[128]第6話 お忘(ぼう)さん


発行日:2008/08/31
タイトル:第6話 お忘(ぼう)さん
シリーズ名:やさしい正座入門学
シリーズ番号:6

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
販売価格:100円

著者:そうな
イラスト:あんやす

販売サイト
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本文

 本格的な夏がやってきた。アブラゼミが大合唱を始め、「今年も変わらず、暑い夏がやってきたよ」と、教えてくれる。それはまるで、彼らが運んできたかのように・・・・・・。

 さて、8月といえば、お盆の季節でもある。《お盆》・・・・・・私は、幼い頃に何度も墓参りに行ったにもかかわらず、「《オボン》ってなんだ?」と、耳にする度に思っていた。だから、お盆で帰省する時も、「なんで《オボン》だと帰るんだろう?」などと思っていた。多分、食器などを運ぶお盆だとでも思っていたのだろう。(※お盆については諸説あるが、語源的には、あながち間違いでもないようだ)

 そうそう、ここに面白い話がある。私の父から聞いた話だ。10年ほど前、祖母の初盆をお寺で行ったときの事である。
 その日は、夏の中でも一際暑く、セミの鳴き声も耳に入らなかったほどであった。方々から親戚がワラワラと集まり、挨拶を交わし、寺に入る。お坊さんがシナシナと入って来て、読経を始めた。みんな座布団に正座をして、かしこまって待機している。勿論、クーラーなどは無い。
 目を閉じて、静寂をまとう。焼香の香りの漂う中で、読経と虫の声だけが奏でるひとときは、夏を五感で堪能できる時間でもあった。どこか懐かしいような匂いと、ゆったり流れる時間は、そんな夏ならではのものである。
 だが、そう思っていられるのも、余裕がある時だけである。知っている人ぞ知っている。正座の陰に、ドラマありである。それを語るにおいて、まずお坊さんについて語っておこうと思う。
 私は、お坊さんについてこう聞いたことがある。
お坊さんが木魚を叩いているのは、眠気覚ましの意味もある。
お坊さんが半腰をあげて経文を取り替えたり、リンを鳴らしたりするのは、脚の神経に体重の負担がかかるのを抑え、痺れなくするためでもある。
また、読経の終わり頃に、何度か床にひれ伏さんばかりのお辞儀をするが、参列者によると、足を浮かせているんじゃないか、という話である。
 なるほど。確かに、そうしていれば痺れる事も眠くなることも、殆ど無いかもしれない。いつか、お寺に行って実際にインタビューしてみたいものである。脚のシビれを軽減しているだろう、まさにその時を狙って!(※迷惑行為は慎みましょう)
 そんなワケで、催事を取り仕切る立場の人、お坊さんたちの正座の状況は、このような感じだろうと推測する。そして肝心なのは、実際にその場で正座をしている人たちであろう。大概のお坊さんは、
「どうぞ、姿勢を楽にしてください」
と、言ってくれる。昨年の祖父の初盆を取り仕切ってくれたお坊さんも、同じくそう言ってくれた。そう。これは良い方、これで世界は丸く収まる。
 しかし、ほんの単純な言葉だが、それが無かったらどうだろう。いや、実際にその言葉を言われなかった時があったのだ。それが、10年前の祖母の法事の時であった。《お坊さんが何も言わない》……その、忘れてしまったという何気ない出来事が、《我慢大会のゴング》を鳴らす。
 いつも私が法要等を行う場所は、田舎の山に囲まれた昔からある小さなお寺である。田舎なので緑が濃く綺麗な場所が沢山あるが、反面ではしきたりもまた濃い気がする。
 そんな場所で正座をしたまま、「楽にしてください」の一言が無ければ、みんなは律儀に正座を守る。シビれてきても、ただひたすらに耐えるのだ。なぜ、こんなにもけなげなのか。悪態を吐くワケでもなく、文句を言うワケでもなく、ただひたすらに並列に、その正座という行為を守る。いや、その場の空気を守っているのだろうか。もしかしたら、仏様やご先祖様に敬意を払っているのだろうか……そうだとしたら、なんと素晴らしい人間性だろう。
 色々あるが、何にせよ彼らは、ただひたすらに正座の姿勢を守る。……そして、次の一言で事態は一変する。
「では、ご焼香をお願いします」
喪主が立つ。焼香をする。その妻が立ち、親戚も次々と立っていく……はずが……。
《人がぐにゃりぐにゃりと崩れていく》
 痺れを切らすとは、この事だろうか。焼香をしようと座布団から立ち上がろうとした人が、次々と崩れていくではないか。その光景は異様だったに違いない。一人、また一人、いい年をした大人が「ぅわぁ」「ぅあぁ」と、滑稽な声と共に崩れていくのだ。
 真剣に考えると、これは神経や血流を無理に圧迫して起こった事態なので、決して笑い事では無いのだが……何かこの正座からのシビれという場面は、《悲劇は喜劇》だと感じさせてしまうものがあるような気がする。
 想像してみてほしい。今まさに、おごそかに焼香をしようと立ち上がろうとした人が、照れ隠しともいえるヘラヘラとした顔をして、次々に普段見たことのないような姿勢でくだけていくのだ。酒飲みのおじさんも、普段は口を真一文字に閉じたようなおじさんもそうだ。それは、四つんばいだったり、全く違う方向に「おっとととと」と慌ただしい動きで走り出してしまったりと、様々だ。普段の自分の足の感覚ではないからだろう。「一体どこに行こうというのかね」と、笑い出したい気もするが、そこは初盆、笑いたくても笑えないという、真の我慢どころがある。
 さらに、上げる声も悲鳴ではない。うめき声というより、「あ~ちちちちっ」のような意味不明なものだ。中には、自分の番が迫ってもシビれがひかず、「……お先にどうぞ」などと、痛々しい笑顔を作って譲る者もいる。断っておくが、どれも本人はいたって真剣である。はてさて、どうしたものでしょう。
 この祖母の初盆には、勿論私も参列していた。しかし、幼かったこともあり、周りの状況までそんなに目をやらなかったらしい。だから、その場の雰囲気や外の景色など漠然としか覚えていなかった。多分、今は周りを笑っている私だが、きっと当初はシビれと戦っていたに違いない。

 そんなこんなで、今年のお盆の集まりでは、お坊さんに着目していた。お坊さんだって人間だ。少々腰を浮かすくらいでは、シビれなくすることなどできないはず……。そう思ってみると、お坊さんは見るからにダブダブの足袋に、足を動かしても分からないような裾の豊かな袈裟をまとっている。参列者からは、どのような足の動きをしているのかが全く見えない。そして、お坊さんが痺れて崩れたところは、参列者としては見たことが無い。これはもう、この服装に秘策があるに違いない。そう思って、今年は、服装や仕草に注目していた……が、結局のところは分からずじまいであった。やはり、外から見ていても分わからないのだ。ということは、そこがミソなのだろうか?だって、袈裟の中でどんな足の組み方をしていたとしても、座高さえあまり変わらなければ分からないということだと思うからだ。思い切って聞いてみればよかったのだろうか……教えてくれたかしら?沽券に係わるかな……?気になるので、この件はいつか調べてみたいと思う。

 「正座をすると、我慢強くなれる」そういう言葉を聞いたことがある。上記のことを考えると、確かにそれも一理あるかもしれない。特に最近は、我慢できる時間や程度が短くなった人が増えている、と頻繁に耳にする。それについては、毎日のように報道される事件が、物語っているんじゃないかと思う。(※毎日の報道については、メディアの発達の面もあるとは思うが)
 そうだ、正座をしよう。させられる正座、痛い正座なんかとは違った、自主的な正座を。まっすぐな姿勢と静かな時間を継続的に手に入れるだけで、我慢などの精神面は鍛えられるはずだ。それに、我慢にも限度がある。特に身体的なものはそうだ。脚がシビれても我慢を続けるのは健康に良くないが、正座が必要になる場面は、日本人において多々存在する。そんなときは、お坊さんの袈裟の中にあるだろうテクニックが、必要……になってくるのかもしれない。

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