正座という記憶の絆


掲載日:2000/05/13
投稿者:かずし(44才男性)

 こういう風に考えてみる。
 他人についての記憶の中心には、その他人の顔のイメージがある。
 「タモリは今日ちょっと変だな。」と言うときには、テレビのタモリの顔を中心にタモリについての過去の無数の記憶が働いている。
 物について言えば、たいてい見た目がその物についての記憶の中心にある。
 たとえば、テーブルの上をたまごがころがっているとする。だれしも、「あっ、あぶない」と思う。しかし、そのたまごが、地面に落ちて壊れれずに、バウンドしたとすれば、あなたは「あれっ」と思うのである。
 この時あなたの頭の中で何が起こったかと言えば、目の前のたまごのイメージとたまごの壊れ易さに関しての無数の記憶への結びつきが切れたのです。
 日常見かけるすべての物は、見た目のイメージとその物に関する無数の記憶の働きによってその物の存在感をつくっている。
 この結びつきが切れて、その物に関する記憶の働きがなくなると、人は「あれっ」と思うのです。「何だろう」と思うのです。まるでUFOでも見た時のように、見えているけど何だかわからない。その物は存在感がなく、空虚です。
 さて、ここで話が飛躍しますので、これまでついてこられた方もどうでしょうか。
 他人についての記憶の中心が他人の顔のイメージであるとすれば、自分の記憶の中心はなんでしょうか。
 自分の顔のイメージは自分の記憶の中心にはなれない。なぜなら、人は自分の顔は自分ではめったに見ないために、自分の顔と自分の経験とは、結びついていないからです。
 これに対して自分の身体は自分の記憶の絆となる資格があります。なぜなら人は、常に自分の身体を感じて生きてきたからです。
 思うに、人間は直立活動にすることで、それを支える筋肉の働きを中心にして、自分の身体の安定しかつ力強い感覚を持つようになった。高等植物が幹を持ったことで高く大きく進化したように、人間は直立活動によって記憶の中に中心となる太い絆を持った。このことで脳の神経連鎖を飛躍的に発達させたという可能性も考えられます。
 身体の未熟な赤ちゃんにとって、母親が記憶の絆です。すべての絆は脳の神経連鎖ですが、その成長にとって決定的に重要なことは「楽しい」ということです。親子関係が楽しい。身体を動かすのが楽しい。前者にとっては愛情が重要となり、後者にとっては環境が大事な要素の一つとなる。
 すいません。長くなったので手っ取り早く、結論を書きます。
 西欧、特にイギリス、内陸国としてはスイスの文化レベルの高さの原因は、その自然環境にある。誘惑力のある自然環境。スポーツといっても楽しめることが重要であり、楽しめないスポーツは精神的な絆を育てない。西欧に個人主義が育ち、ハイレベルな精神文化を持つことができたのは、彼らの身体と精神の絆が育つのに有利な魅力的な自然環境を持っているからだと考えます。
 ところで、自我というのがありますが、これは文化です。解剖で脳の中に発見できるものではなく、精神文化です。これは置いといて、正座について言いたい。
 不思議なことは、正座は好きになれるんです。今は食文化が国によって意図的にこわされいいるので、どうかと思うけど。仏教的な精神文化において、座の生活様式と米の食文化がいっしょになってうまれる身体の感覚は、そのもとと言っていいほど重要だと思います。
 正座が好きになれるのは、正座が精神的な充実感を生むからです。私の今の感じでは、今の若者は正座を好きにならない。また日本の文化を継承する力を持たない。
 正座で最も成功したのが、江戸幕府です。彼らの頭の良さは圧倒的です。だいたい勝利者は抜群に頭がいいんですが、子や孫の代になると弱くなり、ひっくりかえされる。それが日本の歴史でした。支配者というものは、傲慢になり、怠惰になり、贅沢になる。これが人間というものなのでしょう。
 江戸時代の武士階級がこれを避けられたのは、彼らが独特の文化を持ったからだ。それが正座と日本食の文化です。こんな安定した支配階級は、世界史を見てもめずらしいと思われる。
 私は正座を進めません。あれはたぶん短足になると思います。
 とにかく日本人は明治以来西欧をめざして来たと思います。しかしそれに失敗している。西欧文化の成功の原因は、その科学的思考力です。これに対して日本の学生の科学嫌い,数学嫌い。
 日本人の失敗の原因は、科学と文化の取り違いにあると思う。
 キリスト教は文化であり、自我を中心に説く現代心理学もまた文化です。あの視点からはどうも日本の文化が見えない。
 日本人がどこに行くのか知らないが西欧ではないらしい。日本の文化、とくに江戸文化の継承力はどうも失われたような気がする。

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