身体文化の必要性


掲載日:2003/04/27
投稿者:匿名希望

テーブルの上を玉子が転がると「危ない」と思う。
その玉子が玉子についての記憶を、思い出させるからです。

このように日常の事物の記憶は、その見た目と結びついて働いている。

わさびのたっぷりとついたさしみは、からいと思う。

同じように、他人の記憶はその他人の見た目、つまり顔に結びついて働いている。

「今日のタモリはおかしい」と思う時、いつものタモリについての記憶がまとまって働いているはずです。
これは、タモリの顔にタモリについての記憶が結びついているからだと単純に考えていい。

同じことが自分について言ってよくない理由はない。

身体は、自分の顔であり、自分の顔は顔ではない。
人は、自分の顔をめったに見ないために、自分の顔が自分の記憶の絆になることはない、これに対して、自分の身体を人は、常に感じているから、他人の顔とおなじように、自分の記憶を結びつける絆となっている。

人間はその環境に合わせて、自由に身体文化を持つべきだ。

確かにイギリスは、世界の勝組みだ。
彼らの知的な優位性は、単に歩くことが日常的に楽しい、そんな環境によって育てられるスポーツ文化という身体文化が支えている。

日本人の知的な衰退は、環境のちがいを理解しない、西欧模倣による。

日本の墜落の原因は、文科省が腐っているからだ、「待てば」西欧的な自我がニョキニョキと成長してくると本気で考えている。

アジアにおける日本の知的な優位性を支えてきたものは、日本人の身体文化の有効性だ。
それを失えば、当然日本はアジアに向かって墜落する。

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