[310]お江戸正座12
タイトル:お江戸正座12
掲載日:2024/09/29
著者:虹海 美野
内容:
庄吉は札差の若旦那である。剣術を嗜み、お商売で大切な算術、書も秀でている。三人兄弟の中で、自分は跡取りとして申し分ないと自負する一方、弟二人と比べ、面白味のない人間だという思いが拭えぬ。
ある日見合いの話が出た。果たしてお相手は自分でいいと言ってくれるのか。
庄吉は悩み、道場へ向かい、そこで初めて会った娘と手合わせし、完敗する。
娘はきれいに正座し、座礼した。
この娘とはこれきりの縁だと思っていたが……。
本文
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1
庄吉は札差の長男である。
ここらでは老舗の札差で、商いは順調、子どもの頃より着るもの、食べるもの、教育に於いて、大層恵まれていたと感謝している。
おまけに庄吉は札差の長男であるから、生まれた時はそれはそれは盛大に祝ってもらったと聞く。親戚はもちろん、札差仲間からも祝ってもらったそうだ。
そうして、その下に弟が二人誕生した。庄次と庄三である。小生意気な三男は、二十三で口入屋に婿入りした。昨年の今頃である。
なんともいけすかない話である。
最近、蔵の軒につばめが巣を作った。
どうしましょうか、と手代に訊かれたが、母が大層嬉しそうにその様子を見守っているのを知っていたので、そのままにしておくようにと言った。抱卵し、ひなが巣立つまでそう日はかからぬ。
暫くして、巣から小さな鳴き声が聞こえ始め、成長したひなが四羽顔を出すようになった。
巣を見上げていた庄吉は、ふと鷹の話を思い出した。
鷹は大きく育つ見込みのあるひなを優先して餌をやるとどこかで聞いたことがある。
もし、俺が庄次、庄三とともに鷹の巣にいたらどうしていただろう。
俺は弟を押しのけて餌をもらったか。
両親は俺を優先して餌を与えたか。
庄吉は恵まれた体格で、剣術の筋もよかった。
学問も得意で、滞りなく、お商売に必要な算術や手習いを終えた。
やはり俺は選ばれるべくして、この家の跡取りになったのだ。
そう自身に言い聞かせた。
「庄吉、ちょっといいかしら」
飽きもせずにつばめの巣を眺めていた母が、柔らかく微笑んで庄吉を両親の使う部屋へと促した。
「はい」と庄吉は返事をし、すぐに母に続いて両親の部屋に向かった。
この部屋には最近めっきり行かなくなったが、そこは庄吉が子どもの頃から何も変わらぬ。
母の嫁入り道具の置かれた部屋と、その手前の床の間。
床の間に活けられた花の色は淡く、優しい。
母と向かい合い、正座をする。
穿いているものを尻の下に敷き、背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度。手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにする。
散々仕込まれたことだが、こうした場では、自然といつもより自身を律する。
「ずいぶんと庄吉も大きくなったこと」と、穏やかに母は笑う。
自分の母ではあるが、この人は美しい人だ、と思っている。
呉服屋が反物を部屋で広げ、仕立てる着物を選ぶ折、よく弟が母にはあれがいい、これがいいと口を挟んだ。言われてみればそうかも知れぬが、母はいつもの母の装いがいいと庄吉は漠然と思っていた。これ以上、母に何を望むというのか。
ふと、忌々しさが甦る。
あの弟は昨年家を出た。
しかも相手は、どこで探してきたのだ、と驚くほどに美しく、そうして聡明な人であった。家族を前にして、言葉少なであったが、明らかにあの二人は心が通じていた。それがまた面白くない。こんなにひねくれた弟に、なぜ非の打ちどころのない相手が現れたのか……。
待て。
ひねくれているのは、もしや私か?
否、否……。
そんなことを考えていると、「庄吉」と母が涼やかな声で庄吉を呼んだ。
「はい」と顔を上げる。
知らず知らずのうちに膝に置いた手が着物を握っていて、揃え直す。
「あのね、そろそろ庄吉のお相手をと思うのだけれど、その前に、いい人がいるのか確認しておくようにってお父さんがね」
……お相手?
それは、祝言ということか……?
「はあ、おりません」
「あら、そう……」
今の母の『あら、そう』には、どんな意味があったのか。
取り立てて驚いた様子も見られぬ。
予想通りといったところか。
弟は自分で相手を見つけたのに、あなたは本当にいい人もいないの? とも思っているのか。
訊いたところでこの母は正直に答えぬ。
答えぬのに、顔に出る。
そういうやり取りが、どうにも庄吉には苦手である。
母を子どもの頃より慕っているが、このあたりのやり取りが、どうにも庄吉にはうまくゆかぬ。父も同じであろう。時々ちょっと困ったような顔をしているのを見る。だが、弟二人はこの母に似たのか、ふとしたやり取りで生じる機微を感じ取り、それをうまく返す。庄吉にはない能力である。
母と弟二人がそうしたところで阿吽の呼吸で通じ合っているのが、忌々しい。
じりじりと嫌な汗が出る。
どうして私はこうもつまらぬことを気にするのか……。
「庄吉、それでね」
母の声ではっと顔を上げる。
「お相手は、札差のお嬢さんなの。おりつさんと言うのよ。年は十八。今度そっとお店を見に行ってみましょう」
「はい」と頷き、庄吉は母の部屋を辞した。
廊下を歩きながら、おりつとは、どんな娘さんか、と考えた。
札差の娘だと言う。
縁談としては、まず間違いないだろう。
ただしかし、札差の娘というのは、往々にして贅沢に育っている。芝居なんかも桟敷席に着飾って座って、おいしいものを食べるのが当たり前だ。きれいな着物や簪が好きで、まあ、要するに金にも時間にも余裕があるから、遊び慣れている、と庄吉は考えている。
一方の庄吉の家は、しっかりとした札差でお商売も順調であるが、決して浪費はしない。
父の考えで家族から雇人に至るまで、食事、着物、髪に於いてまで、身なり整え、健やかであることに出費は惜しまぬが、贅を尽くした襖絵や、珍しい壺、趣向を凝らした着物や小物などには一切興味を示さぬ。
庄吉もそうした父の考えを尊敬し、同じ方針で店を守ってゆきたいが、果たしておりつという娘はどうなのだろうか。
世間では、連れ合いとなるかも知れぬ人との対面とは、それなりに心浮き立つものなのかも知れぬが、庄吉にとってはひたすらに気が重い。
「ちょっと出かけて来ます」と、庄吉は久しぶりに道場へ向かった。
こういう時には、神経を集中させ、身体を動かすのが一番である。
そういえば、道場へも父は兄弟三人で通わせてくれたが、弟二人は家でも碌に稽古もせず、すぐにやめてしまったではないか。いつの間にか祖父母の部屋に入りびたり、本を読んだり、古い茶器なんぞを眺めたりして、父に申し訳ないと思わぬのか。そんなふうに庄吉は腹立たしく思っていたが、実のところ父は末の弟の庄三がお三味線の筋がいいと褒められて有頂天になっていたというし、上の弟の庄二が茶や香に秀でていると聞けばまんざらでもない様子であった。
なんとなく、それが庄吉には面白くなかった。
またしても鬱々とした思いがしたが、通りがかった店の軒先にもつばめがおり、巣作りをしている。なんとも微笑ましい姿に心が和らいだ。
俺のところに来るご新造さんともあんなふうにやっていけるといいのだが……。
つばめは親の力添えもなく、伴侶を見つける。
大したもんだ。
……そういえば、末の弟も自分で見つけてきた。
ふうと、ため息をつき、道場にやって来た。
この時間は、稽古が入っていなかった。
師匠に声をかけて一人稽古に道場をお借りしようと思っていると、先客がいた。
背筋を伸ばし、脇をしめ、膝をつけ、袴を尻の下に敷き、手を太もものつけ根と膝の間で指が向かい合うように揃えている。
目を閉じ、集中しているようだ。
そうして、はっとした。
髪を後ろの高い位置で結っているが、娘だった。
気配を察して、娘が目を開けた。
「失礼。稽古の時間ではないのですが……」
娘は「こちらの門下の方ですか」と尋ねた。
「はい。子どもの頃より来ております」
「そうですか。私は別の道場に通っていたのですが、師匠が高齢のため、道場を最近閉めまして、その師匠の門下であったこちらの先生の元でお世話になることにいたしました。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げられ、庄吉も慌てて頭を下げる。
「突然ですが、お手合わせ願えますか」
本当に突然であった。
相手がどれほどの腕か、わからぬ。
しかも、小柄な娘だ。
庄吉が本気で向かったら吹っ飛んでしまうのではなかろうか。
そんな庄吉の心を読んだように、「手加減は無用です」と言った。
「いや、しかし……」
「手加減は無用だと申しましたでしょう。これはこちらからのお願いです」
「はあ」
……様子を見て、力加減をするか。
せっかくの稽古が、無駄足になってしまった。
2
「今日はここまでにいたしましょう」
ぜいぜいと天を仰いでいる庄吉にその娘は言った。
「いや、まだまだ」
結果から言うと、手加減は必要なかった。
とにかく、速い。
そして身が軽い。
何度かは庄吉が優勢な場もあったが、ぎりぎりのところでこの娘は竹刀を交わした。
普段から稽古をしているのがわかる。
お商売を継いでからは、なかなか以前のように頻繁に稽古には通えてはいなかったが、剣の方はそれでも少しは自信があった。この道場で一位、二位を争う、とまではゆかずとも、入門当初から筋がいいと褒められたし、実際に門下生の練習試合ではそこそこに強かった。
それがどうしたことか……。
そういえば、さっき、ここの先生の師匠の元で稽古していたと言ったが……。
「あなたはどういった……」
どう訊くべきかまとまらぬまま、尋ねていた。
「どうといいましても……。幼少の頃、たまたま剣術に引かれまして、試しにと入門し、それからは楽しく、ひたすらに道場通いをしておりました。先生にも大層よくしていただきました」
ひたすらに道場通いをしたとて、皆が皆、こんなに上達するはずがない……。
だが、娘特有の鈴のような声ではなく、よく通る安定したその声は、庄吉にとって清廉で、すっと心に納まった。
ようやく起き上がった庄吉の向かいに娘は正座していた。
そういえば、この娘は座礼がきれいだ。
正座をした状態でする礼だが、所作がぴしり、としている。
庄吉も正座し、互いに座礼をした。
そうして、今日は師匠の稽古がないからと、二人で道場を清めた。
そこへ師匠の奥さんがやって来て、「今日は所用で出ていますの。打ち合いはいかがでした」と顔を出した。
「自分の甘さが身に沁みました」と庄吉はややしょんぼりとして正直に答えた。
「まあまあ」と師匠の奥さんは微笑み、「お茶でも召し上がっていかれますか」と言ってくださったが、「これから商いがございますので」と庄吉は言い、店へ戻った。
3
自分を奮い立たせるはずが、余計に落ち込んだ。
遠目に、末の弟が婿入りした口入屋が見える。
もし今回母の言っていた人とうまくいかねば、ここで紹介してもらうことになるのか……。
それはご免こうむりたい。
「若旦那になんとしてもよいお相手を会わせてさしあげます。ええ、ええ、どんなに苦労しましても必ず……」なんて、笑いを堪えた弟の顔が浮かぶだけで今は気が重い。
店に戻れば、皆が「お帰りなさいまし」と迎えてくれる。
しょんぼりしながらも、どうにか力を入れ、商いに勤しむ。
算術と書だけは得意で、そこは若旦那としての本領発揮である。
背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、膝をつけ、脇をしめ、正座をすると、ふと先ほどの娘と向き合っての座礼が思い出される。
はあ、と小さく息をつく。
明日はしっかりと店にいて、商いを頑張ろうと思っていると、母が「明日のお昼はちょっと出かけましょう」と声をかけた。
「はい」と返事したが、増々気が重い。
そうして、またしても末の弟のことが浮かぶ。
あやつはどうやって相手を見つけたのか。
札差の中でやっているお三味線仲間との花見だというのは聞いている。だが、そこから何をどうしたら一体、初めて会った相手と生涯一緒にいようという運びになるのか。
箸の進まぬ夕餉の席で、ふと、次男の庄二と目が合った。
「なんでそんなに暗いんだ」と庄二が訊く。
「私はこの商売は向いていると思うが、ずっと一緒にいる人を迎えるというのがどうにも……」
「大概はそれを楽しいと思うんだろうが、そうか。兄ちゃんはそれが気が重いか。それぞれ捉え方は違うからなあ」と、わかってくれているのか、どうでもいいのかわからぬ答えをする。
「お前はどうなんだ」と庄吉は訊いてみた。
「まあ、私のことは追い追い。急ぐことでもないと今は思っているんでね」
まるでもう相手が決まっているような言い方ではないか。
母は澄ました顔で膳を前にしているし、無表情を装っている父はやや心配そうにしている。
これまで父の勧める剣術も商いの学びもよくやってこられたのに、ここで心配をかけるとは、いやはや情けない……。
その思いを父が見兼ねてか、小さく咳払いし、箸を置くと、「庄吉は昔から何に対しても真面目な子だった。それは誰にでもできることではない。ここまでしっかりやっているのを当たり前だと思ったことは一度もない。みんなお前に感謝しているんだ。自信を持ちなさい」と言い、「ご馳走様」と席を立った。
お父ちゃん……。
父の去った席を暫し庄吉は見つめていた。
弟と母が目を伏せ、微笑んだのには、気づかなかった。
4
翌日、母に付き添われて、半刻(一時間ほど)歩いた先にある札差を訪れた。
客人として、奥の間へ通されるのを装い、途中の部屋にいる娘さんをそっと見る、という方法である。
先方の旦那さんが「ささ、どうぞ」と先を歩き、その後を付いて行く。
お琴の音が聞こえる。
さりげなく、そっと障子の開いている部屋を見ると、淡い水色の縞の着物を着た、髪をきりりと結い上げた娘が琴を爪弾いていた。
音のひとつひとつがはっきりし、なるほど腰や手がしっかりとした印象だ。
いやいや、初対面の娘さんをちょっと見るのに、ずいぶんと失礼な見方をしてしまった。
相手がこちらを見る前に目を逸らし、案内された奥の間に座した。
先方の座敷は、庄吉の生家と似ていた。
どこもかしこも清められており、床の間に真新しい花が活けてあるが、目立った調度品はない。
「うちは殺風景でございましょう」と、旦那さんは言う。
「まさか。これだけ立派なお住まいをきれいに維持されるには、日ごろから手をかけなければこうはゆかぬでしょう。清廉なお住まいです」
母がそれを受け、話をつなぐ。
「末に娘が一人おりますが、上二人は息子ですので、幼い頃は喧嘩も多くて、高価な調度品などうっかり置いてはおけませんし、私もそちらにはあまり詳しくはありませんで。まあ、だったら道場で礼節も含め、お世話になろうと思った次第です」
「まあ、そうですか。うちは男三人ですが、剣術を続けているのはこの子だけで、三男は少し前に婿入りいたしました」
「そうですか。それはおめでとうございます」
そんな話をし、早々に暇を告げた。
「良さそうなお人でよかったわね」と母は嬉しそうだが、庄吉の返事は曖昧であった。
こちらが気に入る、気に入らぬ、の話ではない。
あちらがどう思うか、である。
父は商いに邁進している庄吉を褒めてくれたが、考えてみれば自分は面白味のない人間かも知れぬ、と思うようになった。
先ほどの琴についても、正直何がどうよいのか、全くわからぬのだ。
これが末の弟であれば、何か思いつくことがあるのだろうが、庄吉にはわからぬ。
昔から、お琴やお三味線を聞いても、はあ、聞きました、というくらいで、それ以上に思うことがない。
うっかり長居をして、お琴のことを訊かれでもしたら、それこそ大失態である。
5
何日かし、蔵の軒を見ると、つばめのひなが少しづつ飛ぶ練習をしている。
近くの木に飛び移ったひなが、まだ少しおぼつかぬ様子で鳴いている。
母が庭に出て来る。
「かわいらしいわねえ」と目を細める。
「お母ちゃん、もし、これが鷹であったら、どうなのでしょうね」と呟くように庄吉は言った。
「本当に優れたひなというのは、どういうものを言うのでしょうか。たまたま私は長子で生まれましたが……」
「つばめは順番に餌をあげていますよ。鷹だって、子育てを見たことはないけれど、なかなか順番の回ってこない子がいたとして、誰が餌をあげてもいいじゃないの。それで大きくなっていくなら。巣から落ちたひなでも、大事に育てて、様子を見て戻すこともできるのではないかしら。まあ、わからないけどね。生まれた順番でお商売を継ぐのが多いけれど、お母ちゃんはそのうちの誰かだけが全部一番だと思ったことはありませんよ。そういうものでしょう? だって、お父ちゃんとお母ちゃんの子なんだから。そりゃあ、お父ちゃんは立派なお人だし、お母ちゃんだって頑張ってやっているけど、得意なこともあるし、そうじゃないこともあるでしょう」
……そういうものか。
「そんなに力を入れて考えなくともいいのじゃあないかしら。ずっとずっと庄吉は頑張って、それがいいところだとお父ちゃんもお母ちゃんも思っているしね、庄二、庄三もわかっていますよ。庄二、庄三は庄吉の努力を知った上で、自分のできることを見つけているとお母ちゃんは思っていますよ。庄吉も、すこおしでいいから、そういうところを弟から見つけてみると、案外気が楽になるものかも知れないよ」
巣の淵に止まっているつばめのひなが、他のひなの止まっている木に飛び移った。
それを母は愛おしそうに見ていた。
6
一応、見合いの顔合わせは済んだわけだが、どうしたものか、と庄吉は考え込んだ。
こちらに異存はない。
もともと、娘さんとはあまり接する機会がなかった。
香だ、茶だ、三味線だといった札差仲間での集まりでは、それに乗じて行楽だ食事会だと出かけて、庄三のように出会いがあるのかもわからんが、庄吉が打ち込んだものといえば剣術のみ。後は父と寄合に行くくらいだから、同年代、或いはそれより上の旦那ばかりである。それが気安いといえば気安いし、気取った話も出てこないのが庄吉には丁度よかった。
しかし、これはどうしたものか。
もしも、お相手がうちでよいと言って、来ると仮定しよう。
それはそれでありがたい。
だが、そこで洒落た話でもされたらどうするのか。
こっちがお商売をしている間に、妻となる人がこの前のように琴を弾いていて、たまにはそれを褒めたりすることもあるだろう。そうしたら、どう言うべきか。嗚呼、たまに庄三でも呼んで、こっそり感想を訊いて、それを伝えるか。
そんなことがずっと続けられるのか……。
一人鬱々と考え、ちょっと出て来る、と道場へ向かった。
まだ稽古の始まる時間ではない。
ただ少し、心を落ち着けたかった。
「……おや」
道場の横にある師匠宅の座敷に、この前手合わせした娘が居た。
師匠の奥さんと開け放った座敷で話している。
「これはこれは」と奥さんが庄吉に微笑む。
庄吉は一礼した。
「すみません。今日は少し心を落ち着けたくこちらに伺ったのですが」
「まあ。今は私だけなのですが、こちらで少しお話でもいかがですか」
断ろうかとも思ったが、今回の見合いの悩みを解決する糸口が見つけられるかも知れぬ、と一縷の望みをかけ、お邪魔することにした。
こんなことなら、菓子でも持って来るのだったな。
たたきで草履を脱いで揃え、勧められるままに座敷に上がる。
床の間には紫の小さな花が活けてある。
まるで、心を撫でてもらうかの如く、庄吉の心が静まる。
昔、母の着物のことで、末の弟がいろいろと口出しし、それが面白くなかった。なんとなく、自分には何かを愛でるだとか、きれいだと思うことが不向きなのだろうと思っていたが、こうして花を見れば、心が柔らかくなる。
向かいに座る娘がきれいに正座しているのに気づき、これはいけないと居住まいを正す。
背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶしひとつ分開くくらい、脇は締めるか、軽く開く程度。足の親指同士が離れぬように気を付ける。
師匠の奥さんの淹れてくれた茶をありがたくいただく。
目を上げると、庭を横切り、つばめが飛んで行った。
「つばめが……」と娘が呟くように言った。
「ねえ、いい時期だわ」と奥さんが相槌を打つ。
「つばめの親は、平等にひなに食べさせますが、子の出来を考えることはあるのでしょうか」
小さく言った庄吉に「あら、庄吉さんが何を言うのかしら」と奥さんが笑った。
「こんなに立派にお育ちになって」
「いえいえ、私は全くです。真面目一貫でどうにかお商売は継げましたが、それだけです」
「それだけでいけないことがありますか。それだけ、をするのがどれほど大変なことか。それにねえ、仮に庄吉さんがそういうお人でなくたって、それで親御さんが庄吉さんをかわいくないとか、それこそほかのご兄弟に比べて云々はないと思いますよ。そりゃあ、親も万能ではありませんからね。腹が立ったり、小言のひとつもあるかも知れませんが、もうそういうことではないんですよ。考えるとか、思うとか、それよりずっと深いところに情とでもいうのかしら、そういうものがあって、それこそ、つばめが言葉は使わずとも、まんべんなく子に餌が行き渡るように幾度も飛んでは戻って来るのとね……」
わかったような、わからぬような思いでいた。
その時ふいに、鼻をすする音がした。
何か、最初わからなかった。
向かいに正座していた娘が、袖口で目元を覆っている。
「あらあら、どうしたのかしら……」
「ごめんなさい。なんだか、私は家にも、周囲のお友達とも馴染めていないような気がずっとしていて、お見合いをすることになったのですが、まだお相手からお返事もきていないのです。私としても、そのお方をどう思うのかわからないのです。そもそも私がどう思うかどうかと言える立場ではなくて」
これは……。
「あの、私も同じ悩みで実は参ったのです。お辛いとは思いますが、もう少し詳しくお話いただけませんか。私も話しますから。それでお互いの悩みが少しでも解決できたなら、それぞれお見合いがうまい方にいくかも知れません」
こんなにも、何もかもをかなぐり捨てて、人に縋り、また助けようと思ったことはあったろうか。
いつも馬鹿にされる、という思いがあった気がする。
娘さんが顔を上げる。
色が白く、鼻筋の通った娘さんだった。
そうしてややつり上がり気味の大きな目は、先日の剣術の時のような鋭利さは微塵もなく、ただただ心細さが浮かんでいた。
7
何かの間違いかと思った。
娘さんはおりつさんと言った。
どこかで聞いたことがある名だった。
おりつさんの方でも、奥さんが庄吉さん、と言った時、聞いた名だと思ったらしい。
そうして、互いに札差の家の子であることがわかった。
更に、最近、庄吉は見合い相手の家を訪れ、おりつは見合い相手が家に来たと言った。
父に言われ、滅多に弾かぬ琴を爪弾いた。
不慣れな琴の音はやはりよいものではなく、見合い相手が通る時には顔を上げられなかった。
すぐに見合い相手は帰ったが、その後まだ返事はない。
やはりお琴がいけなかったのではないか。
札差の妻というのは、お琴を弾いたり、優雅に過ごすものだと母を見て、おりつなりに見本となる姿はあるのだが、どうにもそうした芸事には向かなかった。兄について行った剣術の方がよほど筋がよかった。
それに順ずるように、庄吉も自分は真面目で算術と書だけが得意であり、弟二人は茶や香、お三味線なんぞに秀でていて、家族の中で庄吉は一応は立派な長男であるという見方をされているが、どこかつまらないやつだと思われている感が拭えない故を語った。
「それじゃあ、庄吉さんとおりつさんはお見合いの相手だったのですね。まあ、道場で顔を合わせていたというのに」と、師匠の奥さんは驚き、嬉しそうに手を合わせて笑った。
そうして、「なんて真面目で実直、おまけに剣術にも優れた、お似合いのお二人なのかしら」とまとめた。
まだ互いに返事はしていない、と思ったが、これ以上思いを打ち明けられる人がほかにいるとは考えられなかった。
そうして、もし、仮におりつが見合いの相手でなかったとしても、多少のわがままを通し、どうにかおりつと一緒にしてほしいと言うつもりであったと、後になって気づいた。
8
いやあ、いい人が来てくださって、本当にありがたい。
兄をよろしく頼みます。
そう心の底から言う弟二人に、庄吉は何やら解せぬものも感じぬではないが、一緒に育った弟二人が手放しにこれだけ喜んでくれたおりつとの縁、素直に受け止めることにした。
いつの間にかつばめは巣立ち、巣は空になっていた。
空の巣は、来年も来るかも知れぬからと、そのままにしておくことにした。
お商売をしている間はおりつは、お琴を弾かずとも、やりたいのであれば庭で竹刀を振っていればよろしい、と庄吉は言った。たまに、二人で師匠の道場へも行きましょう、と。
よろしいのですか、と訊くおりつに、何かいけないことがあるでしょうか、と庄吉は訊き返す。私は大層うれしゅうございますが、庄吉さんの大事な札差のお仲間に揶揄されるのではありませんか、と訊く。それを聞いた庄吉は腕を組み、なるほど、と呟いた。探そうともなかなか思いつくこともない、稀有で最高の娘さんが来てくれたとなれば、まあ、さぞかしやっかまれるでしょうなあ。やっかまれるのには慣れていませんが、なあに、立派にやっかまれますとも。その時は楽しみになさっていてください、と返した。
まあ、庄吉さんたら、と、おりつは両手で頬を包み、首を傾げる。
そして目をきらきらさせた後、また何かを思いついた様子で庄吉を見る。
「ああ、だけど、もし、私たちが子を授かったとして、その子が庄吉さんの弟君のように芸事に優れているということはあるかしら。そうしたら、庄吉さん、嬉しいかしら」
「おりつさんに似た、美しくて、しっかりとした子がいいです。うちには妹がいなかったから、女の子というのもいい」
「そうでしょうか」
「ええ」
二人、まだわからぬ先の話をする時、庄吉は大層幸せな心持になる。
両家顔合わせの席で、おりつの両親が「こんなに凛々しく、文武両道の方がおりつと添うてくれるとは、本当になんとお礼申し上げてよいのやら」と言った際、わざわざ家にやって来た末の弟と、店を抜けてその場に参じた二番目の弟とが、思い切り茶を吹き出し、その場で十数年ぶりの取っ組み合いも覚悟したが、おりつ、並びおりつの両親が心底不思議そうな顔をしていたので、この二人の失態も大目にみよう、と思った。
そうして、庄吉の父が「おりつさんのように可憐で、しっかりとした娘さんが来てくださるとは、幸せの極みでございます」と言ったところ、やはり同席していたおりつの兄二人が茶で大きくむせた。ほんの僅かの間見た、おりつの目には、剣術で向かい合った時の何十倍も鋭く、さっと立ち上がりそうな殺気じみたものを感じた。だが、それを庄吉よりも速く察したらしい兄上二人は、まだ茶にむせながら、「おりつ、よかったなあ」、「おりつをよろしくお願いします」と柔和な笑みで、その場を収めた。
それでも、誰も正座の足を崩さぬ辺り、互いの育ちもどうやら似ているらしい、と庄吉は思う。
そうして、おりつとのこれからは、少しこの規律を緩めてもよいだろうか、否、やはりこんな席の時のため、と厳しくするのだろうなあ、弟のような子をもし授かったら、煙たがれるだろうな、と先走ったことを考えたのだった。