[308]座神(ざしん)の娘
タイトル:座神(ざしん)の娘
掲載日:2024/09/16
著者:海道 遠
内容:
大昔、異国の海の国。
海神(わたつみ)の使う三叉(さんさ=みつまた)の槍を一心不乱に研ぎ続ける男の姿があった。海神から「座神」とあだ名されていた。男には、人魚のひとり娘がいる。その昔、座礁した船に乗っていた貴人から、娘は「月陽(つきひ)」という名前を付けられ、三叉の槍磨きの男は、「正座」という座り方を教えられたのだった。
ある日、勇猛を誇っていた海神が戦に敗れ、負傷してしまう。
本文
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序章
尻尾のヒレに力をこめて海流を蹴る!
両手で力いっぱい水を掻き、どんどん前に進む。
真上の海面からは、
太陽の光がゆらゆら差しこみ、
色とりどりの小さな魚がまといついたり、
はじけたり。
陸には二本足の父さんと大人たち。
どうして私にはヒレがついていて、足ではないの?
父さんのように凛々しい姿で座れない……。
第一章
月光が眩しいほどの満月の浜辺である。
一人の中年男が、額から滴り落ちる汗もかまわず、一心不乱に三叉(さんさ)(みつまた)の槍(やり)の真ん中の部分を月日貝の貝殻で研いでいる。
三叉の槍のそれぞれの意味は、「迷い、行動、安定」である。
ホトホトと砂浜の上を足音がして、痩せた人影が近づいてきた。
三叉の槍のうち、「迷い」を意味する槍を研ぐ役目のタンザという男だ。耳の先とアゴに魚の持つヒレがある。
「相変わらず精が出るねえ、海神(わたつみ)さまが、『座神』と呼ばれただけのことはある。一日中、座って槍を研いでいる」
『座神』と呼ばれた男は、手元に目をやったまま、苦笑いを浮かべた。
「これしか、俺には脳がないからさ、タンザ。『座神』だなどと、海神さまが悪ふざけして呼ばれただけだよ」
「それにしても、お前さんの研いだ槍は、切れ味が鋭いと評判だぜ。せいぜい尻が海苔(うみごけ)だらけにならないようにな」
タンザは、それだけ言い残して波打ち際を引き返していく。入れ違いに、座神のかたわらにある海水溜まりから勢いよく顔を出した者がいる。
「父さん!」
『座神』と呼ばれる男のひとり娘だ。海底に潜って、三叉の槍を磨く際に使う月日貝をいくつか採ってきた。面と裏で赤と白が鮮やかな二枚貝である。
「はい、今日はこれだけ。そろそろ帰りましょうか。夕食の用意をするわ」
娘は焦げ茶色の巻き毛がふさふさとして、薄布の内側の乳房がふくらみかけているのが分かる。輝く瞳の持ち主だ。
「月陽(つきひ)、また明日、一緒に月日貝を採りに潜りましょうね!」
「ええ、また、明日ね!」
沖から同じ年頃の娘たちが、尾びれを使って飛び跳ね、手を振っている。
「ええ、また明日ね。明日も平和な日でありますように!」
月陽は友達に手を振って別れを告げ、座神は立ち上がった。
「そうだな、今日はこのくらいにしておくか」
座神は周りに散らかった敷き布や研ぐための月日貝を片付けてから、海神さまの三叉槍に金糸銀糸の豪華な布をあてがって、恭しく(うやうやしく)持ち上げた。
一段高く積まれている石段の上に置くと、背すじを正して立ち、砂地に膝をつき、かかとの上に静かに座り、膝の上に手を置き、丁寧に頭を下げた。
「美しい正座の所作だわ、父さん。海神さまから褒められるだけある気品たっぷりの正座ね」
月陽は誇らしげに言う。
「お前も、もうすぐできるようになる」
「そうなのかなあ。早く両足になるように信じたいけど」
月陽はため息をつきながら、自分の尾びれを見下ろした。
「なるさ、もうじき!」
父娘そろって正座を誇りに思い、主人の海神を崇拝していた。
海神から『座神』とあだ名された男は、一介の家来で三叉の槍を磨くことだけを仰せつかっている。
いつ戦が起こってもいいように、命を張ってでも三叉の槍を最高の切れ味にしておく。それが海神への最高の忠義だと思っている。
亡き妻との間には、心根の優しい娘に恵まれた。
昔に大嵐が来て、海神の住まいの近くに座礁した異国の大型船があった。「潮鳴(しおなり)の一族」という名の一族で、彼らもまた海神一族に負けないくらい海を愛し、勢力を持っているという。
入り江に避難した一族の貴人が、『正座』という風変わりな座り方を教えてくれた。彼は海神や、『座神』の男と同じ壮年の外見をしていた。
もっとも海神は人間のように歳は取らないが、貴人も男盛りのアゴひげを生やし、優しげな茶色の瞳をしていた。
幼かった娘に「月陽」という名前を付けてくれたのも貴人だ。
「夜に輝く月のごとく静かな存在であれ、万物の命の源である陽のようであれ、との願いがこめられている」
と、言い足してくれた。
座神は娘に付けられた「月陽」という名前をたいそう気に入った。
貴人が去った後に、正座の所作を繰り返し行い、正座して三叉の槍磨きの作業を続けた。不思議と心を落ち着かせて「無」の境地で磨くことができる。
座神は正座の効果を知ったのだ。
正座し、背すじを真っ直ぐにして胸を張る。目を閉じて瞑想し、感じ取ったことを砂の上に記す。そうすると自分の悟った考えが明確になるのだ。
三叉の槍の「行動」の象徴である真ん中の槍を、座神は磨き続ける。「安定」を意味する端の槍は、「正座」に通ずるのではないかと思い始めた。まだ専任の磨き手がいないので座神が磨いている。
幾年かの月日が流れた。
ある日、戦に出た海神が、大敗して負傷までしてしまった。三叉の槍の一撃を跳ね返した強靭な身体の持ち主がいたのだ。
長老たちの中には、この戦の勝ち目を疑問に思う者が幾人かいたので、海神は長老たちの信頼をかなり失ってしまった。
「父さん、私、海神さまのお怪我のお見舞いにうかがってきます」
月陽が言い出したが、座神の男は厳しく止めた。
「お前ごときが行くことは許されない」
「だって、父さんは、戦で怪我した兵士さんたちの手当で大変でしょう」
「助け合いだ。海神さまのお怪我は命にかかわるほど重くはなさそうだ。お前は断じて行ってはならん」
「……」
いつになく厳しい父の命令だったが、月陽はどうしても海神の具合が気になって、そっと海底の住まいを訪ねることにした。
第二章 求婚
海神は利き腕の左腕を負傷し、洞窟の奥にある住まいで側近の者に手当をさせていた。
いつもしかめ面だが、一段と機嫌が悪い。戦に負けた上に敵から傷を負わされたとあって、自尊心が粉々に砕けてしまったのだ。
「痛い! それで医師のつもりか。手当はもうよい、下がれ!」
さんざん当たり散らし、装飾品を投げつけて壊しまくっている。側仕えの者は恐れおののいて退散するしかなかった。
月陽は、不安でドキドキする胸を押さえながら洞窟の部屋に近づいた。ヒレの下半身なので、岩壁伝いにひきずって進むしかできないのがもどかしい。
中から聞こえる物音から、何が起こっているか、大方の察しがついた。
勇気を出して、扉の両側に立つ番兵に取り次ぎを願った。
(海神さまは、お見舞いを許してくださるかしら)
ずいぶん待たされたが、ようやく番兵が目で合図した。
岩で囲まれた部屋に入っていくと、床には壊れた食器や燭台が散乱しているのが目に入った。透けた羅綾(らりょう)の布で囲まれた奥の寝台に海神が横たわっている。
「いつもの戦のように海馬(かいば)四頭の戦車を用意させ、気炎を上げて出撃したのだが――」
傷が痛むらしく、うめき声に変わった。
「海神さま?」
月陽が思わず、寝台周りの垂れ布をめくると、苦渋の顔をした海神が目を見開いた。
「む……、お前は……」
「お傷が痛むのですね、海神さま」
「座神が来たと報告があったのは聞き違いであったか。そちは座神の娘ではないか」
むんずと、力強い腕で月陽のか細い腕をつかんだ。
「あの男の娘をじっくり見たことがなかったが……」
海神は月陽を引き寄せ、まじまじと眺める。
「可憐でありながら、しっかりした瞳をしている。海の宮で真珠や珊瑚を奪い合っている女たちとは少し違うようだ」
月陽は思わず海神から逃れようとしたが、力強い腕はびくともしない。
「お、お放しください、海神さま」
「父親を大切にしているお前なら、情が厚そうだ。妻や後宮の女たちとは心通わぬ仲になってしまっているが、お前となら――」
海神の瞳に狂暴な色が浮かぶ。
「――! ――!」
「命ずる。そちは今宵から我妻になれ」
「海神さま、お戯れを!」
寝台の垂れ幕がバサリと取り去られた。立っていたのは、籠を抱えた座神だ。
「海神さま、愚かな娘が肝心のお見舞いの品を持ち忘れましたので、急ぎ、後を追ってきた次第――」
「父さん!」
月陽は慌てて父親の背後に隠れた。
「誠に行儀をわきまえぬ娘です。日を改めてお見舞いに伺わせますので、今日のところは失礼させていただきます」
「座、座神、待て!」
海神の声を背後に聞きながら、父娘はかまわず宮を後にした。
座神は娘の手を引いて浜辺まで泳ぎ進みながら、いつになく厳しく言い聞かせる。
「どうして父の言うことを聞かなかったのだ。恐ろしい思いをしたことだろう。海神さまは無類の女好き。幾人もの妻がありながら、気に入ったおなごは、片っ端から手中にするお方なのだ」
「私など、本来なら海神さまに近寄ることもできない貧しい浜辺の娘です。きっと、お怪我をされてお気持ちが動転されていたのでしょう」
「……世間知らずな娘だ。それに、お前は貴人から『月陽』という尊い名前を付けていただいたのだ。ただの貧しい浜辺の娘ではないと信じている」
海神に傷を負わせた一族は、海の世界を海神一族と二分するほど強大な一族ではないかと、長老たちの話題にのぼる。
長老たちが、彼らから奪った剣などの一部を、座神の元へ持ってきた。剣の束(つか)には、昔、嵐で船が座礁した貴人の一族と同じ紋章が彫られていた。
「この度の敵は、月陽の名付け親の貴人の一族、『潮鳴の一族』だったか……」
座神は剣を握ったまま、しばし考えにふけった。
月陽は、負傷した兵士の様子を見回りに行く。
海底の村落の様子をうかがっていると、ひとりの老女が岩屋からふらふらとした泳ぎ方で出てきた。
「おお、海神さまはなんと無茶な戦を……。おかげで、夫も息子も還らぬ身になってしまった」
小耳にはさんだ漁民の男ふたりが、老女を抱えて連れて行く。
「お、お許しくださいませっ」
「黙れ、肉親を兵士に取り立ててもらった恩も忘れて、海神さまの悪口を言うとは重罪だ!」
老女は悲鳴を上げることもできず、連れ去られた。
一族の境界線を越えて泳いでいった村落では、海神の冷酷な侵略に逢い、泣き暮らしている民が多数見られた。
また、海神の側近の噂をもれ聞いてみると、横暴な政(まつりごと)を行っている例が、あちこちから伝わってきた。
月陽は、ある夕べ、父親に告げた。
「父さん、私たちの崇拝してきた海神さまは、信頼していい方なのかどうか、分からなくなってきたわ」
座神は、三叉の槍を磨く手を止めて娘に目をやった。
「その三叉の槍も、命を奪うための道具よね。そればかりではない。大地に突き立てて真っ二つに割ったり、地震を起こしてたくさんの人々を恐怖に陥れたりなさったと聞いたわ」
月陽の両手が胸の前でもみ絞られた。
「月陽よ、汚れを知らぬお前の心は揺れ動いているのだな」
父親は娘をかたわらに座らせた。
「いずれ大人になれば分かる。きれいごとだけでは生きていけぬことが。海神さまとて、大海原の中で多くの敵を相手に生き抜くことに懸命なのだ」
「だからと言って、あまりにも傍石無人(ぼうじゃくむじん)なことまでして許されるのでしょうか?」
月陽の大きな眼から涙があふれた。父親は娘の頭を抱き寄せるしかなかった。
「お前にも、いずれ分かる日が来る」
第三章 脱皮
「大変だぁ!」
三叉の槍磨きの仲間のタンザが、浜辺を転んでは、また起き上がってあたふたと走ってきた。
「どうした、タンザ!」
タンザは港を指さし、
「いつぞや、お前が助けた座礁した船が!」
「座礁した船がどうかしたのか?」
「あの船から重々しい恰好をした使いが来て、海神さまに一族の長から願いが出されたそうだぞ」
「一族の長から海神さまに?」
「聞いて驚くなよ、座神! お前の娘の月陽を長の嫁にほしいと言ってきたそうだ!」
座神の手から、月日貝が落ちた。
港へ行ってみると、海神族の人々が異国の船を取り巻いて大騒ぎしていた。使いの者が海神の住まいから戻ったばかりのようだが、タンザのような地獄耳の者がいち早く聞きつけて、長の「嫁乞い」の話をばらまいていた。
座神は急いで自分の岩屋へ戻った。
「月陽! 月陽はおらぬか」
「父さん……」
奥から月陽がそっと顔を覗かせた。
「早くどこかへ身を隠せ。お前はどこか知らない遠い国へ嫁がされるかもしれん」
いつも落ち着いた座神も、さすがに真っ青になっていたが、
「近寄らないで!」
月陽は苦し気な呼吸をして、父親を拒んだ。
「月陽、具合でも悪いのか? ひどい顔色だ!」
「触らないで! 誰も近寄らないで!」
途切れ途切れにそれだけ言うと、岩屋の奥に籠もってしまった。
「いったい……」
父親とタンザが岩屋の前で立ち尽くしていると、タンザの女将さんがやってきた。あっけらかんとして笑う。
「ふたりとも、女の子のことを知らなさすぎる鈍感なんだから。しばらくすれば、元気に出てくるよ」
「え? 放っておいて大丈夫なのか?」
「今夜は満月だ。他の年頃の女の子たちも、それぞれ岩屋に籠もったようだよ」
月陽は経験したことのない熱さ、苦しさに襲われて、岩屋の寝床でもがいていた。
(なんだろう、この熱くて重い感覚……。私はどうなってしまうの?)
下半身が燃えるようだ。断ち切ってしまいたいほど下半身のヒレが重い。
(待って……。今こそやらなければならないことがある。そんな気がする)
穴の開いた天井を見上げると、海面が見えた。太陽からの光が揺らいで差しこんでくる。
(そうだわ、あの国へ行って、やらなければならないことが!)
閃いた(ひらめいた)とたんに、月陽は海面から飛び出して、空を飛んでいくように遠い距離と時間をさかのぼっていった。
ふと気づくと、下半身は軽くなり自由に動くことが出来る。尻尾のヒレを見下ろそうとして、月陽は目をしばたたかせた。
(私の尻尾がない!)
下半身は、父親やタンザの女将さんのように、二本の足が生えている。
(たまに年上の女の人を見て、二本足は見ていたけれど……)
(母さんは早くに死んじゃったから、女の子の成長の話を聞けなかった……。私たち一族の女は生まれた時から少女期までは、尻尾のヒレを持ち、成長すると二本足に脱皮するんだわ)
脱皮を迎える時の下半身の燃えるような重さ、痛み。
月陽の記憶にくっきりと刻みこまれた。
しかも――、まだ朦朧(もうろう)とした意識の中にいるというのに、導かれたように見慣れない異国の海辺へ来てしまった。
彼方の崖の上に、岩で造られた城塞(じょうさい)がある。
(海神をお腹に身ごもっている女が捕われの身になっている――)
何かが月陽の頭の中で告げていた。
(海神さまをお腹に身ごもっている――? では、ここは昔の世界なんだわ)
勇気を振り絞って、実感できていない足を一歩踏み出すと、どうにか成功した。一歩一歩慣れてくると、軽やかに足を運ぶことができる。
兵士が城壁をぐるりと囲んで守っていたが、誰ひとり月陽の姿が見えないらしく、門を抜けて城内へ入り、地下牢まで忍びこむことができた。
地下牢の奥――、番兵が幾重にも守りを固めているひとつの牢に、その女人はいた。
やや目立つお腹をして、足枷(あしかせ)を着けられて簡素な寝台に横たわっている。金色の長い髪は艶を失い、乱れたまま。身体にはスリ傷が無数にある。
「もしもし、海神さまのお母様ですね?」
月陽が牢内に入りこんで声をかけると、女人の眼が開いた。
「――小娘、お前は?」
「私の姿がお見えになるのですね。海神さまの国の者です」
「海神とは――?」
「貴女さまのお腹においでの方が、後の世で世界中の海を統べる(すべる)座に就かれるのです」
「このお腹の子が……? お前は未来のことが分かるのね? 未来からやってきたのね?」
「自分でもよく分からないのですが、どうやらそのようです。海神さまのお母さま……。ひどい目に遭われて……おいたわしいこと。今、お助けいたします」
女人は、足枷を外そうとする月陽の手を止めた。
「待ちなさい。未来の者がこの状況を変えると、後の世のことが変わってしまいます」
第四章 捕われの女
「海神さまのお母さま。今、貴女が受けている苦しい状況が、後の世で海神さまを暴君にしてしまうのです! お腹の中での記憶や体験はそれほどに大切なもののようです」
「お腹の子が暴君になると――?」
「それでも私は、海神さまを崇拝しております。最愛の父が命をかけて忠誠を誓っているのですもの」
月陽の眼から涙がほとばしった。
「お待ちくださいませ。城の主にお願いして、すぐに解放していただきますからね」
言うなり、月陽は牢を飛び出した。
無我夢中で地下牢からの螺旋階段を昇り、城主の住まいを捜し、彷徨った(さまよった)。
途中で岸壁を見下ろせる城壁に出て、海を臨んだ。
堅牢な城は崖の上に建っており、足元には荒々しい波が砕け散っている。海神の珊瑚で造られている城とは、趣きが違うことを月陽は感じた。
栗色の豊かな髪が、強風にもてあそばれる。
気配を感じて振り向くと、いつぞやの貴人が、裏表が赤と白になった月日貝を手にして立っていた。
「貴方さまは――?」
「月陽よ。『座神』の娘よ。後の世からやってきたか。美しい足を持つ大人になったことよ」
「貴方さまは、私の名づけ親。潮鳴の一族の長ですね」
「そうとも」
「どうか、牢につながれている女人を今すぐ解放して故郷の海神一族の里へ戻してあげてください。このままでは、かなり乱暴な性格の海神さまを産んでしまわれます!」
「娘よ。お前は何か思い違いをしているようだ」
潮鳴の長が静かに言った。手の中の月日貝をひっくり返して、
「あの女人には雄々しい神を産んでもらうために、敢えて(あえて)過酷な環境に置いているのだ。人の性格とは、この赤と白の貝のように正反対なものを合わせ持つもの。現に、暴君でありながら、海神は名君ではないのか?」
「そ、それは……」
「お前も父親も心より崇拝しているのではないか? 私とて海神と同じだ。人の妻であれ気に入ればさらって自分のものにするし、領域を侵略もする」
「潮鳴の長……」
「監禁しているのには、もうひとつ理由がある。我の敵に回して不足のない強力な者を産ませるためだ。民の尊敬を集め、かつ強大な力を持つ者を――。故に、解放する気はない」
「潮鳴の長……」
月陽は唇を震わせた。指先が冷たくなり、立っているのがやっとだった。
(私に「月陽」と名づけてくださった貴人……。尊敬する方だと思っていたのに、こんな好戦的な考えの持ち主だったとは……)
景色が歪み、足元からどこかへ吸いこまれていく感じがした。
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意識を取り戻したのは、岩屋の中だった。二本足になったばかりの海神の国の岩屋だ。真っ白な二本足がしっかりとある。寝台の上でバタバタ動かしてみた。
「月陽、今日から大人だよ。無事に大人になれたお祝いをしなくちゃねえ。とびきり良質な昆布と海馬の卵料理でもしようか」
タンザの女将さんが、にっこり笑って言った。
一歩一歩、砂を踏みしめて外へ出ると、父親の座神も、嬉し涙に眼を潤ませている。
(海神さまの母上がいた昔の空間から帰ってきたんだわ――)
「月陽、立派な大人の女性になったな。祝いの宴をせねば」
「父さん、それより前に、私にはやることが!」
身をひるがえし、海底の海神の住まいへ潜っていった。
第五章 激突の中で
海神は、兵士を率いて入り江の異国の船へ出撃するべく、武装して洞窟の前に兵士どもを整列させていた。大人に成長した月陽を見るや、
「おお、座神の娘。すっかり大人に成長したものよ」
海神の目元が緩んだ。改めて大人になった月陽に魅了されたようだ。
「こうなれば、よけいに、そなたを潮鳴の一族に渡してなるものか!」
三叉の槍を握りなおして号令をかけた。地鳴りのような声だ。
「皆の者、出撃――!」
「海神さま! 私などのために戦などおやめください!」
懸命に叫んだが、魚類の群れのように出撃していく一団の前に、月陽は、なす術(すべ)がない。
海から顔を出した海神一族の兵士たちは、潮鳴の一族の船によじ登りはじめ、大きな戦いの火ぶたが切られた。
海神も自らの船を出し、両軍は対峙した。
「月陽!」
無謀にも戦いのさなかへ、娘を救おうと駆けつけた座神は、海神一族の兵士に剣で傷つけられた。
「父さん!」
砂地に倒れる父親を発見した月陽は、走り寄って父親をかばい、
「誰を傷つけたと思っているの、海神さまの三叉の槍を磨く役目の者をこんな目にあわせて、ただですむと思っているの!」
兵士を睨みつけて剣を取り上げた。
三叉の槍磨き仲間のタンザもやってきた。
「座神! 大丈夫か、血が出ているじゃないか」
自分の衣を割いて怪我人の腕の傷口に巻きつける。
月陽はタンザに父親の手当を頼むと、海神の乗る船まで走っていった。船首に立つ海神めがけて叫ぶ。
「三叉の槍が血で錆びついています! すぐに研がなくては!」
「なに?」
海神がうろたえる隙を狙って、月陽は船に昇り、握られている三叉の槍を抱きかかえて奪い取った。
船首に立つと、力をふりしぼって砂地に槍を投げつける。
「戦いをやめなさ――い!」
槍は飛んでいき、地面に激しく突き立った。
地面にひび割れが走り、放射線状に広がる。両軍の兵士どもは月陽に目をくぎ付けにされた。
月陽は三叉の槍のかたわらに両足に力を込めて立ち、続けて叫ぶ。
「不毛な戦いは止めて静かにお座りなさい!」
呼吸を調えて、正座を始めた。
「皆、静かに座れば分かるわ。この戦いがどんなに馬鹿馬鹿しいものであるか」
背すじを伸ばして改めて真っ直ぐ立つ。胸を張り、地面に膝をつき――、かかとの上に静かに座る。
そして兵士たちをゆっくり見回した。
「海での覇権を求めて戦いを繰り返す。戦い甲斐のある相手を求めて永久に繰り返す。このままこんなことを続けていれば、いつか母なる海に神も人もいなくなってしまう。私たちは自滅の道を歩んでしまう。静かに座って、胸に手を当てて、よく考えてみて!」
肩で息をして訴えてから、月陽は手を組んで静かに目を閉じた。
沈黙が訪れ、波の音だけがいつもと変わりなく響く。
やがて、海神族、潮鳴一族たちの中に、武器を放り出す者が現れはじめた。
船の上から月陽を見ていた海神が、おもむろに口を開いた。
「座神……。あの娘こそが、本物の座神だ」
船上で敵と剣を交えていた潮鳴一族の長も、月陽に視線をあてた。
「まさに……、これこそ、気高き座神の姿だ」
兵士たちも口々に、
「娘の周りから太陽の環が見える」
「月の静けさが広がってくる」
「……俺たちは……こんな野蛮な戦いを続けていていいのか?」
顔を見合わせる者たち。
月陽の正座が、血気はやる兵士たちの心に変化をもたらした瞬間だ。
やがて、両軍の兵士たちは、次々に武器を足元に捨てた。
夜を迎えた浜辺には、白い満月に照らされた波打ち際に、無数の剣や弓矢が捨て置かれた。
負傷した者も運ばれてゆき、波の音だけが辺りを支配している。
第六章 真の座神
砂地を踏みしめる足音が近づいてきた。海神が水平線を見つめる月陽の元へやってきたのだ。
「余の母親は、余を身ごもっている時期に潮鳴一族に捕えられ、しばらく牢に閉じこめられていた。父王はじめ、皆は帰ってくることを諦めていたが、ある日、解放されて返されたという」
「では――」
「潮鳴一族の長が解放を許したのだ。おかげで、余はこの地で生を受けることができた」
「潮鳴一族の長が……」
(きっと説得を聞き入れてくださったのだ)
月陽の胸は感謝であふれた。
「座神の娘よ。しらばっくれるでない。お前が潮鳴一族の長に頼みこんだのであろう」
「どうしてそれを……」
「余は海の神だ。海辺の国で起こったことで知らぬことはない」
月陽は恥じ入った。
(こんなに側で話しているが、この方は海の神なのだ)
海神は鷹揚な微笑みを浮かべ、
「お前は言うなれば命の恩人だ。母を解放するよう願ったから、余はこの世に生まれくることができたのだから。……小癪なマネをしおって」
「海神さま……」
「お前を側に置きたいと思うたが、なかなか目端の鋭いおなごだ。手に負えぬことであろう」
海神は水平線に目を向けた。
「幾年も幾年も、戦と八つ当たりで起こした地震や津波のせいで罪悪感に苦しんできた。どうやら、有り余る力を使う方向を間違っていたようだ」
港に停泊している数多くの戦船(いくさぶね)に目を転じた。
「数あまたの兵士のためにも、名君であらねばならぬな。月陽よ、お前がそれを教えてくれたのだ。先ほど、三叉の槍を地面に突き立てた時に感じた光が、今までの余の横暴を浄化してくれるような気がする」
「私など、海の泡のようにちっぽけな者です。でも、父と共に海神さまを崇拝してきました。たとえ闇の道を行かれても、鮮やかに彩られた闇もあるということを信じて捜していきたいと思います」
「鮮やかに彩られた闇とな――。人魚から成長したばかりだというのに、やはり目端の利くおなごだ」
海神は「舌をまいた」と言いたげに月陽を眺めた。
「幼い頃、お前の座り方を母親から教えられたことがある。それで、お前の父親が同じ座り方をしていたので、からかって『座神』などと呼んでいたのだ」
「父が……。母君さまと同じ座り方を? それは……」
声に出さずに月陽は心に秘めて感謝した。
(私の名付け親の潮鳴一族の長が、海神さまの母君さまにもお教えしたに違いない)
(乱暴な者だと言いながら、あの方はやはり貴人なのだ)
砂地に突き立っていたままの三叉の槍を、月陽は引き抜いた。
水平線に昇りくる日輪に槍をかざして伏し拝んでから、正座して海神に捧げた。
「海神さまと潮鳴一族の長に、深く感謝いたします。どうぞお持ちください。決して、無闇(むやみ)に地震や戦など起こされませぬよう、お願い申し上げます」
「うむ」
海神は三叉の槍をしっかりと受け取り、
「この槍の三本のそれぞれの意味は、『迷い、行動、安定』である。ただいまよりお前を、『安定』の槍の磨き役に任命する。父親を見習って、一人前の磨き手になるよう精進せよ」
「は……はい!」
月陽の顔が輝いた。
「『安定』に通ずる『正座』を大切に守り、伝承いたせ。『座神』と呼ばれた男の娘こそ、『真の座神』と呼ばれるに相応しい存在であったな」
海神は、ひと言ずつ噛みしめながら言った。
月陽がもう一度、海へ視線をやると、潮鳴一族を乗せた船が帰路につき、遠ざかっていこうとしていた。
「潮鳴一族の長、ありがとうございます」
月陽は波打ち際で心をこめて正座して頭を下げた。