[309]お尋常様して華流ドラマ鑑賞会


タイトル:お尋常様して華流ドラマ鑑賞会
掲載日:2024/09/22

著者:海道 遠

内容:
 事務職をして働く世織(せおり)は、5歳のひとり息子を連れて、自然が溢れる地方への移住を考えていた。珍しい団体が活動していた。「お尋常さま」を教える会と書いてある。「お尋常さま」とは「正座」のことを言うのだ。
(お尋常さま……どこかで聞いたような?)
 世織は5歳の座久太を母親に預け、まずはひとりで移住して「お尋常さま」を習うことにした。



本文

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第一章 移住

 都会で事務職をして働く世織(せおり)は、5歳のひとり息子を連れて、自然が溢れている地方への移住を考えていた。
 インターネットでいろんな情報を集めていると、日本の中国地方に目が止まった。以前から温暖な気候と聞き、関心のある地方だ。
 それに、亡き親友の珠貴から何回か聞いた地名だ。

 珍しい団体が活動していることに気がついた。「お尋常(じんじょ)さま」を教える会と書いてある。「お尋常さま」とは「正座」のことを言うのだそうだ。
(お尋常さま……どこかで聞いたような?)
 世織は5歳の座久太(ざくた)を母親に預け、まずはひとりで移住して「お尋常さま」を習うことにした。
 正座を習い、いずれは人様に教えることで、息子との生計を立てることに決める。
(それには正座を見極める審美眼を養わなければ!)
 代表者は男性で、長く茶道を習っていたという30歳くらいの祝人(ほぎと)さんといい、穏やかな農家の青年だ。
「ようこそ、おいでんせ~~」
 垂れた眼が優しそうなボクトツな男性で、口調も柔らかい。
「あなたが珠貴さんのご友人の世織さん!」
 珠貴は祝人から茶道を習っていたという。
(そうだ! いつだったか、珠貴から『お尋常さま』という言葉を聞いたのだ)

「お尋常さま、いたしましょう」の会とは。
【正座を正しくできるようになると、姿や所作を見ただけで性格、趣味、人生観、異性の好み、食の嗜好など、すべて分かるようになります!】
 というのがキャッチフレーズ。
(ええ?……正座だけ見て、分かるはずないじゃないの)
 瀬織は大げさな謳い文句が不満だったが、祝人は大真面目で取り組んでいる。ペテンにかけるような青年には見えない。
(ま、乗りかかった船――所作の稽古にはなりそうだし、やってみるか。珠貴もやっていたことだし)
 世織は思いきって祝人の助手にしてもらい、「お尋常さま」の正式な所作を見せてもらった。
 ちゃんと着物を着てきた祝人さんは、凛々しく立ち上がり、
「まず、背筋を真っ直ぐに立ちます。知らないうちに身体は歪んでいるから、世織さんの正座を見てから後で指摘するからね」
「はい」
「床に膝を着く。衣をお尻の下に敷いて、ゆっくりかかとの真ん中に座る。これで、お尋常さまの出来上がり」
(この所作と正座姿を見ただけで、内面まで分かるようになるかしら?)
 少々の不安を持ちながら、世織の正座の所作は合格をもらった。

第二章 お稽古初日

 第一回めのお稽古は、滞在先の宿舎で夕方からの会なので支度をしていると、
「ママ〜〜!」
(ん? あの声は? )
 田んぼの向こうから可愛い声が聞こえてきて、ハッと顔を上げた。窓を開けると、ひとり息子の座久太が畦道(あぜみち)を一生懸命に走ってくるところだった。思う間にバタンと転倒して顔をまともに畦道に突っ伏した。が、すぐに真っ黒な顔を見せて起き上がった。
「座、座久太?」
 座久太の後ろを、五十代半ばの女性が駆けてくる。
「お母さんまで?」
 世織は飛び出した。
「どうしたの? 急に! お母さん!」
「ばぁばに連れてきてもらったの!」
「どうしてもママに会いたいってきかないのよ」
「だからって、すぐに甘やかしちゃ毎日連れて来る羽目になるわよ」
「大丈夫。1回会ったら、ひと月我慢するって約束したもんね?」
 世織の首筋に小さな手でしがみついた。
「ママと離れるの、やだ〜〜!」
「う〜ん、今夜は『お尋常さま』の会に出席しなくちゃならないのよ~」
「おじんじょ? 何? それ」
 母親が目を丸くした。
「この地方で『正座』の意味よ。村の奥さんたちとやる予定なの。じゃ、手早く夕飯食べて、皆、一緒に公民館へ行きましょうか」

 公民館で、祝人が「お尋常さまのお稽古」をしている最中におじゃまするのは初めてだ。
 世織は、引き戸の入口をガラガラと開けた。
 畳敷の部屋に、10人ほどのおばちゃんやおばあちゃんがわちゃわちゃとお茶とお菓子をつまんで集まっていた。
 真ん中に祝人さんがいる。
「やあ、いらっしゃい。坊やと……」
「息子の座久太と母です。息子が寂しくなって連れて来てしまいました」
「そりゃ、ちょうど良かった! 皆さんに紹介しましょう! 皆さん、新しいメンバーの世織さんと息子さんです」
 世織は土間から急いで座敷に上がり、深く座礼した。
「宜しくお願いします。世織と息子の座久太と申します」

第三章 小さな座久太

 ふっくらしたおばさんが言った。
「ボク、いくつ?」
「ご……ご……5しゃい」
「5歳なら年中さんかな。こっちへ来てお菓子をどうぞ」
 座久太は指をくわえて、祖母の後ろに隠れてしまった。
「おや、恥ずかしがりやさんじゃね。お膝はどうしたんだ?」
 おばさんが、座久太の膝小僧を指さした。
「けっぱんじ〜て(けつまづいて)すりみ〜て(すりむいて)しもうたか! こっち来んしぇえ。おばちゃんがクスリ塗ってあげっけえ」
 おばさんは刺し子の小袋から小さな軟骨入れを取り出し、座久太の傷口に、くりくりと塗り込む。
「これで大丈夫じゃ。明日になったら治っとるさけぇ」
「おんや、ミヨシさん、今の軟膏入れは、中華ドラマに出て来る翡翠(ひすい)の品によく似とるじゃねえか。イケメンの旅人が塗ってくれるような」
「じゃーじゃー、この前、都会の中華街に行った時、捜し歩いたんじゃ〜」
(※じゃーじゃー=そうそう)
 ミヨシさんとやらは得意げに言った。
「まあっ、ありがとうございます」
 世織はお礼を言い、座久太はぴょんと座敷に膝を着いてかかとの上に座った。
「おやおや、今、クスリ塗ったばかりなのに」
 祝人さんが、
「こりゃ驚いた、正座になっとるでぇ」
「おばちゃんたちのマネしたんだ!」
 座久太がすまして言ったので、笑いが起こった。
「こりゃあ、ええスジしとるわ! なあ、祝人先生」
「本当だ。座久太くんに大きく期待しよう!」

第四章 遠い目標

「仕事探しに行きづまってるって?」
 祝人さんが昼間の公民館で、世織親子に会ってくれた。
 世織は移住してきてから、農家の雑用や素人でもできそうな仕事を頼みこんでやらせてもらったが、どれも長続きしない。
「お尋常さま」の修行をする間の仕事を探さなければならないのだ。
 最初は都会にいる時にカフェの開業資格を取り、古民家を借りて貯金をはたいて内装して、好きなインテリアを揃えてカフェを開業した。
 しかし……思ったよりも、全く通行人がいなくてお客様が来ない。車道からも離れているので、世織の古民家カフェは見えない。
 ―――甘かった。

「僕は移住してきてから10年になるけど、10種類以上、商売替えたよ。ようやく野菜作りに馴れてきたけど、まだまだひよっこだ。『お尋常さま教室』は息抜き。大切な目標だけど軌道に乗せるにはまだまだだよ。じっくりやればいいよ」
 祝人さんの垂れ気味の目がよけい優しく垂れた。
 世織は感謝でいっぱいだ。
「生計立てるのも大切ですが、祝人さんのように美しい正座をできる師匠になり、ひと目見て人柄などが分かる審美眼を持ちたい! というのも大きな目標になりました」
「え?」
「生計立てるのは生きていくため。正座の審美眼を持つのは、心が生きていくためです」
「なるほどね~~。君、華奢だけど、心は欲張りなんだね」
「そ……そうなんですよ」
 照れ笑いで返した世織だった。
 翌朝、座久太は世織の母に連れられて帰っていった。

第五章 アンケート

 しばらくして、祝人が告げた。
「『お尋常さまの会』を、正座の達人が見学に来ることになったよ」
(達人って?)
 世織が緊張していると、
「茶道のボクの師匠さんでね」
「茶道のお師匠さん?」
 世織の脳裏に和装美人が思い浮かんだ。
「『さもありなん』ですね。人の正座を見ただけで人柄や生活や内面が言い当てられる能力……」
「そんなに硬くならなくても、気楽な方だよ」

 世織は「お尋常さま」の生徒を集めるために、正座してどんなことをやってみたいか、村の人々にアンケートを実施した。
 農作業中の奥さんたちにも協力してもらった。
「奥さ〜〜ん、お仕事中、すみませ〜〜ん!」
 畦道から叫ぶ。
「今、正座して何かお稽古してみたいこと、ありませんか〜〜?」
「ええ?」
「何か習いたいことや、お好きなことですよ!」
「う〜ん、そうだな~~」
「アンケートの紙、作業用具の籠の中に入れておきますから、よろしければ旦那さんの分も宜しくお願いしますね!」
 作業籠の中にアンケート用紙を置いていく。

 あちこち回って、祝人さんと集計してみた。
「へえ〜、紙粘土で手作りの帯止め作り。いいわね!」
「男性からは囲碁や、将棋!」
「でも、圧倒的に多いのは……」
 世織は、クスッと笑った。
「韓流や華流ドラマの鑑賞会ですって! 大流行ですもんね」
「へええ? ボクはそういうのに疎くって」
「実を言うと、私も華流ドラマのファンですもん」
「世織さんも!」
「ええ、今は誰かのファンじゃなくて、誰かの『推し』っていうんですよ!」
 祝人はあっけらかんとするばかりだ。
「確かにテレビを見ているだけなら正座していられるな」
「正座したままでは血流に良くないので、時々、立ってもらって、所作のおさらいしてもらってもいいんじゃないですか?」
「もっともだ! 世織さん、嬉しそうですね!」
「あら、イヤだわ」

第六章 華流ドラマ鑑賞会

 かくして「お尋常さま、いたしましょう、第一回華流ドラマ鑑賞会」は、行われた。
 40歳くらいから70歳くらいの奥さん方が、ぎゅうぎゅう詰めになって待った。
 作品は、つい先日DVD発売されたばかりの新作だ。
 誰がどの俳優さんのファンなのか、までは尋ねないことにしたので、世織がリサーチした俳優さんが出演しているとは限らないが、ファンにとっては、ただ正座しているのとは大違いだ。テレビにDVDをセットする前からコーフンを抑えられない。
 正座の所作を、祝人さんが念を入れて指導する。
「はい。背筋を真っ直ぐにして立ってください。その場に両膝を着いて、スカート履いてらっしゃる方は、手を添えてお尻の下に敷いて、かかとの上にゆっくり座ります。できましたか?」
「できましたよぉ~! 何百回もやってますもん、それより早く始めてつか~~さいな~!」
「まあまあ、そう急がずに。本当にできましたか?」
「できてますってばぁ、祝人先生も食い下がりよぉな〜〜!」
 映像が映ると奥さんたちは無我夢中でTV画面に食いつかんばかりだ。
「きゃあ、彼、もんげぇ(すごい)綺麗なお顔でぇ~」
「身長が180後半もあるそうじゃ~」
「演技力もぼっけえ(すごい)でぇ~~、この前、別れのシーン見て泣いてしもうたでぇ~~」
「この見つめ方、ええな~~。こっちまで胸がドッキリしてしまわぁ~~」
「あんた、いくつさ~」
「トシは関係ねぇよぉ~~」
 どっと笑いが起こる。
 前列の女性たちが厳しく「しいっ」と唇に人差し指を立てる。
 祝人さんが注意した。
「皆さん、お喋りされるのはけっこうですが、正座の姿勢を崩さないように」
「ちいとばあくれぇ、緩くしてつかぁさいよお、代表さん」
「いえ、厳しくします! ブラウン管の向こうから、俳優さんが奥さんたちの正座を見ていると思ってください!」
「あれぇ~、そんな風がわりな(恥ずかしい)こと〜〜」
 会場はまた、どっと笑いに包まれる。
「さて、そろそろ30分経過しますから、立ち上がって下半身をリラックスしましょう」
「ええ? ちょうど良いところで?」
 不満のブーイングが聞こえる。

第七章 推しそっくりの人

 DVDが1本終わってから、
「ああ、カッコ良かったねぇ、若いしなやかな身体の動き! 美しいすべすべの肌、吸い込まれそうな瞳見てたら、身体がほかる(火照る)わぁ~」
「若えのは色気がたわん(足りん)! やっぱし男は40過ぎてからじゃなぁ! イケおじの色っぺえこと〜!」
 俳優さん談義が続く。
「皆さん、正座が乱れてますよ!」
 祝人さんの指導で所作がやり直されたが、参加の皆さんは、俳優さんについてのお喋りが止まらない。
「世織さん、どうでしたか?」
「大成功じゃないでしょうか」
「それにしては、世織さんは冴えないお顔ですね」
「私の推しは、今日の作品には出て来なかったんですもの」
(そっちかよ)
 祝人さんはガックリ来た。
 外はすっかり真っ暗になっている。ソワソワと帰りはじめる奥さんもいる。
「楽しかったな~、今度は晩ご飯の後にお願いしてえなぁ~」
「分かりました! 貴重なご意見をありがとうございます」
 世織は丁寧に座礼をした。

 それから半月ほどして、また母親が座久太を連れてきた。
「仕方ないわねぇ、甘えん坊の座久ちゃんたら」
 座久太は照れくさがりながらも、母親の胸に飛びこむ。

「お尋常さま、いたしましょう」の日が来た。今回は夕飯を済ませてからの集合時間だ。
 世織が、座久太と手をつないで公民館に着くと、まだ、あまり人の気配がない。
「早かったかな〜?」
 玄関の戸を開けると、だだっ広い大広間にひとりだけ、袴を着けた男性の後ろ姿が正座して待っていた。
 ピシリとした正座姿だ。
「あのう、お待たせしましたか?」
 世織が声をかけると、振り返ったその顔は―――!
「た……た……たけじょうさん!」
 華流ベテラン俳優の武城ムサシではないか!
(ムサシさま――!)
 前髪に、小指ですくったより少ないヴァイオレットに染めたメッシュヘア! 
(「メッシュ」っていう言葉が時代を感じるけど間違いない! 世織の推し、その人だ!)
 心臓が止まるかと思った。

第八章 カチンコチンの所作

(どうして、こんな日本の地方の公民館に?)
(いや、待て! 本物のムサシさま? 袴すがたなんて見たことがないわ)
(そうだ! ムサシさまなら言葉に堪能だから日本語が通じるはず……)
「あの……」
 声をかけた時、背後から祝人さんの声がした。
「これは、師匠、おいでんせえ。お早いお着きで」
 武城ムサシはにっこり笑った。ベテランといっても、白い歯を見せた表情は若い。
「ああ、祝人くん、『正座の会』ご招待ありがとう」
 流暢な日本語だ。
「いえいえ。お忙しい中、おいでくださいまして光栄の至りです」
 汗を拭き拭き、祝人さんは彼の接待をした。本当に茶道のお師匠さんなんだろうか。
(それにしてはムサシさま、そっくりだわ……)
「ママ! ほっぺが朱くなってるよ」
「座久ったら!」
 ふたりの声に、師匠は振り向いた。
「失礼ですが、比諸木(ひもろぎ)世織さんでしょうか」
「は、はあ、そうですが。何故、私の名前を?」
「祝人くんから聞いていました。真面目に移住してがんばっている女性がいるって」
「まあ……」
「正座を見せていただけますか?」
 カチンコチンに緊張したまま、世織は正座の所作をした。
 武城ムサシだか師匠だか、定かでない人は顎に手をやり、しっかり見ていてうなずいた。
 扉が開いて村の奥さまたちがなだれ込んできた。
「ひゃあ――、武城ムサシさまだぁ~~~!」
「なんでまた?」
 祝人さんが、
「華流俳優の武城さんに似てらっしゃるけど、違うんですよ」
「ええぇ~」
「こんなにそっくりなのにい〜〜?」

第九章 達人来る

「茶道の師匠さん? てっきり女性のお師匠さんだとばかり思っていて……」
 ムサシさまそっくりな茶道のお師匠の前で、世織は真っ赤になった。
「皆さん、ここでは『ムサシ師匠』と呼んでください。よく間違えられるので、抹茶にあやかって少しだけ前髪に緑のメッシュを入れているのですが」
「ああ、それで」
「今日は集まってくださった奥さん方の正座の所作を拝見しながら、お茶も点てますので、どうぞ」
「きゃあっ! まるでムサシさまにお茶を点ててもらうみたい!」
 早くも黄色い声が飛ぶ。

「ワタシはシャア・カイくんが推しじゃ〜」
「あんた、ガンダム初代の赤い彗星、シュ―・アズナブルと間違えとりゃせん?」
「間違えるわけなかろうが。あっちはアニメじゃろ」
「とにかくシャア・カイくんはお顔がくっきり美しくて、ふわふわした天界の神様でも、どら息子役でも地上の皇帝でも、オツムつんつるてんの役でもアクションでも何でも来い! じゃけんねえ」
「つんつるてんとは何じゃ! 辮髪(べんぱつ)っちゅう髪型じゃ。てっぺんから長く三つ編みしとうでえ〜〜」
「辮髪っちゅうたら、ジョウ・イーウェイさんじゃろう! 若い時の!」
「ああ、またイケおじに話が戻ったわ」
「おえん(いや)、若い魅力はやっぱキャオ・ジュンさまじゃろう」
「え? コチュジャン?」
 華流ドラマをいくつか知っている世織も、いろんな名前が行き交って、こんがらがってきた。
 騒ぎの中で、座久人は先日、膝小僧のキズに軟膏をすりこんでもらった、ふっくらおばさんの膝にちゃっかり座っていた。

「皆さん、仲良く! 喧嘩しないでくださいよう〜〜」
 祝人さんが半泣きになっている。
「はいはい!」
 ムサシ師匠が、パンパンと手を打った。

第十章 茶道で休憩

「お静かに! ここらで一服、お茶を立てましょうね! 残念ながら日本の茶道ですが」
 部屋の隅の釜に湯が沸いている。師匠がシャカシャカと抹茶を立て、鮮やかな袱紗(ふくさ)さばきで茶を点てた。
「はあ〜、五臓六腑(ごぞうろっぷ)に沁みわたるぅ~」
 奥さんたちは順番に抹茶を味わった。
 3人めのお茶を振る舞おうとして、世織が気づいた。
 ムサシさまの膝の傍らに座久太が頭をもたれかけさせて、お眠(ねむ)の世界に入っているではないか。
「まあ、座久ったら!」
 世織が慌てて膝から引っ剥がそうとしたが、ムサシさまが世織の手に手のひらを置いた。
「気持ち良さそうだ。もう少し……」
 奥さんたちも、思いっきり人差し指を唇の前に立て、
「し〜〜〜っっ!」
 とした。
「あれまあ、こんな時間! ボクが眠とうなるはずじゃあ〜」
 祝人が挨拶した。
「本日はこれでお開きにさせていただきます」
「ご苦労さんでした。次は私の推しの作品でお願いしますよ」
 奥さんたちも帰っていく。
 ムサシさまが、座久太の頭を持ち上げて抱きかかえた。
「お師匠、ボクが車で……」
 祝人さんが腰を浮かせるのをムサシさまは留めて、
「私が背負っていくよ。夜道は涼しくていい季節だからね」
 すっかり眠っている座久太を背負い、世織に、
「さあ、道案内お願いできますか?」
「は、はい」
 間借りしている家までは、歩いて15分くらいだ。世織は座久太のスニーカーをぶら下げて後を追った。

第十一章 夢見心地の帰り道

 畦道をムサシさまと歩いていく。左右の田んぼからはカエルの大合唱、空は満天の星だ。星の降る音さえ聞こえそうだ。
(夢じゃないかしら、推しそっくりの方と静かな夜道を歩いていくなんて――)
 世織はすっかりロマンティックな気分に浸っていた。
(本当にこれが愛する人と子どもだったらいいのに――)
 などと思ってしまった。
 その時――、ムサシさまがぽつんと言った。
「珠貴(たまき)の星はどれだろう?」
 いきなり、心臓に熱い衝撃を突き立てられた。
「お師匠さん、珠貴のことをどうして――?」
 珠貴は座久人の母親の名前だ。
 震える足で踏ん張っていると、彼はしっかり世織の眼を見つめて、
「珠貴は最期になんて言っていましたか?」
「お師匠さん! あなたはいったい――」
「座久太の父親です。珠貴はどうやら、親友の貴女にも何も告げずに逝ってしまったようですね」
「珠貴の……! 座久太の……!」
 驚きすぎて言葉にならない。
「探しましたよ。珠貴が私の子を産んで亡くなったことを知り、引き取ったという女性を必死で探しました」
 世織の瞼に涙がどっと溢れてきた。
「そうです。――珠貴は何も教えてくれませんでした。彼女には身内もなく、私が自分の子として籍を入れたのです。彼女の大切な形見を、他の人にお願いするなんて考えられませんでした」
 母親以外に誰にも打ち明けなかったことだ。
「ありがとう、世織さん。こうして話せる機会が来たら、まず心からお礼を言わなくてはと、ずっと思っていました」
 座久太の寝息が、彼の背中からスースー聞こえた。
「では、お師匠さんは私のことを、ずっと前から?」
 家の玄関に灯りがともり、母親の声がした。
「世織? 座久ちゃんなの? お帰り」
「座久太くんが夜風で風邪をひいてしまう。今夜はこの辺で……」
 眠っている座久太をひょいと渡すや、お師匠は公民館へきびすを返していった。
(なんてこと……)
 さっき、ロマンティックな気分で歩いた畦道よりも、もっと夢のような気がした。突然、座久太の父親が現れるなんて――。

第十二章 青空の下

 座久太を背負ってもらって帰宅した夜から半月。
「お尋常さま、いたしましょう」の会では、今日はガラリと変わって青空の下、草原で「お尋常さま、いたしましょう」になっていた。
 座久太が度々、ママ恋しさにやってくるので、保育園に【お客入園】させてもらったところ、外遊びの中で園児たちにも正座の所作を覚えてもらうことになったのだ。座久太も入れて総勢10名だ。
 草原に紅い毛氈がしいてある。講師はもちろん、祝人さんだ。
「ほぎとせんせえ~~!」
 子どもに分かりやすく教えるのは初めてなので、園児たちにまとわりつかれながら照れている。
 いつもの弟子の奥さんが叫んだ。
「祝人さん、座久太くんはあっという間にできるようになったんだから、そんなに緊張せずに!」
「うちの孫も、向かいのお嬢ちゃんも混じってるよ。しっかりねえ」
 付き添いの保育士さんが、
「所作をお聞きしてお歌を作ってきましたから、ご安心を! フリもつけましたから!」
「お歌? フリですか?」
「動画、送っておきましたよ!」
(イイトシの俺が、お子さまとお遊戯かよ……)
 泣きそうな顔になっている。
「祝人先生、今日は華流ドラマじゃないんだから、先生おひとりに頑張ってもらわな、おえんよ!」
 弟子の奥さんたちから発破(はっぱ)かけられて、困っている。
 保育士さんが、
「じゃあ、まず私がやってみせますね」

 長閑な風景を見ながら、世織は、ぼんやりと先日の夜のことや、座久太が生まれて引き取った直後のことを思い出していた。

第十三章 回想

 座久太の母親の珠貴は難産の末、逝ってしまった。悩みに悩んだ挙句、世織が決心して自分の子として籍に入れた。座久太は世織の私生児ということになっている。
 それを知った両親が大反対した。
「世織、あんた、戸籍上は子どもを産んだことになってしまったのよ。分かってる? 珠貴ちゃんは、中学生の時から仲良しだったから、気持ちもよく分かるけど……」
「わしら夫婦の養子にするならまだしも、実子とは!」
 母親は世織の肩をつかんで揺さぶり、父親はソファに沈んだまま、いかつい顔をしている。
 その夜は、世織の家では夜明けまで口論が続き、めちゃめちゃだった。世織も両親も疲れ切って言葉を失った時、――まだ夏ミカンくらいの頭の座久太が大声で泣いた。
「よしよし、お腹が空いたのね」
 発作的に世織と母親は、ミルクとおむつの世話に立ち上がっていた。三時間ごとに泣く乳児を抱えて、冷静に話し合えないまま時間が過ぎてゆき――、
「お父さん、お母さん、お願いします。この子を実の子として育てさせてください。私、頑張って働きますから」
 世織はその場に正座して頭を下げた。下げたまま動かなかった。
 産後、すぐに亡くなってしまった親友の悔しさを思うと、後に引けない。
 母親は世織をきつくきつく抱きしめ、一緒に泣いてくれた。
 父親の拳が握りしめられたりしていたが、赤ん坊の方を見る勇気がないようだった。
「お前がどうしてもそう言うのなら、親子の縁は切る。一切、助けはせん」
「あなた!」
 それきり、世織は父親とは口を聞いていない。

第十四章 本物じゃない!

 青空の下での「お尋常さま、いたしましょう」の会は、無事終わり、園児たちは祝人さんに大声でお礼を言った。
 列を作って保育園に帰っていく園児たちを見送ってから、公民館で、世織と祝人は休憩をとった。
「あのう、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい?」
「先日、お見えになっていた武城師匠のことです。祝人さんとは、旧知の間柄のようにお見受けしましたが」
 勇気を出して、世織は尋ねた。
「武城師匠は、中国の茶葉事業をしていらっしゃる実業家です」
「俳優さんじゃなかったんですね」
「似ていますけど、――残念ながら――。10年ほど前に中国で『茶の交流会』があり、日本の正座に惹かれて所作を習ってくださったんですよ」
 そこで、祝人と共に来ていた正座の助手の珠貴と知り合ったという。すぐに、ふたりは恋に落ちた。
 しかし、珠貴は中国の茶葉園経営者の息子である彼とは、不釣り合いだということで、結婚は諦めていたらしい。
 が――、座久太ができてしまった。珠貴は妊娠のことは一言も彼には告げず誰からも音信を絶った。
 武城氏は手を尽くして探したが、見つからなかった。

第十五章 思いがけない客

 世織は祝人から正座一人前のお墨付きをもらった。本格的に村に転居するため、一旦、実家に帰った。
 翌日、思いがけず世織の自宅を訪ねたのは、武城ムサシ師匠だ。
 チャイムが鳴って、ポーチに立っている師匠を見て、世織は固まった。
「その節はどうも。実は、今日まで座久太を育ててくださった世織さんのお父上にお礼を申し上げたくて伺いました」
「まあ!」
「この度、婚約が決まり、座久太の母親になる人もできましたので引き取りたいと思いまして」
(座久太を引き取る? 師匠の婚約者に渡してしまう?)
 世織は身体が震え出した。
 世織の父親の前に正座した師匠は、深々と頭を下げて座久太を今まで育ててもらったお礼を言った。
 文句の付けようのない美しい座礼だった。だが――。
「ハカマのおじさん!」
 座久太がおもちゃを持ったまま走り出てきた。
 師匠は座久太の手を引いて、玄関前に停めてあった高級車に運び、発進する。
 あっと言う間の出来事だった。
 座久太の気持ちを尋ねもしないで……。

 外は真っ暗、夕方から降り出した雨が激しくなってきた。
「座久太! ――師匠! その子を連れて行かないで!」
 ずぶ濡れで立ち尽くしていると、母親が駆けて来た。
「世織、座久太を連れ戻すのよ! いくら本当の父親でも、こんなのは許せないわ」
「でも――、師匠の日本の自宅がどこなんだか」
「あの人なら、ご存知じゃないの? お尋常さまのお稽古をしていた、茶道の――」
「祝人さんね!」
 世織はすぐにケータイを取り出して電話した。

 電話に出た祝人は師匠の自宅を教えてくれた。世織の自宅から、かなり離れた山手の町だ。
(車で行かなきゃ無理だわ)
 途方に暮れていると、ふたりを車のライトが照らした。
「ふたりとも、早く乗りなさい!」
「お、お父さん?」
「追いかけて座久太を取り戻そう! 座久太を――ワシの孫をどこにもやらんぞ!」
 父親はふたりを乗せると手速く車を操った。
 気迫に、世織と母親は圧倒されていた。

 雨の中、夜中に師匠の自宅を探し当てた。
 玄関で何度もチャイムを鳴らすと、やや下品そうな若い女性が出てきた。
「ど、どちらさまかな?」
「座久太の母親です。先ほど連れ帰られたでしょう?」
 女性は背後を振り返り、
「ムサシ―、だから無茶してもダメだって言ったでしょう?」
 世織と両親は女性のかたわらをすり抜け、玄関に立った。
 小さな足音が聞こえ、座久太が階段からパジャマ姿で降りてきた。
「ママ―――!」
「座久太――!」
 世織は小さな息子の身体を力いっぱい抱きしめた。
「離さないわよ、もう絶対に!」
 背後に立ったムサシ師匠が、諦めのため息をついた。
 世織は彼をキッと睨みつけ、
「師匠の正座は、ご立派で『尋常さま』らしく素晴らしい所作です。でも―――暖かさが欠けていました。大切な座久太はお渡しできません」
「……どうやら私の負けですね」
 師匠は萎れて、玄関から出た。
 父親がエンジンをかけたまま待っていて、座久太を抱いた世織を後部座席に乗せた。
「どうか、座久太をよろしくお願いします――」
「本人の座久太がすっかり、ママと、ばぁばになついています。心配は御無用だ」
 父親が答え、世織も、
「座久太は立派に育てます。真面目な人にしかできない『お尋常さん』ができる子ですもの。ね、母さん」
 母親と見つめ合ってからうなずいた。

 車を見送るムサシ師匠の背後から、そっと祝人が現れた。
「師匠、よろしいんですか。本当に連れて行きたかったのは、世織さんの方でしょうに」
「潔く(いさぎよく)身を引くことも男らしさでしょう。あの親子の間には入れる余地がないようだ」
 雨の勢いが少し弱まり、雲間から星空が見えてきた。

結びの章

 夏の夜――。
 公民館からは、奥さんたちの華流ドラマに熱中するおしゃべりが聞こえてきた。座久太はふっくらおばちゃんと赤い中国のランタンを持って応援している。
 翌日、襖に、もんげえ大きい穴が開いてるのが発見される時もあった。ワイヤーアクションの真似を、どこの奥さんがやったかというのは、誰も口をつぐんでいた。


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