[357]お江戸正座26
タイトル:お江戸正座26
シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:26
掲載日:2025/05/19
著者:虹海 美野
あらすじ:
おつぎは茶葉を扱う諏訪理田屋から暖簾分けをした次男、文二郎と見合いし、今は茶器を中心に扱う陶器店のおかみさんだ。
子は手習いに通う年だが、子を授かった際に文二郎の兄弟やそのご新造さんから祝いの品をいただいた。
少し前に文二郎の末の弟が子を授かり、その祝いの品を選びに行こうと思い立つが、何を贈ったらよいか迷う。
おつぎはずっと、夫の兄弟のご新造さんがそうそうたる顔ぶれであることが気にかかっていたのだ……。
本文
当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。
1
おつぎは、めし屋の次女であった。店は両親が切り盛りしており、商売が軌道に乗ると、板前を一人雇った。その板前と姉が一緒になり、すぐに子にも恵まれた。実家のめし屋の代替わりの見通しも立ち、さて、おつぎの嫁ぎ先をどうしようということになった。
家はめし屋だから、働き盛りの独り身の客が多く来る。
相手がいいと言えば、その中からでも、ということになるのだろうか、とおつぎは思っていた。
だが、両親が二人、話し込んでいるのを偶然襖越しに聞いた折、おつぎをしっかりしたお店の人の元へ嫁がせたい、というのを聞いた。めし屋の娘で、しっかりしたお店、いわゆるそこそこに大きく、信用のあるお店に嫁入りできるものなのか……。まあ、無理であろうな、と思った。いずれ姉たちの子が大きくなり、家が手狭になったら、どこかの料理屋にでも勤めて、長屋住まいをしようとおつぎは思った。
通わせてもらった手習いでは、算術も書もよくできた。
ほかの女の子のように、にこにことしたかわいらしさがないから、特別贔屓にされたことがないが、それを差し引いても、おつぎはお商売に必要な算盤や書、それに家の手伝いをしてきたから、辛抱強さも、疲れていても頑張ることも身についていた。おそらく、一人でもやっていけるだろう、そう、考えていた。
ところが、ある日、母が、姉が昔着た振袖を出している。
染め直して姉のために仕立てるのかと思ったが、それはおつぎのために出したものだった。
お父ちゃんにお店を閉めた後で話がある、と呼ばれた。
一日の仕事が終わり、疲れているはずのお父ちゃんだが、どこか嬉しそうな面持ちである。
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物を尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座している。
もちろん、おつぎも同じように正座する。
父の話は次のようなものであった。
父の兄が、父の郷である窯元から、江戸へ定期的に陶器を売りに来ている。そのたびにこの家に泊まるので、そこは承知している。
重要なのは、その続きであった。
諏訪理田屋という、大きな茶葉を扱う店で、今度次男が暖簾分けをするそうだ。
そうして、その次男は茶葉を扱う店の者として、茶器などを中心にした陶器店を商いたいと言う。諏訪理田屋の旦那は、そこで茶葉を扱うのと同じ地の窯元の伝手を当たってみることになった。そうして、そこで伯父を通し、窯元の紹介と、おつぎの話に至った。
つまりは、その諏訪理田屋のぼんぼんである次男が、陶器店を親に出してもらう、その商品の買い付け先のひとつと、ついでに嫁の候補もご所望で、伯父とおつぎに白羽の矢が立った、というわけである。
いずれ家を出て、長屋で一人暮らしを、と考えていたおつぎにとっては、まさに寝耳に水であった。
2
さて、見合いの日、諏訪理田屋の旦那にお内儀さま、そうして次男が来ることになった。姉一家は思いがけぬ休みに大喜びで出かけていった。その姉一家とは反対に、おつぎは大層暗澹(あんたん)たる思いであった。
まず、おつぎは姉や母に比べ、眉や鼻筋がしっかりとしており、用意された淡い色味の振袖は明らかに似合わなかった。
それに家をきれいに清めたところで、小さなめし屋であることに変わりない。
畳を精魂込めて清めたとて、それで広くなるわけでもない。
見合いの話の後、諏訪理田屋の前をそっと通ったが、大きなお店で、人も雇っているようである。店に来る客も、何やらこじゃれた装いの翁や、振袖を普段から着ているふうのお嬢さんで、近づきがたさを感じた。
うちまで来て、やはりこのお話は、と言うかも知れぬ。
それならそれでこちらで願い下げである。
そういう思いでいた。
だが、やって来た旦那もお内儀さまも、次男も、品よく、とにかく感じがよい。着物も上質なものであるのは装いに疎いおつぎにもわかる。一方のおつぎの家は、よそ行きにと大事に箪笥に仕舞っていた着物だから、全く当人に馴染まぬ。一番馴染まぬのは、似合わぬ振袖姿の自分であろう……。
しかし、前に座しているお三方、大きなお店の一家とうのは、どこかつんけんしていると思っていたが、親子共に、どこかそわそわと、それでいて嬉しそうな、なんとも微笑ましい雰囲気である。
そうして、全く考えにも含めなかったが、見合い相手の次男は、背丈もある、りりしいお方であった。
うちの店云々の前に、自分のことで断られる、とふいにおつぎは思った。
もうこのまま、場を辞したい思いがあったが、せっかくお母ちゃんが出してくれた振袖に、隅々まで清めた店内、そうして、この場を設けてくれたお父ちゃん……。それを考えると、ここで逃げ出すわけにはいかぬ。
断られるのを承知で、胸を張ろう。
そうして、両家向かい合って正座をした。
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物を尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにする。
矢張り、父は緊張していたのだろう。
おつぎ同様、この見合い、先方に断られる、と思ったのかも知れぬ。
おつぎについて、算術や書ができること、そうして我慢強い娘であると伝えた。大きなお店の次男で、暖簾分けをしてもらうお人である。お商売に厳しく、しっかりとした考えをお持ちだろうから、それについて行ける、役に立つ、そうして耐えられる娘であると父なりに考えたのだろう。
だが、そこで思わぬことが起こった。
目の前にいる、りりしいこの大きなお店の息子は、おつぎの父に、おつぎを大切に思っているのでしょう、と察した後に、もし自分と一緒になるのなら、辛抱しなくていい、くじけていい、と言った。この先添う人、一人を思うように暮らせないような生活をするつもりはございません、と言い切った。
あの時だったと思う。
この方と一緒になりたい、と心から願った。
初対面のおつぎに、文二郎はそれなりにこれまでの生き方を察し、そうして認めた上で、気を張らない妻でいてよい、と言ってくれた。
これまでに、こんなふうに誰かに言われたことがなかった。
裕福な家の息子というのが、皆が皆、こうした考えなのか、それはわからぬ。
だが、目の前にいる、見合い相手はそう言ってくれた。
目が潤んだ。
そう言ってくれたこのお方を見たいと思い、顔を上げ、目が合った。
先ほど対面してからそう時間は経ってはいなかったが、何か特別なものをおつぎは感じた。
3
文二郎とはその後、夫婦になり、子にも恵まれた。子を授かった時、文二郎の母もずいぶんと良くしてくれた。
今ではその子どもである瀬太郎とおとせとも手習いに行く年になり、おとせはお琴とお裁縫のお教室にも通っている。おつぎ自身は手習いの後、店の仕事を手伝うきりで、お稽古事には通わせてもらえなかった。小さなめし屋だから、手習いに娘二人通わせてくれただけで、十分だった。お裁縫は見様見真似で、お母ちゃんについて覚えた。おつぎは自分の子もそのつもりであったが、文二郎はごくごく当然といった様子で、おとせにお稽古事に行くように言ったし、瀬太郎は茶や香の席に連れ出し、芸事にも触れさせている。
子は言うまでもなく文二郎とおつぎ二人の子だから、父である文二郎が子にいろいろなことを身に着けさせるのもまた然り。それでもおつぎは、どこかそわそわとした心持になる。自身が文二郎に何か特別なことをしてもらっている気がする。
毎日のやりくりは当然あるのだが、文二郎の営む陶器店、諏訪理田屋は、もともとの文二郎の顔馴染に加え、初めて訪れたお客もその後、二度、三度とやって来て、常連になっていく。諏訪理田屋が茶葉を扱う店だからと、茶器を多く取り揃えているが、文二郎はそれにかわいらしい子ども用の湯呑や、祝い用、掘り出し物と言われるものまでを店に置いた。そういうやり方が功を奏したのもあるのだろうか、とにかく、文二郎は商いの才があり、店は順調である。そうして、その文二郎の元、おつぎは安心して瀬太郎とおとせを育ててきた。
本当に何から何まであなたのおかげです、とおつぎが事あるごとに言うたびに、文二郎は不思議そうに、それはおつぎがいるからだ、と答える。
もう、子二人も大きくなっているというのに、おつぎは未だに、なぜ、この人は自分と一緒になったのだろう、と思えてならぬ。
あの見合いの日、文二郎はもともと、相手が誰であっても、辛抱しなくていい、などと言う心づもりであったのか……。
それをおつぎは、未だに訊けぬままである。
4
そうして少し前に、文二郎の末の弟、文左衛門が子を授かった。
おつぎは、どうしたものか、と悩んだ。
子が生まれたことはめでたい。
おつぎとて、嬉しい。
だが、諏訪理田屋の兄弟のご新造さんは、そうそうたる面々である。
長男の文太さんのご新造さんはいいところのお嬢さんで、本家に嫁ぎ、お義父さん、お義母さんの覚えめでたく、嫁いで来た時には六人の弟がいたわけだが、その弟にも慕われていたようすである。おまけに美しく、お裁縫も得意で、おつぎが子を授かった折には、お義母さんが選んだ反物を文太さんのご新造さんが大層きれいに仕立ててくださった。子が生まれた時だからこそ、ご自身のお着物もあるといいものですよ、とお上品に微笑んだ。おつぎは根性があり、肚は据わっている方だと自覚していたが、この美しいご新造さんを前にしどろもどろになり、それを文二郎に見られているのもなんだかいたたまれなかった。
おとせが生まれた時にも、ご新造さんは同じように着物を仕立てて持って来てくださった。
ほかの兄弟からも祝いの品をいただき、こんなにたくさんの人に祝ってもらえるとはなんとありがたいのだろう、と涙が出た。
ただ、ふと我に返れば、子を産んで身なりも整えられぬところへ、きれいなご新造さんがやって来るとあって、何やら身につまされる思いがしてくるのである。
おまけに、その後文三さんが茶葉を扱う諏訪理田屋のいわば二号店を持つことになり、一緒になったのは、戯作者の娘さんであった。文化人が父であるというお人というのは、何やらやはり知的さがにじみ出ている気がする。それに茶の味覚に関しても、諏訪理田屋の兄弟、お得意さんからは太鼓判を押されているというではないか。
四男の文史郎さんは米屋に婿入りしたのだが、この米屋のお嬢さんがまた、美しかった。ほっそりとした、華奢な体型に、整った容貌で、お人形さんのようであった。見合いで一緒になったらしいのだが、このくらいの容貌であれば、向かい合った直後に一緒になろうと思うだろう。実家はそれほど大きな米屋ではないが、高級料亭にも米を卸しているそうで、確かなお商売をし、今はそれを文史郎さんが引き継いでいると聞いている。
五男の文五郎さんは、遠縁の、先々代の頃に暖簾分けし、少し離れた場所で茶葉を扱うお店のお嬢さんと一緒になった。いいところのお嬢さんだそうで、娘時代にはお稽古三昧に美しい振袖姿で、ご新造さんになった後も裕福な実家で暮らしており、身なり整え、物言いがはっきりして利発な様子で、文五郎さんは、もうぞっこんといった様子である。
六男の文六さんが婿養子に入ったのは、薬屋であった。なんでも、手習いの頃からの顔見知りらしいのだが、このご新造さんがまた、女のおつぎから見ても、「まあ」と感嘆の声を漏らしてしまうほどに可愛らしい。やはり近所では可愛らしい娘さんで有名だったようで、婿に入りたい、という人も少なからずいたそうだ。薬屋の娘ではあるが、どこか浮世離れしたのんびり、おっとりした性格で、まるでお姫様のようである。
そうして、七男の文左衛門さんが一緒になったのが、はたまたお嬢さんで、お武家様に行儀見習いのご奉公に出たことのある、大層中身も外見も優れたお人で、ほかの兄弟のように商いをするのとは違い、諏訪理田という名で戯作者をしている文左衛門さんと生活するため、行儀見習いのお教室を開き、また、文左衛門さんが出かける際などの細かな支度も面倒を見ていると言う。とにかく、よくできたお人だと、皆が口を揃えて言う。
その文左衛門さんのもとに、子が生まれた。
さあ、何を贈るべきか……。
諏訪理田屋の一族は、それぞれにお商売をしたりしているし、婿養子に入った息子もいるから、たまに用があれば寄ったりはするが、一堂に会するというのがない。
だから、兄弟の誰かが子を授かったとなれば、それぞれに必要だと思うものだとか、ご新造さんの身体によい茶や薬、生活に欠かせぬ米、それにお菜を詰めたものなんかを差し入れたりしているわけである。おつぎが、この諏訪理田屋兄弟のご新造さんにゆっくりと会ったのは、いずれも子を授かり、祝いにと駆け付けてくれた折であった。
逆に文二郎とおつぎが祝いに行く時には、これまで実家に頼み、かつお節や昆布なんかを包んで持って行っていた。これはこれで喜ばれたし、それなりによいものである。
お祝いに行く際は、おつぎは身なり整え、文二郎の隣に正座し、幸せそうな義理の兄弟夫婦と対面したが、まだ床にいる状態のご新造さんも床上げしたご新造さんも、大層きれいであった。まぶしい、とすら感じた。
さて、祝いの品だが、いつまでも実家頼りでよいものか。
ほかのご新造さんがご実家の商いに関するものを祝いに持って行くのは、家業を継いでいるからだ。
だが、おつぎは違う。
もう、姉夫婦に代替わりをしたが、お父ちゃんもお母ちゃんもおつぎが一緒になった文二郎に大層感謝していて、未だに分不相応な結婚だったと考えているようで、ずいぶんと気を揉んでいるようである。
文二郎はそうしておつぎが実家からもらった祝いの品を見るにつけ、恐縮し、実家の茶葉をおつぎの実家に持って行き、丁寧に礼を述べるのだ。
どうしたものか、と思ったが、ここでただ文二郎に丸投げしては、妻としての務めを果たしていない、と考えた。
そこで、明日は文二郎が買い付けに出かけぬから、子どもらが手習いに出かけ、店を開けたら、半刻(一時間)ほど、出かけてもよいかと訊いた。
「構わないがどうした?」
おっとりした様子の文二郎を前に、しばし迷ったが、財布事情もあるし、正直に文左衛門さんのご新造さんのおようさんが子を授かった祝いに、何か見繕って来たいと話した。
文二郎は、「ああ」と頷き、「ありがとう」と言った。
こういう時、文二郎はお商売の時間に、とか、余分な出費は控えろ、とか、そういうことを言わぬ。
その様子に、おつぎは是が非でも、何かうんとおようたちに喜んでもらえる、そうして文二郎が納得する品を選ぼうと決意した。
5
「何かお探しですか」と尋ねられたのは、化粧品店であった。
上物のおしろいでも、と思ったが、おつぎ自身が使わぬもの。
値が張っているから、果たして良いものなのか……。
紅も然り、である。
きれいな色だと思うが、そうすると、どれもきれいである。
どれをおようは喜ぶだろうか、と考えるが、お武家様にご奉公されたほどのお人。きっと、こうしたものを見る目も肥えておいでだろう。ここで何を買ったとて、喜んでくれるだろうが、内心はどうかわからぬ。
それに、美しい町娘ばかりの店で、おつぎはすっかり及び腰であった。
もともと、こうした高価な化粧品をおつぎは娘時代に買ったこともないし、使ったこともなかった。
更に今では子二人を育て、お商売をしており、着飾ることから遠のいている。
おつぎはすっかり気後れし、声をかけてくれた手代に礼を伝えると、早々に、化粧品店を後にした。
そうして、菓子店を訪れた。
大店なんかの御用達で有名な店である。
覚悟はしていたが、驚くほどに値の張る菓子ばかりである。
どれも小さく、上品で、飾り物のように美しく細かな作りである。
これなら喜んでもらえそうだ、というより、これならお眼鏡に適いそうだ、というのが正直なところであった。だが、大枚はたいて、この菓子……。祝い用の銭と、生活のための銭が違うのはわかっている。江戸っ子が、こういうところで二の足を踏むのはみっともない。……だが、この菓子ひと箱を買うのなら、もっとほかのものが買えると思う。
足元を見れば、すっかり色あせた鼻緒の下駄。
溜息をつき、この店も後にした。
その後も呉服店やら人形店やらを覗いては、出て来るを繰り返した。
玩具店にも入ったが、どういうものがよいのか、親によって違うだろうという気がしてきた。文左衛門さんは戯作者だし、妻のおようさんは行儀見習いの教室を開いている方……。そんな方たちなら、子に与えるものもこだわりがあるかも知れぬ……。
もう、どうしたものか、自分でもさっぱりわからぬ。
矢張り、分不相応な人と一緒になってしまったのがよくなかったか……。
もうとうに約束の半刻は過ぎてしまっている。
子どもたちは弁当を持って手習いに行っているから、まだ帰って来ないし、昼餉の心配はない。
だが、焦りがどんどんと積っていく。
これが、ほかのご新造さんならば、夫に何もいわず、さっと手配して、お祝いに行く折に伝えるくらいなのであろう。そうして、夫の方も妻を信頼しきっているから、何を贈るのか、さほど確かめもしないのであろう。
懐に入っている財布には、今日祝いの品を買うための銭が入っている。
それなのに、どうして、自分は祝い品のひとつも買えぬのか。
はあ、とため息をつくと、ぱらぱらっと雨が降ってきた。
まだまだ夏の盛りだと思っていたが、もう秋が近づいている。
どことなく、風も冷たい。
もう、次に入った店で何かを買って帰ろう、と駆け出すと、運悪く、下駄の鼻緒が切れた。
転ぶ、と思ったところで、「おつぎ!」と支えられた。
気づけばおつぎは文二郎の胸元に額から突っ込んでいた。
「ああ、鼻緒が切れたか」と、文二郎がおつぎの足元を見て言った。
「なかなか帰って来ないから、心配になって見に来たが、そうしてよかった」
そう言うと、文二郎は「ほら」とおつぎの前にかがむ。
「歩けますよ」とおつぎが小さく首を横に振った。
娘時代にかわいらしければ、こういう時、夫に甘えるのもできたかも知れぬが、おつぎは、人に甘えず、黙って耐えるのが常であった。
ましてや、今は若くもない。
「下駄屋に行くまでだ。濡れるから、早くしろ」と文二郎は言う。
渋々、おつぎはその背に乗った。
「今度は気づけてよかった」と文二郎が言った。
「何がです?」
「昔、見合いの後、品を卸してもらうのをお願いする時、おつぎは下駄の鼻緒を切らせて足を怪我していたのに、急いで支度して、一緒に来てくれた。あの時、おつぎに我慢させ、すぐに気づけなかったことを悔いていた。もし、次にそんなことがあったら、必ず気づけるようにせねば、と思っていた」
あ、とおつぎは昔のことを思い出した。
文二郎が店を出すのに、窯元の一人に品を卸してくださるようお願いする、大切な日だった。慌てたおつぎは鼻緒を切らし、怪我をしたのだった。
窯元との間を取り持ってくれた店主のおかげで、無事に品を卸してもらえるようになり、ほっとした後、文二郎はおつぎの足の怪我に気づかなかったことを詫びたのだ。
おつぎは、大事な席で、足袋に血がにじんでいたことに気づき、詫びたが、文二郎はおつぎの心配をしてくれた。
あの時、間を取り持ってくれた店主は、茶の席を設けてくれた。
背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向き合うように揃え、正座する。
茶の席に呼ばれることのないおつぎは緊張したが、隣に文二郎がいると、安心した。じんじんと、痛んだ足もそれほど気にならなかった……。
文二郎は「この店に入ろう」と、下駄屋に入った。
そうして上がり框におつぎを座らせてくれるように頼み、すぐに新しい下駄と、赤と茶の交じった色の鼻緒を選んだ。
おつぎが見合いの時に着た振袖は、母と姉の着たもので、ものはよかったが、淡い色合いが、おつぎには似合わなかった。それをおつぎが文二郎に伝えた時に、文二郎はそれもよいが、新しく買うものは、ではおつぎに合ったものにしたらいい、と言ってくれた。そんな贅沢な……、と思ったが、文二郎はおつぎのために、紺や朱色の入った、おつぎのしっかりとした顔立ちに合ったものを折りを見て買ってくれた。そうして今回も、おつぎに合うものを、慣れた様子で、そうして躊躇わずに買ってくれる。
こんなにいい人が夫であるのに、その弟が子を授かった祝いの品一つ、選べなかった。
情けなさと不甲斐なさで、泣きたくなる。
6
雨の上がった後の町はしっとりとした空気で、心地よかった。
文二郎は「そろそろおつぎに下駄を買おうと思っていたから、ちょうどいい機会だった」と嬉しそうに言う。
そうして、留守にしていた店を開ける。
「私、結局何も選べませんでした……」
「うん?」と、文二郎はおつぎを振り返る。
「どれもこれも喜んでもらえそうな気もするし、でもやっぱり何か違うような気がして……」
そう言いながら、店の品をそっと整える。
その時、かわいらしい匙と小さな茶碗の前で手が止まった。
「これをお贈りしてもよろしいですか?」
おつぎがそう訊ねると、「ああ? これか? うん、いいんじゃないか」と文二郎はのんびりと答えた。
7
祝いの品は、結果から言うと、大層喜ばれた。
おようさんは、もう床上げをしていて、もうじき行儀見習いのお教室にも戻ると言う。それまでの間は、お武家様のご奉公で一緒だったお友達が来てくださったのだそうだ。いやはや、類は友を呼ぶとはこのことで、こうした徳あるお人には、やはり似た志のお人がいるようだ。
おようさんは、「いただきものですけれど」と言って、菓子を出してくれた。
あの高級菓子店で、買おうかどうしようかと迷った菓子だった。
行儀見習いの生徒さんたちからの頂き物だと言う。
値段を知っているから、下手に手を出してよいのか、迷うところだ。
おようさんは背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間に指先同士が向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座している。
そこへ、「ささ、どうぞ」と、文左衛門さんが茶を淹れて持って来てくださった。
子は隣の部屋ですやすやと眠っている。
すみません、とおつぎは頭を下げる。
おようさんの隣に座った文左衛門さんは、「いやあ、かわいらしい食器だ。これで、早くめしを食べさせてやりたい」とにこやかに言う。
「必要な食器があれば、遠慮なく言え」と文二郎が言う。
「ありがとう」と文左衛門さんが、おっとりと応じる。
全く違うお仕事をしているけれど、こういう話し方は兄弟でそっくりである。
「おようさん、お加減はもうよいのですか?」とおつぎは訊ねた。
あまりにきれいに身なりを整えていて、とても子を授かってすぐ、というふうに見えぬ。
すると、おようは、「はい。つい最近までずっと昼もぐっすり眠り、十分休みましたから。私が寝ている間にたくさんの方がいらしていたのですが、私はほとんどの方と会っていませんでした。向こうは寝ている私をご覧になったのでしょうね。お恥ずかしい。おつぎさんは私が以前お伺いした時、産後すぐだというのに、会ってくださって。今となっては、そのお気遣いが、嬉しいやら、申し訳ないやらで……」と言う。
……たまげた。
全く隙を感じぬおようが、まさか来客時に熟睡していたとは。否、養生に徹した、その心意気はあっぱれである。とてもとてもそこまでの度胸はおつぎにはない。肚は据わっていると思っていたが、いやはや、この人には遠く及ばない。
そうして、おようは目を細め、「そのお着物よくお似合いですね」と言う。
おつぎはやや俯き、「昔、お義母さんが選んでくださった反物をお義姉さんが仕立ててくださったのです」と答えた。
おようたちを訪ねるのに、よい着物を、と思った時、子を産んでもう十年以上経つが、大事に着ていた文太さんのご新造さんが仕立ててくださった着物で来ていた。なんだか、気恥ずかしい。
「まあ、とてもお似合いです。実は私もつい最近お義姉さんにお着物を仕立てていただいたんです。床上げをしておりましたから、その場で色味や柄なんかが合うかも見ていただいて」とおようが言う。
「そうでしたか」と、おつぎは目を上げた。
「前にうちのお母ちゃんが言っていました」と、文左衛門が口を開く。
「お義姉さんとおつぎさんの反物を選ぶ時、文二郎、いや、兄ちゃんに『おつぎは整った顔をしているから、それに合う反物にしてほしい。そんじょそこらのご新造さんとは違うからな。白粉をしなくても肌はきれいだし、紅がなくても顔立ちが端正だから、逆にそれがいい』と、普段あんまり着物なんかに興味を示さない兄ちゃんが、おつぎさんのことになると、ずいぶんこだわりを見せた、と」
「お前、うるさいんだよ」と、珍しく、文二郎がぞんざいな言い方をする。
隣にいる文二郎を見ると、耳まで赤い。
つられて、おつぎも何やら顔の温度が上がる。
「あら、でも本当のことだわ」と、おようが言う。
「おつぎさんのことを、お義兄さんは、本当によく見てらっしゃるのね」
一体全体、どういうことなのか……。
訳がわからないでいると、隣の部屋で寝ていた子がおなかが空いたのか、かわいらしい泣き声を上げた。
8
帰り道、おつぎは文二郎の背を見つめ、さっきの話を反芻していた。
文左衛門が嘘を言っているようには思えなかった。
文二郎は否定しなかった。
だが、本当に文二郎はあのように自分を思ってくれていたのか……。
『おとせは、お母ちゃんに似てかわいらしいなあ』
『瀬太郎は、お母ちゃんに似て、頭がよくてしっかりしているなあ』
昔から、そんなことを文二郎は子どもたちに言っていた。
ただの気休めだとばかり思っていた。
……ずいぶんと長い間、いつも一緒にいるこの人の本心を知らずにいたのかも知れぬ。
「おつぎ、」と、文二郎が振り返る。
「はい」
「ここから、おつぎの実家が近い。少し早いが昼にするか」と問う。
「たまには、お義父さん、お義母さんに会わせないとな。客として行くのは気が引けるが、本当は手放したくないくらい、おつぎは大事な娘なんだから」
この人は、どうしてこんなにも柔軟で優しい心なのだろうか。
ふっと目が潤む。
見合いの時を思い出す。
「……こんなに大きくなった娘に、そんなこと思いませんよ」
「おつぎはわかっていないなあ。お義父さんが、どれだけおつぎをかわいがっているか。娘にずいぶんな入れ込みようだと昔思ったが、今はその心持もわかるようになった。だから、なるべく会えるようにしないとな」
そんなことがあるものか、と出かかったが、おつぎの嫁ぎ先についていろいろと考えていてくれていたことは知っている。ここは、ありがたい、と思っておくところか。
実家のめし屋に行くと決まると、昔、膳を運んでいた頃を思い出し、嫁ぐまで毎日見ていたお菜が、急に懐かしくなる。
おつぎの実家は以前、おつぎたちから頑としてめし代を受け取らなかったが、そうすると文二郎が『これで菓子でも買ってください』と、めし代より多く出すものだから、おつぎの実家は渋々めし代を受け取った。そうして、二人の時や子が小さい時には夕餉に、子が大きくなってからは子の土産にと弁当を持たせてくれるようになった。
「それでは今日も、夕餉用のお菜も詰めてもらいましょう」
「……そこまで甘えるのは、さずがに」
「いいんですよ」とおつぎは笑う。
初めて会った日、正座をして文二郎親子と向き合った。
背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬように。
つい最近のようにも思うし、もうずいぶんと前のことのような気もするから不思議だ。