[334]冷っこいキュウリ、どうどすえ~?
タイトル:冷っこいキュウリ、どうどすえ~?
掲載日:2025/01/21
シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:5
著者:海道 遠
あらすじ:
京の都の祇園八坂神社の主祭神は、ある時代、牛頭(ごず)天王夫妻とスサノオの尊夫妻の四柱が務めていた。
気の強い牛頭天王の妻、ハリ采女は少女のように幼いスサノオの妻、マグシ姫にことごとく辛く当たっていた。邪鬼の天燈鬼は、心配して湖国の衆宝観音に相談し、衆宝観音が南国の季節神「うりずん」に手紙を書き、彼は都まで様子を見に来た。
マグシ姫は猛暑の中、参拝客に冷えたキュウリを売っていた。彼女はハリ采女のイジワルから逃れられるのか――? 「正座」がカギになっていた。
本文
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序章
祇󠄀園の八坂神社の主祭神、牛頭天王と素戔嗚(スサノオ)の尊。
ある時代、神と仏は朝廷の法律で習合された。
ふたりは同一の存在でありながら、牛頭の時とスサノオの時と別の妻を持つ。まるで後宮みたいな感じになってしまった。
牛頭天王は、元インドの祇󠄀園精舎の守護神(仏教を元とする)だった。
スサノオの尊は日本の神話界で一番の暴れ者。あまりのヤンチャぶりに天照大御神によって高天原(たかまがはら=神々の住む場所)から追放された経歴を持つ。
そんなスサノオに、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)から命を助けられた少女、クシナダ姫(マグシ)は彼の妻になったのだった。
また、牛頭天王の妻は、夫が祇園精舎の守護神だったということでプライドが高い。可憐なマグシ姫が視界の中をちょこちょこ動くのが気にいらない――らしい。
第一章 ふたりの奥方
ある年――猛暑が日本を襲った。往来の人々はバタバタと倒れ、作物は枯れ、朝廷も困惑していた。
祇園八坂社の神、スサノオの尊―――の妻、マグシ姫が社の付近で冷やしキュウリ売りを始めた。都で暑さのため倒れる人々が続出したからだ。
「冷やっこいキュウリ、どうどす〜〜?」
キュウリを意匠にした緑の衣を着て、煌びやかな布の領巾(ひれ)を腕に掛けているさまは、可憐に結った黒髪に映えて麗しい。
明るい声で、
「冷やしキュウリ、いりませんか〜?」
大きな桶を両腕に持ち、四条通りを売り歩いている。
牛頭天王に頼んで、多くの眷属に山の氷室(ひむろ)から氷を運ばせ、農家の人々にも協力してもらってキュウリを取り寄せ、都の人々や付近に住む人々に、タダ同然で配っている姿は溌剌(はつらつ)としているので、朝から晩まで庶民に囲まれてありがたがられている。
「スサノオの尊さまは、働き者の嫁さんをもらわはったなあ」
「なんちゅうても、べっぴんさんですもんな〜」
「まだ少女と言うてもええくらい若い!」
男衆は、鼻の下を伸ばして見ている。
「あの可愛いキュウリ売りの娘はどこの子だい?」
旅人などは、周囲の客に尋ねてみる。
「祇園さんのスサノオの尊はんの奥方、マグシ姫はんどすわ」
「ええっ! 人妻! いや、神様でしたか!」
「つまり、牛頭天王の奥方さんですな」
「牛頭天王? 牛頭天王って、一度だけお目にかかったことありますけど、お腹がポンポン体型で牛の角を生やした色黒のおじさんの神様?」
「そうです。牛頭天王はんとスサノオの尊はんは、朝廷の命令で合体されて同じ存在やそうですわ」
「牛頭天王さんの奥さんは頗梨采女(はりさいにょ)さんではありませんでしたか?」
「頗梨采女さんもおられますけど、キュウリ売りをしてはるのは、マグシ姫さんどす」
「マグシ姫……?」
「櫛の姿になられたことがあるさかい、自らマグシ姫と名乗ってはります」
「なんだか頭がこんがらがるなぁ……」
「とにかくマグシ姫は祇󠄀園社の奥さん! 可愛い少女みたいな人! それと、もうひとり牛頭天王の奥さん、ハリ采女さまもおられます。8人の子持ち!」
「8人ものお子さんが!」
旅人は驚く。
「マグシ姫さま!」
鳥居の陰からふんどし一丁で駆け寄ってきたのは、ずんぐりして小さな角を2本生やした邪鬼だ。以前は四天王に踏みつけられていたが、あかりを灯す役目を与えられている。
「おいらにも、キュウリ1本おくれ!」
「あら、天燈鬼さん、毎度おおきに」
冷えたキュウリを渡しながら、姫はにっこりした。
「今日は、牛頭天王さまは?」
「八幡さまに呼ばれて出かけているわ」
「そうか、ほいたらよろしゅうな」
第二章 ハリ采女
「マグシ姫!」
八坂の社から、奈良時代風に高々と貫禄ある髪を結い上げた女人が、侍女ふたりを連れて出てきた。目の周りにも虹色の化粧を施している。
金糸銀糸の煌びやかな衣をまとって、ズシンズシンと歩いてきた。大柄で胸の厚さもたっぷりな美人だ。
「あんた、キュウリを大量に氷室から、うちの旦那の眷属に運ばせて何をやっているのや」
「ハリ采女さん! 最近、とても暑いでしょう? 少しでもご参拝の皆様を涼しくしてさしあげたくて……」
「それは本来わらわの役目や! 社の主祭神、牛頭天王の第一夫人のわらわのな! 小娘が何を出しゃばってるのや」
ハリ采女は、マグシ姫の持つ桶(おけ)をひったくった。
桶がひっくり返って、氷漬けになっていたキュウリが地面にぶちまけられた。
「な、何なさるの、ハリ采女さん!」
「そんな細い身体で力仕事は無理やね〜〜。そっちの桶もわらわが持つわ! 貸しなさい!」
ハリ采女のゴツい肩が当たり、マグシ姫はよろけて地面に転がってしまった。
「ドジやねえ、まったく」
ハリ采女の侍女までクスクス笑っている。
「あ〜〜〜あ、マグシ姫さま、お召し物がぐちゃぐちゃに……」
通行人に声をかけられ、姫の眼から涙がぽろぽろ落ちた。
「ふん、人妻のクセして泣き虫のネンネやな」
ハリ采女は桶を持って、キュウリを配りに行ってしまった。
地面についたままの手で涙をぬぐったので、マグシ姫の顔は泥だらけだ。
そこへ―――、
「どうなさいました?」
若く張りの良い声に振り向くと、柔らかい茶色の髪を肩に垂らした青年が手を差し出していた。
貴族? 修験者? ふわふわの青いお直衣のような衣を着ている。
「あ、ありがとうございます。でも、汚れてしまいますから」
姫はひとりで立ち上がって社の階段を昇りかけた。
青年は追ってきて、
「八坂の社の方ですか? 牛頭天王か奥方のマグシ姫さまにお取次ぎ願えませんか?」
マグシ姫が足を止め振り返ると、青年は、
「私は南国の季節の神うりずんと申します。牛頭天王さまとは面識があります」
「うりずんさんですって? 夫からは貴方さまのことをお聞きしています」
「夫?」
「牛頭天王とスサノオの妻、マグシと申します」
「あなたが、牛頭天王のご夫人?」
(幼い! 幼すぎる! まるっきり「美女と野獣」じゃないか!)
(それに、共同の妻? だと?)
言葉が出ない。
正座師匠の万古老のところにいる愛弟子の、外見11歳の百世(ももせ)と変わらない。
「さ、お客様、暑かったでしょう。社の奥へお上がりください」
周りの木々ではセミが大合唱している。マグシ姫に案内されるまま、うりずんは社殿の奥に上がった。
第三章 正座が苦手
正座して待っていると、井戸水で冷やしたという瓜を出された。
マグシ姫の正座の所作が何気なく目に入った。
背を真っ直ぐにして床に膝を着き、前かがみになりながら衣に手を添えお尻に敷いて、かかとの上に足を置き、両手を膝の上に置く上品な所作は子ども離れしている――と、思いきや、とたんに後ろにひっくり返った。
「きゃっ、恥ずかしい!」
真っ赤になったマグシ姫は、慌てて裾を整えてぺったん座りした。
「失礼しました。わらわはどうも、正座が苦手でして……」
「お気になさらず。機会があれば、私がお教えいたしましょう」
「まあ、ありがとうございます」
「マグシ〜〜! マグシ!」
玄関でハリ采女の呼ぶ声がした。急いで出てみると、
「暑くって、水の中のキュウリが暑さで伸びてしもたわ。新しいのを井戸から引き上げてちょうだい!」
ハリ采女の侍女たちは棒のように突っ立ったまま動かない。
「はい! ただいま」
マグシは言われるままに、井戸へ向かった。
邪鬼の天燈鬼が井戸端に待っていた。井戸のツルベをつかんだまま離さない。
「ハリ采女さまの態度はひどいやないか。ここ数日、おいらはそっと物陰から見ていたんやで」
「シッ! 声が大きいわ。お願い、ツルベをこっちへ」
「う〜〜むむ、仕方ないなぁ」
天燈鬼はしぶしぶツルベを渡した。
マグシ姫は重いツルベを引き上げ、やっとこさ、冷えたキュウリを桶に移し変えた。
やっとハリ采女にキュウリを渡したとたん、マグシ姫はふらふらとしゃがみこんでしまった。
ハリ采女は眉を吊り上げ、
「はん! だらしないね! わらわなんぞ8人の御子を産んだが、休んだことはないぞ。あんたは8人姉妹の末っ娘だとか。甘やかされて育ったのやろう。情けない情けない。わらわが第一夫人として牛頭天王さまに合わせる顔があらへんわ」
「……」
ハリ采女が井戸端から去っていったのと、うりずんが駆け寄り、マグシ姫を抱き上げたのは同時だった。
ハリ采女と侍女たちが、陰険な目で振り返り、
「んまあ、なんてはしたない。見知らぬ旅人に抱えられるやなんて。スサノオさまに言いつけんといかんわ!」
天燈鬼が走ってきて、
「とにかく中へ。姫さん、横になってください」
社殿に帰ると、奥の座敷に褥(しとね)が用意されていた。
「ご苦労だったな、天燈鬼がいてくれて助かった」
うりずんは姫を褥に寝かせた。ほどなく姫は寝息を立てはじめる。
天燈鬼が言うには、
「ひと月ほど前に都に来たんやけど、マグシ姫はんが毎日のように、こないな荒い扱いを受けてはるのを見てましたんや。一向に、ハリ采女はんのこき使いが止まらんさかい、おいら心配で……」
「それで、お前が八坂神社の宮司さんに掛けあってくれたんだな」
「はい。でも、宮司はんは、牛頭天王の奥さんのやることに間違いは無い、の一点張りで。そこで、湖国の衆宝観音さまに相談させてもろたんです」
「ありがとう、天燈鬼。一部始終は周宝観音さまからのお手紙で知ったよ。猛暑の中でマグシ姫にもしものことがあったら、大変なことになっていたよ」
「ハリ采女はんも根っから悪い神さんやないと思いますけどねえ。旦那さまが二人になり、混乱されてるのとやきもちでしょうかねえ」
「はっはは」
うりずんは声を出して笑った。
「スサノオの尊さまも困られていることだろう。いきなり奥方が二人になったのでは」
「……実は、わらわも混乱してます」
眠っていると思っていたマグシ姫がぽつんと言った。
天燈鬼がすばやく背中を支えて起こし、水を持って差し出した。
「ありがとう。美味しいわ」
「今日はもう、キュウリ売りはおしまいにして、ゆっくりお休みなさい」
うりずんはもう一度、姫を横にして布団をかけた。
「スサノオの尊は、どうお考えなのだろう? 一度、お会いしてみたい。ヤマタノオロチ退治の武勇伝などお聞きしたい」
「うりずんさんが、スサノオの尊さまに会いたいやて?」
天燈鬼が大きい目をぎらつかせて近寄った。
「どうかしたのか?」
「イケメン同士の邂逅(かいこう)とは、正にこれかも」
第四章 衆宝観音
うりずんは、翌朝、とりあえず湖国の衆宝観音の元へ向かった。
ハリ采女から、辛く当たられているマグシをどう救えばよいのか、観音の考えを聞くためだ。
彼女はいつも通りのたおやかな笑顔で迎えた。
「どうだった? マグシ姫の様子は」
「……あれでは継母(ままはは)に苛められている継子(ままこ)ですよ、可哀想に」
「継母って?」
「例えです。牛頭天王の第一夫人のハリ采女さんのことですよ! マグシ姫をアゴで重労働に使っています」
「ハリ采女さんが?」
「ええ。マグシ姫はおとなしくて彼女の命令に逆らえないんです」
衆宝観音はクスクス笑いを初めた。
「どうしたの、笑ってる場合じゃないよ、衆さん!」
「うりずん、落ち着いて。マグシ姫は大丈夫よ。しばらく待っていなさい」
ずいぶん落ち着いた口ぶりだ。
「でも、まだ猛暑は続きそうですよ。キュウリ売りは重労働です。マグシ姫に耐えられるか……」
「うりずん」
観音はうりずんの正面に座り、温かい手で両手を包みこんだ。
「いいから待っていらっしゃい。よそのご夫婦のことに関わるのは、お行儀の良いこととは言えませんよ」
「……そ、その通りですが、彼ら2組のご夫婦は朝廷の命令で、夫が同一の存在になった特殊な場合で―――」
「だからこそ他人が口出しすれば、よけいに絡まった糸がもつれてしまいます。マグシ姫の正座を見た?」
「は、いえ、正座しようとされましたが、後ろへ転んで……」
「やっぱりねえ。今のあの娘には正座は無理でしょう」
うりずんは、首をかしげた。
「どういう意味ですか?」
「放っておきなさい。手出し口出しは無用よ」
「……衆さんがそこまでおっしゃるのなら、見守るだけにしますが……」
「ふふふ……あなたはか弱い女の子が辛い目に遭っていると放っておけないのよね」
観音はうりずんの手をポンポンとたたいた。
第五章 スサノオ帰る
とっくの昔に秋の暦に入ったのに、猛暑はなかなか去らない。
マグシ姫の冷やしキュウリ売りは続いていた。ハリ采女はサボってばかりで昼間は涼しい座敷で寝転んでいる。
遠方へ行っていたスサノオの尊が帰ってきた。
「マグシ姫さまぁ、スサノオの尊のお帰りですよ〜」
晩夏の陽射しにさらされながら、キュウリ売りをしているマグシ姫の元へ、天燈鬼が転がるように走ってきた
「本当に? 天燈鬼さん!」
姫は両手の桶を地面に置くなり、雑踏に目を凝らした。
配下の者を数人従えて、徒歩である。賀茂川から四条の通りを祇󠄀園社に向けて、雑踏の中をやってくるのは確かにマグシ姫の背の君である。
頭ひとつ高くて、濃い黒髪をみずらに結い上げアゴヒゲを少したくわえている。
マグシ姫のふところで愛用の櫛(くし)がビクンと震え、真っ赤な櫛を取り出した。櫛は引き寄せるかのように、目指すひとの元へ突進した。
「―――スサノオさま!」
「おお、姫さんか!」
ヒナが親鳥のふところへ帰るように、マグシ姫は大きな翼の胸に飛びこんだ。スサノオは真っ赤な櫛を幼さの残る前髪にそっと挿した。
「濡羽色の黒髪に映えてよく似合うぞ」
「君様との一番の思い出の品ですもの。肌身離さずにいました」
「猛暑が続いているが、達者だったか? キュウリ売りなぞしていたのか」
「はい。参詣客さんたちのために、ハリ采女さんが発案されたのです。氷は牛頭さまの氷室のものを使うようにと」
「ハリ采女どのの発案とな? 眷属にもお前にも重労働だろうに」
マグシ姫は顔を曇らせた。
「でも、言うことをきかないと叱られますもの」
「ハリ采女どのにも困ったものだ。牛頭どのは何と?」
「牛頭さまはハリ采女さんの言いなりです」
「なんてことだ! お前にもしものことがあれば、取り返しがつかない。さあ、今日はもうキュウリ売りは止めて、社殿に戻りなさい」
「でも、全部売らないとお仕置きが待ってますから」
「お仕置き?」
マグシ姫は髪に手をやり、
「言うことをきかないと『櫛をよこしなさい』とおっしゃって……あなたが作ってくださった愛の証の櫛を」
「なんてことだ!」
スサノオの眉間がしかめられた。
「ハリ采女さんには言わないでください! もっと沢山の仕事を命令されますから!」
人混みの中で、天燈鬼が耳をそばだてていた。
(ん? キュウリ売りは、マグシ姫さんが思いついたんじゃなかったっけ?)
第六章 不気味なうなり
祇󠄀園社の奥殿では、最近、夜になるとなんとも恐ろしい叫びだか唸り声だかが聞こえる。
最初は、ハリ采女が気づき、
「何の声なの? 不気味やわ」
隣で寝ている牛頭天王の背中を揺らした。
「ねえ、あんた、変な声が聞こえるんやけど」
いくら揺さぶっても、牛頭天王は大イビキをかいて起きない。
仕方なく布団を頭まで被って寝たが、声は明け方まで続いた。
次の夜も声は聞こえる。ハリ采女は、侍女ふたりに様子を見に行かせた。
侍女ふたりは息も絶え絶えになって帰ってきた。
「お方様! あの声は例の龍穴から聞こえてきます」
「何? 龍穴から……」
祇󠄀園社には七不思議と言われるナゾがあり、龍穴はそのひとつで、本殿の地下に入口があり、日本海や琵琶湖と繋がっていると言われている。
震え上がったハリ采女は、夜が明けるとさっそく、
「い……一刻も早く、マグシ姫に龍穴の偵察に行かせなさい!」
と言い出した。
侍女がマグシ姫の寝所に行き、それを伝えた。
「実は、わらわも夜毎のあの声は何だろうと思っていましたの」
スサノオの尊が起きあがり、
「どうするかね? 行けるかな?」
「はい、行ってみます」
マグシ姫は、神社の一角から湧く「ちから水」で身を浄めてから、正座して真っ赤な櫛をスサノオの尊に差し出した。
「君さま、髪を梳いていただけますか」
「分かった」
スサノオに長い黒髪を梳いてもらったマグシ姫は、
「ありがとうございます、君さまの作ってくださった櫛で梳いていただくと勇気が湧いてきます」
ひとりで奥殿の地下にある龍穴へ入っていった。
スサノオの尊が帰ったと聞いたうりずんが、再び祇󠄀園の社を訪れたのは、ちょうどその日だった。
うりずんはかしこまって、スサノオの尊の前に正座すると、スサノオの方が先に頭を下げた。
「先日は妻がお世話になったとか。礼を申す」
「いえ、当然のことをしたまでです。それより、マグシ姫さまは龍穴に入って行かれたとか」
「ハリ采女さまが、龍穴から妙な声が聞こえるとおっしゃってな」
「あの……まさか、また無理なことを?」
うりずんはマグシ姫が、ハリ采女にまた苛められていないか、気が気でなかった。しかし、夫のスサノオの尊は落ち着きはらっている。
「スサノオの尊どの……ご心配なさらないのですか」
「いや、別に。マグシは逞しいおなごゆえ」
尊は余裕の笑みを浮かべている。
どこまで深いか、何が棲んでいるか判らない龍穴に、あんな少女同然の妻をやらせて、平然としているスサノオの心中が計り知れない。
第七章 スサノオの告白
スサノオはゆっくり話しはじめた。
「マグシ姫は8人姉妹の末っ娘でな、上の娘から毎年ひとりずつ、ヤマタノオロチに食べられて、遂に自分の番になった」
「有名なお話、存じ上げております」
うりずんは言った。
「まあ、最後まで聞いてくれ。父のアシナヅチ、母のテナヅチがなすすべもなく泣いているところへ、高天原から追放されたヤンチャの私が通りかかったのだよ」
「はあ」
「マグシ姫は、7人の姉たちを食べてしまったヤマタノオロチを憎んでいた。自分は食べられてなるものかと、毎年細かく観察し研究を重ねていた。オロチ8つの頭のうち、どの頭がまだ姉妹を食べていないか綿密に思い出し、判別を付けた。8つの頭を区別できるほどよく見て記憶していたのだ」
「へぇ~」
「私が『ヤマタノオロチ退治する』と承知したが、姫は、オロチを待って正座するから、髪を整える櫛がほしいとせがんだ」
「櫛を……」
「私はマグシの願い通り、手作りして鳳凰の血を吸ったことのある真っ赤な櫛を与えた」
「……」
「いよいよヤマタノオロチがやってくる日、マグシ姫は美しい衣に髪を結い上げ、オロチが来るのをカンペキな正座をして待った」
素晴らしい正座ができる人間が、より美味で食べたいとオロチたちはウワサしていたのを、姫は聞いていたのだ。
「姫には、まだ一度も姉妹を食べたことのないオロチが虫歯に苦しんでいることは分かっていた。以前の記憶から、口を開けた時の歯の状態まで分かっていた」
うりずんは感心して聞くばかりだ。
「パクリと口の中に入れられるや、姫は櫛の歯で虫歯をツンツン突いた。ヤマタノオロチは痛みに苦しんで転げ回り、姫をペッと吐き出した」
「!」
「しばらくして、姫はケロリとした顔をして、オロチの口から剣を持って出てきた。スサノオの尊と両親が見ている前で剣をしっかり持ち、『姉さまたちの仇~~!』と、剣をオロチの首に定めて振り下ろそうとしたが―――、他のオロチの頭たちが泣いて懇願した」
うりずんがツバをごくんと飲みこんだ。
「【俺たちの末ッ子を助けてやってくれ〜〜!】と、泣いているではないか」
「……」
「マグシ姫はオロチを許し、二度と人を襲わないこと、人里に出てこないことを約束させた」
「ほう〜〜〜!」
「世間には、スサノオがヤマタノオロチを倒したことにしてほしいと頼んだ。両親は安心し、私がマグシ姫を妻にと望み、喜んでくれた。これが『真実のヤマタノオロチ退治』なのだ」
スサノオの尊は照れ臭そうに話し終えると、頭をかいた。
「この話はもちろん他言無用に」
「は……ははっ……」
うりずんはかしこまり、スサノオは苦笑した。
「このように逞しい姫なら龍穴探検など朝飯前だろうが?」
「ご……ご無事のご帰還をお祈りします」
第八章 ふたり正座の稽古へ
スサノオの尊とうりずんが対面した部屋の廊下で、ハリ采女の侍女が一部始終を立ち聞きしていた。
侍女は飛んで帰り、震えてしどもどしながらハリ采女にすべてを告げた。
「なにっ、小娘のマグシがヤマタノオロチを退治しただと?」
「ひ……姫の持っている赤い櫛は、ヤマタノオロチの血を……血を吸ったとか……」
真っ青になった侍女は、冷や汗をかきながら訴えた。
「そ……そんな度胸を持っていたのか、あの小娘は……」
「ハリ采女さま、ご、ご注意なさいませ。マグシ姫はおぼこい(子どもっぽい)顔をして、とんでもない度胸の持ち主で陰謀家ですわ」
「う〜ん、かなりコキ使うたから報復されかねへんな……」
そこへ、障子の外から声がした。
「天燈鬼という邪鬼にございます」
「じゃ……邪鬼が何の用や?」
「うりずんさまの使いで参りました」
「うりずん?」
「南国の季節神さまです。マグシ姫さまに、正座の稽古をつけられるそうで、ハリ采女さまもいかがでしょうかと、伺いにまいりましたんですわ」
邪鬼のガラガラ声が言った。
「では、マグシは無事に龍穴から帰ったのだな」
「はい。夜中の声は、地下からの風の音だったと」
「なんや、風の音やったんか……」
ハリ采女も侍女たちもほっとしたようだ。
「ところで正座の稽古とな―――?」
「奈良時代に伝わった唐渡りの座り方ですわ」
「ああ、あの正座やったらまかしとき! 誰にも負けへん」
ハリ采女はドンと胸をたたいた。
(うりずんというのは、この前、マグシ姫を介抱して社殿に抱き上げて入った淡い髪の青年神だな?)
「うりずん様は、師匠直伝の正座の上位段におられますさかい、信頼できるお方です」
邪鬼が言い足した。
「マグシ姫はんは、正座がお苦手らしいのでお習いされることになりましたんや。ほいで、ハリ采女はんもご一緒にいかがどすやろ? ということで……」
「マグシが正座は苦手やて? では、一見して笑ってやろう」
ハリ采女の顔に余裕が浮かんだ。
第九章 龍穴へ
「ハリ采女はん、マグシです」
ハリ采女の部屋に迎えの声がした。侍女が障子を開けると、マグシ姫が立っていた。
「時刻です。お迎えにまいりました」
「ご苦労」
ハリ采女はいつもより念入りに化粧をして、飛び切り彩(あや)な衣を纏って待っていた。
「今日はまた一段と艷やかですね」
ハリ采女は、思わずハッとした。
(小娘、こんなに堂々としていたか?)
胸に赤い櫛を抱きしめ、見かえす瞳は燃えている。
「では、参りましょう」
ハリ采女は姫の後を歩きはじめた。社殿の縁の下へ向かう。
「マグシ姫。正座の稽古はどこで行なわれるのや」
「ついておいでください」
姫は背を縮めて縁の下へ入り、灯りひとつを持ってどんどん歩いていく。
ハリ采女は歩みを止めた。
「いったいどこで稽古を……」
「心配ございませんよ。うりずんさんがお待ちです」
「そ……そうかえ?」
入口に入ろうとした時、冷たい風が激しく顔面に吹きつけた。
「きゃあっ」
思わずハリ采女は叫んだ。
「大丈夫ですか、もうすぐお稽古場です」
辺り一面は濡れた岩盤が広がってぬるぬるしている。
「ここは鍾乳洞です。足元にお気をつけて」
行く手にひと部屋だけの小さな家が建っている。
「こちらが稽古場です」
縁側に出てきたのは、うりずんだ。
「おお、ご苦労さまです、おふたりとも。お待ちしておりました」
「龍穴の中に家屋があったとは……」
「ハリ采女さま、さあ、お上がりください」
ふたりは部屋へ上がり、采女はすまして上座に座った。その所作を見たうりずんが、
「さすがに牛頭天王の奥方。素晴らしい所作で、座られたお姿も正座の鑑ですね」
「さようか」
天燈鬼がお茶を持ってきた。うりずんの耳元で、
「褒めすぎと違いまっか。廊下の歩き方が乱暴ですし、座った姿も肩がいかつい……それに、いつもケバい厚化粧やし、つけまつげは重そうやし、着物の趣味はド派手やし、よく人様の悪口言うてはるし、自慢話は多いし、大声やし、人使いは荒いし、牛頭天王はんの悪口までしゃべり放題で……」
うりずんは黙って天燈鬼の頭を捕まえて、人差し指を唇の前に立てた。
「とりあえず正座のお稽古をいたしましょう。お立ちください」
うりずんは、一通り説明しながら正座してみせた。
「背筋を真っ直ぐに、胸をはって視線は前を見て――床に膝を付き、衣に手を添えながらお尻の下に敷き――かかとの上に座ります。両手は膝の上に」
ハリ采女とマグシ姫は、それぞれ静かに正座した。
「しばらく静かに瞑想しましょう」
うりずんも半眼になった。
第十章 朱い櫛
鍾乳洞を通る風の音がビョウビョウと続いている。采女の髪は龍穴に入る時の風に乱れたままだ。
マグシ姫が真っ赤な櫛を出した。
「采女さま、おぐし(髪)を直して差し上げましょう」
櫛を見た、ハリ采女の顔が恐怖に引き攣った。
「お、おやめ! その櫛をふところにお仕舞い!」
「でも、おぐしが乱れて……」
「よいというたら、よいのや!」
ハリ采女は急に取り乱して廊下へ出ていき、地面に降り、裸足で歩いていく。マグシ姫が追いかける。
「お願いや、その赤い櫛を遠ざけて!」
「――采女さまの本性は、やはり、あの時のオロチなんですね」
「な、何を言う」
「もう一度、傷つけるつもりはありまへん」
マグシ姫は鍾乳洞の地面に正座した。
「教えていただきたいことがあるのです。私たち姉妹のことを本当に狙っていたのは誰か?」
「な、何のことや」
「あなた方ヤマタノオロチを脅していたのは誰なのか? おのれの身代わりに、オロチの天敵に私たち姉妹を差し出したのでしょう」
「お前、どうしてそのことを!」
「森の生き物に詳しい、うりずんさんが教えてくれたのです」
「あの青年神が……」
「本当のことをおっしゃれば、ヤマタノオロチへの怨みも少しは晴れます。どうか言うてください! 私たち姉妹に目をつけたのは誰なのか」
マグシ姫は額を地面につけた。
「き……聞いてどうする? 報復するのか?」
「いいえ、そんなつもりはありません……ただ、姉さんたちのお墓に手を合わせてほしいだけです」
マグシ姫のつぶらな瞳から涙が落ちた。
―――ハリ采女はうなだれた。
「お前たち一家に目をつけたのは、大伏翼(オオコウモリ)の大将や。譲らなければ、わらわたちの血を吸うと牙をむき出して脅された……」
「伏翼がヘビを?」
「普通の伏翼は襲わぬが、大伏翼の大将はわらわたちの天敵なんや。……許しておくれ、わらわたちが襲われないために仕方なく、お前の一家の存在を教えたのや」
ハリ采女は「ワッ」と泣きだした。
「わらわたちはヤマタノオロチと大伏翼の争いに巻きこまれたのですね……」
マグシは赤い櫛をふところに仕舞った。
「祇󠄀園の社に戻りましょう、ハリ采女さま。正座のおかげで胸を開いて話すことができました」
第十一章 慰霊の旅へ
マグシ姫とハリ采女は旅支度をした。
マグシの家の墓参りに出雲の国への旅立ちだ。ハリ采女も、マグシの両親と姉妹たちの鎮魂のためと自分の兄弟――オロチたちのために、出雲の地へ墓参りに同行したいと言い出した。
「仲よく旅ができまっか?」
天燈鬼が心配そうに言う。
「大丈夫です。お互い正座したおかげでモヤモヤが消えましたから」
マグシ姫は答えた。
「それに、まだまだ暑いから、旅の共にキュウリをかじりながら行くことにしました」
「牛頭天王が、祇園社の『ちから水』を、旅の道筋の川に送ってやるとのことで」
ハリ采女がキュウリの束をいっぱい背負っている荷物を見せた。
「そら、何よりごちそうですな」
「天燈鬼、あんたもいいかげんに天橋立に帰らんといかんのやないの?」
「そうですのや、マグシ姫はん。おいらも都を去りますわ。ありがとうございました」
牛頭天王とスサノオの尊が妻ふたりを見送る。
うりずんが明るい顔で、
「私が旅の間、着かず離れずおふたりを見守りますから、ご安心を!」
(ふわふわと美しい男が妻に手を出さないか、いちばん心配なんだが……)
牛頭天王とスサノオは同じ心境だった。