキッカケに仲良くなったらしい男子の世田協太だった。二人はお作法の時間に正座で足を痺れさせ、軽くではあるがおでこをぶつけ合うという、間の抜けたアクシデントに見舞われたが、それは名前を出さないまでも本人たちの名誉に関わることなので言わなかった。そして、その一件後からか、友人のハルカがよく話す男子なので自然と接することの増えた世田協太は、某瑛高校の男子生徒としては活発で、ハッキリとした性格だった。入学当初は若干周囲の男子と距離を取っている感じがしたが、学校行事を通じて次第に打ち解けてきている印象だった。そんな協太のことも話せば夕紀の母の安心度が上がるのはわかっていたが、学校内の人間関係での合う、合わないは本人次第で一概に判断できないと協太を見ていて思ったところから、それも今は言うべきでないと朝子は判断した。
そうした理由からの朝子の簡素な説明に、夕紀の母が「そう、それなら大丈夫かもしれないわね」と幾分力の抜けた笑顔を見せてくれたので、朝子は内心安堵したのだった。
2
昇降口で夕紀親子と別れ、自販機でペットボトルのお茶を買った朝子は教室へと続く階段を上る。途中、茶道部に所属している梗、藤子、百合江に会った。三人は、となりのクラスにいる男子の直、素、友のファンのような立ち位置で、よく騒いでいる。かわいい、今どきの子という感じだが、さすが茶道部というべきか、所作についてしつけの行き届いた家庭で育っていることが、三人を見ているとよくわかる。三人が男の子のことで騒いでいる印象が強く、気付いている人はまだ少ないかもしれないが、この三人は給食時の箸の上げ下ろしもきれいだし、やはりお作法などの際の正座もとても美しい。
「おはよう」とか、「今日も暑いね」といった話をした後に、藤子が「さっき一緒にいた子、誰?」と訊き、「親公認?」と百合江が畳みかける。「中学の後輩」と朝子が嘘のない範囲で答えると、「なんだ、朝子も彼氏いるのか」と梗が溜息をつく。
「だから違うって」と言う朝子の後ろから、「おはよう」とハルカがやって来る。
「どうしたの? 何の話?」と訊くハルカに、「ハルカは世田くんでしょ?」と百合江が言う。
「え、何?」
話を把握していないハルカが不思議そうに朝子を見たけれど、その目はどこか嬉しそうで、それを隠すのに慌てているようだった。
朝子のクラスはお化け屋敷を文化祭で行うので、この日は実行委員が衣装の白装束のサイズを各自書くように名簿を黒板に貼り付けた。黒板の端には実行委員がサンプルとして用意してくれた白装束のMサイズがあり、それがきつければLサイズを、大きければSサイズをというおおまかな基準が示されていた。しっかり者の実行委員は、サンプルの白装束衣装を写メしてクラス用のSNSに載せ、七月中にサイズ申し込み厳守、と今日来ていないクラスメイト向けに発信していた。
この日は来ていたクラスメイトがサンプルを試着してサイズを名簿に記入し、小道具作りをして、十二時を少し過ぎたところで解散になった。
ぞろぞろとクラスのみんなと駅に向かい、同じ方向の子たちと電車に乗り、地元の駅に着く。
改札を通ったところで「朝子先輩」と呼ばれた。
見ると夕紀が一人立っている。
「どうしたの? おばさんは?」
そう訊く朝子に「お母さんは仕事があるから会社行った。俺はお昼代もらって、そのまま帰るって言ったけど、朝子先輩に訊きたいことがあって、高校で説明会終わった時にまだ上の方で文化祭の準備をしているみたいだったから、ここで待ってた」と俯きながら言った。
「連絡くれれば待たせなかったのに」
「そんなに待ってないよ。それに学校にいる時に携帯に連絡すると迷惑かと思って」
「中学校じゃないんだし、今は夏休みの文化祭準備で授業もないから大丈夫だよ」
「うん」と夕紀は小さく頷く。
背は高くなったけれど、急に一学年下の、小学校から知っている夕紀を朝子は思い出し、「お昼、一緒に食べて行く?」と誘った。
「いいの?」
「うん。その後直接塾行くの?」
「どうしようかな。一回帰ってテキスト用意して行くか、このまま行って、夕方一度帰るか、後で決める」
そう言う夕紀と朝子は駅を出てすぐのところにあるファストフードに入った。
向かい合って食事をし、涼しい店内でひと息ついたところで夕紀が切り出した。
「さっき、朝子先輩お母さんの前だから言えなかったみたいだけど、俺、結構性格が尖っているっていうか、ちょっと面倒なところあるの、知ってるよね? だから、そういう性格であの学校大丈夫かなって思うのと、もうひとつが今日説明会で授業についての動画見て、正座をする授業があるっていうのも不安になってきた」
「そうか」と朝子は溜息をつく。
「夕紀はどうしたいの? うちの学校に通いたいと思う?」
「うん、まあ、先生も案内してくれた先輩も親切だったし、校舎もきれいだし、給食も嫌じゃないし、俺にとっては理想的だけど、そこに俺が行くとなると若干話が違ってくる気がする。正座だって、入試で仮に面接の先生に訊かれて『頑張ります』って返事しても、実際入学して正座する授業が面倒になったら、嘘ついたことになると思う」
どうしたものか、と朝子は考えを巡らせる。
そしてふと思いつき、「うちの学校の文化祭の日って、模試なかったよね?」と夕紀に訊いた。確か朝子も去年某瑛校の文化祭に行けたのだから、恐らく月に一度実施される模試は文化祭の行われる週に被らないはずだ。
夕紀は学校案内でもらった某瑛校の中学生が参加できる予定表と、自分の予定が書いてある生徒手帳を照らし合わせ、「うん、ない」と頷いた。
「それなら、文化祭に来てみたら? 模試はなくても塾に勉強しに行くだろうから、午前中とか午後に少しとか。短い時間でも実際に生徒が活動しているのを見て決めてもいいと思うよ」
夕紀は「わかった」と頷き、それから「じゃあ当日、行ったら連絡してもいい?」と訊いた。
「いいよ。来る時間が先に決まっているなら、その時間当番にならないようにするよ」
「やった」と夕紀は嬉しそうに笑った。
「あと、正座だけどさ、夕紀図書委員の夏の図書整理の日に、ちょっと先生に見てもらうっていうのはどう?」
「え、何で?」
夕紀が露骨に面倒そうな顔をする。
「図書の担当の先生、確かお茶とお花を学生の頃にたしなんでいたって聞いたよ。全校朝礼の司会の時にも姿勢のことなんかも言ってたの、覚えてない?」
「そういえば、うるさかった」
「私委員長だったから、一応先生から図書整理、卒業生も参加可能だからどうですかって連絡きてるんだ。『文化祭の準備が忙しいので、まだわかりません』って返事しといたけど、そういうことなら一日だけ参加して、ついでって感じで夕紀の正座の指導頼んでもいいと思う」
「朝子先輩も来るなら、少しだけ行こうかな」
夕紀がまだ若干面倒そうにしながらも、前進する姿勢を見せる。
「じゃあ、先生に今連絡しておくね」
朝子はそう言うと、すぐに先生に朝子と夕紀が図書整理に参加する旨を連絡した。
3
ひんやりした図書室では、黙々と図書整理が行われていた。図書整理は図書室にあるはずの本をリストに沿って、正しい場所にあるかを確認し、並んでいる順番を直していく地道な作業だ。ない本を書き出し、別の場所にある本は出しておく。
朝子と夕紀が図書室に入ると、顔を上げた先生が少し目を見開き、それから優しく笑った。朝子と夕紀は先生と周囲に挨拶し、まだ誰も手をつけていないリストの用紙を手に、本棚の一角で作業を開始する。塾通いと自宅での勉強で疲れている夕紀を気遣い、夕紀にリストを読みあげてもらい、朝子が本を棚に入れ直していく作業を引き受ける。
暫くして休憩を挟んだ際、朝子は先生のもとへ行き、事情を説明して夕紀の正座指導をお願いできますかと頼んだ。
もともと面倒見のいいのに加え、元図書委員長からのお願いであり、人手不足の図書整理の手伝いをしたばかりとあり、すぐに了承してくれた。そして絨毯の敷いてある図書準備室を開け、「そんなに時間は取れないけど、やってみましょうか」と夕紀を促した。
『やってみましょうか』と言われ、どうしたものかと顔を強張らせている夕紀に先生はまず正座するように手で示す。
正座した夕紀を見ながら、「背筋を伸ばす!」と、授業でよく聞いたびしっとした声を狭い準備室に響き渡らせた。
「はい!」と、夕紀の背がぴしっと伸びた。
「よろしい。肘は垂直におろす。手は太ももと膝の間にハの字になるように。脇は閉じるか軽く開く程度」
夕紀の上体を確認した先生は、「膝同士はつけるようにする間隔から握りこぶし一つ分開く範囲で。足の親指同士は離れないように」と足への注意をしていく。
夕紀だけが正座指導というのも心もとなく、隣に制服のスカートをお尻の下に敷き、きちんと正座した朝子を見て先生は「上部は完璧だね」と頷き、「早田も今言ったことを忘れないで、その姿勢で正座するんだよ」と頷き、「さあ、続きをやるから行くよ。あなたたちは忙しいだろうから、もういいよ。後は一年、二年にやらせるから」と言い、二人を送り出してくれたのだった。
4
文化祭の日、夕紀は当初一時に来る予定だったが、塾で臨時の補習授業があり、それが朝の八時半開始の十二時終わりで、補習授業の小テストの直しをするため、夕紀が某瑛高校に到着したのは一時半を過ぎていた。それでも何も食べず、駅からも走ってきたらしい夕紀に朝子は心が痛む。遅れるという連絡も、多分先生に許可を得てわざわざしてくれたことを朝子は知っている。それに加え、もし間に合わなかったらこれから当分会えないと不安にもなっていた。本当は四月から某瑛高校に来てほしい。けれど、朝子の我がままのために夕紀に後悔はしてほしくなかった。
色々なことを考えながら、夕紀が好きなたこ焼きとスパゲッティを先に買い、校門の前で朝子は夕紀を待っていたのだった。
走って来た夕紀に「お昼にする?」と訊くと、夕紀は嬉しそうに頷きかけ、「でも先に色々見たい」と言った。朝子は昇降口を入ってすぐの休憩スペースに夕紀を連れて行き、自販機でお茶を買い、パンフレットの参加団体一覧のページを開きつつ、夕紀に「取りあえず落ち着こう」とお茶と昼食を勧めた。夕紀は頷き、財布から千円を出す。朝子は財布から五百円をお釣りとして渡した。
夕紀にスパゲッティを渡し、いくつかたこ焼きを食べて、残りも夕紀に渡して、食べている夕紀をお茶を飲みながら眺める。もし夕紀がこの学校に入学すれば、こういうことが前々から約束をしなくてもできるようになるのかもしれない。そこまで考えながら、今日も塾に行き、高校の文化祭にも駆けつける夕紀の頑張りを見ると、何とか今日ここへ来たことが無駄にならないように協力しなければ、と夕紀の側に立って思う。
参加団体のタイムテーブルを確認した夕紀は、二時から三十分の予定で上映されるクラス映画を鑑賞し、朝子たちのクラスのお化け屋敷へ行き、いくつかの展示を見学して、三時半からの中庭で行われる吹奏楽部の演奏を聴いて帰ると、限られた時間内でのスケジュールを手早く決めた。数多くの団体が参加する文化祭の表を見て、短時間に予定を決められるあたりは、小学校の頃から変わらないと朝子は思う。小学校の頃の塾でのクリスマス会で、ジュースやお菓子を前に「どれがいい?」と訊かれた時や、図書委員会での役割分担時に、夕紀はすぐにはっきりと答えを出した。あ、この子一緒にいて楽だな、と朝子はもう随分前に抱いた夕紀への印象を思い出した。
そしてふと思い浮かぶのは、某瑛高校のクラスの男子だった。大袋に入った個包装のお菓子を順番に「どうぞ」と配った時、「いいの?」、「ありがとう」と嬉しそうに朝子を見る男子は、そこから三種類の味から一つを選ぶのにも若干時間がかかる。別に構わないのだが、世田協太のように「ありがとう。今度何か返す」と、さっとお菓子を取ってお礼を言う性格が朝子には合っている。となりのクラスのおっとりした男子を素敵だとアイドルのように追いかける梗、藤子、百合江なら、たかがお菓子を前に素敵な男子が少し迷う様子をも好むのだと思う。けれど、朝子は世田協太の反応を見て、妙に心にしっくりくるものを感じた。それは世田協太が気になる、ということではなく、もちろん友達のハルカといい感じになっている男子だから必要以上の好感度の上昇は避けたい、というのとも違った。暫くして、あ、夕紀を懐かしく思ったんだ、と朝子は気付いた。
「どうしたの?」と訊く夕紀に、朝子は我に返り、「映画、行くの遅くなると立ち見になるから、もう少ししたら行こうか」と言った。
5
二年生のクラス映画は、クラス全員がキャストとして参加し、担任の先生がキーマンとして登場する面白い内容だった。クラス映画は結構な人気で、前の方はマットを敷き、そこに座っての鑑賞になった。特に指定されていなかったが、お作法などの正座になれた学校ゆえか、多くの生徒がごく自然に正座をして映画を楽しんでいた。隣に座った夕紀がふと朝子は心配になったが、先日図書整理で先生に指導してもらったおかげか、周囲から浮くことなく、夕紀もきれいに正座をしていた。
夏休みの説明会で某瑛校のきちんとした印象が強かったらしい夕紀は、「結構面白いんだね」と率直な感想を上映後に漏らした。周囲でも中学生とその保護者らしき親子連れは、「楽しかった」と言い合っている。これは一度生徒会や先生に学校説明会の有り方の改善を求めるべきだと朝子は思ったのだった。
次に夕紀の希望で朝子のクラスのお化け屋敷に向かうのだが、ふと我に返れば、自分のクラスということは、クラスメイトに夕紀と二人連れでいるところを見せるわけである。梗たち三人に見つかるとまた面倒だな、と思っていた朝子だったが、「何見せつけてるの?」という鋭い突っ込みは、意外にもとなりのクラスの勝田キリから最初に受けた。となりのクラスは男女逆転の執事喫茶をやっていて、そのことは文化祭準備段階から朝子たちのクラスに揺さぶりをかけた。直、友、素の三人のメイド衣装は夏休みに情報を仕入れた時点で女子が歓喜するほどの期待度で、朝子はまだ見ていないが、実際にその期待を上回る出来らしい。そして、今目の前に立つ勝田キリの執事衣装もキリのために仕立てられたかのように似合っている。
「学校見学も兼ねて来ている中学生だから、丁重におもてなしして」と朝子が言うと、「白装束のお化け屋敷より、うちの方が面白いよ。後で来て」と、女子が軽く卒倒しそうな笑顔で応じてくれた。そういうことじゃないんだけど、と思いながらも朝子は一応「ありがとう」と言っておいた。
となりのクラスのキリから既に冷やかされているようでは、クラスの方では何を言われるか、と朝子はひやりとしながら列に並んだ。朝子のクラスのお化け屋敷では、前のグループがお化け屋敷に入ってから少し時間を開けて次のグループが出発するので、その間にお茶のサービスがある。幸いにもお茶係りの子は、朝子が男の子と二人で来ても露骨に騒ぐ性格ではなく、入口に待機している係も友達のハルカだったので助かった。そして、朝子が男の子と二人でいるよりも、周囲が大注目していたのが、朝子たちの前に並んでいたメイド衣装の直、素、友だった。三人が並んでいる間に、一体何人の子が話しかけたり、三人のうちの誰かとのツーショットを頼んでいただろう。それを見ていた夕紀も、何となく三人と写真を撮りたそうな顔をしていて、ここは朝子が頼むべきだとわかってはいたものの、声をかけたらまるで朝子が三人の誰かを好きだと周囲に勘違いされそうで、それが嫌で、夕紀の希望には気付かない振りをしていた。
朝子のクラスのお化け屋敷では、入口で手荷物を預けると出口まで持って行ってくれる。夕紀の塾のテキストの入った大きなリュックも、友達のハルカが快く預かってくれた。
お化け屋敷は準備段階から内容を朝子は知っていたし、朝子の作った小道具も活躍している。それでも、工夫を凝らした小道具や暗闇から登場する白装束のお化け役にはびっくりする。先に出発した直たち三人の「わ」とか「おお」という声も聞こえてきた。びっくりしたり笑ったりしながら朝子は夕紀と出口へ到着した。出口では世田協太が正座で待機している。夕紀はリュックを「ありがとうございました」と受け取る。その時、隣のかごにお茶のペットボトルが置いてあるのに協太と朝子は気付いた。
「世田、これ前の人の?」
「あれ、『忘れないように持って行ってください』って言ったんだけどな」
協太は軽く眉をしかめる。
まあ、あの三人ならありそうだ、と朝子は思った。
協太は正座の体勢から立ち上がり、受付に「忘れ物届けて来る!」と伝え、さっと走り出した。
気になって、朝子と夕紀は協太が走って行った先を見る。心配になったのか、入口で待機していたハルカも教室から顔を出し、「大丈夫?」と訊きながら、小走りに協太の方へ向かった。
周囲の人を軽やかによけながら、協太はのんびり歩いている三人にあっという間に追いついたようだ。
「あ、ありがとう」と、相変わらずの呑気さでお礼を言っているのは、直だった。直は協太に「一緒に写メ撮っていい?」と訊き、少し戸惑っている協太の代わりにハルカが「私、撮ろうか」と歩み寄っていた。
それを見た夕紀が「朝子先輩、俺も写メ頼みに行く」と言い、五人の方へ向かい、朝子はそれを追いかける。
ちょうど写メを撮り終わった三人と協太に夕紀は、中学校名と名前を伝え、「一緒に写メ撮っていいですか?」と訊いた。後から来た朝子に気付いたハルカが「私が出口の方も見ておくからいいよ」と協太に伝え、朝子に目配せしながら教室へ戻って行った。朝子はハルカに「ありがとう」と伝え、「夕紀、じゃあ私の携帯で撮って、後で送ってあげる」と言い、携帯をカメラ設定にする。
メイド衣装の三人と白装束の協太の間で嬉しそうに笑う夕紀を、朝子は撮影した。
夕紀がお礼を言い、三人が立ち去った後、夕紀は協太に「僕、この学校を受験しようか迷っているんですけど、僕は先生や先輩が言ったことに、時々反抗ではないですけど、たまにいろいろ言うところがあって、そういう僕がこの学校でやっていけるか心配なんです」と、初対面であるにも関わらず相談を持ちかけた。となりにいた朝子は、夕紀に協太のことを話していないことに思い至り、夕紀は夕紀で、協太と自分が似たところがあると察知したんだと気付いた。
協太は首を傾げ、「何で俺に訊くの?」と夕紀を見下ろし、それから「いや、理由は想像できる。俺、あんまりこの学校にそぐわない感じだから」と続けた。
「すみません」と謝る夕紀に「いいよ、本当のことだから」と協太は答え、「俺はこの学校の先生や先輩の気遣いが、俺にとっては特にひかれるものがあって、この学校に本当に行きたいと思って入学した。だけど、入学してみると、多分早田くんも察しているように、大人しい感じの男子が多くて、自分でも浮いているって思っていた。まあ、実際浮いているようなところもあったと思う。正座も最初結構苦手だったし」と続けた。
夕紀は「やっぱり」と小さく呟く。
「だけどさ」と協太は続ける。
「俺みたいな性格なのがこの学校にいることで、俺みたいな後輩がこの先この学校を選びやすくなるかもしれないし、校風っていうのは、もう確定しているものではなくて、この学校を選んだ生徒一人一人がつくっていくものだと、少し前に思うようになった。まあ、俺一人でそこまで思い至ったわけではなくて、助言者がいたからなんだけどさ。正座も一緒に頑張ろうって仲間もいて、今は全然平気になったよ」
夕紀が力のこもった目で協太を見上げた。
「だから、もし、この学校を選ぶのなら、校風に合うかどうかっていうのももちろん重要だけれど、この学校の一員になって校風をつくっていける生徒になれるかどうかって考えてみるのもいいかと俺個人は思う」
「はい。ありがとうございました」
「じゃあ、文化祭、楽しんで」
そう言って戻る協太に「世田、ありがとう」と朝子は声をかけ、協太は「うん」と頷いて、夕紀に手を振った。
6
展示では、直、素、友三人のお花も発表されていて、朝子は「さっきメイド衣装で一緒に写真撮った三人だよ」と夕紀に教えた。夕紀は「お花、結構男子の作品が多いんだね」と言い、朝子は「でも体育祭では女子が結構活躍するんだよ」と、自身の花の展示がないことを思い出し、付け加えた。
「そうなんだ」と夕紀は頷き、「さっき質問に答えたくれた朝子先輩のクラスの人と、あの三人は性格がだいぶ違っている感じだったけど、すごく自然に打ち解けていたね。小学校とか中学校だと、そういうのってあまり俺は知らないけど、お互いの性格とか違いを認められるからできることなんだろうなと思った」と続け、朝子をはっとさせた。
言われてみればそうだった。
中学校まで割と真面目な方だった朝子は、それを高校でも通していたが、高校に入ってからは、男の子の話題で盛り上がる梗、藤子、百合江のような子や、勝気で思ったことを躊躇わず口にするキリと普段から話すようになった。それは、この学校ならではの柔らかで寛容な空気とともに、この学校で知り合った人が自身と相手とを認めているからだった。それは、今日夕紀が言うまで気付かないほど無意識で、それは多分、皆同じなのだろう。
そこに夕紀がいてくれたら、どれほど楽しいだろうと朝子は思ったが、それは言わず、「今日、忙しいのに来てくれてありがとう」と言うに留めた。
7
文化祭も終盤に差しかかり、涼しい秋風が僅かながらに校内を吹き抜け始めた頃、朝子と夕紀は中庭で吹奏楽部の演奏を聴いていた。
帰りがけの人も足を止め、多くの立ち見客の中で、朝子は満ち足りた気持ちで演奏を聴く。
予定曲の演奏が終了し、大きな拍手の後に、指揮者が観客に礼をし、アンコール曲を告げる。
期待に満ちたざわめきの中、「朝子先輩、俺、来年からこの学校に来ますから、それまで待っていてください」と夕紀が言った。
「え?」と朝子は夕紀を見たが、夕紀はその視線を吹奏楽部に向けていた。
夕紀が某瑛高校に入学し、春の体育祭で同じ色のグループになった協太と共に大活躍し、新たな某瑛高校の始まり、と言われるのは、これから冬を越し、春を迎えてからのことになる。